【4話】

「いいぞー、(かぶち)ーっ! 行けーっ!」

 クラスメイトからの声援を背中に受けながら、俺は目の前に対峙する男の額に集中する。奴の視線は右前方から来る別部隊からの突撃に気を取られていて、今まさにその命を刈り取らんと距離を縮める俺の方まで意識が向いていない。

(今だ……!)

 額目掛けて思いきり腕を伸ばした俺は、そこに巻かれていた白いはちまきを流れるように奪い取る。

「あーっ!! やりやがったな橙!」
「っしゃ、これで三本目!」

 悔しがる負け犬の遠吠えを尻目に、自身の腕に掛けられたはちまきの数を見て俺は勝利を確信する。それと同時に終了のホイッスルが鳴り響いて、騎馬戦は俺のチームが危なげなく勝利を収めた。
 今日は待ちに待った体育祭当日。身体を動かすことが好きな俺にとって、ずっと楽しみだった行事の真っ只中だ。

「キャーッ! 千蔵くん頑張ってー!」
「王子ーっ! こっち向いてー!」

 続いて二回戦に出場する選手が登場すると、これまでとは比較にならない黄色い歓声が上がる。歓声の先にいたのは赤いはちまきがよく似合う千蔵の姿だった。一体どこから持ち出してきたのか、まるでアイドルのコンサート会場かと見紛うほど観客席には色とりどりのうちわが密集している。
 一方で騎馬として動く千蔵は声援を特に気に掛ける様子もなく、目の前の勝負に集中していた。おそらくは司令塔として役割を果たしているのだろう。無駄のない足取りでチームに指示を出し、最短ルートではちまきを奪取させているようだ。

「あいつ、運動神経まで抜群なのズリ―よなあ」
「さっすが王子。コケろー!」
「ちょっと男子! 王子になんてこと言ってんの!」

 外野からヤジが飛び交ってはいるが、誰も本気でそう思っていないことはわかるので一種の戯れなのだろう。
 そうして午前の種目を無事に終えた俺たちは、一旦休憩を挟むと共に昼食の時間を迎える。全力で動き回ったこともあってか俺の胃袋は限界を訴えていて、一刻も早く腹に何かを入れたい衝動に駆られていた。

「橙、たまには一緒にどう?」
「千蔵」

 教室の中でどこで昼食にするかと考えていた俺の肩を叩いたのは、同様に弁当を片手に持った千蔵だった。特に断る理由もないので、俺は空いている手近な席同士を寄せて食事スペースを作る。

「午前中だけでも結構動いたね。汗臭かったらごめん」
「そりゃお互い様だろ、つーかおまえも汗とかかくんだな」
「当然でしょ、オレのことなんだと思ってるの」

 向かい合う千蔵の弁当の中は栄養バランスの考えられた、見た目にも彩り鮮やかで食欲をそそるおかずが詰め込まれていた。

(ウチはおふくろが作ってくれてるけど、千蔵んちは誰が弁当作ってんだ? 父親か、妹……? いや、千蔵が作ってるって可能性も……)
「橙? そんなじっと見られたらドキドキするんだけど」
「はっ……!?」

 わざと照れたように口元に手を当てる千蔵に、俺はジロジロと見すぎていたことに気づかされて挙動不審になる。

「おっ、おまえじゃなくて弁当見てたんだよ……!」
「え、そうなの? てっきりオレのこと見つめてるのかと」
「ちげーっての!」
「っ、はは……! そんな必死に否定しなくても」

 口元の手をそのままに肩を震わせる目の前の男は、俺の反応を楽しんで笑いを堪えているのだとわかる。目尻に涙が滲んでいるようにも見えるので、場所が場所なら声を上げて笑っていたのかもしれない。

「っ……」

 そんな千蔵の姿はあまり学校で見られるものではなくて、案の定こちらを気にしていた女子たちが教室の端でざわついているのが目についた。

(ここでそういうツラしたら見られるだろうが……って)

 不満を感じる思考回路の不自然さに気づいたのは千蔵の笑いが落ち着き始めた頃で、俺は脳内で慌てて己の考えを訂正する。

(見られたからなんだってんだ……!? 千蔵がどんなツラしてようが、俺だけのもんじゃねーっての……!)

 俺だけが知っている千蔵の顔。ダチに対してそんな風に思うこと自体が間違っている。ようやく笑いが収まったらしい千蔵は、箸を持ち直すと弁当箱の中から摘まみ上げたおかずの一つをこちらに差し出す。

「どーぞ」
「えっ……なんだよ?」
「食べたくて見てたんじゃないの?」
「そ、そういうわけじゃ……」

 確かに美味そうだと思ったのは事実だし、未だ空腹を訴える胃袋にてりやきソースを和えたと思しき野菜の肉巻きは、とんでもないご馳走に見える。食いたい。けれどここは教室だ。千蔵のまさかの行動に男子も女子も全員が俺たちに注目していると言っても過言ではない。そのくらいに突き刺さる視線を感じる。

(こ、この状況でアーンなんて恥ずかしすぎることできるわけ……っ!)
「違ってもいいや、自信作だから良かったら食べてよ」
「えっ……」

 そう言って差し出してきた肉巻きを、千蔵は俺の弁当箱の隅に乗せる。鎮座した肉巻きと千蔵の顔を交互に見た俺は、己の勘違いに瞬間的に顔から火が出そうになるのを感じた。いや、出た。

(なんで当然のように食わせてもらう前提で考えてんだ俺ッ……!? 腹減りすぎて脳みそイカレたのかよ!?)

 羞恥心ごと飲み込んでしまおうと、置かれた肉巻きに箸を伸ばして口の中に放り込む。素早く咀嚼して飲み込んだ肉巻きの味はほとんどわからないまま、随分と遅れて千蔵の言葉が脳内に反芻された。

「自信作、って……おまえが作ったのか?」
「うん、そうだよ。どうかな?」
「う、美味い……と思う」

 味わうこともなく勢いのまま食べてしまったことを後悔するが、さすがにもう一つ寄越せなどと言えるはずもない。言えば千蔵は喜んで譲ってくれるのかもしれないが。俺の心の内など露知らずの千蔵は、返答に満足したらしく表情をゆるめて食事を再開している。
 口内に残る甘じょっぱさを消してしまう勿体なさを少しだけ感じつつ、俺も自分の弁当を食べ進めていくことにした。

「そういえば橙、騎馬戦大活躍だったじゃん」
「まーな。つってもおまえだって結構活躍してたろ」
「あ、見ててくれたんだ?」
「そりゃ、チームの勝利にはおまえの活躍もかかってるからな」

 そうは言ったものの、見るなと言われても見ない方が無理だろう。動きというよりも存在が目立つのだから、千蔵が場に出ていれば誰もがそちらに注目するはずだ。

「……人目は大丈夫?」

 不意に千蔵が声を潜めたので、必然的に聞き取りやすいよう少しだけそちらに身を寄せる。

「体育祭って楽しいけど、種目に出場してる間って注目されるから」
「ああ、平気。喋れる相手もいるし、集中できるもんがある時はな」
「そっか、それならまずは安心かな」

 まさか、体育祭の間もこちらを気に掛けてくれているとは思わなかったので、ホッとした様子の千蔵に驚いてしまう。

「何かあったら、オレのところに来ていいから」
「過保護。何もねーって」
「無いなら無いでいいんだって。念のための保険だよ、オレが安心したいだけ」

 千蔵のそばで感じる居心地の良さは相変わらずで、むしろ心地良さが増しているような気さえする。それはひとえに、こうしてこの男が常に俺のことを気遣ってくれているからなのだろう。

(千蔵は、なんでそこまでしてくれんだろうな)

 損得勘定で動く男ではないのだろうが、千蔵という人間を知る度にますますわからなくなる。

『嫌じゃないならそばにいて』

 そう言っていた千蔵の顔が思い浮かぶ。甘えていいと言われているのだとしても、そうすることでコイツに何かメリットはあるのだろうか。

(千蔵って、世話焼き体質なのかもな)

 そんなことを考えながら、俺は午後の種目に備えるために腹を満たすことに専念した。





「俺便所寄ってから行くわ」
「りょーかい、じゃあオレ先に行ってるね」

 昼休憩の時間が終わって午後の種目が始まる前、俺は千蔵と別れて男子トイレへと向かう。その途中、女子が三人固まって何かを話しているのが視界に入る。そのうちの一人が妙に深刻そうな顔をしていて自然と耳が話題を拾ってしまった。

「あたし、千蔵くんに告白する」
「ッ……」

 聞こえてきた名前に思わず足を止めそうになるが、立ち聞きをしていると思われたくなくてトイレへ向かう足取りはそのままに、けれど歩調は意図せず少し緩まってしまう。

「借り物競争だよね?」
「そう。お題に必ず『好きな人』が入ってるから、それ引いて告白するの」
「引けなかったらどーすんの?」
「その時は……今じゃないんだって思うことにする」
「運任せじゃ~ん!」
(……この間のラブレターといい、千蔵ってやっぱモテるよな)

 今さらのようにそんなことを実感しつつ、それ以上話を聞いていることもできない俺は今度こそトイレを済ませて校庭に向かう。想像してみれば確かに盛り上がるお題ではあるのだろうし、告白をしたい人間にとっては決心する絶好の機会なのかもしれない。

(つっても公衆の面前とか俺なら無理。先に振られる想像しちまいそうだし……女子って勇気あるよな)

 別に俺には関係の無いことだというのに、そこから午後の種目に参加した俺の気持ちは妙に落ち着かないまま後半戦に挑み、やがて(くだん)の借り物競争の時間になる。
 俺は出場しないので完全に傍観するだけだが、あんな話を聞いてしまった以上はどうしてもあの女子の動向が気になってしまった。

(あ……千蔵も一緒の走者なのか)

 スタートラインに並ぶ選手の中には千蔵の姿がある。その隣に例の女子が並んでいるのだが、千蔵を見る瞳は誰が見ても恋をしているのが丸わかりだ。

(あれ、告白するまでもなくバレバレじゃねーか)

 視線を受ける千蔵自身は気づいているのかわからないが、目ざとい男のことだからわからないはずもないだろう。むしろそんな好意は向けられ慣れているからこそ、いつものことと気にかけていない可能性だってあるかもしれないが。

――――パンッ

 スターターピストルの合図が鳴り響く。一斉に駆け出した走者たちは数メートル先にあるお題の札を目指し、到着した者から各々が好きな札を手に取っていく。裏返しになったそれを捲ってお題を確認した人間から、会場内に視線を巡らせてお題に合うものを探し始める。
 脚力には自信があったのか、お題をいち早く手に取ったあの女子が頬を紅潮させているのがわかった。次に視線が向いたのは、自分のお題を確認している最中の千蔵の方だ。

(あれ、もしかしてマジであのお題引いた?)

 そうだとしか思えない動きで、彼女は千蔵に声を掛けようと腕を伸ばしているのが見える。その腕が千蔵に触れそうになった直後、自分の札を確認した千蔵が素早く(きびす)を返したために、彼女は標的を取り逃がしてしまった。その様子になぜだか安堵してしまった俺は慌てて頭を横に振り、両手で自分の顔を覆う。

(安心するって性格悪すぎんだろ……! ラブレターの時といい、俺なんかおかしいぞ……!?)

 自分自身のことだというのに感情が理解できない。そんなにも誰かに今のポジションを奪われるのが不満だというのか、まるでお気に入りのおもちゃに執着する子どもじゃないか。ぐるぐると考え込んでいた時、俺の周囲で突如として黄色い悲鳴が上がり始める。何事かと思って顔を上げた先には、こちらに駆け寄ってくる千蔵の姿があった。

「橙、来て!」
「えっ、うわ……ッ!?」

 千蔵はシートに座っていた俺の腕を引っ張って立ち上がらせたかと思うと、有無を言わさずに走り出していく。わけもわからず俺はその後について走るしかなく、隣には同様にお題をゲットしたらしい男子生徒が走っているのが見える。
 お題はわからないが先にゴールをした方が一着なのだということだけは理解できた俺は、負けじと速度を上げて千蔵と共にゴールテープを切った。

「お題お願いします」

 ゴールでお題の確認を担当しているらしい女子生徒が、千蔵に札の提出を促す。それを差し出した千蔵は繋いだままの俺の腕を持ち上げて、これが自分のお題なのだとアピールをした。

「オレの好きな人です」
「……は……?」

 はっきりとそう告げられたのだが思考が追い付かず、それは周囲も同じだったようで、隣の走者も確認を担当する女子生徒も目を丸くしている。千蔵の札には見間違いようもなくはっきりと、『好きな人』という文字が書かれていた。

「……あっ、えーと、好きって別に恋愛限定のお題じゃないですもんね!」
「えっ……ああ!」

 判定担当の女子生徒の一声で、俺はようやく好意にも種類があるのだということを思い出す。判定は成功とされたので千蔵は一着でゴールとなり、遅れてやってきたあの女子が不服そうな顔でこちらを見ているのが視界に入る。彼女の手にしている札には『かっこいい人』と書かれていて、確かに顔のいい別の男子生徒を引き連れてきていた。

(確かにあのお題なら、千蔵連れてける絶好のチャンスだったよな)

 意図せず駆り出された俺は、役割を果たして用済みとなったために元いたシートの方へと戻っていく。道中では女子たちの話し声が聞こえてきて、どうやら千蔵のお題についての話をしているらしかった。

「私も千蔵くんに連れ出されたかった~」
「羨ましいよね、手も繋げるおまけ付きだったし」
「でもさ、女子じゃなくて良かったよね。自分以外の女子連れた姿なんて見たらあたし発狂しちゃう……!」
「それそれ、男で良かった~!」

 もしもあそこで千蔵が連れ出した相手が女子生徒だったら、おそらく多くの千蔵ファンから反感を買っていたことだろう。好意の種類が様々だというのなら、連れ出された相手はなにも俺ではない別の男子だった可能性もあるのだが。

(良かった、って思ってんのか……俺も)

 お題を見た千蔵は、真っ先に俺を目掛けて走り出してきたようだった。いや、直前まで顔を隠していた俺にはそう見えただけの話で、実際にはもっと違った動きをしていたのかもしれないが。
 好きな人なんて嘘か本当かを確認する術はないのだから、勝負に勝とうというのならもっと手近にいた人間を引き連れたって良かったはずなのに。千蔵にとって一番近いのは俺だと言われたような気がして、感じてしまう歪んだ優越感に俺は顔が熱を帯びるのを感じていた。







「はーっ、あっという間の一日だったな」

 帰宅するための電車の中。打ち上げと称して寄り道をする生徒も多いためか、いつもより人の少ない車内で俺は座席にゆったりと背を預ける。惜しくも総合優勝は逃してしまったものの、どの競技も心残りは無いといえるくらいには楽しむことができたと思っている。全力で挑んだこともあって、体力的にはとっくに限界を迎えているのだが。

「ふふ、橙すっごい眠そう」
「あー、眠い。首が座らねえ」

 油断するとかくんかくんと舟を漕いでしまう自覚はあるので、どうにか意識を保とうとするのだが、丸一日をフルパワーで動き回ってすっかり気が抜けてしまったのだろう。電車の揺れがあまりにも心地良すぎて、いっそ座ったことが失敗だったのかもしれないとさえ思う。

「寝てもいいよ、着いたら起こすから」
「ん~……」

 俺は必死に抗おうとしているというのに、あろうことか千蔵が俺の頭を引き寄せて丁度いい位置に肩枕をあてがうものだから、とうとう眠気に勝てなくなって瞼が閉じてしまう。

(そうやっておまえが俺を甘やかしたりするから、いつの間にか変な独占欲がついてきちまってるってのに)

「……ありがとな、ちくら……」

 眠る体制が整ってしまったのだから、俺が誘惑に負けるのはもはや必然だった。少し前まで必須の安定剤だった首元のヘッドホンの感触は、思い出そうとしても曖昧な輪郭のまま形にならずにぼやけていく。
 こんな風に電車の中で気を抜くことがあるなんて、千蔵がいなければきっとあり得ないことだっただろう。ここはそれほどまでに呼吸がしやすい場所なのだ。

「……無防備すぎ。伝わってないよなあ」

 だから耳に届いた千蔵の呟きの意味も、髪に触れる掌の優しさの理由も、微睡みの中ではひとつも理解ができないままだった。