誓約庁の内庭は、昼よりも夜に向いている。
白砂は光を跳ね返さず、音を飲む。松は風を細かく刻み、瓦の端から落ちる露は、一滴ごとに拍を持っている。内庭を囲む回廊の柱は、どれも同じ太さで立っているはずなのに、今夜は東の二本だけがわずかに呼吸をして見えた。儀の重さを、木が受けている。
砂に描いた円の中央に水盤を据え、縁に札を並べる。札は麹紙。人の暮らしの匂いをよく吸い、湿度に反応して香りを立てる。名は文字で思い出すだけでは足りない。匂いでも思い出す。香りは、記憶の近道だ。
凪雪は人の姿のまま、背に白い線を半ばまで展いた。羽根は今夜、形の外に“線”として出ている。昨夜の灯で燃やした二本の代償が、輪郭の端を時折ゆらめかせる。彼が立つたびに、白砂の上の影が一瞬だけ細くなり、すぐに戻る。その戻り方が、彼の体内の拍を正直に教えていた。
綾女は、そっと手を伸ばしかけて、手を膝に置いた。触れれば、安心する。けれど、安心は順番の外に置くと拍を乱す。彼が「大丈夫だ」と首を振った昨夜の灯の高さを、手の内側に思い出す。大丈夫、という言葉は軽いのに、灯の下では重かった。
回廊に面して、証人の老人が立つ。昼の灯の下で名を返した老人だ。杖は持っているが、今は頼っていない。指先が紙の端の高さを覚えていて、呼吸が内庭の風と同じ方向を向いている。
「始める」
篝の声は、白砂に吸い込まれず、盤の縁で折り返して戻ってきた。
第一段——名の呼称。
老人が、本来の名を三度、人の声で呼ぶ。呼び方は、呼び捨てではない。名の前でいったん息を置き、置いた息の形で、名の器の大きさを測る。
一回目。盤の水面が薄く揺れ、円の内側へ微細な皺が走った。
二回目。皺は中央へ向かう前に、盤の縁でいったん止まり、香のように立ち上がる。
三回目。皺は深く、しかし静かに中央へ集まる。集まる音はない。ないのに、胸骨の内側だけが、小さく鳴る。
第二段——誓約の接続。
綾女が三誓を短句で唱え、凪雪が拍を刻む。
嘘をつかぬ。
名を奪わぬ。
春を急がぬ。
短い言葉が、回廊の柱の間をひとつずつ通り、戻ってくる。戻る音は薄い。薄い音ほど、骨に残る。
凪雪の白い線が、拍ごとに柔らかく光る。光るたび、輪郭がほんの一瞬だけ滲む。滲むのを、綾女は見ないふりをした。ふりは嘘ではない。順番を守るための、ささやかな礼儀だ。
第三段——水鏡。
札を一枚ずつ、水盤に浮かべる。綾女は指先で札の角を持ち、呼吸と合う瞬間に水面へ置く。浮き方、沈み方、その速度、そのためらい——それらで真名を見極める。急ぐ名は息が続かない。
役人の胸から抜いた偽名の札は、やはり速く沈む。沈むというより落ちる。落ちるものは、思い出を掴まない。
真名の札は、二呼吸ほど考えるように揺れ、緩やかに沈むか、端から水を吸って紙が重みを覚える。覚えた重みだけで沈む名は、深さを知っている。
綾女は瓶の哀しみを微量、指で掬って垂らし、沈みの境目に薄い香りを付けた。麹紙は香りをよく覚える。覚えた香りは、呼び声より早く骨へ降りる。
老人が鼻の奥で短く息を呑み、目の前の空気の高さが一段下がった。
「……台所の匂いだ」
彼の声は、笑っていないのにやさしかった。
「やっと、匂いが戻った」
盤の周りで、職人衆が用意した小さな樋が並んでいる。成功した名の水だけ、路地の石へ落ちるように、段差が工夫されている。水を配るのは、儀の外に見えて、儀の続きだ。返った名は、水に乗る。乗った水は、街の骨のほうへ静かに降りる。
そのとき、内庭の軒先から黒い紙片が、鳶の影のように舞い込んだ。
篝が一歩踏み出し、紙の落ちる角度を目で読み、指先で軽く受ける。受けた指が、すぐに硬くなった。
宮中某局の私印。
春前借りの承認の写し。
紙は薄いのに、重い。重さは、墨ではなく、順番を乱した呼吸の重みだ。
凪雪は紙片を白羽で押さえ、火の近くへ持っていかない。
「燃やすな。名は証拠になる」
短い声に、綾女の指の温度が少し下がる。燃やす、は楽だ。けれど、楽は順番を壊す。証拠は、灯の下でしか役に立たない。だから、灯の下へ連れていく。
「続ける」
篝が頷き、札をもう一枚、水に置いた。
浮く。
沈む。
考える。
哀しみの薄片が境目に乗り、香りが細く橋を架ける。麹紙が橋を覚える。覚えた橋が、老人の目に、涙の代わりの光を立たせた。
偽名は、沈むたびに同じ音を立てる。
本当の名は、沈むたびに違う長さで黙る。
黙り方が違うのは、暮らしが違うからだ。違う暮らしは、同じ骨に戻るとき、同じ高さで置き直される。置き直すのが儀だ。置き直す力を、白砂の上の円が支える。
札の列が半分を過ぎたとき、東の柱がかすかに鳴った。木の声は、驚くほど人に似ている。似ているから、嘘をつけない。
綾女は瓶の蓋を半分だけ開き、哀しみの椅子の位置を少しずらした。椅子をずらす、という言い方が、心にすっと収まった。誰かに立ってほしい席を空けるときの、静かな所作だ。
役人が、回廊の陰で膝を立てて座っていた。顔は上げない。上げないという行為も、儀の中では一つの礼だ。礼の形は人それぞれでも、呼吸の高さは灯に合わせる。
彼の胸の上の軽さ——偽札を失ったあとの空白——を、綾女は見ないふりをした。ふりは嘘ではない。順番を守るための、やわらかい盾だ。
札は残り三枚。
綾女が次の札へ指を伸ばしたとき、風が内庭を斜めに通った。松の葉が音もなく擦れ、瓦の端の露が一つ落ちる。露の落ち方は、二拍の間に挟まった短い沈黙に似ていた。
綾女は息を置き、その沈黙の場所へ札を置いた。置いた紙が、水の上でいちどだけ笑ったように揺れ、端から水を吸った。香りが立つ。台所——米を研ぐ手、火を起こす前の匂い。老人の指が、空を撫でた。
全部の札を水に見届けたあと、篝が静かに頷いた。
「——返る」
言い切りの薄さが、内庭の空気を一枚軽くした。
終幕——真名は本人へ返る。
回廊の陰から、役人が膝を滑らせるように前へ出、砂の端で手をついた。顔を上げる。
仮面は、剥がれていた。顔ではなく、喉の位置が変わっている。喉の奥の空洞の形が、灯の高さと合う。
「申し訳……ありません」
言葉は短かった。短いぶんだけ、軽くなかった。
綾女はうなずいた。うなずいたが、赦しは置かなかった。赦しは配当だ。与える時と量を間違えれば、誰かが足りなくなる。足りないのはいつも、灯の外だ。
内庭の風が強まり、凪雪の背の白い線が一瞬ほどけた。肩口で、黒い鴉羽が一枚、地へこぼれる。
綾女は無意識に拾い上げた。指に触れた羽は、人の体温ではなく、拍に反応して震えた。震えの幅で、彼の力の残量が伝わる。
数は——少ない。
儀の成功と引き換えに、凪雪は人の輪郭を削っていた。
綾女は羽を両の掌で包み、白砂の上でそっと休ませた。
「……返すから。あなたの羽だから」
声は誰にも届かなくていい。羽に届けばいい。羽は、拍の言葉を知っている。知っているものだけが、戻る道を見つける。
篝が黒い紙片——宮中某局の私印——を、白布で包んで箱に入れた。
「棚を読もう。上段。埃の少ない、誰かが最近触った高さから」
凪雪は頷き、目線だけで綾女の指先の温度を確かめる。
「灯も持っていく。礼を立てる」
礼を立てない場所では、名は立たない。立たない名を呼ぶと、呼んだ側がすり減る。
職人衆が樋を片づけ、砂の円の縁を足でならす。円は痕跡を残さない。残さないから、次の円が同じ質で描ける。
内庭の松は、風をもう細かく刻んでいない。刻み終えた風は、白砂の上で沈黙になる。沈黙は、歌の続きだ。
*
回廊を抜けたところで、綾女は立ち止まった。
胸の内側で、白羽栓が二度、彼女の脈に合わせて震える。震えは穏やかだが、奥に疲労の薄い色が混じっている。
瓶の中で哀しみが椅子を引き、怒りは膝の角度を保ち、恐れは長い揺れを選び、恥は乾いて薄く光っている。
第二紋は疼かない。代わりに、首筋の奥の温かい熱が、さっきより深く座っている。座る、という感覚は不思議だ。痛まないのに、熱い。熱いのに、焦げない。
「柚に、報せを」
綾女が言うと、篝は頷き、小走りの若者に目配せした。孤児院へ向かう足音は、今夜は軽い。軽いのに、速くない。速さを選ばない足は、誰かの拍に合わせることができる。
凪雪が、内庭の縁で立ち止まり、空を短く見上げた。
禁区の黒い穴は、相変わらず、目には見えない。見えないのに、匂いだけが薄く残る。速い雨は、まだ別の灯を探している。
「この紙(かみ)は、明日、灯の下へ持っていく」
彼が箱を指で叩くと、白布の中の黒い紙片が、軽く音を返した。
「紙が道を作る。——紙で足りなければ、歌だ」
綾女はうなずいた。
歌は、沈黙で縫う。縫うとき、呼吸の高さを間違えなければ、紙より強い橋が架かる。橋は、速い雨を渡らせない。渡らせないから、雨は疲れる。疲れた雨は、穴を小さくする。
*
夜半、短い休みが下りた。
常世の座所に戻ると、灯はいつもより一つ多く、低い位置でともされていた。白い羽根の影が壁に三枚並び、真ん中の影だけがほんの少し薄い。
凪雪は黙って羽根を数え、数えること自体を数え直した。数える、という行為は、代償の確認ではなく、次の手順のための見取り図だ。
綾女は瓶を抱え、膝の上で軽く転がした。重さは、昨夜より軽い。軽いからといって、空ではない。軽いのは、渡すべき水が正しく渡った証拠だ。
「彼(あの役人)は?」
篝が帳面を見ながら答える。
「保留。——灯の近くに」
灯の近くで保つ、という言い方が、綾女の胸にすっと落ちた。
罰は外で行うと早すぎる。灯の下で呼吸を整え、名の高さで自分を置き直してからでないと、罰は誰にも届かない。届かない罰は、街の骨に穴を開ける。
「宮中の私印は、どの棚の香だろう」
綾女が瓶の肩に頬を当てると、白羽栓が「四」を二回、「八」を一回、「十二」を一回、静かに刻んだ。
香の拍が薄く立ち上がる。
上等の沈香ではない。野の草でもない。——調合。
調合の香は、記録を上書きする。上書きは、紙の上で均一に見えるが、香の拍は均一にならない。どこかに必ず、息継ぎが残る。
「息継ぎを見る」
凪雪が言う。
「明日、灯と歌で、息継ぎの位置を晒す」
晒す、という言葉の強さに、綾女は一瞬だけ喉を固くした。
けれど、強さは必要だ。
名は返す。
罪は晒す。
この二つを混ぜないことが、誓約の呼吸だ。
*
休みのあと、短い夜食をとる。
薄い出汁に、香りだけ立てた薬味。塩は少ない。輪郭は香りが作る。香りの輪郭に舌がそっと乗り、喉が静かに飲み下す。
綾女の味覚は、少しずつ戻っている。戻る、というより、場所を覚え直している。場所さえ分かれば、塩が薄くても、香りの橋で向こう岸へ渡れる。
「綾女」
凪雪が呼び、白い線を半ばまで引っ込めた。輪郭は、ほんの少し濃くなっている。
「明日、もし、私が——」
そこで言葉が止まる。止められた言葉は、火を揺らさない高さで、空中に小さく留まった。
「——大丈夫」
綾女は短く言い、手のひらで白羽栓の震えを受け止めた。
「“優しさを手順に変える”。あなたが教えてくれた。……手順は、覚えた。灯の高さで、やる」
彼は笑わなかった。笑いは、次にとっておく。笑いは配当だ。正しい朝に渡す。
*
床に横たわり、白羽栓の震えを胸に乗せる。
四。
八。
十二。
数えるたび、今夜の内庭の水盤が胸の内側に現れ、麹紙の香りが薄く立ち上がる。
遠く、禁区の黒い穴は、匂いだけで位置を変えた。匂いの移動は、言葉の移動より遅い。遅いものは、追える。追えるものは、灯の下へ連れていける。
真名は返った。
返った名は、誰も責めない。責めるのは言葉の仕事ではない。
明日は、棚。
灯と歌と紙で、息継ぎを暴く。
礼を立て、配を外さず、春を急がないまま。
朝は急がない。
名も急がない。
けれど、拍は確かに進む。
進む拍の上で、綾女は静かに目を閉じ、眠らない夜を静かに受け入れた。眠らない夜は、悪いしるしではない。
——次の手順のための、長い息だ。
白砂は光を跳ね返さず、音を飲む。松は風を細かく刻み、瓦の端から落ちる露は、一滴ごとに拍を持っている。内庭を囲む回廊の柱は、どれも同じ太さで立っているはずなのに、今夜は東の二本だけがわずかに呼吸をして見えた。儀の重さを、木が受けている。
砂に描いた円の中央に水盤を据え、縁に札を並べる。札は麹紙。人の暮らしの匂いをよく吸い、湿度に反応して香りを立てる。名は文字で思い出すだけでは足りない。匂いでも思い出す。香りは、記憶の近道だ。
凪雪は人の姿のまま、背に白い線を半ばまで展いた。羽根は今夜、形の外に“線”として出ている。昨夜の灯で燃やした二本の代償が、輪郭の端を時折ゆらめかせる。彼が立つたびに、白砂の上の影が一瞬だけ細くなり、すぐに戻る。その戻り方が、彼の体内の拍を正直に教えていた。
綾女は、そっと手を伸ばしかけて、手を膝に置いた。触れれば、安心する。けれど、安心は順番の外に置くと拍を乱す。彼が「大丈夫だ」と首を振った昨夜の灯の高さを、手の内側に思い出す。大丈夫、という言葉は軽いのに、灯の下では重かった。
回廊に面して、証人の老人が立つ。昼の灯の下で名を返した老人だ。杖は持っているが、今は頼っていない。指先が紙の端の高さを覚えていて、呼吸が内庭の風と同じ方向を向いている。
「始める」
篝の声は、白砂に吸い込まれず、盤の縁で折り返して戻ってきた。
第一段——名の呼称。
老人が、本来の名を三度、人の声で呼ぶ。呼び方は、呼び捨てではない。名の前でいったん息を置き、置いた息の形で、名の器の大きさを測る。
一回目。盤の水面が薄く揺れ、円の内側へ微細な皺が走った。
二回目。皺は中央へ向かう前に、盤の縁でいったん止まり、香のように立ち上がる。
三回目。皺は深く、しかし静かに中央へ集まる。集まる音はない。ないのに、胸骨の内側だけが、小さく鳴る。
第二段——誓約の接続。
綾女が三誓を短句で唱え、凪雪が拍を刻む。
嘘をつかぬ。
名を奪わぬ。
春を急がぬ。
短い言葉が、回廊の柱の間をひとつずつ通り、戻ってくる。戻る音は薄い。薄い音ほど、骨に残る。
凪雪の白い線が、拍ごとに柔らかく光る。光るたび、輪郭がほんの一瞬だけ滲む。滲むのを、綾女は見ないふりをした。ふりは嘘ではない。順番を守るための、ささやかな礼儀だ。
第三段——水鏡。
札を一枚ずつ、水盤に浮かべる。綾女は指先で札の角を持ち、呼吸と合う瞬間に水面へ置く。浮き方、沈み方、その速度、そのためらい——それらで真名を見極める。急ぐ名は息が続かない。
役人の胸から抜いた偽名の札は、やはり速く沈む。沈むというより落ちる。落ちるものは、思い出を掴まない。
真名の札は、二呼吸ほど考えるように揺れ、緩やかに沈むか、端から水を吸って紙が重みを覚える。覚えた重みだけで沈む名は、深さを知っている。
綾女は瓶の哀しみを微量、指で掬って垂らし、沈みの境目に薄い香りを付けた。麹紙は香りをよく覚える。覚えた香りは、呼び声より早く骨へ降りる。
老人が鼻の奥で短く息を呑み、目の前の空気の高さが一段下がった。
「……台所の匂いだ」
彼の声は、笑っていないのにやさしかった。
「やっと、匂いが戻った」
盤の周りで、職人衆が用意した小さな樋が並んでいる。成功した名の水だけ、路地の石へ落ちるように、段差が工夫されている。水を配るのは、儀の外に見えて、儀の続きだ。返った名は、水に乗る。乗った水は、街の骨のほうへ静かに降りる。
そのとき、内庭の軒先から黒い紙片が、鳶の影のように舞い込んだ。
篝が一歩踏み出し、紙の落ちる角度を目で読み、指先で軽く受ける。受けた指が、すぐに硬くなった。
宮中某局の私印。
春前借りの承認の写し。
紙は薄いのに、重い。重さは、墨ではなく、順番を乱した呼吸の重みだ。
凪雪は紙片を白羽で押さえ、火の近くへ持っていかない。
「燃やすな。名は証拠になる」
短い声に、綾女の指の温度が少し下がる。燃やす、は楽だ。けれど、楽は順番を壊す。証拠は、灯の下でしか役に立たない。だから、灯の下へ連れていく。
「続ける」
篝が頷き、札をもう一枚、水に置いた。
浮く。
沈む。
考える。
哀しみの薄片が境目に乗り、香りが細く橋を架ける。麹紙が橋を覚える。覚えた橋が、老人の目に、涙の代わりの光を立たせた。
偽名は、沈むたびに同じ音を立てる。
本当の名は、沈むたびに違う長さで黙る。
黙り方が違うのは、暮らしが違うからだ。違う暮らしは、同じ骨に戻るとき、同じ高さで置き直される。置き直すのが儀だ。置き直す力を、白砂の上の円が支える。
札の列が半分を過ぎたとき、東の柱がかすかに鳴った。木の声は、驚くほど人に似ている。似ているから、嘘をつけない。
綾女は瓶の蓋を半分だけ開き、哀しみの椅子の位置を少しずらした。椅子をずらす、という言い方が、心にすっと収まった。誰かに立ってほしい席を空けるときの、静かな所作だ。
役人が、回廊の陰で膝を立てて座っていた。顔は上げない。上げないという行為も、儀の中では一つの礼だ。礼の形は人それぞれでも、呼吸の高さは灯に合わせる。
彼の胸の上の軽さ——偽札を失ったあとの空白——を、綾女は見ないふりをした。ふりは嘘ではない。順番を守るための、やわらかい盾だ。
札は残り三枚。
綾女が次の札へ指を伸ばしたとき、風が内庭を斜めに通った。松の葉が音もなく擦れ、瓦の端の露が一つ落ちる。露の落ち方は、二拍の間に挟まった短い沈黙に似ていた。
綾女は息を置き、その沈黙の場所へ札を置いた。置いた紙が、水の上でいちどだけ笑ったように揺れ、端から水を吸った。香りが立つ。台所——米を研ぐ手、火を起こす前の匂い。老人の指が、空を撫でた。
全部の札を水に見届けたあと、篝が静かに頷いた。
「——返る」
言い切りの薄さが、内庭の空気を一枚軽くした。
終幕——真名は本人へ返る。
回廊の陰から、役人が膝を滑らせるように前へ出、砂の端で手をついた。顔を上げる。
仮面は、剥がれていた。顔ではなく、喉の位置が変わっている。喉の奥の空洞の形が、灯の高さと合う。
「申し訳……ありません」
言葉は短かった。短いぶんだけ、軽くなかった。
綾女はうなずいた。うなずいたが、赦しは置かなかった。赦しは配当だ。与える時と量を間違えれば、誰かが足りなくなる。足りないのはいつも、灯の外だ。
内庭の風が強まり、凪雪の背の白い線が一瞬ほどけた。肩口で、黒い鴉羽が一枚、地へこぼれる。
綾女は無意識に拾い上げた。指に触れた羽は、人の体温ではなく、拍に反応して震えた。震えの幅で、彼の力の残量が伝わる。
数は——少ない。
儀の成功と引き換えに、凪雪は人の輪郭を削っていた。
綾女は羽を両の掌で包み、白砂の上でそっと休ませた。
「……返すから。あなたの羽だから」
声は誰にも届かなくていい。羽に届けばいい。羽は、拍の言葉を知っている。知っているものだけが、戻る道を見つける。
篝が黒い紙片——宮中某局の私印——を、白布で包んで箱に入れた。
「棚を読もう。上段。埃の少ない、誰かが最近触った高さから」
凪雪は頷き、目線だけで綾女の指先の温度を確かめる。
「灯も持っていく。礼を立てる」
礼を立てない場所では、名は立たない。立たない名を呼ぶと、呼んだ側がすり減る。
職人衆が樋を片づけ、砂の円の縁を足でならす。円は痕跡を残さない。残さないから、次の円が同じ質で描ける。
内庭の松は、風をもう細かく刻んでいない。刻み終えた風は、白砂の上で沈黙になる。沈黙は、歌の続きだ。
*
回廊を抜けたところで、綾女は立ち止まった。
胸の内側で、白羽栓が二度、彼女の脈に合わせて震える。震えは穏やかだが、奥に疲労の薄い色が混じっている。
瓶の中で哀しみが椅子を引き、怒りは膝の角度を保ち、恐れは長い揺れを選び、恥は乾いて薄く光っている。
第二紋は疼かない。代わりに、首筋の奥の温かい熱が、さっきより深く座っている。座る、という感覚は不思議だ。痛まないのに、熱い。熱いのに、焦げない。
「柚に、報せを」
綾女が言うと、篝は頷き、小走りの若者に目配せした。孤児院へ向かう足音は、今夜は軽い。軽いのに、速くない。速さを選ばない足は、誰かの拍に合わせることができる。
凪雪が、内庭の縁で立ち止まり、空を短く見上げた。
禁区の黒い穴は、相変わらず、目には見えない。見えないのに、匂いだけが薄く残る。速い雨は、まだ別の灯を探している。
「この紙(かみ)は、明日、灯の下へ持っていく」
彼が箱を指で叩くと、白布の中の黒い紙片が、軽く音を返した。
「紙が道を作る。——紙で足りなければ、歌だ」
綾女はうなずいた。
歌は、沈黙で縫う。縫うとき、呼吸の高さを間違えなければ、紙より強い橋が架かる。橋は、速い雨を渡らせない。渡らせないから、雨は疲れる。疲れた雨は、穴を小さくする。
*
夜半、短い休みが下りた。
常世の座所に戻ると、灯はいつもより一つ多く、低い位置でともされていた。白い羽根の影が壁に三枚並び、真ん中の影だけがほんの少し薄い。
凪雪は黙って羽根を数え、数えること自体を数え直した。数える、という行為は、代償の確認ではなく、次の手順のための見取り図だ。
綾女は瓶を抱え、膝の上で軽く転がした。重さは、昨夜より軽い。軽いからといって、空ではない。軽いのは、渡すべき水が正しく渡った証拠だ。
「彼(あの役人)は?」
篝が帳面を見ながら答える。
「保留。——灯の近くに」
灯の近くで保つ、という言い方が、綾女の胸にすっと落ちた。
罰は外で行うと早すぎる。灯の下で呼吸を整え、名の高さで自分を置き直してからでないと、罰は誰にも届かない。届かない罰は、街の骨に穴を開ける。
「宮中の私印は、どの棚の香だろう」
綾女が瓶の肩に頬を当てると、白羽栓が「四」を二回、「八」を一回、「十二」を一回、静かに刻んだ。
香の拍が薄く立ち上がる。
上等の沈香ではない。野の草でもない。——調合。
調合の香は、記録を上書きする。上書きは、紙の上で均一に見えるが、香の拍は均一にならない。どこかに必ず、息継ぎが残る。
「息継ぎを見る」
凪雪が言う。
「明日、灯と歌で、息継ぎの位置を晒す」
晒す、という言葉の強さに、綾女は一瞬だけ喉を固くした。
けれど、強さは必要だ。
名は返す。
罪は晒す。
この二つを混ぜないことが、誓約の呼吸だ。
*
休みのあと、短い夜食をとる。
薄い出汁に、香りだけ立てた薬味。塩は少ない。輪郭は香りが作る。香りの輪郭に舌がそっと乗り、喉が静かに飲み下す。
綾女の味覚は、少しずつ戻っている。戻る、というより、場所を覚え直している。場所さえ分かれば、塩が薄くても、香りの橋で向こう岸へ渡れる。
「綾女」
凪雪が呼び、白い線を半ばまで引っ込めた。輪郭は、ほんの少し濃くなっている。
「明日、もし、私が——」
そこで言葉が止まる。止められた言葉は、火を揺らさない高さで、空中に小さく留まった。
「——大丈夫」
綾女は短く言い、手のひらで白羽栓の震えを受け止めた。
「“優しさを手順に変える”。あなたが教えてくれた。……手順は、覚えた。灯の高さで、やる」
彼は笑わなかった。笑いは、次にとっておく。笑いは配当だ。正しい朝に渡す。
*
床に横たわり、白羽栓の震えを胸に乗せる。
四。
八。
十二。
数えるたび、今夜の内庭の水盤が胸の内側に現れ、麹紙の香りが薄く立ち上がる。
遠く、禁区の黒い穴は、匂いだけで位置を変えた。匂いの移動は、言葉の移動より遅い。遅いものは、追える。追えるものは、灯の下へ連れていける。
真名は返った。
返った名は、誰も責めない。責めるのは言葉の仕事ではない。
明日は、棚。
灯と歌と紙で、息継ぎを暴く。
礼を立て、配を外さず、春を急がないまま。
朝は急がない。
名も急がない。
けれど、拍は確かに進む。
進む拍の上で、綾女は静かに目を閉じ、眠らない夜を静かに受け入れた。眠らない夜は、悪いしるしではない。
——次の手順のための、長い息だ。



