春配所の瓦は、晴れの日ほど古く見えた。油の染みを吸って鈍い光になった灰色の面が幾何学に並び、庁舎の軒先には季節の匂いではなく、紙と油と樟脳(しょうのう)の調合が溜まっている。門の両脇には小さな石獅子が控え、口の中に細い金属棒が渡されていた。棒は音叉で、近づく足音の拍で微かに震えるという。

「ここを“春の骨”だと信じている人は、たぶん多い」

 篝(かがり)がよく通る小声で言う。彼は肩に古文書の包みを担ぎ、片手で輪を作って石獅子の金属棒をのぞき込んだ。棒は鳴らない。鳴らないのに、喉の奥で音がした。二、二、三。
「骨のふりをする皮膚だよ」

 綾女は瓶の白羽栓に指腹を置き、庁の正面扉の継ぎ目で呼吸を合わせた。拍を吸う建物と、拍を作る灯。どちらが強いか決めるのは、人の肩の高さの礼だ。
「——まず、骨を正すための昔話から」

 調査は庁の外で始めるのが礼儀だ。篝は春配所から歩いて三筋先の古記録庫へ綾女を連れていった。記録庫は寺院の境内にあり、蔵のような厚い壁の中で紙が眠っている。常夜灯の油で黒くなった梁から、糊の乾いた匂いが垂れてきた。

 机の上で、古い紙がひらひらと息をした。篝が慎重に開いた束の見出しには、薄い朱でこうあった——〈春期第五週余剰週ノ件〉。
「余剰週——」

「春の第五週。戦や疫のときだけ、緊急の“前借り”を認める古規定」
 篝は読み下しの箇所に人差し指を置き、二拍だけ黙ってから続ける。「本来は“返せるものだけ借りる”。そして“返すのは祭と共に”。……いつしか“常の運用益”になった。倉入りが慣例化。名は古いけれど、中身は新しい」

 綾女は眉を寄せた。瓶のなかで怒りの椅子が低い音を立て、哀しみの層が薄く揺れる。
「返すための歌まで用意されてる。——『白い烏は名を運ぶ』の三番に“返し歌”がある」
 篝が譜面の隅を指す。欠拍だらけだった一番、二番とちがい、三番だけは音符が長く伸びている。
「待て、渡せ、戻れ」
 綾女は口の中で三語を噛み、瓶の白羽栓に指を戻した。呼吸が合う。
「“返す動線”を、紙に起こす」

 誓約庁へ戻ると、綾女は簿記帳に新しい枠を設けた。見出しは〈春一週間〉。列は二つ——借方(前借り)と貸方(返納)。誰の名も書かない。観測点と拍、そして返納の“印(しるし)”だけ記す。
「返納は目に見えない。だから、見える形にする」
 篝がうなずき、欄外に小さく書いた。「祭は“待て”を楽しみに変換する」。
「祭?」
「うん。——供出と返納を、歌に乗せる。雨は呼ばない。待つこと自体を祝う夜にする」

     *

 祭の名前はすぐ決まった。
 〈白羽の香夜〉。
 香り包みを持ち寄り、一品を交換し、童謡を合唱する。雨は降らない。誰も傘を持たない夜。待つことを、明るく、ゆっくり、街の真ん中で。

 準備は街じゅうを歩く動線になった。孤児院の子らは布袋を縫い、寺子屋の子は短冊に欠拍の印を描いた。職人衆は屋台の骨を組み、商家は香草を刻む。
「香包みは三つ一組。ひとつは持ち寄り、ひとつは交換、ひとつは“返納箱”へ」
 篝が指折りながら言う。「返納箱は広場の真ん中、肩の高さ。灯は低め。——肩で返す」

 凪雪は祭の骨組みをひと目見て、短くうなずいた。
「よい。雨は呼ばない。常世の門は閉じたまま。——拍だけを通す」
 背の光の線は薄いが、輪郭は崩れていない。白羽は抜かない。祭は、剣ではなく灯と歌の仕事だ。

 祭の日、下町の広場は夕刻の風でやさしく洗われ、屋台の布は乾いた布の匂いを出していた。舞台はない。大きな台もない。かわりに肩の高さに揃えられた灯が輪を作り、人の輪がその外にもう一重重なる。
 柚は孤児院の子と一緒に香包みを配り、包みの口を結ぶ糸を二拍で引いて三拍目に結び目を置く。二、二、三。
「匂いを立てて、待つね」
 子どもたちの鼻がほんのり上を向く。

 綾女は瓶を胸に抱え、白羽栓を指でつまんだ。哀しみを薄く伸ばし、場の静けさに薄い拍を加える。怒りの椅子にふわりと布をかけ、恐れの糸を細くし、恥の乾きに霧をのせる。
「受けて、束ねて、寝かせる」
 声は出さない。指先の内側で唱える。

 最初の歌は童謡の一番から。
 〈しろい からすは なを はこぶ〉
 欠拍のある一行の途中、灯が二度だけ明滅して、沈黙が輪の上を通過する。沈黙は冷たくない。肩の高さで暖かい。
 二番は“名と法”の短い条文を交互にしのばせ、三番は返し歌——〈まて、わたせ、もどれ〉。
 歌の合間に屋台の香りが増え、香包みの交換で手から手へ熱が移る。持ち寄った人は、別の人の包みを受け取る。受け取った人は、ひとつを返納箱へ入れる。
 箱の縁には薄い紙が張ってあり、包みが落ちるたび、紙がしゅ、と小さく鳴る。返す音。返したことを誰かに知られない音。知られないけれど、簿記には記す音。

 祭のあいだ、雨は降らない。空は晴れているのに、広場の真ん中の空気だけが、薄く湿っていた。瓶の口から伸ばした哀しみの薄布が、灯の熱で湯気のように揺らぎ、人々の呼吸が合う。合った呼吸のなかで、待つこと自体が楽しみに変わっていく。
 柚が笑って、子どもに耳打ちした。「“待つ”は“待てない”より美味しいよ」
 子どもが真似をして囁き返す。「“待つ”は“待てない”よりおいしい」
 言葉の音が、香草といっしょに舌のないところを通り抜け、骨に染みる。

 夜の終わり、凪雪は輪の外側に立ち、白羽を抜かずにただ灯の芯へ指先をかざした。
「——よく待った」
 それだけ。短い言葉ほど遠くへ届く。

     *

 翌朝、簿記帳の〈春一週間〉の返納欄に、小さな黒点が並んだ。点は名を持たない。観測点と拍だけを持つ。供出祭のあと、各所で「返す」という行為が起きたことを示す印。
 篝がそろばんを弾く。
「香夜を挟んだ翌日、返納の“自発率”は三倍。——“待て”が“返す”に変わった」
「祭は“待て”を楽しみに変換する」
 綾女は欄外にもう一度書き足し、背筋に小さく力を入れた。舌の上の塩はまだ遠い。香りだけが生きている。それでも、数字は骨に乗る。

 だが、春配所は早かった。昼前、庁の掲示に新しい紙が貼られた。
 〈春の借置換〉
 ——返納分を別の倉に振り替える——
 不可解な文言だった。返した分がどこかへ消える。紙の上だけで。
 綾女の第二紋が鈍い痛みで反応し、簿記帳の「滞留」欄が黒くなった。返すはずの流れが表から消え、裏で溜まる。
「言い換えで、返納の数字を“ゼロに見せる”」
 篝が紙の端を指で押さえ、灯の下で朱の色を睨む。
「“置換”は“隠す”の婉曲。——返納の可視を取り戻さないと、祭の意味が削がれる」

 凪雪は黙って紙を見ていた。背の光の線は短く、輪郭の薄れは短くなっている。人の姿の保ちに、まだ代償は残る。
「次で、門を通す」
 彼は白羽を握り、言葉を置いた。「試験便で、常世からの正規の返礼を一度に流す。返納の“可視”を作る」
「返礼?」
「“春の返礼”。——本来、余剰週に借りたものは“祭の翌週に”常世へ返され、そのしるしに露と香りが街へ返る。それが古い骨だ。骨の動線を灯で復旧する。合法の抜け道で、違法な本流を痩せさせる」

 綾女は深く息を吸い、白羽栓を整えた。胸の奥で三誓の位置を確かめる。
 嘘をつかぬ。名を奪わぬ。春を急がぬ。
 返すことは急がずに行う。拍に載せて。

     *

 試験便の準備は、門楼の上で行われた。白い燈台のような門の脇に、昔の“返礼盤”が眠っている。石の丸板に浅い溝が四方へ伸び、季節の節(ふし)ごとに刻みがある。
 凪雪は手甲を外し、指先で溝の埃を払った。
「春の第五週——余剰週の刻みは、ここ」
 指でなぞると、溝の底から冷たい音が上がってくる。二、二、三。
 篝が古記録の拓本を持ってきた。返礼の手順は三行だけだ。
 ——返すものを“名を伏せて”置く。
 ——灯の下で“返す歌”を歌う。
 ——“露と香り”を受け取り、肩の高さで配る。
「名を伏せるの?」
 綾女が問う。
「“返す”は、名の手柄ではない」
 凪雪は短く答える。「名は返す。返礼は街に返る。——名と返礼を混ぜない」

 “返すもの”は、祭の返納箱から集めた香包みのうち、余る分の香。名を伏せ、香りだけにして布袋に移す。小さな露石(つゆいし)——常世と現世のあわいで採れる半透明の石——をひと粒ずつ添える。
 綾女は袋の口を結ぶ手つきを、二拍で吸い、三拍目に置く。二、二、三。
 瓶から哀しみを薄く引き出し、袋の表面に“待て”の拍を撫でつける。待つ拍は、返礼を“急がない返し”にする。急がない返しは、骨を痛めない。

 夜半、門が一度だけ狭く開いた。開いた、といっても、人が通れるほどではない。拍で開く小さな隙間。そこへ袋をそっと置き、返す歌を短く歌う。
 〈まて、わたせ、もどれ〉
 返す声は、風の向こうでいったん薄くなり、やがて露と香りになって戻ってくる。戻ってくる匂いは早くない。香りの低いほうから順に。胡椒は最後だ。
 凪雪は受け皿を置かず、肩の高さで受ける。
「肩で」
「肩で」
 綾女も繰り返し、受け取った露と香りを小さな陶片へ少量ずつ置いた。陶片には刻印。〈返礼〉。
「可視化だ」
 篝が頷く。「香りは漂う。——印があれば、簿記に残る」

 門を閉じてから、三人で肩の高さの灯を抱え、広場へ戻る。夜の街路は歌の余韻を吸い込み、石畳がかすかに湿っている。
 露の粒は、井戸へ入らない。根の浅い花の畑にだけ、静かに吸い込まれる。
 香りは市場の天幕へ薄く染み、病院の待合の柱に低く残る。
 肩の高さの灯の下で、返礼の陶片を配る。陶片は食べ物ではない。匂いの皿だ。皿の端に、小さな刻印があることを、人はすぐ覚える。〈返礼〉。
 柚が笑いながら言う。「“返ってきた”って、匂いで分かるね」

     *

 翌朝、簿記帳の〈春一週間〉の貸方(返納)欄の横に、〈返礼受領〉の小欄を増やした。黒点のそばに、薄藍の点。返した場所で、返礼を受けた印。
 篝がそろばんを弾き、数字を骨に落とす。
「返納の数、春配所の“借置換”で帳上は消えたけど——〈返礼〉は消えない。灯の下で受け取ったから。——“返した”と“返ってきた”は対になっている。どちらか一方を消しても、もう一方が残る」
 綾女は頷き、欄外に三行。
 返すものは名を伏せよ。
 返す歌は灯で歌え。
 返礼は肩で受けよ。
 三つの短い手順は、紙ではなく体のほうに住み始める。

 春配所も、黙ってはいなかった。昼過ぎ、掲示板に新しい通達。
 〈返礼は春配所を経由せよ〉
 ——人の肩の高さから、棚の上段へ押し上げる言葉だった。
 凪雪は紙を見て、白羽で軽く一度叩いた。叩いた音は、人には聞こえない。紙の骨だけが縮む。
「紙は紙で相手をする。——可視の数字を束ねて、法へ渡す。いまは“返礼”の印を増やせ」

 綾女は午後いっぱい、広場と寺子屋と病院を回った。肩の高さの灯の下で、返礼の陶片を静かに配り、印を押し、簿記の薄藍を増やす。
 病院の待合で、老女が陶片を撫でながら呟いた。
「香りで“返ってきた”って分かるのは、胸が楽だね」
「“返ってきた”があると、“返した”を信じられる」
 綾女は答え、白羽栓を掌で短く鳴らした。二、二、三。

     *

 春の第五週——余剰週の真ん中の夜、庁の石段で短い読み上げを行った。
 篝が立ち、灯の下で声を整える。
「本日、〈返礼〉印の受領が二百八十四。返納印との照応が二百四十六。“借置換”による帳上の消失は——可視の返礼によって埋め戻されつつある」
 数字は冷たい。冷たいまま、街の肩で支えられる。支えられた数字は、骨になる。
 凪雪は白羽を立て、押印をしないまま白羽の影を紙に落とした。影が押印の代わりに見えたのか、人々は小さく息を吐いた。
 綾女は瓶を抱え、胸の奥で三誓をもう一度並べる。
 嘘をつかぬ。名を奪わぬ。春を急がぬ。
 返すことは急がず、返礼は肩で受ける。

 読み上げの終わり、子どもが石段の下から手を挙げた。
「歌、もういっかい」
 笑いが起きる。
 童謡の三番だけを短く歌った。〈まて、わたせ、もどれ〉。
 灯が二度明滅し、沈黙が三拍目の前に薄く置かれる。沈黙は、約束の形だ。

     *

 その夜更け、春配所の裏手で紙の音がした。
 篝の密偵が手旗で告げる。「棚の上段から、別倉へ“返礼”を回す企て」
 “返礼”まで書き換えるつもりだ。
 凪雪はすぐには動かない。動かず、白羽を握って灯の位置を半尺だけ下げた。
「下げるの?」
「うん。——“返礼”は、人の肩に帰るものだ。棚には、重すぎる」

 綾女は瓶を抱え、小さく三行を唱えた。受けて、束ねて、寝かせる。哀しみを薄く伸ばし、恥の乾きを湿らせ、恐れの糸を細くする。怒りは小珠にして、灯の周りを低く回す。
 翌朝、春配所の廊下で、紙は動かなかった。
 〈返礼は春配所を経由せよ〉の紙の角は、灯の下で丸まったまま真っ直ぐに戻らず、職員の指がそれをそっと押さえる。押さえた指の下で、印の朱は浅い。
 篝が庁の前で読み上げる。「“返礼”の回収は進まず。——肩の高さでの配布、継続」

     *

 余剰週の終わりが近づいた。
 簿記帳の〈春一週間〉の欄は、薄藍の点でほぼ埋まっている。〈返礼受領〉は、借方・貸方の間の橋になり、〈滞留〉欄の黒は徐々に薄まっている。
 凪雪は門楼に立ち、返礼盤の溝に指を置いた。
「ここに“節”の息が戻ったら、紙の節も正す。——次は、法」
 篝がうなずき、法欄の赤線のわきに更に小さな青い点を打つ。
「読み上げの拍、灯の高さ、押印の深さ、返礼印の数。全部、表にする」
「数字は、街に見せるための言葉だ」
 綾女は瓶を抱え、白羽栓を胸に当てた。拍は整っている。舌の塩はまだ遠い。遠いことを受け入れる。受け入れながら、戻す手順を少しずつ書き足す。

 夜、孤児院の台所で柚が香包みの口を結びながら言う。
「“待つ”は、ほんとうは贅沢なのかもね」
「贅沢?」
「うん。“待てない”って、時間を食べちゃうでしょ。食べずに残すのは、贅沢だもの」
 綾女は笑って頷いた。香りは息に優しく触れ、舌の上に輪郭を置かない。輪郭がないのに、満たされる瞬間がある。
 瓶は温く、軽い。白羽栓は二、二、三で震え、窓の外の月影が一度だけ薄く脈打った。

     *

 余剰週の最後の朝、庁の石段に人が集まった。
 篝がそろばんを抱え、凪雪が灯を肩で抱え、綾女は瓶を胸に抱えた。
「——報せ」
 篝が声をひらく。
「〈春一週間〉の返納印、計四百二十七。〈返礼〉印、計四百二十一。差、六。——“借置換”の紙は、返礼の可視で痩せた」
 ざわめきは起きない。息が揃う。揃った息は、街の骨に薄い音を置く。
 凪雪が白羽を立て、短く言う。
「春は急がぬ。——返したものは返った。次は、紙の節だ」

 人々は散り、灯は肩の高さで少しのあいだ残った。
 綾女は瓶を軽く持ち替え、胸の奥で三誓をもう一度たしかめる。
 嘘をつかぬ。名を奪わぬ。春を急がぬ。
 そして、返すことは——急がない。返礼は肩で受ける。
 数字は冷たいまま、人の肩で温められた。温まった数字は、法の前で折れない。
 門楼の上、返礼盤の溝の底で、遅い音がした。
 遅い音ほど、遠くへ届く。
 その音が薄く消える前に、篝が帳面の角を撫で、凪雪が灯の芯を短くし、綾女は白羽栓を二、二、三で鳴らした。

 春一週間は終わる。
 終わりは、次の節の入口だ。
 入口に立つとき、人はたぶん少しだけ哀しくなる。返せるものと返せないものの境が、肩の高さに見えてしまうからだ。
 それでも——返せるものから先に返す。返せる拍から先に返す。
 返せないものは、灯の下で名前を呼ぶ。
 名前を呼べば、紙は人に戻る。
 人に戻れば、法は骨に従う。
 骨が従えば、季節の拍は、ゆっくり、しかし確かに、次の節へ進む。
 春は、急がない。
 そして、急がせない。
 それを数字で示し、歌で支え、灯で見えるままに、次の週へ渡す。