【7話】
昨日はほとんど眠ることができなかった。
何をしていても浮かんでくるのは千蔵の顔ばかり。頭の中はパニック状態で、その後のことなんてよく覚えていない。ただ触れた唇の柔らかさだけが妙に鮮明に残っていて、思い出すたびに心臓が暴れては寝返りを繰り返していた。
「おはよう、橙」
「っ……! はよ……」
朝の電車。到着した車内に千蔵がいるのはもう見慣れた光景だというのに、ドアが開いた瞬間鼓動が跳ねる。一方の千蔵は普段通りの柔らかな表情で、こちらが拍子抜けするくらい自然体に見えた。
「そういえば今日って小テストあるよね、荒井先生クセのある問題出すからなぁ」
「あ、アイツ絶対引っかけやって楽しんでんだよ」
「橙はそういうの引っかかりそう」
「どういう意味だ」
ごく普通の会話を繰り返すうちに、電車は学校の最寄り駅へと到着する。教室に向かうまでの道のりも特に代わり映えのしないもので、俺は妙な不満を抱えてしまっていた。
(両想いってこんなもんか……? ダチの時と何も変わらなくないか?)
まるで自分だけがあのキスを意識しているみたいで、千蔵が普段通りでいる分いっそ間抜けにすら思える。
(いや、別にいいんだけどよ。付き合うってなったらもう少し、こう……)
そこまで考えたところで、俺ははたと気がつく。
(……俺、千蔵に好きって言ってなくないか!?)
誰もいない教室で、俺は確かに千蔵とキスをした。俺のことが好きだとも言われた。好意の無い相手とキスなんかしないんだからその時点で両想いだろうと思う。けれど千蔵はいつも通りの過ごし方をして、手のひとつも繋ごうとはしない。
(誰かと付き合った経験とかねえけど……これじゃあダチのまんまじゃねーか!)
せっかく千蔵が気持ちを伝えてくれたのに、一方通行では意味がない。
(なら、俺も千蔵に好きだって言えばいいんだよな!?)
両想いだとわかっているのだから怖気づくことなど何もない。千蔵にも両想いであることを認識してもらうだけの話だ。そう思って動き出そうとした俺は、想像以上に告白のタイミングが無いことを痛感することになる。
教室には当たり前だがクラスメイトが大勢いるし、廊下や裏庭にも誰かしら人がいるものだ。いざ探してみれば案外二人きりになれる場所というのは難しく、かといって人気が無いからとトイレやゴミ捨て場で告白するのは違うだろうと、さすがの俺でもわかる。
授業の合間の休憩時間や昼休み、放課後になるまでの間、タイミングを見失い続けてしまった俺はいよいよ帰り道に突入した。
(ど、どうすれば……いっそスマホで送るか……!?)
「……橙?」
ぐるぐると頭の中で考えを巡らせていた俺を、隣を歩きながら不思議そうに見ていた千蔵は、さすがに不審に思ったようで声をかけてくる。
「っ……!」
不意に、千蔵の手の甲が俺の手に触れた。そのほんの僅かの接触に驚いた俺は、反射的に手を引いてしまう。
「……あ、ごめん」
何も悪いことはしていないというのに、俺の反応に驚いた千蔵は少しだけ寂しそうに笑って見せる。
「あ、いや、ちが……っ」
拒絶をしたわけではない、意識をしすぎてしまったせいだ。だけど千蔵にはそんなことわかるはずもない。
「急にあんなことしたから、無理させてるよね」
「え……」
「昨日のことは忘れてくれていいから」
あくまでも優しい口調で、俺のことを気遣うように目を伏せる千蔵にズキリと胸が痛む。
「ち、千蔵……っ」
「でもさぁ、あいつムカつくじゃん!?」
「わかるーっ!」
誤解を解こうと口を開きかけた時、俺たちの横を通り過ぎていく見知らぬ生徒の声に言葉を飲み込んでしまう。こんな場所で千蔵を好きだなんて話したら、嫌でも注目の的になってしまう。
「ごめん、帰ろうか」
そう言って背を向ける千蔵がそれでも別行動を取ろうとしないのは、きっと俺を一人で電車に乗せないためだとわかる。酷いことをしているのは俺の方なのに、こんな時でも千蔵は俺のことを考えてくれているんだ。
(それなのに、俺は……っ)
このまま俺が訂正しなかったら、また夏休み前の二の舞になってしまうかもしれない。忘れてくれと言った千蔵は、自分自身もきっとその感情を忘れようとするんじゃないだろうか? そうなればこの関係も薄れて、二度とこの手は千蔵に届かなくなってしまう。
(そんなの……絶対に嫌だ……!)
俺は千蔵の腕を掴むと、そのまま全力で地面を蹴って走り出す。
「ッ……橙……!?」
向かった先は駅ではなく、以前紫乃に連れて行かれた公園もどきだった。幸いにも人の姿は見当たらないが、もし人がいたとしても関係ない。他に行き場が思い浮かばなかったのだから。大きな木の陰で足を止めると、乱れた呼吸を整える俺の耳に千蔵の困惑した声が届く。
「か、橙……急にどうしたの?」
「……俺のこと、嫌いになったか?」
ゆっくり顔を上げた先で、千蔵が両目を見開いている。狡い問い掛けをしているとわかっていたが、そうせずにはいられなかった。
「そ、そんなことあるわけないだろ」
はっきりと否定する言葉に緊張が解けて、代わりに千蔵を好きだという想いが溢れ出てくる。
「けど……オレは橙に無理してほしくないんだよ」
「おまえといて、無理なことなんか何もない」
「え……?」
「俺だって千蔵が好きだ!」
どこか迷子みたいな顔をして俺を見る千蔵に、今度こそはっきりと自分の気持ちを言葉にする。
「す、好きって……橙、それどういう――」
最後までは言わせなかった。人間としてでも、友達としてでもない。それを正しくコイツに伝えるために、俺は自分から押し付けるように唇を重ねた。
「っ……!」
驚きに瞳を揺らした千蔵の頬が、徐々に色づいていくのが間近に見て取れる。多分、俺も同じくらい顔が赤くなっているのだろう。
「ホントに……ホント?」
「冗談でこんなことすると思ってんのか」
「いや、思ってない……」
そのまま千蔵の両腕が俺の背中に回った……かと思ったのだが、なぜだか千蔵の腕は途中で固まって行き場を失っている。
「……?」
どうしたのかと視線で千蔵に訴えかけると、少し悩んでから苦笑交じりに思いがけない言葉が返ってくる。
「なんか今、力加減ができなさすぎて……抱き潰しそう」
一瞬、間抜けなほどの沈黙が俺たちを包み込む。この男でもこんな風になることがあるのかと、新しい発見に次第に笑みがこぼれていく。
「じゃあ……俺がやる」
そうして千蔵を強く抱き締めた俺は、結局回された腕の想像以上の力の強さに驚かされることになるのだが。愛おしい体温を今度は絶対に離さないよう、窮屈なほどに俺たちは身を寄せ合っていた。
*
翌朝。起き抜けのベッドの上でスマホが震えたことに気づいて、それを手に取ると画面を確認する。
『おはよう』
届いていたのは短いメッセージで、送り主は確認するまでもなく千蔵だった。たった四文字の見慣れたメッセージだが、俺は思わず口元がニヤけてしまうのを感じる。これだけの単純なことで最高の一日がスタートしていく。千蔵という男は、一体どれだけ俺のことを翻弄すれば気が済むのだろうか。
(つーか今日、どんな顔して会えばいいんだ……?)
俺たちは今度こそ正式に両想いになった。別にべったりとひっついてバカップルのようなことをする必要などないので、自然体でいいはずなのだが。寝癖はついていないだろうか。恋人とはどんなことをすればいいのだろうか。そんなことを考え続けながら、家を出た俺は今日も決まった時間に到着する電車を待つ。
(学校帰りとか、遊びに誘ってもいいのか……?)
友人関係であっても遊びに誘うくらいは日常茶飯事ではあるのだが、付き合うことになってから出掛けるのは初めてのことになる。
(デート、とか……別にそんな大げさなもんじゃねーけど……!)
誰にともない言い訳を頭の中でしている俺の前に、見慣れた車体が滑り込んでくる。
「おはよ」
「……はよ」
開いたドアの向こうには千蔵の姿があって、混雑する電車内でドア横に立った俺に、半ば覆い被さるみたいな形で千蔵が立つ。いつもの光景であるはずなのだが、以前よりも少しだけ距離が近いような気がする。
(……意識しすぎかもしんねえけど)
ぱちりと目が合った千蔵が蜂蜜みたいにとろける笑みを向けてきて、胸を撃ち抜かれた気がした俺は、視線のやり場に困って足元を見る。
「ねえ、橙。週末って何か予定あったりする?」
「え……なんもねえけど」
急な問い掛けに少しだけ顔を上げると、内緒話をするみたいに千蔵の顔がすぐそばにあってドキリとする。
「じゃあさ、二人で出掛けない?」
「……!」
まさか千蔵の方から遊びの誘いがあるとは思わず、少しだけ以心伝心のような気分になって頷く。
「いいな、どっか遊び行こーぜ」
けれど千蔵はさらに顔を寄せてきたかと思うと、耳元に触れそうな距離で唇が動く。
「デートだからね?」
「なっ……!?」
わざわざ釘を刺すようにそう言われて、思わず顔が熱くなってしまう。
「……ンなこと言われたら、変に意識しちまうだろうが」
昨日のようにまた悪い勘違いを起こさせるようなことをしたらどうしてくれるのか。そんな抗議の意味で伝えたはずなのに、当の千蔵は悪戯っぽく笑って続ける。
「意識してほしいから言ってるんだよ」
もう何度目かもわからないほど、心臓が跳ねたのがわかる。こんな状態でデートなんて、俺の心臓は果たして持ってくれるのだろうか?
贅沢な不安を抱えたまま週末を迎えるのはあっという間で、千蔵に連れられて到着した先は有名な水族館だった。
「デートに水族館って、なんかベタだな……?」
別に不満があるわけではないのだが、千蔵という男が選ぶにしてはベタすぎるという感想が真っ先に浮かぶ。特別魚が好きだという話をしたわけでもないからなおさらだ。
「ベタな方がデートって感じがしていいでしょ。それに、中は暗めだからあんまり人目を気にしなくていいかなって」
(まさか、俺のこと気遣ってここ選んだってことか……?)
そこまでしなくていいと思うのに、どこまでも俺を最優先に考えてくれる千蔵の気持ちが素直に嬉しい。
「……ありがとな、千蔵」
「いいよ。それに……人目を気にせず、橙にはオレのことだけ考えててほしいし」
「っ、なんだそれ」
「ほら、行こう。チケットは買ってあるからすぐ入れるよ」
「え……」
千蔵のスマホの画面には、確かに入場用の電子チケットが表示されている。どこまでも用意周到な男だと思うが、俺は慌てて財布を取り出そうとする。
「半分払う、いくらだっけ?」
「いいよ、今日はオレが誘ったから」
「いや、でも……」
「早く、急がないと置いてっちゃうよ?」
俺の言葉を待たずに入場口へと向かう千蔵に、置いていかれては入場できなくなると俺も後を追いかける。結局チケット代は甘えることになってしまったが、館内を回り始めると申し訳なさも徐々に薄れていった。休日ではあるが思ったほど混み合っておらず、のんびりとしたペースで展示された魚を鑑賞することができる。
「あ、ねえ見て。あそこの魚、ちょっと橙に似てる」
「え……どれだよ?」
「ほら、あそこの端で泳いでるやつ」
「……似てねえだろ、どこがだよ」
小さな水槽を見る千蔵の指差す先を追うと、黄色みがかった魚が一匹泳ぎ回っている。どう見ても顔が似ているとも思えなくて、髪の色だけで判断しているだろうと指摘すると、千蔵は悪戯が成功した子どものように無邪気に笑う。
「なら……あっちはおまえだな」
「え、もしかしてあの黒っぽいやつ?」
「おう。色と……あと動きもちょっと似てる」
「いや、オレあんな動きしてないでしょ」
抗議しながらも俺の指差した魚を目で追い続けている千蔵の、楽しそうな横顔をこっそり盗み見る。千蔵の想定した通り水族館の中は薄暗い場所が多くて、男二人で多少距離が近い状況でもこちらを気にする人間はいない。
「そうだ、もう少しでイルカショーが始まるらしいんだけど、見に行く?」
「せっかく来たんだし、そりゃ行くだろ……っ」
時計を確認した千蔵の提案に移動をするかと動き出した時、俺の手に何かが触れる。それが目の前の男の指だと気づいた時には俺の指はゆるく絡め取られていて、驚いて千蔵を見ると反対の指を口元に当てて「内緒」と言うように微笑む。
「……っ」
離そうと思えば難しいことなどなくて、少し力を入れればすぐにでも指は解けていくだろう。だというのになぜか甘い拘束を抜け出すことができなくて、明るい場所に移動するまで俺たちは密かに指先を繋いだままだった。
そうして訪れたイルカショーの会場は、屋外ということもあって先ほどまでの雰囲気とは一転し、活気もあって賑わっている。最前列には家族連れやカップルも多く着席していて、なんとなく場違いなのではないかと思いつつ、俺たちも前方の席へと腰を下ろす。
「こういうの、ガキの頃ぶりかも」
「オレもそうかも。あ、始まるよ」
準備が整ったらしく、進行役の女性がマイクを使ってショーの始まりを知らせながら、巨大な水槽の中を泳ぐイルカを器用に操っていく。軽快なBGMと共に様々な芸を見せるイルカに夢中になっていると、さほど長くないショーが終盤を迎えるのは想像以上にあっという間だった。不意に、俺たちの両隣りや前方に座っている客たちが、大きなビニールやタオルのようなもので遮蔽を作っていることに気がつく。
「……あ」
それが何を意味するのか思い至った次の瞬間。目の前の水槽でひと際豪快に跳ね上がったイルカが、こちらに向けて盛大な水しぶきを飛ばしてきた。
「うわぁっ!?」
イルカショーといえば定番ともいえる一芸だ。想定していなかった俺たちにそれを避ける術などなく、俺も千蔵もまとめてびしょ濡れ状態になってしまった。
「っ、あはは……! すっごい濡れたぁ」
「マジかよ、滴ってんだけど……!」
モロに水を食らった俺たちの姿を見て、周囲の客が笑っているのがわかる。けれどそれが気にならないほど、俺たちは互いの顔を見合わせて笑っていた。びしょ濡れの状態でいるわけにもいかず、俺たちはひとまず土産コーナーへ足を運ぶと、そこで売られていたTシャツを購入してトイレで着替えを済ませる。意図せずペアルックのようになってしまったのは恥ずかしいが、この際水族館を存分に楽しみに来たのだと開き直るしかない。
「はー、災難だったな」
「タオルも売ってて良かったね」
「こういう想定で売れるって思われてんのかもな」
ずぶ濡れになったことでテンションが下がってもおかしくないと思っていたのだが、それどころか楽しいという気持ちが尽きない。こうしたハプニングに見舞われる時間も、千蔵とだから特別なものだと感じられているのかもしれない。
「こんなに楽しいなら、もっと早くデートしたら良かった」
「それは同意だな」
(夏休みも勿体ないことしちまったよな……、あ)
そこまで考えて、俺はまだ千蔵を避けていた時期のことをきちんと謝罪していなかったと思い出す。
「そういや、千蔵……悪かった」
「ん? なんの謝罪?」
「期末試験の後から、その、一方的に距離置いてたから……」
「ああ、そんなの気にしてないよ」
「……マジで気にしてねえ?」
念のためにともう一度問いを向けると、千蔵の口元から笑みが消える。次いで長い指がそっと俺の頬に触れた。
「……うそ。ホントは寂しかった」
「ッ……!」
まるでしょげた犬が飼い主を見つめるような、そんな顔をして千蔵は小さく言葉を落とす。いつだってニコニコと愛想を振りまいているというのに、おまえはそんな顔もできるのか。
「っ……千蔵」
「あのぉ……」
その時、見知らぬ女性二人組に声をかけられる。正確にはその二人は、千蔵の方を見ているのがわかった。
(あ……これってもしかして)
「さっき一緒のショーを見てたんですけど、お二人で来られてるんですか?」
「あたしたちも二人で来てて、良かったらご一緒にどうかなって」
もしやと直感した通り、これは俗にいうナンパというやつだ。俺自身は初めての経験なのだが、千蔵にとっては今に始まったことでもないのだろう。
(男なら普通は喜ぶトコか? けど、俺らは今日は……)
「えっと、悪いんだけどパートナーは間に合ってるんだ」
「えっ……?」
断りを入れると同時に、千蔵は俺の手を取るだけでなくしっかりと握り締めてくる。
「ごめんね」
女性二人が呆気に取られている隙に、俺を連れて千蔵はその場からスマートに離れていった。女性を相手に誤魔化すわけでもなく、はっきりパートナーだと口にした千蔵に、ムズムズとした感覚が込み上げてくる。
「勝手に答えてごめん、橙。けど、食い下がられても面倒だから」
「いや……俺は別に、いい」
(隠さなくていい関係だって思ってる、ってことだよな……?)
暗がりではないので、女性たちが見えなくなると繋いだ手は離れてしまったけれど、不思議と満たされた気持ちになる。それと同時に、千蔵はモテる男なのだというわかりきった事実に少しだけモヤつきも感じたりして。
「……おまえって、いっつも女に声かけられてるよな」
「そうかな? まあ、そういう時もあるかも……?」
特別他者と比較したこともないのだろうから、肯定できないのも仕方のないことかもしれない。それでも少しくらいは自覚をもってほしいとも思う。無意識にモテ続けるこの男が、いつか他の人間に奪われてしまわないとも限らないのだ。
「……妬いた?」
「ッ……!」
どこか嬉しそうな問いを向けられて、図星を突かれた俺はすぐに言葉を返せずに無意味に口を開閉させる。
「どれだけ声をかけられても意味ないよ」
「モテ男の余裕か」
「違うよ。相手が橙じゃなきゃ、オレにはなんの意味もないってだけ」
当たり前のように言ってのける千蔵の言葉に、顔からぶわっと熱が吹き出したのを感じる。
(なんでこう、こっ恥ずかしいことをさらっと口にできるんだコイツは……!)
何度も何度も、千蔵に心臓を持っていかれてしまう。居心地のいい猫ちぐらの中にあるのは、平穏だけではないのかもしれない。
「うわ、スゲー綺麗……!」
館内の照明がひと際落とされた暗闇の中。食事処で昼食を済ませた俺たちは、青い光が揺らめくクラゲの水槽の前に立っていた。ふわふわと水の中を漂うクラゲたちの動きは癒し効果を感じられて、普段はクラゲに微塵も興味の無い俺でも、多くの客がこの場で足を止める理由がわかる気がする。
「クラゲって半透明だから、照明が当たると綺麗だよね」
薄暗く幻想的な空間の中は、他の場所とは時間の流れが異なるように感じる。ゆったりとした雰囲気を楽しみながら、ふと隣に立つ千蔵を一瞥した俺は無意識に口を開く。
「……入学した時は、こんな風におまえと過ごすことになるとか思ってなかったな」
ぽつりと落とした声はしっかりと耳に届いていたらしく、こちらに視線を寄越した千蔵は微笑みながら控えめな声量で続ける。
「オレは、橙と一緒にいられたら楽しいだろうなって思ってたよ」
「え……そうなのか?」
「うん」
それまで一度も直接話したことなどなかったというのに、まさかそんな風に思われていたなんて想像もつかない。王子と呼ばれてただでさえ目立つ存在の千蔵ならともかく、自分がクラス内でそれほど強い存在感があるとも思えず、認識されていたことも驚きなくらいだ。
(髪の色で覚えられてたのか……? けど金髪は他にもいるしな)
水槽の青い光に柔らかく照らされる千蔵の顔は、これだけ照明が落とされた中でも整って見える。本当に綺麗な顔をした男だなんて、今さらのように再確認してしまう。
「橙、手話も随分覚えたよね」
「あー、まだ簡単なやつばっかだけどな」
「それでも覚えが早いと思うよ」
初めて千蔵の家に行った時に手話を教わって以来、自分でも手持無沙汰なタイミングで新しい手話を覚える時間が増えた。ほとんどが挨拶程度の簡単なものではあったが、それが千蔵に通じるのが楽しくて、いつの間にか知っている手話の数も増えていただけの話だ。
(別に覚えたからって使う機会もないんだけどな)
そんな話をしていると、最初に紫乃に会った時のことを思い出す。
「……そういえば、妹にやってたやつも手話だったのか?」
「ん?」
「初めておまえの家に行った時、なんかやってただろ。教えてくれなかったやつ」
「ああ……」
俺の言わんとしていることを理解したらしく、千蔵は瞳を細めてこちらを見つめてくる。
「オレの好きな人、って伝えてたんだよ」
「っ……!」
まさか自分の妹にそんな風に伝えていただなんて。それじゃあおそらく紫乃は、俺たちの今の関係についても察しがついているのかもしれない。
「……おまえさ、いつから俺のこと好きだったの?」
尋ねてもいいものか悩みはしたが、今なら聞いても許される気がして思いきって問いかけてみる。千蔵は少し俯いてから水槽のクラゲに視線を落として、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「……去年、母が事故に遭ったって話したよね」
「ああ……?」
「そこから少し……普通に生活はしてたんだけど、精神的に閉じこもってた時期があったんだ」
俺の問いかけへの答えとしてすぐには話が繋がらなかったものの、千蔵という男の性格を考えれば、周囲に心配をかけまいとして過ごしていた姿が容易に想像できる。
「学校が始まって、なんでもないように振る舞ってたんだけど……本当は、自分でも知らず知らずのうちに限界がきてたのかな。人と接するのがちょっとしんどくて」
(千蔵がそうなるって……全然想像つかねえな)
「周りはオレの事情なんて知らないから、欲しい反応が返せないと残念がられたりしてさ。そういうのも慣れたつもりでいたんだけど」
苦笑いを浮かべる千蔵に、俺は胸が締め付けられるような感覚を覚える。傍目には王子ともてはやされて羨む存在に見える男だが、実際本人が望んでそんなポジションにいるとは限らない。一部は理想像として千蔵に必要以上の期待を抱く。勝手に期待して、勝手に失望して。本当の千蔵という男を知ろうともしない。
「そんな時にクラスの人と話してた橙がさ」
「え、俺……?」
急に自分の名前が出てきたことに驚くが、当時の光景を思い出しているのか、千蔵の表情はひどく柔らかい。
「うん。『おとぎ話の王子様は不眠不休じゃないとダメなのかよ』って」
「俺、そんなこと言ってたか……?」
「言ってた。『王子って職業はブラックすぎるだろ』とか」
俺の記憶には残っていないのだから、クラスメイトとの会話の中で何も考えずに発した言葉だったのだろう。
「それ聞いて、もっと人間らしくいていいんだなって思えたんだよ」
そんな何でもない言葉が、千蔵の中にはずっと残り続けていたらしい。
「オレは王子なんて呼ばれてるけど……オレにとっては、橙が王子様みたいなものなんだ」
「お……俺は、王子とかって柄じゃねえだろ」
「ふふ、じゃあヒーローかな」
自分がそんな風に持ち上げられるのはむず痒い気持ちの方が強いものの、胸にじんわりと温かな感情が込み上げてくるのを感じる。
(俺も、千蔵の助けになれてたんだな)
静かに喜びを噛み締めながら、それからも他愛のない会話を繰り返すうちに時間は無情にも流れていく。無数の魚たちが縦横無尽に泳ぎ回る巨大な水槽を前に、帰りの時間が近づいているのだと実感した俺はどうしようもなく名残惜しさを感じてしまう。
「……今日が終わってほしくないな」
ぽつりと落とされた千蔵の言葉に、同じ気持ちを抱いていた俺は思わず隣を見る。どこか困ったようにも見える千蔵の笑みは、叶えようのないワガママを口に出してしまったことを気まずく感じているのかもしれない。
「また来たらいいだろ。デートできんのは今日だけじゃねえし」
暗に同じことを考えていると伝わっただろうか。俺の返答を予想していなかったのか、驚いた顔をした千蔵はそっと俺の腕に触れる。
「千蔵……?」
「……今、誰も見てないから」
ほとんど囁きのような声と共に、千蔵の影が近づいてくる。俺たちのすぐそばを通り過ぎていく名前もわからない魚を横目に、触れた唇は初めてのキスよりも長く重なっていた。
すべての展示を回り終えた俺たちは、出口の手前にある土産コーナーへと立ち寄る。イルカショーの後にTシャツを買いにやってきてはいるのだが、その時は目当て以外のものをしっかり見ている余裕などなかった。箱入りの菓子類からぬいぐるみ、雑貨など多種多様な商品がずらりと並べられていて、特に目的があるわけでもないのに目移りしてしまう。
「あ、橙みたいなやついる」
「は? おまえソレまた色だけだろうが!」
千蔵が手にしているのは、色違いが複数種類あるメンダコのキーホルダーだった。黄色に着色されたタコはどう見ても俺とは似ても似つかないのだが、千蔵は気に入ったらしくそれを買うとまで言っている。
「なら俺はお前に似てる方買うからな」
そう言って黒色のメンダコのキーホルダーを手に取ると、抗議をしてくるどころか千蔵は目を丸くする。
「じゃあ……おそろいだね?」
「っ……!」
そういうつもりではなかったのだが、これをお互いに買うとするならいわゆるイロチのおそろい状態だ。やっぱり別の物にしようかと頭をよぎったものの、目の前の男が思いのほか嬉しそうな顔をしているので、俺は結局訂正できないままそれを買うことになる。そもそも今日はペアルック状態で歩き回っているのだ、今さらキーホルダーがおそろいになったくらいで恥じらうこともない。
「チケット代出してもらってるし、これは俺が買ってくる。ここで待ってろ」
「え……じゃあ、お言葉に甘えて」
差し出した手に渡された黄色のメンダコと共に、俺はレジへと向かう。支払いを済ませて千蔵を探すと、土産コーナーの隅で邪魔にならないよう俺を待つ男の姿を見つけた。
「千蔵ー、買ってきたぞ」
小さな紙袋に入れられたキーホルダーを掲げながら近づいていくと、千蔵はどうやらスマホを眺めていたらしい。
(……あれ?)
なんとなくその表情が強張っているように見えて、俺は思わず足を止める。
「……あ、橙。こっちだよ」
けれど、俺が戻ったことに気がついて顔を上げた千蔵は特に変わった様子もなくて、気のせいだったのかと首を傾げる。
「ありがとう。それじゃあ、帰ろうか」
「おう」
幸せの余韻に浸りながら、千蔵に促されるまま俺は水族館の出口へと足を向ける。心の内側にほんのわずか、小さな引っかかりを残して。
昨日はほとんど眠ることができなかった。
何をしていても浮かんでくるのは千蔵の顔ばかり。頭の中はパニック状態で、その後のことなんてよく覚えていない。ただ触れた唇の柔らかさだけが妙に鮮明に残っていて、思い出すたびに心臓が暴れては寝返りを繰り返していた。
「おはよう、橙」
「っ……! はよ……」
朝の電車。到着した車内に千蔵がいるのはもう見慣れた光景だというのに、ドアが開いた瞬間鼓動が跳ねる。一方の千蔵は普段通りの柔らかな表情で、こちらが拍子抜けするくらい自然体に見えた。
「そういえば今日って小テストあるよね、荒井先生クセのある問題出すからなぁ」
「あ、アイツ絶対引っかけやって楽しんでんだよ」
「橙はそういうの引っかかりそう」
「どういう意味だ」
ごく普通の会話を繰り返すうちに、電車は学校の最寄り駅へと到着する。教室に向かうまでの道のりも特に代わり映えのしないもので、俺は妙な不満を抱えてしまっていた。
(両想いってこんなもんか……? ダチの時と何も変わらなくないか?)
まるで自分だけがあのキスを意識しているみたいで、千蔵が普段通りでいる分いっそ間抜けにすら思える。
(いや、別にいいんだけどよ。付き合うってなったらもう少し、こう……)
そこまで考えたところで、俺ははたと気がつく。
(……俺、千蔵に好きって言ってなくないか!?)
誰もいない教室で、俺は確かに千蔵とキスをした。俺のことが好きだとも言われた。好意の無い相手とキスなんかしないんだからその時点で両想いだろうと思う。けれど千蔵はいつも通りの過ごし方をして、手のひとつも繋ごうとはしない。
(誰かと付き合った経験とかねえけど……これじゃあダチのまんまじゃねーか!)
せっかく千蔵が気持ちを伝えてくれたのに、一方通行では意味がない。
(なら、俺も千蔵に好きだって言えばいいんだよな!?)
両想いだとわかっているのだから怖気づくことなど何もない。千蔵にも両想いであることを認識してもらうだけの話だ。そう思って動き出そうとした俺は、想像以上に告白のタイミングが無いことを痛感することになる。
教室には当たり前だがクラスメイトが大勢いるし、廊下や裏庭にも誰かしら人がいるものだ。いざ探してみれば案外二人きりになれる場所というのは難しく、かといって人気が無いからとトイレやゴミ捨て場で告白するのは違うだろうと、さすがの俺でもわかる。
授業の合間の休憩時間や昼休み、放課後になるまでの間、タイミングを見失い続けてしまった俺はいよいよ帰り道に突入した。
(ど、どうすれば……いっそスマホで送るか……!?)
「……橙?」
ぐるぐると頭の中で考えを巡らせていた俺を、隣を歩きながら不思議そうに見ていた千蔵は、さすがに不審に思ったようで声をかけてくる。
「っ……!」
不意に、千蔵の手の甲が俺の手に触れた。そのほんの僅かの接触に驚いた俺は、反射的に手を引いてしまう。
「……あ、ごめん」
何も悪いことはしていないというのに、俺の反応に驚いた千蔵は少しだけ寂しそうに笑って見せる。
「あ、いや、ちが……っ」
拒絶をしたわけではない、意識をしすぎてしまったせいだ。だけど千蔵にはそんなことわかるはずもない。
「急にあんなことしたから、無理させてるよね」
「え……」
「昨日のことは忘れてくれていいから」
あくまでも優しい口調で、俺のことを気遣うように目を伏せる千蔵にズキリと胸が痛む。
「ち、千蔵……っ」
「でもさぁ、あいつムカつくじゃん!?」
「わかるーっ!」
誤解を解こうと口を開きかけた時、俺たちの横を通り過ぎていく見知らぬ生徒の声に言葉を飲み込んでしまう。こんな場所で千蔵を好きだなんて話したら、嫌でも注目の的になってしまう。
「ごめん、帰ろうか」
そう言って背を向ける千蔵がそれでも別行動を取ろうとしないのは、きっと俺を一人で電車に乗せないためだとわかる。酷いことをしているのは俺の方なのに、こんな時でも千蔵は俺のことを考えてくれているんだ。
(それなのに、俺は……っ)
このまま俺が訂正しなかったら、また夏休み前の二の舞になってしまうかもしれない。忘れてくれと言った千蔵は、自分自身もきっとその感情を忘れようとするんじゃないだろうか? そうなればこの関係も薄れて、二度とこの手は千蔵に届かなくなってしまう。
(そんなの……絶対に嫌だ……!)
俺は千蔵の腕を掴むと、そのまま全力で地面を蹴って走り出す。
「ッ……橙……!?」
向かった先は駅ではなく、以前紫乃に連れて行かれた公園もどきだった。幸いにも人の姿は見当たらないが、もし人がいたとしても関係ない。他に行き場が思い浮かばなかったのだから。大きな木の陰で足を止めると、乱れた呼吸を整える俺の耳に千蔵の困惑した声が届く。
「か、橙……急にどうしたの?」
「……俺のこと、嫌いになったか?」
ゆっくり顔を上げた先で、千蔵が両目を見開いている。狡い問い掛けをしているとわかっていたが、そうせずにはいられなかった。
「そ、そんなことあるわけないだろ」
はっきりと否定する言葉に緊張が解けて、代わりに千蔵を好きだという想いが溢れ出てくる。
「けど……オレは橙に無理してほしくないんだよ」
「おまえといて、無理なことなんか何もない」
「え……?」
「俺だって千蔵が好きだ!」
どこか迷子みたいな顔をして俺を見る千蔵に、今度こそはっきりと自分の気持ちを言葉にする。
「す、好きって……橙、それどういう――」
最後までは言わせなかった。人間としてでも、友達としてでもない。それを正しくコイツに伝えるために、俺は自分から押し付けるように唇を重ねた。
「っ……!」
驚きに瞳を揺らした千蔵の頬が、徐々に色づいていくのが間近に見て取れる。多分、俺も同じくらい顔が赤くなっているのだろう。
「ホントに……ホント?」
「冗談でこんなことすると思ってんのか」
「いや、思ってない……」
そのまま千蔵の両腕が俺の背中に回った……かと思ったのだが、なぜだか千蔵の腕は途中で固まって行き場を失っている。
「……?」
どうしたのかと視線で千蔵に訴えかけると、少し悩んでから苦笑交じりに思いがけない言葉が返ってくる。
「なんか今、力加減ができなさすぎて……抱き潰しそう」
一瞬、間抜けなほどの沈黙が俺たちを包み込む。この男でもこんな風になることがあるのかと、新しい発見に次第に笑みがこぼれていく。
「じゃあ……俺がやる」
そうして千蔵を強く抱き締めた俺は、結局回された腕の想像以上の力の強さに驚かされることになるのだが。愛おしい体温を今度は絶対に離さないよう、窮屈なほどに俺たちは身を寄せ合っていた。
*
翌朝。起き抜けのベッドの上でスマホが震えたことに気づいて、それを手に取ると画面を確認する。
『おはよう』
届いていたのは短いメッセージで、送り主は確認するまでもなく千蔵だった。たった四文字の見慣れたメッセージだが、俺は思わず口元がニヤけてしまうのを感じる。これだけの単純なことで最高の一日がスタートしていく。千蔵という男は、一体どれだけ俺のことを翻弄すれば気が済むのだろうか。
(つーか今日、どんな顔して会えばいいんだ……?)
俺たちは今度こそ正式に両想いになった。別にべったりとひっついてバカップルのようなことをする必要などないので、自然体でいいはずなのだが。寝癖はついていないだろうか。恋人とはどんなことをすればいいのだろうか。そんなことを考え続けながら、家を出た俺は今日も決まった時間に到着する電車を待つ。
(学校帰りとか、遊びに誘ってもいいのか……?)
友人関係であっても遊びに誘うくらいは日常茶飯事ではあるのだが、付き合うことになってから出掛けるのは初めてのことになる。
(デート、とか……別にそんな大げさなもんじゃねーけど……!)
誰にともない言い訳を頭の中でしている俺の前に、見慣れた車体が滑り込んでくる。
「おはよ」
「……はよ」
開いたドアの向こうには千蔵の姿があって、混雑する電車内でドア横に立った俺に、半ば覆い被さるみたいな形で千蔵が立つ。いつもの光景であるはずなのだが、以前よりも少しだけ距離が近いような気がする。
(……意識しすぎかもしんねえけど)
ぱちりと目が合った千蔵が蜂蜜みたいにとろける笑みを向けてきて、胸を撃ち抜かれた気がした俺は、視線のやり場に困って足元を見る。
「ねえ、橙。週末って何か予定あったりする?」
「え……なんもねえけど」
急な問い掛けに少しだけ顔を上げると、内緒話をするみたいに千蔵の顔がすぐそばにあってドキリとする。
「じゃあさ、二人で出掛けない?」
「……!」
まさか千蔵の方から遊びの誘いがあるとは思わず、少しだけ以心伝心のような気分になって頷く。
「いいな、どっか遊び行こーぜ」
けれど千蔵はさらに顔を寄せてきたかと思うと、耳元に触れそうな距離で唇が動く。
「デートだからね?」
「なっ……!?」
わざわざ釘を刺すようにそう言われて、思わず顔が熱くなってしまう。
「……ンなこと言われたら、変に意識しちまうだろうが」
昨日のようにまた悪い勘違いを起こさせるようなことをしたらどうしてくれるのか。そんな抗議の意味で伝えたはずなのに、当の千蔵は悪戯っぽく笑って続ける。
「意識してほしいから言ってるんだよ」
もう何度目かもわからないほど、心臓が跳ねたのがわかる。こんな状態でデートなんて、俺の心臓は果たして持ってくれるのだろうか?
贅沢な不安を抱えたまま週末を迎えるのはあっという間で、千蔵に連れられて到着した先は有名な水族館だった。
「デートに水族館って、なんかベタだな……?」
別に不満があるわけではないのだが、千蔵という男が選ぶにしてはベタすぎるという感想が真っ先に浮かぶ。特別魚が好きだという話をしたわけでもないからなおさらだ。
「ベタな方がデートって感じがしていいでしょ。それに、中は暗めだからあんまり人目を気にしなくていいかなって」
(まさか、俺のこと気遣ってここ選んだってことか……?)
そこまでしなくていいと思うのに、どこまでも俺を最優先に考えてくれる千蔵の気持ちが素直に嬉しい。
「……ありがとな、千蔵」
「いいよ。それに……人目を気にせず、橙にはオレのことだけ考えててほしいし」
「っ、なんだそれ」
「ほら、行こう。チケットは買ってあるからすぐ入れるよ」
「え……」
千蔵のスマホの画面には、確かに入場用の電子チケットが表示されている。どこまでも用意周到な男だと思うが、俺は慌てて財布を取り出そうとする。
「半分払う、いくらだっけ?」
「いいよ、今日はオレが誘ったから」
「いや、でも……」
「早く、急がないと置いてっちゃうよ?」
俺の言葉を待たずに入場口へと向かう千蔵に、置いていかれては入場できなくなると俺も後を追いかける。結局チケット代は甘えることになってしまったが、館内を回り始めると申し訳なさも徐々に薄れていった。休日ではあるが思ったほど混み合っておらず、のんびりとしたペースで展示された魚を鑑賞することができる。
「あ、ねえ見て。あそこの魚、ちょっと橙に似てる」
「え……どれだよ?」
「ほら、あそこの端で泳いでるやつ」
「……似てねえだろ、どこがだよ」
小さな水槽を見る千蔵の指差す先を追うと、黄色みがかった魚が一匹泳ぎ回っている。どう見ても顔が似ているとも思えなくて、髪の色だけで判断しているだろうと指摘すると、千蔵は悪戯が成功した子どものように無邪気に笑う。
「なら……あっちはおまえだな」
「え、もしかしてあの黒っぽいやつ?」
「おう。色と……あと動きもちょっと似てる」
「いや、オレあんな動きしてないでしょ」
抗議しながらも俺の指差した魚を目で追い続けている千蔵の、楽しそうな横顔をこっそり盗み見る。千蔵の想定した通り水族館の中は薄暗い場所が多くて、男二人で多少距離が近い状況でもこちらを気にする人間はいない。
「そうだ、もう少しでイルカショーが始まるらしいんだけど、見に行く?」
「せっかく来たんだし、そりゃ行くだろ……っ」
時計を確認した千蔵の提案に移動をするかと動き出した時、俺の手に何かが触れる。それが目の前の男の指だと気づいた時には俺の指はゆるく絡め取られていて、驚いて千蔵を見ると反対の指を口元に当てて「内緒」と言うように微笑む。
「……っ」
離そうと思えば難しいことなどなくて、少し力を入れればすぐにでも指は解けていくだろう。だというのになぜか甘い拘束を抜け出すことができなくて、明るい場所に移動するまで俺たちは密かに指先を繋いだままだった。
そうして訪れたイルカショーの会場は、屋外ということもあって先ほどまでの雰囲気とは一転し、活気もあって賑わっている。最前列には家族連れやカップルも多く着席していて、なんとなく場違いなのではないかと思いつつ、俺たちも前方の席へと腰を下ろす。
「こういうの、ガキの頃ぶりかも」
「オレもそうかも。あ、始まるよ」
準備が整ったらしく、進行役の女性がマイクを使ってショーの始まりを知らせながら、巨大な水槽の中を泳ぐイルカを器用に操っていく。軽快なBGMと共に様々な芸を見せるイルカに夢中になっていると、さほど長くないショーが終盤を迎えるのは想像以上にあっという間だった。不意に、俺たちの両隣りや前方に座っている客たちが、大きなビニールやタオルのようなもので遮蔽を作っていることに気がつく。
「……あ」
それが何を意味するのか思い至った次の瞬間。目の前の水槽でひと際豪快に跳ね上がったイルカが、こちらに向けて盛大な水しぶきを飛ばしてきた。
「うわぁっ!?」
イルカショーといえば定番ともいえる一芸だ。想定していなかった俺たちにそれを避ける術などなく、俺も千蔵もまとめてびしょ濡れ状態になってしまった。
「っ、あはは……! すっごい濡れたぁ」
「マジかよ、滴ってんだけど……!」
モロに水を食らった俺たちの姿を見て、周囲の客が笑っているのがわかる。けれどそれが気にならないほど、俺たちは互いの顔を見合わせて笑っていた。びしょ濡れの状態でいるわけにもいかず、俺たちはひとまず土産コーナーへ足を運ぶと、そこで売られていたTシャツを購入してトイレで着替えを済ませる。意図せずペアルックのようになってしまったのは恥ずかしいが、この際水族館を存分に楽しみに来たのだと開き直るしかない。
「はー、災難だったな」
「タオルも売ってて良かったね」
「こういう想定で売れるって思われてんのかもな」
ずぶ濡れになったことでテンションが下がってもおかしくないと思っていたのだが、それどころか楽しいという気持ちが尽きない。こうしたハプニングに見舞われる時間も、千蔵とだから特別なものだと感じられているのかもしれない。
「こんなに楽しいなら、もっと早くデートしたら良かった」
「それは同意だな」
(夏休みも勿体ないことしちまったよな……、あ)
そこまで考えて、俺はまだ千蔵を避けていた時期のことをきちんと謝罪していなかったと思い出す。
「そういや、千蔵……悪かった」
「ん? なんの謝罪?」
「期末試験の後から、その、一方的に距離置いてたから……」
「ああ、そんなの気にしてないよ」
「……マジで気にしてねえ?」
念のためにともう一度問いを向けると、千蔵の口元から笑みが消える。次いで長い指がそっと俺の頬に触れた。
「……うそ。ホントは寂しかった」
「ッ……!」
まるでしょげた犬が飼い主を見つめるような、そんな顔をして千蔵は小さく言葉を落とす。いつだってニコニコと愛想を振りまいているというのに、おまえはそんな顔もできるのか。
「っ……千蔵」
「あのぉ……」
その時、見知らぬ女性二人組に声をかけられる。正確にはその二人は、千蔵の方を見ているのがわかった。
(あ……これってもしかして)
「さっき一緒のショーを見てたんですけど、お二人で来られてるんですか?」
「あたしたちも二人で来てて、良かったらご一緒にどうかなって」
もしやと直感した通り、これは俗にいうナンパというやつだ。俺自身は初めての経験なのだが、千蔵にとっては今に始まったことでもないのだろう。
(男なら普通は喜ぶトコか? けど、俺らは今日は……)
「えっと、悪いんだけどパートナーは間に合ってるんだ」
「えっ……?」
断りを入れると同時に、千蔵は俺の手を取るだけでなくしっかりと握り締めてくる。
「ごめんね」
女性二人が呆気に取られている隙に、俺を連れて千蔵はその場からスマートに離れていった。女性を相手に誤魔化すわけでもなく、はっきりパートナーだと口にした千蔵に、ムズムズとした感覚が込み上げてくる。
「勝手に答えてごめん、橙。けど、食い下がられても面倒だから」
「いや……俺は別に、いい」
(隠さなくていい関係だって思ってる、ってことだよな……?)
暗がりではないので、女性たちが見えなくなると繋いだ手は離れてしまったけれど、不思議と満たされた気持ちになる。それと同時に、千蔵はモテる男なのだというわかりきった事実に少しだけモヤつきも感じたりして。
「……おまえって、いっつも女に声かけられてるよな」
「そうかな? まあ、そういう時もあるかも……?」
特別他者と比較したこともないのだろうから、肯定できないのも仕方のないことかもしれない。それでも少しくらいは自覚をもってほしいとも思う。無意識にモテ続けるこの男が、いつか他の人間に奪われてしまわないとも限らないのだ。
「……妬いた?」
「ッ……!」
どこか嬉しそうな問いを向けられて、図星を突かれた俺はすぐに言葉を返せずに無意味に口を開閉させる。
「どれだけ声をかけられても意味ないよ」
「モテ男の余裕か」
「違うよ。相手が橙じゃなきゃ、オレにはなんの意味もないってだけ」
当たり前のように言ってのける千蔵の言葉に、顔からぶわっと熱が吹き出したのを感じる。
(なんでこう、こっ恥ずかしいことをさらっと口にできるんだコイツは……!)
何度も何度も、千蔵に心臓を持っていかれてしまう。居心地のいい猫ちぐらの中にあるのは、平穏だけではないのかもしれない。
「うわ、スゲー綺麗……!」
館内の照明がひと際落とされた暗闇の中。食事処で昼食を済ませた俺たちは、青い光が揺らめくクラゲの水槽の前に立っていた。ふわふわと水の中を漂うクラゲたちの動きは癒し効果を感じられて、普段はクラゲに微塵も興味の無い俺でも、多くの客がこの場で足を止める理由がわかる気がする。
「クラゲって半透明だから、照明が当たると綺麗だよね」
薄暗く幻想的な空間の中は、他の場所とは時間の流れが異なるように感じる。ゆったりとした雰囲気を楽しみながら、ふと隣に立つ千蔵を一瞥した俺は無意識に口を開く。
「……入学した時は、こんな風におまえと過ごすことになるとか思ってなかったな」
ぽつりと落とした声はしっかりと耳に届いていたらしく、こちらに視線を寄越した千蔵は微笑みながら控えめな声量で続ける。
「オレは、橙と一緒にいられたら楽しいだろうなって思ってたよ」
「え……そうなのか?」
「うん」
それまで一度も直接話したことなどなかったというのに、まさかそんな風に思われていたなんて想像もつかない。王子と呼ばれてただでさえ目立つ存在の千蔵ならともかく、自分がクラス内でそれほど強い存在感があるとも思えず、認識されていたことも驚きなくらいだ。
(髪の色で覚えられてたのか……? けど金髪は他にもいるしな)
水槽の青い光に柔らかく照らされる千蔵の顔は、これだけ照明が落とされた中でも整って見える。本当に綺麗な顔をした男だなんて、今さらのように再確認してしまう。
「橙、手話も随分覚えたよね」
「あー、まだ簡単なやつばっかだけどな」
「それでも覚えが早いと思うよ」
初めて千蔵の家に行った時に手話を教わって以来、自分でも手持無沙汰なタイミングで新しい手話を覚える時間が増えた。ほとんどが挨拶程度の簡単なものではあったが、それが千蔵に通じるのが楽しくて、いつの間にか知っている手話の数も増えていただけの話だ。
(別に覚えたからって使う機会もないんだけどな)
そんな話をしていると、最初に紫乃に会った時のことを思い出す。
「……そういえば、妹にやってたやつも手話だったのか?」
「ん?」
「初めておまえの家に行った時、なんかやってただろ。教えてくれなかったやつ」
「ああ……」
俺の言わんとしていることを理解したらしく、千蔵は瞳を細めてこちらを見つめてくる。
「オレの好きな人、って伝えてたんだよ」
「っ……!」
まさか自分の妹にそんな風に伝えていただなんて。それじゃあおそらく紫乃は、俺たちの今の関係についても察しがついているのかもしれない。
「……おまえさ、いつから俺のこと好きだったの?」
尋ねてもいいものか悩みはしたが、今なら聞いても許される気がして思いきって問いかけてみる。千蔵は少し俯いてから水槽のクラゲに視線を落として、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「……去年、母が事故に遭ったって話したよね」
「ああ……?」
「そこから少し……普通に生活はしてたんだけど、精神的に閉じこもってた時期があったんだ」
俺の問いかけへの答えとしてすぐには話が繋がらなかったものの、千蔵という男の性格を考えれば、周囲に心配をかけまいとして過ごしていた姿が容易に想像できる。
「学校が始まって、なんでもないように振る舞ってたんだけど……本当は、自分でも知らず知らずのうちに限界がきてたのかな。人と接するのがちょっとしんどくて」
(千蔵がそうなるって……全然想像つかねえな)
「周りはオレの事情なんて知らないから、欲しい反応が返せないと残念がられたりしてさ。そういうのも慣れたつもりでいたんだけど」
苦笑いを浮かべる千蔵に、俺は胸が締め付けられるような感覚を覚える。傍目には王子ともてはやされて羨む存在に見える男だが、実際本人が望んでそんなポジションにいるとは限らない。一部は理想像として千蔵に必要以上の期待を抱く。勝手に期待して、勝手に失望して。本当の千蔵という男を知ろうともしない。
「そんな時にクラスの人と話してた橙がさ」
「え、俺……?」
急に自分の名前が出てきたことに驚くが、当時の光景を思い出しているのか、千蔵の表情はひどく柔らかい。
「うん。『おとぎ話の王子様は不眠不休じゃないとダメなのかよ』って」
「俺、そんなこと言ってたか……?」
「言ってた。『王子って職業はブラックすぎるだろ』とか」
俺の記憶には残っていないのだから、クラスメイトとの会話の中で何も考えずに発した言葉だったのだろう。
「それ聞いて、もっと人間らしくいていいんだなって思えたんだよ」
そんな何でもない言葉が、千蔵の中にはずっと残り続けていたらしい。
「オレは王子なんて呼ばれてるけど……オレにとっては、橙が王子様みたいなものなんだ」
「お……俺は、王子とかって柄じゃねえだろ」
「ふふ、じゃあヒーローかな」
自分がそんな風に持ち上げられるのはむず痒い気持ちの方が強いものの、胸にじんわりと温かな感情が込み上げてくるのを感じる。
(俺も、千蔵の助けになれてたんだな)
静かに喜びを噛み締めながら、それからも他愛のない会話を繰り返すうちに時間は無情にも流れていく。無数の魚たちが縦横無尽に泳ぎ回る巨大な水槽を前に、帰りの時間が近づいているのだと実感した俺はどうしようもなく名残惜しさを感じてしまう。
「……今日が終わってほしくないな」
ぽつりと落とされた千蔵の言葉に、同じ気持ちを抱いていた俺は思わず隣を見る。どこか困ったようにも見える千蔵の笑みは、叶えようのないワガママを口に出してしまったことを気まずく感じているのかもしれない。
「また来たらいいだろ。デートできんのは今日だけじゃねえし」
暗に同じことを考えていると伝わっただろうか。俺の返答を予想していなかったのか、驚いた顔をした千蔵はそっと俺の腕に触れる。
「千蔵……?」
「……今、誰も見てないから」
ほとんど囁きのような声と共に、千蔵の影が近づいてくる。俺たちのすぐそばを通り過ぎていく名前もわからない魚を横目に、触れた唇は初めてのキスよりも長く重なっていた。
すべての展示を回り終えた俺たちは、出口の手前にある土産コーナーへと立ち寄る。イルカショーの後にTシャツを買いにやってきてはいるのだが、その時は目当て以外のものをしっかり見ている余裕などなかった。箱入りの菓子類からぬいぐるみ、雑貨など多種多様な商品がずらりと並べられていて、特に目的があるわけでもないのに目移りしてしまう。
「あ、橙みたいなやついる」
「は? おまえソレまた色だけだろうが!」
千蔵が手にしているのは、色違いが複数種類あるメンダコのキーホルダーだった。黄色に着色されたタコはどう見ても俺とは似ても似つかないのだが、千蔵は気に入ったらしくそれを買うとまで言っている。
「なら俺はお前に似てる方買うからな」
そう言って黒色のメンダコのキーホルダーを手に取ると、抗議をしてくるどころか千蔵は目を丸くする。
「じゃあ……おそろいだね?」
「っ……!」
そういうつもりではなかったのだが、これをお互いに買うとするならいわゆるイロチのおそろい状態だ。やっぱり別の物にしようかと頭をよぎったものの、目の前の男が思いのほか嬉しそうな顔をしているので、俺は結局訂正できないままそれを買うことになる。そもそも今日はペアルック状態で歩き回っているのだ、今さらキーホルダーがおそろいになったくらいで恥じらうこともない。
「チケット代出してもらってるし、これは俺が買ってくる。ここで待ってろ」
「え……じゃあ、お言葉に甘えて」
差し出した手に渡された黄色のメンダコと共に、俺はレジへと向かう。支払いを済ませて千蔵を探すと、土産コーナーの隅で邪魔にならないよう俺を待つ男の姿を見つけた。
「千蔵ー、買ってきたぞ」
小さな紙袋に入れられたキーホルダーを掲げながら近づいていくと、千蔵はどうやらスマホを眺めていたらしい。
(……あれ?)
なんとなくその表情が強張っているように見えて、俺は思わず足を止める。
「……あ、橙。こっちだよ」
けれど、俺が戻ったことに気がついて顔を上げた千蔵は特に変わった様子もなくて、気のせいだったのかと首を傾げる。
「ありがとう。それじゃあ、帰ろうか」
「おう」
幸せの余韻に浸りながら、千蔵に促されるまま俺は水族館の出口へと足を向ける。心の内側にほんのわずか、小さな引っかかりを残して。


