【2話】
「解放されたーっ!」
正午過ぎ、爽やかな青空の下。俺は試験勉強から解放された身体を思いきり伸ばして、とある店の前に立っていた。
「あはは、橙は元気だなあ」
「そりゃ無事に赤点回避どころか、普通にいい点取れたしな。元気にもなるだろ」
隣には当然のように千蔵の姿もある。なにせ今日は、試験勉強の褒美を貰いに来たからだ。シャツにジャケットを羽織ったモノトーンの私服姿は、シンプルなのに千蔵が着ているというだけで洒落て見えるから不思議なものだと思う。一方の俺はラフなパーカーで来てしまったのだが、もう少し考えるべきだったのだろうか。
「基本的に50点台が多めだったけど、赤点回避って騒いでたからもっと酷いのかと思ってたよ」
「試験勉強してなかったら普通に赤点だっただろうな」
予想以上の点数が取れたのだから俺としては言うこともない。……はずなのだが、千蔵は当然のようにすべての教科で90点台を取っていた。だからこそ試験の結果が出た当日は、実を言うと素直に喜びきれなかったのだ。
(次は、もうちょいイイ点取れっかな。そしたらまたこうやって千蔵に褒美貰……って)
はたと、自分が何を考えているのかと思い至って恥ずかしくなり、思考を慌ててかき消していく。当たり前のように次も勉強を教わるつもりでいることも、また褒美を貰おうとしている自分にも、信じられないという思いが膨らんでいく。
「橙?」
「えっ!? あ、なんだよ?」
「こっち」
名前を呼ばれて勢いよく振り返ると、少し離れた場所で千蔵が俺に向かって手招きをしている。見れば店の前には列ができ始めていて、千蔵はそこに並ぼうとしているようだったので、俺も慌てて隣に移動する。
「ここのお店、最近できて話題になってたけど、やっぱり並ぶんだね」
「ああ……つーか、女子ばっかだな」
何気なく周囲に視線を巡らせたところで、店先に並んでいるのは俺たち以外全員が女性であることに気がつく。オープンしたての人気スイーツ店とあって目をつけてはいたのだが、それは当然俺たち以外の人間であってもそうなのだろう。ましてや店の外観はピンクと白を基調とした可愛らしいデザインをしていて、圧倒的に女性客が多いことは考えるまでもない。
「なんか、俺ら悪目立ちしてねえ……?」
「そうかな? 気にすることないよ」
しかし千蔵は言葉通り気にした様子もなくガラス越しに見える店内の様子を眺めていて、ちらと俺の方を見ると柔らかい笑顔を向けてくる。
「悪いことしてるわけじゃないし。性別とか関係なく、好きなものは好きでいいでしょ」
「それは……そう、か」
「それより、体調は平気?」
「ん? 体調?」
何を問われているのかわからずに疑問を口にするが、千蔵が自身の首元を指先でトンと叩いたことで、遅れてその意図を理解する。首元に掛けられた俺のヘッドホンを指しているのだろう。
「ああ、平気。目立つけどまあ、話してるとそっちに意識行くし」
「そっか、じゃあなに食べるか決めよ」
そう言って自身のスマホを操作した千蔵は、ネット上で公開されている店のメニューを表示して、画面をこちらへ傾けてくる。
(……なんつーか、気遣い方もスマートだよな)
メニューを眺めながらああでもないこうでもないと話しているうちに、待ち時間はあっという間に過ぎていった。店内端のソファ席に通された俺たちは、豊富なメニューの中から何にするかを迷った末に、どうせならと店のイチオシ――始めは悩んだが、奢る千蔵がいいと言ったのでそれに決めた――を注文することにした。
運ばれてきたのは旬のフルーツと生クリームが惜しげもなく盛り付けられた特大のパフェで、見た目のインパクトだけでなく味も値段に見合ったものだと感じる。
「うんまぁ!」
甘すぎない生クリームの軽さはいくらでも胃に入る気がするし、メインで飾られた真っ赤ないちごは甘くて思わず顔が綻ぶ。
「良かった、ここに決めて正解だったね」
「マジで美味い。スゲー脳が修復されてく感じする」
「修復されてそうな顔してる」
猛勉強で疲れきった脳を癒すべくパフェを堪能する俺を見て、千蔵は笑いながら自分の手元にあるガトーショコラを口にしている。王子だから紅茶という偏見があったのだが、ブラックコーヒーを嗜む姿も様になるなどと頭の片隅で考えてしまう。
「はー、満足した。ごちそーさま」
中間層のコーンフレークは食感を飽きさせないし、〆の最下層はフルーツソースの添えられたヨーグルトで、後味も最高だった。
「喜んでもらえて良かった。店に入る前はやっぱり帰ろうとか言い出す空気だったしね」
「いや、あれはそうなるだろ」
千蔵の言葉に改めて店内を見回してみても、席に座っているのはどこもかしこも女性ばかりだ。貴重な男性客だって同席しているのはすべて女性で、男一人はもちろん男同士で店を訪れている人間は見当たらない。
「おまえみたいに、人目気にせず振る舞えるのってスゲーよな」
「そうかな?」
「王子だから見られ慣れてんのもあったりすんのか」
「やめてよ」
そう言って笑う中にも照れたりする様子はなく、王子という愛称で呼ばれることにも慣れているのだとわかる。
「……気にするほど、興味とか関心が無いのかも。他人に」
「え、そうなのか?」
次いで千蔵の口から発せられた言葉は意外なもので、俺は目の前の男をじっと見つめる。浮かべられた笑みこそ穏やかではあるものの、普段のそれとは少し違うものに思えたのは、見慣れた制服姿ではないからだろうか?
「大事な人以外からどう思われても、オレには関係ないからさ」
はっきりとそう言い切る千蔵。確かに、普段の彼は決まった誰かとつるんでいたりするのを見た記憶がない。誰とでも上手くやれて、どのグループにも溶け込めるように見えて、実は案外そうではないのかもしれない。だからこそどんな相手にも一定の距離を保って、穏やかに接することができているのか。
「……じゃあ」
(……俺は?)
こうして二人で過ごす機会の増えた俺は、千蔵にはどう思われているのだろう。なんて馬鹿みたいな思考が脳裏を掠めて、言葉として出しかけたものを紅茶と一緒に飲み込んでいく。
「橙?」
「っ、そろそろ出ようぜ。外並んでるし」
「ああ、そうだね」
立ち上がった俺につられて席を立つ千蔵は、スマートな仕草で伝票を手にレジへと向かっていく。
(アイツにどう思われてようが、いいだろ別に)
会計を済ませた千蔵と共に外へ出ると、入店を待つ列は店の角を折れたところまで続いているようだった。
「ありがとな、会計」
「約束だったからね」
「そういや、おまえの欲しいもんまだ聞いてねえよな」
今日は俺の赤点回避の褒美ということで集まりはしたが、一方的に貰っておしまいというわけにはいかない。やれる褒美など限られてはいるが、美味いパフェを食べられたのだから多少奮発することだってやぶさかではないと思ってはいる。
「オレは、もう貰ったよ」
「は? 貰ったって、俺まだ何もやってねーだろ」
「橙と過ごす時間」
等価交換にもなりはしない、そんなものを出されて俺はすぐには言葉が出なくなってしまう。
(時間ってなんだ……なんだそれ)
試験勉強のためとはいえ、一緒に過ごす時間ならば今日までいくらでもあったものだ。それが褒美になるとは到底思えず、千蔵は俺に遠慮しているんじゃないかと考える。
「いや、褒美になんねーだろそれ。俺の時間なんか別にいくらでも……」
「なるから言ってるんだよ」
この男の考えていることが理解できずに戸惑うが、からかっているようにも見えなければ、遠慮している風でもない。それがわかってしまうからこそ、俺は視線をうろうろと彷徨わせてしまう。
「でも、いくらでもなんて言ってくれるんだ?」
「そ、そりゃ、時間なんか……」
金のかからない無償の褒美でいいというなら、惜しむ理由は俺には無い。だからこそ素直に肯定したというのに、千蔵があんまり嬉しそうに笑うものだから、俺の心臓が急激にうるさくなる。
「橙、あんまりオレのこと欲張りにしないで」
それ以上抗議するようなこともできなくて、その日は結局ずっと千蔵のペースに呑まれたままだった。
*
「橙さぁ、最近よく千蔵と一緒だよな」
指摘を受けた放課後。いつかはこんな日を予想したが、いざ現実となると少々面倒だと感じてしまう。俺の前の席に座ってじとりとした視線を向けてくる塚本。興味本位が三割、残りは最近構ってやらないことへの恨み節といったところか。
「いや……千蔵には勉強教わってたし、まあちょっと」
「えっ、橙くん王子と仲良くなったの?」
「なになに、王子の話!?」
俺の声が耳に届いたらしく隣の席の女子が反応したかと思うと、連鎖的に他の女子たちもわらわらと集まってくる。あっという間に自席の周りを囲まれてしまった俺は、まるで取り調べを受ける容疑者の気分だ。
「王子ってなに好きなの?」
「さあ……猫とか?」
「王子ってどんな風に過ごしてるの?」
「さあ……?」
「王子って音楽なに聴くの?」
「さあ……?」
四方八方から飛び交う質問の嵐に、俺は聖徳太子ではないと言いたくなる。けれど次第に止んでいく質問の代わりに、なんだか妙に残念そうな視線が増えていく。
「……な、なんだよ……?」
「橙って、仲いいわりに王子のことあんまり知らないんだね」
「は?」
「っていうか、ホントに仲いいの? 勘違いじゃなくて?」
「あー、王子誰にでも優しいもんね」
勝手に寄ってきて勝手に失望するクラスメイトたちに、俺のこめかみに青筋が立っていくのがわかる。
「上等だ、なら何だって調べてきてやる!」
そうして勢いで返してしまった俺は、なぜだか千蔵についての調査をすることになったのだった。
(にしても、調査ってなにすりゃ……買い物の様子でも観察……って、あれ?)
頭を捻りつつまずは目的の男に声をかけようと立ち上がった時、廊下の方を見て誰かに笑いかけている千蔵の姿が目に留まる。あの男が愛想を振りまくのは今に始まったことではないので、また誰かにファンサのようなことをしているのかと思ったのだが。
(……?)
廊下に立つのは、長い黒髪を一つに束ねた一人の女子生徒だ。どちらかといえば地味な印象を受ける彼女は、お世辞にもオシャレとはいえない黒縁眼鏡をかけている。
相手は特にアピールをしているわけでもないというのに、千蔵側は嬉しそうな笑顔と共に、手元で控えめなサインを送っているように見えた。けれど女子生徒は気づいているのかいないのか、特に何かを返したり反応する素振りも見せずにその場を去っていく。
(知り合い、か……? それとも、千蔵の好きな女子、とか……)
笑った顔。ちょっと悪そうな顔。他の奴が知らないであろう千蔵の顔を、俺はこの数日だけでいくつも目にしてきている。やたらと騒がしい心臓に困惑したこともあったし、今だってあまり見かけないような、いつもと違う千蔵の姿を目撃したのは同じはずなのに。
(なんで…………こんなモヤついてんだ)
「橙、どうかした?」
「っ……!」
名前のわからない感覚を怪訝に思っていると、いつの間にやってきていたのか、千蔵が俺のすぐそばに立っていた。登下校に千蔵がやってくるのはもはや恒例になりつつあって、千蔵だって当然みたいな顔をして俺に話しかけてくる。
「いや、別に……あのさ、帰りちょっと買い物行かねえ?」
「え、買い物? いいよ、どこ行く?」
当初の目的を思い出した俺の誘いを、千蔵は二つ返事で承諾する。先ほどの女子生徒は誰だったのか聞いてみたい気もしたが、コイツだってあまり詮索されたくはないかもしれない。そう思うと、俺は尋ねる機会を失ったまま教室を後にした。
目的地に定めた駅前の商店街をふらふらと歩きながら、気を取り直した俺は調査を実行するためにそれとなく質問を投げかけていく。
「おまえさ、そういうの好きなのか?」
「ん? これ?」
古着屋の店先で手に取ったカジュアルなシャツは、胸の辺りに不可思議なキャラクターがプリントされている。千蔵は首を横に振って俺の身体に当ててきた。
「ううん、橙に似合いそうだなって思って」
「俺……?」
似合うだろうかとシャツを見下ろすが、確かにこういったデザインの服は嫌いではない。
「じゃあ……買う」
丁度新しいシャツも欲しかったしなと頭の中で言い訳を並べて、俺は千蔵の選んだシャツを購入した。
次に千蔵が目を留めたのは、テイクアウト専門のクレープ屋だ。ちょっと小腹が空いたからと、俺たちはそれぞれ違うクレープを注文する。
「おまえは総菜系のやつにしたんだな、甘いのよりそういう方が好きなのか?」
「ん? そういうわけじゃないけど、橙が甘いの頼んでたから。しょっぱいのも欲しくなるかもと思って」
「え……」
俺が注文したクレープには、イチゴとバナナに大量の生クリームが添えられている。一方の千蔵が注文したクレープは、ツナと卵にレタスが添えられたものだった。
(わざわざ、そんなこと考えてたのか)
「橙が回し食いみたいなの苦手だったらアレだけど、どう?」
そう言って千蔵は貴重な一口目を俺に寄越そうとする。別に回し食いは気にならないし、甘いものとしょっぱいものを交互にいけばいくらでも腹に入る気がするタイプなので、人目を気にさえしなければ両方注文したかったのが本音だ。だから目の前に差し出された誘惑に抗えず、俺は千蔵のクレープに一口噛り付いた。
「……美味い」
「良かった。その日の気分にもよるけど、クレープってどっち頼むか迷うんだよね」
「それは確かにわかる」
邪魔にならない店の角に立って今度は甘いクレープを口にすると、胃袋が満たされていくのを感じる。
(……こっちは一口寄越せとか言わねえんだな)
なんとなく自分ばかりが施されるのも癪で、少し考えてから俺は自分のクレープを千蔵に差し出す。
「おまえも食うか? 甘い方」
「えっ……?」
「あ、いや、食いたかったら反対側――」
けれど、差し出したのがすでに俺が噛り付いた側だったことに気づいて、反対側に回転させようとする。それよりも先に腕を掴まれたかと思うと、以前よりも近くに銀色のピアスが見えて、躊躇うことなく千蔵がクレープを口にしていた。
「……うん、こっちも美味いね」
「ッ……てっ、定番の味なんだから当然だろ」
男同士なのだから何も意識する必要などないというのに、なんとなく千蔵の目を見ることができなくて、俺はじわりと燻る熱を誤魔化すようにクレープを食べ進めた。
そんな調子で数軒をはしごした後、訪れたのは食器や調理器具などを扱う少々古めかしい店だ。
「おまえ、料理とかすんの?」
「まあ、多少はね」
「へえ。なに作れんの?」
「ん-、簡単なものだよ。カレーとかオムライスとか、あとは炒め物とか」
王子は料理までできるのかと、複雑そうな顔をする塚本の姿が容易に想像できる。
「……橙さ、なんか今日変じゃない?」
「え、変か……?」
指摘を受けた俺はぎくりとしてしまったことで、千蔵に余計な疑念を生ませてしまったと感じる。しまったと思ったところで後の祭りだ。圧のある視線に追い込まれた俺は、後退した先で壁に背中をぶつけてしまう。
「一緒にいるし、確かにオレのこと見てるけど……なんか、蚊帳の外にいる気分」
これが噂に聞く壁ドンというやつなのかと、どこか他人事のように考えていた俺に白状しろとばかりに千蔵が迫る。
「どういうつもり?」
「いや、その……ええと……実は……」
観念した俺は事の経緯を素直に話すほかなく、別に悪いことではないはずなのだが妙な罪悪感に駆られる。説明を終え、さすがに怒っているだろうかと泳がせていた視線を戻してみると、そこにあったのはどこか拗ねたような千蔵の表情だった。
「なんだ、橙がオレに興味持ってくれたわけじゃなかったんだ」
「それは……」
確かに始まりこそクラスメイトからの質問責めではあったのだが、厳密に言えばそれだけではない。本当に仲がいいのかと問われて、俺は内心で面白くないと感じたのだ。他の奴らが知らないであろう顔も俺は知っているのに、千蔵について知らないことの方がまだまだずっと多いという事実。
「……知りたいと思ったのは、俺の意思でもあるけど」
共に過ごす友人ならばきっと、相手のことを知りたいと思うのは普通のことだろう。だから別に、それを白状するのは恥ずかしいことではない。
(今度こそ怒らせたか……?)
そう思ってそろりと千蔵の顔を窺い見てみる。
「……そっか、ならいいや」
だというのに千蔵がやけに甘ったるい顔で笑うものだから、俺はやっぱり言うべきではなかったのだろうかと、密かに後悔していた。
「ねえ、橙」
なんだ、と言う代わりに俺は千蔵に視線で問う。けれど目が合わなかったのは、千蔵が俺の耳元まで唇を寄せてきていたからだ。
「オレのこと知りたいと思ってくれるなら……うち、来る?」
*
「着いたよ、ここがオレの家」
買い物を終えた帰り道。その足で千蔵の家にやってきた俺は、妙な緊張感に包まれていた。
(な、流れで家まで来ちまったけど……)
住居の密集した地域にあるマンション住まいの俺の家とは異なり、閑静な住宅街の中にある千蔵の家は、そこそこに大きな戸建ての一軒家だった。
「お、お邪魔します……」
「どうぞ、親はいないからそんな緊張しないで。橙」
「緊張とか別にしてねーし……っ」
緊張していないというのは嘘だ。塚本と遊ぶのは学校帰りのカラオケがほとんどだし、中学時代だって人の家に上がることはなく、外に出るのが当たり前だった。玄関先を見るだけでも綺麗に整頓された室内は、千蔵を含めた家族全員が綺麗好きなのだろうと想像させる。
――――ガタンッ
靴を脱いだところで何かが落下する音がして、千蔵が何かしたのだろうかと顔を上げる。俺の視線の先には確かに千蔵がいたのだが、さらにその先の光景に思わず固まってしまった。
「……え……?」
「……は……?」
俺と同じようにこちらを見て固まっているのは、長い黒髪に綺麗な顔立ちをした同年代の女子だ。
「……橙 真宙……」
「なっ、なんで俺の名前……!?」
(いや、それより女がいるとか聞いてねーんだけど!? 誰だコイツ、まさか千蔵の彼女とか……? 家にまで上がり込むような仲ってことか……!? けど、どっかで見たことあるような……?)
突然の出来事に大混乱の俺の脳内をよそに、千蔵は特に気まずい様子もなく彼女のもとへと歩みを進めていく。
「……紫稀、この人連れてくるなんて聞いてないんだけど」
「ごめんごめん、連絡入れようと思ってたんだけど」
(っ……名前……)
千蔵だ王子だと呼ばれてはいるが、コイツにはもう一つちゃんと下の名前があることを思い出す。そしてその名前を当たり前のように呼ぶ彼女の姿に、やはり特別な存在なのだろうかと考えた時。
「橙、紹介するね。オレの妹の紫乃」
「え……妹……?」
「そう。で、紫乃。こっちが――」
「知ってる、橙 真宙」
「いや、なんで千蔵の妹が俺のこと知ってんの……!?」
兄妹だと知って肩の力が抜けていくのを感じつつ、俺は浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「なんでって、同じ学校だから橙のことも見かけるみたいだよ」
「同じって……でも、俺ら高1なのに妹って……?」
「あ、オレと紫乃は双子なんだ。二卵性だからあんまり似てないんだけどね」
「なるほど……?」
言われてみれば確かに、目元や顔立ちが千蔵と似ているような気がする。妹を見た千蔵が手元で何か合図のようなものを送って、それを見た彼女はなぜだか不服そうに眉間に皺を寄せた。
「あっ……!」
「橙?」
その姿を見て俺は思わず大きな声を出してしまうが、点と点が繋がったのだから驚きもするだろう。
「もしかして、眼鏡かけてた地味女子か……!?」
教室から千蔵が合図を送っていた眼鏡女子の姿が重なって、一人で納得する俺に千蔵が不思議そうな顔をする。
「橙、知ってたんだ? 確かに学校だと、紫乃は地味な雰囲気出してるよね」
「紫稀の身内だってバレると面倒だから、わざとそうしてるの」
「面倒って、そんなことないと思うけどなあ」
(確かに……妹なんて知られたらめんどくさそうだよな、苗字でバレそうな気もするけど)
親族ではない俺ですらも、接する機会が増えたというだけでクラスメイトに囲まれて、千蔵について質問攻めにされたのだ。それが実の妹であるというのなら、俺なんかよりずっと知っていることは多いと情報を求められかねない。
(なら、あの合図も特別意味があるとかじゃなかったのか……?)
「……あたし、部屋で勉強してるから」
「りょーかい」
そう言うと妹は踵を返して、自室があるらしい二階へ続く階段へと向かっていく。
「っ……」
一瞬、鋭い視線を向けられた気がしてぎくりとした。クールな印象を受ける妹は、美人なのも相まって無表情だと妙に迫力がある。だから気のせいだと思うことにして、続いて案内された千蔵の部屋へと向かうことにした。
室内はやはりというべきか整頓されていて、色味はモノトーンで統一されているからか、どこか殺風景にも感じられる。そこに千蔵自身が加わることで華やいだようにすら見えてしまうのは、もはや王子という呼び名に俺の目が毒されているのかもしれない。横長のローテーブルを前に座布団に座った俺の隣に、遅れてやってきた千蔵も並んで腰を下ろす。
「コーヒー淹れてきちゃったけど大丈夫?」
「バカにすんな、飲めるに決まってんだろ」
「してないよ。この間パフェ食べた時にも飲んでたし」
そう言う千蔵が運んできたトレーの上には、コーヒーの入った洒落たカップの他に、ミルクと砂糖も用意されていた。
(確か、コイツはブラックで飲んでたよな……? 俺がミルクとか入れてんの見てたから、わざわざ用意したのか……?)
パフェの方がよほど印象に残るであろう見た目をしていたものだが、よく観察している男だと感心してしまう。こうした気遣いがまた女子たちが色めき立つ一因になるのだろう。
「……さっきの」
「ん?」
「妹に手でやってたサインみたいなの、あれって家族の合図みてえなやつなのか?」
クラスメイトに届けるための情報ではない。俺自身が聞きたいと思ったら、自然と口からこぼれ落ちていた。
「ああ、あれは手話だよ」
「……手話?」
思いがけない返答に、隣でコーヒーを啜る千蔵を見る。
「母が生まれつきあまり耳が聞こえない人だったから、父に習いながら二人で覚えたんだ。学校ではあんな風だから、紫乃には都合がいいみたいでさ」
「そうだったのか」
よく見ている男だと思っていたが、そういった会話の手法を用いているのであれば、自然と観察力も身についてくるものなのかもしれない。そう考えたところでふと、千蔵の言葉の一部が過去形だったことに気がつく。
そしてよく見ているこの男は、俺が気づいたことに気がついたようだった。ゆっくり立ち上がったかと思うと、棚の上に飾られていた写真立てを手に戻ってくる。
差し出された写真の中には四人の姿。うち二人は千蔵と妹で、残る男女は両親なのだろう。女性の方は髪型こそ短くしているが、顔立ちは妹によく似ていた。
「去年事故に遭って、母は亡くなったんだ。だから今は父と紫乃と三人暮らし」
「……大変、だったんだな」
写真の中に懐かしむような視線を落とす千蔵は至って普段通りの口調で話しているが、肉親を失って日も浅いというのに、つらくないはずがない。
(俺なんかに、時間割かせてちゃダメなんじゃねーか……?)
遊びや息抜きの時間も必要かもしれないが、俺は千蔵にそれ以上の負担を強いてしまっているように思う。家族でもない人間の毎日の登下校の付き添いなんて、よほどの理由でもない限り俺なら頼まれたってやりたくはない。
「橙、なにか考えてる?」
「えっ……いや……」
俺の顔を覗き込んでくる千蔵にドキリとして、咄嗟にどう返せば良いかわからないまま視線を彷徨わせる。
「その、無理させてんじゃねーかって……おまえが言い出したことだから責任感じてたりすんのかもだけど、行きも帰りも毎日面倒だろ?」
悩みはしたが変に気を使うのも良くない気がして、俺は素直に感じたことを伝える。
「…………」
自然と俯いていたことで重力に従う髪が、俺の表情を隠していたらしい。千蔵の長い指がそれを耳にかけたことで、視界の端に整った顔が映り込んだ。
「橙にとって、迷惑になってたりする?」
「お、俺は別に……迷惑とかは思ってねーけど」
「なら良かった。オレも無理はしてないよ、橙との時間は楽しいから好きなんだ」
安心したように笑う千蔵を思いのほか至近距離で目にしてしまった俺は、跳ねる鼓動を落ち着かせようと反射的に顔を背ける。
「ッ……し、手話って、簡単に覚えられるやつとかあんのか?」
「え……橙、興味あるの?」
「興味っつーか……まあ」
意外だと言いたげな声に話題を逸らすためだとも返せずに、曖昧に伝えると千蔵の片手が視界に入り込んでくる。それが逃げていくのを追う形で隣を見れば、千蔵は顔の横で握りこぶしにした右手を、垂直に下げていく。次に向かい合うように立てた両手の人差し指を、挨拶するみたいに折り曲げた。
「これが”おはよう”って意味」
「おはよう……こう、か?」
ぎこちなく動きを真似してみると、千蔵はうんうんと頷いてから今度は別の動きをする。左手の甲を右手でチョップするような動きの後、そのまま右手を顔の前に上げる動きは、なんとなく意味が伝わる気がした。
「これは”ありがとう”」
「なんか、それはなんとなく伝わったかも。ごめんと二択だったけど」
「そう? 簡単な挨拶だったら比較的覚えやすいと思うよ。……って、使うこともないかもしれないけど」
「……覚えといて損するもんでもねーだろ」
俺の言葉に千蔵は少しだけ目を丸くしてから、口元をゆるませて「そうだね」と呟く。
「……あ、じゃあさっき妹にやってたやつは?」
手話の流れで妹とのやり取りの様子を思い出して、俺はどういう意味があったのかと尋ねてみる。あれも挨拶の一種、たとえば「ただいま」などの意味なのかもしれないと考えたのだが。
「それは……また今度、ね」
なぜかすぐには教えるつもりのないらしい千蔵の表情は、どことなく意地の悪いそれに見えてしまう。そこから少し食い下がっても結局答えを聞けることはなくて、俺はその”今度”がいつやってくるのか、気になって仕方なかった。
(もっと仲良くなったら、さっきの手話も、千蔵のことも……もっと教えてくれんのかな)
「解放されたーっ!」
正午過ぎ、爽やかな青空の下。俺は試験勉強から解放された身体を思いきり伸ばして、とある店の前に立っていた。
「あはは、橙は元気だなあ」
「そりゃ無事に赤点回避どころか、普通にいい点取れたしな。元気にもなるだろ」
隣には当然のように千蔵の姿もある。なにせ今日は、試験勉強の褒美を貰いに来たからだ。シャツにジャケットを羽織ったモノトーンの私服姿は、シンプルなのに千蔵が着ているというだけで洒落て見えるから不思議なものだと思う。一方の俺はラフなパーカーで来てしまったのだが、もう少し考えるべきだったのだろうか。
「基本的に50点台が多めだったけど、赤点回避って騒いでたからもっと酷いのかと思ってたよ」
「試験勉強してなかったら普通に赤点だっただろうな」
予想以上の点数が取れたのだから俺としては言うこともない。……はずなのだが、千蔵は当然のようにすべての教科で90点台を取っていた。だからこそ試験の結果が出た当日は、実を言うと素直に喜びきれなかったのだ。
(次は、もうちょいイイ点取れっかな。そしたらまたこうやって千蔵に褒美貰……って)
はたと、自分が何を考えているのかと思い至って恥ずかしくなり、思考を慌ててかき消していく。当たり前のように次も勉強を教わるつもりでいることも、また褒美を貰おうとしている自分にも、信じられないという思いが膨らんでいく。
「橙?」
「えっ!? あ、なんだよ?」
「こっち」
名前を呼ばれて勢いよく振り返ると、少し離れた場所で千蔵が俺に向かって手招きをしている。見れば店の前には列ができ始めていて、千蔵はそこに並ぼうとしているようだったので、俺も慌てて隣に移動する。
「ここのお店、最近できて話題になってたけど、やっぱり並ぶんだね」
「ああ……つーか、女子ばっかだな」
何気なく周囲に視線を巡らせたところで、店先に並んでいるのは俺たち以外全員が女性であることに気がつく。オープンしたての人気スイーツ店とあって目をつけてはいたのだが、それは当然俺たち以外の人間であってもそうなのだろう。ましてや店の外観はピンクと白を基調とした可愛らしいデザインをしていて、圧倒的に女性客が多いことは考えるまでもない。
「なんか、俺ら悪目立ちしてねえ……?」
「そうかな? 気にすることないよ」
しかし千蔵は言葉通り気にした様子もなくガラス越しに見える店内の様子を眺めていて、ちらと俺の方を見ると柔らかい笑顔を向けてくる。
「悪いことしてるわけじゃないし。性別とか関係なく、好きなものは好きでいいでしょ」
「それは……そう、か」
「それより、体調は平気?」
「ん? 体調?」
何を問われているのかわからずに疑問を口にするが、千蔵が自身の首元を指先でトンと叩いたことで、遅れてその意図を理解する。首元に掛けられた俺のヘッドホンを指しているのだろう。
「ああ、平気。目立つけどまあ、話してるとそっちに意識行くし」
「そっか、じゃあなに食べるか決めよ」
そう言って自身のスマホを操作した千蔵は、ネット上で公開されている店のメニューを表示して、画面をこちらへ傾けてくる。
(……なんつーか、気遣い方もスマートだよな)
メニューを眺めながらああでもないこうでもないと話しているうちに、待ち時間はあっという間に過ぎていった。店内端のソファ席に通された俺たちは、豊富なメニューの中から何にするかを迷った末に、どうせならと店のイチオシ――始めは悩んだが、奢る千蔵がいいと言ったのでそれに決めた――を注文することにした。
運ばれてきたのは旬のフルーツと生クリームが惜しげもなく盛り付けられた特大のパフェで、見た目のインパクトだけでなく味も値段に見合ったものだと感じる。
「うんまぁ!」
甘すぎない生クリームの軽さはいくらでも胃に入る気がするし、メインで飾られた真っ赤ないちごは甘くて思わず顔が綻ぶ。
「良かった、ここに決めて正解だったね」
「マジで美味い。スゲー脳が修復されてく感じする」
「修復されてそうな顔してる」
猛勉強で疲れきった脳を癒すべくパフェを堪能する俺を見て、千蔵は笑いながら自分の手元にあるガトーショコラを口にしている。王子だから紅茶という偏見があったのだが、ブラックコーヒーを嗜む姿も様になるなどと頭の片隅で考えてしまう。
「はー、満足した。ごちそーさま」
中間層のコーンフレークは食感を飽きさせないし、〆の最下層はフルーツソースの添えられたヨーグルトで、後味も最高だった。
「喜んでもらえて良かった。店に入る前はやっぱり帰ろうとか言い出す空気だったしね」
「いや、あれはそうなるだろ」
千蔵の言葉に改めて店内を見回してみても、席に座っているのはどこもかしこも女性ばかりだ。貴重な男性客だって同席しているのはすべて女性で、男一人はもちろん男同士で店を訪れている人間は見当たらない。
「おまえみたいに、人目気にせず振る舞えるのってスゲーよな」
「そうかな?」
「王子だから見られ慣れてんのもあったりすんのか」
「やめてよ」
そう言って笑う中にも照れたりする様子はなく、王子という愛称で呼ばれることにも慣れているのだとわかる。
「……気にするほど、興味とか関心が無いのかも。他人に」
「え、そうなのか?」
次いで千蔵の口から発せられた言葉は意外なもので、俺は目の前の男をじっと見つめる。浮かべられた笑みこそ穏やかではあるものの、普段のそれとは少し違うものに思えたのは、見慣れた制服姿ではないからだろうか?
「大事な人以外からどう思われても、オレには関係ないからさ」
はっきりとそう言い切る千蔵。確かに、普段の彼は決まった誰かとつるんでいたりするのを見た記憶がない。誰とでも上手くやれて、どのグループにも溶け込めるように見えて、実は案外そうではないのかもしれない。だからこそどんな相手にも一定の距離を保って、穏やかに接することができているのか。
「……じゃあ」
(……俺は?)
こうして二人で過ごす機会の増えた俺は、千蔵にはどう思われているのだろう。なんて馬鹿みたいな思考が脳裏を掠めて、言葉として出しかけたものを紅茶と一緒に飲み込んでいく。
「橙?」
「っ、そろそろ出ようぜ。外並んでるし」
「ああ、そうだね」
立ち上がった俺につられて席を立つ千蔵は、スマートな仕草で伝票を手にレジへと向かっていく。
(アイツにどう思われてようが、いいだろ別に)
会計を済ませた千蔵と共に外へ出ると、入店を待つ列は店の角を折れたところまで続いているようだった。
「ありがとな、会計」
「約束だったからね」
「そういや、おまえの欲しいもんまだ聞いてねえよな」
今日は俺の赤点回避の褒美ということで集まりはしたが、一方的に貰っておしまいというわけにはいかない。やれる褒美など限られてはいるが、美味いパフェを食べられたのだから多少奮発することだってやぶさかではないと思ってはいる。
「オレは、もう貰ったよ」
「は? 貰ったって、俺まだ何もやってねーだろ」
「橙と過ごす時間」
等価交換にもなりはしない、そんなものを出されて俺はすぐには言葉が出なくなってしまう。
(時間ってなんだ……なんだそれ)
試験勉強のためとはいえ、一緒に過ごす時間ならば今日までいくらでもあったものだ。それが褒美になるとは到底思えず、千蔵は俺に遠慮しているんじゃないかと考える。
「いや、褒美になんねーだろそれ。俺の時間なんか別にいくらでも……」
「なるから言ってるんだよ」
この男の考えていることが理解できずに戸惑うが、からかっているようにも見えなければ、遠慮している風でもない。それがわかってしまうからこそ、俺は視線をうろうろと彷徨わせてしまう。
「でも、いくらでもなんて言ってくれるんだ?」
「そ、そりゃ、時間なんか……」
金のかからない無償の褒美でいいというなら、惜しむ理由は俺には無い。だからこそ素直に肯定したというのに、千蔵があんまり嬉しそうに笑うものだから、俺の心臓が急激にうるさくなる。
「橙、あんまりオレのこと欲張りにしないで」
それ以上抗議するようなこともできなくて、その日は結局ずっと千蔵のペースに呑まれたままだった。
*
「橙さぁ、最近よく千蔵と一緒だよな」
指摘を受けた放課後。いつかはこんな日を予想したが、いざ現実となると少々面倒だと感じてしまう。俺の前の席に座ってじとりとした視線を向けてくる塚本。興味本位が三割、残りは最近構ってやらないことへの恨み節といったところか。
「いや……千蔵には勉強教わってたし、まあちょっと」
「えっ、橙くん王子と仲良くなったの?」
「なになに、王子の話!?」
俺の声が耳に届いたらしく隣の席の女子が反応したかと思うと、連鎖的に他の女子たちもわらわらと集まってくる。あっという間に自席の周りを囲まれてしまった俺は、まるで取り調べを受ける容疑者の気分だ。
「王子ってなに好きなの?」
「さあ……猫とか?」
「王子ってどんな風に過ごしてるの?」
「さあ……?」
「王子って音楽なに聴くの?」
「さあ……?」
四方八方から飛び交う質問の嵐に、俺は聖徳太子ではないと言いたくなる。けれど次第に止んでいく質問の代わりに、なんだか妙に残念そうな視線が増えていく。
「……な、なんだよ……?」
「橙って、仲いいわりに王子のことあんまり知らないんだね」
「は?」
「っていうか、ホントに仲いいの? 勘違いじゃなくて?」
「あー、王子誰にでも優しいもんね」
勝手に寄ってきて勝手に失望するクラスメイトたちに、俺のこめかみに青筋が立っていくのがわかる。
「上等だ、なら何だって調べてきてやる!」
そうして勢いで返してしまった俺は、なぜだか千蔵についての調査をすることになったのだった。
(にしても、調査ってなにすりゃ……買い物の様子でも観察……って、あれ?)
頭を捻りつつまずは目的の男に声をかけようと立ち上がった時、廊下の方を見て誰かに笑いかけている千蔵の姿が目に留まる。あの男が愛想を振りまくのは今に始まったことではないので、また誰かにファンサのようなことをしているのかと思ったのだが。
(……?)
廊下に立つのは、長い黒髪を一つに束ねた一人の女子生徒だ。どちらかといえば地味な印象を受ける彼女は、お世辞にもオシャレとはいえない黒縁眼鏡をかけている。
相手は特にアピールをしているわけでもないというのに、千蔵側は嬉しそうな笑顔と共に、手元で控えめなサインを送っているように見えた。けれど女子生徒は気づいているのかいないのか、特に何かを返したり反応する素振りも見せずにその場を去っていく。
(知り合い、か……? それとも、千蔵の好きな女子、とか……)
笑った顔。ちょっと悪そうな顔。他の奴が知らないであろう千蔵の顔を、俺はこの数日だけでいくつも目にしてきている。やたらと騒がしい心臓に困惑したこともあったし、今だってあまり見かけないような、いつもと違う千蔵の姿を目撃したのは同じはずなのに。
(なんで…………こんなモヤついてんだ)
「橙、どうかした?」
「っ……!」
名前のわからない感覚を怪訝に思っていると、いつの間にやってきていたのか、千蔵が俺のすぐそばに立っていた。登下校に千蔵がやってくるのはもはや恒例になりつつあって、千蔵だって当然みたいな顔をして俺に話しかけてくる。
「いや、別に……あのさ、帰りちょっと買い物行かねえ?」
「え、買い物? いいよ、どこ行く?」
当初の目的を思い出した俺の誘いを、千蔵は二つ返事で承諾する。先ほどの女子生徒は誰だったのか聞いてみたい気もしたが、コイツだってあまり詮索されたくはないかもしれない。そう思うと、俺は尋ねる機会を失ったまま教室を後にした。
目的地に定めた駅前の商店街をふらふらと歩きながら、気を取り直した俺は調査を実行するためにそれとなく質問を投げかけていく。
「おまえさ、そういうの好きなのか?」
「ん? これ?」
古着屋の店先で手に取ったカジュアルなシャツは、胸の辺りに不可思議なキャラクターがプリントされている。千蔵は首を横に振って俺の身体に当ててきた。
「ううん、橙に似合いそうだなって思って」
「俺……?」
似合うだろうかとシャツを見下ろすが、確かにこういったデザインの服は嫌いではない。
「じゃあ……買う」
丁度新しいシャツも欲しかったしなと頭の中で言い訳を並べて、俺は千蔵の選んだシャツを購入した。
次に千蔵が目を留めたのは、テイクアウト専門のクレープ屋だ。ちょっと小腹が空いたからと、俺たちはそれぞれ違うクレープを注文する。
「おまえは総菜系のやつにしたんだな、甘いのよりそういう方が好きなのか?」
「ん? そういうわけじゃないけど、橙が甘いの頼んでたから。しょっぱいのも欲しくなるかもと思って」
「え……」
俺が注文したクレープには、イチゴとバナナに大量の生クリームが添えられている。一方の千蔵が注文したクレープは、ツナと卵にレタスが添えられたものだった。
(わざわざ、そんなこと考えてたのか)
「橙が回し食いみたいなの苦手だったらアレだけど、どう?」
そう言って千蔵は貴重な一口目を俺に寄越そうとする。別に回し食いは気にならないし、甘いものとしょっぱいものを交互にいけばいくらでも腹に入る気がするタイプなので、人目を気にさえしなければ両方注文したかったのが本音だ。だから目の前に差し出された誘惑に抗えず、俺は千蔵のクレープに一口噛り付いた。
「……美味い」
「良かった。その日の気分にもよるけど、クレープってどっち頼むか迷うんだよね」
「それは確かにわかる」
邪魔にならない店の角に立って今度は甘いクレープを口にすると、胃袋が満たされていくのを感じる。
(……こっちは一口寄越せとか言わねえんだな)
なんとなく自分ばかりが施されるのも癪で、少し考えてから俺は自分のクレープを千蔵に差し出す。
「おまえも食うか? 甘い方」
「えっ……?」
「あ、いや、食いたかったら反対側――」
けれど、差し出したのがすでに俺が噛り付いた側だったことに気づいて、反対側に回転させようとする。それよりも先に腕を掴まれたかと思うと、以前よりも近くに銀色のピアスが見えて、躊躇うことなく千蔵がクレープを口にしていた。
「……うん、こっちも美味いね」
「ッ……てっ、定番の味なんだから当然だろ」
男同士なのだから何も意識する必要などないというのに、なんとなく千蔵の目を見ることができなくて、俺はじわりと燻る熱を誤魔化すようにクレープを食べ進めた。
そんな調子で数軒をはしごした後、訪れたのは食器や調理器具などを扱う少々古めかしい店だ。
「おまえ、料理とかすんの?」
「まあ、多少はね」
「へえ。なに作れんの?」
「ん-、簡単なものだよ。カレーとかオムライスとか、あとは炒め物とか」
王子は料理までできるのかと、複雑そうな顔をする塚本の姿が容易に想像できる。
「……橙さ、なんか今日変じゃない?」
「え、変か……?」
指摘を受けた俺はぎくりとしてしまったことで、千蔵に余計な疑念を生ませてしまったと感じる。しまったと思ったところで後の祭りだ。圧のある視線に追い込まれた俺は、後退した先で壁に背中をぶつけてしまう。
「一緒にいるし、確かにオレのこと見てるけど……なんか、蚊帳の外にいる気分」
これが噂に聞く壁ドンというやつなのかと、どこか他人事のように考えていた俺に白状しろとばかりに千蔵が迫る。
「どういうつもり?」
「いや、その……ええと……実は……」
観念した俺は事の経緯を素直に話すほかなく、別に悪いことではないはずなのだが妙な罪悪感に駆られる。説明を終え、さすがに怒っているだろうかと泳がせていた視線を戻してみると、そこにあったのはどこか拗ねたような千蔵の表情だった。
「なんだ、橙がオレに興味持ってくれたわけじゃなかったんだ」
「それは……」
確かに始まりこそクラスメイトからの質問責めではあったのだが、厳密に言えばそれだけではない。本当に仲がいいのかと問われて、俺は内心で面白くないと感じたのだ。他の奴らが知らないであろう顔も俺は知っているのに、千蔵について知らないことの方がまだまだずっと多いという事実。
「……知りたいと思ったのは、俺の意思でもあるけど」
共に過ごす友人ならばきっと、相手のことを知りたいと思うのは普通のことだろう。だから別に、それを白状するのは恥ずかしいことではない。
(今度こそ怒らせたか……?)
そう思ってそろりと千蔵の顔を窺い見てみる。
「……そっか、ならいいや」
だというのに千蔵がやけに甘ったるい顔で笑うものだから、俺はやっぱり言うべきではなかったのだろうかと、密かに後悔していた。
「ねえ、橙」
なんだ、と言う代わりに俺は千蔵に視線で問う。けれど目が合わなかったのは、千蔵が俺の耳元まで唇を寄せてきていたからだ。
「オレのこと知りたいと思ってくれるなら……うち、来る?」
*
「着いたよ、ここがオレの家」
買い物を終えた帰り道。その足で千蔵の家にやってきた俺は、妙な緊張感に包まれていた。
(な、流れで家まで来ちまったけど……)
住居の密集した地域にあるマンション住まいの俺の家とは異なり、閑静な住宅街の中にある千蔵の家は、そこそこに大きな戸建ての一軒家だった。
「お、お邪魔します……」
「どうぞ、親はいないからそんな緊張しないで。橙」
「緊張とか別にしてねーし……っ」
緊張していないというのは嘘だ。塚本と遊ぶのは学校帰りのカラオケがほとんどだし、中学時代だって人の家に上がることはなく、外に出るのが当たり前だった。玄関先を見るだけでも綺麗に整頓された室内は、千蔵を含めた家族全員が綺麗好きなのだろうと想像させる。
――――ガタンッ
靴を脱いだところで何かが落下する音がして、千蔵が何かしたのだろうかと顔を上げる。俺の視線の先には確かに千蔵がいたのだが、さらにその先の光景に思わず固まってしまった。
「……え……?」
「……は……?」
俺と同じようにこちらを見て固まっているのは、長い黒髪に綺麗な顔立ちをした同年代の女子だ。
「……橙 真宙……」
「なっ、なんで俺の名前……!?」
(いや、それより女がいるとか聞いてねーんだけど!? 誰だコイツ、まさか千蔵の彼女とか……? 家にまで上がり込むような仲ってことか……!? けど、どっかで見たことあるような……?)
突然の出来事に大混乱の俺の脳内をよそに、千蔵は特に気まずい様子もなく彼女のもとへと歩みを進めていく。
「……紫稀、この人連れてくるなんて聞いてないんだけど」
「ごめんごめん、連絡入れようと思ってたんだけど」
(っ……名前……)
千蔵だ王子だと呼ばれてはいるが、コイツにはもう一つちゃんと下の名前があることを思い出す。そしてその名前を当たり前のように呼ぶ彼女の姿に、やはり特別な存在なのだろうかと考えた時。
「橙、紹介するね。オレの妹の紫乃」
「え……妹……?」
「そう。で、紫乃。こっちが――」
「知ってる、橙 真宙」
「いや、なんで千蔵の妹が俺のこと知ってんの……!?」
兄妹だと知って肩の力が抜けていくのを感じつつ、俺は浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「なんでって、同じ学校だから橙のことも見かけるみたいだよ」
「同じって……でも、俺ら高1なのに妹って……?」
「あ、オレと紫乃は双子なんだ。二卵性だからあんまり似てないんだけどね」
「なるほど……?」
言われてみれば確かに、目元や顔立ちが千蔵と似ているような気がする。妹を見た千蔵が手元で何か合図のようなものを送って、それを見た彼女はなぜだか不服そうに眉間に皺を寄せた。
「あっ……!」
「橙?」
その姿を見て俺は思わず大きな声を出してしまうが、点と点が繋がったのだから驚きもするだろう。
「もしかして、眼鏡かけてた地味女子か……!?」
教室から千蔵が合図を送っていた眼鏡女子の姿が重なって、一人で納得する俺に千蔵が不思議そうな顔をする。
「橙、知ってたんだ? 確かに学校だと、紫乃は地味な雰囲気出してるよね」
「紫稀の身内だってバレると面倒だから、わざとそうしてるの」
「面倒って、そんなことないと思うけどなあ」
(確かに……妹なんて知られたらめんどくさそうだよな、苗字でバレそうな気もするけど)
親族ではない俺ですらも、接する機会が増えたというだけでクラスメイトに囲まれて、千蔵について質問攻めにされたのだ。それが実の妹であるというのなら、俺なんかよりずっと知っていることは多いと情報を求められかねない。
(なら、あの合図も特別意味があるとかじゃなかったのか……?)
「……あたし、部屋で勉強してるから」
「りょーかい」
そう言うと妹は踵を返して、自室があるらしい二階へ続く階段へと向かっていく。
「っ……」
一瞬、鋭い視線を向けられた気がしてぎくりとした。クールな印象を受ける妹は、美人なのも相まって無表情だと妙に迫力がある。だから気のせいだと思うことにして、続いて案内された千蔵の部屋へと向かうことにした。
室内はやはりというべきか整頓されていて、色味はモノトーンで統一されているからか、どこか殺風景にも感じられる。そこに千蔵自身が加わることで華やいだようにすら見えてしまうのは、もはや王子という呼び名に俺の目が毒されているのかもしれない。横長のローテーブルを前に座布団に座った俺の隣に、遅れてやってきた千蔵も並んで腰を下ろす。
「コーヒー淹れてきちゃったけど大丈夫?」
「バカにすんな、飲めるに決まってんだろ」
「してないよ。この間パフェ食べた時にも飲んでたし」
そう言う千蔵が運んできたトレーの上には、コーヒーの入った洒落たカップの他に、ミルクと砂糖も用意されていた。
(確か、コイツはブラックで飲んでたよな……? 俺がミルクとか入れてんの見てたから、わざわざ用意したのか……?)
パフェの方がよほど印象に残るであろう見た目をしていたものだが、よく観察している男だと感心してしまう。こうした気遣いがまた女子たちが色めき立つ一因になるのだろう。
「……さっきの」
「ん?」
「妹に手でやってたサインみたいなの、あれって家族の合図みてえなやつなのか?」
クラスメイトに届けるための情報ではない。俺自身が聞きたいと思ったら、自然と口からこぼれ落ちていた。
「ああ、あれは手話だよ」
「……手話?」
思いがけない返答に、隣でコーヒーを啜る千蔵を見る。
「母が生まれつきあまり耳が聞こえない人だったから、父に習いながら二人で覚えたんだ。学校ではあんな風だから、紫乃には都合がいいみたいでさ」
「そうだったのか」
よく見ている男だと思っていたが、そういった会話の手法を用いているのであれば、自然と観察力も身についてくるものなのかもしれない。そう考えたところでふと、千蔵の言葉の一部が過去形だったことに気がつく。
そしてよく見ているこの男は、俺が気づいたことに気がついたようだった。ゆっくり立ち上がったかと思うと、棚の上に飾られていた写真立てを手に戻ってくる。
差し出された写真の中には四人の姿。うち二人は千蔵と妹で、残る男女は両親なのだろう。女性の方は髪型こそ短くしているが、顔立ちは妹によく似ていた。
「去年事故に遭って、母は亡くなったんだ。だから今は父と紫乃と三人暮らし」
「……大変、だったんだな」
写真の中に懐かしむような視線を落とす千蔵は至って普段通りの口調で話しているが、肉親を失って日も浅いというのに、つらくないはずがない。
(俺なんかに、時間割かせてちゃダメなんじゃねーか……?)
遊びや息抜きの時間も必要かもしれないが、俺は千蔵にそれ以上の負担を強いてしまっているように思う。家族でもない人間の毎日の登下校の付き添いなんて、よほどの理由でもない限り俺なら頼まれたってやりたくはない。
「橙、なにか考えてる?」
「えっ……いや……」
俺の顔を覗き込んでくる千蔵にドキリとして、咄嗟にどう返せば良いかわからないまま視線を彷徨わせる。
「その、無理させてんじゃねーかって……おまえが言い出したことだから責任感じてたりすんのかもだけど、行きも帰りも毎日面倒だろ?」
悩みはしたが変に気を使うのも良くない気がして、俺は素直に感じたことを伝える。
「…………」
自然と俯いていたことで重力に従う髪が、俺の表情を隠していたらしい。千蔵の長い指がそれを耳にかけたことで、視界の端に整った顔が映り込んだ。
「橙にとって、迷惑になってたりする?」
「お、俺は別に……迷惑とかは思ってねーけど」
「なら良かった。オレも無理はしてないよ、橙との時間は楽しいから好きなんだ」
安心したように笑う千蔵を思いのほか至近距離で目にしてしまった俺は、跳ねる鼓動を落ち着かせようと反射的に顔を背ける。
「ッ……し、手話って、簡単に覚えられるやつとかあんのか?」
「え……橙、興味あるの?」
「興味っつーか……まあ」
意外だと言いたげな声に話題を逸らすためだとも返せずに、曖昧に伝えると千蔵の片手が視界に入り込んでくる。それが逃げていくのを追う形で隣を見れば、千蔵は顔の横で握りこぶしにした右手を、垂直に下げていく。次に向かい合うように立てた両手の人差し指を、挨拶するみたいに折り曲げた。
「これが”おはよう”って意味」
「おはよう……こう、か?」
ぎこちなく動きを真似してみると、千蔵はうんうんと頷いてから今度は別の動きをする。左手の甲を右手でチョップするような動きの後、そのまま右手を顔の前に上げる動きは、なんとなく意味が伝わる気がした。
「これは”ありがとう”」
「なんか、それはなんとなく伝わったかも。ごめんと二択だったけど」
「そう? 簡単な挨拶だったら比較的覚えやすいと思うよ。……って、使うこともないかもしれないけど」
「……覚えといて損するもんでもねーだろ」
俺の言葉に千蔵は少しだけ目を丸くしてから、口元をゆるませて「そうだね」と呟く。
「……あ、じゃあさっき妹にやってたやつは?」
手話の流れで妹とのやり取りの様子を思い出して、俺はどういう意味があったのかと尋ねてみる。あれも挨拶の一種、たとえば「ただいま」などの意味なのかもしれないと考えたのだが。
「それは……また今度、ね」
なぜかすぐには教えるつもりのないらしい千蔵の表情は、どことなく意地の悪いそれに見えてしまう。そこから少し食い下がっても結局答えを聞けることはなくて、俺はその”今度”がいつやってくるのか、気になって仕方なかった。
(もっと仲良くなったら、さっきの手話も、千蔵のことも……もっと教えてくれんのかな)


