朝の鐘が、ひとつ低く鳴ってから、間を置いてふたつ続いた。石の中庭は白く乾き、吊られた巨大な拓本が風でわずかに揺れる。紙の表面に、赤墨で大きく三つの枝が描かれていた。A——倉印迂回。B——二冊帳面。C——印璽貸与。
 肩の高さの灯を一つ増やすと、拓本の赤は血の色ではなく、削られる前の鉛筆の芯みたいに見えた。まだ柔らかい。今なら、形を変えられる。

「読み上げます」

 篝が前に出て、喉を小さく撫で、声の置き所を探すように呼吸を整えた。
「三不正ルート。A——倉印迂回。B——二冊帳面。C——印璽貸与。——白羽起案、運用条、臨時施行」
 言葉が空に上がり切る前に、人の輪から合唱が返る。
「嘘をつかぬ。名を奪わぬ。春を急がぬ」
 声が押印になる。今日からそれは“公式”。紙は声で立ち、声は灯で見える。

 綾女は拓本の横に置かれた机で簿記帳を開き、「滞留」の欄に黒丸を打っていった。黒丸が濃い区は、怒りや哀しみが長居している場所。
「最初に、工房区。次に、市場区。最後に、配水局の本庁」
 篝が順を確かめる。
 縁側の陰に立った凪雪は白羽を指先でゆっくり回し、拍を整えた。輪郭は薄い。けれど、十二拍に合わせれば落ちる。
「急がぬが、ためらわない。——行く」

     *

【午前 工房区:Cの再発防止】

 工房通りは、朝の木槌が正確に鳴る。樽の匂い、鉄の匂い、干した布の匂い。入口ごとに白羽の刻印をつけた桶が並び、刻印のない桶は作業場の奥に入れない。
「白羽刻印、確認。——通す」
 職人の女が短く言って、腕で桶を抱えた。
 綾女は香り包みを縄で結び、各工房の入り口にぶら下げていく。胡椒、山椒、柚子。樽がどこから来たか、鼻で分かるタグだ。匂いの真似は難しい。筆跡より誤魔化しづらい。

 篝は板の前に二重印影の見本を刷って掲げ、偽造事例を小冊子にして配った。紙の角は故意に丸く削ってある。
「印は肩で押す。肘から先だけで落とすと、震えが速くなる」
 篝の説明に、年嵩の職人が頷く。「うちの若いの、印がやけに元気だからな」
 笑いが小さく起きる。笑いは怒りを乾かす。乾いた場所には、湿った嘘が滑り込めない。

 凪雪は白羽を横にして、机の端を二拍だけ軽く叩いた。
「貸与の印は速い。——名の前に、呼吸がない」
 下僚らしき若者が、思わず胸に手を当てた。その動作は、昨日の夜の遮断で覚えた“名の椅子”の位置にそっくりだった。

 工房区の「滞留」は午前のうちに目に見えて薄くなった。黒丸の濃さが落ちるにつれて、木槌の音がまるく聞こえる。
「C、再発防止の要領を掲示」
 篝が拓本の端に朱で記し、合唱が二拍遅れて返る。「了解」

     *

【昼 市場区:Bの照明作戦】

 市場は昼の色で賑やかだ。天幕の隙間から光がゆらぎ、魚の鱗が一瞬だけ白く跳ねる。
 帳場の前に小さな台を出し、閉店前三十分——その試運転として昼にも読み上げを入れることにした。
 篝が合図をすると、店主たちが順に立つ。
「本日、原価三行——仕入、運賃、税」
「祈り三行——供出、返納の割戻し、余剰の寄付」
 子どもが合いの手で「了解」を入れる。
 声が乗らない値札は、目立つ。人の目で避けられ、棚の隅にすべり落ちる。そこに恥の価格が残る場所は、もはやない。

 綾女は人の輪の端で瓶に指を添え、怒りの泡を小珠に変えるタイミングを見計らって、香り包みを軽く振った。
「……笑ってる」
 柚が小声で言った。彼女の視線の先で、朝から眉間に皺を寄せていた常連客が、読み上げの途中でふっと口角を緩めた。
 秘密の数字より、公開の歌を人は信じる。
 篝は帳場の隅に匂い札を差し込み、二冊帳面の芽——紙の匂いの差——を押さえた。

「午後の合唱で、割戻しの黒点が値札に戻るわ」
 綾女が言うと、屋台の女主人は胸を張った。
「歌うのは得意」

     *

【午後 配水局本庁:Aの押収・儀礼化】

 本庁の門前は石が大きく、影も深い。常夜灯の移動台を据えつけ、灯芯の高さを肩に合わせる。
 凪雪が白羽を灯芯に差し、明滅で二拍を作った。
「——読み上げ」
 篝が倉印簿の拓本を広げ、厚い紙を風に逆らわせる。
「倉印は官倉の名。誰の名でもない。——名前の貸し借りで、倉の名は痩せない」
 綾女は瓶から哀しみの薄片を取り、押印面に指でごく薄く塗った。本物の印だけが吸い、偽印は弾かれる。
 ぱち、と小さな音がして、偽印が跳ねた。
 人々の輪から、そろって小さなため息が漏れる。ため息は怒りの角を落とし、視線は紙へ戻る。
「A、遮断」
 篝が朱を引き、灯が二度速く明滅してから、定速へ戻る。

 その瞬間だった。
 門の陰から中間管理の役が滑り出て、紙を高く掲げた。
「非常条項の常設化を——」
 言い切る前に、言葉が彼の舌で躓く。
 歌えない三行は、声に乗らない。
 彼は自分の文言に自分で噛み、灯の明滅が乱れた。
 綾女の第三紋が胸の内側でわずかに拍落ちする。
 凪雪は迷わず白羽を一本抜き、灯に挿した。光は正しい二拍へ戻る。
「歌えぬ法は、法でない」
 凪雪の声は厚く、短かった。
 篝が拓本の端から中央へと朱線を引き、A/B/Cの横に“遮断済”の大きな印を入れる。
 合唱が遅れて返り、空気の層が一枚めくれたみたいに、門前の暑さが和らいだ。

     *

【夕刻 総括と数字】

 誓約庁の中庭。巨大拓本の前にもう一度人が集まる。
 「滞留」の欄の黒丸は、朝より明らかに減っている。
 篝がそろばんを一度撫で、短く読み上げた。
「本日、Rは追加でマイナス六パーセント」
 数字は冷たい。冷たいまま、肩で支える。支えられた数字は骨になる。
 合唱はやはり「了解」。拍手ではない。息の一致が、今日の合図だった。

 綾女は黒丸の薄くなった欄を指でなぞりながら、胸の奥で静かに首を振った。
(——終わりではない)
 黒幕は春配所、そのさらに上の、宮中某局。
 でも、場はこっちを向きはじめた。声は一度揃うと離れにくい。
 それは、孤児院の食卓で知ったことだ。誰かが先に「いただきます」と言うだけで、その日の喧嘩は半分眠くなる。

     *

【夜 余白と拍】

 夜、台所の鍋がゆっくり息をする。柚が木杓子で粥の表面を撫でると、湯気が二度速く跳ね、二、二、三へ戻る。
「食べる?」
「香りだけ、ちょっと」
 綾女は笑って、湯気を鼻で受けた。塩は相変わらず遠い。けれど、香りは近い。
「今日の“滞留”、減ったね」
「うん。黒丸、薄い」
 柚は湯気を見ながら、声を落とした。「——でも、外が静かだと、怖いね」
「静かさで蓋をしないようにね」
 綾女は瓶に手を添えて、白羽栓を二回だけ鳴らした。二、二、三。

 凪雪の居に行くと、彼は床几に座り、背の光の羽線を半ばだけ展開していた。輪郭は薄い。まだ持つ、と言う時の顔は、決まってこうだ。
「持つ?」
「持つ」
 短い。けれど、厚い。
 綾女は白羽栓を彼の肩口にそっと当て、十二拍の呼吸を合わせた。四で受け、八で束ね、十二で寝かせる。
「次は、何を」
「法を契約に落とす。——紙の骨を、名の椅子に」
「“記名の責”を、日常に」
「そうだ」
 凪雪は目を細め、窓の向こうを見た。禁区の上空に、うすい光輪がまだ残っている。
「向こうは、まだ“速く”したがっている」
「こっちは、まだ“待てる”」
 綾女が言うと、彼の口元にわずかな笑みが置かれた。
「待てるうちは、勝っている」

 その時、外で小さな靴の音がした。篝が戸口に立ち、細い紙束を掲げる。
「遮断の総括、掲示した。——『違法前借り三件停止』」
「ありがとう」
 綾女が受け取ると、紙には人の手の温度が残っていた。角は丸い。
「明日の朝は、“声の押印”を条に入れる準備を」
「“声の押印”を、制度に」
「名の椅子を増やす」
 会話は短い。短いまま、部屋の空気が温かくなる。

 柚が湯飲みを持って入ってきた。
「熱すぎない?」
「ちょうどいい」
 綾女は一口含み、ほっと息を落とした。湯飲みの陶器は少し厚手で、唇にやさしい。
「非常は、歌えない」
 綾女がぽつりと言い、篝が笑った。
「今日の一行、評判がいいよ」
「一行で足りるときは、一行でいい」
「明日は三行」
 凪雪が結ぶ。
「三行で立てるものは、三行で立てる」
 灯が二回だけ速く明滅して、すぐに定速に戻る。部屋の拍は落ち着き、夜は浅くなる。

     *

【宵の小さな付記】

 孤児院の庭で、子どもたちが今日の出来事を大げさに演じていた。拓本の前に凪雪役と篝役が立ち、綾女役が瓶に見立てた木の実を胸に抱える。
「A、遮断!」
「B、遮断!」
「C、しゃ——断!」
 最後の合いの手が少し遅れて、全員が笑い、柚が手を叩いた。
「声の押印、上手」
「明日は?」
「“記名の責”。名前を言うのは、こわい?」
「こわい」
 ひとりが正直に答え、別の子が続ける。
「こわいけど、言うと、すっきりする」
「すっきりする」
 合唱になって、井戸の水面が一度だけ揺れた。

 綾女はその光景を遠くから見て、胸の中の拍を確かめた。
 二、二、三。
 うまくいく日は、拍が日常に落ちていく。
 うまくいかない日も、拍が日常に戻る場所がある。
 拍が戻れば、言葉が座る。
 言葉が座れば、名が落ちない。
 名が落ちなければ、法に骨が通る。

 夜が深まる前に、綾女は簿記帳の「滞留」を一度だけ見返した。黒丸は薄い。けれど、完全には消えていない。
「——続けよう」
 声に出さずに言って、白羽栓を掌で鳴らす。
 二、二、三。
 その小さな音に、遠くの門楼の灯がわずかに応じた。明日へ続く合図のように。