常夜灯のある辻から一筋外れた路地は、昼でも音が半歩遅れて届く。
 干された布の影が壁に四角い湖を貼りつけ、風は角を曲がるたび、古い油の匂いを薄く剥がしていく。
 行き止まりには、忘れ去られた里程碑が立っていた。腰の高さで欠け、欠け口は鋼の楔で乱暴に縫い止められている。正面の刻字は、かつて官道の起点を示したものらしく、数字の骨だけが残り、意味は失せている。けれど、石は息をしていた。ひびの隙間から、夜風の細い出入り口の音が、喉の奥に触れる。

「楔、外すよ」

 篝がしゃがみ込み、布で包んだ鉤を欠け口へ差し入れた。力を込めるたび、石がやわらかく反発する。反発は拒絶ではなく、記憶の襞が固さを装っているだけだ。
 金属はひとつずつ、まるで古い咳のような音で抜けた。最後の楔を外したとき、裏面の陰から、何かが小さく跳ねて落ちた。

 短冊紙。
 灯のないところでも淡く光る、薄い桜紙。両端が指の腹に馴染むほど使われ、中央は誰かの体温でたわんでいる。
 篝が両手で受け、綾女の前にそっと差し出した。

「家譜の……移しだ」

 細字がびっしり。上に二文字、下に二文字。祖父の名と孫の名が、一筋の線で直列に繋がれている。交わらないはずの二つの季節を、一本の竹ひごで荒く通して固定したみたいに。
 綾女は息を飲み、指先で紙の縁をなでた。
 桜紙は、古い。けれど、墨は新しい。新しい層だけが、指の腹で微かに浮き、瓶の中の哀しみがその部分にだけふっと寄っては弾かれる。
 第二紋は痛まなかった。痛みの代わりに、首筋の内側がほんのり熱を持つ。名を取り戻せる——そういう種類の予感が、体温のほうから先に届く。

 碑の台座には、小さな孔が三つ並んでいた。
 孔の縁は、石より柔らかい金属で縁取りされ、底からは微かな鈴の響きが上がってくる。
 凪雪が耳を寄せる。白い髪が風を梳き、耳殻の薄い縁に光の粒が乗った。

「常世側の記憶が、ここに結ばれている。……継目の鈴だ」

「継目?」

「名を返す儀で、古い線を外し、新しい線を結ぶ。結び目が正しいときだけ鳴る鈴。三つ——童謡と同じだ」

 凪雪は指で孔の縁を一度撫でた。撫でただけで、遠いところの拍が一度、応えた。
 綾女の胸の奥で、白羽栓が細く震える。
 ——名を、返せる。
 言葉の前に、身体がうなずいた。

     *

 夜は、常夜灯の円を少し大きくしただけで、いつもと同じ顔をしていた。
 けれど、辻を外れたこの狭い路地は、まるで別の国境のようだった。音が低く、息がゆっくりだ。狭さは、儀式に向いている。外からの速さを入れない。入らない速さは、別のところで勝手に疲れる。

 白布の台を里程碑の前に置く。布の端は、昼に孤児院で子がこぼした蜜の跡で薄く色づいていた。甘い匂いはもうしない。匂いの無くなった痕跡は、灯の下でだけ、手のひらの温度で蘇る。
 台の上に小型の暦盤と、楽譜石の拓本。それから短冊紙。
 人々は背を壁につけて半円を作り、証人の老人は、昼の儀のまま、杖を膝に抱え込むように立った。

「第一段——灯の封」

 篝が芯をひと呼吸ぶんだけ上げ、油皿へ白羽を沈める。羽根はゆるく燃え、炎は音のない明滅を始めた。拍子木を使わないのは、この路地に木の音が似合わないからだ。ここは石の喉で声を出す。石の喉は、木の拍より深く長い。
 明滅に合わせて、輪の呼吸が静かに揃い、綾女の第三紋は、落ち着いた緩い拍を刻み直す。

「第二段——名の呼び戻し」

 童謡の二番を歌う。
 欠け目は歌わない。歌わないところに、灯の熱が薄く乗って、沈黙は膜になる。
 〈な——〉
 凪雪が条文を三行ずつ読み上げる。「嘘をつかぬ。名を奪わぬ。春を急がぬ」。
 〈の——〉
 人の声と神の声が交互に差し込まれ、灯の明滅は二拍三連へ。規則の中の乱れが、場を疲れさせない。
 〈は——〉
 証人の老人の喉が、名の一画に合わせてひゅうと細く鳴る。鳴った息は戻るところを探し、灯の芯の陰へさっと潜った。

「第三段——印影洗い」

 拓本に薄く哀しみを塗り、偽の層を弾かせる。その手順は昼と同じ。剥がれた粉は宙に浮いて、すぐに消えた。
 次は——今夜ここでしかできない段だ。

「継目の承認を得る」

 凪雪の声で、場の空気が少しだけ重くなる。
 篝が里程碑の小孔に細い針金の鈴棒を差し入れ、短く回した。
 ——りん。
 空気を刺さない、深く短い音。ひとつ目の鈴は、祖父の名の隙間を撫でる高さだ。
 短冊紙の上段の二文字が淡く浮き、桜紙の地がわずかに呼吸をした。
 ふたつ目。
 ——りん。
 今度は低く、わずかに長い。孫の名が濃く立ち上がり、直列に引かれた粗い線の上に、薄いひびが走る。
 みっつ目の直前で、遠いほうから速い雨の拍が滑り込んだ。

 火が怯える。
 灯の二拍に、別の場所で走る粗い三拍が混ざった。
 第三紋が綾女の胸で拍落ちする。視界の端の白布が二重にめくれ、短冊の黒が海の底で揺らめいた。
 禁区の穴から、偽の暦拍——昼に斬り合わせたあの拍——が、またも流し込まれている。

「綾女」

 凪雪の声。短い。短いのに、灯の油を揺らさない。
 綾女は瓶の蓋を押さえ、哀しみをもう一段沈めた。沈めるとき、心の中で指を三本折る。
 ——待て、巡れ、戻れ。
 哀しみは雨の速さと拮抗し、鈴の響きが濁りから抜ける。
 篝がうなずき、三つ目の孔へ鈴棒をゆっくり差し入れた。

 ——りん。
 今度は長い。長さの中に、灯のほうからの呼吸が混じる。
 短冊の中央に、ひと呼吸ぶんの空白が、すっと開いた。
 そこだけ、紙が生まれたての白で光った。

「お願いします」

 綾女が短く言うと、証人の老人は震える指で筆を取り、空白へ本来の名を記した。筆は細い。細いのに、火の下で太く見える。
 凪雪が白羽でその上を軽く押さえる。押さえるというより、羽根の影で名の呼吸の高さを整える。
 綾女は童謡の欠拍を沈黙で正し、沈黙を紙の繊維へ薄く沁み込ませた。

 紙が呼吸するように、ふっと膨らむ。
 直列の偽線が、音もなく剥がれ、祖父と孫の名は、別々の器へゆっくり戻っていく。
 瓶の黒の底で、哀しみが椅子を引き、怒りが膝の角度を保ち、恥は乾いて細く光る。
 第二紋は疼かない。代わりに、首筋の熱が少しだけ降り、胸の中の温かい灯が、ひとつ深く座る。

「——終わりだ」

 凪雪の低い声に、灯の火がわずかに背伸びをして、また元の高さに戻った。
 役人は、その場に崩れた。
 膝から先に折れ、手のひらが石の粉を掬い、空を掴むように、宙に向かって指を開いた。

「わたしは……誰だ」

 擦れて、掠れて、声は灯の輪に入る前に半分壊れた。
 凪雪は剣を抜かず、白羽を掲げもしないで、ただ目線を役人の喉の高さへ落とした。

「お前自身だ」

 短い返答が、石の路地の喉を通って、遠くで小さく戻ってくる。
 名を盗ることは、自分の名を失うこと——その事実は、言葉で説明される前に、骨が知っている。
 役人の肩がひとつ分だけ下がり、肩の下がり方を灯の格子が記録する。格子は夜の帳面。今夜のこの行は、涙ではなく、沈黙の墨で書かれる。

 綾女は短冊を両手で受け取り、裏面へ指を滑らせた。
 末尾に、小さな印があった。
 太政でも庁でもない。
 五角でも、拓本に写し取ったあの印でもない。
 ——宮中某局の私印。
 見慣れない、喉の奥に残る冷たい形。
 第二紋が、久しぶりに鋭く疼いた。
 胸の奥で、不安の拍が一度だけ強く鳴り、すぐに細く続いた。

     *

「上だね」

 篝が息を詰めずに言った。
 固く言うと火が萎む、ということを、彼はよく知っている。
 綾女はうなずき、短冊の端を丁寧に折り、白布の上へ置いた。
 宮中——常世にいちばん近い、なのに常世より遠い場所。人が神の真似をして、拍を所有物のように扱うとき、名は直列に結ばれる。

 役人はまだ地面に座り、灯の影と自分の影の境い目を見ていた。
 境い目は揺れない。揺れないのは、風が止んだからではない。拍が整い、影のほうが息を覚えたからだ。
 綾女は彼へ歩み寄り、短冊の中央の空白——本来の名の上へ、白羽の影を一瞬だけ落とした。影は軽い。軽いのに、紙の皺が一枚、きちんと伸びた。

「あなたが名を返したことは、灯が知っています」

 それ以上、言葉は要らない。
 彼はうなずきもしなかった。代わりに、胸の奥で小さく息を変えた。その変え方は、昼の薄笑いの高さではなかった。
 輪の外にいた別の老人が、そっと肩に手を置いた。押さえない手。押さえないから、肩の高さが元に戻る。

     *

 片付けにかかった。
 篝が里程碑の楔を別の袋へ移し、孔の中の鈴棒を布で拭う。孔の底からは、まだ細い余韻が上がっていた。
 凪雪は油皿の縁に小さな蓋を落とし、火を消さずに封じる。常夜灯の火は、夜のあいだに消すのではなく、眠らせる。眠りは、次の仕事のためにある。

 短冊の私印を、拓本の端で写し取った。
 重ねると、紙が微妙に弾く。桜紙は柔らかいが、柔らかいものほど、知らない形をよく覚える。覚えたものは、あとで読みやすい。
 篝が筆の先で印の輪郭へ水をすくい、乾きを待つあいだ、口の中で童謡をひと節だけ回した。
 〈な——〉
 欠け目は歌わない。歌わないところが、夜道の踏み石になる。

 空気が、遠いほうで一度だけひやりと冷えた。
 禁区からの速い雨の拍は、さっき綾女が沈めた分、弱っている。弱った拍は、別の穴を探す。別を探す速さは、灯の下では通用しない。
 けれど、宮中の私印が示す先は、灯の外だ。灯の外にいる者は、灯を礼として見ない。見ない者に、灯の記憶は刺さらない。

「棚を読むだけじゃ足りないかもしれない」

 篝が、印の乾きを確かめながら言う。
「宮中の棚は、埃の代わりに香が置かれている。匂いは、拓本に写らない」

「香は、瓶で読める」

 綾女は瓶の肩に頬を当て、白羽栓の震えを胸へ入れた。
 香の拍。名の拍。法の拍。三つは混ざらない。混ざらないはずのものが混ざる場所に、鍵がある。

「明日、庁の棚の上段から読む。——埃の少ないところから」

 凪雪が言い、玻璃のような目で夜の端を見た。
「紙で足りなければ、灯を持っていく。灯は、礼だ。礼がない場所では、名は立たない」

     *

 人々が去った路地は、儀式の前より狭く感じられた。
 狭さは、守られた印だ。守られた場所は、広げる必要がない。
 綾女は里程碑の欠け口へ指を当て、金属のひんやりした余韻を皮膚でなぞった。指の腹に、紙片の薄さが戻ってくる。そこへ、恐れは入ってこない。
 祖父の名と孫の名は分かたれ、短冊の中央には本来の名が座った。
 名が座ると、街の骨のほうが少しだけずれる。ずれたぶん、井戸の底が起き直り、病院の中庭の水が一杯だけ深くなる。

「柚に、報せを」

 綾女が言うと、篝が頷き、路地の入口に立っている子へ合図を送った。孤児院へ戻る小さな足音が、夜の布目に追い越されないように、灯の円がほんの少し広がる。

 歩き出すと、常夜灯のある辻へ戻るまでの短い距離が、妙に長かった。
 距離ではなく、呼吸が深い。深い呼吸は、歩幅を縮める。縮めた歩幅のぶんだけ、夜の静けさが足元に重なってくる。
 角を曲がるたび、速い雨の匂いは遠のいたり近づいたりした。
 遠のくときは、言葉が先に行き、近づくときは、沈黙が前に出る。
 沈黙は、恐れではない。歌の続きだ。

     *

 門楼に戻ると、白い塔の呼吸は、昼よりも低かった。
 凪雪は白羽糸の端を指から外し、肩の位置で短く弾いた。音は鳴らないが、拍が部屋をめぐって、拓本の紙の端にそっと座る。
 篝は机に印の写しを広げ、脇に置いた留め金の拓影——五角の刻印——と並べた。
 五角は、庁の影。
 見慣れぬ印は、宮中の影。
 影が二重に重なるところに、人は礼を忘れる。忘れた礼は、灯の下でのみ思い出される。

「今夜の代償は?」

 綾女が問いかける前に、凪雪は肩を回し、輪郭の薄さを確かめた。白い髪は月の色を保ち、羽根の影は濃い。
「羽根は二本。戻る」
「戻るのは、時間」
「時間は、味方でもある」

 短い言葉が、机の上で紙の角を揃えるように場を整えた。
 綾女は黒い瓶の肩を撫で、香り包みをひとつ開いて、夜の空気へ薄く混ぜた。柚の皮の香りが、印の線の上に細く橋を架ける。香りの拍は、名の拍と喧嘩をしない。
 第二紋は静かだ。
 静けさの中に、不安の拍だけが細く長く、変わらず続いている。途切れない不安は、道の印だ。印があるかぎり、迷わない。

「明日」

 篝が言い、紙を重ねる手を一度止めて、綾女のほうを見た。
「棚の上段。それから、匂いのするところ」
「灯も持っていく。——礼を立てる」

 礼を立てる。
 言いながら、綾女は常夜灯の格子の影を指先で撫でた。撫でると、格子は薄く音もなく震える。震えは、灯の返事だ。
 返事のある場所へ、名は戻る。
 戻る名があるかぎり、速い雨は街を壊せない。速い雨が壊すのは、いつも、返事のない場所だけだ。

     *

 夜更け、孤児院へ短い報せが届いた。
 柚は一行だけを読み、火鉢の灰を指でならして、子の寝息の高さを確かめ、門のほうへ軽く頭を下げた。
 眠る街が、拍をひとつ進める。
 進んだ拍の上に、返された名の呼吸が薄く重なり、井戸の底で、ほんの小さな音がする。誰にも聞こえない音だ。
 けれど、その音のために、今日の夜はあった。

 綾女は床に身を置き、白羽栓の細い震えを胸に乗せた。
 四。
 八。
 十二。
 数えるたびに、碑の鈴の余韻が、遠くで針の先ほど小さく揺れた。
 ——誰の指示か。
 問いは、灯の外にある。外にある問いは、中で答えてはいけない。
 中では、名を返す。外で、名を呼ぶ。順番は壊さない。

 朝は急がない。
 名も急がない。
 けれど、走る者はいる。
 速い雨は、まだ走っている。
 走る音は、灯の下では消える。
 消えた音のあとに、灯は、ただ静かに明滅する。
 明滅は、拍であり、約束だ。
 約束は、常夜灯の高さで、必ず守られる。
 そして朝が来る——拍をひとつ進め、碑文の継目に、昼の光を差し入れるために。