窓の外は白く曇り、街の輪郭がぼんやりと滲んでいた。
 隣のアオバは何も言わず、流れる景色を目で追っている。
 窓が曇るたびに袖で拭うので、私はハンカチを差し出した。

 「ありがとう」

 小さくそう言って、彼はそれを受け取った。
 それからは、窓が曇るたびに、丁寧にハンカチを使うようになった。

 ――明日、行ってみたい場所があるんだ。

 不意に告げられたその言葉が、いつまでも耳の奥に残っていた。
 彼が口にしたのは、父と行くはずだった場所の名前だった。
 約束は果たされぬまま、私は一度も訪れたことがなかった。

 名鉄線の電車に揺られ、私たちは最寄駅を出発した。
 車窓の外では、冬枯れの畑と住宅の屋根がゆっくりと流れていく。

 電車の中は静かだった。
 つり革が揺れる音と、車輪の小さなきしみだけが響いている。
 アオバは窓の外を見つめたまま、時々ぼんやりと笑っていた。
 その笑みは、光を透かしたように淡く揺れて見えた。

 やがて車内が少しずつ賑やかになっていった。
 制服姿の学生が増え、笑い声が車両を満たしていく。
 私は窓の外を見つめたまま、静かにその音を聞いていた。

 目的の駅に電車が止まると、アオバが先に立ち上がった。
 その背を追うように外に出ると、冷たい風が頬をかすめた。

 駅前の道には、ほとんど人がいなかった。
 吐いた息が白くほどけて、すぐに風に消えていく。

 「こっからは歩いていこう」

 アオバが言う。

 坂を登りきると、白い建物が静かに姿を現した。
 余計な装飾のない、まっすぐな線がその輪郭を形づくっている。
 コンクリートとガラスが交わり、まるで光そのものを閉じ込めたようだった。

 足もとには浅い水盤が広がり、冬の風に揺れる水面が建物の壁を淡く照らしていた。
 水の上を渡る光が、かすかな音を立てながら、どこまでも静かに揺れている。

 「……ここが」

 思わずつぶやくと、アオバは嬉しそうに笑った。

 「そう。モネの展覧会が開かれてるんだって。僕、展覧会に来るのは初めてなんだ。楽しみだな」

 池の水面には、空の色が薄く映っていた。
 波紋が広がり、その中で光が静かに揺れていた。

 私は足を止め、しばらくその光を見つめた。

 「ミト」

 「……ん?」

 「どうしたの?」

 不思議そうにアオバがこちらへ歩いてくる。
 その前で、私は小さく笑って答えた。

 「いや、おしゃれな建物だなって思って見惚れてた」

 「ああ、綺麗だよね。モダンな建物だけど、光と水の調和が取れてる。素敵な空間だ」

 自動扉が静かに開くと、ひんやりとした空気が流れ込んできた。
 少し列になった受付に向かい、チケットを受け取る。
 アオバは子どものように嬉しそうな顔をした。
 紙の端に描かれたモネの絵を指でなぞりながら、「本物、どんなふうなんだろう」と呟く。
 その声は小さいのに、やけに澄んで聞こえた。

 白い壁が続き、光がやわらかく落ちている。
 その静けさの中で、空気まで呼吸を潜めていた。
 天井から落ちる淡い光が、床の上でかすかに揺れている。
 その中を歩くアオバの姿が、一瞬だけ儚く見えた。

 案内に沿って進むと、「睡蓮」と「モネ」の文字が描かれた壁に行き当たる。
 もう一度受付を済ませ、私たちは展示室へ入った。

 中は一気に人が増えた。
 それぞれがクロード・モネの絵に見入っており、付き添いの人たちは静かにその隣に立っていた。

 「すごい……」

 アオバが感嘆の声を漏らす。
 私は入り口で立ち止まっていた彼の肩を軽く引いた。
 後ろに人が来ていたのだ。

 「ごめん、ありがとう」

 彼は気づいて笑い、また前を向く。

 順路を進むと、ひらけた展示室に辿り着いた。
 そこには八枚の絵が並び、どれも睡蓮が描かれていた。

 一通り回り終えると、最初の睡蓮に戻った。
 作品の横にあるキャプションを読んでいると、裾を引かれた。

 「ミト、写真は撮っていいみたいだよ」

 「え?」

 「動画はダメだけどね」

 アオバの指差す先には、「撮影可」と書かれた看板を持つスタッフが立っていた。

 「ミト、写真撮って」

 「撮ってほしいの?」

 「うん」

 私はポケットから携帯を取り出した。

 「そこに立って。絵と一緒に撮ればいいんだよな?」

 「え?」

 「記念に撮りたいってことだろ?」

 「ああ……違うよ」

 アオバは首を振って、少し照れたように笑った。

 「僕じゃなくて、絵を撮ってほしいんだ」

 「……そういうことか」

 私は息をつき、カメラを構え直す。
 シャッターを押すと、軽い音が響き、画面の中に光が閉じ込められた。

 「これでいい?」

 「うん」

 アオバは画面を覗き込み、少しのあいだ見つめていた。

 その様子を見て、私は小さく笑う。
 携帯を持ち直して、アオバのほうに差し出した。

 「撮りたいんでしょ? 貸すから、好きなだけ撮ってきなよ」

 「……ありがとう」

 アオバは両手でそれを受け取ると、胸の前でそっと構えた。
 そして、次の絵へ歩いていった。
 その横顔は、光を見つめる子どものようだった。

 私は彼の背を目で追いながら、再びキャプションに視線を落とす。
 同じ池を、季節や光の違いで二十枚以上も描いたという。
 一見、同じものを描いたとは思えない。
 色鮮やかで儚いものもあれば、少し不穏で、影の深いものもある。
 モネはこの睡蓮を、毎回違う感情で見つめていたのだろうか。

 ふと、アオバのほうを見た。
 彼は最後の睡蓮の前に立ち、首を傾けながらカメラを構えている。
 角度を変え、また覗き込む。

 「撮れた?」

 隣に立つと、彼は首を縦に振った。

 「ミト、見て。これ、全部同じ池なんだって」

 「ああ。まるで別の光景を見ているみたいだな」

 「そうだね」

 絵の中の光が、彼の瞳の奥に静かに揺れていた。
 その目は、何か手がかりを掴もうとするみたいに真剣だった。

 「凄いな。いつまでも誰かの心に残るものを残せるなんて。僕もできるかな……」

 その言葉が、静かに胸の奥に沈んだ。
 モネに向けた感想のはずなのに、アオバの声にはどこか切実な響きがあった。
 彼が何を見て、何を残そうとしているのか――そのことが気になった。

 気づくと、アオバはスマートフォンを下ろして、ただ絵を見つめていた。
 撮ることをやめて、見入っている。
 その横顔があまりにも静かで、声をかけることができなかった。

 私はただ、隣に立った。
 モネの描いた光の水面に、ふたりの影が重なった。

 どれほど時間が経ったのか分からない。
 次の展示室に向かう足音が、少しずつ遠ざかっていく。
 それでも私たちは動けなかった。

 やがてアオバが、かすかに笑った。

 「ねえミト。……いつか、こういう景色を一緒に描けたらいいね」

 その声は、絵の中の光よりも優しくて、少しだけ切なかった。

 光に揺れる睡蓮の池を見つめていた。
 胸の奥で、なにかがそっと動いた。

 ――描いてみたい。

 ほんの少しだけ、そんな気持ちが芽生えていた。
 描きたい気持ちは、消えたわけじゃなかった。
 ただ、ずっと奥のほうで、息を潜めていただけだった――。