譜面は、静かに呼吸していた。
 誓約庁の会議室——白布越しの光が机の縁を柔らかく撫で、墨の黒が浅い湖みたいに沈んでいる。その水面の上を、黒い小さな点と線が、針で刺した穴の列のように並ぶ。わらべ歌「白い烏は名を運ぶ」の採譜は、三行ごとに一音が抜け落ちていた。落ちた音は紙の上にいない。いないのに、紙の下から見上げてくる感じがする。

「これは呼吸の標準を外す符丁だ」

 篝が言った。紙の端に触れる指先は、朱の粉を散らさないための癖で、いつも少しだけ立っている。
「読むには“欠け”を埋めるのでなく、欠けの位置をそろえる。息の置き場所を一致させれば、歌が歩き出す」

 綾女は頷き、白羽を一本抜いて譜面上に置いた。羽軸を定規にして、抜けた音の直下へ小さく点を打っていく。墨汁ではなく、乾いた筆の腹で紙の毛を撫でるように、押しあとだけを残す。点は三列の斜線を作った。三列は並行に見え、よく見れば、遠くで一箇所だけ寄り、また開いて、やがて地図の山脈の並びと一致した。

「……山だ」

 綾女の口から漏れた言葉に、凪雪が羽根の影を指先で動かして頷いた。
「歌は耳だけでなく、足の記憶でも書かれる。山脈は、風の拍を刻む。拍が地図になる」

 机いっぱいに地図を広げた。墨の細い筋が谷を走り、薄い点が井戸の位置を示す。常夜灯の古い位置を重ねると、三列の斜線は、常夜灯—石碑—古井戸を結ぶ三角網を形成した。網の結節点に、童謡の歌詞の欠字「な→の→は」が順に対応している。欠けた〈な〉は名、〈の〉はのり(法)、〈は〉は配。山に守られた三点を結ぶと、偽名官僚が紙を入れ替えるため夜ごと辿った動線が、薄い光の糸のように浮かんだ。

 綾女は穢れ瓶に耳を当てた。
 瓶の黒は昨夜より深く、白羽栓は脈に合わせて穏やかに震えている。瓶口をほんの少し緩め、通達が配られる時間帯のざわめきを抽出する。通達の紙が鞄の中で擦れる音、階段の踊り場で足を止める靴底の音、油の切れた鉛筆が木目をかすめる乾いた音。
 哀しみの拍は夜半に沈む。沈むとき、布の皺が自重でほどけるような、やわらかい音を立てる。怒りの拍は、灯の消える直前に、一度だけ強く跳ねた。跳ねる場所は灯の円の外ではなく、真下。誰かが灯下で、責任を他人の名へ移し、その軽さで眠りに落ちる音だ。

「童謡は三段でできている」

 凪雪が譜面から目を上げ、地図と瓶のあいだに視線の橋をかけた。
「名——真名の鎮座。法——誓約の条文。配——雨の配当。三者の接合部でしか、偽りは剥がれない。歌は、その接合部を“欠け”で記している」

 篝はうなずき、机の端から古地図の束を抜き出した。紙の積層の中ほどに、異質な板が挟まっていた。薄い石。表面がぬめり、角が丸い。

「……楽譜石?」

 綾女が息を呑む。
 石面には浅い五線が刻まれ、ところどころに小さな窪みが規則的に穿たれている。外へ出し、桶の水をひとかけすると、窪みに水がはまり、古代の譜点が起き上がる仕掛けだった。濡れた石肌に、童謡の欠拍が正規化された形で浮かび上がる。最後の一行にだけ、薄い刻印が添えられていた。

「“名を返す日”の印……四季の周回に合わせ、春の第五週に儀を行う」

 篝が指でなぞる。石は冷たく、しかし指先の温で刻みが視える気がした。
「——今週がそれだ」

 合図のように、窓の外で風鈴が鳴った。風と合うタイミングで。
 綾女は胸の中の紙片が、ゆっくりと骨の棚に戻っていくのを感じた。戻るということは、決めるということだ。

「真名の返還儀をやる」

 声に出すと、部屋の温度が少しだけ下がった。下がった分だけ、呼吸が楽になる。
 凪雪が短く頷く。
「名は奪わず、もとに戻す。その原則だけは外さぬ。——灯の下で」

「証人を集める」

 篝が即座に段取りへ入った。
「古い署名を知る者。押印の手の高さを憶えている者。祖父の名を呼び、涙を飲んだ者。昼の市場へ行けば、一人は必ずいる」

 綾女は孤児院から借りた小袋の口を締め、薬味の香りをひとつ深く吸った。香りは、言葉の骨だ。骨を立てるために、体の側から灯を点けておく。

      *

 午後、三人は地図の三角網を歩いて確かめることにした。
 最初の結節は、常夜灯。昼間の灯は眠っているが、柱は立ったままで、笠の縁に指を置くと、油の名残が薄く触れた。二点目は石碑。戦の凱旋を記した碑は、名の羅列であり、名の重みを地面に押しつけるために建っている。三点目は古井戸。今は使われない。水面は低く、枯れているのではなく、眠っている。眠っている水は、呼びかけに弱い。

 道すがら、篝が楽譜石を布に包んだまま抱えていた。石は軽くない。軽くないものを抱えるとき、人の歩幅は揃いやすい。
 凪雪は白羽糸の端を指に絡め、見えない弦の張りを確認している。禁区の穴はまだ黒いが、縁が昼より薄く、呼吸が通りやすい。通る息は、今夜の言葉のために貯えられていく。
 綾女は瓶の蓋を締め、耳を外へ向けた。通りの売り声、遠くの鍛冶場の槌音、学校帰りの子の笑い声。音は高くない。高くない街は、言葉を受け入れやすい。

 三角網の中心で、古い石段に腰を下ろした。
 足元の砂利が、指の腹に気持ちよく当たる。指で砂を払うと、小さな貝殻がひとつ出てきた。街は海から遠いのに、昔はここまで潮が来たのだと、老人から聞いたことがある。
 綾女は楽譜石の布を少しだけめくり、刻みの先を覗いた。濡れていない石面は黙っていて、黙りの中に、音を置くための生白さがあった。

「儀の形を、歌の三段に合わせる」

 凪雪が、石段に棒線を三本引いた。
「名——真名の鎮座。灯の下で名を呼び、返す。
 法——誓約の条文。三誓を、短く読み上げる。偽りが剥がれるのは、この接合部だ。
 配——雨の配当。返された名の呼吸で、街の水の通り道を一つだけ直す」

「歌うの?」

 綾女の問いに、凪雪の目が少しだけ笑った。
「歌うのは、綾女だ。歌は“足りない音”を歌わずに置く。欠けの位置をそろえ、沈黙で縫う」

「沈黙で……」

 綾女は自分の喉に手を当てた。喉は乾いていない。乾いていない喉は、沈黙を持ち運べる。声は出すものだが、沈黙は据えるものだ。
 篝がメモを取りながら、短く頷く。
「証人は、灯ごとに二人。読み上げと押印のリズムは、昨日の“灯の揺れ”に合わせる。——昼のうちに依頼してくる」

「お願いします」

 綾女は立ち上がり、三つの結節点を順に見渡した。昼の街は働いている。働く音の高さは、歌の中音域だ。中音域に言葉を置けば、街は受け取る。
 空は薄く、禁区の黒い穴はまだそこにある。まっすぐ見ずに、横目で見た。横目で見ると、穴は息をしているように見えた。息をしているものは、言葉に触れる。

      *

 夕刻。証人を集め、段取りを示し、灯油の補充を済ませると、夜は静かに近づいてきた。
 常夜灯のひかりの中には、人の手当が混じっている。火種は昨日のもので、油は今朝のもの、芯は去年のもの。継いだものばかりで燃えている火の下で、名を返すことの意味が、骨のほうからゆっくり分かっていく。

 儀の前、綾女はひとりで会議室に戻った。
 譜面と地図と、楽譜石。
 机に腰を下ろし、小瓶の栓を抜く。哀しみの拍を薄く流しながら、童謡をそっと歌った。足りない音は歌わない。歌わない、その沈黙が、欠けを縫う糸になる。
 第二紋の疼きは、歌い始めてすぐに収まった。代わりに、胸の奥が温かくなる。温かさは、怒りではない。許しの準備でもない。名は奪うより、返すほうが拍に合う——身体が先に納得する。

 歌い終えると、白羽栓が小さく二度、彼女の脈に合わせて震えた。
 篝の足音が戸口にかかる。

「集まった。老人が一人、元印場係が一人。もう一人、古井戸の番人だった人。……皆、灯の下での押し方を知っている」

「ありがとう」

 綾女は立ち上がり、瓶の蓋を締めた。黒は軽く、しかしよく眠っている。眠りは仕事だ。これから起きるための眠りは、罪ではない。

      *

 最初の灯。
 灯の円は小さいが、影が濃い。影の濃さは、声を拾う。
 老人が杖をつき、灯の柱に手を置いた。元印場係の指が、紙の端を押さえる高さを再現し、古井戸の番人だった男が、井戸の縁に腰を下ろす仕草のまま静かに見守る。
 篝が拓本を開き、凪雪が白羽を柱にかける。白羽の影が格子に溶け、灯の火がほんの少しだけ深くなる。

「名を、返す」

 綾女は、息を置き、歌の一行目を低く据えた。
 〈な——〉
 “な”の音は、灯の火に触れない高さで、しかし火の下の油に触れる深さで響く。真名の鎮座は、呼び捨てのようでいて、呼び寄せだ。
 欠ける一音は歌わない。沈黙が、灯の格子に薄く貼りつく。貼りついた沈黙は、火の息で乾き、薄い膜になる。
 老人が口の中で、遠い友の名を一度だけ呼んだ。呼ぶ声は小さい。小さい声ほど、骨に届く。

「法を、読む」

 凪雪が三誓を短く読み上げる。嘘をつかぬ。名を奪わぬ。春を急がぬ。
 文字は短いのに、灯の火が揺れ、影が濃くなる。濃くなる影は、光の居場所を覚える。居場所を覚えた光は、逃げない。

「配を、渡す」

 綾女は瓶の蓋を一分だけ開け、香りの束を灯の下へ置いた。返された名の呼吸を、街の水の通り道に重ねる。井戸の番人が目を細める。遠くの古井戸の底で、水が一度だけ微かに鳴ったのが、彼には分かったのだ。

 歌の二行目。
 〈の——〉
 法(のり)。読む声は息の高さを変えない。変えない声が、押印の手と同じ高さで紙を撫でる。
 元印場係が、朱の乾きの速さを呼吸で測り、篝が小さく頷く。灯の下の朱は深い。深い朱は、乾くのが遅い。遅さは、呼吸のためにある。
 欠ける音は、やはり歌わない。沈黙が重なり、薄い膜が二枚になる。二枚の間に、灯の熱がやさしく溜まる。

 三行目。
 〈は——〉
 配。
 歌わない一音の位置を、凪雪の白羽が指で示す。示すだけで、押さない。押さない指は、音より拍を連れてくる。
 古井戸の番人が立ち上がり、遠い井戸のほうへ顔を向けた。風が来る。風は、井戸の口を通っても変な音を出さない。変な音がしないのは、呼び方が正しいからだ。

 こうして一つの灯で、一つの名を返した。
 返すという行為は、奪うより静かなのに、場は深く揺れる。揺れは、怒りの揺れではない。骨の位置が正されるときの、やわらかい揺れだ。
 黒外套の役人は今夜いない。いないほうが良い。名は、当人がいなくても返せる。返すのは、彼のためでなく、名のためだ。

      *

 二つ目の灯で、証人は入れ替わった。
 元帳場の女が、押印の台の高さを手で示し、若い男が祖父の名を読み上げる。若い男の声は、祖父の声に似ていない。似ていない声で呼ぶほうが、名は涙を選ばない。
 綾女は同じ高さで歌い、同じ位置で音を欠き、同じ沈黙を格子に貼った。沈黙の膜は三枚になり、灯の火は前より深く、しかし大きくはならない。大きくならない火のほうが、夜を長く照らす。

 三つ目の灯へ向かう頃には、夜は完全に街を抱いていた。
 禁区の黒い穴は、昼より輪郭が薄くなっている。薄いものは、灯の下でよく剥がれる。
 篝が楽譜石を井戸の縁に置き、最後の行の刻印の上へ、指先で水を一滴落とした。刻印がわずかに濡れ、その濡れの縁が、光に細い輪を作った。

「——名を、返す日」

 綾女は最後の三行を、最初よりも少しだけ低く据えた。低さは、終わりではない。次へ渡すための深さだ。
 歌い、欠き、据える。
 灯が三度、呼吸の位置を変え、影が三度、濃さを変えた。
 楽譜石の線が、濡れているところだけやわらかく光り、わらべ歌の欠拍が、正しい欠け目として街の骨に刷り込まれる。

      *

 儀のあと、三人はしばらく言葉を発しなかった。
 沈黙は、歌の続きだ。
 やがて、古井戸の番人だった男が、顔を上げる。

「……水、起きた」

 誰も問い返さない。問いを待つ必要のない報告だった。
 凪雪が白羽糸の張りを確かめる。弦は少しだけ柔らかく、しかし緩んではいない。名が返ると、糸は自分の張りを思い出す。
 篝は拓本を閉じ、証人たちの名を紙の端に記した。紙に名を残すのは、名に紙を返すことだ。名が紙に残ると、風がそれをめくる。めくられた紙は、灯の下で読む。

 綾女は瓶の肩に頬を寄せた。
 白羽栓は穏やかに震え、瓶の中で哀しみが深く座り、怒りは膝の角度を保ち、恐れは長い揺れを選び、恥は乾いて薄く光った。
 第二紋は疼かない。疼かない代わりに、胸の奥で温かい熱がずっと灯っている。熱は、夜を焦がさない。
 名は、奪うより返すほうが拍に合う。
 拍に合ったことだけが、明日に残る。

      *

 帰路。
 門楼の白は、今夜は灰を経ず、すぐに夜の色を吸い込んで見えた。場所そのものが深く息をしている。
 凪雪は短く言った。

「明日、紙の上でも返す。灯の下で読んだ名は、庁の棚へ戻す。朱は深く。乾くのは遅く」

「はい」

 綾女はうなずき、歩を緩めた。歩幅を、一度だけ、わざと乱す。乱した歩幅が、儀の余韻を床に押し渡す。余韻は、残る。残る余韻が、次の夜の灯を呼ぶ。
 篝は肩の楽譜石を持ち直し、笑うともため息ともつかない息をひとつ漏らした。

「わらべ歌は、強いね。欠けたまま残るものだけが、長生きする」

 欠けたまま残る、という言い方が、綾女の胸の紙片にやさしく触れた。彼女自身、味覚の半分をまだ欠いている。欠いているまま、香りで橋を渡して食べている。その橋は、今日、名のためにも架けられた。

「香り、持って帰ろう」

 綾女は小袋から薬味を取り出し、空気の層にそっと香りを混ぜた。香りは、名を呼ぶときの声の骨を支える。
 遠く、禁区の上で黒い穴の輪郭が一度だけ薄れ、夜風がそこを通った。通った風は、濡れていないのに湿りの匂いを運ぶ。
 速い雨は、まだどこかへ動いている。けれど、今夜は“返す”という仕事をした。返す仕事は、遅い。遅い仕事をした夜は、朝がよく来る。

      *

 常世に戻り、遅い食事を囲む。
 出汁は薄いが、輪郭ははっきりしている。柚の皮をひとかけ、刻んで落とす。香りが先に立ち、舌があとから場所を探す。
 綾女の舌は、以前よりはゆっくりだが、迷わない。迷わない舌は、歌いやすい。
 凪雪が白羽を一度だけ弾いた。音は鳴らない。鳴らないのに、拍は部屋をひとめぐりする。

「……楽譜石、明日も借りられるか」

 篝が答える前に、綾女は頷いた。
「返す前に、もう一度だけ、歌の欠け目を確かめたい」

 欠け目は、恐れのための穴ではない。呼吸の出入り口だ。出入りが整えば、言葉は骨へ落ち、骨から街へ渡る。
 綾女は目を閉じ、童謡の三行を、心の中で低く据えた。
 な——
 の——
 は——

 欠けたところが、何より美しい。
 美しいところは、強くしない。
 強くしないで、長く持っていく。
 長く持つものだけが、名を運ぶ。
 運ばれた名は、灯の下で返され、返された名は、街の骨のほうへ降りていく。
 その骨が、明日の雨の角度を少しだけ変える。
 角度の差は、すぐには気づかれない。気づかれないまま、朝の手つきがやさしくなる。やさしい朝は、拍を乱さない。
 拍を乱さない朝だけが、急がない春を呼ぶ。

 風鈴が、風と合うタイミングで鳴った。
 鳴り終えた鈴の下で、白い羽根が小さく震え、綾女の胸の内側で、温かい熱がゆっくりと広がった。
 奪わず、返す。
 返すための歌を、明日も歌う。
 足りない音は、歌わないまま——沈黙で縫って。
 その沈黙が、街の呼吸になるまで。