【8話】

 千蔵と水族館デートから数日が経った、いつも通りの朝。駅のホームで決まった時刻に滑り込んでくる電車を待っていた俺は、車内にいる千蔵の姿を見て眉間に皺を寄せる。

「おはよ、(かぶち)
「……はよ」

 俺を見つけてにこりと笑う千蔵の目元にはくっきりとしたクマができていて、顔色だって心なしかいつもより悪く見えた。特にふらついていたりするわけでもないのだが、電車が動き出すと吊り革に掴まる男に改めて呼びかける。

「おい、千蔵。……千蔵?」
「……ん?」

 いつもならすぐに反応を見せる千蔵が、今日は少し遅れて俺の方を見る。考え事でもしていたのかもしれないが、なんだか反応が鈍いように感じられた。

「おまえ、大丈夫かよ? クマできてるし」
「ああ……ちょっと夜更かししちゃって」
「夜更かしって、珍しいな。なんかしてたのか?」
「ん-、海外ドラマ見始めたら止まらなくなっちゃってさ」
「ああ……それは俺も経験あるかも」

 学生の夜更かしなんて特に珍しいことでもないし、たまにあくびを漏らしていることもあったから本当に寝不足なのだろう。そう思うことにして、俺はそれ以上を追及せずに学校までの道のりを過ごすことにした。そうしていつも通りの学校生活が始まったはずなのだが。

「それじゃあ、この問題を……そうだな、千蔵。答えてくれ」

 眠くなるような数式の並ぶ授業の最中、教室内を見回した教師が回答者に千蔵の名前を挙げる。

「…………」

 しかし千蔵は一向に反応する気配がなく、クラスメイトたちの視線が一か所に集まっていく。

「……おい、千蔵?」
「え……?」

 少ししてようやく顔を上げた千蔵は、その時初めて自分が指名されていることに気づいたような反応をする。

「この問題を答えてくれるか?」
「あ……えっと……」

 教科書に視線を落としたかと思うと間を置いてから、苦笑いを浮かべた千蔵は頬を掻いて教師を見る。

「すみません、ちょっとぼーっとしてたみたいで、わかりません」
「なんだ、珍しいな? それじゃあ代わりに……筒井」
「えーっ、俺もわかんないですよ」

 続くクラスメイトの答えに教室内からは笑い声が上がるが、俺は千蔵から視線を離すことができない。教師の言う通り千蔵が授業に集中していないのは珍しいが、アイツの頭の良さを思えばその場で解けない問題でもなかった。だというのに千蔵はその場で問題を解こうともしなかったのだ。

(絶対……なんかおかしい)

 授業の終わりを知らせるチャイムと共に立ち上がった俺は、真っ先に千蔵のもとへと歩み寄る。

「千蔵、大丈夫か? おまえ調子悪いんじゃねーか?」
「橙……大丈夫だよ。ちょっと寝不足がたたったのかも」
「ったく、ちょっと保健室で休ませてもらってこいよ。倒れたりしたら困るだろ」
「……そうだね、ちょっと行ってこようかな」

 あくまで寝不足を貫こうとする千蔵。違和感を覚えつつその背中を見送ってから、俺は隣の教室へと足を向ける。幸いにも目当ての人物は廊下に近い席に座っていて、教室内の人間に呼び出してもらう手間を省くことができそうだ。

「おい、紫乃(しの)。ちょっといいか?」
「っ……!?」

 呼び出されると思っていなかったであろう紫乃は、大袈裟なほどに肩を跳ねさせてからこちらを見る。クラスメイトから見てもそれは珍しい光景だったのか、「あれ誰?」と声をかけてくる女子を適当にやり過ごし、ものすごい形相で紫乃がこちらにやってきた。

「ちょっと、いきなり何の用!?」

 小声ではあるが全力の抗議を向けられて、その迫力に少しだけ後退りしてしまう。けれどここで引き下がる選択肢はない。

「悪い。けど、千蔵の様子がおかしくてさ」

「…………」

 それだけで何かを察してくれたらしい紫乃は、俺を押しのけて廊下に出ていく。

「来て」

 短く告げる紫乃の後に続いていくと、他に生徒のいない階段の踊り場へと連れて行かれた。

「なあ、紫乃。アイツ目の下にクマ作ってるし、なんか反応鈍く見えるし、でもなんも話してくれねえんだけど、絶対なんかあっただろ……!?」
「ちょっと落ち着いてくれない?」

 一気に(まく)し立てる俺を面倒くさそうな顔で見た紫乃は、大きく溜め息を吐き出してからこちらに向き直る。

「ちょっと前に、父が過労で倒れたの」
「えっ……それ、大丈夫なのか?」
「問題ないわ。しばらくは安静でってことだったんだけど、母が亡くなってから必要以上に気負ってたから、一気に疲れが出たんじゃないかって」
「そうだったのか……」

 そんな話を千蔵から聞いたことはなかったが、母親が亡くなってからの家の中は、俺の想像以上に大変な状態だったのだろう。

「それからは父だけに負担がいかないように、家事とか他のできることはもっと兄と分担できるようにしてたんだけど……父譲りなのか、紫稀(しき)はああいう性格だから余計に自分が頑張らなきゃって思ったみたいで」

 どこか不服そうにも見える彼女は、ある意味では俺と同じようなもどかしさを感じているのかもしれない。ましてや一番近い家族という存在なのに、父親も兄も抱え込みやすい性格をしているなんて。

「……紫稀、最近は早朝に新聞配達して、夜もたまに単発でバイトに出てるの」
「はぁっ……!? 冗談だろ!?」
「バカでしょ。うちはそこまでお金に困ってるわけじゃないし、あたしだってバイトするって言ったのに、おまえは勉強に専念しなさいって」

 まさか千蔵がそんな状態で生活をしていたなんて。今朝のアイツの姿を思い返して、俺の方が眩暈がしてきそうになる。

『兄はただでさえ大変だったのに』

 初めて紫乃から呼び出しを受けた時、彼女はそんなことを言っていた。もしかするとあの頃から千蔵は、ずっとそんな生活を送っていたのかもしれない。

「まあ、さすがにやりすぎだって父にも怒られたんだけど……その父が先週末にまた倒れて入院して」
「えっ……!?」

 先週末は千蔵と水族館に行ったばかりだが、帰り際の千蔵の強張った表情が脳裏に浮かぶ。

「命に別状はないの。入院も検査のためで、医者にはきつくお灸を据えられてるみたいだけど……父も今度こそ働き方を変えるって言ってるし」
「おまえもなんか……大変なんだな」

 淡々と話してくれているが、紫乃にだって色んな負担がかかっているのではと心配になる。

「あたしは別に。父や兄と違って自分のキャパは理解してるから、必要な時は人に頼れるし」

 けれど兄妹揃って先回りが得意なのか、俺の考えを察した彼女はそう付け加えてくる。

「ただ、紫稀が……ちょっと耳が聞こえづらいみたいで」
「え……?」
「病院にも行ったんだけど、心因性の難聴じゃないかって」

 その言葉に、反応の鈍かった千蔵の姿が思い浮かぶ。寝不足で頭が回っていないのかとも思ったが、そもそも声が聞こえづらかったからあんな反応になっていたのか。

「一時的なものだって話だけど……多分、父が倒れたことで、母の姿が重なったのかなって」
「…………」

 俺の知らないところでたくさんのものを抱え込んでいる千蔵に、言葉を失ってしまう。

(俺、そんなの全然知らねえで……ずっと負担かけて、デートまでして……)

 そんな状況下でも千蔵は、ずっと俺のことを気遣ってくれていたのか。デートだと呑気に浮かれていただけの自分が恥ずかしくなる。

「……あたしがなんで真宙(まひろ)にこんな話したかわかる?」
「え……そりゃ、俺が聞いたから……?」

 急な問いかけの意図が掴めずに、疑問符を浮かべたまま俺は彼女を見る。

「紫稀にとって、あたしはどこまでいっても妹で、”頼れる兄”の姿しか見せてくれない。家族だから話せることもあるだろうけど、家族だからこそ見せない顔もある」

 そう口にする紫乃はどこか寂しげにも見えたけれど、レンズ越しの千蔵に似た瞳がまっすぐに俺を見据える。

「でも真宙になら、紫稀は甘えられると思う」
「っ……」

 そんなにも大層な役割を、俺が担うことができるのだろうか? 自信などひとつも無いのだが、他の誰よりも千蔵を一番間近で見てきた紫乃が、俺を頼ってくれている。俺の背中を押してくれている。それが自信に繋がらないはずがなかった。

(俺が千蔵の支えになれる……?)

 無意識の言葉ではなく、今度は俺自身の意思で。千蔵が保健室から戻ってきたのは放課後で、しっかり眠ることができたのか、顔色は朝より随分良くなっているように見えた。

「千蔵、調子どうだ?」
「心配かけてごめん、もう大丈夫だよ」

 大丈夫と言って笑う千蔵は、やはり自ら本心を見せようとはしない。

「あのさ、おまえの妹から色々聞いたんだ。……勝手なことして悪いけど、俺にも何かできることねえかなって」
「……!」

 家庭の事情が俺にまで伝わると思っていなかったのか、目を丸くした千蔵はすぐに取り繕うみたいに笑う。

「……ありがとう。けど、これはうちの問題だから」

 千蔵から明確に線を引かれた。そう認識した瞬間、俺は身動きが取れなくなってしまう。少しだけ期待をしてしまっていたのかもしれない。俺にだけは頼ってくれるのではないかと。「帰ろうか」と話題を打ち切った千蔵に、やっぱり俺には何もできないのだろうかと胸が締め付けられる思いがした。

「ただいま……」

 落ち込んだ気持ちのまま帰宅すると、家の中に作業着を着た見知らぬ男性がいる。

「おかえり真宙。ちょっと水漏れしててね、今直してもらってるのよ」
「あー、そうなんだ」

 どうやら水道業者のようで、キッチンでガチャガチャと作業をしているらしい音が聞こえてくる。キッチンから一続きになっているリビングに向かうと、見当たらないと思っていた愛猫のきなこが、猫ちぐらの中に避難しているのが見えた。

「きなこー、ただいま」
「シャーッ!」
「うわっ、そんな怒るなって」

 怯えた様子で俺を相手に威嚇してくるきなこは、突然やってきた業者の人間の存在に警戒しているのだろう。何かあれば飛び込む猫ちぐらの中は、きなこにとって絶対的な安全地帯なのだ。

(……ああ、千蔵もこんな気持ちだったのかな)

 自分の殻に閉じこもってしまった千蔵と、今のきなこの姿が重なって見えてしまう。猫ちぐらは隠れ場所でもあるけれど、安心できるゆりかごのような場所でもあるはずだ。千蔵にもきっと、そんな居場所が必要なんじゃないだろうか。
 電車の中で俺を助けてくれたあの日からずっと、俺は千蔵に救われ続けている。たった一度線を引かれただけで、あっさり引き下がれるはずがない。

(今度は俺が、千蔵を助ける番だろ)




 翌日。いつも通りに登校する千蔵は、傍目には何も変わりがないように見える。目元のクマも昨日よりは薄くなっているようだが、昨日の今日で耳まで全快するとは思えない。

「千蔵くん、先生からの伝言を頼まれたんだけど……」
「ありがとう、何かな?」

 教室で女子生徒に話しかけられた千蔵は、じっと彼女の顔を見つめて話を聞いている。対する女子は一目でアイツを好きだとわかる反応で、そんな相手に見つめられて緊張しないはずもない。

「えっと、3限目の後に教室移動になるでしょ? そ、その後にね」
「うん」

 真っ赤になりながら説明する彼女を、可哀想なほどに見つめ続けている千蔵。けれどよく見てみれば、千蔵の目が追っているのは別のものだと察する。

(アイツ……もしかして、口元の動き読んでんのか……?)

 母親との手話の流れで身に着いたものなのかもしれないが、耳が聞こえにくくなってから、千蔵はああして会話を成立させていたのだろうか。

(器用な奴……けど、それだって限界があるだろ)

 そう思った矢先、案の定千蔵を困らせる状況に陥る。一対一で会話していた女子を羨ましく思ったのか、他の女子生徒たちがちらほらと千蔵の周りに寄ってくる。そうして自分も輪に加えろとばかりに四方から話しかけ始めたのだ。

「ねえねえ千蔵くん、私も聞きたいことがあるんだけど」
「あっ、私も! 勉強教えてもらいたいなって」
「ずるいずるい! ならあたしだって……!」

 あっという間に取り囲まれた千蔵は、彼女たちの言葉を目と耳で懸命に追いかけようとしている。けれど多対一では難しいようで、その場を切り抜ける術を探しているようだった。

(あーもう、見てらんねえ……!)

 席を立った俺は鞄の中から掴み取ったヘッドホンを手に、千蔵のもとへズカズカと歩み寄る。

「千蔵! これ聴いてくれよ!」

「きゃっ……!?」

 女子たちの間に割って入った俺は、千蔵の耳に有無を言わさずヘッドホンを装着する。急な割り込みに驚いたのは女子たちだけでなく千蔵本人も同様で、ぽかんとした顔で俺のことを見上げていた。

「ちょっと、橙邪魔しないでよー!」
「うるせえな、帰りにカラオケ行くって約束してんだよ」
「えっ……?」

 もちろんそんな約束をした覚えは俺にもないので、千蔵だって状況を把握できておらず目をぱちくりとさせている。しかし構わずに繋いだスマホから適当な音楽を流して、俺は輪の中を抜け出していく。

「今日中に全部覚えろよ! じゃねーとカラオケもメシ代もおまえ持ちにするからな!」
「うわっ、橙サイテー!」
「なにそれ、千蔵くん可哀想じゃん!」

 女子たちからの盛大なブーイングを背中に受けつつも、それ以上取り合うつもりはないと俺は自分の席に戻る。

(予備にって言われたアイツのヘッドホン、持ち歩いてて正解だったな)

 耳が聞こえにくいのだと伝えれば簡単なのに、自衛モードに入っている今の千蔵にはそれができないのだろう。耳の事情を話したところで王子親衛隊の女子たちは騒ぎ出すのだろうから、言わないという選択は正解なのかもしれないが。
 そうして迎えた放課後には、カラオケと言った手前同行を求める声が――女子というより主に塚本辺りから――上がる前に、俺は千蔵を引き連れて足早に教室を後にした。

「……橙、ごめん。今日ずっと気を使わせてたよね」

 歩きながら申し訳なさそうに肩を落とす千蔵に構わず、俺は駅の方角に向かって歩き続ける。

「オレはもう大丈夫だからさ」
「……大丈夫じゃねーだろ」
「橙……?」

 ここまで来てもなお、俺に頼ることをしようとしない千蔵に苛立ちさえ覚える。おまえは本当に大丈夫だと、そう思って口にしてるのかもしれない。だけど、大丈夫じゃないのは俺の方だ。

「俺って、おまえにとってそんなに頼りない存在か?」
「なに……? ごめん、よく聞こえなかった」

 誤魔化そうとしているわけじゃない、本当に言葉が届いていないだけだ。俺は千蔵を睨みつけて指をさすと、両手の親指と人差し指でそれぞれ輪を作り、輪の部分を繋いで前に押し出す仕草をする。千蔵が息を吞むのがわかった。続けて千蔵を指すように両手の人差し指を立てて、それを内側に近づけていく。

――――おまえとずっと一緒にいたい。

 足りない動作もあるし、ここまでが今の俺の精一杯だった。それでも意味はきちんと伝わったらしく、口元を押さえた千蔵が声を震わせる。

「っ……そんなの、いつの間に覚えたの……?」

 千蔵に声が届くように、少しだけ距離を詰めてはっきりと言葉にする。

「おまえは、俺が頼るのが自分だけなら嬉しいって言ってた。俺だって同じだ。大事な奴を気遣うのは当たり前だろ、おまえに頼ってもらえたら嬉しいに決まってる」
「……勝てないなぁ」

 泣きそうな顔で笑う千蔵が、線を引いていたそれまでとは明確に違って、はっきりと俺という存在を捉えてくれている。少し寄り道をしていかないかという誘いを断るはずもなく、俺と千蔵は帰り道から少し外れた河川敷へと足を運ぶことにした。

(こんな場所があったんだな)

 夕焼けに染まるその場所は地元の人間が犬の散歩やウォーキングに使うくらいで、水音や葉の揺れる音が心地良い。

「……父が入院したっていうのも聞いた?」
「ああ、多分妹が大体話してくれた気がする」

 並んで地べたに腰かける千蔵は川の方へと視線を投げながら、ぽつりぽつりと話し始める。

「母さんが亡くなってから、二人分頑張らなきゃって父さん無理しすぎたんだよね……でも倒れたって聞いた時、父さんもいなくなるんじゃないかって……正直怖かったんだ」

 突然片親を失ったのと近しいタイミングでそんなことが起これば、千蔵じゃなくたって不安を抱えて当然だ。

「だけどオレは兄だから、ここでオレまで崩れるわけにはいかないって、紫乃(しの)を不安にさせちゃダメだって思ったんだ。でも……オレってダメだね」

 自嘲する千蔵は紫乃の言っていた通り、どこまでも完璧で頼れる兄であり続けようとしたのだろう。

「ダメじゃねーだろ。そんな状態だってのに、おまえは俺のことまで助けてくれてた。スゲー奴だよ」
「そんなことないよ。空回りして調子崩して成績まで落ちる始末だし、疎かになってる部分はあったんだ」
(あ……期末の成績下がってたのも、これが原因だったのか)
「橙を助けてるつもりで、そばにいたくて甘えてたのはオレの方なんだよ。なのに今度は橙を遠ざけようとして、ワガママだよね」
「……ワガママだっていいだろ」

 俺の方からそっと触れた手は怯えたように一度離れて、確かめるみたいに遠慮がちに触れてくる。それがまるで猫みたいだなんて思いながら、俺はしっかりとその手を握った。

「頼りなくたっていい、ワガママだっていくらでも言え。俺はおまえにとって王子なんだろ?」
「……っ、ふふ。そうだね」

 目を細めて笑う千蔵は、今度こそ迷いが吹っ切れたように俺の手を握り返してくる。

「……初めてだな、誰かにこんな弱い自分を見せるのは」

 甘えるみたいに肩に乗せられる頭の重みが愛しくて、ここが河川敷じゃなかったら千蔵にキスしてやりたいなんて思う。

「ねえ、橙。……オレも、ずっと一緒にいたいよ」

 抱えていた不安やすれ違ってきた時間も、全部が夕焼けの赤に染まって消えていくような、静かで穏やかな空間。これが幸せってやつなのかと、俺は心の底から実感していた。






 いつも通りの朝の風景。変わらない日常の一コマ。そのはずだったのに、あれから数日経った今朝の空気はいつもより砂糖を多めに含んでいるものだったらしい。

「おはよう、橙」
「はよ。昨日病院行ってきたんだろ? どうだった?」

 タイミングよく空いた席に並んで座りながら、俺は千蔵の耳の調子を尋ねる。万が一にも悪化するようなことにはならず、ストレスを取り除く生活を心がけ始めたからか、着実に聴力は戻ってきていると聞いていた。

「順調に良くなってきてるって。橙の声もよく聞こえるよ」
「ッ……!」

 後半はわざと耳元で囁いてきた男のせいで、俺は隣に座っていたサラリーマンにぶつかってしまい、謝罪をしてから千蔵の方へと身を寄せる。

「ったく、すっかり調子取り戻しやがって。もう少し殊勝な態度でいても良かったんだぞ?」
「オレはいつでも殊勝でしょ」
「泣きべそかいてたクセによ」
「泣きべそはさすがに誇張じゃない?」

 軽いやり取りを繰り返す合間も、俺を見る千蔵の瞳が以前にも増して甘ったるく感じるのは、多分気のせいではない。心なしか距離だって近いのだから。教室に到着した千蔵は早速女子に話しかけられているのだが、左側からの急な声かけにはまだ反応しきれないことを知っている。

「千蔵くん、今日高橋くんが欠席だから日直変わってほしいんだけど大丈夫かな?」
「え……っと」

 やはり聞き取れなかったらしい千蔵は、僅かに困った様子でちらりと俺の方へ視線を向けてくる。

――――今日、日直。

 日直なんて手話を知るはずもないので、黒板に書かれた日直の方を指差したりと簡単なジェスチャーで伝えてやる。それでも内容を理解したらしい千蔵は、女子に向かって「大丈夫だよ」と返していた。小さなことでも役立てるのは嬉しい。いずれ千蔵の耳が回復したら必要なくなるものなのだろうが、俺はさらなる学びのために電子サイトで手話に関する本を購入していた。

(どんな手話覚えたらびっくりさせられっかな……あ)

 スマホでページを捲りながら思考を巡らせていた俺は、廊下の向こうに今しがた登校してきたらしい紫乃の姿を見つける。

「紫乃……!」

 教室を抜け出して声をかけると、少しだけ怪訝な顔をされるが彼女は立ち止まって俺に向き直ってくれる。

「紫稀の件、上手くやってくれたみたいね」
「ああ……一応、甘えさせることはできた……ハズ」

 俺が切り出す前にそう話し出す紫乃は、やはり俺たちの状況をある程度把握しているのだろう。それに彼女がそう感じているということは、家の中での千蔵にも変化があったのかもしれない。

「力を貸してくれてありがとう」
「……おう。こっちこそ、色々教えてくれたり、ありがとな」

 少しだけ微笑んでくれた彼女は、やはり顔立ちが千蔵と似ているだけあって美人なのがわかる。自分の教室へ戻る紫乃を見送ってから俺も引き返そうと振り返ると、すぐ後ろに立っていた人物にぶつかってしまった。

「うわっ!? 悪い……って、千蔵?」

 まさかこんな近くにいるとは思っていなかったのだが、千蔵はなんだか面白くなさそうな顔をしているように見える。

「紫乃となに話してたの?」
「え、なにって……おまえの話?」

 別に嘘は言っていないというのに、「フーン?」と俺を見る千蔵はもの言いたげな様子だ。

「な、なんだよ……?」
「いつの間にそんなに仲良くなったの?」
「仲良くってほどじゃ……」

 千蔵の考えていることがわからず、俺がどうしたものかと考えていると、不意に千蔵が耳元に顔を寄せてくる。

「……今日、橙の家に行ってもいい?」
「え……? いいけど……」

 突然どうしたのかと視線で問いかけるが、約束を取り付けた千蔵は満足そうに教室へと引き返してしまった。

(あ、きなこに会いに来んのか)

 勉強場所探し以外の目的でアイツがうちに来ることがあるとすれば、それが理由かと納得する。放課後になると千蔵と共にまっすぐに俺の家へと向かう。電車の中でも道中でも他愛のない話をしていたはずなのだが、千蔵に変化が現れたのは家に着いた時だ。

「お邪魔します」
「ニャオン」

 声に反応して千蔵を出迎えに現れたきなこは、久々に構ってもらえるのだと期待の眼差しで客人を見上げている。しかし千蔵はニコリとしてきなこをひと撫ですると、そのまま猫に構わず俺の部屋へと移動してしまった。

(え、なんだ……? なんか怒ってる……?)

 そんな風には見えなかったのだが、取り残されたきなこの頭を申し訳程度に撫でてから、俺も千蔵の後を追いかける。部屋に入った途端、他者の侵入を拒むみたいに扉が閉められる。その扉を背に何故だか千蔵の両腕の間で逃げ場を失った俺は、見たことのない男の顔に戸惑いつつ恐る恐る名を呼んでみる。

「ち、千蔵……?」
「文化祭の時から気になってたんだ。名前で呼んでるよね?」
「え……?」

 問いの意味がわからなくて必死に思考を巡らせていくと、辿り着いたのは今朝の紫乃とのやり取りだ。会話を終えた直後に後ろに立っていた千蔵には、会話の内容までは把握できなくとも、おそらくその一部は聞こえていたのだろう。

「いや、だって、どっちも千蔵だしわかりづらいって……」
「オレは恋人なのに、苗字で呼んでる」

 怒っている、というよりも拗ねているという形容の方が適切に思える千蔵の反応に、俺の頭が大混乱する。

(え……えっ、え? もしかして……)

「おまえ……妬いてんのか?」

 だって、まさか、妹に? 頼れる兄でいたいなんて話していたコイツが、嫉妬してるのか?

「……めちゃくちゃ妬いてるよ」

 不服そうに肯定した千蔵が頬にキスしてきたかと思うと、こめかみや鼻先にも次々と唇が落ちてきて、俺の気持ちが追い付かない。

「ちょっ……ち、千蔵……っン」

 苗字で呼んだことが気に食わなかったのか、今度は唇を塞がれてしまう。それだけではなく、閉じた唇の隙間を濡れた感触がなぞっていく。驚いて開いた口の中に熱が潜り込んできて、それが千蔵の舌なんだと認識したのは小さな硬い感触があったから。

「んっ……ぅ……!」

 控えめに響く水音が隙間からこぼれて、俺は呼吸の仕方もわからないまま千蔵の舌に翻弄される。こんな深い口付けは知らないのに、口の中にピアスが当たる度に全身がぞわぞわするのを感じた。

「ッ……ん、……し、き……っ」

 キスの合間に息も絶え絶えになりながら、俺はどうにか下の名前で呼ぶ。ようやく唇が離れていく。腰に回された腕に力の抜けた身体を支えられながら、未だ吐息の触れる距離にある千蔵の瞳が甘くとろけているのが見えた。

「……真宙(まひろ)

 そんなに砂糖をまぶしたら胸焼けしちまう。そう感じるくらいの甘い声が、俺の名前を口にする。

「大好き。真宙、もう逃がさないから」

 首元に腕を回して触れるだけのキスをすると、千蔵――紫稀から倍のキスが返ってくる。

「……逃げるつもりねえよ。俺にとっての猫ちぐらはここなんだから」

 幸せに満たされすぎた空間で、俺にだけ向けられる紫稀の独占欲が心地良い。触れた箇所から伝わってくる自分のものではない体温に、隣にいることを諦めなくて良かったと心の底から実感する。

「そういやおまえ、褒美ってなに欲しかったんだよ?」
「……え、もしかしてまだ試験の時の話してる?」
「だって結局聞けてねえだろ」

 引きずり続けていると思われるかもしれないが、ずっとはぐらかされてきたのだから、いい加減教えてくれてもいいだろう。

「いいよ、教えてあげる」

 甘やかしたくてたまらない。そんな顔をして、紫稀はもう何度目かもわからないキスを落とす。

「オレが欲しいのは、ずっと真宙だよ」

 どんな場所よりも安心できる腕の中に閉じ込められて、俺はゆっくりと瞼を伏せる。

(そんなの……とっくに全部、おまえのモンだ)


 こんなにも呼吸のしやすい場所があるなんて、あの頃の俺は……俺たちは知らなかった。知らずに過ごすところだった。

 互いというゆりかごの中で、俺たちはようやく安心できる居場所を見つけたんだ。