夜と朝のあいだの色が、白布に沈み込んでいた。
常世の誓約の間は四方の柱に金糸が縫い取られ、薄青の空気のなかで、糸だけがかすかに息をしているように見える。白い布の床は冷たくも熱くもなく、足裏の温度を一枚だけ薄くしてくれる。余分な熱や、震えや、迷いが、布目に吸い込まれていく。
台の上に置かれているのは、白羽が三枚と、黒い小瓶がひとつ。黒は潰れて見えるのに、よく見ると、表面に微細な羽毛の凹凸があって、光をやわらかく崩している。
綾女は台の前に立ち、掌を重ねた。ここへ来るまでの道すがら、彼女は何度も「振り返らない」と自分に言い聞かせた。振り返ること自体が悪いのではない。ただ、その瞬間に瓶の蓋が勝手に開き、泣きたい気持ちや、ほどけた記憶が溢れ、歩幅が乱れるのを知っているからだ。
凪雪は、白の衣の上に甲冑の肩をかぶせ、台の向こうに立っていた。甲冑は飾り気がない分、白羽の紋だけが呼吸のたびにわずかに上下する。彼の声は、まだ夜が残る天井の布へ、まっすぐ届く。
「契りは“支配”ではない。 “配当”だ」
言葉は短く、息継ぎは浅いが、確かだった。
「互いに譲り合う、という前提で成立する。——譲るとは、欠けることではない。巡らせることだ」
配当。
綾女は、小さくうなずいた。孤児院で、鍋の底をこそげて配る夜と、米袋の口を結ぶ朝と、どちらも配り方は違うのに、手の温度は同じだと知っている。配ることは、奪うことではない。奪ったように見えるのは、配り方の拍がずれているからだ。
「三つの誓いを置く」
凪雪は台上の白羽に視線を落とし、綾女の目に戻す。
「ひとつ、嘘をつかぬ。
ひとつ、名を奪わぬ。
ひとつ、春を急がぬ」
綾女は、言葉の順だけで胸の内側の棚が静かになるのを感じた。棚板は、いつだって多少たわんでいる。重みが片方に寄れば軋む。いまは、たわみが、ふっと均された。
「嘘は、穢れを乱流に変える。寝かせられるものまで、泡立てて流してしまう。泡立ちは、最初は美しいが、腹はふくれず、喉だけを乾かす」
凪雪の言葉は、鍋のふつふつと似ていた。火加減を知っている人の説明だった。
「名は、器の輪郭だ。輪郭が二重になれば、内側の味が薄まる。輪郭を守るために名がある。名を奪えば、器は形を忘れる」
「春は、配当の節目だ。早取りは、骨を折る。待てば、節は音を鳴らす。鳴った音に合わせて配れば、誰も息を詰めずに飲める」
理(ことわり)の説明は短くて、綾女の腹に落ちた。言葉が腹で立つ感触がする。立った言葉は、背骨を勝手に伸ばす。
凪雪は白羽を一本持ち上げ、綾女の左の掌を取った。
羽は、体温よりも少しだけ温かい。あたたかさは痛みの予告ではなく、眠気の予告に近い。掌の中心に当てられた瞬間、白羽はゆっくり沈んだ。皮膚が薄い水面だとしたら、羽は水よりも軽いはずなのに、沈む。沈みながら、軸が皮膚の下で止まり、そこに「触れる」という小さな事実だけを残した。
痛みは、針先の一瞬ほど。
二本目は鎖骨の上、鼓動に寄り添う位置へ。羽の軸が心拍に合わせて、ごくかすかに震える。
三本目は首筋の白痣の中心へ。そこは、昼間から熱を持っている場所で、羽が触れた瞬間に熱が温度を忘れる。熱が「音」に変わり、痣全体が小さな太鼓になったみたいに、打つ。
世界のざわめきが、急に細かくなった。
耳に入ってくる音は、遠くの市場で値切る声、役所で紙をめくる乾いた音、井戸の蓋の鉄が木を叩くくぐもった音、雨雲が遠いどこかで軋む低い音。音は音として、同じ平面に並ばない。奥行きを持ち、層を成す。層のあいだに、穢れの拍が細い糸のように渡っている。
綾女は、驚きよりも納得を先に覚えた。
自分の身体はもともと、こうした分解能を持っていて、ただ、蓋の位置と開け方を知らなかっただけなのだと、身体が理解したのだ。
世界に、耳が生えた。そういう感じだった。耳は左右ではなく、上下と前後と、もうひとつ「時間」に向けて生えた。
「……こわい」
思わず漏れた自分の声に、綾女は驚く。怖さは、硬い粒になって喉の奥に落ち、さらに、落ちた粒が瓶の底に触れた感触までが、はっきりわかる。
凪雪は、黒い小瓶を持ち上げた。白羽の栓が、蓋に加えられている。栓はほんの少しだけ浮いていて、押せば嵌るし、引けば抜ける自由を残している。
「これは、穢れ瓶だ。お前の器に入りきらぬ分を、一時保管する。だが瓶は、強い感情に共鳴する。暴走するときがある」
黒い瓶が、綾女の手のひらに触れた瞬間、瓶が「ああ」と息を漏らしたように思えた。錯覚かもしれない。けれど、この錯覚は、明日の配膳の失敗よりも大事だ。
綾女は、瓶の重さを掌で量る。重さ自体は軽い。けれど、軽いものほど落としやすいことを、彼女は知っている。軽い惰性で壊れるのは、重さに気づけていないからだ。
指が自然に栓に触れた。押し込むべきか、引き上げるべきかを迷って、凪雪を見る。
彼は視線を落とし、短く言った。
「恐れは、健全だ。恐れを持ったまま、進め」
守られた言葉だった。守られていると感じるのは、指図や命令とは違って、背中全体に布を掛けられたときの温度に似ている。
綾女は、瓶からゆっくり指を離した。栓は半分浮いたまま。浮かせているのは、自分の恐れだ。恐れが栓を支えている。
凪雪は頷き、盃を二つ、台の端から取り上げた。
「常世と現世の水を混ぜた、薄い酒だ」
盃は薄く、縁に白羽の糸が一本だけ通っている。
凪雪は自分の盃を持ち、綾女の盃に触れた。薄い音がして、音が天井の白布に吸い込まれる。
彼は、盃の縁に口を寄せる前に、目を細めた。
「名を奪わぬ誓いを強くするために、名の一部を分かち合う。私は、お前に『雪』の音を返す」
「私は、あなたに……『綾』を返します」
名を口にした瞬間、盃のなかの薄い酒が、温度をひとつ上げた気がした。酒のせいではなく、言葉のせいだ。
綾女は一口だけ飲む。喉は熱くならない。腹も熱くならない。舌の上だけで、温度の輪郭がくっきりした。温度は、味の母親だ。味は、温度に甘える。
凪雪も飲む。
ふたりのあいだで、名の粒が交換された。交換された粒は、奪い合いではなく、置き合いだ。置かれた粒が、器の内側の輪郭を薄くなぞる。輪郭が厚みを得る。
「……よくやった」
凪雪は、ほんの少しだけ表情を崩した。口角が、紙を一枚めくるみたいに上がった。
短い言葉だった。短い言葉は、長い言葉よりも長く残るときがある。長い言葉は意味で埋まり、短い言葉は余白で埋まる。余白のほうが、後から効く。
綾女はうなずき、盃を台へ戻そうとして、ふと視線を扉のほうへ滑らせた。
外の回廊の白布が、風に逆らうように揺れた。普通、布は風の向きに素直に揺れる。逆らう揺れは、揺らす手が別にあるということ。
影がひとつ、白と白の隙間を横切った。
篝だ。記録係の神使。紙の匂いと、墨の匂いと、乾いた指の音。誰かと、低く、短く、言葉を交わしていた。言葉は剃刀の背で撫でるみたいに、布を切らずに布目だけを揺らした。
綾女は、黒い瓶の栓にそっと指を置いた。指先に乗ったのは、恐れだけではない。胸の奥に沈む、ささやかな怒りの小珠が、ゆっくり浮いた。
怒りに触れると、瓶は跳ねる。跳ねる前に、寝かせる。
鼻から息を吸って、数える。四、八、十二。
瓶の内側で、泡立ちが静かに寝た。寝た泡は、また別の層へ沈む。沈むあいだに温度が下がる。
凪雪が、綾女の横顔を見た。
視線は訊ねるでもなく、褒めるでもなく、ただ「いる」と言っている。ここにいる。その事実だけを、視線は伝えられるらしい。
*
誓約の間から出ると、常世の光は一段淡くなっていた。
回廊の端に立つ常夜灯が、規則正しい明滅を刻んでいる。二拍三連——綾女の身体は、最初の夜からこの拍を覚え、いまは身体が先に合う。
篝は柱の陰から出て、軽く頭を下げた。細い指には、薄い帳面が挟まっている。帳面の端が、風でめくれるたび、朱の印影が二重に揺れた。
「式の記録は完了。誓約文、三行、双方押印済み」
篝は、紙の上の事実だけを読み上げる。
綾女は、その事実の上にある「なにか」に首が疼くのを感じた。白い羽根の痣の、中心。
凪雪が篝の帳面を一瞥する。眉が、ほとんど動かない程度に動いた。
「誰かが、常夜灯の外で、印を重ねている」
事実の上の事実を言う。
篝はうなずき、視線を床へ落とした。
「帝都・配水局の受理簿に、春配当前借りの文言——『節の調整』という曖昧な言い換え——が、ここ数週間で増えている。押印の印色は薄く、筆圧の呼吸が揃っていない」
呼吸が揃っていない印は、声を持たない。
綾女は唇の内側を噛んだ。痛みは歯型として残るが、血は出さない。血は、誓約の間には似合わない。
「春を、前借り……」
言葉にすると、喉がきゅっと細くなった。春は、あの孤児院の花壇に芽を出す日付で、鍋の中の塩加減に似ていて、井戸の釣瓶の油の量に似ている。数えられるし、匂いでわかる。
それを、前借りする。
借りたものは返すべきだ。返せるなら、最初から借りない。返さない人は、返せない人だ。返せない人は、返さない言葉で殻を作る。
その殻が、いま帝都の空にかかっている。
「前借りは、骨を折る」
凪雪が、凪のように低く言った。
「骨は、音でわかる」
綾女は、首筋の拍を小さく叩いた。拍は、彼女の指に合わせてから、常夜灯の二拍三連へ戻る。戻り方が、わずかに不安定だ。
篝は帳面を閉じ、襟元を正した。
「白羽起案、右頁第三行『節の停止』の運用試行を、三地区(市場・孤児院・工房)で始める段取りです。公開帳簿、読み上げ、記名の責——準備は概ね整いました」
「概ね、は、概ねだ」
凪雪はすこしだけ目を細めた。
綾女は、彼の横顔の線を見た。線は、鋭くはない。薄い。薄い線は、すぐに折れるように見えるが、折れない。折れないのは、線を張っている力が、外からではなく内から出ているからだ。
「私に、できることを」
綾女は言った。言った瞬間に、できることが胸の棚に現れる。瓶の位置、栓の開け閉め、香りの束ね方、読む声の高さ、合唱の始め方、泣く子の背を撫でる手の温度。
凪雪は頷き、言葉を省いた。省いた言葉のぶん、常夜灯の格子の影が濃くなる。
*
常世の内庭は、朝の光と似た別物で満ちていた。
白砂に小さな円が描かれ、その円の縁に、名を記す札が並べられている。札は麹紙で、湿り気を含むと香りが立つ。香りは、名前の手触りと一緒に記憶に沈む。
綾女は、札の上に鼻を近づけた。香りは、塩の前の匂いがする。焚いた米の蒸気のまわりに最初に立つ匂い。塩は味を立てるが、香りは記憶を立てる。
凪雪は、札の列の端に立ち、白羽の先で札の上を軽くなぞった。どの札も、同じ重さで鳴る。違うのは、余韻の長さだけ。長い余韻は、待つことに似合い、短い余韻は、急ぐことに似合う。
綾女は、余韻の長い札の前で立ち止まった。
「ここに、『待つ』の声を置きたい」
「置け」
凪雪の声は、許可というより、同意だった。
綾女は、胸の中の瓶から、哀しみの薄片をひとかけらだけ摘み上げる。摘み上げる、と言っても、指ではない。息だ。鼻から吸って、口から少しだけ吐く。吐く息が、札の上に、薄く座る。
哀しみは、声とよく結ぶ。怒りは跳ねる。恐れは揺れる。恥は乾く。乾いてしまえば、風で飛ぶ。
哀しみは、座る。座ると、そこが温かくなる。温かくなった場所は、人が座りやすくなる。座りやすくなった場所に、人は座る。
札の上に置いた声は、見えない。見えないものほど、あとで効く。
綾女は息を吐き、首筋の拍を指で確かめた。指が触れた瞬間、拍が一瞬躓き、それから「大丈夫」と言うように整った。
——やれる。
——やり方は、身体が知っている。
そのとき、遠くで、乾いた紙の音がした。
篝だ。紙は、いつもよりも多い。紙が多いときは、紙の一枚一枚の重さが軽くなる。軽い紙は、風に弱い。
綾女は、内庭の縁を回って回廊へ出た。篝の前には、配水局から届いた新しい通達の束が置かれている。束の中ほどに、「節の調整」という文字が、何度も出てくる。文字は確かに美しいが、呼吸がない。
「……これ、読み上げられますか」
綾女の問いに、篝は紙束をひらりと返した。
試しに一節だけ声にする。
——声が、躓く。
躓いた声は、床に落ちて、そこで乾く。乾いた声は、恥と同じだ。誰かが拾ってくれなければ、風で飛ぶ。
綾女は首筋を押さえ、短く吐息を漏らした。白い羽根の痣の中心が、針で刺されたように疼く。
「歌えない文は、場に降りない」
凪雪の言葉は、淡々としている。
場に降りない文言は、天井へ貼り付く。貼り付いた文言は、剥がれ落ちるとき、角で人の額を切る。
「最初の読み上げは、孤児院区でやりましょう」
綾女は、迷いなしに言った。
孤児院の子どもたちは、声で生きている。泣く声、笑う声、呼ぶ声、囁く声。声で呼ばれない名は、名ではない。名前を呼ぶと、器の輪郭が厚くなる。器の厚みは、湯気の温度を変える。
「必要な道具は」
篝は帳面の端に筆を置いた。
綾女は指折り数えた。
「白羽の小旗、読み上げ用の紙、香り包み、返納の黒点のスタンプ、そして……」
「そして?」
「鍋をひとつ。香りを立てる用の」
篝は目を瞬かせ、それから、笑った。はじめて見る笑い方だった。笑うのがうまい人の笑いではなく、笑っていいかどうかを確かめる人の笑いだ。
「鍋、承知」
*
内庭を出ると、常世の風がわずかに強くなっていた。回廊の白布が、さっきより素直に揺れる。
扉の影で、黒い羽根が一枚、裏返った。白い羽根ではない。黒い。
凪雪が、その羽根に目だけをやった。目だけで、足は止めない。
「黒羽(こくう)?」
綾女が問いかけると、凪雪は首を小さく横に振った。
「ただの鳥の落し物だ」
ただ、という言葉は、安心の薬になるときと、油断の毒になるときがある。
綾女は、瓶の栓に指を添え、四、八、十二を小さく数え、油断の粒を寝かせた。
*
最初の夜を越え、常世の朝は淡く光り、帝都の朝は、少しだけ遅れて明るんだ。
孤児院の裏庭では、柚が釣瓶の油を指で確かめている。釣瓶は、今日明日で切れる類のものではない。けれど、切れる前に足りなくなる。足りなくなるのは、油ではなく、手当ての言葉だ。
柚は空を見上げ、誰にともなく呟いた。
「戻る支度は、戻る人にしかできない」
彼女の言葉は、朝の湯気に混じって消えたが、消える前に、一度だけ井戸の縁に触れて、そこに薄く残った。
*
誓約の二日目。
綾女は、常世の回廊で、声を整えていた。声は筋肉だ。筋肉は、いきなり重たいものを持つと壊れる。最初は空の盃を持つみたいに、軽い文から始める。
凪雪は、遠くの門楼で拍を調律し、篝は紙に息を通している。紙は呼吸する。呼吸しない紙は、湿度で黴びる。
綾女は発声のまねごとをしながら、内側の瓶を撫でた。瓶の中では、哀しみが横たわり、怒りの小珠が沈み、恐れがゆっくり揺れ、恥が乾いて脇に寄っている。瓶は、たぶん、今は大丈夫だ。
足音。
振り向くと、篝が駆け足で来る。顔色は変わらず、肩の上下も少ない。無駄のない駆け足。
「帝都、配水局前にて、朝から列。裏口に『春前借り専用』の板札が出たとの報」
綾女の喉が、瞬間だけ固くなる。黒い小瓶の栓が、半拍分、浮いた。
浮いた栓を、息で戻す。四、八、十二。
「……行列の拍を作り直す。前を詰めるための拍ではなく、待つための拍に」
自分で言って、自分の身体が先にうなずいた。
凪雪がどこからか現れ、白羽の小旗を綾女に手渡した。旗は軽い。軽いのに、重さを受け止める形をしている。
「行こう」
*
帝都・配水局前。
列は長い。長い列は、怒りを呼ぶ。怒りは、待ち時間の半分を「怒り」で埋め、もう半分を「怒りの予告」で埋める。予告のほうが疲れる。
板札には、黒い墨で「春前借り専用」とある。墨は新しいのに、文字の息継ぎが古い。古さは、うまさと違う。
綾女は、列の脇に立ち、小旗を掲げた。旗には、白羽の印がある。印は、風で揺れ、揺れ方が常夜灯の拍に揃う。
綾女は声を出した。最初の言葉は、短く、軽く。
「四、八、十二」
列の前のほうで、どこかの子が真似をする。子どもは、理由よりも拍に先に反応する。子の声を合図に、数え声がじわじわ広がった。
篝は、表の窓口へ向かい、受理簿の端を指で押さえ、「読み上げ」を要求した。読み上げは、いちどだけ嘘を止める。声が躓き、文が場に降りない。
裏口の板札の前で、役人が腕を組む。名乗りはしない。名乗らないこと自体が、名を隠す行為だ。
綾女は、板札の墨の匂いを吸い、香りを確かめた。新しい墨に、古い筆の匂いが混じる。筆を持つ手が、今の手ではない。祖父の手。
首筋が、針先でつつかれたように疼いた。
「名を使い回すのは、皿を使い回すのとは違う」
綾女は、役人に向かって言った。
役人は、笑い、笑いの内側で舌を打った。舌の音が、歯の裏で乾いた。
「お嬢さん、現場は現場の判断というものがある」
「判断には、拍があります」
綾女は、返した。
まっすぐなやり取りは、疲れる。疲れは、瓶に沈む。沈めば、後で温かさに変わる。
列の後ろから、誰かが笑った。笑いは、怒りの泡をひとつ潰す。
凪雪は、窓口の内側の押印台を、白羽で軽く叩いた。「二拍」。
押印の音が、二拍に合わない。合わない印は、浮く。浮いた印は、紙から音が外れる。外れた音は、群衆の耳に入って、乾く。乾いた音は、恥だ。
恥は、照らされると消える。照らすのは、灯だけではない。声も照らす。
篝が短く言う。「読み上げ、続行」。
窓口の役人は、紙の文言を読み、二度躓き、三度目に沈黙した。沈黙が場に落ちる。落ちた沈黙は、誰かが拾った。綾女は拾わず、子どもが拾った。子どもは拾い慣れている。床に落ちたものを拾って返すのが、子どもの仕事だ。
列が、遅く進む。遅く進むことが、安堵になることもある。
綾女は、小旗をゆっくり下ろし、代わりに、香り包みを取り出した。包みをほどくと、柑の皮と、焙じた出汁と、青い葉の匂いが、空気の上に薄く座る。
「香りを吸って」とだけ言う。
怒りの泡が、香りの表面で小さくなる。小さくなった泡は、弾けず、寝る。寝た泡の上に、別の泡が乗る前に、拍がひとつ進む。
綾女は、鼻から吸って、口から吐き、四、八、十二、とひとりで数えた。
あの誓約の間で、凪雪が言った「恐れは健全だ」という言葉が、腹の中でまだ温かい。温かい言葉は、冷たい場に向けると効く。
*
夕刻、常世の内庭。
篝は帳面の数字を弾いた。怒り、哀しみ、恐れ、恥——四つの符号の滞留が、前日よりも薄い。黒丸は減り、黒点が増えた。黒点は返納の印だ。人が返す行為は、数字になる。
凪雪は、白羽の栓を掌で転がした。栓は軽い。軽いのに、指に乗せると重みが出る。重みは、持つ意思の重さだ。
綾女は、白羽起案の二頁三行を、声にして読んだ。
嘘をつかぬ。
名を奪わぬ。
春を急がぬ。
読み上げながら、彼女は、言葉が自分の骨の内側へ染みるのを感じた。染みるのは痛みではない。風呂上がりに体温がゆっくり戻る感覚に似ている。
読了の直後、回廊の白布がまた、風に逆らうように揺れた。ほつれた糸が、ひとつ、きらりと光る。
篝が眉をわずかに上げた。
「宮中某局の私印の写しが、配水局を経由して回っています。『返納の代理受領』と。——返す先を国家倉に一本化する案」
返すことを、見えない倉へ。
綾女の胸の瓶が、瞬間だけ揺れた。怒りの小珠が浮かび、恐れが揺れ、哀しみが底で息をする。
凪雪は、白羽の栓を軽く叩いた。「二拍三連」。
拍は、落ち着いた。
綾女は、声を出した。小さく、しかし、はっきりと。
「——なら、もっと、見える場所で返す」
篝は、短く笑った。
明日の段取りが、声の上に組まれはじめた。読み上げ、合唱、香り、鍋、黒点の板、常夜灯の移動、白羽の小旗。
凪雪は、目を細めて、ただ「いる」と言い続ける視線を送った。
綾女は、首筋の白い羽根の痣をそっと撫でた。羽根は、もう痛くはない。痛みの代わりに、音がある。
音は、歩幅だ。
歩幅は、二人で合わせるものだ。
*
夜。
誓約の間に戻る道で、黒い羽根がまた一枚、床に落ちていた。
綾女は拾わなかった。拾わないことも、選ぶことのひとつだ。拾えば、重さが増え、瓶が揺れる。今は、瓶を揺らさずに、寝かせたい。
その代わりに、彼女は、白羽の栓を凪雪の肩に軽く当てた。拍が合う。合う拍は、相手の弱さを隠さない。隠さないことは、恥ではない。
凪雪は、声に出さずに、うなずいた。
明日の朝、帝都の広場で最初の合唱が始まる。その前に、ここで眠る。眠ることは、明日の配当だ。
綾女は、黒い瓶を胸に抱き、白布の上に横になった。瓶の中で、哀しみが静かに座り、怒りの小珠が沈み、恐れの揺れが小さくなり、恥が乾いて隅に寄る。
息を吸い、四、八、十二、で吐く。
眠りに落ちる直前、遠くの井戸の蓋が、そっと鳴った。
——戻る。
——戻る支度は、進むことでしかできない。
綾女は、眠った。拍を抱えて。香りを胸に。三つの誓いを、骨の側に置いたまま。
常世の誓約の間は四方の柱に金糸が縫い取られ、薄青の空気のなかで、糸だけがかすかに息をしているように見える。白い布の床は冷たくも熱くもなく、足裏の温度を一枚だけ薄くしてくれる。余分な熱や、震えや、迷いが、布目に吸い込まれていく。
台の上に置かれているのは、白羽が三枚と、黒い小瓶がひとつ。黒は潰れて見えるのに、よく見ると、表面に微細な羽毛の凹凸があって、光をやわらかく崩している。
綾女は台の前に立ち、掌を重ねた。ここへ来るまでの道すがら、彼女は何度も「振り返らない」と自分に言い聞かせた。振り返ること自体が悪いのではない。ただ、その瞬間に瓶の蓋が勝手に開き、泣きたい気持ちや、ほどけた記憶が溢れ、歩幅が乱れるのを知っているからだ。
凪雪は、白の衣の上に甲冑の肩をかぶせ、台の向こうに立っていた。甲冑は飾り気がない分、白羽の紋だけが呼吸のたびにわずかに上下する。彼の声は、まだ夜が残る天井の布へ、まっすぐ届く。
「契りは“支配”ではない。 “配当”だ」
言葉は短く、息継ぎは浅いが、確かだった。
「互いに譲り合う、という前提で成立する。——譲るとは、欠けることではない。巡らせることだ」
配当。
綾女は、小さくうなずいた。孤児院で、鍋の底をこそげて配る夜と、米袋の口を結ぶ朝と、どちらも配り方は違うのに、手の温度は同じだと知っている。配ることは、奪うことではない。奪ったように見えるのは、配り方の拍がずれているからだ。
「三つの誓いを置く」
凪雪は台上の白羽に視線を落とし、綾女の目に戻す。
「ひとつ、嘘をつかぬ。
ひとつ、名を奪わぬ。
ひとつ、春を急がぬ」
綾女は、言葉の順だけで胸の内側の棚が静かになるのを感じた。棚板は、いつだって多少たわんでいる。重みが片方に寄れば軋む。いまは、たわみが、ふっと均された。
「嘘は、穢れを乱流に変える。寝かせられるものまで、泡立てて流してしまう。泡立ちは、最初は美しいが、腹はふくれず、喉だけを乾かす」
凪雪の言葉は、鍋のふつふつと似ていた。火加減を知っている人の説明だった。
「名は、器の輪郭だ。輪郭が二重になれば、内側の味が薄まる。輪郭を守るために名がある。名を奪えば、器は形を忘れる」
「春は、配当の節目だ。早取りは、骨を折る。待てば、節は音を鳴らす。鳴った音に合わせて配れば、誰も息を詰めずに飲める」
理(ことわり)の説明は短くて、綾女の腹に落ちた。言葉が腹で立つ感触がする。立った言葉は、背骨を勝手に伸ばす。
凪雪は白羽を一本持ち上げ、綾女の左の掌を取った。
羽は、体温よりも少しだけ温かい。あたたかさは痛みの予告ではなく、眠気の予告に近い。掌の中心に当てられた瞬間、白羽はゆっくり沈んだ。皮膚が薄い水面だとしたら、羽は水よりも軽いはずなのに、沈む。沈みながら、軸が皮膚の下で止まり、そこに「触れる」という小さな事実だけを残した。
痛みは、針先の一瞬ほど。
二本目は鎖骨の上、鼓動に寄り添う位置へ。羽の軸が心拍に合わせて、ごくかすかに震える。
三本目は首筋の白痣の中心へ。そこは、昼間から熱を持っている場所で、羽が触れた瞬間に熱が温度を忘れる。熱が「音」に変わり、痣全体が小さな太鼓になったみたいに、打つ。
世界のざわめきが、急に細かくなった。
耳に入ってくる音は、遠くの市場で値切る声、役所で紙をめくる乾いた音、井戸の蓋の鉄が木を叩くくぐもった音、雨雲が遠いどこかで軋む低い音。音は音として、同じ平面に並ばない。奥行きを持ち、層を成す。層のあいだに、穢れの拍が細い糸のように渡っている。
綾女は、驚きよりも納得を先に覚えた。
自分の身体はもともと、こうした分解能を持っていて、ただ、蓋の位置と開け方を知らなかっただけなのだと、身体が理解したのだ。
世界に、耳が生えた。そういう感じだった。耳は左右ではなく、上下と前後と、もうひとつ「時間」に向けて生えた。
「……こわい」
思わず漏れた自分の声に、綾女は驚く。怖さは、硬い粒になって喉の奥に落ち、さらに、落ちた粒が瓶の底に触れた感触までが、はっきりわかる。
凪雪は、黒い小瓶を持ち上げた。白羽の栓が、蓋に加えられている。栓はほんの少しだけ浮いていて、押せば嵌るし、引けば抜ける自由を残している。
「これは、穢れ瓶だ。お前の器に入りきらぬ分を、一時保管する。だが瓶は、強い感情に共鳴する。暴走するときがある」
黒い瓶が、綾女の手のひらに触れた瞬間、瓶が「ああ」と息を漏らしたように思えた。錯覚かもしれない。けれど、この錯覚は、明日の配膳の失敗よりも大事だ。
綾女は、瓶の重さを掌で量る。重さ自体は軽い。けれど、軽いものほど落としやすいことを、彼女は知っている。軽い惰性で壊れるのは、重さに気づけていないからだ。
指が自然に栓に触れた。押し込むべきか、引き上げるべきかを迷って、凪雪を見る。
彼は視線を落とし、短く言った。
「恐れは、健全だ。恐れを持ったまま、進め」
守られた言葉だった。守られていると感じるのは、指図や命令とは違って、背中全体に布を掛けられたときの温度に似ている。
綾女は、瓶からゆっくり指を離した。栓は半分浮いたまま。浮かせているのは、自分の恐れだ。恐れが栓を支えている。
凪雪は頷き、盃を二つ、台の端から取り上げた。
「常世と現世の水を混ぜた、薄い酒だ」
盃は薄く、縁に白羽の糸が一本だけ通っている。
凪雪は自分の盃を持ち、綾女の盃に触れた。薄い音がして、音が天井の白布に吸い込まれる。
彼は、盃の縁に口を寄せる前に、目を細めた。
「名を奪わぬ誓いを強くするために、名の一部を分かち合う。私は、お前に『雪』の音を返す」
「私は、あなたに……『綾』を返します」
名を口にした瞬間、盃のなかの薄い酒が、温度をひとつ上げた気がした。酒のせいではなく、言葉のせいだ。
綾女は一口だけ飲む。喉は熱くならない。腹も熱くならない。舌の上だけで、温度の輪郭がくっきりした。温度は、味の母親だ。味は、温度に甘える。
凪雪も飲む。
ふたりのあいだで、名の粒が交換された。交換された粒は、奪い合いではなく、置き合いだ。置かれた粒が、器の内側の輪郭を薄くなぞる。輪郭が厚みを得る。
「……よくやった」
凪雪は、ほんの少しだけ表情を崩した。口角が、紙を一枚めくるみたいに上がった。
短い言葉だった。短い言葉は、長い言葉よりも長く残るときがある。長い言葉は意味で埋まり、短い言葉は余白で埋まる。余白のほうが、後から効く。
綾女はうなずき、盃を台へ戻そうとして、ふと視線を扉のほうへ滑らせた。
外の回廊の白布が、風に逆らうように揺れた。普通、布は風の向きに素直に揺れる。逆らう揺れは、揺らす手が別にあるということ。
影がひとつ、白と白の隙間を横切った。
篝だ。記録係の神使。紙の匂いと、墨の匂いと、乾いた指の音。誰かと、低く、短く、言葉を交わしていた。言葉は剃刀の背で撫でるみたいに、布を切らずに布目だけを揺らした。
綾女は、黒い瓶の栓にそっと指を置いた。指先に乗ったのは、恐れだけではない。胸の奥に沈む、ささやかな怒りの小珠が、ゆっくり浮いた。
怒りに触れると、瓶は跳ねる。跳ねる前に、寝かせる。
鼻から息を吸って、数える。四、八、十二。
瓶の内側で、泡立ちが静かに寝た。寝た泡は、また別の層へ沈む。沈むあいだに温度が下がる。
凪雪が、綾女の横顔を見た。
視線は訊ねるでもなく、褒めるでもなく、ただ「いる」と言っている。ここにいる。その事実だけを、視線は伝えられるらしい。
*
誓約の間から出ると、常世の光は一段淡くなっていた。
回廊の端に立つ常夜灯が、規則正しい明滅を刻んでいる。二拍三連——綾女の身体は、最初の夜からこの拍を覚え、いまは身体が先に合う。
篝は柱の陰から出て、軽く頭を下げた。細い指には、薄い帳面が挟まっている。帳面の端が、風でめくれるたび、朱の印影が二重に揺れた。
「式の記録は完了。誓約文、三行、双方押印済み」
篝は、紙の上の事実だけを読み上げる。
綾女は、その事実の上にある「なにか」に首が疼くのを感じた。白い羽根の痣の、中心。
凪雪が篝の帳面を一瞥する。眉が、ほとんど動かない程度に動いた。
「誰かが、常夜灯の外で、印を重ねている」
事実の上の事実を言う。
篝はうなずき、視線を床へ落とした。
「帝都・配水局の受理簿に、春配当前借りの文言——『節の調整』という曖昧な言い換え——が、ここ数週間で増えている。押印の印色は薄く、筆圧の呼吸が揃っていない」
呼吸が揃っていない印は、声を持たない。
綾女は唇の内側を噛んだ。痛みは歯型として残るが、血は出さない。血は、誓約の間には似合わない。
「春を、前借り……」
言葉にすると、喉がきゅっと細くなった。春は、あの孤児院の花壇に芽を出す日付で、鍋の中の塩加減に似ていて、井戸の釣瓶の油の量に似ている。数えられるし、匂いでわかる。
それを、前借りする。
借りたものは返すべきだ。返せるなら、最初から借りない。返さない人は、返せない人だ。返せない人は、返さない言葉で殻を作る。
その殻が、いま帝都の空にかかっている。
「前借りは、骨を折る」
凪雪が、凪のように低く言った。
「骨は、音でわかる」
綾女は、首筋の拍を小さく叩いた。拍は、彼女の指に合わせてから、常夜灯の二拍三連へ戻る。戻り方が、わずかに不安定だ。
篝は帳面を閉じ、襟元を正した。
「白羽起案、右頁第三行『節の停止』の運用試行を、三地区(市場・孤児院・工房)で始める段取りです。公開帳簿、読み上げ、記名の責——準備は概ね整いました」
「概ね、は、概ねだ」
凪雪はすこしだけ目を細めた。
綾女は、彼の横顔の線を見た。線は、鋭くはない。薄い。薄い線は、すぐに折れるように見えるが、折れない。折れないのは、線を張っている力が、外からではなく内から出ているからだ。
「私に、できることを」
綾女は言った。言った瞬間に、できることが胸の棚に現れる。瓶の位置、栓の開け閉め、香りの束ね方、読む声の高さ、合唱の始め方、泣く子の背を撫でる手の温度。
凪雪は頷き、言葉を省いた。省いた言葉のぶん、常夜灯の格子の影が濃くなる。
*
常世の内庭は、朝の光と似た別物で満ちていた。
白砂に小さな円が描かれ、その円の縁に、名を記す札が並べられている。札は麹紙で、湿り気を含むと香りが立つ。香りは、名前の手触りと一緒に記憶に沈む。
綾女は、札の上に鼻を近づけた。香りは、塩の前の匂いがする。焚いた米の蒸気のまわりに最初に立つ匂い。塩は味を立てるが、香りは記憶を立てる。
凪雪は、札の列の端に立ち、白羽の先で札の上を軽くなぞった。どの札も、同じ重さで鳴る。違うのは、余韻の長さだけ。長い余韻は、待つことに似合い、短い余韻は、急ぐことに似合う。
綾女は、余韻の長い札の前で立ち止まった。
「ここに、『待つ』の声を置きたい」
「置け」
凪雪の声は、許可というより、同意だった。
綾女は、胸の中の瓶から、哀しみの薄片をひとかけらだけ摘み上げる。摘み上げる、と言っても、指ではない。息だ。鼻から吸って、口から少しだけ吐く。吐く息が、札の上に、薄く座る。
哀しみは、声とよく結ぶ。怒りは跳ねる。恐れは揺れる。恥は乾く。乾いてしまえば、風で飛ぶ。
哀しみは、座る。座ると、そこが温かくなる。温かくなった場所は、人が座りやすくなる。座りやすくなった場所に、人は座る。
札の上に置いた声は、見えない。見えないものほど、あとで効く。
綾女は息を吐き、首筋の拍を指で確かめた。指が触れた瞬間、拍が一瞬躓き、それから「大丈夫」と言うように整った。
——やれる。
——やり方は、身体が知っている。
そのとき、遠くで、乾いた紙の音がした。
篝だ。紙は、いつもよりも多い。紙が多いときは、紙の一枚一枚の重さが軽くなる。軽い紙は、風に弱い。
綾女は、内庭の縁を回って回廊へ出た。篝の前には、配水局から届いた新しい通達の束が置かれている。束の中ほどに、「節の調整」という文字が、何度も出てくる。文字は確かに美しいが、呼吸がない。
「……これ、読み上げられますか」
綾女の問いに、篝は紙束をひらりと返した。
試しに一節だけ声にする。
——声が、躓く。
躓いた声は、床に落ちて、そこで乾く。乾いた声は、恥と同じだ。誰かが拾ってくれなければ、風で飛ぶ。
綾女は首筋を押さえ、短く吐息を漏らした。白い羽根の痣の中心が、針で刺されたように疼く。
「歌えない文は、場に降りない」
凪雪の言葉は、淡々としている。
場に降りない文言は、天井へ貼り付く。貼り付いた文言は、剥がれ落ちるとき、角で人の額を切る。
「最初の読み上げは、孤児院区でやりましょう」
綾女は、迷いなしに言った。
孤児院の子どもたちは、声で生きている。泣く声、笑う声、呼ぶ声、囁く声。声で呼ばれない名は、名ではない。名前を呼ぶと、器の輪郭が厚くなる。器の厚みは、湯気の温度を変える。
「必要な道具は」
篝は帳面の端に筆を置いた。
綾女は指折り数えた。
「白羽の小旗、読み上げ用の紙、香り包み、返納の黒点のスタンプ、そして……」
「そして?」
「鍋をひとつ。香りを立てる用の」
篝は目を瞬かせ、それから、笑った。はじめて見る笑い方だった。笑うのがうまい人の笑いではなく、笑っていいかどうかを確かめる人の笑いだ。
「鍋、承知」
*
内庭を出ると、常世の風がわずかに強くなっていた。回廊の白布が、さっきより素直に揺れる。
扉の影で、黒い羽根が一枚、裏返った。白い羽根ではない。黒い。
凪雪が、その羽根に目だけをやった。目だけで、足は止めない。
「黒羽(こくう)?」
綾女が問いかけると、凪雪は首を小さく横に振った。
「ただの鳥の落し物だ」
ただ、という言葉は、安心の薬になるときと、油断の毒になるときがある。
綾女は、瓶の栓に指を添え、四、八、十二を小さく数え、油断の粒を寝かせた。
*
最初の夜を越え、常世の朝は淡く光り、帝都の朝は、少しだけ遅れて明るんだ。
孤児院の裏庭では、柚が釣瓶の油を指で確かめている。釣瓶は、今日明日で切れる類のものではない。けれど、切れる前に足りなくなる。足りなくなるのは、油ではなく、手当ての言葉だ。
柚は空を見上げ、誰にともなく呟いた。
「戻る支度は、戻る人にしかできない」
彼女の言葉は、朝の湯気に混じって消えたが、消える前に、一度だけ井戸の縁に触れて、そこに薄く残った。
*
誓約の二日目。
綾女は、常世の回廊で、声を整えていた。声は筋肉だ。筋肉は、いきなり重たいものを持つと壊れる。最初は空の盃を持つみたいに、軽い文から始める。
凪雪は、遠くの門楼で拍を調律し、篝は紙に息を通している。紙は呼吸する。呼吸しない紙は、湿度で黴びる。
綾女は発声のまねごとをしながら、内側の瓶を撫でた。瓶の中では、哀しみが横たわり、怒りの小珠が沈み、恐れがゆっくり揺れ、恥が乾いて脇に寄っている。瓶は、たぶん、今は大丈夫だ。
足音。
振り向くと、篝が駆け足で来る。顔色は変わらず、肩の上下も少ない。無駄のない駆け足。
「帝都、配水局前にて、朝から列。裏口に『春前借り専用』の板札が出たとの報」
綾女の喉が、瞬間だけ固くなる。黒い小瓶の栓が、半拍分、浮いた。
浮いた栓を、息で戻す。四、八、十二。
「……行列の拍を作り直す。前を詰めるための拍ではなく、待つための拍に」
自分で言って、自分の身体が先にうなずいた。
凪雪がどこからか現れ、白羽の小旗を綾女に手渡した。旗は軽い。軽いのに、重さを受け止める形をしている。
「行こう」
*
帝都・配水局前。
列は長い。長い列は、怒りを呼ぶ。怒りは、待ち時間の半分を「怒り」で埋め、もう半分を「怒りの予告」で埋める。予告のほうが疲れる。
板札には、黒い墨で「春前借り専用」とある。墨は新しいのに、文字の息継ぎが古い。古さは、うまさと違う。
綾女は、列の脇に立ち、小旗を掲げた。旗には、白羽の印がある。印は、風で揺れ、揺れ方が常夜灯の拍に揃う。
綾女は声を出した。最初の言葉は、短く、軽く。
「四、八、十二」
列の前のほうで、どこかの子が真似をする。子どもは、理由よりも拍に先に反応する。子の声を合図に、数え声がじわじわ広がった。
篝は、表の窓口へ向かい、受理簿の端を指で押さえ、「読み上げ」を要求した。読み上げは、いちどだけ嘘を止める。声が躓き、文が場に降りない。
裏口の板札の前で、役人が腕を組む。名乗りはしない。名乗らないこと自体が、名を隠す行為だ。
綾女は、板札の墨の匂いを吸い、香りを確かめた。新しい墨に、古い筆の匂いが混じる。筆を持つ手が、今の手ではない。祖父の手。
首筋が、針先でつつかれたように疼いた。
「名を使い回すのは、皿を使い回すのとは違う」
綾女は、役人に向かって言った。
役人は、笑い、笑いの内側で舌を打った。舌の音が、歯の裏で乾いた。
「お嬢さん、現場は現場の判断というものがある」
「判断には、拍があります」
綾女は、返した。
まっすぐなやり取りは、疲れる。疲れは、瓶に沈む。沈めば、後で温かさに変わる。
列の後ろから、誰かが笑った。笑いは、怒りの泡をひとつ潰す。
凪雪は、窓口の内側の押印台を、白羽で軽く叩いた。「二拍」。
押印の音が、二拍に合わない。合わない印は、浮く。浮いた印は、紙から音が外れる。外れた音は、群衆の耳に入って、乾く。乾いた音は、恥だ。
恥は、照らされると消える。照らすのは、灯だけではない。声も照らす。
篝が短く言う。「読み上げ、続行」。
窓口の役人は、紙の文言を読み、二度躓き、三度目に沈黙した。沈黙が場に落ちる。落ちた沈黙は、誰かが拾った。綾女は拾わず、子どもが拾った。子どもは拾い慣れている。床に落ちたものを拾って返すのが、子どもの仕事だ。
列が、遅く進む。遅く進むことが、安堵になることもある。
綾女は、小旗をゆっくり下ろし、代わりに、香り包みを取り出した。包みをほどくと、柑の皮と、焙じた出汁と、青い葉の匂いが、空気の上に薄く座る。
「香りを吸って」とだけ言う。
怒りの泡が、香りの表面で小さくなる。小さくなった泡は、弾けず、寝る。寝た泡の上に、別の泡が乗る前に、拍がひとつ進む。
綾女は、鼻から吸って、口から吐き、四、八、十二、とひとりで数えた。
あの誓約の間で、凪雪が言った「恐れは健全だ」という言葉が、腹の中でまだ温かい。温かい言葉は、冷たい場に向けると効く。
*
夕刻、常世の内庭。
篝は帳面の数字を弾いた。怒り、哀しみ、恐れ、恥——四つの符号の滞留が、前日よりも薄い。黒丸は減り、黒点が増えた。黒点は返納の印だ。人が返す行為は、数字になる。
凪雪は、白羽の栓を掌で転がした。栓は軽い。軽いのに、指に乗せると重みが出る。重みは、持つ意思の重さだ。
綾女は、白羽起案の二頁三行を、声にして読んだ。
嘘をつかぬ。
名を奪わぬ。
春を急がぬ。
読み上げながら、彼女は、言葉が自分の骨の内側へ染みるのを感じた。染みるのは痛みではない。風呂上がりに体温がゆっくり戻る感覚に似ている。
読了の直後、回廊の白布がまた、風に逆らうように揺れた。ほつれた糸が、ひとつ、きらりと光る。
篝が眉をわずかに上げた。
「宮中某局の私印の写しが、配水局を経由して回っています。『返納の代理受領』と。——返す先を国家倉に一本化する案」
返すことを、見えない倉へ。
綾女の胸の瓶が、瞬間だけ揺れた。怒りの小珠が浮かび、恐れが揺れ、哀しみが底で息をする。
凪雪は、白羽の栓を軽く叩いた。「二拍三連」。
拍は、落ち着いた。
綾女は、声を出した。小さく、しかし、はっきりと。
「——なら、もっと、見える場所で返す」
篝は、短く笑った。
明日の段取りが、声の上に組まれはじめた。読み上げ、合唱、香り、鍋、黒点の板、常夜灯の移動、白羽の小旗。
凪雪は、目を細めて、ただ「いる」と言い続ける視線を送った。
綾女は、首筋の白い羽根の痣をそっと撫でた。羽根は、もう痛くはない。痛みの代わりに、音がある。
音は、歩幅だ。
歩幅は、二人で合わせるものだ。
*
夜。
誓約の間に戻る道で、黒い羽根がまた一枚、床に落ちていた。
綾女は拾わなかった。拾わないことも、選ぶことのひとつだ。拾えば、重さが増え、瓶が揺れる。今は、瓶を揺らさずに、寝かせたい。
その代わりに、彼女は、白羽の栓を凪雪の肩に軽く当てた。拍が合う。合う拍は、相手の弱さを隠さない。隠さないことは、恥ではない。
凪雪は、声に出さずに、うなずいた。
明日の朝、帝都の広場で最初の合唱が始まる。その前に、ここで眠る。眠ることは、明日の配当だ。
綾女は、黒い瓶を胸に抱き、白布の上に横になった。瓶の中で、哀しみが静かに座り、怒りの小珠が沈み、恐れの揺れが小さくなり、恥が乾いて隅に寄る。
息を吸い、四、八、十二、で吐く。
眠りに落ちる直前、遠くの井戸の蓋が、そっと鳴った。
——戻る。
——戻る支度は、進むことでしかできない。
綾女は、眠った。拍を抱えて。香りを胸に。三つの誓いを、骨の側に置いたまま。



