夜明け前の誓約庁は、湯気を出さない台所みたいに静かだった。東棟の小会議室。畳の目は冷たく、座ると背筋が勝手に伸びる。灯は肩の高さで弱く揺れ、障子の外はまだ墨のなか。
 畳の上に広げたのは二枚一組の用紙——左が常世、右が帝都。どちらも三行。下には押印欄と記名欄が並び、紙は白いのに緊張して見えた。

「長くしないこと。歌えること。押印は最後、声は最初」

 篝(かがり)が人差し指で紙の端を押さえ、机代わりの箱にそろばんを置く。彼は古い法制史の束から、似た“骨”の先例を抜き出しては、言葉の余分を切る役だ。
 凪雪(なゆき)は白羽で拍を刻む。二、二、三。背の光の羽線は時どき薄くぼやけ、輪郭の縁に夜が滲む。人姿の残量は薄い。それでも拍は狂わない。
 綾女(あやめ)は、二人の間に座って紙を覗く。物語の日本文に換えるのは自分の役。街の骨に届く言葉は、台所でも口にできる長さじゃないといけない。

「常世側、三行——」

 篝が読み上げ、綾女は声の高さを合わせて書いていく。
 一、嘘をつかぬ——配当の根拠を公開する。
 二、名を奪わぬ——署名者と決裁者を分けず、責の所在を明らかにする。
 三、春を急がぬ——季節配当の前借りは非常の場合に限る。

「帝都側、運用の三行——」

 一、公開帳簿——配水・供出・返納の数値を週次で掲示。
 二、記名の責——押印だけでは無効、自署と読み上げで有効化。
 三、節の停止——非常条項を用いる場合、常夜灯のもとで宣言し、一週で自動失効。

「……うん、骨は揃った。橋をかける」

 綾女は二枚の真ん中に、小さく表題を書いた。
 〈白羽起案(しらばねきあん)〉
 誓約の象徴と、歌える長さ。紙でありながら、口にのぼる。机の上ではなく肩の高さで有効になる仕掛け。

「朝になったら、掲示板を三つ。市場区、孤児院区、工房区」
 篝が段取りを読み上げる。「毎夕、読み上げる。子どもたちに合いの手——三行」

「声の押印、って言い得て妙だよね」

 綾女は笑って、瓶の白羽栓をそっと押さえた。返礼の夜からずっと、胸の内側の拍は二、二、三で安定している。
「“押し”は紙より先に、息で押す」

「紙は紙で押さえる」

 凪雪は白羽で押印欄を一度撫でた。音はしない。紙の骨だけが震える。
「——急がぬ。けれど、後ろへは下がらない」

     *

 準備の最後に、稽古をした。
 「嘘をつかぬ」——配当の根拠の読み上げの練習。市場に出す数字は、灯の下で二拍休みを入れ、三拍目で“根拠”を置く。
 「名を奪わぬ」——署名者と決裁者を分ける欄を、指でなぞる代わりに声で指し示す。
 「春を急がぬ」——非常の場合の合図は常夜灯の下だけで有効。灯の高さを腰ではなく肩にする、という身体の約束も添える。

「栓、いい?」

 凪雪が尋ねる。
「いい。大丈夫。——あなたは」
「拍は、保てる。……保つ」

 綾女は頷いて、白羽栓を一度鳴らした。二、二、三。
 台所から、柚(ゆず)が顔を出す。「朝、お粥どれくらい?」
「半分は香り強めで、半分は薄めで。読み上げに出る人は香り強め」
「りょうかい。——塩は?」
「塩は、まだ遠い」
 柚はうなずき、鍋のへりを布で掴んで音を立てた。暮らしの音が規程案の紙と同じ室内にあると、言葉の硬さが少し柔らかくなる。湯気は法に、悪くない。

     *

 日暮れ、第一の掲示板——市場区。
 天幕は夕風で揺れ、乾いた布の匂いの中に柚子皮の香りが混ざる。人だかり。生活の背丈のままの視線が紙を眺める。
 篝が板の脇に立ち、声を置く場所を探るみたいに喉をなでてから、読み上げた。
「白羽起案——二頁三行。まず、左頁、常世側——」

 紙は短い。短いのに、意味の長さは削っていないことが、声にすると分かる。
 綾女は指で三行を示し、子どもたちが合いの手を入れる。
「嘘をつかぬ」
「名を奪わぬ」
「春を急がぬ」
 拍手は起きなかった。代わりに、息が揃った。二、二、三。
 息が揃う瞬間を見届けてから、篝は右頁——帝都側を読み上げた。
「公開帳簿」「記名の責」「節の停止」
 言葉の角を丸めず、でも肩にかけられる軽さで置く。声は押印。紙は、最後に押す。

「……覚えられる」

 屋台の女主人がぽつりと言い、隣の小僧が指を三本立てる。
「三行なら、ね」

「読み上げを、毎夕やります。数字も、毎夕」
 篝が告げる。
「数字は冷たいけれど、冷たいまま肩で支えられる」
「肩ってどこ?」
 子どもが訊ね、綾女は笑って子どもの肩をそっと触れた。
「ここ。ここに灯を置くと、紙の角が立たない」

     *

 孤児院区の掲示板は低い塀の内側に立てた。柚が香包みを配り、子どもたちが紙の下で背伸びをする。
「“押印だけでは無効、自署と読み上げで有効化”って、むずかしい」
「むずかしい言葉は、短く言い換える」
 綾女は紙の縁を指で押さえ、息を吸って言い直した。
「“印だけじゃ動かない。名を自分で書いて、声で言う”」
「それなら分かる」
 女の子が自分の名前を口にして、笑った。名前は灯の下で重くなり、紙の重さと釣り合う。

 工房区は手が荒れている人が多い。出入り口の横に板を立て、木槌の音が途切れた隙に読み上げた。
「非常条項は常夜灯の下で宣言。一週で自動失効」
「“つけっぱなし”ができない、ってことか」
 年嵩の職人が言う。
「はい。常設は、できません」
 綾女は頷き、白羽栓を掌で一度小さく鳴らした。香の拍が、木肌の匂いに混ざる。

     *

 反対の火の手は、案の定すぐに上がった。
 配水局は「権限の侵食」と大声を張り、春配所は「季節の私権」なんて首を傾げる文言で反発する。
 篝は石段の上で、数字を短く読み上げた。
「三週累計、祟りの発生率は三〇%以上低下。昨夜だけで六%。——数字は嘘をつかない」
 嘘をつかぬ。
 綾女は胸の中で三誓を再度並べ、言葉のほうの防壁も上げる。
「“季節の私権”は誤りです。季節は共有物。だから“節の停止”は常夜灯の下で、みんなが見ている前だけで効きます」

 人の輪から、ため息が一度出て、すぐ吸われる。
 誰かが拍手したが、すぐにやめた。拍手より先に、息が揃うのが目標だ。息が揃えば、紙は自分で立つ。

     *

 幕間は、たいてい背中側から来る。
 市場区の掲示板の裏で、紙が擦れる音がした。
 綾女の第二紋が首筋でちくりと疼き、足が先に動いた。
 掲示板の背後——板の裏に、細長い紙が重ね貼りされている。
 篝が駆けつけ、印影を剥がす道具を取り出して、薄紙の角を静かにめくった。

「非常条項の常設化……」

 読み上げる声が、乾いた。
 “緊急の前借り”を“常の利回り”に変えたのと同じ手。今度は法のほうを“常設”にしたいらしい。
 綾女は息を吸い、板の表へ回った。
 読み上げの最中だった婆(ばば)が頷き、童謡の合いの手を三拍ぶんだけ伸ばす。
「——“非常”は灯の下で、一週だけ」
 綾女が言葉を差し込み、子どもたちが合いの手を返す。
「いっしゅうだけ」
 歌える三行が、偽の細文の上を通り越していく。紙の嘘より、声の記憶が勝つ。
 篝が背後で紙を剥がし、剥がした紙を庁へ持ち帰る袋へ静かに納めた。

「背中、あぶないね」

 帰りがけ、柚がつぶやいた。
「だから、背中にも灯を」
 綾女は笑い、肩の高さにひとつ灯を増やした。灯が増えると、掲示板の紙の角が丸く見える。

     *

 その夜も、稽古を続けた。
 白羽栓の震えを十二拍に伸ばし、凪雪の呼吸と重ねる。
「急がぬ条文を声に」
「急がぬ。急がせない。——でも、間に合う」
 凪雪は横顔だけで笑った。輪郭は薄いが、笑いは薄くない。

 石段の上、星は少ない。春の手前の夜は、星より紙の白のほうがよく見える季節だ。
 篝がそろばんを弾き、掲示の“公開帳簿”の欄に数を置く。市場——掲示すみ。孤児院——掲示すみ。工房——掲示すみ。
 読み上げの順番、合いの手の拍、灯の高さ。全部紙に書いた。紙に書いたことを、声で押す。声で押したことを、暮らしで温める。

「この三行、どれから崩されやすい?」

 綾女が訊ねる。台所の湯気が廊下に流れてくる。夜は粥の匂いでやさしい。
「二番目」
 篝は迷わず答えた。「“名を奪わぬ”は、いつも狙われる。印影の偽り。身代わり署名。——でも、読み上げは名を重くする」
「じゃあ、読み上げを増やす」
「増やそう」
 凪雪が同意する声は短い。「息が揃えば、紙は自立する」

     *

 翌日。市場区の掲示板の前で、男が声を張った。
「“記名の責”は現場に負担だ! 窓口は手が回らん!」
 篝は前に出て、肩の高さに灯を合わせる。「読み上げで手間は増える。けど、手間は費用じゃない。——祟りの費用と比べよう」
「数字を見せて」
 綾女が簿記帳を開き、三週分の曲線を紙から外へ出した。
「三週で三〇%以上下がっています。昨夜は六%。読み上げ導入地区は、恥の残留がさらに七%減っている。——これは負担じゃなくて、節の手入れ」
 男は押し黙り、板の前に立ったまま、三行を目で追った。
 そこへ、子どもが小さな声で合いの手を差し込む。
「嘘をつかぬ」
 男はふっと笑って、続いた。
「名を奪わぬ」
 周りから、もうひとつ声が重なる。
「春を急がぬ」
 拍手はない。息が揃う。揃う息は、紙の角を下げる。

     *

 工房区では、作業着の袖をまくった女が、板の前で腕組みしていた。
「“節の停止”の自動失効って、本当に自動?」
「はい。押したら戻る仕掛けにします」
 綾女は板の裏に回り、常夜灯に連動させた小さな鐘を見せた。
「鐘が鳴り続けない限り、非常は効きません」
「鳴らしっぱなしにされたら?」
「灯の下でしか鳴らない仕立て。灯は肩の高さ。——肩は、誰でも見える」
 女は頷いて、腕を下ろした。「その肩、信じる」

     *

 夜になると、背後の企みはまた動いた。
 工房区の掲示板の裏で、今度は筆圧の薄い紙が貼られている。“節の停止”の横に、“必要と認める期間延長可”と小さく。
 篝は一拍で剥がし、表へ回って、読み上げをやり直した。
「“延長”はここにはない。あるのは『灯の下で宣言し、一週で自動失効』」
 子どもが合いの手で、言葉を丸ごと覚えたみたいに繰り返した。
「“灯の下で宣言し、いっしゅうでじどうしっこう”」
 板の前の空気がやわらかくなり、紙の角がまた丸くなった。

     *

 三日目の夕方、孤児院区。
 柚が鍋の火を弱め、香包みを棚から降ろして、掲示の前に立った。
「“公開帳簿は週次で掲示”って、どの曜日?」
「市場——七の朝。孤児院——七の昼。工房——七の宵」
 篝が答える。「同じ日に、三つの拍で。朝、昼、宵。——早取りの言い訳を挟ませない」

「……お粥、終わったら見に行く」

 柚の言葉は短いが、温かい。温かさは、紙の冷たさを包む。
 綾女は頷いて、瓶の栓を確かめた。拍は合う。凪雪の呼吸も合う。
「急がぬ条文、唱えます」
「唱えよう」
 凪雪の輪郭は薄いまま、笑いは薄くない。

     *

 日暮れ、三地区の掲示板を回ると、どこも三行の声で静かだった。
 市場——子どもたちが合いの手を覚え、合図の前に待つ。
 孤児院——読み上げの前に、香包みの口を結ぶ糸が二拍で引かれ、三拍目に結ばれる。
 工房——木槌の音が欠拍で止まり、読み上げの三拍目で再開する。
 息は揃った。
 揃った息の上で、紙は自分で立つ。

 篝は石段の上から短く宣言した。
「白羽起案、三地区で試行開始」
 凪雪は押印欄に白羽の影を落とし、押しはしない。押さない影が、かえって強かった。
 綾女は紙の角を指で押さえ、台所のほうを見た。あの鍋がまだ湯気を立てているなら、今日の言葉は暮らしに受け止められる。

     *

 夜の終わり、庁の小会議室に戻ると、机の上の二枚の紙はもう“草案”ではなくなっていた。手垢と香りと、子どもの合いの手の呼吸が紙に染み、角は少し丸い。
 篝がそろばんを撫でる。
「明日、掲示の“公開帳簿”を第七日欄まで埋める。読み上げの録も付ける。声は押印だから」
「押したね、今日はたくさん」
 綾女が笑うと、凪雪も目尻だけで笑った。
「押した。灯で、息で、名で」
「名は奪わせない」
「春は急がせない」
「嘘は、遅く読む」
 三つの短い言葉が、湯気みたいに室内に残った。

 外はまだ薄暗い。けれど、紙の白はもう、朝の帯に馴染みはじめている。
 綾女は瓶を抱え、白羽栓を胸に当てた。
「——行こう。続きは、法の前で」
 数字と声を左右に抱え、暮らしの温度を真ん中に置いて。
 紙は立つ。
 灯は肩にある。
 息は二、二、三。
 そして、三行は歌える。
 歌える三行は、長い夜を短くしない。短くしないまま、骨をまっすぐにする。