【4話】


「翠、おはよ」

 翌朝八時。待っていたら、ほんとに碧斗が現れた。

「おはよ」

 そう答えると、玄関ががちゃっと開いた。絶対、ドアホンのカメラで見てたな。
 父母弟妹が、わらわらと出てくる。

「おはよ~、碧斗くん、でいいのかしら?」
「わー、めっちゃイケメン……」

 母さんと澪が楽しそうに笑う。

「背、高いですね」
「本当に」

 理人と父さんも、感心したように、碧斗を見上げてる。
 皆、神陵の友達が迎えにくるって言ったら、ギリギリの時間まで待っていたのだ。
 何がそんなに見たいのって聞いたら、「神陵のトップ入学の顔」だって。

「はいはい、もう皆、早く出た方がいいよ。じゃあね、いってきます」

 なんだか少し笑いながら、碧斗は澪や母さんに手を振り返し、軽く会釈をしながら、オレの隣に並んだ。

「あれ、自転車は?」
「一緒に歩きたいから置いてきた」
「え。あ、じゃあ明日から、家まで自転車で来たら? 車庫のところに置けるから。皆に言っとくし」

 言ってからはっと気づく。

「あ、ちが……もし来るなら、っていう話」
「ん。あ、でもここから十分だから。歩いてくるよ」

 ふ、と碧斗が笑いながら、オレを見つめる。というか、見下ろす。

「……あの、別に、いつも来なくていいからね?」
「来てもいい?」
「通り道、だし、自転車でなくていいなら」
「翠と歩く方が楽しいに決まってるし」

 そんなことを言う碧斗と、一緒に河原を進む。
 昨日は母さんと歩いた道。昨日まで、かけらも知らなかった奴と、こんな風に一緒に歩いてる。なんか不思議。

「翠の家族――楽しそうだな?」
「ごめん。なんか、神陵のトップ入学の人って言ったら、見たいって」
「なんか面白かった――なんか翠が、まっすぐなのがよく分かった気がする」
「そう?」

 なんかそんな風に言われると照れるけど。

「明日も、迎えに来ていい?」

 ふ、と穏やかに笑う碧斗。断ろうとは、なぜか思わなかった。
 

 ◆◇◆


 入学して、二週間が経った。
 最初の一週間は、学校紹介、健康診断、オリエンテーションに、部活の体験や説明会。
 二週目に入った途端、委員会の顔合わせや本入部、授業が本格的に始まって、毎日が目まぐるしく過ぎていった。

 オレと陸は予定通りバスケ部。練習も本格始動。中学の時よりずっとハードだった。
 碧斗は、予定通り空手部に入ったらしい。

 朝練がない日は、碧斗が家の前まで迎えに来るのが、もう、いつものことになっていた。帰りは、手をこつん、として別れる。不思議だけど、なんかオレたちの中で、軽い合図になってる。
 最初は落ち着かなかったのに、今では碧斗が来るのに慣れてきた。澪なんて、碧斗に会ってから、急いで学校に行く。ほんとイケメン好きな妹だなと、笑ってしまう。

 オレと碧斗が、クラスも違うのに、たまに一緒にいる――ってのは、もう周りにも知られてきたらしい。
 たまに、碧斗のクラスの、碧斗がよく一緒にいる友達三人に話しかけられたりする。

 その間、碧斗は、とにかくモテていた。
 一緒に歩いていると、廊下でも昇降口でも、よく声をかけられているし、もうすでに何人かに告白されたらしい。
 ほんと、すごい。
 顔がいいだけじゃなくて、話してると気さくで面白いし、勉強もできる。運動神経も良くて空手もやってるとか、スペック盛りすぎだから、まあそうだよなぁって思う。

 ――別に、碧斗がモテても、誰と話してても、関係ない。友達、だし。
 ……なのに、なんでだろ。
 知らない女子と楽しそうに喋ってる姿を見ると、胸の奥が、ちょっとだけ、もやっとする。


 でも、なんにしろお互い、忙しい。
 部活だってあるし、オレは、週に一、二回、合気道の稽古もあるし。勉強だってちゃんとやらなきゃ、ついていけなくなるし。
 碧斗も、学校の空手部だけじゃなくて、道場にも通ってるらしい。

 ――だから、ずっと一緒にいるわけじゃない。

 放課後はそれぞれの時間があって、お互い、自分の場所で頑張ってる。
 それがなんだか、心地いい。
 ただ、頑張ってる姿を知ってると、なんか、もっと話したくなる。ちゃんと向き合いたくなる。


 尊には、相変わらずからかわれてる。
 けど、碧斗との関係は、特別、変わってはいかない、
 朝は顔を見る。帰りは、たまたま一緒になる時だけ。大体、空手部の方が終わるのが早いし。

 ただ――友達、なんだけど。
 なんか、少しだけ特別っていう感覚がある。それが何なのかは、よく分かんないけど。

 廊下ですれ違う時、わざわざこっちから声をかけたりはしない。
 でも、碧斗はいつもこっちに気づいて、ふと笑ってくれる。
 オレも、つい笑い返してしまう。
 近くをすれ違う時は、一瞬だけ、手をこつん、とする。
 ――ただ、それだけ。
 たったそれだけのことなのに、胸の奥が、ふわっと浮かぶみたいな感覚になる。

 「好き」とか、そんなはっきりしたものじゃないけど。
 でも、なんとなく特別になってきている気はしている。こんな短い間に。すごく、不思議、だけど。

 碧斗をただまっすぐ見ていれば――すごく、いい友達な気がする。

 ……あの「一目惚れ」さえなかったらなぁ。
 撤回されたとは言ったって、なんかモヤモヤと心に残ってる。

 これはオレの、可愛いとか一目惚れに対する、嫌な気持ちが強すぎるだけ。それも、分かってるんだけど。


 そんな、ある日のこと。


「え、今日体育合同なの? 三クラスも?」
「そうらしいよ。ほら、柔道着が届いてないっていってたじゃん?」
「うん」
「実地ができないから、説明とかだけだから、格技場で、合同でやるんだってさー」

 ――合同、か。
 ってことは、碧斗も、同じとこにいるってことだよな。畳の部屋か。

 登下校とかで話すのはもう慣れてきたけど、授業で一緒になるのは初めて。
 別にどうってことないはずなのに、胸の奥が、少しだけ楽しいような気がする。

 格技場に入ると、他クラスの生徒がすでに集まっていた。
 その中に、当然のように碧斗の姿もある。ちょっと遠くから、目が合った。碧斗の口角があがる。その時。

「おーい、集まれー!」

 声の主は、ごっつい体格の体育教師だった。丸太みたいな腕。
 もう、ぜんぶが筋肉で出来てそうな人だなぁ……。先生は体育館の真ん中に立つと、でかい声で言った。

「今日は柔道着が届いてないから、受け身の練習やら投げ技の実習は無し。だが、やっぱり体感してもらうのが一番なんだよな。誰か、柔道やってる奴?」

 ……シーン。
 誰も手を挙げない。本当にいないのか、あげたくないのか分からない。

「合気道でもいいぞー」

 うげ。やだ。
 思ったけど、その顔を見られた。

「お、もしかして経験者か? なまえは? ちょっとこっち来い」
「久藤です……」

 ため息をつきつつ、前にトボトボ歩み出る。

「遠慮すんなって。ちょっと協力してくれ」

 全員の視線が一斉に集まる。皆、うわー、と、すごく気の毒そうな顔をしている。陸なんて、うわー、やばい、なんて顔。
 碧斗も、なんだか、口を引き結んでこっちを見ている。

 相手がこの、まるまる筋肉の人だからなぁ。きっと、皆、オレみたいなちっちゃくて細い奴だと、潰されて終わりだと思っているんだろうけど。
 ため息をつきつつ、それでも前に出て、先生の前に立った。

「お前、どれくらいやってんだ?」
「……小三からです」
「おお、ベテランだな。じゃあいけるか。先生を投げてみろ!」
「ええ……まじですか」
「ああ、受け身は取れるから安心していいぞ。体格差があっても関係ないってところ、見せてやってくれ」

 そう言った先生に、皆が次々言い出す。

「じゃあ体重で分かれてるのはなんでですかー?」
「やっぱり関係あるんじゃないですかー?」
「ていうか、そいつと先生じゃ、いじめじゃないんですかー」

「なんだと」
 きっと、生徒たちを睨んでから、先生は、ふむ、と考えながら、オレの近くに来た。

「できるか?」
「……多分」

 嫌々答えると、先生は、ふ、と笑った。

「じゃあやるぞ、よく見てろよ」

 格技場がざわつく。大丈夫かよ、とか、止めた方がいい、とか、おいおい逃げろー、なんて声まで飛んでくると。
 ――ちょっとムカついてきてしまう、負けず嫌いのオレ。


「じゃあ、久藤、こうやって掴まれたら、どうする?」

 ぐ、と先生がオレの腕をつかんだ瞬間――。

 先生も、油断しすぎ。投げていいって言ったよな。
 オレの体が自然に動いた。

 ひゅっ。
 先生の体が、綺麗に宙を舞った……と思う。そのまま畳の上に「ばふっ」と音を立てて転がった。
 良かった、ちゃんと受け身、取れてる。

 シン、と格技場が静まり返った。「え」と、皆が同じ顔になってる。碧斗だけ、咄嗟に口元を押さえて、ぷっと、噴き出した。
 その瞬間。

「うわっ!? 今、飛んだ!?」「やば……」
「え、何今の!?」「筋肉が飛んだ?!」

 一気にざわめいた。
 先生は仰向けのまま、天井を見上げて笑いだした。

「お前、すごいな……! いつからやってるって?」
「小三から、です」

 座ったままの先生に向けて手を差し出すと、分厚い手が、オレの手に捕まった。起き上がらせるのは大変。よろけた。

「かなりまじめにやってきたか?」
「はい」
「――そりゃ強いわけだな」

 ざわざわしていた生徒たちが、「すげー!」「カッコいい!」と口々に言って、拍手が起こる。
 思ってもみなかった拍手に、オレは恥ずかしくなって頭をかいた。

 ……そして。
 ふと視線を感じて、顔を上げた。

 頭ひとつ飛び出てるから、すぐに見える。碧斗が、こちらをまっすぐ見つめていた。
 どこか面白そうで、興味深そうな、そんな表情で。

 べ、と舌を見せると、碧斗は、一瞬目を見開いて、また、ぷ、と笑った。


 体育が終わり挨拶を終える。出口が混んでいたので、待っていると、碧斗が目の前に立った。ジャージ姿、近くで見るの、初めてかも、なんて思っていると。

「なあ、翠。正直に言って良い?」
「何? いいけど……」

「すげー、技が綺麗でカッコよかった」
「――」
「迷いが無くて、芯がある感じ――あれ、すごく好きだった」
「え……」

 胸の奥が、突然、大きな音を立てた。顔が、熱い。息が、うまく吸えない。

 いつもその唇を彩ってる微笑みは、今は無くて。
 真剣な顔で、綺麗な瞳で、碧斗が言った。答えられずにいる間に、碧斗の友達が「次早く行かないと」と声をかけてきた。
 じゃな、と言ってから、碧斗は「ん」と、オレの前に手を出した。こつん、と合わせると、鮮やかに笑って、碧斗が離れていった。

 その背中が遠ざかっても、胸の奥が落ち着かなかった。



 ◆◇◆


 なんか、あれから、すっごく、ぼうっとしてるオレ。
 碧斗が言ったあの言葉が頭の中で何度も再生されて離れない。

 おかげで、部活でミス連発。
 部活が終わった後、居残り練習をすることにした。

「えーまだ残るの?」
「無理すんなよ?」

「うん。皆、先帰って。ちょっとシュート練習したいから」
「ほんと大丈夫?」
「陸も帰っていいよ。少しやったら帰るから」
「元気だなー。オレ、もう無理だ。今日は帰る、ごめん!」

 陸が笑いながら帰っていくのを見送ってから、もう一度ボールを手に取った。

 ――背を伸ばすならバスケがいい、って言われて始めたけど。
 今はただ、単純に好きだ。
 中学の頃よりもずっとレベルの高い練習についていくのは大変だけど、それでも、ボールがリングを通った瞬間の音が、たまらなく気持ちいい。

 背が小さくても、やれることはたくさんある。
 スピードでも、テクニックでも、勝てることはあるし――背が小さい方が有利なプレーだってある。

「とりあえず、三ポイントは綺麗に決められるようになりたいよなぁ……」

 自分に言い聞かせるように呟いて、シュートフォームを確認しながら、何度もボールを放つ。シュポッと、いい音を立ててリングを通るたび、心が弾んだ。何本目かのボールがネットを揺らした、その時。

「翠」

 聞き慣れた声が、静かな体育館に響いた。

「――え。碧斗? なんで?」

 振り返ると、出入り口のところに、碧斗が立っていた。

「陸に会ったら、一人で残ったって聞いたから。オレも中学はバスケ部だったから。練習相手くらいできる」
「バスケだったの? あ、そういえば陸が言ってたような」
「空手部がなくて、背が高いからって先生に引き抜かれたんだよ。――ほら、入学式で言ったじゃん。高校の人間関係は宝って」
「ああ、あの話の先生」
 なるほど、部活の先生だったのか。
 碧斗が側に立って、笑った。

「手伝うよ。何してほしい?」
「じゃあ……パスしてくれる? どんな態勢でも三ポイント入るようにしたい」
「了解」

 しばらく、二人きりで練習した。
 碧斗が出すパスは正確で、だんだんテンポも自然と合ってくる。
 一人でやるはずだった時間をかなりオーバーして、オレ達は体育館を出た。風が少し冷たかった。

「碧斗、歩くの速い」
「あ。悪い」
「てかさ、脚の長さが違うんだから、配慮してよー」
「手、繋ぐ?」
「つながないよっなんでだよっ」
「はぐれないじゃん?」

 そういう問題じゃない。赤くなったままプルプル首を振ると、碧斗は可笑しそうに笑ってる。
 並んで歩いていると、途中のコンビニの、中華まんの旗が目に留まった。

「碧斗、中華まん、好き? お礼に奢るけど」
「好き」
「もうすぐ終わっちゃうもんね。食べよー」

 コンビニに入って、二人でレジの前。「オレ肉まんがいい」とまた即決の碧斗。「はやっ」と驚いた後、えーどうしよう、と迷う。
 ピザまんもいいし、あんまんもいいし……うーん。肉まんもいいなあ。
 
「そういうとこは優柔不断だよなー」

 くすくすと、おかしそうに。でも優しい感じで笑う碧斗。

 結局オレは、ピザまん。碧斗は肉まん。
 コンビニの出口の脇に立って、頬張った。

「「うま」」

 同時に声が重なって、二人で笑った次の瞬間、碧斗の手が、不意にオレの頭を撫でた。

「……っ?」
「……あ、悪い。つい」

 本気で、つい、だったみたいで、やば、といった感じで手を引いた碧斗に、何も言えず、ただ見つめる。
 碧斗は、ふ、と苦笑した。

「……可愛く見えて、って言ったら怒るよな」

 むぅ、と睨むと。

「じゃあ――愛しくて、とかならどう?」
「は、はぁ!?」

 頭が真っ白になる。
 何言ってんの、ほんと。そっちの方が、恥ずかしい気がする。狼狽えてると、碧斗が楽しそうに笑った。

「今日の合気道の時は、すげーカッコいいし。バスケも楽しそうだし、翠ってなんでも一生懸命で、まっすぐで、キラキラして見えるんだよ……やばいよな」

 ぷに、と頬をつままれて、ぴしっと固まる。
 ヤバいのって、オレじゃなくて、お前な気がするんですけど。そんな顔で、瞳で、優しい感じで見つめないでよ。

「……?」

 落ち着かない鼓動のまま眉を顰めた瞬間、コンビニのレジの前がざわついているのに気づく。
 金髪の外人さんが三人、わあわあ話しかけていて、店員はお手上げの様子だった。

「ちょっと持ってて」
「ん」

 碧斗に中華まんを預けて中に入り、英語で話しかける。
 アニメのコラボの限定グッズが欲しいらしい。でもそれは別のコンビニチェーンだと分かったので、その場所を説明してあげると、三人は笑顔で手を振って離れていった。碧斗のところに戻ると、少しびっくりした顔で。

「翠、英語、話せんの?」
「うん。学童が英語教室でさ」
「すごいな。皆が喋れるようになるわけじゃないだろ?」
「まあそうかも。でもせっかく行ってるんだから、と思って。ネイティブの先生捕まえて、ずっと喋ってた」

 先生たち、うるさそうにしてたな、最初は。全然喋れないのに、べちゃくちゃしててさ、なんて思い出したら可笑しくなってきてて、ふふ、と笑ってしまうと。
 
「……ほんと、翠ってさ」
「ん? ありがと、ピザまん」

 受け取って、ぱくっと頬張ると――。

「――可愛いだけじゃ、絶対ないよな」

 至近距離。
 ふ、と柔らかく緩んだ瞳に見つめられて、息が止まる。


「翠。オレ、友達には、なれてる?」
「――――」

 友達。

 胸の鼓動がうるさい。息が、ちゃんと吸えない。
 ピザまん、なんだかうまく噛めないし。

 友達って、こんなに、感情があっちこっち、激しくなるものだっけ……。
 そう思いながらも、友達じゃないなら何? というのが分からなくて。

 ただ小さく頷くことしかできなかった。


 碧斗は――いつも。オレの中を。頑張ってることを。見てくれようとしてる気がする。
 一目惚れって言葉から始まったけど――こんなふうに、知ろうとして、くれてる。


 友達、か。
 視線が眩しくて。少し、逸らした。