【5話】


 金曜日の放課後。
 部活も稽古もない、珍しく予定が空いた日。

「なあ翠、今日さ、空手部の型の発表会があるらしいよ」
「え、発表会?」
「ちょっと見に行ってみない? なんかさ、碧斗は、照れるからお前には声かけなかったみたいだけど」
「え、じゃあ行かない方が」
「いやいや、そこを行くから面白いんでしょ。さーいくぞー」

 陸はオレを引っ張って、連れ出した。
 ほんと、良いコンビだと思う、この二人。

 格技場へ向かう、手前の廊下に入ると、すでに気合いの入った声が聞こえてきて、ちょっと緊張。
 合気道の声かけとは、だいぶ違うなーと思いながら。こそ、と中を覗いた。碧斗から見えないように。

 畳の中央で、白い道着姿の部員たちが一列に並んでいる。ガタイの良い人たちが多い。
 その中でも、碧斗、すごく目立つ。背高いし、道着、似合うなー。思わず見惚れていると。

「――始めッ!」
 号令とともに、型が始まる。

 一歩踏み込むごとに、畳が「ドン」と鳴る。
 腕や脚が、まっすぐに空気を切って、気合いの声が響くたび、空気がピンと張り詰める。
 瞳はまっすぐで、動きに一切の迷いがなかった。

「……すご……」
 思わず、声が漏れた。

 一つ一つの動きが研ぎ澄まされていて、目が離せない。
 もっと荒々しいものだと思っていたけれど――違った。強くて綺麗だった。

 いくつかの型を同時に全員、時に二人ずつ。
 ――オレってば、ほぼ碧斗しか見ていなかったことに、終わってから気が付いた。

 碧斗がやっていない時も、凛と座る、碧斗を目に映していた。

 最後の技が決まって、ピタリと動きが止まる。
 空気が一瞬止まったように静かになる。

 びしっと礼をすると、見学していた生徒たちから拍手が湧いた。
 入学式の、壇上の碧斗の礼を、思い出した。

 合気道と空手で、道は違うけれど。
 どれだけ鍛錬しているか。ずっと真剣にやってきたことは、分かる。
 そっか。――碧斗が、あの時、芯があるって、オレに言ったのはそういうことか。

 ただ、尊敬する。
 重ねてきた年月と、練習の成果。
 かっこよかった。見れて良かった。

「ありがと、陸、連れてきてくれて」
「おお……ありがとって言われた」

 くすくす笑って、陸が頷く。

「かっこよかった?」
「……うん。かなり」
「そっか。なんか奢ってもらおっかなあ、碧斗に」

 ふざけて言う陸に肩を竦めて、それから、ふと碧斗に視線を戻したら。
 碧斗がこっちに気づいてて。なんだか、照れくさそうに、頭を掻いたのが。

 ――なんか、胸の奥を、きゅ、と縮めさせた。

 空手部の部員同士で話をしていたので、陸と帰ろうとした時、背中から声をかけられた。

「翠」
「え?」

 振り向くと、碧斗が立っていた。近くで見る道着姿は。すごくイイ。
 額にはうっすら汗が光っている。

「見ててくれたんだ」
「……うん」
「恥ずかしいから誘わなかったけど……見てくれたって思うと、やっぱり嬉しい」
「めちゃくちゃ、かっこよかったよ」

 口が勝手に動いていた。
 碧斗が少しだけ目を見開いて、ふ、と笑うと、拳をオレに向けた。
 いつものように合わせると、今日はすぐに離さずに、少し、ぶつけたまま。

「ありがと。お前に言われんのが、一番嬉しい」
「――」

 鮮やかな笑顔でオレの言葉を奪った碧斗は、ふ、と手を離すと。
 陸に「連れてきてくれたんだろ、ありがとな」と言って、戻っていった。
 ただぼうっと、その後ろ姿を見送る。

「おーい……翠~?」

 目の前で手を振られて、はっと気づく。陸がくすくす笑っていた。

「あいつ、全然隠さないな」
 苦笑しながら、陸はオレを見つめる。

「オレ、あいつのあんな風な笑顔、初めて見たかも」
「……?」
「よっぽど、翠が見てくれて、嬉しかったんだね」

 また、胸の奥が鳴った。顔が熱くなる。

「やっぱりなんか奢らそう」
 ふっふっふ、と陸が笑っている。


 ◆◇◆

 陸には先に帰ってもらって、格技場の前で待っていたら、しばらくして、制服に着替えた碧斗が出てきた。オレに気づくと、部の人たちと別れて側に来てくれた。

「翠? 待っててくれたのか?」
「うん。一緒に帰ろうと思って」
「――ん、帰ろ」

 碧斗、嬉しそう。一緒に歩き始める。

「なんか、食べて帰る?」

 そう言ったら、碧斗が、ふとオレを見つめた。

「オレんち来ないか? カレーごちそうするし。勉強もしてさ――泊まっても良いけど?」

 突然の誘いに、心臓が一瞬止まった気がした。

 え、とまる? 
 ……それ、友達同士でもする、普通の会話、だよね。 そうだよね? ――たぶんそう。
 でも、どうしよう、と思った時。

「まだ警戒されてるなら、今のは無しだけど」

 碧斗がくすくす笑ってそう言うので、オレは即座に首をふった。

「それは、してない」  

 そう言うと、碧斗は嬉しそうに笑った。

「じゃあ、来る?」
「……行く」

 なんか挑むような感じで頷くと、碧斗は可笑しそうに笑った。
 まずオレの家に寄って、碧斗にはリビングで待っててもらった。着替えて、勉強道具や泊まり道具などを準備してる間、母さんと澪が、ずっと碧斗と喋っていたみたい。楽しそうな笑い声が聞こえてた。


 碧斗の家は、オレの家から徒歩十分ほどのアパートの一室だった。
 玄関を開けると、思ったよりずっと綺麗で、整っていた。

 手際よくカレーを作ってるのをちょっとだけ手伝って、というか、ほぼ見学して、煮込んでる間、二人で勉強タイムとなった。
 オレは宿題を広げて、数式と格闘。

「碧斗、ここ、分かんない」
「どれ?」

 小さめのローテーブル。隣に座った碧斗の腕が近い。
 手元を覗き込むたびに肩が触れそう。

「ここは、こうやって式をまとめると、簡単」
「……あ、ほんとだ」
「できるじゃん、翠」

 できるじゃんって言葉が、やけに嬉しい。
 トップ合格は伊達じゃないなー。説明、すっげー分かりやすい。

 難しい数式がひとつ解けて、一瞬気が緩んで、顔を上げた。ふと、碧斗の部屋を見回す。

 綺麗だけど、必要なものしか無い感じ。筋トレグッズだけいろいろあるなぁ。
 この筋肉は、あれで作られているのか? ちょっと興味津々になってると、碧斗が笑った。

「なんか面白いものある?」
「いや。筋トレグッズがいろいろあるなぁって……」

 そういえば……何で、一人暮らしなんだろう、碧斗って。
 ふ、と見つめると、碧斗は、クスッと笑った。

「何で一人暮らしか、聞きたい?」
「聞いてもいいの?」
「好きで一人暮らしさせてもらってるって言ったろ」
「うん」

 ……高校生が好きで一人暮らしって何だろう、と思っていると。

「親が海外赴任が決まってさ。――神陵に受かったら残ってもいいって言われたから頑張った」
「そうなんだ……ていうか、頑張って、トップ合格とかすごすぎだけどね」

 苦笑したオレに、碧斗はふ、と笑った。

「自分の居場所は、自分で選びたかったし」
「……かっこいいね」

 思わずそう言うと、少し黙った碧斗が、ふ、と笑った。

「別にかっこよくないかな――ほんとは、ただ、逃げたかったのかも」
「……逃げる?」

 ふと首を傾げて碧斗を見つめる。碧斗はすこし視線を落として、穏やかに微笑んだまま、話をつづけた。

「父親は覚えてもない頃に亡くなっててさ。ずっと母さんと二人きりだったんだけど――中一の時に再婚して、妹が出来たんだ。再婚相手はけっこう裕福な人で、いい人だよ。母さんも幸せそうだし、それは本当に良かったと思ってる」

 ん、と頷く。

「ただ、それまでずっと、自分が母さんを守らなきゃって思って生きてたからさ……もう必要ないんだなって気づいた時、戸惑ったんだよな、オレ。まあ、ちょうど思春期ど真ん中だったしさ。それで……その海外赴任の話と、受験の時期がかぶったから、オレは残ることにしたんだ」
「……そっか」

 何て答えていいか分からず、頷くと、碧斗は、くすっと笑った。

「そんな顔しなくていいよ。母さんはもう幸せだし。だからオレも、自分がずっと一緒にいたい人を見つけようって決めたんだし」
「そうなんだ……」

 碧斗は、そんな感じ、と微笑んで、話を切った。――オレは、それ以上は聞かなかった。
 やっぱり、少しは、寂しかったと思う。でも、それをオレが勝手に、可哀想とかいうのも違う気がする。
 碧斗は別に可哀想な顔はしてないし、ちゃんと自立できてるように見えるし。

 ただ、碧斗が人とまっすぐ向き合って、めいっぱい楽しく生きていこうっていうのは、そういうところからも来てるのかも、と思うと。碧斗が何にでも精一杯、っていうのは――なんか痛いくらい、すごいな、とも思ったけど。
 ……ちょっと、なんか。

 頑張ってる碧斗を、抱きしめたい気分に駆られて。
 そんな気持ち、今まで感じた記憶が無かったから。
 自分のその衝動に、びっくりした。



 その後、碧斗がキッチンに立って、慣れた手つきで野菜を刻んでいく。サラダを作ってくれてる横で、オレはカレーを混ぜ混ぜしていた。

「おいしそー」
「ん。焦げないように、下の方からかき混ぜて」
「うん」

 めっちゃいい匂いがする。

「翠がここに居るの、嬉しい」
「……そう?」
「ん。翠、あーん」
「ん。あ」

 手に持ってた生ハムみたいなのの切れ端を、あむ、と口に入れてくる。ちょっと照れつつも。

「おいし」

 ふ、と笑ってしまうと、碧斗もくすっと笑った。

「こういうのは、無防備なんだな」
「……?」
「警戒してないよな、オレのこと」

 ――正直、碧斗を警戒なんて、全然していない。
 いつの間にか、すっかり信じてる自分に、あらためて気づく。

「……だって、なんか」
「ん?」
「碧斗が、オレを大事にしてくれてるのは――分かるから」

 考えながら言った言葉を聞いた碧斗は、ちょっとびっくりした顔でオレを見つめていたけれど。
 ふ、と嬉しそうに笑って、またサラダの続きを作ってる。

 嬉しそうな顔が、オレも嬉しくて。
 ちょっと微笑んでしまいながら。


「――なんか、碧斗の空手、ほんとうに超良かった」
「ん。ああ……それは嬉しい」
「正直、碧斗のことしか、見てなかったんだけどさ。なんか、碧斗の周りだけ、空気が張り詰めてるみたいで、かっこよかった」

 ぐるぐるとかき混ぜながら、そう言う。

「あんな風にできる人のことは……信じちゃうよな……」

 ちょっと照れくさいからカレーをめっちゃぐるぐるかき混ぜながら言うと、碧斗はクスッと笑った。

「翠に信じてもらえるような人になりたいって、ずっと思ってる」
「……もう、結構、なってるけど?」
「いや、まだかな。――ほら。最初に一目惚れとか軽く言って、翠の地雷、ふんじゃったからな」
「――――」

「もっと、翠に信じてもらえるようになりたい」

 強い言い方じゃなかった。
 優しく、胸の奥に響いてくるようなその声と言葉は。
 オレの、胸を、確実に揺らした。


「まあ、時間はまだまだあるから」
「――」

「とにかくオレは、神陵に入った朝、翠に会えて、よかった」

 そんなこと、言ったら。
 ……オレだって、そう思ってるし。

 そう思ったところで、碧斗が「サラダ完成」と笑った。

「よし、カレーもそろそろいいでしょ。翠、めっちゃかき混ぜてくれてたし」

 くっと笑いながら、コンロの火を止める。碧斗がよそって、オレがテーブルに運ぶ。
 少し後、夕飯が出来上がった。

「食べよ」
「おいしそう!」

 二人で向かい合って、いただきます、と手を合わせる。
 一口食べた瞬間、口いっぱいに広がるスパイスと甘み。

「うまっ。これ、お店出せると思う」
「やった。カレーはさ、すげー好きだから、極めてんの」
「めっちゃうまー!」
「良かった」

 笑い合いながら食べ進めるうちに、碧斗との距離がすごく、近づいている気がした。
 勉強して、カレーを食べて、それだけのことなのに、なんか――すごく、一緒にいるのが、心地よかった。

 ◆◇◆

 片付けを終えて、ふ、と息をついた時。
 碧斗が、ふと窓から外を眺めながら言った。

「明日、いい天気みたい――なあ、翠」
「ん?」
「明日、暇って言ってたよな。部活、ないんだろ? オレも、今日は発表会があったから、明日は休もうってことになったからさ。だからさ……」
「うん?」

「――オレと、デート、しない?」

 不意打ちすぎて、碧斗を二度見してしまった。

「で……でーと?」
「ああ、ごめん。デートに拘んなくてもいいよ。どっか、好きなとこ。遊びに行きたいんだけど」

 あ、そういう……。
 デート、って、やめてよ……心臓が、変な音がするし。

「えと――あ、動物園は?」
「いいよ。好きなの?」
「好きだけど、しばらく行ってないから」
「いいよ。行く?」

 嬉しそうに笑う碧斗。その顔を見て、ふと、考える。


 ――碧斗は、オレを大事にしてくれてる。
 それはもう、会ってからずっと分かってる。

 でもなんか、いまひとつ、最後に信じきれないのは何だろうって思うと。

 一目惚れって、言われたからだ。

 何で一目惚れが嫌いか、最近すごく、考えてて、ちょっと分かってきた。

 一目惚れっていうほど、オレの外見が、好きって思ったってことでしょ。
 それが、最初にあって。
 ……オレの顔が、好み、だから。
 こんなに優しいんじゃないのかなって。

 オレの顔が、今と変わったら――もう好きじゃないんじゃないかなって思っちゃうからだ。

 今オレまだ、なんというか、まあ、ぴちぴちしてるというか、つやつやしてる、若い、高校生だし。
 今は可愛いって言われるけど、これからはきっと変わっていく。
 顔も、声も、全部変わっていくと思うんだよね。

 母さんに似てたって、これからは違っていくと思う。
 やっぱり男だし。――可愛くて、綺麗なままは、居られない。

 その時、碧斗はまだ、オレのことを好きでいてくれるんだろうかって。

 碧斗のことは、今も、好きだけど。
 ――オレが確実に、今よりも可愛くなくなってく未来に。

 きっと、これからもどんどんかっこよくなってくと思う碧斗の側に。
 オレが居られるとは。どうしても、信じられないみたいで。


 ――オレの、一目惚れとか、可愛いっていうのに感じてる負の感情は。
 その言葉の軽さとか。ただ顔が可愛いって言われまくるのが嫌だってことの裏に。

 このままではいられないから。好きなまま、居ては貰えないんじゃないかっていう。
 そんなものも、あるみたいで。


「友達、としてでいいなら。行く」
「いいよ。まだそれで」
「――うん。じゃあ、行く」


 線を引いて、安心してるのは。
 友達としてなら、ずっと、一緒に居られるのかなっていう……。


 でもそれすらも。
「友達として」なら、碧斗にとって、意味がないんじゃないかって言う、そんな気持ちも感じてて。


 オレ、ポジティブだと思ってたのに。
 ここに関しては、すっごいネガティブなんだって、分かってきた。

 変な、拗らせたコンプレックス。
 そのせいで、碧斗に応えられないまま。


 こんなまま、いつまで、居られるのかな。




 楽しさと、言い知れない不安な気持ちに。
 どうしていいか分からないまま。


 でも、楽しい会話と、居心地のいい空間。
 
 布団に入ってからも、好きなこととか嫌いなこととか。
 今まで生きてきて、面白かったこととか。

 お互いめっちゃ喋って――ほんと。楽しかった。