「は?」
乾いた笑いが、思わずこぼれた。
足を止めたのは、視界に飛び込んできた光景のせいだった。
正確に言えば、冬の海辺に立つ一人の人物に目を奪われたのだ。
今日からしばらく祖父母の家で過ごす予定の、冬休み初日の夜。
眠れず、ただ気まぐれで外へ出ただけだったのに。
彼の姿を確かめようと、近くの黄色い堤防に手を置いた。
まるで太陽の光を溜め込んだように鮮やかな色をしているが、
真冬の冷気に晒されたそこはやはり冷たかった。
かじかんだ手では感覚も鈍っていると思ったが、違う。
まだ冷たさを、はっきりと感じる。
視線を彼から外し、私は自分の両手を見下ろした。
「痛いな……」
ごつごつしたコンクリートが手のひらに食い込み、現実を突きつけてくる。
皮膚には凸凹の跡がくっきり残っていた。
堤防から手を離した瞬間、待ち構えていたかのようにひときわ強い風が吹いた。
「寒っ……」
私の意思に反して体がぶるりと震える。
髪が横一面になびき、ボサボサになるほどの強風だった。
正面からならまだしも、横風で視界が遮られるのは鬱陶しい。
首に巻いていたマフラーに顔をうずめ、ため息を吐くと、宙を舞う白い息がくっきりと目に映る。
それが改めて、真冬の寒さを実感させた。
「……最悪だ」
まだ冬は始まったばかりなのにこれだ。
今後、さらに気温が下がると考えると憂鬱でしかない。
夏と違い、服を着込めば寒さが少し和らぐのはまだマシだが、それでも寒いものは寒い。
そんなこともあって、私は彼の行動が信じられなかった。
――だって、砂浜を歩く彼の服装は、明らかに十二月下旬である今の時期にふさわしくないのだから。
「寒くないのか?」
つい訝《いぶか》しげな声が出てしまう。
だが、そんな言い方になったのも仕方がないはずだ。
半袖に半ズボン。
まるで小学生の子ども。
または北の地域から観光に来た外国人のようだが、なぜかその表現がしっくりこない。
彼を見て抱いた既視感。
その答えが、胸の奥から浮かび上がる。
――そうか。
「幽霊だ」
そう呟いた途端、胸に残っていた違和感がすーっと消えた。
全身、真っ白な格好。
寒さなど一切感じていないかのように振る舞う彼の姿。
この世のものとは思えないほどの、異様な美しさを感じた。
遊歩道に立つ街灯のおかげでうっすらと見える海。
その暗すぎて綺麗には見えない海を見ながら、彼は歩いていた。
両手を広げ、時折足に当たる波を蹴り上げながら、楽しげな雰囲気を漂わせ、歩みを進めている。
傍から見れば、嬉しくて仕方がないのだと全身で表現しているようにしか見えない。
私はそんな彼の様子に首をかしげた。
なぜ、そんなに機嫌が良いのか分からないのだ。
夜の海を見るだけで気分が上がることはあるが、こんな真冬なのだから次第に気分は下がっていくものだ。
それなのに彼は、時間が経っても、いつまでもはしゃいだ行動をする。
「……まあ、変なのは私もか」
理解できないのは自分の行動も同じだった。
なぜ、私は体が震えるほど寒い中、赤の他人の行動を観察しているのだろう。
本来の自分なら“ヤバいやつがいる”と思い、こんなことをせずに真っ直ぐ家に帰っているはずなのに。
自分自身の行動に疑問を感じた私は、無意識に唇を噛み締めた。
「……いい加減、帰ろう」
遠目とはいえ、じっと見ているのはさすがに怪しすぎる。
彼からしたら、私は不審人物でしかないだろう。
だから、彼にバレる前にさっさと帰ってしまいたかった。
あいにく私は、見ず知らずの人物に声をかけるようなタイプではない。
きっと親切な人なら、「風邪ひきますよ」とか「早く帰った方がいいですよ」とか、何かしらの言葉をかけに行くだろうが。
私はちらりと彼を確認すると、首を横に振った。
「ないな」
私は厄介ごとに自ら首を突っ込みたくない。
彼と関わったら面倒なことが起きる予感がしてならないし、こういう嫌な予感ほど当たってしまうことが多い。
だから、声をかけないことが正解だという結論に至った。
私は姿勢を正すと、手に付着したコンクリートの破片を払い落とす。
細かい粒がパラパラと地面に落ちていくが、一部は皮膚に食い込んだままだった。
「痛いな……」
また同じことを口にしている自分に気づき、苦笑する。
細かい粒を指で払いのける。
先ほどよりも跡が濃くなった掌は、まだじんわりとした鈍痛を感じていた。
指先まで冷たくなった両手を擦り合わせ、息を吐き出す。
温かさを感じる白い息は、手の中に向かって舞うと、すぐに消えていってしまった。
「やっぱ、ダメか」
やはり、これだけでは一瞬しか温かさを感じない。
すぐに帰るつもりだったから、カイロを持ってこなかった。
たいてい出かける時は携帯しているのに、今日に限って忘れてしまった。
冷えた手に再び息を吹きかけた拍子に、時計の針が目に入った。
午前二時――思わずため息が漏れる。
「もうこんな時間か」
私は両手を握りしめるとアウターのポケットに手を突っ込んだ。
眠れなくて外を出歩いていたが、まさかこんな時間になっているとは思わなかった。
改めて早く家に帰って温まろうと決心して視線を上げると、思わず体が硬直する。
つい止めてしまった呼吸を再開させると、「……嘘だろ」という嫌な声が漏れた。
そして、次に半笑いのような表情を浮かべた。
「……まじか」
正面には、こちらに体を向け、片手を左右に振る彼の姿が見える。
一縷《いちる》の望みをかけて周囲の様子を伺うが、私以外に誰もいなかった。
……ということは、彼が存在をアピールしている相手は、やはり私らしい。
「何なんだ、あいつ……」
赤の他人相手にここまで主張してくるとは。
人見知りな自分からしたら考えられない行動だと、現実逃避的な思考をする。
私は彼の熱意に負けて、片手を振り返した。
すると、彼は嬉しそうに体を弾ませた後、こちらに向かって駆け寄ってきたではないか。
「まあ、……そうなるよな」
私は落胆するように俯いた。
そりゃあ、そうだ。あれだけ片手を振っていたのに、“はい、さよなら”と済むわけがない。
きっと、今の私からは“こっちに来るな”という負のオーラが出ているだろう。
そのオーラに気づいて、相手がこっちに来ないことを願うが、形を持たないその空気に相手が気づくはずもなかった。
吐きたくなるため息を押し殺しながら視線を元に戻すと、彼との距離はだいぶ縮まっていた。
それを見た瞬間、私はわずかに抱いていた期待を完全に捨てた。
“面倒ごとから回避できる”そんな願いは、もう叶えられないと悟ってしまったからだ。
距離が数十メートルまで迫った頃。
彼は両手を上げて、何かをアピールし始めた。
「ん?」
よく見ようと身を乗り出すと、手の甲を指さしているようだった。
「手……?」
試しに、裾で隠れたそれぞれの甲を露わにする。
すると、右手の甲にはいつからあったのかさえ分からない落書きが書かれていた。
もちろん、自分で書いた記憶も誰かに書かれた覚えもない。
「……何だこれ?」
試しに親指で軽く擦るように触れてみるが、消えるどころか薄くなる気配すらない。
それは少し皮膚が赤くなるほど強めに擦ってみても変わらなかった。
これはペンのようなもので書いたというよりは、印刷したかのような状態の方が近いかもしれない。
始めからここに存在したかのように、皮膚に馴染んでいるのだから。
突然、私の手の甲に表れたのは一つの数字だった。
赤く書かれた数字の“7”。
数字の線に絡むように、赤い花弁が血のように滲んでいた
「花数字?」
濃淡があるから、数字に巻き付くように書かれたこの模様が花を表しているのは分かった。
だが、何の花を表しているのかまではさすがに分からなかった。
花に興味を持っているわけではないので、肝心の種類までは特定できなかったのだ。
「こんばんは」
下から聞こえてきた少し高めの声。
その声につられて下を見ると、彼は堤防の際で軽く会釈をした。
「……こんばんは」
戸惑いながらも挨拶を返すと、彼は嬉しそうに笑って首を傾げた。
「これ、見た?」
見せつけるかのように右手をまっすぐ伸ばした彼の甲には、私と同じ“7”という数字が書かれていた。
少し違うのは、彼の花数字は赤色ではなく、黒色で書かれていることだろう。
「何の数字か分かる?」
彼が甲を叩きながら問うてきたので、つられるように自身の手を見る。
“7”。
それを見て、パッと思いつくのは“ラッキー7”と幸運なイメージが強いもの。
でも、そのイメージを想像すると、なぜか胸にもやもやした感情が湧いてくる。
違う。
そうじゃないと訴えかけてくるように……。
そう感じるのはこの色合いのせいだろうか。
「これ、何?」
いくら考えてもどうせ分からないのだ。
だったら、答えを知っている人に聞いた方がいい。
そう思って質問をしたのだが、彼はどうやら別のことが気になってしまったみたいだった。
「これはね、って――あれ?息が白いね」
彼は言葉を止めると、先ほどとは逆方向へと首を傾げた。
「は?」
私はそんな当たり前なことを聞かれるとは思ってもみなかったので、思わず眉をひそめてしまう。
「そりゃあ、寒いですから」
「寒い?」
彼はさらに首を傾げた。
その様子を見て、私は“ああ、やっぱりか”と思った。
この様子では、今がどれくらい気温が低いのか知らないのだろう。
そんな見当はついた。
でも、確信的な答えが欲しくて、私は分かりきったことを質問していたのだ。
「今は冬ですよ。あなたは、寒くないんですか?」
つい訝《いぶか》しみながら問うてしまったが、彼は不快感を露わにすることなく答えた。
「冬……今は何月なの?」
「12月。あと少しで1月ですけど」
「へえ、そっか……今は冬なんだね」
彼は確認するように呟くと、そっと目を閉じて一呼吸した。
まるで冷たい空気で肺をいっぱいにするように、ゆっくりと息を吸ったのだ。
そして、目を開けると、空中に向かってふーっと息を吐き出した。
私はその先を見て、思わず息を呑んだ。
肌を刺すような風が吹き続ける、そんな場所にいても、彼の口からは白い息が吐き出されることはなかったのだ。
――ただ、何も現れなかった。
「んー。やっぱ、ダメか」
彼は残念そうに肩をすくめると、私を見つめ返した。
「僕は、別に寒くないよ。寒さを感じないからね」
「それは……」
別に口にするつもりのなかった。
心の中で押し留めていようと思っていたはずなのに、抱いていた疑問を口にしていた。
「幽霊だから?」
思わず期待に満ちた眼差しを向けてしまったが、彼はその視線に気づかなかったようだ。
彼は不思議そうに目を瞬かせると、驚いた声を上げた。
「僕が?」
自身を指さした彼に首を振って肯定すると、彼はおかしそうに笑った。
「そっか。僕は幽霊に見えるのか」
そう言った彼は、後ろで手を組むと少し寂しそうに微笑んだ。
その表情を見て、私は今さらながら失礼なことを言ってしまったと後悔した。
「いや、違います!この気温でそんな格好だから……えっと、その……すみません」
我ながら見苦しい言い訳だ。
これでは余計に肯定しているだけではないか。
私がかける言葉を探していると、彼のくすくすと笑う声が耳に届いた。
「別に傷ついたわけじゃないから、そこまで気にしなくていいよ。僕もこんな暗い中、一人で歩いてたら幽霊だと思うもの」
彼はじっと私の目を見ると、目を細めた。
「ねえ、君の名前は?」
「名前……」
「そう。教えて欲しいな」
彼の手に力が込められた気がした。
まるで懇願するような視線を受けた私は、自然と名乗っていた。
‘ミト’と。
さすがにフルネームは言いたくないので、名前だけだが。
「ミト。綺麗な名前だね」
「……ありがとう」
彼が口を開こうとすると、二人の間を通り抜けるように冷たい風が吹き抜けた。
私の体がぶるりと震えるのを見て、彼は途端に申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ごめん。寒いよね。風邪ひいちゃう」
この短い時間の間でも、ころころと変わる彼の表情。
それを見て、私は羨ましいと思った。
これだけ感情が豊かなら、この世界ももっと綺麗に見えるだろう。
私は2年前、父が亡くなってから世界の色が鮮やかに見えなくなってしまった。
「ミト」
「ん?」
「明日、時間ある?」
「うん」
「なら、明日、ここで会おう。その時に僕が知っていることを話すよ」
彼は花数字を指さす。
その指先がわずかに震えているのに気づいた。
私も自然と胸がざわつき、少し迷いながらも小さくうなずいて了承した。
「10時にここで集合でいい?」
「うん」
「じゃ、またね!」
「うん。また」
彼は私の返事を聞くと、すぐに身を翻して歩き出した。
遠ざかる背中を見つめるうち、胸の奥にぽっかりと穴があいたような寂しさが広がっていく。
思っていたよりも、あまりにあっけない別れだった。
しばらくその場に立ち尽くし、冷たい空気を吸い込みながら、その背中を焼き留めた。
そうしているうちに、ふと気づく。
――名前を、聞きそびれた。
今さら気づいたところで、もう遅い。
明日になればまた会える――そう自分に言い聞かせる。
それでも、名前すら知らない彼の存在は、夜の冷気のように胸の奥から離れなかった。
乾いた笑いが、思わずこぼれた。
足を止めたのは、視界に飛び込んできた光景のせいだった。
正確に言えば、冬の海辺に立つ一人の人物に目を奪われたのだ。
今日からしばらく祖父母の家で過ごす予定の、冬休み初日の夜。
眠れず、ただ気まぐれで外へ出ただけだったのに。
彼の姿を確かめようと、近くの黄色い堤防に手を置いた。
まるで太陽の光を溜め込んだように鮮やかな色をしているが、
真冬の冷気に晒されたそこはやはり冷たかった。
かじかんだ手では感覚も鈍っていると思ったが、違う。
まだ冷たさを、はっきりと感じる。
視線を彼から外し、私は自分の両手を見下ろした。
「痛いな……」
ごつごつしたコンクリートが手のひらに食い込み、現実を突きつけてくる。
皮膚には凸凹の跡がくっきり残っていた。
堤防から手を離した瞬間、待ち構えていたかのようにひときわ強い風が吹いた。
「寒っ……」
私の意思に反して体がぶるりと震える。
髪が横一面になびき、ボサボサになるほどの強風だった。
正面からならまだしも、横風で視界が遮られるのは鬱陶しい。
首に巻いていたマフラーに顔をうずめ、ため息を吐くと、宙を舞う白い息がくっきりと目に映る。
それが改めて、真冬の寒さを実感させた。
「……最悪だ」
まだ冬は始まったばかりなのにこれだ。
今後、さらに気温が下がると考えると憂鬱でしかない。
夏と違い、服を着込めば寒さが少し和らぐのはまだマシだが、それでも寒いものは寒い。
そんなこともあって、私は彼の行動が信じられなかった。
――だって、砂浜を歩く彼の服装は、明らかに十二月下旬である今の時期にふさわしくないのだから。
「寒くないのか?」
つい訝《いぶか》しげな声が出てしまう。
だが、そんな言い方になったのも仕方がないはずだ。
半袖に半ズボン。
まるで小学生の子ども。
または北の地域から観光に来た外国人のようだが、なぜかその表現がしっくりこない。
彼を見て抱いた既視感。
その答えが、胸の奥から浮かび上がる。
――そうか。
「幽霊だ」
そう呟いた途端、胸に残っていた違和感がすーっと消えた。
全身、真っ白な格好。
寒さなど一切感じていないかのように振る舞う彼の姿。
この世のものとは思えないほどの、異様な美しさを感じた。
遊歩道に立つ街灯のおかげでうっすらと見える海。
その暗すぎて綺麗には見えない海を見ながら、彼は歩いていた。
両手を広げ、時折足に当たる波を蹴り上げながら、楽しげな雰囲気を漂わせ、歩みを進めている。
傍から見れば、嬉しくて仕方がないのだと全身で表現しているようにしか見えない。
私はそんな彼の様子に首をかしげた。
なぜ、そんなに機嫌が良いのか分からないのだ。
夜の海を見るだけで気分が上がることはあるが、こんな真冬なのだから次第に気分は下がっていくものだ。
それなのに彼は、時間が経っても、いつまでもはしゃいだ行動をする。
「……まあ、変なのは私もか」
理解できないのは自分の行動も同じだった。
なぜ、私は体が震えるほど寒い中、赤の他人の行動を観察しているのだろう。
本来の自分なら“ヤバいやつがいる”と思い、こんなことをせずに真っ直ぐ家に帰っているはずなのに。
自分自身の行動に疑問を感じた私は、無意識に唇を噛み締めた。
「……いい加減、帰ろう」
遠目とはいえ、じっと見ているのはさすがに怪しすぎる。
彼からしたら、私は不審人物でしかないだろう。
だから、彼にバレる前にさっさと帰ってしまいたかった。
あいにく私は、見ず知らずの人物に声をかけるようなタイプではない。
きっと親切な人なら、「風邪ひきますよ」とか「早く帰った方がいいですよ」とか、何かしらの言葉をかけに行くだろうが。
私はちらりと彼を確認すると、首を横に振った。
「ないな」
私は厄介ごとに自ら首を突っ込みたくない。
彼と関わったら面倒なことが起きる予感がしてならないし、こういう嫌な予感ほど当たってしまうことが多い。
だから、声をかけないことが正解だという結論に至った。
私は姿勢を正すと、手に付着したコンクリートの破片を払い落とす。
細かい粒がパラパラと地面に落ちていくが、一部は皮膚に食い込んだままだった。
「痛いな……」
また同じことを口にしている自分に気づき、苦笑する。
細かい粒を指で払いのける。
先ほどよりも跡が濃くなった掌は、まだじんわりとした鈍痛を感じていた。
指先まで冷たくなった両手を擦り合わせ、息を吐き出す。
温かさを感じる白い息は、手の中に向かって舞うと、すぐに消えていってしまった。
「やっぱ、ダメか」
やはり、これだけでは一瞬しか温かさを感じない。
すぐに帰るつもりだったから、カイロを持ってこなかった。
たいてい出かける時は携帯しているのに、今日に限って忘れてしまった。
冷えた手に再び息を吹きかけた拍子に、時計の針が目に入った。
午前二時――思わずため息が漏れる。
「もうこんな時間か」
私は両手を握りしめるとアウターのポケットに手を突っ込んだ。
眠れなくて外を出歩いていたが、まさかこんな時間になっているとは思わなかった。
改めて早く家に帰って温まろうと決心して視線を上げると、思わず体が硬直する。
つい止めてしまった呼吸を再開させると、「……嘘だろ」という嫌な声が漏れた。
そして、次に半笑いのような表情を浮かべた。
「……まじか」
正面には、こちらに体を向け、片手を左右に振る彼の姿が見える。
一縷《いちる》の望みをかけて周囲の様子を伺うが、私以外に誰もいなかった。
……ということは、彼が存在をアピールしている相手は、やはり私らしい。
「何なんだ、あいつ……」
赤の他人相手にここまで主張してくるとは。
人見知りな自分からしたら考えられない行動だと、現実逃避的な思考をする。
私は彼の熱意に負けて、片手を振り返した。
すると、彼は嬉しそうに体を弾ませた後、こちらに向かって駆け寄ってきたではないか。
「まあ、……そうなるよな」
私は落胆するように俯いた。
そりゃあ、そうだ。あれだけ片手を振っていたのに、“はい、さよなら”と済むわけがない。
きっと、今の私からは“こっちに来るな”という負のオーラが出ているだろう。
そのオーラに気づいて、相手がこっちに来ないことを願うが、形を持たないその空気に相手が気づくはずもなかった。
吐きたくなるため息を押し殺しながら視線を元に戻すと、彼との距離はだいぶ縮まっていた。
それを見た瞬間、私はわずかに抱いていた期待を完全に捨てた。
“面倒ごとから回避できる”そんな願いは、もう叶えられないと悟ってしまったからだ。
距離が数十メートルまで迫った頃。
彼は両手を上げて、何かをアピールし始めた。
「ん?」
よく見ようと身を乗り出すと、手の甲を指さしているようだった。
「手……?」
試しに、裾で隠れたそれぞれの甲を露わにする。
すると、右手の甲にはいつからあったのかさえ分からない落書きが書かれていた。
もちろん、自分で書いた記憶も誰かに書かれた覚えもない。
「……何だこれ?」
試しに親指で軽く擦るように触れてみるが、消えるどころか薄くなる気配すらない。
それは少し皮膚が赤くなるほど強めに擦ってみても変わらなかった。
これはペンのようなもので書いたというよりは、印刷したかのような状態の方が近いかもしれない。
始めからここに存在したかのように、皮膚に馴染んでいるのだから。
突然、私の手の甲に表れたのは一つの数字だった。
赤く書かれた数字の“7”。
数字の線に絡むように、赤い花弁が血のように滲んでいた
「花数字?」
濃淡があるから、数字に巻き付くように書かれたこの模様が花を表しているのは分かった。
だが、何の花を表しているのかまではさすがに分からなかった。
花に興味を持っているわけではないので、肝心の種類までは特定できなかったのだ。
「こんばんは」
下から聞こえてきた少し高めの声。
その声につられて下を見ると、彼は堤防の際で軽く会釈をした。
「……こんばんは」
戸惑いながらも挨拶を返すと、彼は嬉しそうに笑って首を傾げた。
「これ、見た?」
見せつけるかのように右手をまっすぐ伸ばした彼の甲には、私と同じ“7”という数字が書かれていた。
少し違うのは、彼の花数字は赤色ではなく、黒色で書かれていることだろう。
「何の数字か分かる?」
彼が甲を叩きながら問うてきたので、つられるように自身の手を見る。
“7”。
それを見て、パッと思いつくのは“ラッキー7”と幸運なイメージが強いもの。
でも、そのイメージを想像すると、なぜか胸にもやもやした感情が湧いてくる。
違う。
そうじゃないと訴えかけてくるように……。
そう感じるのはこの色合いのせいだろうか。
「これ、何?」
いくら考えてもどうせ分からないのだ。
だったら、答えを知っている人に聞いた方がいい。
そう思って質問をしたのだが、彼はどうやら別のことが気になってしまったみたいだった。
「これはね、って――あれ?息が白いね」
彼は言葉を止めると、先ほどとは逆方向へと首を傾げた。
「は?」
私はそんな当たり前なことを聞かれるとは思ってもみなかったので、思わず眉をひそめてしまう。
「そりゃあ、寒いですから」
「寒い?」
彼はさらに首を傾げた。
その様子を見て、私は“ああ、やっぱりか”と思った。
この様子では、今がどれくらい気温が低いのか知らないのだろう。
そんな見当はついた。
でも、確信的な答えが欲しくて、私は分かりきったことを質問していたのだ。
「今は冬ですよ。あなたは、寒くないんですか?」
つい訝《いぶか》しみながら問うてしまったが、彼は不快感を露わにすることなく答えた。
「冬……今は何月なの?」
「12月。あと少しで1月ですけど」
「へえ、そっか……今は冬なんだね」
彼は確認するように呟くと、そっと目を閉じて一呼吸した。
まるで冷たい空気で肺をいっぱいにするように、ゆっくりと息を吸ったのだ。
そして、目を開けると、空中に向かってふーっと息を吐き出した。
私はその先を見て、思わず息を呑んだ。
肌を刺すような風が吹き続ける、そんな場所にいても、彼の口からは白い息が吐き出されることはなかったのだ。
――ただ、何も現れなかった。
「んー。やっぱ、ダメか」
彼は残念そうに肩をすくめると、私を見つめ返した。
「僕は、別に寒くないよ。寒さを感じないからね」
「それは……」
別に口にするつもりのなかった。
心の中で押し留めていようと思っていたはずなのに、抱いていた疑問を口にしていた。
「幽霊だから?」
思わず期待に満ちた眼差しを向けてしまったが、彼はその視線に気づかなかったようだ。
彼は不思議そうに目を瞬かせると、驚いた声を上げた。
「僕が?」
自身を指さした彼に首を振って肯定すると、彼はおかしそうに笑った。
「そっか。僕は幽霊に見えるのか」
そう言った彼は、後ろで手を組むと少し寂しそうに微笑んだ。
その表情を見て、私は今さらながら失礼なことを言ってしまったと後悔した。
「いや、違います!この気温でそんな格好だから……えっと、その……すみません」
我ながら見苦しい言い訳だ。
これでは余計に肯定しているだけではないか。
私がかける言葉を探していると、彼のくすくすと笑う声が耳に届いた。
「別に傷ついたわけじゃないから、そこまで気にしなくていいよ。僕もこんな暗い中、一人で歩いてたら幽霊だと思うもの」
彼はじっと私の目を見ると、目を細めた。
「ねえ、君の名前は?」
「名前……」
「そう。教えて欲しいな」
彼の手に力が込められた気がした。
まるで懇願するような視線を受けた私は、自然と名乗っていた。
‘ミト’と。
さすがにフルネームは言いたくないので、名前だけだが。
「ミト。綺麗な名前だね」
「……ありがとう」
彼が口を開こうとすると、二人の間を通り抜けるように冷たい風が吹き抜けた。
私の体がぶるりと震えるのを見て、彼は途端に申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ごめん。寒いよね。風邪ひいちゃう」
この短い時間の間でも、ころころと変わる彼の表情。
それを見て、私は羨ましいと思った。
これだけ感情が豊かなら、この世界ももっと綺麗に見えるだろう。
私は2年前、父が亡くなってから世界の色が鮮やかに見えなくなってしまった。
「ミト」
「ん?」
「明日、時間ある?」
「うん」
「なら、明日、ここで会おう。その時に僕が知っていることを話すよ」
彼は花数字を指さす。
その指先がわずかに震えているのに気づいた。
私も自然と胸がざわつき、少し迷いながらも小さくうなずいて了承した。
「10時にここで集合でいい?」
「うん」
「じゃ、またね!」
「うん。また」
彼は私の返事を聞くと、すぐに身を翻して歩き出した。
遠ざかる背中を見つめるうち、胸の奥にぽっかりと穴があいたような寂しさが広がっていく。
思っていたよりも、あまりにあっけない別れだった。
しばらくその場に立ち尽くし、冷たい空気を吸い込みながら、その背中を焼き留めた。
そうしているうちに、ふと気づく。
――名前を、聞きそびれた。
今さら気づいたところで、もう遅い。
明日になればまた会える――そう自分に言い聞かせる。
それでも、名前すら知らない彼の存在は、夜の冷気のように胸の奥から離れなかった。
