第一週の最終日、朝の光は覗きの帯を一本太らせて、小部屋の帳面の角をそっと持ち上げた。篝がそろばんを弾き、玉が三つ走って一つ戻り、紙の上の数字が骨を持つ音を立てる。
綾女は瓶の肩に頬を当て、白羽栓の震えを胸の拍に沿わせた。二、二、三。二、二、三。
「——出すよ」
篝の声は低い。
「R、−十二パーセント」
紙の乾いた面に、小さな息がひとつ落ちた。畳の目がそれを吸う。凪雪は椅子の背から手を離し、背の光の線をほんのわずか引っ込めた。輪郭は薄いまま揺れない。
「よく落ちた。内訳」
綾女は障子に貼った地図へ向き直り、香墨の筆で欄外に三つの短い列を書き出す。
語りの配当——読み聞かせと童謡の時間帯で、怒が哀へ遷移。翌日の怒、−一五%。
香りの配当——薬味と香草で、哀の滞留時間が短縮。翌日の哀、−八%。
行列の拍——二拍三連の誘導で、恐が恥へ置換。恥、−二〇%。
点と数字のあいだを糸で結ぶように、綾女は障子面に薄い印を散らす。糸の交点が旋律になり、旋律の厚みが街の“ノイズフロア”を下げる。
「語れ/待て/割るな」——第一週を支えた三行メモは、紙の端で静かに息をしている。
午前、綾女は市場の読み聞かせへ足を運んだ。婆の声は今日も喉の低いところに落ち、物語の最初の一行は“食べ残しの匂い”から始まる。食べ残し——惜しむ気持ち——は怒りの手前で足を止める。怒鳴り声は半音下がり、薄藍の点が天幕の陰でゆっくり増えた。
午後は配水局の行列。肩の灯が二、二、三で明滅し、説明席の欠拍に係が合わせる。窓の下で舌打ちは鳴らない。恥の乾きが湿り、枯草の点は地図の上で色を失う。
夕刻、孤児院の台所では柚が香草を包丁で叩き、胡椒の袋をつまんで匂いを立て、三拍目で鍋へ落とす。欠けの拍の香りは、哀しみの椅子の座面を深く柔らかくする。夜泣きは短い。
第一週の最後の帳合は、紙の上だけで終わらせなかった。篝が小さな鐘を一度鳴らし、庁の前の石段に集まった人たちへ結果を読み上げる。読み上げる——声にする——ことで、数字が街の骨に触る。
「——祟りの発生率は、今週、十二パーセント下がりました。読み聞かせの時間の怒は翌日大きく減り、香りの配当をした地区の哀しみは滞留が短くなりました。窓口の列の“恐れ”は“恥”へ置き換わり、照らされると消えました」
凪雪が横に立ち、押印ではなく白羽を垂直に立てる。人の輪郭は淡いが、白羽ははっきりした芯を持って立っている。人々はうなずき、紙の数字が石段の上で“街のことば”へ変わる。
*
第二週の初日、春配所は動いた。
禁区の空に薄い輪がまたかかり、偽の暦盤が速い雨を落とし始める。雨は、目に見えない角度で落ち、表通りを舐めずに地下へ走る。地下の古い石積み——常夜灯のすぐ下の網——が、半音高く鳴いた。
篝の密偵が旗で知らせる。「速い雨、禁区へ」
綾女は瓶の第三紋の疼きを胸で受け、呼吸の高さを二つ落とした。
「——裏路地配水、回す」
凪雪の声は短く、命令ではなく手順の宣言だった。白羽糸が上空で角度をひとつ変え、路地へ落ちる雨の拍が鈍り、井戸の縁だけが静かに濡れた。
「速い雨」は避ける。避けている時間に、行列と読み聞かせと香りは続ける。
数字は肩で息をするように、−一〇%を維持した。
日暮れ、篝は庁の前で再び短く読み上げる。「維持です」
維持——落ちないことも、街の骨を休ませる。
第二週の中ごろ、配水局の裏口の灯は、もはや“裏”ではなくなっていた。腰の高さでゆれる灯は、近所の子らに「おしごとの灯」と呼ばれ、夜風に油の匂いを薄く残す。
春配所からは「節の調整」の続報が来たが、常世の押印はない。篝は飄々と、達しの読み上げに欠拍を挟み、二拍の沈黙のあいだに「押印なし」を灯の下へ置く。置かれた「なし」は強い。人の耳は「ある」と同じ速さでは「なし」を流せない。
この週、恥は湿り、恐れは遅れ、怒りは薄藍へ沈む。哀しみは鍋と枕の高さで寝かされ、夜の隅で育たない。
*
第三週、反動は静かに来た。
名を偽る小役人たちが、また別の術を持ち出す。身代わり署名。祖父や隣家の名の一部を借り、筆圧だけを本物に似せ、大量の書式に散らす。印影は二重ではない。二重を学んだ彼らは、今度は“同筆別名”を覚えた。
綾女の第二紋は朝から小さく疼き、首筋の内側に薄い熱が溜まっていく。
窓口の列で、篝が受理簿をめくる。
「——同じ“息継ぎ”が別名に散ってる」
凪雪が白羽で紙面の上を軽く叩く。叩く音は人には聞こえない。紙の骨だけが聞く。
「照らしが追いつかない」
恥はじりじりと上がった。
灯の高さを下げても、照らすべき対象が紙の上で増殖する。増殖する恥は、乾きやすく、乾いた端から風に飛ぶ。
綾女は瓶を抱え直し、痛みを言葉にして外へ出す。
「……読み上げ、増やしたい」
篝が顔を上げる。「公の?」
「うん。窓口で、紙の内容を声に出す。名を読む。——声は名を固める。書かれた名を、その場の空気で支える」
凪雪は短くうなずいた。
「やれ。——灯の下で」
昼から、窓口の前に譜面台のような台を置いた。灯は肩の高さ、係が立つ場所のすぐ横。
係は、一枚ごとに名を読み上げる。
「□□町、□□屋、□□殿」
読み上げの拍は、二、二、三。
読み上げの二拍目で、列の人々が息をそろえる。三拍目で名が落ちると、名は紙から離れず、空気の中に“器”として立ち上がる。
小役人の一人が列の中ほどで立ちすくんだ。顔は上げない。耳が、灯の明滅と声の拍を拾い、彼自身の呼吸と衝突する。
身代わりの名は、声で支えると重くなる。重くなる名は、肩に乗らない。乗らない名は、落ちる。
落ちる前に、篝は受理簿の余白に、小さく印を打った。印は二重ではない。ただ、印の外周にわずかな“息継ぎのゆがみ”がある。
「——君の名、今日はおじいさんの呼吸になってる」
小役人は、顔を上げないまま、列を離れた。背中に貼りついた恥は乾かず、灯の下で湿り、剥がれた。
照らしは万能ではないが、声と灯で名を支えると、恥が街のほうへ戻るのが早い。
それでも、第三週のはじめ三日は恥の数が下がりきらなかった。
柚は孤児院の鍋の前で、香りの配当を深めることを提案した。
「孤児院だけじゃ足りない。病院、工房にも香り包みを回そう。匂いを覚えると、嘘の匂いにも敏くなる」
綾女は頷き、香包みの簿記を新しい欄に設けた。
——香橋/病
——香橋/工
香り包みは小さな布袋。乾いた柚子皮、ほんの少しの胡椒、刻んだ青紫蘇。袋の口を糸で結び、夜の枕元や仕事場の棚に吊り下げる。
工房の若い女が包みを胸の前で揉み、笑って言った。
「急いで書くとき、これ嗅いでからにする。匂いが落ち着くと、手が“急がない字”になる」
病院の待合では、老女が包みを耳たぶで挟み、「匂いは孫の名前くらい覚えてる」と言った。
香りと名が結びつくと、人は嘘を嗅ぎ分けやすくなる。簿記の端に記した印は、恥の残留がさらに七パーセント減ることを示しはじめる。
第三週の真ん中、禁区の空は晴れていた。偽の暦盤は昼のあいだ姿を消し、代わりに宮中の香の拍が長くのびる。沈香、樟脳、乳香。匂いはゆっくり届き、言葉より遅い。遅い香りは、灯の下でだけ正体を見せる。
篝は庁前の石段で読み上げを続け、名と法の紙を二拍で遅らせ、三拍目で「常世の押印なし」を置く。置かれた「なし」は重く、重みは街の骨で支持される。
第三週の終わり、数字は意地を見せた。
R、−九パーセント。
あと一歩。
紙の端で小さな“まだ”が立ち上がり、綾女は瓶の温度が上がるのを感じた。熱は怒りではない。悔しさだ。悔しさは、瓶の中で哀しみの椅子の背もたれを叩く。背もたれが鳴ると、椅子は深く座り直す。
「受けて、束ねて、寝かせる」
深呼吸で寝かせる。寝かせることは、諦めではない。明日のために夜を厚くする手順だ。
凪雪は、背の光の線を細く立て、いつもより長く黙った。
「——九の週は、速い雨の注入量が二倍だった」
篝が集計の欄外を指で押さえる。「禁区縁の地下、二夜連続で導管が“節”を飛んでる。春配所は数字の盾を厚くしてきた」
「制度の圧に、人力がここまで食い下がった」
凪雪の声は平らで、平らさが支えになった。
「数字は負けではない。見せ札は、できた。——次の武器は、法だ」
綾女は首を上げた。首筋の内側の疼きは、まだ細い針の先ほど残っている。
「名と法。……最後に回すって、言ったけど」
「“最後”は、来る」
凪雪は白羽を一本、灯の前に横たえた。
「三週の約束は守った。数字は街の骨に入った。——次は、骨の外側を正す。紙の節を、灯の下で正す」
*
法へ向けての準備は、数字の言葉で始めた。
篝は帳面の見出しを整え、法欄の赤線の横に小さな印を増やす。印は朱ではない。薄藍。名の色だ。
「“節の調整”通達の読み上げ時刻、場所、灯の高さ、読み手の息継ぎ——全部、記録する」
「数字にするの?」
「数字にする。紙は、数字で晒す。名は、声で守る」
庁の前の石段では、夜ごと、短い集会が開かれた。
語りの婆が物語の前にこう述べる。
「“節の調整”の紙は、今日も押印がなかった。灯の下では“ない”がよく見える。見える“ない”は、祟らない」
人々は小さく笑い、笑いの拍は二、二、三で揃う。
笑いは配当だ。配る場所を間違えなければ、翌朝が痩せない。
配水局の窓口では、公の読み上げが常態になった。係は三人に増え、一人が読み、一人が押し、一人が説明を欠拍で刻む。
身代わり署名の小役人は、三日で列から姿を消した。代わりに、列の後ろに立つ老人たちが、自分の名をゆっくり自分で読み上げた。
「□□、□□。——これは、わしの名だ」
読み上げられた名は、肩の灯の下で重みを持ち、紙の重さと釣り合う。名が正しく座ると、紙は動かない。紙が動かないと、行列は急がない。急がない列は、怒りを育たせない。
香りの配当は、工房と病院で根を張った。
工房の午下がり、作業台の上に置かれた香包みを若者が揉み、紙に顔を寄せる前に一呼吸置く。その一呼吸が、誤記を減らす。
病院の夜、待合のベンチに座る人たちの膝に小さな香袋。鼻腔の奥で香りが拍を刻み、診断の呼び出しで立ち上がる足の速さが少しだけ揃う。揃った速さは、恐れを遅らせる。
簿記は、恥の残留がさらに七パーセント減ることを示し続けた。
柚は台所で笑った。
「匂いが、名の代わりになることはないけれど——名のそばにいてくれる」
*
第三週の最終夜、小部屋に戻る。
障子の地図は、点が増えたわけではないのに、前より深く見えた。点のあいだに薄い糸が見えるせいだった。糸は——語り、香り、行列、読み上げ——この三週で編み上がった目に見えない導線だ。
篝がそろばんを置き、帳面を閉じ、灯の芯を短くした。
「三週連続。Rは、−十、−一一、−九」
数字を口にしたあとの沈黙の質が、第一週と違う。沈黙は厚い。そして、厚い沈黙は、焦らせない。
綾女は瓶の肩を撫で、白羽栓を軽く鳴らす。鳴らした音は部屋の隅へ吸い込まれ、土壁に静かな輪になって残った。
「——明日から、法だ」
凪雪が言った。
輪郭は薄いが、声は硬くない。硬くないのに、曲がらない。
「春配所の印の外周に、古い儀礼の刻みがあった。節の移し替えに使う印だ。——棚の上段を灯で照らす。印の呼吸を、数字で晒す」
篝は頷き、法欄の赤線の下に小さく青い点を打った。
「読み上げの拍、灯の高さ、押印の深さ、匂いの層——全部、表にする。表は、街に見せる。数字を街に渡す」
「名は?」
「灯の下で、返す」
凪雪の声は短い。短いから、遠くまで届く。
綾女は窓の覗きに目をやった。外の薄い夜が、紙の上の数字に触れている。
九で止まった第三週は、負けではない。速い雨が二倍だった週に、九まで落とせた。数字は冷たいけれど、冷たいまま肩で支えられる。支えられた数字は、法の前で折れない。
瓶は温く、軽い。哀しみの椅子は深い。怒りの小珠は小さい。恐れの糸は細い。恥の乾きは湿っている。
足りない一は、明日の灯と声と紙で埋めるのではない。——紙の節を正すことで、いずれ溝ごと浅くする。
「三週の実験は、ここまで?」
綾女が問う。
「実験は、もう“暮らし”だ」
篝が笑った。
「暮らしの簿記は、続く。法を正すための証文として」
凪雪は椅子から立ち上がり、肩の高さで灯を抱いた。
「急がぬ。急げば、次季が痩せる。——だが、歩みは止めない」
白羽が灯の火をわずかに揺らし、陰影が障子の地図に薄い波を走らせる。
波は、街の拍だ。
拍は、数字の骨だ。
骨は、法の器だ。
器は、名を座らせる。
名が座れば、紙は動かない。
小部屋の扉を開けると、廊下は夜の真ん中で息を潜めていた。肩の灯を抱え、篝は帳面を脇に、綾女は瓶を胸に。
廊下の先、庁の玄関先に、柚が立っていた。小さな灯を両手で抱いて。
「——貸し出し、続けるよ」
柚の灯は、夜泣きを止める明滅で二、二、三。
綾女は頷き、凪雪の横顔を見た。輪郭は薄い。けれど、その薄さは、街の夜を通すための薄さだ。
薄くなることを選べる強さを、綾女は初めて羨ましいと思った。羨ましさは嫉妬ではない。自分の椅子に深く座るための、ほんの少しの伸び。
夜の終わりの手前、庁の前の石段で、三人は一度だけ立ち止まった。
風は、沈香と樟脳を抱いて通り、乳香の息継ぎでわずかに途切れる。
香りの拍は、明日も測れる。
紙の節は、明日から正す。
数字は、街に身を置いた。
声は、名を固めた。
灯は、礼になった。
——そして、春は急がない。急がせない。急がせる者の言葉を、灯の下で遅くする。
帳合の夜は終わり、三週の実験は暮らしへ変わった。
暮らしの拍は、二、二、三で、人の肩の高さに静かに続いた。
朝の帯は少しずつ濃くなり、紙の角はもう、誰の指を待たずに自分で起き上がる準備をしている。
その角に、明日、法の印の呼吸が乗る。
呼吸の数は、灯の下で数えられる。
数えられた呼吸は、紙を人に戻す。
人に戻った紙は、街の骨に従う。
骨は、季節の拍に従う。
そして拍は、ゆっくり、しかし確かに、次の節へ進む。
綾女は瓶の肩に頬を当て、白羽栓の震えを胸の拍に沿わせた。二、二、三。二、二、三。
「——出すよ」
篝の声は低い。
「R、−十二パーセント」
紙の乾いた面に、小さな息がひとつ落ちた。畳の目がそれを吸う。凪雪は椅子の背から手を離し、背の光の線をほんのわずか引っ込めた。輪郭は薄いまま揺れない。
「よく落ちた。内訳」
綾女は障子に貼った地図へ向き直り、香墨の筆で欄外に三つの短い列を書き出す。
語りの配当——読み聞かせと童謡の時間帯で、怒が哀へ遷移。翌日の怒、−一五%。
香りの配当——薬味と香草で、哀の滞留時間が短縮。翌日の哀、−八%。
行列の拍——二拍三連の誘導で、恐が恥へ置換。恥、−二〇%。
点と数字のあいだを糸で結ぶように、綾女は障子面に薄い印を散らす。糸の交点が旋律になり、旋律の厚みが街の“ノイズフロア”を下げる。
「語れ/待て/割るな」——第一週を支えた三行メモは、紙の端で静かに息をしている。
午前、綾女は市場の読み聞かせへ足を運んだ。婆の声は今日も喉の低いところに落ち、物語の最初の一行は“食べ残しの匂い”から始まる。食べ残し——惜しむ気持ち——は怒りの手前で足を止める。怒鳴り声は半音下がり、薄藍の点が天幕の陰でゆっくり増えた。
午後は配水局の行列。肩の灯が二、二、三で明滅し、説明席の欠拍に係が合わせる。窓の下で舌打ちは鳴らない。恥の乾きが湿り、枯草の点は地図の上で色を失う。
夕刻、孤児院の台所では柚が香草を包丁で叩き、胡椒の袋をつまんで匂いを立て、三拍目で鍋へ落とす。欠けの拍の香りは、哀しみの椅子の座面を深く柔らかくする。夜泣きは短い。
第一週の最後の帳合は、紙の上だけで終わらせなかった。篝が小さな鐘を一度鳴らし、庁の前の石段に集まった人たちへ結果を読み上げる。読み上げる——声にする——ことで、数字が街の骨に触る。
「——祟りの発生率は、今週、十二パーセント下がりました。読み聞かせの時間の怒は翌日大きく減り、香りの配当をした地区の哀しみは滞留が短くなりました。窓口の列の“恐れ”は“恥”へ置き換わり、照らされると消えました」
凪雪が横に立ち、押印ではなく白羽を垂直に立てる。人の輪郭は淡いが、白羽ははっきりした芯を持って立っている。人々はうなずき、紙の数字が石段の上で“街のことば”へ変わる。
*
第二週の初日、春配所は動いた。
禁区の空に薄い輪がまたかかり、偽の暦盤が速い雨を落とし始める。雨は、目に見えない角度で落ち、表通りを舐めずに地下へ走る。地下の古い石積み——常夜灯のすぐ下の網——が、半音高く鳴いた。
篝の密偵が旗で知らせる。「速い雨、禁区へ」
綾女は瓶の第三紋の疼きを胸で受け、呼吸の高さを二つ落とした。
「——裏路地配水、回す」
凪雪の声は短く、命令ではなく手順の宣言だった。白羽糸が上空で角度をひとつ変え、路地へ落ちる雨の拍が鈍り、井戸の縁だけが静かに濡れた。
「速い雨」は避ける。避けている時間に、行列と読み聞かせと香りは続ける。
数字は肩で息をするように、−一〇%を維持した。
日暮れ、篝は庁の前で再び短く読み上げる。「維持です」
維持——落ちないことも、街の骨を休ませる。
第二週の中ごろ、配水局の裏口の灯は、もはや“裏”ではなくなっていた。腰の高さでゆれる灯は、近所の子らに「おしごとの灯」と呼ばれ、夜風に油の匂いを薄く残す。
春配所からは「節の調整」の続報が来たが、常世の押印はない。篝は飄々と、達しの読み上げに欠拍を挟み、二拍の沈黙のあいだに「押印なし」を灯の下へ置く。置かれた「なし」は強い。人の耳は「ある」と同じ速さでは「なし」を流せない。
この週、恥は湿り、恐れは遅れ、怒りは薄藍へ沈む。哀しみは鍋と枕の高さで寝かされ、夜の隅で育たない。
*
第三週、反動は静かに来た。
名を偽る小役人たちが、また別の術を持ち出す。身代わり署名。祖父や隣家の名の一部を借り、筆圧だけを本物に似せ、大量の書式に散らす。印影は二重ではない。二重を学んだ彼らは、今度は“同筆別名”を覚えた。
綾女の第二紋は朝から小さく疼き、首筋の内側に薄い熱が溜まっていく。
窓口の列で、篝が受理簿をめくる。
「——同じ“息継ぎ”が別名に散ってる」
凪雪が白羽で紙面の上を軽く叩く。叩く音は人には聞こえない。紙の骨だけが聞く。
「照らしが追いつかない」
恥はじりじりと上がった。
灯の高さを下げても、照らすべき対象が紙の上で増殖する。増殖する恥は、乾きやすく、乾いた端から風に飛ぶ。
綾女は瓶を抱え直し、痛みを言葉にして外へ出す。
「……読み上げ、増やしたい」
篝が顔を上げる。「公の?」
「うん。窓口で、紙の内容を声に出す。名を読む。——声は名を固める。書かれた名を、その場の空気で支える」
凪雪は短くうなずいた。
「やれ。——灯の下で」
昼から、窓口の前に譜面台のような台を置いた。灯は肩の高さ、係が立つ場所のすぐ横。
係は、一枚ごとに名を読み上げる。
「□□町、□□屋、□□殿」
読み上げの拍は、二、二、三。
読み上げの二拍目で、列の人々が息をそろえる。三拍目で名が落ちると、名は紙から離れず、空気の中に“器”として立ち上がる。
小役人の一人が列の中ほどで立ちすくんだ。顔は上げない。耳が、灯の明滅と声の拍を拾い、彼自身の呼吸と衝突する。
身代わりの名は、声で支えると重くなる。重くなる名は、肩に乗らない。乗らない名は、落ちる。
落ちる前に、篝は受理簿の余白に、小さく印を打った。印は二重ではない。ただ、印の外周にわずかな“息継ぎのゆがみ”がある。
「——君の名、今日はおじいさんの呼吸になってる」
小役人は、顔を上げないまま、列を離れた。背中に貼りついた恥は乾かず、灯の下で湿り、剥がれた。
照らしは万能ではないが、声と灯で名を支えると、恥が街のほうへ戻るのが早い。
それでも、第三週のはじめ三日は恥の数が下がりきらなかった。
柚は孤児院の鍋の前で、香りの配当を深めることを提案した。
「孤児院だけじゃ足りない。病院、工房にも香り包みを回そう。匂いを覚えると、嘘の匂いにも敏くなる」
綾女は頷き、香包みの簿記を新しい欄に設けた。
——香橋/病
——香橋/工
香り包みは小さな布袋。乾いた柚子皮、ほんの少しの胡椒、刻んだ青紫蘇。袋の口を糸で結び、夜の枕元や仕事場の棚に吊り下げる。
工房の若い女が包みを胸の前で揉み、笑って言った。
「急いで書くとき、これ嗅いでからにする。匂いが落ち着くと、手が“急がない字”になる」
病院の待合では、老女が包みを耳たぶで挟み、「匂いは孫の名前くらい覚えてる」と言った。
香りと名が結びつくと、人は嘘を嗅ぎ分けやすくなる。簿記の端に記した印は、恥の残留がさらに七パーセント減ることを示しはじめる。
第三週の真ん中、禁区の空は晴れていた。偽の暦盤は昼のあいだ姿を消し、代わりに宮中の香の拍が長くのびる。沈香、樟脳、乳香。匂いはゆっくり届き、言葉より遅い。遅い香りは、灯の下でだけ正体を見せる。
篝は庁前の石段で読み上げを続け、名と法の紙を二拍で遅らせ、三拍目で「常世の押印なし」を置く。置かれた「なし」は重く、重みは街の骨で支持される。
第三週の終わり、数字は意地を見せた。
R、−九パーセント。
あと一歩。
紙の端で小さな“まだ”が立ち上がり、綾女は瓶の温度が上がるのを感じた。熱は怒りではない。悔しさだ。悔しさは、瓶の中で哀しみの椅子の背もたれを叩く。背もたれが鳴ると、椅子は深く座り直す。
「受けて、束ねて、寝かせる」
深呼吸で寝かせる。寝かせることは、諦めではない。明日のために夜を厚くする手順だ。
凪雪は、背の光の線を細く立て、いつもより長く黙った。
「——九の週は、速い雨の注入量が二倍だった」
篝が集計の欄外を指で押さえる。「禁区縁の地下、二夜連続で導管が“節”を飛んでる。春配所は数字の盾を厚くしてきた」
「制度の圧に、人力がここまで食い下がった」
凪雪の声は平らで、平らさが支えになった。
「数字は負けではない。見せ札は、できた。——次の武器は、法だ」
綾女は首を上げた。首筋の内側の疼きは、まだ細い針の先ほど残っている。
「名と法。……最後に回すって、言ったけど」
「“最後”は、来る」
凪雪は白羽を一本、灯の前に横たえた。
「三週の約束は守った。数字は街の骨に入った。——次は、骨の外側を正す。紙の節を、灯の下で正す」
*
法へ向けての準備は、数字の言葉で始めた。
篝は帳面の見出しを整え、法欄の赤線の横に小さな印を増やす。印は朱ではない。薄藍。名の色だ。
「“節の調整”通達の読み上げ時刻、場所、灯の高さ、読み手の息継ぎ——全部、記録する」
「数字にするの?」
「数字にする。紙は、数字で晒す。名は、声で守る」
庁の前の石段では、夜ごと、短い集会が開かれた。
語りの婆が物語の前にこう述べる。
「“節の調整”の紙は、今日も押印がなかった。灯の下では“ない”がよく見える。見える“ない”は、祟らない」
人々は小さく笑い、笑いの拍は二、二、三で揃う。
笑いは配当だ。配る場所を間違えなければ、翌朝が痩せない。
配水局の窓口では、公の読み上げが常態になった。係は三人に増え、一人が読み、一人が押し、一人が説明を欠拍で刻む。
身代わり署名の小役人は、三日で列から姿を消した。代わりに、列の後ろに立つ老人たちが、自分の名をゆっくり自分で読み上げた。
「□□、□□。——これは、わしの名だ」
読み上げられた名は、肩の灯の下で重みを持ち、紙の重さと釣り合う。名が正しく座ると、紙は動かない。紙が動かないと、行列は急がない。急がない列は、怒りを育たせない。
香りの配当は、工房と病院で根を張った。
工房の午下がり、作業台の上に置かれた香包みを若者が揉み、紙に顔を寄せる前に一呼吸置く。その一呼吸が、誤記を減らす。
病院の夜、待合のベンチに座る人たちの膝に小さな香袋。鼻腔の奥で香りが拍を刻み、診断の呼び出しで立ち上がる足の速さが少しだけ揃う。揃った速さは、恐れを遅らせる。
簿記は、恥の残留がさらに七パーセント減ることを示し続けた。
柚は台所で笑った。
「匂いが、名の代わりになることはないけれど——名のそばにいてくれる」
*
第三週の最終夜、小部屋に戻る。
障子の地図は、点が増えたわけではないのに、前より深く見えた。点のあいだに薄い糸が見えるせいだった。糸は——語り、香り、行列、読み上げ——この三週で編み上がった目に見えない導線だ。
篝がそろばんを置き、帳面を閉じ、灯の芯を短くした。
「三週連続。Rは、−十、−一一、−九」
数字を口にしたあとの沈黙の質が、第一週と違う。沈黙は厚い。そして、厚い沈黙は、焦らせない。
綾女は瓶の肩を撫で、白羽栓を軽く鳴らす。鳴らした音は部屋の隅へ吸い込まれ、土壁に静かな輪になって残った。
「——明日から、法だ」
凪雪が言った。
輪郭は薄いが、声は硬くない。硬くないのに、曲がらない。
「春配所の印の外周に、古い儀礼の刻みがあった。節の移し替えに使う印だ。——棚の上段を灯で照らす。印の呼吸を、数字で晒す」
篝は頷き、法欄の赤線の下に小さく青い点を打った。
「読み上げの拍、灯の高さ、押印の深さ、匂いの層——全部、表にする。表は、街に見せる。数字を街に渡す」
「名は?」
「灯の下で、返す」
凪雪の声は短い。短いから、遠くまで届く。
綾女は窓の覗きに目をやった。外の薄い夜が、紙の上の数字に触れている。
九で止まった第三週は、負けではない。速い雨が二倍だった週に、九まで落とせた。数字は冷たいけれど、冷たいまま肩で支えられる。支えられた数字は、法の前で折れない。
瓶は温く、軽い。哀しみの椅子は深い。怒りの小珠は小さい。恐れの糸は細い。恥の乾きは湿っている。
足りない一は、明日の灯と声と紙で埋めるのではない。——紙の節を正すことで、いずれ溝ごと浅くする。
「三週の実験は、ここまで?」
綾女が問う。
「実験は、もう“暮らし”だ」
篝が笑った。
「暮らしの簿記は、続く。法を正すための証文として」
凪雪は椅子から立ち上がり、肩の高さで灯を抱いた。
「急がぬ。急げば、次季が痩せる。——だが、歩みは止めない」
白羽が灯の火をわずかに揺らし、陰影が障子の地図に薄い波を走らせる。
波は、街の拍だ。
拍は、数字の骨だ。
骨は、法の器だ。
器は、名を座らせる。
名が座れば、紙は動かない。
小部屋の扉を開けると、廊下は夜の真ん中で息を潜めていた。肩の灯を抱え、篝は帳面を脇に、綾女は瓶を胸に。
廊下の先、庁の玄関先に、柚が立っていた。小さな灯を両手で抱いて。
「——貸し出し、続けるよ」
柚の灯は、夜泣きを止める明滅で二、二、三。
綾女は頷き、凪雪の横顔を見た。輪郭は薄い。けれど、その薄さは、街の夜を通すための薄さだ。
薄くなることを選べる強さを、綾女は初めて羨ましいと思った。羨ましさは嫉妬ではない。自分の椅子に深く座るための、ほんの少しの伸び。
夜の終わりの手前、庁の前の石段で、三人は一度だけ立ち止まった。
風は、沈香と樟脳を抱いて通り、乳香の息継ぎでわずかに途切れる。
香りの拍は、明日も測れる。
紙の節は、明日から正す。
数字は、街に身を置いた。
声は、名を固めた。
灯は、礼になった。
——そして、春は急がない。急がせない。急がせる者の言葉を、灯の下で遅くする。
帳合の夜は終わり、三週の実験は暮らしへ変わった。
暮らしの拍は、二、二、三で、人の肩の高さに静かに続いた。
朝の帯は少しずつ濃くなり、紙の角はもう、誰の指を待たずに自分で起き上がる準備をしている。
その角に、明日、法の印の呼吸が乗る。
呼吸の数は、灯の下で数えられる。
数えられた呼吸は、紙を人に戻す。
人に戻った紙は、街の骨に従う。
骨は、季節の拍に従う。
そして拍は、ゆっくり、しかし確かに、次の節へ進む。



