朝の配水局は、夜の端をそのまま巻き取って開庁したみたいに、眠気の端切れを手すりにぶら下げていた。門前の石畳は露で暗く、列はすでに蛇の骨のように折れ曲がって路地の角を二つ越えている。
 綾女は肩で抱く小灯の火を確かめ、白羽栓の震えを胸の拍に合わせた。二、二、三。二、二、三。瓶の底で怒りの椅子が軋むたび、栓が短く鳴る。鳴る音は人には聞こえないが、列の背筋は、灯の明滅だけでわずかに緩む。

「入口、こちら——」
 篝が木札を掲げ、動線図を広げる。墨の線は、列の曲がり角の先でふいに解け、二筋に分かれてまた合流する。
「窓口、二つに分けます。押印はこちら。説明はこちら。足元の白い印に合わせて、二拍歩いて一拍止まってください。二、二、三の合図で進みます」

 合図の旗が左右に揺れ、若い役人が半歩遅れて同じ動きをなぞる。
 凪雪は建物の影に立ち、背の白い羽線をほとんど見えないほど細くして、行列の“息継ぎ”だけを作った。人の姿の輪郭は時折ゆらぎ、ゆらぎが現れてはすぐ消える。拍は崩れない。崩れないから、列の前のほうにいる老人の顎の角度が、ゆっくり下がっていく。

 押印卓のうしろに小灯を置く。肩の高さ。灯は見世物にしない。抱かれる灯は、待ち時間を“待てる時間”に変える。
 説明席は灯の外に出した。説明は、言葉が長くなる。長い言葉は、灯の下だと眠くなる。灯の外なら——眠らせない遅さを保てる。篝が用意した説明書には、欠けの拍の印が薄く入っている。二拍沈黙、三拍目で要点。二、二、三。窓口の係に渡すと、彼は指でその記号を撫で、「拍、ね」と小さく繰り返した。

 列の先頭に、濡れた帽子の中年男が来た。手の上の書類は端が波打ち、朱の色が浅い。
「押印、こちらです」
 綾女が声を掛けると、男は一瞬、肩をすくめてから椅子に腰を下ろした。肩の灯が彼の横顔の骨を浅く照らし、恥の乾きに薄い湿りを置く。
「昨日はここで、三回も戻されたんだ」
「二拍待ってください。——いま、名の読み上げをします」
 綾女は欠けの拍で一呼吸置き、紙の上の名を灯の下で正確に辿った。押印の面に朱を取り、深さを合わせて一度。灯が朱にすっと深みを与え、紙の表でにじみが吸い止められる。男の喉の筋が、ほっと沈む。

 午刻(ひる)前、列の動きは予定より滑らかだった。舌打ちの数は目に見えて減り、怒鳴り声は半音落ちて、怒りは瓶の口で長く跳ねない。
 綾女は羊皮紙の小片に符号を記し、帯に差した。
 ——窓:怒り-(押印/灯)
 ——窓:恐れ-(説明/欠拍)

「午のあと、様子を見る」
 篝が旗をたたみ、脇に置いた。
 凪雪はうなずき、ひとつ大きめの息継ぎを列に流す。息継ぎは目に見えないが、子どもに手を引かれた母親が無意識に歩幅を合わせ、列の角にいた老女が腰の位置を直す。拍は、街の骨へ染みる。

     *

 午後。
 数字は良好——のはずだった。

 裏口で、わずかな人の流れが横切り、列と交わらずに建物の腹へ吸い込まれていく。衣の裾が乾いている。雨上がりの道を歩いていない脚。
 若い職人がひそひそ声で言う。「あれ、“春前借り専用”だ」
 綾女の第二紋が、微かな痛みで反応した。
 裏列。表口の拍を盗まない静かな足音。静かな足ほど、遠くで大きな音を作る。
 篝はすぐに裏手へ回り、扉と壁の継ぎ目を見た。新しい鉋の匂いと、薄い香。沈香に樟脳。乳香——宮中の調合。
 扉の内側で、もう一つの窓口が立っている。粗末な卓の上に、見慣れない札。
「暦盤券」
 篝が目だけで読み取って戻る。
「春前借り用の偽券。印影は二重。紙は——麹紙を薄めている。表口では二拍三連で整えているのに、裏で“速い雨”を通す別の拍が走っている」

 綾女は帳簿の「滞留」欄に、逆流の印を付けた。
 滞留とは、公式の列で生じた静けさが、裏列の音に吸われる現象。音は拍で伝わる。ひとつの嘘は、百人分の苛立ちに変換される——数字はそれをはっきり示すはずだ。
 白羽栓が掌で短く鳴る。瓶の中の怒りの椅子がぎし、と動き、恐れの椅子が浅く揺れる。
「見せる」
 凪雪が建物の影から出た。輪郭は薄く、しかし人の高さに立つ。背の羽線は、灯の芯のようにほそく、まっすぐ。

 篝が受理簿を抑え、表窓口へ戻ると同時に、裏口の卓に手を伸ばす。
「窓口の分割は、庁の通達にない。——裏列の受理は無効です」
 役人が二人、紙を抱えたまま立ち上がる。
「現場判断だ。表の列が捌けないから、特例で——」
「特例は、灯の下で決める」
 凪雪の声は高くない。高くないのに、天井の梁を一度撫でてから、人の耳に落ちる。
 綾女は、窓の前に立つ群衆の中で、第二紋の疼きを言葉にした。
「その承認印、筆ヤセが一昨日と違う。墨が軽い。押し手が“息継ぎ”をしていない」

 ざわめきが静まり、列の怒りが恥に移る。
 恥は乾いて消える性質——照らされると、早く消える。
 篝が受理簿を開き、印影の拓本を二枚、凪雪の白羽に重ねる。
「二重印影。上は今日、下は一昨日。——押印者、同一を偽装」
「春配所の私印を——」
 役人の声は細くなり、言い終わる前に片手が印籠を隠した。
「裏列、解体します」
 凪雪が宣言した。
 その一言のあと、灯の明滅が二度だけ速くなり、すぐに元の二、二、三へ戻る。速さに慣れてしまう前に、速さを終わらせる。終わりを教える拍は、列を立ち直らせる。

 裏へ回っていた十数人が、ばつの悪さを背中に貼りつけて表口へ戻ってくる。
 怒りは、背中に貼られた恥の紙で音をなくし、乾いた紙は、灯の下で静かに剥がれて落ちる。
 綾女は瓶の口を押さえ、哀しみの薄い層を指で整えた。哀しみは、怒りのあとに残る。残った哀しみを寝かせないと、夜に祟りへ育つ。
「受けて、束ねて、寝かせる」
 小さく唱え、白羽栓の震えを胸に入れる。息が整う。列の足音が揃う。揃った足音は、嘘を許さない。

     *

 夕刻、一次集計。
 誓約庁の奥の小部屋に戻ると、土壁のひんやりが昼より深い。窓の覗きから入る光は細く、羊皮紙の上の数字はまだ濡れた魚の目のように生きている。
 篝がそろばんを弾き、綾女が符号を表に落とし、凪雪が背もたれに指を置く。
 祟りの発生率
𝑅
R は、基準0から見て

4
%
−4%。
 初日としては上々だが、目標の

10
%
−10% には届かない。昼の裏列の逆流が、数字の足首を掴んでいる。
 綾女は瓶の温度を測り、哀しみの層に指をそっと入れた。
「……哀しみの層を、もっと深く寝かせる必要がある」
 怒りは灯で削れる。恐れは説明で遅くなる。恥は肩の高さで湿らせられる。
 哀しみは——配当で薄められる。
 物資ではなく、匂いで。
「孤児院へ香りの配当を広げる。市場の香草を回し、粥に混ぜる。味覚の戻らない人でも、匂いで食べられるように」

「香りの簿記も付けよう」

 篝が新しい羊皮紙を繰り、欄の隅に小さく「香橋」と記した。
「配当の香り——香の種類と、出た拍の変化。香は数えにくいが、拍は数えられる」

 凪雪が短くうなずき、背の羽線を一度だけ光らせた。輪郭は薄いままだが、滲みは短い。
「香は礼になる。礼は、急がない」

     *

 夜、孤児院。
 柚が大鍋の前で、刻んだ香草を両手ですくっては落とす。香りは立つが、色は薄い。色の薄い香りは、器の欠けを隠さない。隠さない代わりに、橋になる。
「今日も貸出?」
「灯は二つ。窓口と、寺社の棚に」
 柚は笑って、香草を鍋へ散らした。「灯は抱かれるのが好きだから」
 綾女は笑い返し、籠から小袋を出した。乾いた柚子皮、少量の胡椒。
「匂いを高くして、後で落とす。二、二、三」
「拍の香りだね」
 柚は匙で鍋を混ぜ、欠けの拍を鍋の内側で作った。二拍で香りを立て、三拍目で沈める。しゃもじが鍋肌に当たる音が、夜の台所に薄いリズムを刻む。

 粥をよそうと、器の前で子が鼻をひくつかせた。
「匂う」
「匂うよ。食べられる」
 柚が匙を差し出し、綾女は瓶の蓋に軽く触れた。哀しみが椅子を引き、深く座る。座る場所を間違えなければ、夜泣きは短い。
 孤児院の壁にかかる灯は、低い。肩より少し下。灯が低いと、恥は影に追い込まれない。
 綾女は欄に符号を足した。
 ——孤:哀しみ-(香橋)
 紙は匂いを覚えないが、匂いは紙の縁を柔らかくする。柔らかい縁は、朝にめくる指を傷つけない。

     *

 戻る途中、誓約庁の門前で、篝が駆け寄ってきた。
「宮中——春配所から、達し」
 紙は薄く、匂いは調合。沈香、樟脳、乳香。
 文面は短い。
 〈節の調整〉
 ——それだけ。
 文末の署名は、私印。太政でも庁でもない。
 綾女の第二紋が鈍い痛みで反応し、首筋の内側に熱が溜まった。
「節の調整。……“前借りの再開”を、言い換えている」
「“現場判断”の上書きだ」
 篝は眉をしかめ、紙を灯の下にかざした。薄い陰影の中で、印影の隙間に細い線が走る。
「印の外周に、古い儀式用の刻みがある。“節の移し替え”に使う印。——棚の上段から動かした」

 凪雪が紙に触れず、白羽を一度だけ紙面の上で揺らした。
「燃やさない。灯の下で晒す」
 灯は、礼。
 礼は、急がない。
 急がせる紙は、灯の下でだけ、遅くなる。遅くされた紙は、紙のふりをやめる。

     *

 その夜更け、東棟の小部屋に戻り、三人で机の角に肘を置いた。
 一次集計の表は、薄い波を保ったまま机に伏せられている。
 綾女は瓶の肩に頬を当て、白羽栓の震えを数えた。四、八、十二。
 怒りの椅子は低く、恐れの椅子は小さな揺れを続け、恥の椅子は湿っている。哀しみの椅子は——深く座り直した。
 数は

4
%
−4%。
 灯は、消えない。
 裏口の逆流は見つかった。
 名は、晒されつつある。
 次は、節——暦の骨のほう。

「明日、裏列の通路を塞ぐだけじゃ足りない」
 篝が言う。「“節の調整”の言葉のほうを遅くする。達しの読み上げに欠拍を挟み、読んだ者の呼吸の位置を数字に記す」
「読まれる言葉の拍を簿記に載せるのか」
「載せる。言葉にも“滞留”がある。言い換えた“節”がどこに溜まるか、棚と人の喉の両方で測る」

 凪雪は、背の羽線を半分だけ引いた。輪郭がわずかに薄れ、すぐ戻る。
「春配所は、紙の上で季節を運用する。——紙の上で、季節は運べない」
 短い言葉に、部屋の空気の鋭さが少し削れた。
 綾女は筆をとり、欄の隅に小さく書く。
 ——“達しの拍”/“読みの息継ぎ”/“灯の高さ”
 数字だけで戦わない。
 歌と灯で、紙の速さを遅くする。
 遅くされた速さは、恥に変わる。
 恥は、湿らせて、消える。

「孤児院の香り配りは、明朝から広げよう」

 綾女が言うと、篝は頷いた。
「寺社の棚にも置く。香は、骨に近いほうが効く」
「香は礼だ」
 凪雪がそれに重ねる。
「礼は、配当の外側を温める。外側が温まると、内側が焦らない」

 焦らない。
 焦らせない。
 ——春を急がない。
 白羽栓が短く鳴り、綾女の胸の奥で水が一度だけ揺れた。
 揺れた水は、井戸の底で遅い音を立て、机の上の紙の角をほんの少し起こした。
 起きた角は、朝の指に取りやすい。

     *

 夜半、庁の廊下を風が通る。
 灯を抱えた小さな影が二つ、配水局の裏手へ向かった。篝と、見習いの若者だ。
 裏口の扉に、低い位置で小灯を吊るす。肩の高さよりさらに下、腰の位置。
「これで、“裏口”は裏ではなくなる」
 篝は笑い、灯の明滅を二、二、三へ合わせた。
 灯に照らされた扉の木目は、昼間より古く見えた。古く見えるものは、礼に従いやすい。礼に従う扉は、勝手に開かない。

 遠く、禁区の空がわずかに白む。偽の暦盤の輪郭は夜の端で薄れ、代わりに宮中の香の拍が長くのびる。
 明日は、香と拍と灯で紙を遅くする。
 遅くなった紙は、言い訳に使えない。
 言い訳に使えない紙は、ただの紙になる。
 ただの紙は、灯の下で数えられる。

     *

 夜の終わり、綾女は小部屋の床に横向きに身を置いた。
 瓶は胸に、白羽栓は掌に。
 四。
 八。
 十二。
 栓の震えは、今日は少し長い。長くても、乱れない。
 瞼の裏で、裏口の灯が二、二、三と明滅し、孤児院の鍋の香りが二、二、三で立っては沈む。
 数字は −4%。
 “まだ”は、灯に任せる。
 明日は、“節”の拍を記す。
 達しを読む喉の高さを、紙の端に小さく写す。
 写した高さに、礼を置く。
 礼の下で、名は守られ、数は光り、春は急がないまま進む。

 窓の覗きに早い青が差し、白砂の表面を軽く撫でていく。
 綾女は目を閉じたまま、胸の奥で一句だけ、欠けの拍を置いた。
 ——二、二、三。
 置かれた欠けは、朝の最初の一言のための席を空けた。
 その席は、誰のものでもなく、街の骨のためのものだ。
 そして、朝が来る。
 逆流は見えた。
 見えたものは、灯の下で薄くなる。
 薄くなった嘘の向こうに、配当すべき水と香りと名が、ゆっくり、整って並ぶ。