【5話】
金曜日の放課後。
部活も稽古もない、珍しく予定が空いた日。
「なあ翠、今日さ、空手部の型の発表会があるらしいよ」
「え、発表会?」
「ちょっと見に行ってみない? なんかさ、碧斗は、照れるからお前には声かけなかったみたいだけど」
「え、じゃあ行かない方が」
「いやいや、そこを行くから面白いんでしょ。さーいくぞー」
陸はオレを引っ張って、連れ出した。
ほんと、良いコンビだと思う、この二人。
格技場へ向かう、手前の廊下に入ると、すでに気合いの入った声が聞こえてきて、ちょっと緊張。
合気道の声かけとは、だいぶ違うなーと思いながら。こそ、と中を覗いた。碧斗から見えないように。
畳の中央で、白い道着姿の部員たちが一列に並んでいる。ガタイの良い人たちが多い。
その中でも、碧斗、すごく目立つ。背高いし、道着、似合うなー。思わず見惚れていると。
「――始めッ!」
号令とともに、型が始まる。
一歩踏み込むごとに、畳が「ドン」と鳴る。
腕や脚が、まっすぐに空気を切って、気合いの声が響くたび、空気がピンと張り詰める。
瞳はまっすぐで、動きに一切の迷いがなかった。
「……すご……」
思わず、声が漏れた。
一つ一つの動きが研ぎ澄まされていて、目が離せない。
もっと荒々しいものだと思っていたけれど――違った。強くて綺麗だった。
いくつかの型を同時に全員、時に二人ずつ。
――オレってば、ほぼ碧斗しか見ていなかったことに、終わってから気が付いた。
碧斗がやっていない時も、凛と座る、碧斗を目に映していた。
最後の技が決まって、ピタリと動きが止まる。
空気が一瞬止まったように静かになる。
びしっと礼をすると、見学していた生徒たちから拍手が湧いた。
入学式の、壇上の碧斗の礼を、思い出した。
合気道と空手で、道は違うけれど。
どれだけ鍛錬しているか。ずっと真剣にやってきたことは、分かる。
そっか。――碧斗が、あの時、芯があるって、オレに言ったのはそういうことか。
ただ、尊敬する。
重ねてきた年月と、練習の成果。
かっこよかった。見れて良かった。
「ありがと、陸、連れてきてくれて」
「おお……ありがとって言われた」
くすくす笑って、陸が頷く。
「かっこよかった?」
「……うん。かなり」
「そっか。なんか奢ってもらおっかなあ、碧斗に」
ふざけて言う陸に肩を竦めて、それから、ふと碧斗に視線を戻したら。
碧斗がこっちに気づいてて。なんだか、照れくさそうに、頭を掻いたのが。
――なんか、胸の奥を、きゅ、と縮めさせた。
空手部の部員同士で話をしていたので、陸と帰ろうとした時、背中から声をかけられた。
「翠」
「え?」
振り向くと、碧斗が立っていた。近くで見る道着姿は。すごくイイ。
額にはうっすら汗が光っている。
「見ててくれたんだ」
「……うん」
「恥ずかしいから誘わなかったけど……見てくれたって思うと、やっぱり嬉しい」
「めちゃくちゃ、かっこよかったよ」
口が勝手に動いていた。
碧斗が少しだけ目を見開いて、ふ、と笑うと、拳をオレに向けた。
いつものように合わせると、今日はすぐに離さずに、少し、ぶつけたまま。
「ありがと。お前に言われんのが、一番嬉しい」
「――」
鮮やかな笑顔でオレの言葉を奪った碧斗は、ふ、と手を離すと。
陸に「連れてきてくれたんだろ、ありがとな」と言って、戻っていった。
ただぼうっと、その後ろ姿を見送る。
「おーい……翠~?」
目の前で手を振られて、はっと気づく。陸がくすくす笑っていた。
「あいつ、全然隠さないな」
苦笑しながら、陸はオレを見つめる。
「オレ、あいつのあんな風な笑顔、初めて見たかも」
「……?」
「よっぽど、翠が見てくれて、嬉しかったんだね」
また、胸の奥が鳴った。顔が熱くなる。
「やっぱりなんか奢らそう」
ふっふっふ、と陸が笑っている。
◆◇◆
陸には先に帰ってもらって、格技場の前で待っていたら、しばらくして、制服に着替えた碧斗が出てきた。オレに気づくと、部の人たちと別れて側に来てくれた。
「翠? 待っててくれたのか?」
「うん。一緒に帰ろうと思って」
「――ん、帰ろ」
碧斗、嬉しそう。一緒に歩き始める。
「なんか、食べて帰る?」
そう言ったら、碧斗が、ふとオレを見つめた。
「オレんち来ないか? カレーごちそうするし。勉強もしてさ――泊まっても良いけど?」
突然の誘いに、心臓が一瞬止まった気がした。
え、とまる?
……それ、友達同士でもする、普通の会話、だよね。 そうだよね? ――たぶんそう。
でも、どうしよう、と思った時。
「まだ警戒されてるなら、今のは無しだけど」
碧斗がくすくす笑ってそう言うので、オレは即座に首をふった。
「それは、してない」
そう言うと、碧斗は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、来る?」
「……行く」
なんか挑むような感じで頷くと、碧斗は可笑しそうに笑った。
まずオレの家に寄って、碧斗にはリビングで待っててもらった。着替えて、勉強道具や泊まり道具などを準備してる間、母さんと澪が、ずっと碧斗と喋っていたみたい。楽しそうな笑い声が聞こえてた。
碧斗の家は、オレの家から徒歩十分ほどのアパートの一室だった。
玄関を開けると、思ったよりずっと綺麗で、整っていた。
手際よくカレーを作ってるのをちょっとだけ手伝って、というか、ほぼ見学して、煮込んでる間、二人で勉強タイムとなった。
オレは宿題を広げて、数式と格闘。
「碧斗、ここ、分かんない」
「どれ?」
小さめのローテーブル。隣に座った碧斗の腕が近い。
手元を覗き込むたびに肩が触れそう。
「ここは、こうやって式をまとめると、簡単」
「……あ、ほんとだ」
「できるじゃん、翠」
できるじゃんって言葉が、やけに嬉しい。
トップ合格は伊達じゃないなー。説明、すっげー分かりやすい。
難しい数式がひとつ解けて、一瞬気が緩んで、顔を上げた。ふと、碧斗の部屋を見回す。
綺麗だけど、必要なものしか無い感じ。筋トレグッズだけいろいろあるなぁ。
この筋肉は、あれで作られているのか? ちょっと興味津々になってると、碧斗が笑った。
「なんか面白いものある?」
「いや。筋トレグッズがいろいろあるなぁって……」
そういえば……何で、一人暮らしなんだろう、碧斗って。
ふ、と見つめると、碧斗は、クスッと笑った。
「何で一人暮らしか、聞きたい?」
「聞いてもいいの?」
「好きで一人暮らしさせてもらってるって言ったろ」
「うん」
……高校生が好きで一人暮らしって何だろう、と思っていると。
「親が海外赴任が決まってさ。――神陵に受かったら残ってもいいって言われたから頑張った」
「そうなんだ……ていうか、頑張って、トップ合格とかすごすぎだけどね」
苦笑したオレに、碧斗はふ、と笑った。
「自分の居場所は、自分で選びたかったし」
「……かっこいいね」
思わずそう言うと、少し黙った碧斗が、ふ、と笑った。
「別にかっこよくないかな――ほんとは、ただ、逃げたかったのかも」
「……逃げる?」
ふと首を傾げて碧斗を見つめる。碧斗はすこし視線を落として、穏やかに微笑んだまま、話をつづけた。
「父親は覚えてもない頃に亡くなっててさ。ずっと母さんと二人きりだったんだけど――中一の時に再婚して、妹が出来たんだ。再婚相手はけっこう裕福な人で、いい人だよ。母さんも幸せそうだし、それは本当に良かったと思ってる」
ん、と頷く。
「ただ、それまでずっと、自分が母さんを守らなきゃって思って生きてたからさ……もう必要ないんだなって気づいた時、戸惑ったんだよな、オレ。まあ、ちょうど思春期ど真ん中だったしさ。それで……その海外赴任の話と、受験の時期がかぶったから、オレは残ることにしたんだ」
「……そっか」
何て答えていいか分からず、頷くと、碧斗は、くすっと笑った。
「そんな顔しなくていいよ。母さんはもう幸せだし。だからオレも、自分がずっと一緒にいたい人を見つけようって決めたんだし」
「そうなんだ……」
碧斗は、そんな感じ、と微笑んで、話を切った。――オレは、それ以上は聞かなかった。
やっぱり、少しは、寂しかったと思う。でも、それをオレが勝手に、可哀想とかいうのも違う気がする。
碧斗は別に可哀想な顔はしてないし、ちゃんと自立できてるように見えるし。
ただ、碧斗が人とまっすぐ向き合って、めいっぱい楽しく生きていこうっていうのは、そういうところからも来てるのかも、と思うと。碧斗が何にでも精一杯、っていうのは――なんか痛いくらい、すごいな、とも思ったけど。
……ちょっと、なんか。
頑張ってる碧斗を、抱きしめたい気分に駆られて。
そんな気持ち、今まで感じた記憶が無かったから。
自分のその衝動に、びっくりした。
その後、碧斗がキッチンに立って、慣れた手つきで野菜を刻んでいく。サラダを作ってくれてる横で、オレはカレーを混ぜ混ぜしていた。
「おいしそー」
「ん。焦げないように、下の方からかき混ぜて」
「うん」
めっちゃいい匂いがする。
「翠がここに居るの、嬉しい」
「……そう?」
「ん。翠、あーん」
「ん。あ」
手に持ってた生ハムみたいなのの切れ端を、あむ、と口に入れてくる。ちょっと照れつつも。
「おいし」
ふ、と笑ってしまうと、碧斗もくすっと笑った。
「こういうのは、無防備なんだな」
「……?」
「警戒してないよな、オレのこと」
――正直、碧斗を警戒なんて、全然していない。
いつの間にか、すっかり信じてる自分に、あらためて気づく。
「……だって、なんか」
「ん?」
「碧斗が、オレを大事にしてくれてるのは――分かるから」
考えながら言った言葉を聞いた碧斗は、ちょっとびっくりした顔でオレを見つめていたけれど。
ふ、と嬉しそうに笑って、またサラダの続きを作ってる。
嬉しそうな顔が、オレも嬉しくて。
ちょっと微笑んでしまいながら。
「――なんか、碧斗の空手、ほんとうに超良かった」
「ん。ああ……それは嬉しい」
「正直、碧斗のことしか、見てなかったんだけどさ。なんか、碧斗の周りだけ、空気が張り詰めてるみたいで、かっこよかった」
ぐるぐるとかき混ぜながら、そう言う。
「あんな風にできる人のことは……信じちゃうよな……」
ちょっと照れくさいからカレーをめっちゃぐるぐるかき混ぜながら言うと、碧斗はクスッと笑った。
「翠に信じてもらえるような人になりたいって、ずっと思ってる」
「……もう、結構、なってるけど?」
「いや、まだかな。――ほら。最初に一目惚れとか軽く言って、翠の地雷、ふんじゃったからな」
「――――」
「もっと、翠に信じてもらえるようになりたい」
強い言い方じゃなかった。
優しく、胸の奥に響いてくるようなその声と言葉は。
オレの、胸を、確実に揺らした。
「まあ、時間はまだまだあるから」
「――」
「とにかくオレは、神陵に入った朝、翠に会えて、よかった」
そんなこと、言ったら。
……オレだって、そう思ってるし。
そう思ったところで、碧斗が「サラダ完成」と笑った。
「よし、カレーもそろそろいいでしょ。翠、めっちゃかき混ぜてくれてたし」
くっと笑いながら、コンロの火を止める。碧斗がよそって、オレがテーブルに運ぶ。
少し後、夕飯が出来上がった。
「食べよ」
「おいしそう!」
二人で向かい合って、いただきます、と手を合わせる。
一口食べた瞬間、口いっぱいに広がるスパイスと甘み。
「うまっ。これ、お店出せると思う」
「やった。カレーはさ、すげー好きだから、極めてんの」
「めっちゃうまー!」
「良かった」
笑い合いながら食べ進めるうちに、碧斗との距離がすごく、近づいている気がした。
勉強して、カレーを食べて、それだけのことなのに、なんか――すごく、一緒にいるのが、心地よかった。
◆◇◆
片付けを終えて、ふ、と息をついた時。
碧斗が、ふと窓から外を眺めながら言った。
「明日、いい天気みたい――なあ、翠」
「ん?」
「明日、暇って言ってたよな。部活、ないんだろ? オレも、今日は発表会があったから、明日は休もうってことになったからさ。だからさ……」
「うん?」
「――オレと、デート、しない?」
不意打ちすぎて、碧斗を二度見してしまった。
「で……でーと?」
「ああ、ごめん。デートに拘んなくてもいいよ。どっか、好きなとこ。遊びに行きたいんだけど」
あ、そういう……。
デート、って、やめてよ……心臓が、変な音がするし。
「えと――あ、動物園は?」
「いいよ。好きなの?」
「好きだけど、しばらく行ってないから」
「いいよ。行く?」
嬉しそうに笑う碧斗。その顔を見て、ふと、考える。
――碧斗は、オレを大事にしてくれてる。
それはもう、会ってからずっと分かってる。
でもなんか、いまひとつ、最後に信じきれないのは何だろうって思うと。
一目惚れって、言われたからだ。
何で一目惚れが嫌いか、最近すごく、考えてて、ちょっと分かってきた。
一目惚れっていうほど、オレの外見が、好きって思ったってことでしょ。
それが、最初にあって。
……オレの顔が、好み、だから。
こんなに優しいんじゃないのかなって。
オレの顔が、今と変わったら――もう好きじゃないんじゃないかなって思っちゃうからだ。
今オレまだ、なんというか、まあ、ぴちぴちしてるというか、つやつやしてる、若い、高校生だし。
今は可愛いって言われるけど、これからはきっと変わっていく。
顔も、声も、全部変わっていくと思うんだよね。
母さんに似てたって、これからは違っていくと思う。
やっぱり男だし。――可愛くて、綺麗なままは、居られない。
その時、碧斗はまだ、オレのことを好きでいてくれるんだろうかって。
碧斗のことは、今も、好きだけど。
――オレが確実に、今よりも可愛くなくなってく未来に。
きっと、これからもどんどんかっこよくなってくと思う碧斗の側に。
オレが居られるとは。どうしても、信じられないみたいで。
――オレの、一目惚れとか、可愛いっていうのに感じてる負の感情は。
その言葉の軽さとか。ただ顔が可愛いって言われまくるのが嫌だってことの裏に。
このままではいられないから。好きなまま、居ては貰えないんじゃないかっていう。
そんなものも、あるみたいで。
「友達、としてでいいなら。行く」
「いいよ。まだそれで」
「――うん。じゃあ、行く」
線を引いて、安心してるのは。
友達としてなら、ずっと、一緒に居られるのかなっていう……。
でもそれすらも。
「友達として」なら、碧斗にとって、意味がないんじゃないかって言う、そんな気持ちも感じてて。
オレ、ポジティブだと思ってたのに。
ここに関しては、すっごいネガティブなんだって、分かってきた。
変な、拗らせたコンプレックス。
そのせいで、碧斗に応えられないまま。
こんなまま、いつまで、居られるのかな。
楽しさと、言い知れない不安な気持ちに。
どうしていいか分からないまま。
でも、楽しい会話と、居心地のいい空間。
布団に入ってからも、好きなこととか嫌いなこととか。
今まで生きてきて、面白かったこととか。
お互いめっちゃ喋って――ほんと。楽しかった。
金曜日の放課後。
部活も稽古もない、珍しく予定が空いた日。
「なあ翠、今日さ、空手部の型の発表会があるらしいよ」
「え、発表会?」
「ちょっと見に行ってみない? なんかさ、碧斗は、照れるからお前には声かけなかったみたいだけど」
「え、じゃあ行かない方が」
「いやいや、そこを行くから面白いんでしょ。さーいくぞー」
陸はオレを引っ張って、連れ出した。
ほんと、良いコンビだと思う、この二人。
格技場へ向かう、手前の廊下に入ると、すでに気合いの入った声が聞こえてきて、ちょっと緊張。
合気道の声かけとは、だいぶ違うなーと思いながら。こそ、と中を覗いた。碧斗から見えないように。
畳の中央で、白い道着姿の部員たちが一列に並んでいる。ガタイの良い人たちが多い。
その中でも、碧斗、すごく目立つ。背高いし、道着、似合うなー。思わず見惚れていると。
「――始めッ!」
号令とともに、型が始まる。
一歩踏み込むごとに、畳が「ドン」と鳴る。
腕や脚が、まっすぐに空気を切って、気合いの声が響くたび、空気がピンと張り詰める。
瞳はまっすぐで、動きに一切の迷いがなかった。
「……すご……」
思わず、声が漏れた。
一つ一つの動きが研ぎ澄まされていて、目が離せない。
もっと荒々しいものだと思っていたけれど――違った。強くて綺麗だった。
いくつかの型を同時に全員、時に二人ずつ。
――オレってば、ほぼ碧斗しか見ていなかったことに、終わってから気が付いた。
碧斗がやっていない時も、凛と座る、碧斗を目に映していた。
最後の技が決まって、ピタリと動きが止まる。
空気が一瞬止まったように静かになる。
びしっと礼をすると、見学していた生徒たちから拍手が湧いた。
入学式の、壇上の碧斗の礼を、思い出した。
合気道と空手で、道は違うけれど。
どれだけ鍛錬しているか。ずっと真剣にやってきたことは、分かる。
そっか。――碧斗が、あの時、芯があるって、オレに言ったのはそういうことか。
ただ、尊敬する。
重ねてきた年月と、練習の成果。
かっこよかった。見れて良かった。
「ありがと、陸、連れてきてくれて」
「おお……ありがとって言われた」
くすくす笑って、陸が頷く。
「かっこよかった?」
「……うん。かなり」
「そっか。なんか奢ってもらおっかなあ、碧斗に」
ふざけて言う陸に肩を竦めて、それから、ふと碧斗に視線を戻したら。
碧斗がこっちに気づいてて。なんだか、照れくさそうに、頭を掻いたのが。
――なんか、胸の奥を、きゅ、と縮めさせた。
空手部の部員同士で話をしていたので、陸と帰ろうとした時、背中から声をかけられた。
「翠」
「え?」
振り向くと、碧斗が立っていた。近くで見る道着姿は。すごくイイ。
額にはうっすら汗が光っている。
「見ててくれたんだ」
「……うん」
「恥ずかしいから誘わなかったけど……見てくれたって思うと、やっぱり嬉しい」
「めちゃくちゃ、かっこよかったよ」
口が勝手に動いていた。
碧斗が少しだけ目を見開いて、ふ、と笑うと、拳をオレに向けた。
いつものように合わせると、今日はすぐに離さずに、少し、ぶつけたまま。
「ありがと。お前に言われんのが、一番嬉しい」
「――」
鮮やかな笑顔でオレの言葉を奪った碧斗は、ふ、と手を離すと。
陸に「連れてきてくれたんだろ、ありがとな」と言って、戻っていった。
ただぼうっと、その後ろ姿を見送る。
「おーい……翠~?」
目の前で手を振られて、はっと気づく。陸がくすくす笑っていた。
「あいつ、全然隠さないな」
苦笑しながら、陸はオレを見つめる。
「オレ、あいつのあんな風な笑顔、初めて見たかも」
「……?」
「よっぽど、翠が見てくれて、嬉しかったんだね」
また、胸の奥が鳴った。顔が熱くなる。
「やっぱりなんか奢らそう」
ふっふっふ、と陸が笑っている。
◆◇◆
陸には先に帰ってもらって、格技場の前で待っていたら、しばらくして、制服に着替えた碧斗が出てきた。オレに気づくと、部の人たちと別れて側に来てくれた。
「翠? 待っててくれたのか?」
「うん。一緒に帰ろうと思って」
「――ん、帰ろ」
碧斗、嬉しそう。一緒に歩き始める。
「なんか、食べて帰る?」
そう言ったら、碧斗が、ふとオレを見つめた。
「オレんち来ないか? カレーごちそうするし。勉強もしてさ――泊まっても良いけど?」
突然の誘いに、心臓が一瞬止まった気がした。
え、とまる?
……それ、友達同士でもする、普通の会話、だよね。 そうだよね? ――たぶんそう。
でも、どうしよう、と思った時。
「まだ警戒されてるなら、今のは無しだけど」
碧斗がくすくす笑ってそう言うので、オレは即座に首をふった。
「それは、してない」
そう言うと、碧斗は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、来る?」
「……行く」
なんか挑むような感じで頷くと、碧斗は可笑しそうに笑った。
まずオレの家に寄って、碧斗にはリビングで待っててもらった。着替えて、勉強道具や泊まり道具などを準備してる間、母さんと澪が、ずっと碧斗と喋っていたみたい。楽しそうな笑い声が聞こえてた。
碧斗の家は、オレの家から徒歩十分ほどのアパートの一室だった。
玄関を開けると、思ったよりずっと綺麗で、整っていた。
手際よくカレーを作ってるのをちょっとだけ手伝って、というか、ほぼ見学して、煮込んでる間、二人で勉強タイムとなった。
オレは宿題を広げて、数式と格闘。
「碧斗、ここ、分かんない」
「どれ?」
小さめのローテーブル。隣に座った碧斗の腕が近い。
手元を覗き込むたびに肩が触れそう。
「ここは、こうやって式をまとめると、簡単」
「……あ、ほんとだ」
「できるじゃん、翠」
できるじゃんって言葉が、やけに嬉しい。
トップ合格は伊達じゃないなー。説明、すっげー分かりやすい。
難しい数式がひとつ解けて、一瞬気が緩んで、顔を上げた。ふと、碧斗の部屋を見回す。
綺麗だけど、必要なものしか無い感じ。筋トレグッズだけいろいろあるなぁ。
この筋肉は、あれで作られているのか? ちょっと興味津々になってると、碧斗が笑った。
「なんか面白いものある?」
「いや。筋トレグッズがいろいろあるなぁって……」
そういえば……何で、一人暮らしなんだろう、碧斗って。
ふ、と見つめると、碧斗は、クスッと笑った。
「何で一人暮らしか、聞きたい?」
「聞いてもいいの?」
「好きで一人暮らしさせてもらってるって言ったろ」
「うん」
……高校生が好きで一人暮らしって何だろう、と思っていると。
「親が海外赴任が決まってさ。――神陵に受かったら残ってもいいって言われたから頑張った」
「そうなんだ……ていうか、頑張って、トップ合格とかすごすぎだけどね」
苦笑したオレに、碧斗はふ、と笑った。
「自分の居場所は、自分で選びたかったし」
「……かっこいいね」
思わずそう言うと、少し黙った碧斗が、ふ、と笑った。
「別にかっこよくないかな――ほんとは、ただ、逃げたかったのかも」
「……逃げる?」
ふと首を傾げて碧斗を見つめる。碧斗はすこし視線を落として、穏やかに微笑んだまま、話をつづけた。
「父親は覚えてもない頃に亡くなっててさ。ずっと母さんと二人きりだったんだけど――中一の時に再婚して、妹が出来たんだ。再婚相手はけっこう裕福な人で、いい人だよ。母さんも幸せそうだし、それは本当に良かったと思ってる」
ん、と頷く。
「ただ、それまでずっと、自分が母さんを守らなきゃって思って生きてたからさ……もう必要ないんだなって気づいた時、戸惑ったんだよな、オレ。まあ、ちょうど思春期ど真ん中だったしさ。それで……その海外赴任の話と、受験の時期がかぶったから、オレは残ることにしたんだ」
「……そっか」
何て答えていいか分からず、頷くと、碧斗は、くすっと笑った。
「そんな顔しなくていいよ。母さんはもう幸せだし。だからオレも、自分がずっと一緒にいたい人を見つけようって決めたんだし」
「そうなんだ……」
碧斗は、そんな感じ、と微笑んで、話を切った。――オレは、それ以上は聞かなかった。
やっぱり、少しは、寂しかったと思う。でも、それをオレが勝手に、可哀想とかいうのも違う気がする。
碧斗は別に可哀想な顔はしてないし、ちゃんと自立できてるように見えるし。
ただ、碧斗が人とまっすぐ向き合って、めいっぱい楽しく生きていこうっていうのは、そういうところからも来てるのかも、と思うと。碧斗が何にでも精一杯、っていうのは――なんか痛いくらい、すごいな、とも思ったけど。
……ちょっと、なんか。
頑張ってる碧斗を、抱きしめたい気分に駆られて。
そんな気持ち、今まで感じた記憶が無かったから。
自分のその衝動に、びっくりした。
その後、碧斗がキッチンに立って、慣れた手つきで野菜を刻んでいく。サラダを作ってくれてる横で、オレはカレーを混ぜ混ぜしていた。
「おいしそー」
「ん。焦げないように、下の方からかき混ぜて」
「うん」
めっちゃいい匂いがする。
「翠がここに居るの、嬉しい」
「……そう?」
「ん。翠、あーん」
「ん。あ」
手に持ってた生ハムみたいなのの切れ端を、あむ、と口に入れてくる。ちょっと照れつつも。
「おいし」
ふ、と笑ってしまうと、碧斗もくすっと笑った。
「こういうのは、無防備なんだな」
「……?」
「警戒してないよな、オレのこと」
――正直、碧斗を警戒なんて、全然していない。
いつの間にか、すっかり信じてる自分に、あらためて気づく。
「……だって、なんか」
「ん?」
「碧斗が、オレを大事にしてくれてるのは――分かるから」
考えながら言った言葉を聞いた碧斗は、ちょっとびっくりした顔でオレを見つめていたけれど。
ふ、と嬉しそうに笑って、またサラダの続きを作ってる。
嬉しそうな顔が、オレも嬉しくて。
ちょっと微笑んでしまいながら。
「――なんか、碧斗の空手、ほんとうに超良かった」
「ん。ああ……それは嬉しい」
「正直、碧斗のことしか、見てなかったんだけどさ。なんか、碧斗の周りだけ、空気が張り詰めてるみたいで、かっこよかった」
ぐるぐるとかき混ぜながら、そう言う。
「あんな風にできる人のことは……信じちゃうよな……」
ちょっと照れくさいからカレーをめっちゃぐるぐるかき混ぜながら言うと、碧斗はクスッと笑った。
「翠に信じてもらえるような人になりたいって、ずっと思ってる」
「……もう、結構、なってるけど?」
「いや、まだかな。――ほら。最初に一目惚れとか軽く言って、翠の地雷、ふんじゃったからな」
「――――」
「もっと、翠に信じてもらえるようになりたい」
強い言い方じゃなかった。
優しく、胸の奥に響いてくるようなその声と言葉は。
オレの、胸を、確実に揺らした。
「まあ、時間はまだまだあるから」
「――」
「とにかくオレは、神陵に入った朝、翠に会えて、よかった」
そんなこと、言ったら。
……オレだって、そう思ってるし。
そう思ったところで、碧斗が「サラダ完成」と笑った。
「よし、カレーもそろそろいいでしょ。翠、めっちゃかき混ぜてくれてたし」
くっと笑いながら、コンロの火を止める。碧斗がよそって、オレがテーブルに運ぶ。
少し後、夕飯が出来上がった。
「食べよ」
「おいしそう!」
二人で向かい合って、いただきます、と手を合わせる。
一口食べた瞬間、口いっぱいに広がるスパイスと甘み。
「うまっ。これ、お店出せると思う」
「やった。カレーはさ、すげー好きだから、極めてんの」
「めっちゃうまー!」
「良かった」
笑い合いながら食べ進めるうちに、碧斗との距離がすごく、近づいている気がした。
勉強して、カレーを食べて、それだけのことなのに、なんか――すごく、一緒にいるのが、心地よかった。
◆◇◆
片付けを終えて、ふ、と息をついた時。
碧斗が、ふと窓から外を眺めながら言った。
「明日、いい天気みたい――なあ、翠」
「ん?」
「明日、暇って言ってたよな。部活、ないんだろ? オレも、今日は発表会があったから、明日は休もうってことになったからさ。だからさ……」
「うん?」
「――オレと、デート、しない?」
不意打ちすぎて、碧斗を二度見してしまった。
「で……でーと?」
「ああ、ごめん。デートに拘んなくてもいいよ。どっか、好きなとこ。遊びに行きたいんだけど」
あ、そういう……。
デート、って、やめてよ……心臓が、変な音がするし。
「えと――あ、動物園は?」
「いいよ。好きなの?」
「好きだけど、しばらく行ってないから」
「いいよ。行く?」
嬉しそうに笑う碧斗。その顔を見て、ふと、考える。
――碧斗は、オレを大事にしてくれてる。
それはもう、会ってからずっと分かってる。
でもなんか、いまひとつ、最後に信じきれないのは何だろうって思うと。
一目惚れって、言われたからだ。
何で一目惚れが嫌いか、最近すごく、考えてて、ちょっと分かってきた。
一目惚れっていうほど、オレの外見が、好きって思ったってことでしょ。
それが、最初にあって。
……オレの顔が、好み、だから。
こんなに優しいんじゃないのかなって。
オレの顔が、今と変わったら――もう好きじゃないんじゃないかなって思っちゃうからだ。
今オレまだ、なんというか、まあ、ぴちぴちしてるというか、つやつやしてる、若い、高校生だし。
今は可愛いって言われるけど、これからはきっと変わっていく。
顔も、声も、全部変わっていくと思うんだよね。
母さんに似てたって、これからは違っていくと思う。
やっぱり男だし。――可愛くて、綺麗なままは、居られない。
その時、碧斗はまだ、オレのことを好きでいてくれるんだろうかって。
碧斗のことは、今も、好きだけど。
――オレが確実に、今よりも可愛くなくなってく未来に。
きっと、これからもどんどんかっこよくなってくと思う碧斗の側に。
オレが居られるとは。どうしても、信じられないみたいで。
――オレの、一目惚れとか、可愛いっていうのに感じてる負の感情は。
その言葉の軽さとか。ただ顔が可愛いって言われまくるのが嫌だってことの裏に。
このままではいられないから。好きなまま、居ては貰えないんじゃないかっていう。
そんなものも、あるみたいで。
「友達、としてでいいなら。行く」
「いいよ。まだそれで」
「――うん。じゃあ、行く」
線を引いて、安心してるのは。
友達としてなら、ずっと、一緒に居られるのかなっていう……。
でもそれすらも。
「友達として」なら、碧斗にとって、意味がないんじゃないかって言う、そんな気持ちも感じてて。
オレ、ポジティブだと思ってたのに。
ここに関しては、すっごいネガティブなんだって、分かってきた。
変な、拗らせたコンプレックス。
そのせいで、碧斗に応えられないまま。
こんなまま、いつまで、居られるのかな。
楽しさと、言い知れない不安な気持ちに。
どうしていいか分からないまま。
でも、楽しい会話と、居心地のいい空間。
布団に入ってからも、好きなこととか嫌いなこととか。
今まで生きてきて、面白かったこととか。
お互いめっちゃ喋って――ほんと。楽しかった。



