白羽起案の試行、二日目の朝は、鍋の湯気がゆっくり立つみたいに始まった。
誓約庁の廊下はまだ冷え、肩の高さの灯が二回だけ速く明滅してから、いつもの二、二、三に落ち着く。綾女は瓶を胸に抱えて、白羽栓の震えを喉の奥でなぞった。
「——今日は、道を掘る」
独り言に返事するみたいに、白羽栓がちいさく鳴る。
畳の部屋では篝が大きな地図を広げていた。川のように太い青い線——配水局の幹線——は市の中心を横切り、端のほうで何度も膨らんでは細り、倉の前でだけやけに肥えている。
「本流は触らない。毛細を増やす」
篝は筆の尻で、細い路地を結ぶ。「裏路地配水、屋根樋ネット、共同井戸の時間割——三つを重ねて、前借り無しで回る一日を作る」
「“一日”でいいの?」
「一日で足りる。暮らしは、一日できれば、二日目をまねできる」
凪雪は縁側に立ち、背の光の羽線を細く束ねた。輪郭は薄いが、声は薄くない。
「急がぬ。——でも、今日の分は今日のうちに流れる道を」
それは命令ではなく、手順の宣言だ。
「了解」
綾女は頷き、地図の上で三つの色の糸を指先の中で編いだ。赤は屋根、藍は裏路地、薄黄は井戸。三色が誰の家にも一本は触れるように、端から端へ渡す。
*
市場区。
屋根の並ぶ通りは、朝から板金の匂いがしていた。職人衆が細い板を抱え、ハンマーの頭で縁を丸くし、樋をつくる。屋根と屋根の先端を軽い鎖で繋ぎ、軒の下に留め金を打つ。
「“雨謝(あまじゃ)”は一戸一枚、月に一度。帳簿はここ」
篝が掲示板の横に薄い板を掲げる。銅の小銭が一枚、二枚。子どもが「どこへ行くの?」と訊く。
「屋根の曲がり角に。折れた樋を直すお金」
綾女が笑って答える。
屋根と屋根が鎖で繋がると、道の上に見えない橋ができたみたいで、通りを行く人の足が少しだけ軽くなる。
「わたしの家の雨が、隣に届くの?」
「うん。——隣の雨も、あなたに届く」
台所の水に向かってだけではない、肩の高さの会話だった。
帳簿係を買って出たのは屋台の女主人で、文字の隣にちいさな匂いの印を付ける癖がある。
「今日の雨謝は、胡椒の匂い」
「じゃあ、次は柚子で」
香りは数字の角をやわらげ、数字は香りの浮つきを静めた。白羽起案の“公開帳簿”は、屋根の上の新しい川を、人の目と鼻で支えた。
*
孤児院区。
共同井戸の前に、人の列ではなく時間の列を立てる。
「朝は四、昼は八、夕は十二」
綾女が童謡の拍で言うと、子どもたちは両手で四、八、十二をつくって笑った。
「“朝四”は、子ども」
「“昼八”は、病の人」
「“夕十二”は、お年寄り」
時間割は板に書いて終わりではない。読み上げる。肩の高さの灯の下で、声にする。
列の怒りは、待つ歌の中で眠くなる。イライラが来そうになるたび、子どもが小さく合いの手を入れた。
「——いまは、四。だから、ぼくら」
井戸の水は静かに生き、簿記のRはさらに三パーセント落ちた。
柚は鍋の蓋をずらし、昼の薬味を香りの強いほうへ寄せる。「“昼八”の人が食べられるように」
生活の手が、法の手順の隣で同じリズムで動く。それだけで、室内の空気は丸くなった。
*
工房区。
裏路地配水は、前章の臨時樋をもう少しだけ丈夫にして、ほとんど“常設に近い臨時”へと育てる。屋根の上へ水をいったん上げると、盗られにくい。上げて、流して、落とす。落とす先は、工房の桶。
桶の側面には白羽の刻印が焼き付けられる。刻印は可視化だ。返納の比率を刻印の数で把握する。
「返納は、何割?」
「今週は三割」
「三割、ならいける」
職人の女が頷く。太い腕で桶を抱え、木槌の音を合図に、落ちてきた水を一気に受け止める。音が鳴り止むと、路地は一瞬だけ静かになる。
静けさには輪郭があり、二、二、三で細く震える。凪雪はその端で羽線を整え、輪郭が薄れるぶんだけ拍に重さを足した。
*
動脈を避けて毛細血管を増やす作業は、春配所の神経を逆なでするらしかった。
昼過ぎ、幹線のどこかに偽の暦拍が挿し込まれ、“代替路は危険”“雷が落ちる”という紙が町内にばらまかれた。
綾女は香包みを両手に持って各所を回り、紙の角を鼻で丸める方法を教えた。
「雷が怖くなったら、鼻から数えるの。四、八、十二——息が先。声はあと」
「四、八、十二」
繰り返す声は小さいのに、紙の印字よりも強い。
読み聞かせの婆が「怖い話は怖いまま笑う」と言い、子どもが「雷は空のしゃっくり」と言った。
笑いは配当だ。配る場所さえ間違えなければ、翌日の怒りを痩せさせる。
*
午後、最初の遮断に踏み込んだ。
不正ルートA——倉印の迂回。官倉へ向かうはずの水樽が、途中で別の印にすり替わる。印は二重ではない。今回は“同筆別印”。
篝が二重印影と同筆の拓本を並べ、庁の石段で短く読み上げる。「外周の息継ぎが同じ。——印は違うのに、筆の呼吸が同じ」
凪雪が白羽で印の上を軽く叩く。叩く音は聞こえない。印の骨だけが震え、偽の震えは拍に乗れない。
「白羽起案、第二行——“記名の責”。押印だけでは無効。自署と読み上げで有効化」
綾女が告げ、すり替えた者の自署をその場で読み上げた。
名は肩の高さで重くなる。重くなった名は、肩から落ちない。
群衆の前で、声にされた自署は恥を乾かし、乾いた恥は風に溶けて消える。
ルートAは、その夜までに遮断された。紙の上ではなく、声と灯の前で。
*
反撃は翌朝の前に来た。
春配所は「代替路は常世の越権」と書かれた投書を各町内へばらまいた。墨は新しいのに、匂いは古い。
掲示板の前で、綾女は小さな紙を出して三行を書いた。
「——貼るよ」
篝が頷き、肩の高さに貼る。
〈越権に非ず、越拍なり。
人の拍で待ち、
人の拍で配る〉
理屈に香りを足した短句は、紙より口に残る。市場の女主人が声に出し、工房の若者が繰り返し、孤児院の子どもがリズムをつけた。
「越権じゃない、越拍だ」
“越拍”という言葉は、喧嘩の角を丸めた。殴らずに、息を合わせるやり方。
*
夕暮れ、三地区をまわる。
市場区では、屋根樋ネットがもう“通りの癖”になり始めていて、子どもが「今日は柚子の樋」と言った。
孤児院区の井戸は、四、八、十二の歌で静けさを保ち、柚は「“十二”のあとに薄い甘みを」と言って鍋の端に砂糖をひとつまみ落とした。
工房区は白羽刻印の桶が増え、返納比率の刻印は三つ目に届こうとしている。
どこも、幹線の音が聞こえない。聞こえないのに、怖くない。毛細の音が肩の高さで生きている。
「——動脈じゃなくて、毛細で体温が上がる」
篝がつぶやき、綾女は頷いた。
「心拍、じゃなくて街拍」
「街拍」
凪雪の声は短いが、嬉しさが混ざっている。その嬉しさは人のものに似ていて、綾女の胸の奥でやさしく跳ねた。
*
その夜、第一地区の掲示板の裏で、また紙が擦れた。
今度は“屋根樋の落雷危険を理由に禁止”の追記紙。
篝が剥がし、綾女は表へ出て鼻で笑いの合図をした。
「雷が怖くなったら、鼻から数える。四、八、十二」
子どもが続ける。「四、八、十二」
読み聞かせの婆は童謡に“雷は空のしゃっくり”の一節を勝手に挿入し、周囲の空気が少し甘くなる。甘さは浮つかない。台所の砂糖ひとつまみ分だけ。
*
夜深く、庁の奥の部屋で、綾女は瓶を胸に抱え、凪雪の居へ向かった。
彼は床几に座り、背の光の羽線を半分だけ展開している。輪郭は、やはり薄い。
「——呼吸、十二で」
「十二で」
ふたりは向かい合って座り、白羽栓の震えを数える。四、八、十二。
四で受ける。八で束ねる。十二で寝かせる。
哀しみは深い椅子に、怒りは丸い石に、恐れは細い糸に、恥は霧に。心のなかの家具を、ひとつずつ優しい位置へ戻す。
「今日の“越拍”、よかったな」
凪雪がぽつりと言った。
綾女は少し笑って、白羽栓を彼の肩口へそっとあてた。
「越権って言われるの、嫌いじゃないけどね」
「嫌いじゃない?」
「うん。言葉の角があるから。——でも、角は丸くする」
「丸くする」
彼は短く繰り返した。輪郭は薄くても、言葉の芯は薄くない。
「あなたの輪郭、薄い」
「知ってる」
「声は、厚い」
彼はそれには答えず、ただ白羽の影で灯の芯を短くした。灯は二回だけ速く明滅して、すぐに定速へ戻る。
「……ありがとう」
その言葉は彼にしては長い。長いのに、甘くなりすぎないのは、台所で湯気がゆっくり立っているからだと思う。
翌朝、篝がそろばんを弾いた。
「R、−四。追加」
綾女は瓶を抱き直し、窓の外を見た。屋根樋ネットは静かに生き、井戸の歌は時間を少し太らせ、工房の桶は刻印を一つ増やす。
数字は、動脈のほうではなく毛細のほうへ重心を移している。
「——一日できたから、二日目もできる」
篝が言い、
「二日目ができれば、三日目も」
綾女が続け、
「三日目には、紙も息を覚える」
凪雪が結んだ。
*
昼下がり、孤児院の庭で、柚が香包みを棚から降ろした。
「“夕十二”まで、もう少し」
「うん。待てる」
子どもが言って、肩の高さの灯を見上げた。
「灯は、ここだね」
「ここ」
綾女は子どもの肩を軽く叩いた。
肩は、強い。
肩に灯を置けば、紙は角を立てない。
肩で声を受ければ、名は落ちない。
肩で待てば、春は急がない。
越権ではない。越拍だ。
今日もあしたも、その先も。
台所の鍋がふつりと鳴り、胡椒の匂いが弱く跳ねた。
生活の温度が、法の手順の隣で湯気になっている。
それを見届けてから、綾女は瓶の栓を指先で確かめ、白羽栓を二、二、三で鳴らした。
街はその音に合わせて、静かに拍を一つ進める。
誓約庁の廊下はまだ冷え、肩の高さの灯が二回だけ速く明滅してから、いつもの二、二、三に落ち着く。綾女は瓶を胸に抱えて、白羽栓の震えを喉の奥でなぞった。
「——今日は、道を掘る」
独り言に返事するみたいに、白羽栓がちいさく鳴る。
畳の部屋では篝が大きな地図を広げていた。川のように太い青い線——配水局の幹線——は市の中心を横切り、端のほうで何度も膨らんでは細り、倉の前でだけやけに肥えている。
「本流は触らない。毛細を増やす」
篝は筆の尻で、細い路地を結ぶ。「裏路地配水、屋根樋ネット、共同井戸の時間割——三つを重ねて、前借り無しで回る一日を作る」
「“一日”でいいの?」
「一日で足りる。暮らしは、一日できれば、二日目をまねできる」
凪雪は縁側に立ち、背の光の羽線を細く束ねた。輪郭は薄いが、声は薄くない。
「急がぬ。——でも、今日の分は今日のうちに流れる道を」
それは命令ではなく、手順の宣言だ。
「了解」
綾女は頷き、地図の上で三つの色の糸を指先の中で編いだ。赤は屋根、藍は裏路地、薄黄は井戸。三色が誰の家にも一本は触れるように、端から端へ渡す。
*
市場区。
屋根の並ぶ通りは、朝から板金の匂いがしていた。職人衆が細い板を抱え、ハンマーの頭で縁を丸くし、樋をつくる。屋根と屋根の先端を軽い鎖で繋ぎ、軒の下に留め金を打つ。
「“雨謝(あまじゃ)”は一戸一枚、月に一度。帳簿はここ」
篝が掲示板の横に薄い板を掲げる。銅の小銭が一枚、二枚。子どもが「どこへ行くの?」と訊く。
「屋根の曲がり角に。折れた樋を直すお金」
綾女が笑って答える。
屋根と屋根が鎖で繋がると、道の上に見えない橋ができたみたいで、通りを行く人の足が少しだけ軽くなる。
「わたしの家の雨が、隣に届くの?」
「うん。——隣の雨も、あなたに届く」
台所の水に向かってだけではない、肩の高さの会話だった。
帳簿係を買って出たのは屋台の女主人で、文字の隣にちいさな匂いの印を付ける癖がある。
「今日の雨謝は、胡椒の匂い」
「じゃあ、次は柚子で」
香りは数字の角をやわらげ、数字は香りの浮つきを静めた。白羽起案の“公開帳簿”は、屋根の上の新しい川を、人の目と鼻で支えた。
*
孤児院区。
共同井戸の前に、人の列ではなく時間の列を立てる。
「朝は四、昼は八、夕は十二」
綾女が童謡の拍で言うと、子どもたちは両手で四、八、十二をつくって笑った。
「“朝四”は、子ども」
「“昼八”は、病の人」
「“夕十二”は、お年寄り」
時間割は板に書いて終わりではない。読み上げる。肩の高さの灯の下で、声にする。
列の怒りは、待つ歌の中で眠くなる。イライラが来そうになるたび、子どもが小さく合いの手を入れた。
「——いまは、四。だから、ぼくら」
井戸の水は静かに生き、簿記のRはさらに三パーセント落ちた。
柚は鍋の蓋をずらし、昼の薬味を香りの強いほうへ寄せる。「“昼八”の人が食べられるように」
生活の手が、法の手順の隣で同じリズムで動く。それだけで、室内の空気は丸くなった。
*
工房区。
裏路地配水は、前章の臨時樋をもう少しだけ丈夫にして、ほとんど“常設に近い臨時”へと育てる。屋根の上へ水をいったん上げると、盗られにくい。上げて、流して、落とす。落とす先は、工房の桶。
桶の側面には白羽の刻印が焼き付けられる。刻印は可視化だ。返納の比率を刻印の数で把握する。
「返納は、何割?」
「今週は三割」
「三割、ならいける」
職人の女が頷く。太い腕で桶を抱え、木槌の音を合図に、落ちてきた水を一気に受け止める。音が鳴り止むと、路地は一瞬だけ静かになる。
静けさには輪郭があり、二、二、三で細く震える。凪雪はその端で羽線を整え、輪郭が薄れるぶんだけ拍に重さを足した。
*
動脈を避けて毛細血管を増やす作業は、春配所の神経を逆なでするらしかった。
昼過ぎ、幹線のどこかに偽の暦拍が挿し込まれ、“代替路は危険”“雷が落ちる”という紙が町内にばらまかれた。
綾女は香包みを両手に持って各所を回り、紙の角を鼻で丸める方法を教えた。
「雷が怖くなったら、鼻から数えるの。四、八、十二——息が先。声はあと」
「四、八、十二」
繰り返す声は小さいのに、紙の印字よりも強い。
読み聞かせの婆が「怖い話は怖いまま笑う」と言い、子どもが「雷は空のしゃっくり」と言った。
笑いは配当だ。配る場所さえ間違えなければ、翌日の怒りを痩せさせる。
*
午後、最初の遮断に踏み込んだ。
不正ルートA——倉印の迂回。官倉へ向かうはずの水樽が、途中で別の印にすり替わる。印は二重ではない。今回は“同筆別印”。
篝が二重印影と同筆の拓本を並べ、庁の石段で短く読み上げる。「外周の息継ぎが同じ。——印は違うのに、筆の呼吸が同じ」
凪雪が白羽で印の上を軽く叩く。叩く音は聞こえない。印の骨だけが震え、偽の震えは拍に乗れない。
「白羽起案、第二行——“記名の責”。押印だけでは無効。自署と読み上げで有効化」
綾女が告げ、すり替えた者の自署をその場で読み上げた。
名は肩の高さで重くなる。重くなった名は、肩から落ちない。
群衆の前で、声にされた自署は恥を乾かし、乾いた恥は風に溶けて消える。
ルートAは、その夜までに遮断された。紙の上ではなく、声と灯の前で。
*
反撃は翌朝の前に来た。
春配所は「代替路は常世の越権」と書かれた投書を各町内へばらまいた。墨は新しいのに、匂いは古い。
掲示板の前で、綾女は小さな紙を出して三行を書いた。
「——貼るよ」
篝が頷き、肩の高さに貼る。
〈越権に非ず、越拍なり。
人の拍で待ち、
人の拍で配る〉
理屈に香りを足した短句は、紙より口に残る。市場の女主人が声に出し、工房の若者が繰り返し、孤児院の子どもがリズムをつけた。
「越権じゃない、越拍だ」
“越拍”という言葉は、喧嘩の角を丸めた。殴らずに、息を合わせるやり方。
*
夕暮れ、三地区をまわる。
市場区では、屋根樋ネットがもう“通りの癖”になり始めていて、子どもが「今日は柚子の樋」と言った。
孤児院区の井戸は、四、八、十二の歌で静けさを保ち、柚は「“十二”のあとに薄い甘みを」と言って鍋の端に砂糖をひとつまみ落とした。
工房区は白羽刻印の桶が増え、返納比率の刻印は三つ目に届こうとしている。
どこも、幹線の音が聞こえない。聞こえないのに、怖くない。毛細の音が肩の高さで生きている。
「——動脈じゃなくて、毛細で体温が上がる」
篝がつぶやき、綾女は頷いた。
「心拍、じゃなくて街拍」
「街拍」
凪雪の声は短いが、嬉しさが混ざっている。その嬉しさは人のものに似ていて、綾女の胸の奥でやさしく跳ねた。
*
その夜、第一地区の掲示板の裏で、また紙が擦れた。
今度は“屋根樋の落雷危険を理由に禁止”の追記紙。
篝が剥がし、綾女は表へ出て鼻で笑いの合図をした。
「雷が怖くなったら、鼻から数える。四、八、十二」
子どもが続ける。「四、八、十二」
読み聞かせの婆は童謡に“雷は空のしゃっくり”の一節を勝手に挿入し、周囲の空気が少し甘くなる。甘さは浮つかない。台所の砂糖ひとつまみ分だけ。
*
夜深く、庁の奥の部屋で、綾女は瓶を胸に抱え、凪雪の居へ向かった。
彼は床几に座り、背の光の羽線を半分だけ展開している。輪郭は、やはり薄い。
「——呼吸、十二で」
「十二で」
ふたりは向かい合って座り、白羽栓の震えを数える。四、八、十二。
四で受ける。八で束ねる。十二で寝かせる。
哀しみは深い椅子に、怒りは丸い石に、恐れは細い糸に、恥は霧に。心のなかの家具を、ひとつずつ優しい位置へ戻す。
「今日の“越拍”、よかったな」
凪雪がぽつりと言った。
綾女は少し笑って、白羽栓を彼の肩口へそっとあてた。
「越権って言われるの、嫌いじゃないけどね」
「嫌いじゃない?」
「うん。言葉の角があるから。——でも、角は丸くする」
「丸くする」
彼は短く繰り返した。輪郭は薄くても、言葉の芯は薄くない。
「あなたの輪郭、薄い」
「知ってる」
「声は、厚い」
彼はそれには答えず、ただ白羽の影で灯の芯を短くした。灯は二回だけ速く明滅して、すぐに定速へ戻る。
「……ありがとう」
その言葉は彼にしては長い。長いのに、甘くなりすぎないのは、台所で湯気がゆっくり立っているからだと思う。
翌朝、篝がそろばんを弾いた。
「R、−四。追加」
綾女は瓶を抱き直し、窓の外を見た。屋根樋ネットは静かに生き、井戸の歌は時間を少し太らせ、工房の桶は刻印を一つ増やす。
数字は、動脈のほうではなく毛細のほうへ重心を移している。
「——一日できたから、二日目もできる」
篝が言い、
「二日目ができれば、三日目も」
綾女が続け、
「三日目には、紙も息を覚える」
凪雪が結んだ。
*
昼下がり、孤児院の庭で、柚が香包みを棚から降ろした。
「“夕十二”まで、もう少し」
「うん。待てる」
子どもが言って、肩の高さの灯を見上げた。
「灯は、ここだね」
「ここ」
綾女は子どもの肩を軽く叩いた。
肩は、強い。
肩に灯を置けば、紙は角を立てない。
肩で声を受ければ、名は落ちない。
肩で待てば、春は急がない。
越権ではない。越拍だ。
今日もあしたも、その先も。
台所の鍋がふつりと鳴り、胡椒の匂いが弱く跳ねた。
生活の温度が、法の手順の隣で湯気になっている。
それを見届けてから、綾女は瓶の栓を指先で確かめ、白羽栓を二、二、三で鳴らした。
街はその音に合わせて、静かに拍を一つ進める。



