【3話】

「あのっ」
「ん?」

 朝、いつものように電車の到着を待っていた俺は、ホームで突然見知らぬ女子に話しかけられた。見れば同じ学校の制服を着ているので、知り合いでこそないが同級生か先輩のどちらかであることは明白だ。

「突然声かけちゃってすいません。これ……」

 そう言って彼女が差し出してきたのは、一枚の真っ白な封筒だった。裏面はご丁寧に赤色をしたハート型のシールで封がされている。

(こ、これって……ラブレターってやつか!?)

 生まれてこの方ラブレターを貰ったこともなければ、ここまでベタな見た目のものを目にしたこともない。さらに言えば、告白を受けた経験も無い俺にとってはあまりにも急な展開ではあったのだが。

(まさか、俺に一目惚れしたけど直接言えないからって手紙を……)
「ち、千蔵くんに渡してください……!」
「へ……?」

 そう言うが早いか、彼女は引き留めるなどという思考に辿り着く間もなく、とんでもないスピードでその場から走り去ってしまった。手元に残された封筒を見下ろして、現実へと意識を引き戻された俺は深い深い溜め息を吐き出す。

(……だよなぁ、こんな展開マジであるもんなのかよ。漫画じゃん。つーかあの子同じ電車乗るんじゃねーのか?)

 次々と浮かぶ疑問に眉間に皺を寄せていると、到着した電車の中からいつものように千蔵が姿を現した。

「おはよ、(かぶち)
「っ……はよ」

 俺は咄嗟に封筒を鞄の中に押し込んでから、すぐにそれを後悔する。渡せと言われたのだからさっさと渡してしまえば良いものなのに、顔を見てすぐに渡しづらくなってしまったのだ。ひとまず電車に乗り込んで吊り革に掴まり、電車が動き出すのを待つ。隣に立つ千蔵から視線を感じる気がするが考えすぎだろうか。

「どうしたの?」
「へっ!? どうってなんだよ?」
「……もしかして体調悪い?」

 実は電車の中から封筒を見られていたのではないかとドキドキするが、続く問いと共に伸びてきた手が俺の首筋に触れる。

「ふぁっ!?」

 少しだけ冷たい指先がなんの前置きもなく肌に触れたことで、俺は情けない声を上げてしまって急激に顔が熱くなった。

「あ、ごめん。熱あるのかなって思ったんだけど」
「だからってなんで首なんだよ!?」
「家族がこのやり方だからつい」

 改めてごめんと謝ってくる千蔵に悪気はないようなので、俺はそれ以上を怒る気にもなれずに感触の残る首筋を擦る。普段人に触られる場所でもないせいか、まだそこに指が触れているような気さえする。

「……橙、もしかして首弱い?」
「はあ!? 急に触られたら誰だってそうなるだろ!」
「ふふ、それはそう」

 それでもからかうように問われれば、今度こそ反論の声が上がるのは致し方ない。「周りの人が見てるよ」と指摘する千蔵をじとりと睨みつつ、動き出した電車に揺られる。

(くそ、ヘッドホンがあればガードできてたのに……あれ?)

 ふと、そこまで考えて俺は違和感を覚える。改めて己の首元に触れてみれば、千蔵の不意打ちの感触は残っているものの、首周りを遮るものはYシャツの襟以外に存在しない。

(……ヘッドホン、家に忘れてきた)

 過呼吸の症状を起こしてからというもの、俺にとってヘッドホンは何よりの必須アイテムといっても過言ではない。これまで寝坊をした日だろうと悪天候の日だろうと、それを忘れることは一度だって無かったのだ。それが今日は、ヘッドホンが無いということに今の今まで気がつかずにいた。

(そういや、最近は電車乗る前の不安も感じなくなったな)

 それがゼロになったとは思わないのだが、以前は外に出てから安心できる場所に移動するまで、何もかもが不安でしかなかったのに。そんなこととは露知らずの隣の男を横目に見れば、俺の視線に気づいたらしい千蔵はこちらを向いて表情を和らげる。

(友達パワーってスゲーんだな)

 こんなにも大きな変化をもたらしてくれたのは、間違いなく千蔵のおかげなのだろう。ならば何か恩返しをしなくてはならないとも思う。見返りを求めるタイプではないのだろうから、きっとコイツはそんなもの必要ないと言うかもしれないが。

(かといって、礼って何すりゃいいんだろうな)

 日頃他人に物を贈るようなことはした覚えがないし、贈り物のセンスがあるかと言われれば正直自信もない。どうしたものかと頭を悩ませかけたところで俺の脳裏に浮かんだのは、ホームで受け取ったあの白い封筒だった。

(……女子に告られたら、嬉しいよな。普通)

 俺の主観だが、封筒の主はなかなか可愛い子だったと思う。あの封筒の見た目からしても中身は十中八九ラブレターだろうし、もしかしたら俺が千蔵と彼女のキューピッド的な役回りになるのかもしれない。

「なあ、千蔵」
「ん? なあに?」

 学校の最寄り駅に着いた電車を降りたところで、俺は人の波から外れて千蔵を呼び止める。鞄の中に手を突っ込めば目的の封筒はすぐに見つけられたものの、どうしてだかそれを引っ張り出すという行為に上手く力が入らない。

「どうかした? もしかして、やっぱり調子悪い?」

 こんな時でも、千蔵は相変わらず俺の体調を気遣ってくれている。過呼吸の症状も落ち着いたのならもう付き添ってもらう理由もなくなるし、俺の世話なんか焼いていないで自分の幸せを考えた方がいい。

「……これ」

 ようやく取り出した封筒を差し出すと、千蔵は両目を見開いてそれを受け取る。王子なんて呼び名が付くほどモテる男だとは思っているが、もしかしたら千蔵もこんなベタなラブレターを貰うのは初めてなのかもしれない。

「なに、これ……?」
「おまえに渡してくれって、今朝知らない子から」
「あ、なんだ……そういう……」

 状況を理解したらしい千蔵はなんだか複雑そうな顔をしている。普通は嬉しいものではないかと考えたが、封筒を見ただけでは相手がどんな女子かはわからないのだから、反応に困っているのだろうか。きっと千蔵にだって、少なからず女子の容姿の好みくらいはあるはずだ。

「あー……結構可愛い子だったぜ?」
「……そう」
「……千蔵?」

 俺が与えられる限りの情報を与えたつもりではあったものの、やはり主観では判断材料にはならないのかもしれない。妙に反応の薄い千蔵はその封筒を鞄にしまい込むと、「行こう、遅刻する」と俺に背中を向けてくる。想像していた反応とは違うけれど、ずっとこの場に留まるわけにもいかないので俺も千蔵に続くことにした。

「…………」
「…………」
「……それ、返事とかすんの?」

 普段は自分から喋ることも多い千蔵の口数が少なくて、いつもは居心地のいいはずの空気が重い。それに耐えきれなくなった俺は、なんとなく場を持たせようと質問を投げる。

「気になる?」

 だというのに返ってきたのは回答ではなく素っ気ない問い掛けで、少しだけムッとしてしまう。

「そりゃ、ラブレターなんて本物見たの初めてだしよ」
「……そう」

 どことなく空返事に聞こえる千蔵は結局教室に着いてもそのままで、いいことをしたつもりだったのに、その日はずっともやついた感情を抱いたまま過ごすことになった。






「オレ、ちょっと返事しに行ってくるから」

 妙に長く感じられた一日の放課後になって、顔を合わせた千蔵は開口一番に俺にそう告げてきた。一瞬なんの話かわからなかったのだが、その手には今朝渡したあの白い封筒があったので、告白の返事をしに行くのかと遅れて理解する。

「……おう、行ってこい」

 呼び出し場所らしい方角へと向かっていく千蔵を見送ると、俺は大きく溜め息を吐き出してその場にしゃがみ込む。事情を知らないクラスメイトがどうしたのかと俺を見ているが、今はそちらを気に掛けている余裕もないのが笑えてしまう。いや、実際の表情は全然笑えていないのだが。

(あの子と付き合うってなったら、俺邪魔だよな)

 彼女は同じ路線の利用者だったようだから、付き合い始めれば当然同じ電車に乗るだろうし、これからはきっと千蔵と一緒に登下校をすることもなくなる。王子だからと始めは距離を置いていたけれど、今なら女子たちが千蔵を見て騒ぐ理由もわかると思った。むしろ見る目がありすぎる。
 好意を抱く者同士で牽制しあっていたのかもしれないが、見た目も良くて気遣いもできる男の隣に、今まで特定の相手がいない方が不思議だったのだ。

(……帰るか)

 別に待っていろと言われた覚えはないし、恋人になるなら今日から一緒に帰りたいだろう。戻ってきたアイツに変に気を使わせるのも嫌だと思った俺は、千蔵を待たずに足早に学校を後にした。

(おめでとうとか、言うべきだよな。一応)

 友達として祝いの言葉を述べるのは別に不自然なことじゃない。二人並んで電車に乗る姿を想像すると、お似合いだとすら思う。俺だって高校生活の中で彼女を作って青春を謳歌するんだと、人並みに考えたことだってある。その青春が、千蔵に一足先に訪れたというだけだ。だというのに、最低な自分も胸の内に存在しているのは事実だった。

(千蔵なら、断るんじゃないかって……なんで思ったりしたんだろうな)

 他人に興味関心が無いと言っていた千蔵。まるで隣にいる自分だけが特別扱いを受けているような、勝手な錯覚を起こしていたのかもしれない。

(登下校に付き合ってくれたのは、千蔵にとっては単に人助けだろ。目の前で過呼吸起こしてる奴見て、勝手に事情まで聞かされて、大変だねじゃあサヨナラって言えねえっての)

 慣れた道のりが長く感じられたが、自己嫌悪に陥りつつもようやくたどり着いた駅のホームで電車を待つ。やがて滑り込んできた電車のドアが開かれると、そこに踏み込もうとした瞬間、俺は覚えのある息苦しさを感じて足を止める。

(っ……なんで、だよ……!?)

 指先が冷たくなって震えるのを感じた時には、俺はすでに過呼吸を起こし始めていることに気がついた。慌てたところで自分を守るためのヘッドホンは首元にも鞄の中にも無い。落ち着いたと思っていたのに、千蔵が隣にいないだけでこれなのか。

(情けねえな、俺)

 今日までのことはすべて千蔵の厚意で成り立っていたものだ。アイツが他を望むなら、いつでもこの関係性は解消されるものだった。千蔵に甘え続けてはいられないと思うのに、どうしてここにいないんだとも思ってしまう。

(ダチって、こんな風だったかな……)

 息苦しいし頭の中もぐちゃぐちゃで、とにかく早く家に帰らなければ。その思いだけで俺は震える脚を動かして無理矢理にでも電車の中に乗り込もうとする。

「橙ッ……!」

 その瞬間、俺の身体は力強い腕によって後方へと引き戻される。何が起こったのかわからなくて振り返った先には、らしくないほどに大きく息を切らした千蔵の姿があった。

「え、千蔵……なんで……?」
「ここ、邪魔になる」

 いつもより眉尻を吊り上げてなんだか怒っているようにも見える千蔵は、短く告げると俺の腕を引くのでホームの隅へと移動を余儀なくされる。

(あれ、あの手紙の子は……?)

 てっきり一緒にいるものだとばかり思っていたのに、周囲を見回してもそれらしき姿を見つけることはできない。

「なんで一人で帰ったの?」

 明確に責められているような声色にぎくりとして、別に悪いことなどしていないはずなのに、妙な罪悪感が湧き上がる。

「な、なんでって……手紙の子に返事しに行っただろ」
「そうだよ。断りに行っただけなのに、なんで待っててくれなかったの?」
「え……断ったのか……?」

 千蔵がどうして怒っているのか理解はできなかったが、まさかの言葉に俺はそちらに食いついてしまう。

「当然でしょ、好きでもない子とどうして付き合うの?」
「いや……だって……」

 あまりにも正論を向けられると言葉を続けられなくなってしまうが、そういえば手を握られたままだったことに気がついて、俺は腕を引こうとする。けれど千蔵が逆に力を込めてくるので、手を離すことは叶わなくなってしまった。

「……あのさ、橙はオレと一緒にいるの嫌?」
「え、嫌じゃねえけど」
「そう。それならさ、ちゃんと聞いてほしいんだけど」
「ああ……?」

 いつになく真剣な表情で俺を見る千蔵に、なんとなく背筋が伸びてしまう。

「オレにとって、家族以外でいま一番大事なものを決めるとするなら、橙なんだ」

「え……俺……?」
「そう。だから変な気遣いとかしないで、嫌じゃないならそばにいて」

 まるで愛の告白でも受けているのかと錯覚するほど、千蔵はまっすぐに想いを伝えてくる。

(まだ……千蔵と一緒にいてもいいのか、俺)

 俺は千蔵が本心でどう思っているか聞こうともせず、思い込みだけで結論を決めつけていた。彼のためだと思っての行動だったけれど、結果的に余計な世話を焼いただけになってしまったらしい。

「……わかった」

 そのことを反省するにしても、どうしたって消しきれない感情がそこに残る。

(嬉しい、とか……最低だな、俺)
「うん。それじゃあ、帰ろうか。橙」
「……おう」

 見知らぬ彼女の想いは無下にしてしまったけれど、どうやら俺はまだ千蔵と離れる必要はないらしい。そう思うだけで、握られていた指先はいつの間にか温もりを取り戻していて、俺は気持ちが一気に軽くなっていくのを感じていた。

(……あれ?)

 新たに到着した電車に乗り込もうとした時、少し離れたホームの上に佇む女子生徒の姿に気がつく。一纏めにした長い黒髪と黒縁眼鏡。千蔵の妹の紫乃(しの)であることは間違いなさそうだ。

「っ……!」

 レンズ越しに向けられた瞳が、まるで俺を敵視する色を湛えているように見える。

(見間違い、だよな……?)

 すぐに彼女は俺たちとは別の車両に乗り込んでいって、先日の千蔵の家で会った時のように、自分の勘違いだと思うしかなかった。







(……もしかして、俺って嫌われてたりすんのかな?)

 授業中にもかかわらず勉強に身が入らない状態の俺は、昨日の帰りに目に入った千蔵妹の姿を思い返していた。自意識過剰で見間違いだと自己完結しようと考えたのだが、千蔵の家で初めて対面した時も敵意に近い何かを感じたような気がする。
 特に嫌われるようなことをした記憶もないのだが、無意識のうちに嫌悪を抱かれる出来事があった可能性もゼロではない。

(俺のこと知ってたしな……同学年だっていうなら、知らねえうちに接点あったのかもだし)

 などと思考を巡らせているうちに放課後を知らせるチャイムが鳴り響き、解放されたとばかりに教室を飛び出していくクラスメイトに続いて、俺も席を立つ。

「橙」
「おう。千蔵、帰ろうぜ」

 いつものように連れ立って教室の外へ向かうつもりだった俺は、千蔵がなぜか動こうとしないことを不思議に思って首を傾げる。

「ごめん、今日ちょっと用事が入って、一緒に帰れないんだ」
「え……あ、そっか」

 これまで毎日一緒に登下校をしていたがそれは当たり前ではなく、過ごす時間が長くなればそれだけこうした日も増えてくるものだろう。

「じゃあ、先帰るな。また明日」
「あ、橙待って……!」
「……?」

 なんでもない顔をして一人で帰ろうとした俺の腕を掴んだ千蔵は、そのまま「ちょっと来て」と廊下に向かって歩き出す。下校を始める生徒の波に逆らうように、到着したのは人気のない屋上に続く階段の踊り場だった。

「なんだよ、こんなトコ連れてきて」
「今日ってさ、ヘッドホン持ってきてる?」
「え……? あ、いや……」

 問い掛けにバッグの中身を探るまでもない。使い慣れたヘッドホンを持ってきていないことは、俺自身が一番よく知っている。

(千蔵がずっと一緒だったから、最近は家に置きっぱなしだし……)

 頼りきりではいけないと思うのに、甘えている証拠だろうか。いつこんなイレギュラーが起こらないとも限らないのに、さすがに気が緩みすぎている。

「別に気にしなくて大丈夫だって。それより用事――」
「やっぱ、持ってきてないんだ」

 俺が即答できなかったせいで質問の答えを察したのか、はたまたそうだろうと予想していたのかはわからないが、言葉尻が疑問形ではなく言い切られてしまう。千蔵は急な用事が入ったからなのか申し訳なさそうな顔をしていたが、どこか嬉しそうにも見えるのがよくわからない。

「これ、良ければ使って」

 そう言って差し出されたのは、見慣れない黒のヘッドホンだった。

「これって……もしかして、おまえのか?」
「うん。平気ならいいんだけど、お守り代わりに持っててくれるとオレが安心だから」
「……過保護かよ」

 普段千蔵がヘッドホンを使っているところなど見たことがない。わざわざ俺のために持ってきてくれたのかと思うと、妙にくすぐったい気分だ。

(それに、そんな言い方されたら受け取るしかねえだろ)

 気を使わせまいとする俺の行動を先読みしているのか、スマートすぎて憎たらしさすら感じさせるが、千蔵の厚意を素直に受け取ることにする。

「ありがとな」
「ううん、一緒に帰れなくてごめん。あ、寂しくなったらいつでも連絡して?」
「するかバカ。さっさと行け」
「っはは、つれないなぁ。オレは一緒に帰れなくて寂しいのに」

 俺を茶化して遊ぶのが楽しいのか、舌の上のピアスが覗くほど口を開けて笑う千蔵は、まるで口説くみたいなセリフを息をするように吐く。

「それじゃあ橙、また明日」
「……おう」

 そうして去っていく千蔵の背中を見送ってから、俺はヘッドホンを首にかけて帰宅することにした。一人で歩く帰り道は先日のそれと同じはずなのに、沈むどころか今日はなんだか浮ついた気持ちが抜けてくれない。
 俺の前で遠慮なしに笑う千蔵の姿が思考を埋め尽くしていて、だから近づく足音にも気づかなかったのだろう。不意に肩を叩かれて、俺は大袈裟な反応で背後を振り返った。

「わあっ……!? え、おまえ……千蔵妹?」

 そこにいたのはダサイ黒縁眼鏡をかけた女子生徒、千蔵紫乃(しの)に間違いない。レンズ越しに先日よりも間近に見える瞳には間違いなく敵意の色が浮かんでいて、俺はやはりあの視線が見間違いではなかったのだと確信する。

「来て」
「えっ……オイ、ちょっ……なんだよ!?」

 用件を告げる前に人の腕を掴んで歩き出すのは、兄妹揃ってそういう血筋か何かなのだろうか? などと考えながら連れていかれた先は、公園と呼ぶには小さすぎる上に遊具らしきものも見当たらない、こじんまりとした広場だった。
 唯一ある寂れたベンチに強制的に座らされると、先ほどまでとは目線の高さが逆転し、両腕を組んだ妹が俺を圧のある目で見下ろしてくる。

「アンタ、紫稀(しき)とどういう関係なの?」

 千蔵が下の名前で呼ばれている姿を目にする機会がないせいで、一瞬それが誰のことを指しているのか理解が遅れる。

「は? か、関係って……だ、ダチだろ」

 続いて関係という言葉にもなぜかドギマギしてしまうが、どう見ても”クラスメイト”か”友人”が適切であることは、問うまでもなくわかるはずだ。だというのに俺を見下ろす彼女の表情はまさしく疑念を抱いており、千蔵との関係性を疑われているらしい。

「それって本当かしら?」
「いやホントだって……!」
「アンタ、紫稀を利用してるんじゃないの?」
「……は?」

 思いがけない言葉を返されて、俺は間の抜けた声を落としてしまう。

「紫稀は……兄は人がいいから、いつかこういうことになるんじゃないかって、ずっと思ってた」
「な、なんの話……」
「ここしばらく、兄の登下校のペースが変わったの。聞けば誰かと毎日登下校してるって……それがアンタなんでしょ、橙 真宙(まひろ)

「……!」

 それは言い逃れしようのない事実であり、同じ家に住む家族であれば気づいて当然の変化かもしれない。しかし、決まった友人との登下校は別におかしなことではない。それがただの登下校であればの話だが。

「これまでそんなことなかったのに、どんな相手かと思ったら……こんな金髪のチャラついた男子だったなんて」
「っ……それは、返す言葉もないんですが」

 チャラついた見た目に見えるようにしたのは己の意思で、偏見が含まれるとはいえ思わず敬語になってしまう。

「兄はただでさえ大変だったのに、よくわからない相手に利用されて負担を増やされてるなら、あたしがガツンと言ってやろうと思って来たの」
「や……やっぱり負担だよな!?」
「……え?」

 食いつく俺の反応に、今度は妹の方が呆気に取られた顔をする番だった。

「いや、千蔵ってマジかよってくらい目ざといだろ? 気遣ってくれんのはありがたいけど、俺だって負担かけたくねーとは常々思ってるし。けど俺の語彙力じゃアイツに納得させられるばっかでさ」

 負担になりたくないと思うのに、アイツが俺を特別みたいに扱うからつい甘えが出てしまう。まるで俺に頼られるのが幸せみたいなツラで笑うから、続くはずだった言葉が浮かばなくなってしまう。

「その、おふくろさんのこともあって人にばっか気遣ってる場合じゃねーだろうに、今日だってコレ貸してくれたりしてさ。俺だって何かしてやりてえとか思うのに、一緒にいられりゃいいとか、いっつも上手いこと流されんだよな……って」

 日頃から千蔵自身には伝えきれなかったそれが、一気に爆発したみたいに溢れ出して、ハッとした時には妹が毒気を抜かれたような顔で俺を見ていた。

「わ、悪い……! つい一人で喋りすぎた……!」

 俺に対して敵対心を抱いていたであろう妹に、さらに悪印象を与えてしまったかもしれない。そう思ったのだが、妹はなぜか困惑した様子で視線のやり場を探している。

「なんか……思ってたのと全然違うんだけど」
「え、それっていい意味……か?」
「…………」

 複雑そうな表情でしばらく俺を見ていた妹は、小さく溜め息を吐き出してから隣に腰を下ろしてきた。

「アンタに悪意が無いっぽいのは、よくわかったわ。疑ってごめんなさい」
「いや、誤解が解けたっぽいなら別に……」
「……兄ってアレだから異性にモテるのは知ってるでしょ?」
「ああ、まあ……」

 抽象的な表現ではあるが、アレというのは王子と呼ばれる見た目や性格的な部分を表しているのだろう。自身の膝の辺りに視線を落としたまま、妹は言葉を続けていく。

「兄に近づく同性って、兄目当ての女を狙う男が多かったの。表向きは友人だって言いながら兄自身の扱いは(ないがし)ろで……紫稀自身は平気な顔をしてるけど……利用されて傷つかないわけじゃない」
「そりゃ、当然だろうな」

 同性からのやっかみはあるだろうと予想はつくが、そういったパターンもあるとは考えたこともなかった。

(そういうのが一度や二度じゃないなら、妹だって俺みたいなのが近づいてきたら警戒するよな……)
「でも、真宙は違うみたいで良かった」
「っ……そ、そうかよ」

 ついさっきまではアンタ呼ばわりだったのに、突然下の名前で呼ばれてドキリとする。けれど、警戒の対象ではなくなった証なのかもしれないと思うと嬉しくも感じる。

「まさか、紫稀がお母さんのことまで……」
「ん? なんて言った?」
「ううん、なんでもない。あたしそろそろ帰らなきゃ」

 小さな呟きを聞き取ることはできなかったが、妹につられて俺もベンチから立ち上がる。

「けど、千蔵妹は兄貴思いなんだな」
「……その妹呼びやめて。学校ではバレないようにしてるし」
「え、ああ……じゃあ千蔵……いや、どっちの千蔵かわかんなくなるか?」
紫乃(しの)でいい。じゃあね、真宙」
「じゃあな……紫乃」

 俺の返事が聞こえているのかいないのか、用事が済んだ妹――もとい紫乃は、背を向けると颯爽と駅の方へ歩き去ってしまう。

(そういや、なんで俺のフルネーム知ってたんだ……?)

 結局聞きそびれてしまった謎は次の機会に尋ねればいいかと考えつつ、俺も駅を目指して歩き出したのだった。