凪雪の居は、夜を置くための器みたいに静かだった。
灯は落とされ、窓紙越しの白い影だけが、呼吸の間へ薄く差し込んでくる。畳の目は暗さをよく吸い、柱の節は、指を当てるとまだ昼の温をわずかに返した。部屋の中央に置かれた床几に、凪雪は腰を掛けている。背の線がわずかに揺れ、輪郭が時折、煙のように薄れる。線は光で、光は羽だ。昨夜、灯へ焼かれた三枚の羽根の分だけ、影は軽く、彼は重い。
「羽根を三枚、灯へ焼いた。拍の調律は戻ったが、代償は残る」
淡々とした口調。淡々とするのは、心が凪いでいるからだけではない。揺れの場所を、声で覆っている。
綾女は、膝の上の瓶に無意識に片手を置いた。白羽栓が鈍く鳴り、瓶の底で哀しみが椅子を引く音がした。怒りは、すぐ横に立つ。立ったまま、手順を待っている。
「あなたはどうして、自分を削るの」
言葉に自分の息が混じり過ぎないように、喉の高さを灯の下と同じ位置に置いて出した。
凪雪は少しだけ目を伏せた。伏せ方は弱さではなく、礼を守る仕草だ。視線で人の拍を乱さないための配慮。
「人の手順を支えるのが、わたしの手順だ」
それ以外の言葉を持たない、と言うふうに。強大さは、奪うためにではなく、支えるために使うときにだけ、誇らしさを失う。誇らしさのない強さは、街にとっていちばん都合が良い。だから、いちばん目立たない。
戸口が小さく鳴り、篝が入った。紙束は肩幅より狭く、指先は朱を散らさない角度に立っている。
「報告。宮中某局の私印は、“春配所”のものだった」
綾女の背中で、瓶の黒が一段階、軽く軋んだ。
「常世への渡りを扱う部署。春の一週間の前借りを“運用益”として制度化している。名目は“安定化”。実態は、特権層の倉へ回す配当。……速い雨は、個人ではなく制度の歪み」
つまり、名を返しても、根は残る。
綾女は短冊の末尾の印を思い出した。桜紙の柔らかさの上で、見慣れない輪郭が勝手に居心地よく座り、紙の繊維を逆撫でした感触。返すことで剥がした皮の下に、別の皮がもう一枚仕込まれていたのだ。
「春配所は、春の第五週に“余剰”を見積もる。その見積もりに“安定係数”が付く」
篝は紙束をひらき、数字を読み上げた。
「安定係数は、過去三季の平均から逸脱しないように調整するためのもの——と、建前は書かれている。けれど実際は、前借りの幅を隠すための“薄め”。印影は淡く、署名は二重、香は調合。全部、灯の外の手つきだ」
数字の言葉は、街の耳には鈍い。鈍さは悪ではない。鈍くても届くところへ、言葉を置くのが手順だ。
綾女は瓶を抱え直し、呼吸の置き場所をひとつ下げた。瓶の肩に頬を当てると、白羽栓は二度、彼女の脈に合わせて震えた。凪雪の拍と、瓶の拍と、自分の拍。三つが重ならなくても、同じ高さに並べることはできる。
「……立つ」
凪雪が床几から身を起こした。立とうとして、立てなかった。
人の脚が拍に合わない。膝のあたりで影がほどけ、鴉の輪郭が滲む。滲みは黒いのに冷たい。冷たいのに、触れた瞬間だけ、火に似た熱を持つ。
綾女は反射的に手を伸ばし、肩を支えた。羽毛の冷たさと、そこに宿る鼓動を同時に掌で受ける。第三紋が胸で微弱に拍落ちし、彼女の心拍が凪雪の拍へ寄っていく。寄るだけで奪わない。拍は、合う。
「人の姿、どれくらい持つの」
問いは短いのに、部屋の空気を少しだけ押した。押すのは不躾ではない。支えるための摩擦だ。
凪雪は目を細めた。目を細めると、白い髪の影が頬にかかり、人の輪郭に血の気が戻る。
「春が来るまで、持たせる。だが急がぬ。急げば、次の季の骨が折れる」
硬い言葉。硬い言葉の端に、弱さが混じっている。弱さを隠さないところが、彼の強さのかたちだ。
綾女は両の手で瓶を抱え、静かに三行を唱えた。
「受けて、束ねて、寝かせる」
哀しみと怒りを寝かせ、代わりに決意を立ち上げる。寝かせる場所を間違えない。怒りを寝かせるベッドと、哀しみを寝かせるベッドは、同じ高さではない。高さを取り違えると、翌朝、どちらも腰を痛める。
白羽栓が小さく鳴り、瓶の中の椅子が少しだけ場所を変えた。椅子が動くと、言葉の骨が立つ。
窓外、禁区の上には薄い輪がうっすらと光っていた。輪は、意図の形だ。偽の暦盤の再設置。
春配所は、真名の奪回を嗅ぎ取り、次の一手を静かに置いたのだ。穴は動く。動く穴は、追いかけるより、先回りして“息継ぎ”を奪うしかない。
「——次章、簿記で穢れを数える」
篝が短く告げた。言いながら、帳面の角を指で揃える。
「三週連続で、祟りの発生率を一割ずつ落とす実験をやる。場所は下町の三角網、時刻は常夜灯の消える直前。“安定化”の名目を数字で空にし、制度に穴を開ける」
「数字で、穴を」
「穴は、埋めるためだけにあるんじゃない。——覗くためにもある」
綾女は頷いた。名は返した。次は数で戦う。
数字は冷たい。冷たいものは、正しいところへ置くと、よく光る。光り方が冷たいほど、嘘は照らされる。
彼女は凪雪の肩に白羽栓を軽く当てた。羽は拍で動く。拍を合わせると、人の輪郭が鴉の影から少し戻る。
「合わせるよ」
「——合わせる」
二人の呼吸が深く落ち、部屋の影がゆっくり定位置へ座った。
*
夜の真ん中を、ほんの少し通り過ぎた頃、篝は再び奥から戻り、机上に一枚の拓本を広げた。
薄い灰の上に、輪郭だけが漂っている。春配所の保管印章の側影と、棚板の擦れの拓影。紙は息をしているようで、誰の息とも違う深さで静かだった。
「棚の位置は、宮中回廊の東端、“花狩りの間”の奥。香は調合。沈香に樟脳少量、そこへ乳香を引く。意図して“古さ”の匂いを作っている。——新しいことを、古く見せる匂いだ」
「古さは、礼に化けやすい」
凪雪の声が低く落ちる。
「だが、香の拍は嘘をつけない。乳香の息継ぎは、三十拍ごとに微かな段差を作る。その段差を、灯で掬う」
篝が頷き、紙束の下から細い算木を出した。算木は黒檀。手に乗せるとひやりとする。
「穢れの簿記は、まず“拍の集計”から作る。祟りは数えられないと諦められてきたけれど、諦められてきたのは、数え方のほうだ。怒り、哀しみ、恐れ、恥——瓶の四拍のうち、街路ごとに優勢な拍を時間で切って集計する。祓・招・配の前後で変化率を出し、安定化係数の“薄め”とぶつける」
「人の暮らしを“数える”のか」
自分の質問に、綾女は一瞬だけ胸の中で首を振った。数えるという語の棘。棘は必要だ。必要だからこそ、触れるときは手袋をはめる。
「数えるのは——削るためじゃない。返すため」
言ってみると、灯の下で張ったあの沈黙の膜の手触りが、胸の内側に戻ってきた。
名は返す。
数は照らす。
照らされた場所に、灯を立てる。
灯の下でだけ、紙は本当を言う。
「三週で三割——大きい」
綾女の言葉に、篝は首を横に振った。
「大きく見せない。目標を大きく見せると、安定化の言葉に負ける。——“一割ずつ”。一割は、人の骨が受け入れる単位だ」
彼の指は算木を並べ、三つの小さな三角形を作った。常夜灯—石碑—古井戸を結ぶ昔の三角網。
「一週目は“怒り”を落とす。喧嘩の拍が瓶へ届く導線をひとつ、灯へ据え替える。二週目は“恐れ”。夜半の噂の流通を、童謡の欠拍で遅らせる。三週目は“哀しみ”。匂いの薄い夕餉に香りの橋を架け、飢えの拍がまっすぐ祟りへ育つ前に、寝かせる」
「恥は?」
「恥は、灯の高さを下げる。高すぎる灯は、恥を影に追い込む。——影は腐る」
言葉は乾いていたが、乾きの中に、夜明け前の湿りが少し混じっていた。
綾女はその湿りに救われた気がした。
数えることは、乾いた作業だ。その乾きに、歌と香りと灯を織り込む。織物にする。織物にすれば、着られる。着られるものは、街を少し温める。
*
しばらくして、凪雪が静かに立ち上がり、窓紙の前に立った。白い影が、彼の背の輪郭にやわらかく乗る。
網戸の外、禁区の上の薄い輪は、依然としてそこにあった。光は強くない。弱い光ほど、遠くまで悪い知らせを届ける。
「春配所は、数字を盾にする。“余剰”“運用”“安定”」
言いながら、彼は指で空気の中に線を三本引く。
「盾は、礼ではない。礼は、灯だ。盾を持って灯の前に立てば、影は自分に返る。——それを見せる」
「見せるには、笑いは要らない」
篝が、珍しく尖った声で言った。
「穏やかに、しかし鈍くしない。数字の話は眠りを呼ぶ。眠らせないために、場の拍を二拍三連にしておく」
「うん」
綾女は、灯の夜のあの明滅を思い出し、指先で拍を数えた。二、二、三。二、二、三。眠らせないための、やさしい乱れ。
胸の中の瓶は穏やかで、白羽栓の震えも細い。けれど、奥の奥に、小さい針の先ほどの痛みが、規則的に顔を出しては引っ込む。痛みは、香の拍。宮中の調合。
香は、跡を残さないふりをして、跡を残す。
跡を読む。
読むには、歌う。
歌うには、欠く。
欠くには、置く。
——順番。
「一つ、頼みがある」
凪雪が振り返った。
人の輪郭は戻りつつある。戻り方はまだ危ういが、危うさを隠さないところが、むしろ安心を呼んだ。
「常夜灯を、三つ、貸してほしい。持ち運べる小型のもの。棚を読むとき、灯を“立てる”のではなく、“抱く”必要がある」
「抱く?」
「礼を立てる前に、礼を抱く。立てる灯は、見世物になる。抱く灯は、手順になる」
綾女は頷いた。孤児院にある古い灯が頭に浮かぶ。子どもが眠る枕元で一晩だけ働いて、朝には油の匂いを残して去る小さな灯。
「柚に頼む。——あの灯は、夜泣きを止める明滅を知っている」
「それがいい」
凪雪は小さく笑みを見せかけ、やめた。笑いは配当だ。配る場所を間違えると、明日が痩せる。
*
夜が深まると、窓紙の白はさらに薄く、影はさらに濃くなった。
綾女は瓶の肩を撫でながら、胸の奥で童謡の二番を低く据えた。
欠けを歌わず、欠けを置き、沈黙で縫う。
沈黙の糸は、数字の表に細く渡る。渡った先に、穴。穴の向こうに、香。香の拍の段差に、指をかける。
登るのではなく、降りる。
降りて、灯を置く。
置いた灯は、礼。
礼の下で、名は正しく座り、数は正しく光る。
凪雪が床几へ戻り、肩からほんの少し、黒い鴉の影を外へ置いた。影は畳の上で丸まり、静かに呼吸を始める。息は浅いが、拍は乱れていない。
綾女はその影の脇に、白羽栓をそっと置いた。栓は拍で震え、影の呼吸と一度だけ合う。
「——戻す」
凪雪の言葉は短く、部屋の角へ消えた。
戻す先は、彼の背か、常夜灯か、明日の棚か。順番はまだ、夜が決めている。
篝は帳面を閉じ、灯の芯を短く整えた。
「寝るのではなく、横になるだけにしよう。夜は働いている。わたしたちは、夜の働きを邪魔しない」
「うん」
綾女は頷き、畳に横向きに体を置いた。瓶は胸に、白羽栓は掌に。
四。
八。
十二。
白羽栓の震えが、今夜はいつもより長く律儀に刻まれた。
遠く、禁区の輪は細り、匂いは移動し、宮中の香は息継ぎを一度だけ失敗した。失敗は、道標だ。
——明日、そこへ灯を抱いていく。
*
その頃、下町では、孤児院の柚が小さな灯の芯を指で撫でていた。
芯は去年のもの。油は今朝のもの。皿は、昔、誰かが落として縁が欠けたまま。
柚は机の上の短い便りをもう一度見て、外の気配に頭を下げた。
灯は、声にならない返事をした。明滅は、夜泣きをやめさせるときの速度で、二、二、三。
灯は、抱かれる準備ができている。
*
夜の終わりには、誰のものでもない息が部屋に満ちた。
凪雪は目を閉じたまま、羽根の線を半分だけ引き、綾女は瓶の栓を半分だけ緩め、篝は帳面の角を半分だけ斜めにずらした。
どれも中途半端。中途半端は、朝の手前の礼儀だ。決め切らない余白を残すことで、朝に渡す拍の位置が生まれる。
真名は返った。
次は数だ。
数で穴を開け、灯で覗き、歌で縫う。
春は急がない。
急がせない。
急がせる者がいるなら、その呼吸の位置を数字で指し示す。
指し示すとき、笑いは使わない。軽蔑も使わない。
礼で包み、灯で晒す。
晒された真は、誰のものでもなく、街の骨のほうへ降りていく。
窓紙の白が少しだけ濃くなった。
朝は近い。
鴉の影が、畳の上で一度、小さく縮み、また人の輪郭のほうへ戻る。
戻る途中、影は綾女の掌の白羽栓とすれ違い、短い拍で挨拶を交わした。
交わされた拍は、約束の形をとらない。
約束の形をとらない約束だけが、季節の骨を折らない。
——第4章「春を急がぬ——穢れの簿記」へ。
灯は落とされ、窓紙越しの白い影だけが、呼吸の間へ薄く差し込んでくる。畳の目は暗さをよく吸い、柱の節は、指を当てるとまだ昼の温をわずかに返した。部屋の中央に置かれた床几に、凪雪は腰を掛けている。背の線がわずかに揺れ、輪郭が時折、煙のように薄れる。線は光で、光は羽だ。昨夜、灯へ焼かれた三枚の羽根の分だけ、影は軽く、彼は重い。
「羽根を三枚、灯へ焼いた。拍の調律は戻ったが、代償は残る」
淡々とした口調。淡々とするのは、心が凪いでいるからだけではない。揺れの場所を、声で覆っている。
綾女は、膝の上の瓶に無意識に片手を置いた。白羽栓が鈍く鳴り、瓶の底で哀しみが椅子を引く音がした。怒りは、すぐ横に立つ。立ったまま、手順を待っている。
「あなたはどうして、自分を削るの」
言葉に自分の息が混じり過ぎないように、喉の高さを灯の下と同じ位置に置いて出した。
凪雪は少しだけ目を伏せた。伏せ方は弱さではなく、礼を守る仕草だ。視線で人の拍を乱さないための配慮。
「人の手順を支えるのが、わたしの手順だ」
それ以外の言葉を持たない、と言うふうに。強大さは、奪うためにではなく、支えるために使うときにだけ、誇らしさを失う。誇らしさのない強さは、街にとっていちばん都合が良い。だから、いちばん目立たない。
戸口が小さく鳴り、篝が入った。紙束は肩幅より狭く、指先は朱を散らさない角度に立っている。
「報告。宮中某局の私印は、“春配所”のものだった」
綾女の背中で、瓶の黒が一段階、軽く軋んだ。
「常世への渡りを扱う部署。春の一週間の前借りを“運用益”として制度化している。名目は“安定化”。実態は、特権層の倉へ回す配当。……速い雨は、個人ではなく制度の歪み」
つまり、名を返しても、根は残る。
綾女は短冊の末尾の印を思い出した。桜紙の柔らかさの上で、見慣れない輪郭が勝手に居心地よく座り、紙の繊維を逆撫でした感触。返すことで剥がした皮の下に、別の皮がもう一枚仕込まれていたのだ。
「春配所は、春の第五週に“余剰”を見積もる。その見積もりに“安定係数”が付く」
篝は紙束をひらき、数字を読み上げた。
「安定係数は、過去三季の平均から逸脱しないように調整するためのもの——と、建前は書かれている。けれど実際は、前借りの幅を隠すための“薄め”。印影は淡く、署名は二重、香は調合。全部、灯の外の手つきだ」
数字の言葉は、街の耳には鈍い。鈍さは悪ではない。鈍くても届くところへ、言葉を置くのが手順だ。
綾女は瓶を抱え直し、呼吸の置き場所をひとつ下げた。瓶の肩に頬を当てると、白羽栓は二度、彼女の脈に合わせて震えた。凪雪の拍と、瓶の拍と、自分の拍。三つが重ならなくても、同じ高さに並べることはできる。
「……立つ」
凪雪が床几から身を起こした。立とうとして、立てなかった。
人の脚が拍に合わない。膝のあたりで影がほどけ、鴉の輪郭が滲む。滲みは黒いのに冷たい。冷たいのに、触れた瞬間だけ、火に似た熱を持つ。
綾女は反射的に手を伸ばし、肩を支えた。羽毛の冷たさと、そこに宿る鼓動を同時に掌で受ける。第三紋が胸で微弱に拍落ちし、彼女の心拍が凪雪の拍へ寄っていく。寄るだけで奪わない。拍は、合う。
「人の姿、どれくらい持つの」
問いは短いのに、部屋の空気を少しだけ押した。押すのは不躾ではない。支えるための摩擦だ。
凪雪は目を細めた。目を細めると、白い髪の影が頬にかかり、人の輪郭に血の気が戻る。
「春が来るまで、持たせる。だが急がぬ。急げば、次の季の骨が折れる」
硬い言葉。硬い言葉の端に、弱さが混じっている。弱さを隠さないところが、彼の強さのかたちだ。
綾女は両の手で瓶を抱え、静かに三行を唱えた。
「受けて、束ねて、寝かせる」
哀しみと怒りを寝かせ、代わりに決意を立ち上げる。寝かせる場所を間違えない。怒りを寝かせるベッドと、哀しみを寝かせるベッドは、同じ高さではない。高さを取り違えると、翌朝、どちらも腰を痛める。
白羽栓が小さく鳴り、瓶の中の椅子が少しだけ場所を変えた。椅子が動くと、言葉の骨が立つ。
窓外、禁区の上には薄い輪がうっすらと光っていた。輪は、意図の形だ。偽の暦盤の再設置。
春配所は、真名の奪回を嗅ぎ取り、次の一手を静かに置いたのだ。穴は動く。動く穴は、追いかけるより、先回りして“息継ぎ”を奪うしかない。
「——次章、簿記で穢れを数える」
篝が短く告げた。言いながら、帳面の角を指で揃える。
「三週連続で、祟りの発生率を一割ずつ落とす実験をやる。場所は下町の三角網、時刻は常夜灯の消える直前。“安定化”の名目を数字で空にし、制度に穴を開ける」
「数字で、穴を」
「穴は、埋めるためだけにあるんじゃない。——覗くためにもある」
綾女は頷いた。名は返した。次は数で戦う。
数字は冷たい。冷たいものは、正しいところへ置くと、よく光る。光り方が冷たいほど、嘘は照らされる。
彼女は凪雪の肩に白羽栓を軽く当てた。羽は拍で動く。拍を合わせると、人の輪郭が鴉の影から少し戻る。
「合わせるよ」
「——合わせる」
二人の呼吸が深く落ち、部屋の影がゆっくり定位置へ座った。
*
夜の真ん中を、ほんの少し通り過ぎた頃、篝は再び奥から戻り、机上に一枚の拓本を広げた。
薄い灰の上に、輪郭だけが漂っている。春配所の保管印章の側影と、棚板の擦れの拓影。紙は息をしているようで、誰の息とも違う深さで静かだった。
「棚の位置は、宮中回廊の東端、“花狩りの間”の奥。香は調合。沈香に樟脳少量、そこへ乳香を引く。意図して“古さ”の匂いを作っている。——新しいことを、古く見せる匂いだ」
「古さは、礼に化けやすい」
凪雪の声が低く落ちる。
「だが、香の拍は嘘をつけない。乳香の息継ぎは、三十拍ごとに微かな段差を作る。その段差を、灯で掬う」
篝が頷き、紙束の下から細い算木を出した。算木は黒檀。手に乗せるとひやりとする。
「穢れの簿記は、まず“拍の集計”から作る。祟りは数えられないと諦められてきたけれど、諦められてきたのは、数え方のほうだ。怒り、哀しみ、恐れ、恥——瓶の四拍のうち、街路ごとに優勢な拍を時間で切って集計する。祓・招・配の前後で変化率を出し、安定化係数の“薄め”とぶつける」
「人の暮らしを“数える”のか」
自分の質問に、綾女は一瞬だけ胸の中で首を振った。数えるという語の棘。棘は必要だ。必要だからこそ、触れるときは手袋をはめる。
「数えるのは——削るためじゃない。返すため」
言ってみると、灯の下で張ったあの沈黙の膜の手触りが、胸の内側に戻ってきた。
名は返す。
数は照らす。
照らされた場所に、灯を立てる。
灯の下でだけ、紙は本当を言う。
「三週で三割——大きい」
綾女の言葉に、篝は首を横に振った。
「大きく見せない。目標を大きく見せると、安定化の言葉に負ける。——“一割ずつ”。一割は、人の骨が受け入れる単位だ」
彼の指は算木を並べ、三つの小さな三角形を作った。常夜灯—石碑—古井戸を結ぶ昔の三角網。
「一週目は“怒り”を落とす。喧嘩の拍が瓶へ届く導線をひとつ、灯へ据え替える。二週目は“恐れ”。夜半の噂の流通を、童謡の欠拍で遅らせる。三週目は“哀しみ”。匂いの薄い夕餉に香りの橋を架け、飢えの拍がまっすぐ祟りへ育つ前に、寝かせる」
「恥は?」
「恥は、灯の高さを下げる。高すぎる灯は、恥を影に追い込む。——影は腐る」
言葉は乾いていたが、乾きの中に、夜明け前の湿りが少し混じっていた。
綾女はその湿りに救われた気がした。
数えることは、乾いた作業だ。その乾きに、歌と香りと灯を織り込む。織物にする。織物にすれば、着られる。着られるものは、街を少し温める。
*
しばらくして、凪雪が静かに立ち上がり、窓紙の前に立った。白い影が、彼の背の輪郭にやわらかく乗る。
網戸の外、禁区の上の薄い輪は、依然としてそこにあった。光は強くない。弱い光ほど、遠くまで悪い知らせを届ける。
「春配所は、数字を盾にする。“余剰”“運用”“安定”」
言いながら、彼は指で空気の中に線を三本引く。
「盾は、礼ではない。礼は、灯だ。盾を持って灯の前に立てば、影は自分に返る。——それを見せる」
「見せるには、笑いは要らない」
篝が、珍しく尖った声で言った。
「穏やかに、しかし鈍くしない。数字の話は眠りを呼ぶ。眠らせないために、場の拍を二拍三連にしておく」
「うん」
綾女は、灯の夜のあの明滅を思い出し、指先で拍を数えた。二、二、三。二、二、三。眠らせないための、やさしい乱れ。
胸の中の瓶は穏やかで、白羽栓の震えも細い。けれど、奥の奥に、小さい針の先ほどの痛みが、規則的に顔を出しては引っ込む。痛みは、香の拍。宮中の調合。
香は、跡を残さないふりをして、跡を残す。
跡を読む。
読むには、歌う。
歌うには、欠く。
欠くには、置く。
——順番。
「一つ、頼みがある」
凪雪が振り返った。
人の輪郭は戻りつつある。戻り方はまだ危ういが、危うさを隠さないところが、むしろ安心を呼んだ。
「常夜灯を、三つ、貸してほしい。持ち運べる小型のもの。棚を読むとき、灯を“立てる”のではなく、“抱く”必要がある」
「抱く?」
「礼を立てる前に、礼を抱く。立てる灯は、見世物になる。抱く灯は、手順になる」
綾女は頷いた。孤児院にある古い灯が頭に浮かぶ。子どもが眠る枕元で一晩だけ働いて、朝には油の匂いを残して去る小さな灯。
「柚に頼む。——あの灯は、夜泣きを止める明滅を知っている」
「それがいい」
凪雪は小さく笑みを見せかけ、やめた。笑いは配当だ。配る場所を間違えると、明日が痩せる。
*
夜が深まると、窓紙の白はさらに薄く、影はさらに濃くなった。
綾女は瓶の肩を撫でながら、胸の奥で童謡の二番を低く据えた。
欠けを歌わず、欠けを置き、沈黙で縫う。
沈黙の糸は、数字の表に細く渡る。渡った先に、穴。穴の向こうに、香。香の拍の段差に、指をかける。
登るのではなく、降りる。
降りて、灯を置く。
置いた灯は、礼。
礼の下で、名は正しく座り、数は正しく光る。
凪雪が床几へ戻り、肩からほんの少し、黒い鴉の影を外へ置いた。影は畳の上で丸まり、静かに呼吸を始める。息は浅いが、拍は乱れていない。
綾女はその影の脇に、白羽栓をそっと置いた。栓は拍で震え、影の呼吸と一度だけ合う。
「——戻す」
凪雪の言葉は短く、部屋の角へ消えた。
戻す先は、彼の背か、常夜灯か、明日の棚か。順番はまだ、夜が決めている。
篝は帳面を閉じ、灯の芯を短く整えた。
「寝るのではなく、横になるだけにしよう。夜は働いている。わたしたちは、夜の働きを邪魔しない」
「うん」
綾女は頷き、畳に横向きに体を置いた。瓶は胸に、白羽栓は掌に。
四。
八。
十二。
白羽栓の震えが、今夜はいつもより長く律儀に刻まれた。
遠く、禁区の輪は細り、匂いは移動し、宮中の香は息継ぎを一度だけ失敗した。失敗は、道標だ。
——明日、そこへ灯を抱いていく。
*
その頃、下町では、孤児院の柚が小さな灯の芯を指で撫でていた。
芯は去年のもの。油は今朝のもの。皿は、昔、誰かが落として縁が欠けたまま。
柚は机の上の短い便りをもう一度見て、外の気配に頭を下げた。
灯は、声にならない返事をした。明滅は、夜泣きをやめさせるときの速度で、二、二、三。
灯は、抱かれる準備ができている。
*
夜の終わりには、誰のものでもない息が部屋に満ちた。
凪雪は目を閉じたまま、羽根の線を半分だけ引き、綾女は瓶の栓を半分だけ緩め、篝は帳面の角を半分だけ斜めにずらした。
どれも中途半端。中途半端は、朝の手前の礼儀だ。決め切らない余白を残すことで、朝に渡す拍の位置が生まれる。
真名は返った。
次は数だ。
数で穴を開け、灯で覗き、歌で縫う。
春は急がない。
急がせない。
急がせる者がいるなら、その呼吸の位置を数字で指し示す。
指し示すとき、笑いは使わない。軽蔑も使わない。
礼で包み、灯で晒す。
晒された真は、誰のものでもなく、街の骨のほうへ降りていく。
窓紙の白が少しだけ濃くなった。
朝は近い。
鴉の影が、畳の上で一度、小さく縮み、また人の輪郭のほうへ戻る。
戻る途中、影は綾女の掌の白羽栓とすれ違い、短い拍で挨拶を交わした。
交わされた拍は、約束の形をとらない。
約束の形をとらない約束だけが、季節の骨を折らない。
——第4章「春を急がぬ——穢れの簿記」へ。



