【3話】


 正門の前で陸と別れて少しして、駐輪場の方から清宮が自転車を引いてやってきた。

「ごめん、待たせた。行こ」

 促されて歩き出す。ドッドッと鼓動がうるさい。何でオレ、こんなドキドキしてんの。
 眉を顰めたその時。

「あ、新入生代表のあおとくんだ~!」
「カッコ良かったよー」

 どう見ても、先輩。大人っぽい女の人たちに手を振られて、「どうも」と笑顔。余裕で返してる。
 ……鬼のようにモテてたって言葉を納得しながら、その横を無言で歩く。

「ファミレスとかでいい?」
「え」
「もう昼だし。食べないで喋るのもつらくねえ?」
「あ、うん」
「駅の方のファミレスで良い?」

 ぽんぽんと続けて聞かれて、ついつい頷いてしまった。

 オレは、今からこいつと二人で、ファミレスでご飯? まあでもお腹空いたし。それはありか。
 いや、ありなのか? 悩みながら、無言でずっと、ついていく。自転車を引いてるので、その横に並ぶと通路で邪魔になるのをいいことに、後ろからずっと。特に、清宮も、横に来いとは言わないし。
 自然と後ろ姿が目に入る。

 河原の風が、春っぽく感じる。水面はキラキラと光を反射させていて、とっても綺麗。
 清宮は自転車を押しながら、ゆっくりと前を歩いていた。
 制服の背中はまっすぐで、長い脚がすらりと伸びてる。

 ――後ろ姿も、カッコいいなー。
 思わず、そんな言葉が胸の奥でこぼれる。こいつのルックスって、ほんと、理想の形かもしれない。
 河原から逸れて、狭い道を駅の方へと進み、途中のファミレスで、清宮は自転車を停めた。

 二人で店に入って、窓際の明るい席に向かい合わせに座った。

「先、注文しよ」
「うん」

 手渡されたメニューを見る。程なくして、清宮は持っていたメニューを閉じた。

「もう決まったの?」
「ん。いいよ、ゆっくり決めて」

 そう言いながら、清宮は氷の入ったグラスの水を飲む。その喉が少し動く。
 それだけのことが、どうして――こんなに、目を離せないんだろう。
 いや、水飲んだだけ……色っぽいとか、カッコいいとか。意味わかんないって。

 すぐに目を逸らして、メニューを見るけど、何だか全然決まらない。
 清宮は肘をついた状態で、なんだかニコニコして、オレを見てくる。

「ごめん、すぐ、決めるから」
「いいよ。ゆっくりで」

 ふ、と目を細める。また胸が、少し不自然に動く。何だろうこれ。もう。永久にメニューが決まらないんじゃないかと思った時。
 シーフードカレーが目に入った
 あ、もうカレーでいいや。

「決まった?」
 聞かれて頷くと、店員を呼ぶボタンを清宮が押した。すぐにやってきた店員を清宮が見上げる。

「シーフードカレーとドリンクバー。お前は?」
 清宮がそう言った。

「あ、おんなじ、で」
「マジで?」

 くすくす笑って、清宮がメニューを片付けている。店員が離れていくと、清宮は立ち上がった。

「飲み物取りに行こ。喉乾いた」
「あ、うん」

 オレも。緊張して、からから。
 飲み物を取って、席に戻ると、清宮がオレをまっすぐに見て、くすっと笑った。

「名前。今度は教えてくれる?」
「……久藤 翠。久しいに藤の花に、みどりとも読む翠って字。分かる?」
「分かるよ。翡翠(ひすい)だろ。綺麗で透明なイメージ、ぴったりだな」
「――そう?」
 そんな風に言われると、すごく嬉しい。

「翠は深いエメラルドの緑でさ。 碧は濃い青緑って感じ。なんかぴったりじゃね、オレらの名前」

 くすくす嬉しそうな顔で笑う清宮に、なんだか答えられずに黙っていると。

「先に謝っとくよ」

 笑いを引っ込めて、そう言った。髪がさらりと揺れて、宝石みたいにキラキラしてる黒い瞳が、じっとこっちを見ている。
 ただそれだけのことなのに、息がうまくできなくなって、心臓が、変なタイミングでドキドキと弾む。 

「ごめんな、一目惚れとかいきなり言って」

 清宮が、カップの縁をなぞりながら、ふと視線を落とした。
 今までは軽く笑いながら話してたのに、今は本当に真剣な口調だった。

 ――心臓が、また跳ねた。
 やめてほしい。そんな顔して、そんな声で、ずるい。

 そうだよ、一目惚れ、なんて。嫌いな言葉だ。大嫌いな、トラウマ、ひきずりだされる言葉な筈だ。

「驚かせたよな。正直、自分でもびっくりしてるんだ。あんなの、何も考えずに口にしたの、初めてだったから」

 その言葉を聞いて、テーブルの上でコップを押さえてる指先にきゅっと力が入った。

「……オレ、一目惚れって信じてないから」

 気づけば、口が勝手に動いていた。
 清宮の顔はまっすぐで、嘘ひとつなさそうで――だからこそ、なんだか余計に怖くて、つい言葉が出た。

 オレは俯いて、ストローの先を指でいじる。
 ほんとは、もっと強く言いたかったのに、声は思ったよりも小さくて、揺れていた。
 やっとの思いで伝えたそれに、清宮は、穏やかな声で返した。

「もしかして、一目惚れって、地雷だった?」

 ――え。何で、分かるの。
 心臓が掴まれたみたいに、跳ねる。

「オレもさ、たまにそれで告られるから、分かる」

 清宮は、ただ当たり前みたいな顔で言った。
 その言葉が、静かに胸の奥に入り込んでくる。

 分かるって、言ってくれて嬉しいかも。
 今まで、ほとんど誰にも言えてないし。理解されないと思ってたから。


「だからこそ、オレ、自分が一目惚れなんて、言うとは思わなかった。自分で、自分に驚いてさ。逃げられても、追いかけられなかった」

 苦笑して、清宮が言う。
 からかうような軽い口調じゃなくて、戸惑いの混ざった声。

 清宮は、本当に、オレに言った言葉と向き合ってくれてるみたいで。
 ……ずるいな、ってまた思った。

「だからさ、さっきの一目惚れってやつ」

 清宮は、真面目な顔になって、オレの目をまっすぐ見た。

「一旦、撤回させて」
「……え?」

「言葉が軽すぎたから。咄嗟に出ちゃったのは謝る」

 言葉を選ぶように、ゆっくりと。

「ただ、お前と、仲良くなりたいって思ってる。ちゃんと、お前のこと、知りたい」

 ……ずるすぎる。
 撤回って言いながら、それって結局、全然撤回してないじゃん。
 一目で気に入ったから、そうなってるってことだよね。

 そう思っていると、清宮は、ほんの少しだけ声を落とした。

「それに――オレ、お前の顔だけが気に入ったわけじゃない」
「……え?」

「その、でっかくてまっすぐな瞳。芯が強そうなとことか。ちょっと気が強そうなとことか……そういうのが気に入ってて、もっと知りたいって思ってるから」

 言葉が、さっきから、いちいちじわじわと、胸の奥の方に、落ちてきてるような感覚。

「だから、まずは――友達からはじめたいんだけど、どう?」

 清宮は、まっすぐな瞳のまま、ゆっくりと言った。

「いきなり、好きなんて言われても、信じられないし、びっくりするよな」
「……そうだけど」
「だから、ちゃんと知りたい。話したり遊んだり、一緒に過ごして、お前のこと、もっと知りたい」

 それはなんかもう。
 一目惚れとか好きとかより、なんだかずっと重たくて。
 まだ会ったばかりなのに、そんな重たい気持ちをぶつけられても、と思うのだけれど。

 なんでか否定する言葉が出てこない。

「友達……?」
「ん。それなら、嫌じゃないだろ?」

 嫌、じゃない。
 その言葉が喉まで出かかったのに、声にならなかった。

 だって、最初、一目惚れって言ったし。それがやっぱり気になってて、胸の奥が、静かにざわめいてる。

 友達。
 ――こんな、重たい好き、みたいなこと、言われてるのに、友達? 
 
 友達って、なんだっけ?


「お前が、オレとは友達も嫌なら、近づかない。無理はさせたくないし」

 え。近づかない?
 ……えっと。それは。

「――友達、なら」

 声が掠れた。

 オレってば、今、何言おうとしてんの。
 でも。近づかないって言われたら。それは、嫌だって、思ってしまった。


「友達なら……いいよ」
「マジで?」

 パッと明るい笑顔になった清宮に、どきっとまた胸が震えた。

「じゃあさ」
 清宮が、少し身を乗り出してきた。テーブル越しに、目が合う。

「名前、呼んでいい?」
「……別にいい、けど」

 そう言うと、清宮は嬉しそうに笑ってから。

「翠」

 ゆっくりと、その名前を口にする。
 ただ呼ばれただけなのに、胸の奥がざわざわと揺れる。
 その声が、やけに近く感じて、息が詰まりそうになる。

「お前も。呼んで?」

 そう言われて、え、と緊張しながら。

「碧斗……?」

 めっちゃドキドキする。こんなに人の名前呼ぶのにドキドキしたこと、最近あっただろうか。ナニコレ、オレ、どうなっちゃってるの。
 しかも、オレが呼ぶと、碧斗はすごく嬉しそうに微笑んで、頷いてるし。
 なんだか、ふわふわ、浮いてるみたいな、感覚に支配される。

「じゃあ、友達から。よろしく」

 そう言いながら、碧斗は、手をグーにして、それをオレの方に伸ばしてきた。オレは、少し首を傾げながら。
 でも、それしかすることが無い気がして、腕を伸ばして、碧斗のグーと、オレのグーを、軽く、ぶつけた。

「友達の合図」
「……皆としてんの?」

 不思議に思って聞くと、碧斗は、クッと笑った。

「翠とだけ。特別」
「――――」

 ポーカーフェイスを保とうとしたけど。
 目の前の瞳が、あまりにキラキラして見えて。さっと顔に熱が走った。

 顔を逸らしかけたその時。お待たせしました、と店員さんが食事を運んできてくれた。

「翠、カレー、好き?」
「うん。好き」
「オレ、カレー作るの得意だから。今度食べに来いよ」
「え……誰が作るの?」
「オレ、一人暮らしだから。オレが作る」

 意外な言葉に、ふ、と顔をあげて、碧斗を見つめると、碧斗はそれに気づいて、ふ、と微笑んだ。

「好きで一人暮らしさせてもらってるだけ」
「そう、なんだ。好きで……家事とかも、ちゃんとしてるの?」
「一人だから、そこはしないと」

 ……偉いなぁ。と、ただ素直に思う。
 だって、洗濯とか掃除とか、ご飯作るんでしょ? 勉強しながら、大変そうだけど。好きで、かぁ。
 少し不思議な部分もありながらも、ふぅん、と頷く。

「今度遊びにきなよ。勉強でもいいし」
「……機会が、あったら」
「機会は作るもんだろ」

 くすくす笑う碧斗の言葉は、なんだか、初めて喋ると思えないくらい、すとん、と胸に落ちてくる。

「ふたりきりでも、平気になったら、行く」
「どういう意味?」
「……だって。まだ、好きとか言われたばっかりだし」

 眉を顰めながら言うと、碧斗は、ふ、と笑った。

「ああ、なに、警戒してンの?」
「……まあ。少しは」
「約束する。お前にその気がないのに、手は出さない。神に誓う」
「神さま、信じてるの?」
「信じてない」
「じゃあだめじゃん」

 あは、と笑ってしまうと、碧斗は、ふと、目を細めた。

「じゃあ、お前とオレに誓う。絶対、しないって」
「――意味、あるの?」
「自分に誓うのが、一番意味あるだろ。それプラス、これから仲良くなりたいお前に誓うんだから、最強」

 笑いながら言って、カレーを頬張ってる碧斗。
 オレも、カレーを食べながら。


「碧斗」
「ん?」
「自分に誓うのが、一番意味あるって……どういう意味?」
「んー、意味……意味か。自然と口から出たんだけど……そうだな」

 意味か、と呟いて、数秒。

「自分自身に対して嘘をつかないってことかな」

 なんとなく好きかもって思って、聞いたのだけれど。
 ……なんとなくじゃなくて、かなり、好きだった。

「オレもそうしよ」
「ん?」
「オレも、これから自分に誓おうかなあ」
「お? 気に入った?」
「うん。かなり」

 結構それは、本気で気に入ってしまったかも、しれない。

「碧斗。友達、よろしく」

 さっき碧斗がやったように手を伸ばす。
 すると、碧斗は、くすっと笑って、ぐーをぶつけてきた。

「でも、これは言っとく」
「?」
「オレは、翠を好きになるかも、とは言っとく」
「――」

 返事に困ってると、さらに。

「お前にも、オレを好きになってもらいたい、とも思ってるから」
「……っ」

 少しの間、グーを触れたままに。
 触れた手の温度。熱い気がした。

 ぱ、と手を離す。


「分かんないじゃん。完全に友達になるかもだし」
「まーそーだな」
「嫌いになるかもしんないじゃん」
「それはなさそうだけど。少なくとも、オレは」

 ふ、と笑いながら、碧斗は微笑む。

 オレも、なさそうだけど、と言いそうになり。
 なんとなく、まだ早い気がして、オレは口を噤んだ。

 友達。好きになるかも。碧斗がオレを。……オレも碧斗を?
 好きって、なんだっけ。
 オレが、いちいちドキドキしてるこれは、結局何だったのか分からないまま。

「ちなみにさ。オレ、可愛い、も地雷だから」

 食べ終わったカレーを端に寄せながら言ったら、碧斗は、え、とオレを見た。

「そんな可愛いんだから、受け取ればいいのに――と思うけど。なんとなく分かるから、了解」

 ふ、と優しく笑う碧斗。
 また、ドキ、と震える胸。なんか本当におかしいな。

 これは、まさか、オレだけ一目惚れが残って……
 いや、違うし。そんなわけないし!

 否定してるはずなのに、胸の奥が妙にざわざわして――未知の気持ちに、首を傾げてしまう。



 ◆◇◆

  

 ファミレスを出て歩き始めると、なんと帰り道は、碧斗と同じ方向だった。

 河原沿いの道を並んで歩く。碧斗のアパートはオレの家から、徒歩十分くらいのところにあるらしい。高校に合わせて引っ越してきたんだって。碧斗は自転車を押しながら、一緒に歩いて、家の前にたどり着いた。

「ここ、家」
「近いな。ほんと今度、一緒に勉強とかしようぜ?」
「うん。気が向いたらね」
「気、向かせろよ」

 ふ、と笑ってると、前から、違う制服姿の尊がやってきた。

「お、翠! おかえり。――学校の友達?」
「あ、尊もおえかえりー! うん、そう」

 近くに来ると、尊は碧斗を見て、笑った。 

「翠の幼馴染みの尊です。よろしく」
「碧斗です」

 ふたりは一瞬だけ、静かに見つめ合った。ん? と二人を見比べてしまう。
 尊よりも大きいんだな、碧斗。ますます大きさを実感してしまう、

「じゃあな、翠。……また明日」
「うん」
「明日、迎えに来ていい?」
「えっ。迎え?」
「八時くらいにここ通るから。後で連絡する」
「あ、うん」

 さっき、連絡先は交換したので、分かったと頷くと、こつん、とオレの手に、ぐーをぶつけて去っていった。
 その姿を見送った尊は、じーっとオレの顔を見つめてくる。

「――さっそく、彼氏?」
「ちっ、ちが……! 友達だし……!」
「制服着替えたら、オレんち、集合な」

 言いながら、尊が歩き去っていった。返事も聞かずに。


 で。
 十分後、オレは、尊の部屋に来ている。

「へえ……一目惚れって言われたんだ、あいつに」
「撤回されたけど」
「へぇ……」

 オレから色々聞きだして、なんだか尊は 面白そうに笑う。

「……で?」
「で、ってなに」
「彼氏になりそう?」
「ち、ちがうし!!」
「友達?」
「……友達、だよ」

 ふーん、と尊は笑って、オレの顔を見たまま目を細めた。

「一目惚れ、したんじゃね?」
「なっ……!」
「図星か」
「ちがうってば!!」
「じゃあ何でそんな顔してんの」
「な、なんの顔!?」
「恋してる顔」
「そんな顔してないし! ていうか一目惚れなんて信じてないし!」
「ふーん? ……ほんとに?」
「ほんとだよ!」

 強く言い切ったのに、尊は「はいはい」とか言いながら笑ってる。

「なんでそんな楽しそうなの?」
「面白いだろ。一目惚れも可愛いもあんなに昨日まで拒否ってたのに、自分が一目惚れして帰ってくるとか」
「してないって言ってんじゃん……!」
「してないって顔じゃねえけどなー、それ」

「ちがうし……っ 一目惚れなんて、信じてないし」
「じゃあなんで真っ赤なの」
「……っ尊がからかうからだし……!」

 ほー、そーですか、と尊。

「じゃあ、あいつと、友達で終わるのか、見ててやるよ」
「……」
「見ものだなぁ。つか、まだ今日、入学式だからなぁ。明日から迎えに来られちゃうんだろ?」

 くっ。尊、すっげー楽しそうなんですけど。
 
「友達になるんだってば! つか、まだ友達になってもないし。まだ、ただの知り合いだし」

 強がった言葉は、自分でも、少し空回りしてるような気がする。

「ま、見てりゃ分かるよ。友達がどこまで続くか」
「続くに決まってるし」
「はいはい、そうだといいな?」

「……ほんと、友達だし」

 そう呟いた声が、自分でもびっくりするくらい小さかった。

 友達。尊とオレは、友達で、幼馴染み。親友、だよね。めっちゃ親しいもんね。
 当然、尊には、ドキドキなんて、全然しない。
 ていうか、今まで、こんなにドキドキしたことない。元彼女すら、ここまでじゃなかったような気がする。

 でもまぁ、稀に見るくらい強烈だったからかな。
 あれは、誰でもドキドキするんじゃないだろうかとも、思うんだよね。


 ――絶対、友達だ。絶対そう!


 そうだ。オレ、たくさん友達作って……ゆっくり、恋するんだから。
 一目惚れなんかされたくないし。絶対してない。