夜の骨は、よく磨かれていた。
 門楼の白い欄干は露で薄く光り、石段の角は人の足裏と季節に削られて丸い。見上げる空はかすかに白く、でもまだ夜。呼吸を整えるには、ちょうどいい暗さだった。

「手順、確認するよ」

 篝が小声で言い、巻いた紙を指で整えた。指には墨のかすれが残っている。
「一つ目。門楼で正規の暦拍に従って、返礼の露を生成——人が口にしない安全な水。二つ目。誓約庁で返納台を設置。返納札に香りを移す。三つ目。返納札と露を同時に受け入れる儀式を行って、簿記帳の貸方に黒丸を記す」

「黒丸、きれいに並べたいね」

 綾女は冗談めかして言いながら、胸の瓶にそっと指先を添えた。白羽栓は二、二、三で震える。
 凪雪が短く頷く。人の姿の輪郭は保たれているが、背の光の羽線はいつもより細い。
「急がぬ。——でも、ためらわない」

 試験便は“急がない返し”の骨組みだ。春配所が「借置換」の文言で返納を見えなくしようとしたその上から、私たちは灯と歌で“返す”を見えるままに通す。正面から殴り合うのではなく、骨をまっすぐ通して、よそ見で立っている壁を痩せさせる。
 綾女は三誓を胸でなぞる。嘘をつかぬ。名を奪わぬ。春を急がぬ。——そして、返すことは拍に載せる。

 門の上で、凪雪が白羽を一本、光の線のまま空へ滑らせた。暦盤の節に触れると、目には見えない歯車がかすかにかみ合い、夜気の中で“露の制作”が始まる。輪郭をもたない白い糸が、空からゆっくり降りてくる。糸は冷たく、でも冷たさで人の喉を奪わない。
「露、生成」
 篝が息をひとつ飲み、印を付ける。

 綾女は返納台に立ち、香草の匂いの薄い棚から小さな札束を取った。札は麹紙で、湿度に反応して香る。指先で擦ると、柚子皮と胡椒がふっと立ちのぼる。
「香りを移すね」
 瓶の蓋をわずかに緩め、哀しみの薄片を露に混ぜる。混ぜるといっても、涙みたいに落とすのではない。拍の端で触れる。
「——待て、を味に」
 露に“急がない”の輪郭が薄く付く。飲めるけれど飲まない。人は杯を傾けず、花壇や祠に注ぐ。返す先は、自分の喉ではなく、自分より先にあるもの。

「受け入れを始めます」

 篝の声が夜に落ち、広場の人々がゆっくり集まってくる。肩の高さで灯が明滅し、子どもたちは香り包みを胸に抱く。
「返納札は、香りをひとつ分けてから箱へ。露は花壇と祠へ。——急がないで」
 綾女は笑って言い、瓶の白羽栓を二度だけ軽く鳴らした。二、二、三。
 群衆の呼吸が揃っていく。足音は小さく、でも迷っていない。返すという行為が、祭のときと同じように、肩の高さに座る。

 簿記帳の貸方に黒丸が並び始めた。丸は名を持たない。観測点と拍、そして灯の高さの印だけを持つ。
「よし……」
 篝が息を落とす。
 凪雪は門の上で、羽線をたわませて拍を刻む。人の輪郭は薄いが、拍は寸分も揺れない。

 そこへ、空の色が一段暗くなった。禁区の上から、細い輪がふくらむ。
「——来る」
 綾女の第三紋が、胸の内側で激しく拍落ちする。視界の端が白くなって、足元の石の角が一瞬わからなくなる。
 春配所が偽の暦盤を全開で叩き込み、速い雨が落ちてきた。角度のついた雨は露に混ざろうとして、広場の空気に「速さ」のしぶきを投げる。
 黒丸が、紙の上で一つだけ滲んだ。

「綾女」

 凪雪の呼びかけは低く、切れない。
「瓶を」
 言われる前に抱き締めていた。胸骨に瓶の丸みが食い込み、白羽栓が跳ねる。
 飛び出しかけた栓を、綾女は親指で押さえ込んだ。
「受けて、束ねて、寝かせる」
 自分の喉で唱えるのではなく、掌で唱える。怒りの椅子へまず座布団を、哀しみの椅子へ深い背もたれを、恐れの糸へ細い結び目を、恥の乾きへ霧を——目に見えない手順を、目に見えないまま正確に。

「剣は要らない」

 凪雪は背をまっすぐにし、羽線を束にして空へ投げた。白い幕が空に張る。幕は拍で震え、速い雨を遅くする。
 遅くされた雨は露に追いつかず、ただの水に戻って、地面へ落ちる。
 代償に、凪雪の輪郭が大きく崩れた。床に黒い鴉羽が三枚、ひらりと落ちる。光の線が薄くなり、人の影が少し滲む。

「語り、お願いします!」

 綾女が広場の端に向かって声を投げる。読み聞かせの婆は待っていたみたいにうなずいて、童謡の一番を低い声で始めた。
 〈しろい からすは——〉
 欠拍の沈黙が二つ、灯の下を渡る。子どもたちが香り包みを振り、胡椒の粒が袋の中でちいさく当たる。
 音は、匂いのほうが早く届いた。人は歌を口ずさむ前に、鼻で拍を思い出す。

 怒鳴りかけた男が、口を閉じた。
 閉じた唇の隙間から、ふっと白い息が出る。
 女の人が、露の器を胸の高さで持ち直す。祠の石に触れる前に、二拍置く。三拍目に、注ぐ。
 黒丸は滲まない。
 簿記帳の行は、静かな速さで埋まっていった。

「——もつ」

 凪雪の声が、空の幕の向こうからした。
「お前たちの手順が、幕を持たせている。……よく待ってる」
 甘い言葉には聞こえない。それでも綾女の耳には、体温のある褒め言葉として沈んだ。
「待つの、得意ですから」
 笑いながら答えると、白羽栓が二、二、三で震え、胸の内側の拍がそれに重なる。

 速い雨は、やがて弱った。
 露は薄い糸のまま受け取られ続け、花壇と祠へ静かに吸い込まれた。
 篝の手は休まない。貸方に黒丸が並び、欄外の薄藍に小さく印が増える。
「この夜だけで、R、マイナス六」
 篝が短く告げると、人の輪のどこかで小さく拍手が起きた。拍手はすぐ止む。お祝いは、朝にとっておく。

 凪雪が膝をついた。幕はもう揺れていないのに、彼の影だけが濃い。黒い鴉羽が足元でひらひらと落ち着く。
 綾女は駆け寄り、床の羽を拾う。羽は温度でなく拍に震える。彼の残量を、静かに伝えてくる。
「ここが底だ」

 凪雪は笑わなかった。
 底にいる、と平らに言う。
「でも、底は、踏める」

「踏みます」
 綾女は短く答え、白羽栓を彼の肩口にそっと当てた。拍が合い、輪郭が薄く戻る。
 体が触れるわけではないのに、触れたみたいに熱が渡る。
「……ありがとう」

 その一言は、彼にしては長い。
 長い言葉に、綾女は肩の力を一段抜いた。

「結果、掲示します!」

 篝が駆けていって、庁の掲示板に貼られた新しい紙を一気に引き剥がした。墨はまだ乾ききっていない。
「——“返納の代理受領”。国家倉が肩代わりして受けるって」
 声が強張る。
 直結を切るつもりだ。市井と常世の手順を遮断して、可視化された返納を“不可視の倉”へ吸い上げる。返した黒丸を、知らん顔で別の帳に移すつもり。

 広場がざわめく。怒りの椅子が立ち上がろうとする気配に、綾女は手の中で白羽栓を鳴らした。
「大丈夫。——数で勝った。次は法で穴を塞ぐ」
 自分に言い聞かせた言葉が、自分より先に人の肩に届いた。
 篝が頷く。
「三週でマイナス三十を越えた。この夜だけでマイナス六。数字は立った。——次は、紙の節だ。押印の深さ、読み上げの拍、返礼印の数、全部、表に載せる」
「代理受領、って言葉の角を、灯の下で丸める」
 綾女はうなずいた。
「言葉で剥がす。——嘘をつかず、名を奪わず、春を急がないまま」

 凪雪はまだ膝をついたまま、顔だけ上げた。
「お前が待ってくれる限り、春は迷わない」
 甘い台詞のはずなのに、夜の冷たさが中和して、骨に届く。
「待ちますよ。いくらでも」
 綾女は少しだけ笑って、瓶の蓋をきちんと締めた。掌の内側に残った拍が、二、二、三で静かに消える。

 夜明けの気配が東から滲み、空の白が門楼の縁に触れた。灯の明滅は二度だけ早くなり、すぐ定速へ戻る。
 人々は少しずつ散っていく。礼を置くように、静かに。
 香りは残る。柚子皮と胡椒と、乾いた布の匂い。
 露は残らない。地面と花の根に吸い込まれて、形を持たない“返ってきた”だけを、肩の高さに残した。

 綾女は孤児院へ向かう途中、東の空を一度だけ見上げた。窓の覗きの青はまだ浅く、屋根の端の燕は眠っている。
 台所に入ると、柚が鍋に火を入れているところだった。
「香包み、今日はどの棚?」
「低いほう。肩の高さよりちょっと下」
「じゃあ、待てるね」
 ふたりで笑う。
 綾女は外に出て、花壇の端にしゃがみ込んだ。指で小さな円を描く。
 そこに、さっきの返礼の露が、ゆっくり、ほんとうにゆっくり、溜まっていく。
 真ん中は水鏡みたいに静かで、輪の外側だけが微かに震えている。震えは二、二、三。
 その水面に、次の道が見えた。二重行政の罠——名を奪わぬこと。
 紙の節を、人の肩の高さで正すこと。
 押し切るのではなく、ほどくこと。
 ほどく間に、生活の温度を冷まさないこと。

「朝になったら、読み上げを増やします」

 綾女が言うと、背中のほうから篝の声がした。
「法欄、広げておいた。灯の高さの欄も倍に」
「ありがとう」
 返礼の露は、円の底でひとつ呼吸をした。
 凪雪の影は薄い。けれど、薄さが怖くはなかった。
 怖くないのは、底を踏んだからだ。
 底を踏んだ足には、まだ拍がある。
 二、二、三。
 春は急がない。
 誰かが急がせても、灯の下で遅くする。
 遅くしたあいだに、私たちは台所に湯気を立て、窓の覗きに薄い白を通し、今日の紙の角を丸める準備をする。
 生活の温度で、数字を包む。
 数字で、言葉を正す。
 言葉で、名を守る。
 名が座れば、法は骨に従う。

 花壇の円の中で、小さな羽音がした。
 鴉の羽か、露の息か。
 どちらにしても、その音は“どん底”の底から上がってくる音で、耳に痛くはなかった。
 朝の匂いが少し混じって、台所の鍋の中で湯がぴくりと跳ねる。
 綾女は立ち上がり、瓶を抱え直した。
「——行こう」
 底から。
 底を踏んだ足で。
 次の節へ。