【6話】
(あっという間に夏休みが終わっちまった……)
千蔵との登下校を止めてから一学期が終わり、夏休みに突入するのはあっという間だった。一度嘘をついてしまった手前、家の用事などというものがいつになれば終わるのか俺にもわからず、結果として千蔵に声を掛けるタイミングを失ってしまったのだ。
(結局……千蔵には一回も連絡できなかったな)
どのツラを下げて、と思ってしまったのだ。千蔵からも連絡は無かったから、なおさら俺からどんな風に連絡したらいいかもわからなくなっていた。そうして迎えた二学期はやけに空虚で、未だ纏わりつく罪悪感もどうすれば消えてくれるのかわからない。
「橙さぁ、最近王子と一緒じゃないよな」
「え? ……ああ、そうだな」
教室の自分の席でぼんやりとしていた俺を見て、やけに心配そうな顔をしてそんなことを尋ねてくる塚本に曖昧に頷く。
「なんだよ、もしかして喧嘩でもした?」
「別にしてねーけど……」
新学期の始まり、ホームに滑り込んできた電車の中に千蔵の姿は無かった。俺が拒絶したのだから当然だとはいえ、車内にアイツの姿を探してしまう自分が滑稽だった。教室で顔を合わせた千蔵は、いつも通りに挨拶をしてくれた。俺も挨拶は返せたと思う。けれどそれだけで、その日も帰りは別々に電車に乗ったし、翌日も千蔵のいない電車に揺られて学校に来た。
(思えば……一学期はアイツと一緒にいる時間の方が多かったんだな)
入学当初は一緒じゃない方が普通だったのに、俺の中の当たり前はいつの間にか変わってしまっていた。いつまでもそんな風に過ごせるはずないのに、安心できる俺だけの猫ちぐらを、無意識にでも手放したくなかったのだろう。
中学時代。俺が恋心を抱いた相手は、どうしてだか同性の友人だった。可愛い女の子は好きだし、これまで男相手に特別な興味を抱いたこともなかったのに。
ただ、ずっと後ろめたさを抱えながら友人関係を続けていた。この気持ちがバレないようにと気遣って、友達のままでいようと思ったんだ。だというのに、俺の気持ちを知られたのはふとしたことがきっかけだった。
『橙、おまえゲイだったのかよ! キモすぎ! 俺のことずっと狙ってたわけ!?』
違う、そうじゃない、そんなつもりじゃなかった。必死に弁明しようとする俺の声なんて届くはずもなくて、揺れる電車の中で友人から、周囲から、様々な感情を乗せて向けられる視線に耐えられなかった。
逃げ場のない車内で隣の車両に駆け込んでも、どこまでも視線が追いかけてくるような感覚。誰かを好きになるのはこんなにも罪深いことなのか。植え付けられたトラウマはすぐには払拭できず、絶望の中で地元から離れた学校を受験した俺は、せめて高校では別人になろうと思った。結局は意味のない行いだったのかもしれないが。
(千蔵は優しいから、あんな拒絶の仕方はしないかもしれない。けど……俺の身勝手で、千蔵を困らせるとこだった)
優しい時間に満たされながら間違いを繰り返そうとしていた愚かな自分に、担任は現実を突きつけてくれたのだ。
「……では、以上で役割分担は終了します!」
ぐるぐると考え込んでいた俺は、教室内に響いたひと際大きな声に意識を呼び戻される。そういえば文化祭についての話し合いをしていたんだった。今やるべきことを思い出して、顔を上げた俺は黒板に書かれた名前に固まる。
「え……?」
先ほどまでは確か、お化け屋敷や出店のような候補がいくつか挙げられていたと記憶している。しかし黒板に大きく書かれているのは、「男女逆転喫茶」の文字。そしてフロアを担当する者の中に、間違いなく俺の名前が書かれているのだ。
「ちょ、待てよ、男女逆転のフロアって……!?」
「橙くん聞いてなかったの? さっき挙手して意見しなかったんだから、もう拒否権はありませーん」
「橙の女装姿、楽しみにしてるぜー」
「ッ……!!?」
こんな時にぼんやりと考え事をしている場合ではなかった。そう思っても時すでに遅し、クラスは次の話し合いのターンに入ってしまっている。
(女装って……マジか……っ)
よりにもよって大勢の目を向けられることになるであろう、女装してのフロア担当を割り振られているだなんて。ノリノリで立候補した者も多いようだが、女装をしたくない男子陣はキッチン担当に回っている。俺だって本来はそちらに挙手すべきだったのだ。
「橙……大丈夫?」
「っ、千蔵……」
賑やかな教室内で敢えて声を潜めて近づいてきた千蔵に、ドキリとしつつも平静を装ってそちらに向き直る。
「しんどかったら、オレが代わろうか?」
俺が単純に女装を嫌がっているのではなく、それによって視線を集めることを危惧しているということに、千蔵は気がついている。面白くなりそうだと茶化してくるクラスメイトたちは、俺の事情など知るはずもないのだから仕方がないのだが。
「オレは女装しても構わないよ、キッチン担当だから入れ替わっても人数は問題無いし」
「サンキュ……けど、いい。自分でやる」
「……平気なの?」
「一回決めたことだし、ぼーっとしてた俺が悪いし」
そう思っているのも事実ではあるのだが、実際には千蔵に迷惑をかけたくないという方が理由としては大きい。ちゃんとした説明も無しに距離を置いたというのに、千蔵は相変わらず俺のことを気遣ってくれている。
(嬉しいとか思うな、バカ……)
ずっと守られてはいられない。いい加減に独り立ちをしろと自分に言い聞かせて、俺は文化祭に臨むことを決めた。
そうして迎えた文化祭当日。俺は何をするにも落ち着かずにイベント開始の合図を待っていた。
「橙ーっ、よく似合ってるぞー!」
「うっせーどっか行け野次馬どもが!」
穿き慣れないスカートのせいで、股の辺りが心許なくて仕方ない。男女逆転喫茶というコンセプトで俺が着ることになったのは、いわゆる王道のメイド服というやつだ。金髪メイドはちぐはぐな印象を与えている。
女装ならば服装は何でも良いというコンセプトのもと、セーラー服やナース服など様々な衣装が選択可能となっていた。だからこそ教室内は今やカオスな状態となっている。さすがに女子のサイズは入らない奴も多かったので、文化祭用に裁縫部が準備してくれたという特別製だ。
(執事とか白衣とか、女子はいい感じにカッコよくなっていいよな……俺もミニ丈限定とか言われないだけマシだったけどよ)
くるぶし近くまであるロングスカートの裾を軽く持ち上げ、生まれて初めて着用するストッキングを履いた己の脚を見下ろす。ちなみに一足は力を入れすぎて破れたのでこれは二足目だ。
「……橙、無理そうだったらいつでも言いなよ?」
キッチン担当のスペースからひょっこり顔を出してきた千蔵が、心配そうな顔をしてこちらにやってくる。キッチン担当は制服にエプロンを身に着けただけの格好だが、それでも様になるのだから逆に何を着せたらダサくなるのだろうかと思う。
普段はハーフアップの髪も、今日は一つ結びにしているからか少しだけ雰囲気が違って見える。案の定女子が騒いでいるようだが、本人は相変わらず気にも留めていない様子だ。
「俺の担当はそんなに長い時間じゃねーし、問題ない」
「わかってる。だけど、橙が呼んでくれたらいつでも助けに行くから」
そう言って、千蔵は俺に右の手のひらを向ける。そのまま曲げた親指を、残りの四本指で握り込んだ。
「これは手話じゃないんだけど、助けてって意味のハンドサイン。覚えておいて」
「……過保護だって」
(……なんで、突き放すようなことしてんのに)
俺の不安を察知して、困った時にいつでも傍にいてくれる千蔵。このままではダメだから自分から離れようとしたくせに、気にかけてくれていることが嬉しくてたまらない。
「それじゃあ男女逆転喫茶、開店しまーす!」
「っと、行かねーと。じゃあな」
「うん、また後でね」
委員長の声掛けで持ち場に戻った俺は、男女逆転喫茶と書かれた大きな看板を手に廊下に出る。教室内での接客より廊下での客引きの方が目を引く、という事実に気づいた時には後の祭りで、頭が回らなくなっていた己を何度でも恨みたい。
「だ、男女逆転喫茶よろしくおねしゃーす」
まずはどこに入ろうかと悩んでいる様子の客に声掛けをすると、驚くほど綺麗な二度見をされてしまう。
「えっ、男女逆転喫茶だって! 入る?」
「おもしろそー、入ろうよ!」
「メイドさんかわい~」
三人組の女性が興味を示して入店したのを合図に、同様に気になっていたらしい人々もじわじわと流れ込んでくる。一度流れができれば賑わってくるのに時間はかからず、30分もすれば教室の中は満席状態で廊下には待ちの列ができ始める。入り口に案内すれば後は中の接客担当が引き継いでくれるので、俺はひたすら笑顔を作りながら呼び込みに専念した。
「男女逆転喫茶でーす、入店最後尾はこちらでーす」
「……真宙?」
呼び込みも多少板についてきたかと思った頃、名前を呼ばれて振り返ると、千蔵の妹の紫乃が怪訝そうな顔で俺を見ていた。
「妹……じゃなくて、紫乃か。お疲れ?」
「お疲れ……女装喫茶なんてやってたんだ」
「男女逆転喫茶な?」
紫乃からしてみればどちらでも大差ないのだろうが、俺は手にしている看板を指差して正しい名称に訂正する。
「ちく……兄貴から聞いてねえの?」
「何してるかは当日見ればわかるし。それに……最近はちょっと、上の空だったから」
「上の空……千蔵が?」
千蔵にしては珍しいこともあるものだと思うが、一緒にいなかった俺に最近の様子がわからないのは当然だ。
「なんか、悩み事とかか……?」
「さあね、あたしにはわかんないけど。直接聞いてみたら?」
「えっ……いや……」
「じゃあ、あたしは別のトコ回るから。紫稀にもよろしく」
退散していく紫乃から答えを得ることもできず、俺の中にはもやもやとした感情だけが残る。きっと家族だからこそ話せない悩みもあるだろうし、そんな時に友人としてそばにいられれば力になれることもあるのかもしれない。それが今の状態では叶わないことも理解している。
(千蔵本人にそう言われたわけじゃねーのに、急に距離置いたりして。やり方間違えたよな……)
結局俺はあの日からずっと人目を気にしたまま、大切なものを二の次にしてしまっている。同じ過ちを繰り返したくないと思いながら、自分が傷つくのが怖いだけなんだ。
(……アイツに、ちゃんと謝んねーと)
そう決意はしたものの、己に与えられた仕事を投げ出すような人間が千蔵の隣に立つ資格はないとも思う。その一心で呼び込みを続けた俺は、交代までの時間を全力でやり遂げたのだった。
「やっ……と交代だ……!」
「橙ちゃーん、お疲れ。後半もメイドしてくれてもいいんだぜー?」
「誰がするか! さっさと代われっての!」
ヘラヘラとしたクラスメイトに看板を押し付け、自分の仕事からようやく解放される。さほど人目を意識せずに済んだとはいえ、さすがに気疲れしたことに変わりない。早く着替えて千蔵のところに向かわなければ。
「あれ、もしかして真宙?」
「……っ」
不意に俺の名を呼ぶ人物を認識した途端、全身が凍り付いたように動かなくなる。
「……日高……」
中学時代の俺の想い人。俺にトラウマを植え付けた相手が、そこに立っていた。
「やっぱ真宙かよ! うっわ、別人になってるから最初気づかなかったわ」
俺だと確信した日高がニヤついた顔でこちらへ歩み寄ってくる。中学時代も陽キャの部類ではあった男だが、高校生になって髪は茶色くなり、ピアスもジャラジャラでますます派手な見た目になっていた。
(なんでここにいるんだよ……!?)
「へぇ、金髪似合ってんじゃん。つーかなにそのカッコ、まさか女装癖に目覚めちまったとか?」
「ち、ちげーよ。クラスの出し物で……」
「まあでも、陰キャのおまえにはお似合いのカッコかもな!」
ギャハハ! と声を上げて笑う日高に屈辱と苛立ちを覚えるが、あの日の電車での光景がフラッシュバックして、思うように言葉を発することができない。
「あの時はマジで無理って思ったけどよ、今のおまえなら一回くらい付き合ってやってもいいわw」
「ッ……!」
小馬鹿にした口調で好き勝手に言葉を投げつけてくる日高は、無遠慮に距離を詰めてきたかと思うと、俺の顎を掴んで品定めするような目を向ける。
(なんで……こんな奴を一瞬でも好きだとか思ったんだ)
今はもう不快でしかない男の顔を見たくなくて、強く腕を払いのけると日高は驚いたように目を見開く。
「おまえなんか死んでも願い下げだ」
「っ……んだと?」
俺から拒絶を受けると思っていなかったのか、日高はみるみるうちに額に青筋を立てていく。
「願い下げはこっちのセリフだ陰キャのゲイ野郎が! テメェみてえなゴミが選べる立場だと思ってんのか!?」
周囲の状況が目に入っていないらしい日高は唾を撒き散らしながらヒートアップして、近くにいた生徒や客たちが何事かと集まってくるのが見える。
「ナヨついたゲイの女装でゲロ吐きそうだっつの! 不愉快罪で今すぐ慰謝料払ってもらいてえなぁ!?」
理不尽な悪意を向けられていると理解できるのに、同時に指先がスッと冷えていくのを感じて、俺は懸命に周りから意識を逸らそうとする。けれどそれを許さないとばかりに畳み掛けてくる日高に、呼吸が浅くなっていくのを感じた時。
『覚えておいて』
千蔵の言葉が脳裏を過ぎる。こんな奴を相手に一人で解決もできないのかと笑われてしまうかもしれないし、そもそもこの場に千蔵はいない。けれど俺は自然と後ろ手に片手のひらを見せると、親指を内側に握り込むようにした。
(誰か……っ、千蔵……)
次の瞬間、俺と日高の間に一つの影が割って入る。顔を上げた先にいたのは、エプロンを着けたままの千蔵だった。
「っ……!」
一度だけこちらに笑いかけた千蔵はすぐに真剣な表情に変わり、日高に向けて自身のスマホをかざして見せた。
「今の、侮辱罪が成立すると思うけど」
どうやら千蔵は、今のやり取りを俺の後ろで黙って動画に収めてくれていたらしい。画角に俺の姿は映っていないが、日高の姿は顔まではっきりと映し出されている。
「はぁ? なんだテメェ、邪魔してくれてんじゃねーぞ!」
「不愉快なのはどっちだろうな、何の騒ぎかと思えば好き放題して」
聞いたことのないような低い声で返す千蔵に、俺までもがゾクリと背を震わせてしまう。
「俺がソイツをどう思おうが俺の勝手だろうが!?」
「頭の中なら自由だけど、わざわざ口に出すのはゲスの極みだよ」
「ハッ……そんだけ庇うってことは、もしかしておまえらデキてんのか!? ゲイ野郎でも需要あんだ――」
――――ダンッ!
千蔵が俺から離れたと思った直後、片足を振り上げた千蔵は日高の背後にある壁を思いきり蹴りつけた。
「ッ……!?」
予想外の行動に驚いたのは俺だけではなく、成り行きを見守っていた野次馬も言葉を失っている。
「それ以上の侮辱はオレが許さない」
ひと際怒りの篭った低い声で告げる千蔵の気迫に、日高は冷や汗を滲ませて動けなくなっていた。
「それに、周りもドン引きしてるよ」
「あ……?」
脚を引っ込めた千蔵の言葉に初めて周囲を見た日高は、自分たちを取り囲む野次馬が皆一様に冷めた目で彼を見ていることに気がつく。
「ああいうの普通に引くよね」
「文化祭なんだからメイド服は出し物ってわかるじゃん」
「不愉快罪ってこっちのセリフだよねw」
「っ……クソが、テメェらなんざ相手にしてられっか!!」
捨て台詞を吐くが早いか、空気に耐えられなくなった日高はぶつかるように野次馬の間を掻き分けて駆け出していく。俺は千蔵に腕を引かれて更衣室として準備された教室へと避難することになった。まだ文化祭の真っ最中ということもあって、教室の中には誰の姿も見当たらない。
「……悪い、千蔵。変なのに巻き込んじまって」
意図せずとはいえ面倒事の巻き添えにしてしまった。野次馬の視線が俺ではなく日高にだけ集まっていたのは、千蔵の立ち回りが視線を誘導してくれたからだろう。
あんなことをさせて、もしかしたら野次馬の中には千蔵に対して悪い印象を抱いた人間もいたかもしれない。やはり距離を置いて正解だった。そんな風に思われていたらと不安を感じつつ、俺は千蔵の様子を窺う。
「勝手に割り込んでいいか迷ったんだけど……彼が元凶だったんだ?」
「え……あぁ」
結果的に見る目の無かった己を恨むしかないのだが、よりによって千蔵に恥ずかしい姿を見られてしまった。それが俺にとっては一番悔しいことかもしれない。
「助けられてばっかで情けねえよな……自分でどうにかしろって、自分でも思ってんだけど」
「……オレは嬉しいよ、信頼されてるってことでしょ」
こちらに向き直った千蔵は、ついさっきあれだけ怖い顔をしていたとは思えないほど、優しい笑みを浮かべている。
「信頼ったって、限度があんだろうが」
「橙が頼るのがオレだけなら、もっと嬉しい」
「そ、そんなの……ダチだからって、迷惑だろ」
俺が喜ぶようなことばかり言う千蔵に、喜んではダメだと思うのに、気づけば視界には影が差していて。目の前には真剣な瞳で俺のことを見つめている男の顔がある。
「友達だと思ってない」
「え……?」
いつの間にか驚くほど距離を詰めていた千蔵に、俺の視界が埋め尽くされていく。
「オレは橙のことが好きだから」
「…………!」
告げられた言葉の意味を、俺にとって都合よく解釈してしまっているのではないだろうか。その好意は俺の中にある千蔵への想いとは、別の種類の好きなんじゃないだろうか。
「言っとくけど、人間としてとか友達としてって意味じゃないから」
そんな俺の最後の抵抗すらも見透かしたみたいに、千蔵はあっさりと絡め取って逃げ場を失くしてしまう。
「こんな格好、本当は誰にも見せてほしくなかったんだよ」
装着したままのヘッドドレスに触れる指先が、そのまま愛おしそうに髪を撫で下ろして頬に触れるのがくすぐったい。
「橙……かわいい、すごく」
「ッ……ち、千蔵………」
可愛いなんて言われて嬉しいはずがないのに、俺の手を取る千蔵の手が熱を帯びているのが伝わってきて、心臓が今にも飛び出しそうなほどに騒いでいる。絡まる指が俺を逃がすまいとしているようで、これまでにない距離の近さに頬がじわじわと熱くなっていくのがわかる。
「オレ、今すごく橙にキスしたいから……嫌なら抵抗して」
最後の最後で俺の意思に委ねるみたいに逃げ場を与えてくるこの男は、本当に狡いと思う。……そう思うのに。
どうしよう。この唇を避ける理由が見つからない。
(あっという間に夏休みが終わっちまった……)
千蔵との登下校を止めてから一学期が終わり、夏休みに突入するのはあっという間だった。一度嘘をついてしまった手前、家の用事などというものがいつになれば終わるのか俺にもわからず、結果として千蔵に声を掛けるタイミングを失ってしまったのだ。
(結局……千蔵には一回も連絡できなかったな)
どのツラを下げて、と思ってしまったのだ。千蔵からも連絡は無かったから、なおさら俺からどんな風に連絡したらいいかもわからなくなっていた。そうして迎えた二学期はやけに空虚で、未だ纏わりつく罪悪感もどうすれば消えてくれるのかわからない。
「橙さぁ、最近王子と一緒じゃないよな」
「え? ……ああ、そうだな」
教室の自分の席でぼんやりとしていた俺を見て、やけに心配そうな顔をしてそんなことを尋ねてくる塚本に曖昧に頷く。
「なんだよ、もしかして喧嘩でもした?」
「別にしてねーけど……」
新学期の始まり、ホームに滑り込んできた電車の中に千蔵の姿は無かった。俺が拒絶したのだから当然だとはいえ、車内にアイツの姿を探してしまう自分が滑稽だった。教室で顔を合わせた千蔵は、いつも通りに挨拶をしてくれた。俺も挨拶は返せたと思う。けれどそれだけで、その日も帰りは別々に電車に乗ったし、翌日も千蔵のいない電車に揺られて学校に来た。
(思えば……一学期はアイツと一緒にいる時間の方が多かったんだな)
入学当初は一緒じゃない方が普通だったのに、俺の中の当たり前はいつの間にか変わってしまっていた。いつまでもそんな風に過ごせるはずないのに、安心できる俺だけの猫ちぐらを、無意識にでも手放したくなかったのだろう。
中学時代。俺が恋心を抱いた相手は、どうしてだか同性の友人だった。可愛い女の子は好きだし、これまで男相手に特別な興味を抱いたこともなかったのに。
ただ、ずっと後ろめたさを抱えながら友人関係を続けていた。この気持ちがバレないようにと気遣って、友達のままでいようと思ったんだ。だというのに、俺の気持ちを知られたのはふとしたことがきっかけだった。
『橙、おまえゲイだったのかよ! キモすぎ! 俺のことずっと狙ってたわけ!?』
違う、そうじゃない、そんなつもりじゃなかった。必死に弁明しようとする俺の声なんて届くはずもなくて、揺れる電車の中で友人から、周囲から、様々な感情を乗せて向けられる視線に耐えられなかった。
逃げ場のない車内で隣の車両に駆け込んでも、どこまでも視線が追いかけてくるような感覚。誰かを好きになるのはこんなにも罪深いことなのか。植え付けられたトラウマはすぐには払拭できず、絶望の中で地元から離れた学校を受験した俺は、せめて高校では別人になろうと思った。結局は意味のない行いだったのかもしれないが。
(千蔵は優しいから、あんな拒絶の仕方はしないかもしれない。けど……俺の身勝手で、千蔵を困らせるとこだった)
優しい時間に満たされながら間違いを繰り返そうとしていた愚かな自分に、担任は現実を突きつけてくれたのだ。
「……では、以上で役割分担は終了します!」
ぐるぐると考え込んでいた俺は、教室内に響いたひと際大きな声に意識を呼び戻される。そういえば文化祭についての話し合いをしていたんだった。今やるべきことを思い出して、顔を上げた俺は黒板に書かれた名前に固まる。
「え……?」
先ほどまでは確か、お化け屋敷や出店のような候補がいくつか挙げられていたと記憶している。しかし黒板に大きく書かれているのは、「男女逆転喫茶」の文字。そしてフロアを担当する者の中に、間違いなく俺の名前が書かれているのだ。
「ちょ、待てよ、男女逆転のフロアって……!?」
「橙くん聞いてなかったの? さっき挙手して意見しなかったんだから、もう拒否権はありませーん」
「橙の女装姿、楽しみにしてるぜー」
「ッ……!!?」
こんな時にぼんやりと考え事をしている場合ではなかった。そう思っても時すでに遅し、クラスは次の話し合いのターンに入ってしまっている。
(女装って……マジか……っ)
よりにもよって大勢の目を向けられることになるであろう、女装してのフロア担当を割り振られているだなんて。ノリノリで立候補した者も多いようだが、女装をしたくない男子陣はキッチン担当に回っている。俺だって本来はそちらに挙手すべきだったのだ。
「橙……大丈夫?」
「っ、千蔵……」
賑やかな教室内で敢えて声を潜めて近づいてきた千蔵に、ドキリとしつつも平静を装ってそちらに向き直る。
「しんどかったら、オレが代わろうか?」
俺が単純に女装を嫌がっているのではなく、それによって視線を集めることを危惧しているということに、千蔵は気がついている。面白くなりそうだと茶化してくるクラスメイトたちは、俺の事情など知るはずもないのだから仕方がないのだが。
「オレは女装しても構わないよ、キッチン担当だから入れ替わっても人数は問題無いし」
「サンキュ……けど、いい。自分でやる」
「……平気なの?」
「一回決めたことだし、ぼーっとしてた俺が悪いし」
そう思っているのも事実ではあるのだが、実際には千蔵に迷惑をかけたくないという方が理由としては大きい。ちゃんとした説明も無しに距離を置いたというのに、千蔵は相変わらず俺のことを気遣ってくれている。
(嬉しいとか思うな、バカ……)
ずっと守られてはいられない。いい加減に独り立ちをしろと自分に言い聞かせて、俺は文化祭に臨むことを決めた。
そうして迎えた文化祭当日。俺は何をするにも落ち着かずにイベント開始の合図を待っていた。
「橙ーっ、よく似合ってるぞー!」
「うっせーどっか行け野次馬どもが!」
穿き慣れないスカートのせいで、股の辺りが心許なくて仕方ない。男女逆転喫茶というコンセプトで俺が着ることになったのは、いわゆる王道のメイド服というやつだ。金髪メイドはちぐはぐな印象を与えている。
女装ならば服装は何でも良いというコンセプトのもと、セーラー服やナース服など様々な衣装が選択可能となっていた。だからこそ教室内は今やカオスな状態となっている。さすがに女子のサイズは入らない奴も多かったので、文化祭用に裁縫部が準備してくれたという特別製だ。
(執事とか白衣とか、女子はいい感じにカッコよくなっていいよな……俺もミニ丈限定とか言われないだけマシだったけどよ)
くるぶし近くまであるロングスカートの裾を軽く持ち上げ、生まれて初めて着用するストッキングを履いた己の脚を見下ろす。ちなみに一足は力を入れすぎて破れたのでこれは二足目だ。
「……橙、無理そうだったらいつでも言いなよ?」
キッチン担当のスペースからひょっこり顔を出してきた千蔵が、心配そうな顔をしてこちらにやってくる。キッチン担当は制服にエプロンを身に着けただけの格好だが、それでも様になるのだから逆に何を着せたらダサくなるのだろうかと思う。
普段はハーフアップの髪も、今日は一つ結びにしているからか少しだけ雰囲気が違って見える。案の定女子が騒いでいるようだが、本人は相変わらず気にも留めていない様子だ。
「俺の担当はそんなに長い時間じゃねーし、問題ない」
「わかってる。だけど、橙が呼んでくれたらいつでも助けに行くから」
そう言って、千蔵は俺に右の手のひらを向ける。そのまま曲げた親指を、残りの四本指で握り込んだ。
「これは手話じゃないんだけど、助けてって意味のハンドサイン。覚えておいて」
「……過保護だって」
(……なんで、突き放すようなことしてんのに)
俺の不安を察知して、困った時にいつでも傍にいてくれる千蔵。このままではダメだから自分から離れようとしたくせに、気にかけてくれていることが嬉しくてたまらない。
「それじゃあ男女逆転喫茶、開店しまーす!」
「っと、行かねーと。じゃあな」
「うん、また後でね」
委員長の声掛けで持ち場に戻った俺は、男女逆転喫茶と書かれた大きな看板を手に廊下に出る。教室内での接客より廊下での客引きの方が目を引く、という事実に気づいた時には後の祭りで、頭が回らなくなっていた己を何度でも恨みたい。
「だ、男女逆転喫茶よろしくおねしゃーす」
まずはどこに入ろうかと悩んでいる様子の客に声掛けをすると、驚くほど綺麗な二度見をされてしまう。
「えっ、男女逆転喫茶だって! 入る?」
「おもしろそー、入ろうよ!」
「メイドさんかわい~」
三人組の女性が興味を示して入店したのを合図に、同様に気になっていたらしい人々もじわじわと流れ込んでくる。一度流れができれば賑わってくるのに時間はかからず、30分もすれば教室の中は満席状態で廊下には待ちの列ができ始める。入り口に案内すれば後は中の接客担当が引き継いでくれるので、俺はひたすら笑顔を作りながら呼び込みに専念した。
「男女逆転喫茶でーす、入店最後尾はこちらでーす」
「……真宙?」
呼び込みも多少板についてきたかと思った頃、名前を呼ばれて振り返ると、千蔵の妹の紫乃が怪訝そうな顔で俺を見ていた。
「妹……じゃなくて、紫乃か。お疲れ?」
「お疲れ……女装喫茶なんてやってたんだ」
「男女逆転喫茶な?」
紫乃からしてみればどちらでも大差ないのだろうが、俺は手にしている看板を指差して正しい名称に訂正する。
「ちく……兄貴から聞いてねえの?」
「何してるかは当日見ればわかるし。それに……最近はちょっと、上の空だったから」
「上の空……千蔵が?」
千蔵にしては珍しいこともあるものだと思うが、一緒にいなかった俺に最近の様子がわからないのは当然だ。
「なんか、悩み事とかか……?」
「さあね、あたしにはわかんないけど。直接聞いてみたら?」
「えっ……いや……」
「じゃあ、あたしは別のトコ回るから。紫稀にもよろしく」
退散していく紫乃から答えを得ることもできず、俺の中にはもやもやとした感情だけが残る。きっと家族だからこそ話せない悩みもあるだろうし、そんな時に友人としてそばにいられれば力になれることもあるのかもしれない。それが今の状態では叶わないことも理解している。
(千蔵本人にそう言われたわけじゃねーのに、急に距離置いたりして。やり方間違えたよな……)
結局俺はあの日からずっと人目を気にしたまま、大切なものを二の次にしてしまっている。同じ過ちを繰り返したくないと思いながら、自分が傷つくのが怖いだけなんだ。
(……アイツに、ちゃんと謝んねーと)
そう決意はしたものの、己に与えられた仕事を投げ出すような人間が千蔵の隣に立つ資格はないとも思う。その一心で呼び込みを続けた俺は、交代までの時間を全力でやり遂げたのだった。
「やっ……と交代だ……!」
「橙ちゃーん、お疲れ。後半もメイドしてくれてもいいんだぜー?」
「誰がするか! さっさと代われっての!」
ヘラヘラとしたクラスメイトに看板を押し付け、自分の仕事からようやく解放される。さほど人目を意識せずに済んだとはいえ、さすがに気疲れしたことに変わりない。早く着替えて千蔵のところに向かわなければ。
「あれ、もしかして真宙?」
「……っ」
不意に俺の名を呼ぶ人物を認識した途端、全身が凍り付いたように動かなくなる。
「……日高……」
中学時代の俺の想い人。俺にトラウマを植え付けた相手が、そこに立っていた。
「やっぱ真宙かよ! うっわ、別人になってるから最初気づかなかったわ」
俺だと確信した日高がニヤついた顔でこちらへ歩み寄ってくる。中学時代も陽キャの部類ではあった男だが、高校生になって髪は茶色くなり、ピアスもジャラジャラでますます派手な見た目になっていた。
(なんでここにいるんだよ……!?)
「へぇ、金髪似合ってんじゃん。つーかなにそのカッコ、まさか女装癖に目覚めちまったとか?」
「ち、ちげーよ。クラスの出し物で……」
「まあでも、陰キャのおまえにはお似合いのカッコかもな!」
ギャハハ! と声を上げて笑う日高に屈辱と苛立ちを覚えるが、あの日の電車での光景がフラッシュバックして、思うように言葉を発することができない。
「あの時はマジで無理って思ったけどよ、今のおまえなら一回くらい付き合ってやってもいいわw」
「ッ……!」
小馬鹿にした口調で好き勝手に言葉を投げつけてくる日高は、無遠慮に距離を詰めてきたかと思うと、俺の顎を掴んで品定めするような目を向ける。
(なんで……こんな奴を一瞬でも好きだとか思ったんだ)
今はもう不快でしかない男の顔を見たくなくて、強く腕を払いのけると日高は驚いたように目を見開く。
「おまえなんか死んでも願い下げだ」
「っ……んだと?」
俺から拒絶を受けると思っていなかったのか、日高はみるみるうちに額に青筋を立てていく。
「願い下げはこっちのセリフだ陰キャのゲイ野郎が! テメェみてえなゴミが選べる立場だと思ってんのか!?」
周囲の状況が目に入っていないらしい日高は唾を撒き散らしながらヒートアップして、近くにいた生徒や客たちが何事かと集まってくるのが見える。
「ナヨついたゲイの女装でゲロ吐きそうだっつの! 不愉快罪で今すぐ慰謝料払ってもらいてえなぁ!?」
理不尽な悪意を向けられていると理解できるのに、同時に指先がスッと冷えていくのを感じて、俺は懸命に周りから意識を逸らそうとする。けれどそれを許さないとばかりに畳み掛けてくる日高に、呼吸が浅くなっていくのを感じた時。
『覚えておいて』
千蔵の言葉が脳裏を過ぎる。こんな奴を相手に一人で解決もできないのかと笑われてしまうかもしれないし、そもそもこの場に千蔵はいない。けれど俺は自然と後ろ手に片手のひらを見せると、親指を内側に握り込むようにした。
(誰か……っ、千蔵……)
次の瞬間、俺と日高の間に一つの影が割って入る。顔を上げた先にいたのは、エプロンを着けたままの千蔵だった。
「っ……!」
一度だけこちらに笑いかけた千蔵はすぐに真剣な表情に変わり、日高に向けて自身のスマホをかざして見せた。
「今の、侮辱罪が成立すると思うけど」
どうやら千蔵は、今のやり取りを俺の後ろで黙って動画に収めてくれていたらしい。画角に俺の姿は映っていないが、日高の姿は顔まではっきりと映し出されている。
「はぁ? なんだテメェ、邪魔してくれてんじゃねーぞ!」
「不愉快なのはどっちだろうな、何の騒ぎかと思えば好き放題して」
聞いたことのないような低い声で返す千蔵に、俺までもがゾクリと背を震わせてしまう。
「俺がソイツをどう思おうが俺の勝手だろうが!?」
「頭の中なら自由だけど、わざわざ口に出すのはゲスの極みだよ」
「ハッ……そんだけ庇うってことは、もしかしておまえらデキてんのか!? ゲイ野郎でも需要あんだ――」
――――ダンッ!
千蔵が俺から離れたと思った直後、片足を振り上げた千蔵は日高の背後にある壁を思いきり蹴りつけた。
「ッ……!?」
予想外の行動に驚いたのは俺だけではなく、成り行きを見守っていた野次馬も言葉を失っている。
「それ以上の侮辱はオレが許さない」
ひと際怒りの篭った低い声で告げる千蔵の気迫に、日高は冷や汗を滲ませて動けなくなっていた。
「それに、周りもドン引きしてるよ」
「あ……?」
脚を引っ込めた千蔵の言葉に初めて周囲を見た日高は、自分たちを取り囲む野次馬が皆一様に冷めた目で彼を見ていることに気がつく。
「ああいうの普通に引くよね」
「文化祭なんだからメイド服は出し物ってわかるじゃん」
「不愉快罪ってこっちのセリフだよねw」
「っ……クソが、テメェらなんざ相手にしてられっか!!」
捨て台詞を吐くが早いか、空気に耐えられなくなった日高はぶつかるように野次馬の間を掻き分けて駆け出していく。俺は千蔵に腕を引かれて更衣室として準備された教室へと避難することになった。まだ文化祭の真っ最中ということもあって、教室の中には誰の姿も見当たらない。
「……悪い、千蔵。変なのに巻き込んじまって」
意図せずとはいえ面倒事の巻き添えにしてしまった。野次馬の視線が俺ではなく日高にだけ集まっていたのは、千蔵の立ち回りが視線を誘導してくれたからだろう。
あんなことをさせて、もしかしたら野次馬の中には千蔵に対して悪い印象を抱いた人間もいたかもしれない。やはり距離を置いて正解だった。そんな風に思われていたらと不安を感じつつ、俺は千蔵の様子を窺う。
「勝手に割り込んでいいか迷ったんだけど……彼が元凶だったんだ?」
「え……あぁ」
結果的に見る目の無かった己を恨むしかないのだが、よりによって千蔵に恥ずかしい姿を見られてしまった。それが俺にとっては一番悔しいことかもしれない。
「助けられてばっかで情けねえよな……自分でどうにかしろって、自分でも思ってんだけど」
「……オレは嬉しいよ、信頼されてるってことでしょ」
こちらに向き直った千蔵は、ついさっきあれだけ怖い顔をしていたとは思えないほど、優しい笑みを浮かべている。
「信頼ったって、限度があんだろうが」
「橙が頼るのがオレだけなら、もっと嬉しい」
「そ、そんなの……ダチだからって、迷惑だろ」
俺が喜ぶようなことばかり言う千蔵に、喜んではダメだと思うのに、気づけば視界には影が差していて。目の前には真剣な瞳で俺のことを見つめている男の顔がある。
「友達だと思ってない」
「え……?」
いつの間にか驚くほど距離を詰めていた千蔵に、俺の視界が埋め尽くされていく。
「オレは橙のことが好きだから」
「…………!」
告げられた言葉の意味を、俺にとって都合よく解釈してしまっているのではないだろうか。その好意は俺の中にある千蔵への想いとは、別の種類の好きなんじゃないだろうか。
「言っとくけど、人間としてとか友達としてって意味じゃないから」
そんな俺の最後の抵抗すらも見透かしたみたいに、千蔵はあっさりと絡め取って逃げ場を失くしてしまう。
「こんな格好、本当は誰にも見せてほしくなかったんだよ」
装着したままのヘッドドレスに触れる指先が、そのまま愛おしそうに髪を撫で下ろして頬に触れるのがくすぐったい。
「橙……かわいい、すごく」
「ッ……ち、千蔵………」
可愛いなんて言われて嬉しいはずがないのに、俺の手を取る千蔵の手が熱を帯びているのが伝わってきて、心臓が今にも飛び出しそうなほどに騒いでいる。絡まる指が俺を逃がすまいとしているようで、これまでにない距離の近さに頬がじわじわと熱くなっていくのがわかる。
「オレ、今すごく橙にキスしたいから……嫌なら抵抗して」
最後の最後で俺の意思に委ねるみたいに逃げ場を与えてくるこの男は、本当に狡いと思う。……そう思うのに。
どうしよう。この唇を避ける理由が見つからない。


