冬休み三日目の朝。
 目を覚ました瞬間、昨日のアオバの言葉がよみがえった。

 「本来の滞在日数を維持できなかったら、僕は元の世界に戻ることもできず、そのまま消える」

 ――あの言葉が、まだ頭の中に残っている。
 夢だったのかと思っても、手の甲に浮かぶ“5”が現実を突きつけてくる。
 指先が冷たい空気に触れて、やっと「今ここ」に引き戻された気がした。
 私はひとつ息をつき、布団を蹴って起き上がった。

 台所に行くと、祖母が味噌汁を温めながら、小鉢を手際よく並べていた。

 「おはよう、よく眠れた?」

 柔らかな声に、私は曖昧に笑って「うん」とだけ答える。
 本当は眠れなかったけど、心配をかけたくなかった。
 理由を聞かれても、きっと上手く答えられない。

 「じゃあ、熱いうちに食べようね」

 湯気に包まれた味噌汁の香りと、祖母の穏やかな動きに、心が少しだけほぐれていく。
 祖母の皺だらけの手を見つめながら、自分の手の“5”を指でなぞる。
 祖母に「それは何?」と問われなかったので、この花数字は彼には見えないらしい。

 朝食を終え、茶碗を流しに置くと、部屋に戻った。
 家を出るまでの時間、布団の上でごろごろと過ごす。

 やがて約束の時間が近づき、私はそっと祖母に声をかけた。

 「散歩してくるね」

 「寒いから、あったかくして行くのよ」

 「うん」

 コートを羽織り、ポケットに手を突っ込む。

 外に出ると、冬の朝の空気は澄んでいて、吐く息が白くほどけた。
 凍った道を踏むたび、足音が小さく響く。
 そのたびに冷たい空気が胸の奥まで届き、背筋が自然と伸びるようだった。

 海岸に着くと、アオバはすでに待っていた。
 潮風に揺れる髪が、淡く透けて見えた。
 その姿を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
 昨日の言葉が、思い出すまでもなく心のどこかでずっと鳴っていた。

 アオバは私に気づくと、ゆっくりと微笑んだ。

 「おはよう」

 その声は思ったよりも穏やかで、冬の海風よりも柔らかかった。

 「おはよう」

 私も同じように返す。
 それだけで、胸の奥の重さがほんの少しだけ和らいだ気がした。

 「今日も寒い?」

 アオバが私のコートの袖をちらりと見ながら尋ねる。

 「寒い。風が冷たい」

 「そっか」

 アオバは笑うと空を見上げ、気持ちよさそうに大きく息を吸った。
 澄んだ冬の空に、薄い雲がゆっくりと流れている。

 「うん。今日もいい天気だ」

 その横顔を見つめながら、私は小さく息を吸い込んだ。

 風が吹いて、アオバの髪がふわりと揺れる。
 彼の視線は海ではなく、遠くの空を見ていた。
 やがてゆっくりと歩き出し、足もとに寄せる波を見つめる。

 しゃがみ込むと、指で砂の上に何かを描きはじめた。
 ただの落書きのように見えるけれど、その指先の動きはどこか丁寧で、迷いがなかった。

 私は少し離れた場所から、その様子をただ見つめていた。
 描いては波にさらわれ、また描く。
 もっと波から離れた場所で描けばいいのに。

 砂をなぞる音だけが、波の合間に小さく響く。

 「……何を描いてるの?」

 気づけば、声をかけていた。

 アオバは顔を上げ、少し照れくさそうに笑う。

 「海の音。見えないけど、形にしたらどんなかなって」

 その言葉に、胸の奥がかすかに震えた。
 波の音が一瞬だけ遠のき、代わりに懐かしい父の声が蘇る。
 ――“描くっていうのは、見えないものを見ようとすることだよ”

 幼い日の記憶がふっと蘇る。
 あのときの私は、ただ嬉しくて、何も考えずに絵を描いていた。
 けれど、画家だった父がいなくなってから、絵を描くたびに母の顔が曇るようになった。
 以前は、私の絵を見るたびに嬉しそうに笑っていた母が、今は悲しそうに微笑むようになった。

 だから私は、描くのをやめた。
 描かない方が、傷つかないと思った。
 母も――私も。

 波に消されていくアオバの指の線を見つめながら、心の奥に小さな痛みが広がる。

 アオバが立ち上がり、私の方を振り返った。
 冬の光の中で、その笑みは不思議なほど穏やかだった。

 「僕、絵を描くのが好きなんだ」

 少し間をおいて、アオバは私を見た。

 「ミトは?」

 「私は……好きだったな」

 「そっか」

 アオバは再びしゃがみ込み、波が届かない位置に今度は海の生き物を描き始めた。
 タコ、ヒトデ、カメに貝、フグ――さまざまなものを。

 その絵を見て、思わず声がこぼれた。

 「上手いな」

 その言葉に、アオバは嬉しそうに笑った。

 「ありがとう! 僕、絵を習ってたんだ」

 「どのくらい?」

 「六年間くらい」

 アオバは手を止め、こちらを見た。

 「これが僕がいちばん好きな海の生き物」

 「クラゲか」

 「そう。ミトは?」

 「私は……」

 「あっ、言っちゃダメ! ミトも描いてよ」

 「はあ?」

 アオバは今し方描いたクラゲの絵を消し、丁寧に地面をならして「どうぞ」と顔を上げた。
 期待に満ちた瞳に流されるように、ミトは地面に手をつけた。

 ザラザラと砂が指にくっつく感覚が懐かしい。
 昔はよく、父と絵しりとりをしながら遊んだものだ。
 テーマを決めて、それぞれ好きなものを描き、当てあって笑い合っていた。

 楽しかった記憶がよみがえり、ふっと笑ったミトには、その笑顔に息を呑むアオバの視線には気づかなかった。

 人差し指で線を描いていく。
 描き終えると同時に、アオバが言った。

 「イルカ」

 「正解」

 呟くように答えると、アオバはじっとイルカの絵を見つめた。

 「すごい、上手いね」

 アオバはなぞるように指を動かし、ヒレの部分で止める。

 「ここ、先生と同じだ」

 「同じ?」

 「うん。先生も、線の入りは太くて、終わりは細いんだ。角も一筆で済ませず、二本線で交わらせるんだよ」

 アオバはその部分を指で示し、懐かしそうに笑った。

 「懐かしいなあ」

 「もう会ってないのか?」

 「うん。先生は三年前に亡くなったから」

 「そうだったのか……」

 アオバの「うん、病気で」という声が、波の音に紛れてかすかに震えていた。
 二人の間に、しばらく沈黙が落ちた。

 やがて波が押し寄せ、イルカの輪郭がほどけていく。
 砂の上には、もう何も残らない。
 それでもアオバは微笑んで言った。

 「消えちゃったね」

 そして軽く手を払って立ち上がる。

 「次は、形に残るものに描こうね」

 「そうだな」

 ミトは立ち上がり、波にさらわれた跡を見つめながら呟いた。

 「……私もだ」

 「え?」

 「私の絵の先生も、三年前に病気で亡くなった」

 背伸びしていたアオバの手が、静かに下ろされる。

 「一緒だね。どんな人だったの?」

 「私に絵を教えてくれたのは父さんだった。物静かだけど、感情がよく顔に出る人でね。優しい人だった」

 「そっか。ミトはいつから教わってたの?」

 「いつからだろう……物心ついたときにはもう、父さんの後を追いかけてた。父さんは画家だったから。今思うと、鬱陶しいくらいくっついてたな」

 「それじゃあ、僕よりずっと長いね」

 アオバが笑った。

 「ミトのお父さん、きっと優しい人だったんだね」

 「……うん」

 返事をしながら、私は視線を落とした。
 足もとの砂が、波に濡れて色を変えていく。

 ほんの少し前まで、父の話をするのは苦しかった。
 もう会えない寂しさに押し潰されそうな日もあった。
 それでも周りに気を遣わせたくなくて、平気なふりをしてきた。
 けれど今は、胸の奥に小さな痛みと一緒に、あたたかさが残っていた。

 アオバが海の方を指さした。

 「ねぇ、ミト。ミトならあの波をどんな色で描きたい?」

 「え?」

 突然の問いに、言葉が詰まる。
 アオバの指先を追って視線を向ける。

 冬の海。
 灰色の空。
 冷たい風。
 けれど波の内側には、太陽に反射した光があった。

 「……白、かな。透明に近い白」

 「うん、分かる」
 アオバが頷いた。

 「消えてるようで、ちゃんとそこにある色」

 その言葉に、胸の奥が小さくふるえた。
 まるでアオバ自身のことのように思えて、目を逸らせなかった。

 しばらく波を眺めたあと、アオバが静かに笑った。

 「ねぇ、また絵を描きたいって思う?」

 「……思うよ。でも」

 「でも?」

 「怖い。描いたら、また悲しませる気がする」

 アオバは少し考えてから、穏やかに言った。

 「悲しませたくないって思うのは、優しさだよ。でもね、描くことで大切な記憶を残せるんだ」

 その言葉の意味は、すぐには分からなかった。
 けれど波の音の奥で、心がかすかに揺れた。
 風が頬を撫で、遠くの空がわずかに白む。

 「……アオバは、絵を描くの、辛くないの?」

 アオバは少し息をついて、海を見つめた。
 波打ち際に残る足跡が、ゆっくりと消えていく。

 「うん、辛いよ。特に先生と一緒に描いた絵は。でも、描かずにいる方がもっと怖いんだ。先生と過ごした時間を、なかったことにしてしまいそうで。好きだった気持ちまで消えちゃいそうで。」

 アオバの声がかすかに震えた。
 彼の指先が砂をすくい上げる。
 光の粒がそれに混じって、風にさらわれていった。

 「……描かないでいたら、本当に先生がいなかったみたいになっていった。だから描いた。悲しくても、描くことで先生のいた時間を残せると思った。」

 その言葉が波に溶けていく。
 私は俯いたまま拳を握りしめた。

 ――描くって、見えないものを見ようとすることだよ。

 父の声が、遠い記憶の底からゆっくりと浮かび上がる。
 胸の奥がじんと熱くなった。

 アオバが軽く笑いながら言った。

 「ミトもさ、何か描きたいものが浮かんだら教えてよ。」

 その言葉は、冬の光よりもやわらかく響いた。
 胸の奥に、ほんの小さな灯がともる。

 「そろそろ帰ろっか。風が強くなってきたし。」

 「うん。」

 私は頷き、もう一度だけ海を見た。
 足もとには、もう何も残っていない。
 けれど、砂の感触だけは確かに掌にあった。

 ――描くのが怖い。
 でも、もう少しだけ見てみたい。

 あの白い波の色を、もう一度筆でなぞってみたくなった。
 その想いを抱えたまま、私はアオバの背中を追って歩き出した。