朝、台所の窓に白い湯気が浅く溜まって、柚が木杓子で粥の表面を一度だけ撫でた。湯気は二度すばやく跳ね、すぐに二、二、三の落ち着きに戻る。肩の高さの灯も、同じリズムで微かに呼吸した。
「今日、どこまでやる?」
「市場の値札、全部」
 綾女は瓶を胸に抱え、白羽栓を指腹で確かめた。拍は合っている。
「——鎖を切るのは、紙の角から」

 第三日目。目当ては市場区の値札の総取り換え。祟りを生む“恥の価格”を、正価へ戻す。
 篝は誓約庁の小部屋で夜のうちに簿記帳を繰り、赤い墨でマルを重ねていた。行列割り込み料、裏帳場の上乗せ、開店一番の“おまけ”に見せかけた値の吊り上げ——怒りから恥へ、そして残留へ。
「赤の島が三つ。中央市場の北列、穀物組合の角、魚屋の裏口」
 篝が指す。
「赤は、声で薄まる?」
「薄まる。——ただし、書式を揃えること」

 二頁三行の値札を作る。左頁は“原価三行”。仕入/運賃/税。右頁は“祈り三行”。祭の供出/返納の割戻し/余剰の寄付。
「合計はここ。押すのは声」
 綾女が示し、柚は台所の紙入れから新しい札を百枚抜いて、端を指で丸めた。
「角は、当たると痛いからね」
「うん。角が丸い値札は、人に近い」
 暮らしは、法の隣で身体の言葉を覚える。

     *

 市場へ出ると、天幕は朝の風で透け、屋台の台木が冷たい。屋根樋ネットは昨夜の小雨を静かに渡して、通りの角に湿りを残していた。
 篝が市場の中央——古い秤の横に立ち、肩の高さの灯をひとつ増やした。
「読み上げ、始めます」
 声は大きくない。だが、うるさくない。
「本日の小麦。左頁、原価——仕入がこれ、運賃がこれ、税がこれ」
 数は短く、区切りは二拍。
「右頁、祈り——祭の供出がこれ、返納の割戻しがこれ、余剰の寄付がこれ」
 合計はここ。
 綾女は値札を板に差し込み、屋台の女主人が頷いた。
「合計、これ」
 篝が最後に言い、通りの両側から、合唱で「了解」が返る。
 声の押印が、価格につく。
 嘘の価格には、声が乗らない。
 声の乗らぬ値札は、誰も手に取らない。

「“祈り三行”が見えると、買うのが怖くないね」
 女主人が笑う。「“寄付”が見えると、寄付じゃないものが分かる」
「ぼったくりは、浮きます」
 綾女は瓶を軽く抱え直した。白羽栓が二、二、三で震え、胸の内側に落ちる。

 赤い島の一つ目——北列の香辛料屋は、最初むっと口をつぐんでいたが、篝の読み上げに合わせて自分でも合計を指で追いはじめると、ふっとため息をついて新しい札を受け取った。
「“罪悪感込みの値段”をやめられるなら、やめたい」
「やめよう。祈りは見せて良いものだから」
 柚が合いの手を入れる。「今日の香りは、胡椒強めでお願い」
 店主が笑って頷いた。

     *

 昼前、二つ目の“赤”へ向かう途中、綾女は裏手の帳場に立ち寄った。
 ここは、夜のあいだに帳面を入れ替える“二冊方式”の匂いがする。
 綾女は香り包みを三つ置いた。ひとつは柚子、ひとつは山椒、ひとつは干し薔薇。
「帳面ごとに違う香り。——匂いは筆より嘘を暴く」
 篝が小さく笑う。「朝、匂いの違う帳面は二冊目」
 帳場の若い手代が目を泳がせ、鼻だけが正直に震えた。

 昼が終わるころ、穀物組合の角で、二冊目があっさり露呈した。
 香りの違いは言い訳しづらい。筆跡は真似できても、昨夜触れた指の匂いは録れない。
「帳面の差し替え、遮断」
 篝は短く記し、読み上げで告げた。
 人混みの中で、婆がくすっと笑って童謡の一節を加える。「匂いは嘘を眠らせる」
 誰かが続ける。「眠った嘘は、起こさない」

     *

 午後、三つ目の“赤”、魚屋の裏口。
 ここは値の吊り上げが露骨で、店先の笑顔と裏の数字の差が大きい。
 綾女は瓶の栓に指を添え、“恥”の列から薄く香を引いた。哀しみを細く混ぜ、怒りの泡を小珠にする。
「——声、入れます」
 篝が読み上げ、行列の合唱が「了解」で押印を重ねる。
 裏口の帳場に香り包みを置き、同時に“声の割引”の札を掲げた。閉店前三十分、合唱で三行を唱えると、返納割戻しが値札に自動で反映される仕掛けだ。
 小さな黒点が値札の下に灯った。祭で返した“春一週間”が、値の下に帰ってくる。
「歌えば、返る」
 子どもが目を丸くして言い、婆が笑って頷く。
「返すは灯の下、返るは値の下」
 言葉は短いほど、日常に長く残る。

     *

 夕刻前、春配所が焦ってきた。
 「値札の統一令」——官製の値札を全市で強制し、祈り三行の欄を削る案。
 掲示板に貼られた紙は厚く、朱の色は浅いのに威圧的だった。
 篝は白羽起案の第三行“節の停止”を指し、石段の上で宣言した。
「非常条項として扱うなら、常夜灯の下で宣言を。——一週で自動失効」
 官側は灯下へ出たがらない。灯は拍を可視化する。
 綾女は肩の高さの灯をもう一つ増やし、子どもに持たせた。子どもの肩が、法を軽くする。
「“歌えない三行”は、ここに置けないよ」
 子どもが真似して言い、人の輪から乾いた笑いが一度だけ洩れる。紙の厚みは、笑いと灯に勝てない。

     *

 陽が落ち始めたころ、工房区から篝に走りの報が入った。
「不正ルートC、発見。——印璽の貸与」
 上役の印が回覧され、下僚が空白伝票へ押す。押すのは速い。拍がない印は、回数でごまかす。

 夜、遮断作戦に入る。
 工房の奥の帳場。机の上に朱肉と印、空白の伝票。
 凪雪は人の姿のまま、机の端に白羽を置いた。輪郭は薄いが、声が厚い。
「押す前に、二拍、待て」
 命令でなく、手順。
 下僚たちは顔を見合わせ、最初の二拍で鼻息が揃わず、三拍目の前に印を取り落とした者もいた。
「——押印のリズム、聴く」
 凪雪は白羽で机を二拍、軽く叩いた。印の震えが拍に乗るかどうかを見る。
 偽物の押印は、速い。肩から肘へ、肘から手首へ、直線で落ちる。
 本物は、肩の高さに一回目の呼吸があり、手首の内側にわずかな円がある。
「名を、言え」
 凪雪は下僚に向き直り、短く告げた。
 声が震える名は、自分の名ではない。
 篝はその震えを記録する。震えには回数がない。揺れは、拍を持つ。
 綾女は瓶の栓を半分開け、哀しみを薄く流した。罪の自覚は、怒鳴り声ではなく哀しみで立つ。
「誰の印でも、あなたの名は、あなたの息で重くなる」
 下僚のひとりが崩れるように椅子に座り、手のひらで印を隠した。
「……すみません」
 謝罪は短いほど、厚い。
 印璽の貸与は、その夜で遮断された。印は箱に戻り、鍵の拍は二、二、三で閉まる。

     *

 閉店前の三十分、声の割引の時間。
 市場の灯が少しだけ明るくなり、篝が合図をする。
「三行」
 綾女が頷き、子どもたちが先に声を置く。
「嘘をつかぬ」
「名を奪わぬ」
「春を急がぬ」
 合唱の後、値札の下の黒点——返納の割戻し——がひとつ増える。
 婆が続けて短く歌い、香り包みの口を結ぶ糸が二拍で引かれ、三拍目に結び目を落とす。
 値札に付いた“祈りの欄”は、数字でありながら、暮らしの体温を持ち始めた。

 夜の空気は洗い上がりの匂いに近づき、屋台の台木からほんの少し木の甘さが立った。
 柚が塩壺の蓋を撫でて言う。
「塩、まだ遠い?」
「うん。でも、香りが届くと、塩は待てる」
 綾女は笑ってうなずき、瓶の白羽栓を掌で鳴らした。二、二、三。

     *

 翌朝、掲示。
 篝がそろばんを弾き、石段の上で短く読み上げる。
「R、さらに五パーセント低下。市場の“恥”は乾き、怒りの泡は小珠」
 数字は冷たい。冷たいまま、肩で支えると骨になる。
 人々は拍手をしない。息が揃う。揃った息の上に、紙が自分で立つ。

 春配所は追い詰められて、「非常条項の常設化」を再提案した。紙の論理は整っている“風”だ。
 しかし、その三行は歌えない。
 灯の下に持っていくと、言い淀みが生まれ、息継ぎの位置が見つからない。
 綾女は掲示板に小さな紙を一枚だけ貼った。
 〈非常は、歌えない〉
 それだけ。
 通りすがりの子が、声に出して読んだ。
「ひじょうは、うたえない」
 婆が頷き、屋台の女主人も頷く。
 頷きの数は、押印の数と同じくらい効く。

     *

 昼過ぎ、篝が紙束を抱えて戻ってきた。
「——“値札の統一令”は、灯下の宣言を避ける言い換えに移った。『試行的導入』」
「試行は、灯の下で」
 綾女が即答する。
「そう。灯の下で“歌える三行”だけが残る」
 凪雪は白羽の先で机の角を一度だけ撫で、輪郭の薄さを指先で受け入れるように肩の位置を直した。
「お前たちの声が押すなら、紙は立つ。——続けよう」

 市場の角で、柚が子どもに値札を渡す。
「持ってて。重たい?」
「ちょっと重たい」
「“祈り”が入ってるからね」
 子どもが笑い、値札を胸に当てて言った。
「重いの、好き」
 重さは、落ちない。胸に残る。

     *

 夜、綾女は瓶を胸に、凪雪の居で十二拍の呼吸を合わせた。
 彼は床几に座っている。背の光の羽線は相変わらず薄いが、拍さえ揃えば声が届く。
「値札の下の黒点、増えた」
「ああ。返ってきたものは、返ってきた場所で見えるべきだ」
「明日は、どこを切る?」
「紙の背中」
 凪雪は目を細める。「“三件の遮断”。——根をまとめて断つ」
「声の押印を、制度にする」
「“記名の責”。……名の椅子を増やす」
 甘い台詞のはずなのに、湯気に馴染んで骨まで届く。
「あなたの輪郭が薄くても、声は厚い」
「お前の香りが、拍を持っている」
 返す言葉は、どちらも長くない。長くないのに、夜が温まる。

 窓の外、屋根樋ネットを渡った夜露が、工房の桶にすこしだけ落ちた。白羽の刻印が、灯に照らされてやわらかく光る。
 綾女は瓶の栓をきゅっと締め、胸の前で二、二、三を一度だけ刻んだ。
 市場の空気は洗い上がりの匂いに近い。
 明日は、紙の背中と、印の指先。
 “越権”ではなく“越拍”。
 非常は、歌えない。
 歌える三行だけが、街の骨になる。
 その骨に、暮らしの温度を巻き付ける作業を——まだ、続けられる。

 その夜半、篝が机の端に小さな紙片を置いた。
 〈後半予告〉
 #28「三件の遮断」——A・B・Cの総括と、黒い枝の切り口の焼き締め。
 #29「記名の責」——声の押印を制度化し、名の椅子を増やす。
 #30「反攻の祭」——供出とご馳走、肩の高さでの大団円。
 綾女は紙片を読み、白羽栓を掌で鳴らした。
 二、二、三。
 その音に合わせて、夜の骨が一つ、静かに音を立てた。