週のちょうど真ん中、夜は紙の匂いを濃くして立ち上がる。誓約庁・東棟奥の小部屋。土壁は昼より低いところで冷たく、机の角は指の節と同じ形にすり減っている。窓というほどの窓はなく、高いところの覗きから夜が細い帯になって入る。綾女はその帯の下に立ち、障子に地図を貼った。表の地図は街の骨、裏の障子は街の皮膚。どちらも、拍を通す。

 香墨の蓋をひらく。柚子皮をすこしすり、沈香にかけて練った墨は、黒いのに透けていて、筆が触れると音がする。紙の音。紙の音は、骨に似ている。

「——いくね」

 綾女は筆先を整え、障子の上に四色の点を打ち始める。怒は朱、哀は薄藍、恐は鼠、恥は枯草。四つの色は街の四つの呼吸みたいに見え、点の密度は旋律に変わっていく。市場の天幕の下に朱が集まり、夕暮れの同じ場所にだけ薄藍が差す。寺子屋は午から暮れにかけて鼠が枯草へ移り、夜には薄藍がその上に座る。

 篝が帳面を小脇に抱え、障子の前に並んだ。そろばんの玉はまだ動かない。動かす前に拍を聞く。数字は拍のあとから来て、先を越すと噓が混じる。

「市場、怒が強いけれど、夕餉前の読み聞かせで哀が増えて、怒が落ちる」

 綾女が指で薄藍の点をなぞる。
「寺子屋は……恐→恥→哀。恐れが教室の壁で乾いて恥になって、夜の物語でやっと沈む。——儀礼や物語が、音を変える証拠だ」

 欄外に三行メモを書く。
 語れ/待て/割るな。
 語り=物語の配当。待て=拍の導入。割るな=列を割らぬ。
 三つの短い言葉を、綾女は声にしない。声にしないのに、部屋の空気は頷く。短い言葉は、灯に似ている。高く上げるとすぐ疲れ、肩の高さでよく働く。

 凪雪は椅子に腰をかけ、背の光の線を半分だけ見せている。輪郭は時折ゆらぎ、ゆらぎが現れては消える。疲労は隠さない。拍は壊さない。その間に居るひとは、安心する。

「配当で癒える群の比率を上げろ」

 凪雪がささやく。声は障子の紙目を一度撫でてから、綾女の耳に届く。
「名と法に頼る介入は、要所にのみ。——三つ目を思い出せ」
 春を急がぬ。急げば、次季が痩せる。
 綾女は頷き、白羽栓を指先でつまむ。拍は整っている。けれど、街のどこかに速さが残っている。残っている速さは、紙面に風穴を開ける。

 帳合は、各観測点からあがってきた符号を合算し、偏りを見つける夜だ。そろばんの玉がやっと鳴りはじめ、墨の点が行の上で音符になる。怒の小節は短く、哀の小節は深く、恐の小節はふらつき、恥の小節は乾いている。乾いた小節は、灯を下げると音が出る。

「禁区縁、怒と恐がまだ高い」

 篝が玉を止める。
「でも“最初の一言”は遅くなった。欠拍が効いている。噂の形を作る二言目が出ない夜が増えた」

「読み聞かせは——」

「続ける。語りは遅い。遅さは祟りを弱らせる」

 綾女は障子の隅に、薄藍の点をひとつ増やす。子どもの耳の高さは、灯より低い。低いところに置く言葉は、骨に届く。

 地図が埋まる。点の群れは旋律を越えて模様になり、模様の隙間から街の癖がのぞく。水は低いところへ行く。怒りは狭いところへ、恐れは暗いところへ、恥は高すぎる灯の下へ、哀しみは椀の底へ——それぞれの溜まりへ。

「——寝かせ、やる」

 綾女は言って、瓶を胸に抱えた。白羽栓をわずかに差し込み、呼吸を十二拍まで伸ばす。四、八、十二。
 受けて、束ねて、寝かせる。
 瓶の中で、哀しみの層が沈み、怒りの泡は小珠になる。恐れの揺れは糸を細くし、恥の乾きが少し湿る。瓶は軽くなる。軽くなると、床のわずかな傾きが分かる。人は、軽くなると、世界の重さを知る。

 代償は早く来た。舌の上の塩が遠のき、粥の輪郭が白紙みたいになる。香りは生きている。生きている香りは、舌のかわりに喉を導く。器を持つ手の温度で味を確かめる術を、綾女はもう覚えてしまった。覚えた術ほど、哀しい。

「大丈夫だ」

 凪雪が短く言う。
「寝かせは深いほど効く。——戻す手順は、あとで作る」

「戻す手順まで考えてくれるの」

 問いは皮肉ではない。礼の確認だ。
「考える。お前が“戻らないまま進む”ことは、拍を壊す」

 篝は帳面を閉じ、墨の蓋をしてから、障子を一枚すべらせて開けた。夜の空気が細く入る。香墨の匂いが少し薄まる。
「帳合はここまで。——明朝、集計を出す」

 綾女は最後に点をひとつ打ち、筆を置いた。障子の地図は、夜の端の光を受けて微かに息をしている。点の呼吸はゆっくりで、眠らない。眠らないのに、目立たない。

     *

 翌朝の光は、覗きの帯の形を保ったまま少し濃く、机の上で紙の角を起こした。篝がそろばんを弾き、綾女が符号を落とし、凪雪が背の羽線を細く立てる。

「R、−9%」

 篝が静かに読み上げる。
 目標の−10%に、あと一歩。紙の角がひとりでにもう少し起き上がりたそうに見え、綾女は指で押さえた。押さえるのは、焦らないための手付きだ。

「——よく落とした」

 凪雪は褒めない。けれど肯定する。肯定は、灯に似ている。高く上げない、肩の高さで。

「あと一歩、哀しみの層をもう一段寝かせられれば」

 綾女が言いかけたところへ、戸口で足音。篝の見習いが息を切らして紙束を抱えている。
「春配所から——『節の調整』。三日分繰り上げて試算、との達し」

 紙の匂いは調合。沈香、樟脳、乳香。浅い古さを装う香りだ。
 文面は短い。短い言葉は強い。強い言葉は、拍を奪うためにある。
 篝が紙を灯の下へかざし、印影の外周を一呼吸で撫でた。
「常世側の押印、なし。——法欄に赤」

 綾女は簿記帳の「法」欄に赤線を引いた。赤は好きではない。好きではないが、必要だ。必要だからこそ、細く引く。
 春の配当を三日分繰り上げて試算——言い換えられた早取り。今、街の肩の高さで積んでいる静かな数字を、上から押し潰す力の言葉。

 綾女は悩み、凪雪を見る。
 凪雪は頷き、声を低く落とした。
「名と法の矯正は、最後に回せ。まず配で——三週の約束を守れ。数字を積め」
 数字が世論を引き寄せる。−10%×3週——見せ札。
「灯の下で紙を遅くする。遅くしているあいだに、数字を街の骨へ降ろす」

「——うん」

 綾女は瓶を胸に抱え直した。白羽栓が鳴り、二、二、三。
 哀しみは寝かせる。怒りは削る。恐れは遅らせる。恥は湿らせる。
 紙は遅らせる。
 名は——返す。
 法は——晒す。
 順番は、崩さない。

     *

 帳合の続きは、街でやる。
 午前の市場。読み聞かせの時間が始まる前、綾女は語り手の婆と目を合わせた。婆は喉の高さを一度下げ、声の拍を二、二、三に整える。
 物語は、飢えの話から始めない。飢えの前に、香りの話を置く。柚子皮の匂い、雨の前の土の匂い、干した布の陽の匂い。匂いの記憶は、言葉より早く骨に届く。骨に届いたものは、すぐ怒りの椅子に座らない。
 薄藍の点が市場の地図に増える。朱は、昼より淡い。

 寺子屋。
 先生は恐れを教えるのがうまい。恐れの話を「してはいけない」で終わらせず、「どう待つか」で終わらせる。待つための手の置き場所、目の焦点、息の長さ。三つを教えると、恐れは乾かず、恥に化けない。
 枯草色の点は薄くなり、鼠の点が小さくなる。夜の物語で薄藍が重なる。

 配水局。
 裏口の灯は低く、表の灯は肩の高さでゆらぐ。窓口の説明書には欠拍の印がついていて、係の声は速くならない。
 春配所の「節の調整」は、読まない。読まないのではない。——遅く読む。
 読んだあとに二拍の沈黙を置き、三拍目で紙のどこを灯にかざすかを指で示す。指の示す先に押印欄がないことを、列の前の老女が最初に見つける。
「印が、ないねえ」
「ないから、動かないのよ」
 人の言葉は、官の言葉よりゆっくり強い。ゆっくり強いものは、街の骨に残る。

 禁区縁。
 噂の“最初の一言”は、昨夜よりさらに遅い。二言目が出ない夜が三度続いた。
 篝が三角網の旗を一度たたみ、井戸の縁に引っ掛ける。旗は鳴らない。鳴らない旗は、夜の沈黙を守る。

     *

 夕方、帳合の第二部。
 障子の地図に新しい点を打つ。朱は薄く、薄藍は深く、鼠は丸く、枯草は湿っている。
 欄外に、また三行。
 語れ——香りを連れて。
 待て——二拍の椅子を置け。
 割るな——列も、言葉も。
 綾女の筆は迷わない。迷わない筆は、迷う人のために空白を残す。空白は、灯のためにある。

 凪雪が背の線を少しだけ畳み、椅子の背を両手で押さえた。
「哀しみをもう一段」
「夜に、深く寝かせる」
「味は——」
「香りで――」
 言葉の端が重なり、そこで止まる。止まることを恐れないのは、拍を信じているからだ。止まった先に、夜がある。

     *

 夜半。
 寝かせを一段深く試す。
 白羽栓をいつもよりわずかに深く差し込み、綾女は呼吸の起伏を十二拍から十五拍へ延ばした。四、八、十二、十五。
 受けて、束ねて、寝かせる。
 哀しみの椅子が、底のほうで音を立てずに深く座る。座り方が深いと、翌朝の起き上がりが遅い。それでいい。遅い起き上がりは、祟りを作らない。
 怒りの小珠は、光を吸っている。吸った光は、灯のほうへ返すと速く消える。返す場所を間違えないように、栓の震えを掌で受ける。
 恐れの糸は細くなる。細い糸は切れやすいが、切れる前に香りで結べる。
 恥の乾きは、肩の灯で湿る。湿った恥は、夜のうちに影をやめる。

 綾女の舌はますます遠くなり、塩の位置は地図から消えた。かわりに鼻が敏くなり、紙の古さと墨の若さ、夜風の湿りと灯の油、遠くの土の匂いまで層をなす。層は、瓶の中の層と重なる。重なった層は、眠りの前に一度だけ呼吸を合わせる。

「戻す手順は、明日から作る」

 凪雪の声は遠く、小さな灯のうしろから聞こえる。
 戻す手順——塩の位置を地図に戻す術。香りで作った橋に、味の薄い板を数枚渡す術。
 綾女は、うなずくだけにした。うなずくのは、約束ではない。拍の確認だ。拍は嘘をつかない。

     *

 夜明け。
 覗きからの帯が濃くなり、障子の薄藍が朝の白に薄まる。篝がそろばんを弾き、紙が薄い音を立てる。綾女は簿記帳の見出しを撫で、法欄の赤線が乾いたのを確かめる。
 Rは、−9%のまま。
 春配所の紙は、読むたびに遅くなる。灯の下で遅くなり、遅くなった紙は言い訳の力を弱める。
 今日の仕事は、数字を骨へ降ろすこと。——二週目の中夜、帳合の夜は、まだ続く。

 午前、寺社の香の棚に小袋を並べる。乾いた柚子皮、少しの胡椒。香りを高くして、三拍目で落とす。匂いの簿記を欄外に追記する。香橋/寺。香橋/孤。香橋/路地。
 午後、配水局前。列は二、二、三で進み、裏口の灯は腰の高さで揺れ、もう“裏”ではない。
 達しの読み上げは、欠けの拍で行われ、二拍の沈黙が列の怒りを寝かせ、三拍目に「常世の押印なし」が淡々と置かれる。置かれた言葉の重さで、舌打ちは喉へ戻り、恥は湿って影をやめる。

 帳合の夜へ戻る。障子の地図は、昨日より淡く、昨日より深い。点は増えていないのに、密度が変わっている。密度は、夜に育つ。夜の密度は、朝の速度を遅くする。遅い朝は、春を急がない。

 綾女は筆を取り、欄外に短く記した。
 ——三週。
 数字で街を護る。
 灯で数字を護る。
 歌で灯を護る。
 名は最後に返し、法は最後に晒す。
 順番は、拍。

 凪雪が背の光の線を静かに引っ込め、椅子の背から手を離した。輪郭は薄いが、滲みは短い。短い滲みは、灯の高さの賜物だ。
「——行こう」
 それだけ言って、彼は立ち上がる。
 綾女は瓶を抱え、白羽栓を胸の前で軽く鳴らす。二、二、三。
 篝は帳面を閉じ、灯を肩で抱いた。肩で抱く灯は、礼になる。礼は、数字を冷たくしすぎない。冷たくない数字は、街に着るものになる。

 廊下の先、配水局の方角に薄い匂いが流れた。沈香、樟脳、乳香。春配所の調合。
 匂いは遠いのに、拍は近い。
 拍が近いかぎり、紙は遅くできる。
 遅くした紙の向こうで、三週の約束は静かに積まれていく。
 積み上がった数字は、見せ札になる。
 見せ札は、灯の下でだけ輝く。
 そして、灯は、肩の高さでいちばんよく働く。

 帳合の夜は終わらない。
 終わらない夜は、悪い知らせではない。
 ——次の朝のための、ゆっくりした息だ。