コンコン――と扉を叩く音が静寂を破った。
「……!」
 驚きと共に咄嗟にベッドへ飛び込み、布団を頭まで被る。心臓がどくどくと高鳴る音が、耳に直接響いているようだった。
「レオ様。失礼します」 
 ミリーが戻ってきたのかと思ったが、入ってきたのは初めて見るメイド二人だった。
 一人は赤みを帯びた茶色の髪を背中で一つにまとめ、端正な顔立ちに柔和な表情を浮かべた女性。
 もう一人は黒髪を肩で揃えた凛とした雰囲気を持つ女性で、その瞳には緊張と焦りが見て取れた。
「目を覚まされたとミリー様から聞きまして……」
「だれ?」
 その言葉に、二人のメイドは凍りついたようだった。
「レオ様?!」
 二人のメイドは驚愕した表情を浮かべると、慌ててベッドの横まで走り寄った。
「私ですよ!シェラでございます」
「私はアリーですよ」
 二人とも目に涙を浮かべながら、まるでこの世の終わりのような表情で訴えかけてくる。
 だがそんな風に見つめられてもどうすることもできない。
 困惑していると、再び扉がノックされる音が響いた。
 扉が開くとミリーが入ってきた。
「セイン先生!早くこちらですっ」
 その表情は焦りでいっぱいで、彼女の後ろには黒い鞄を下げた男の姿が続く。
「ミリーさん、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ」
 優しげな声色を持つ男がゆっくりと歩み寄ってくる。
 アッシュグレイの髪を紺色の紐で束ね、黒縁の眼鏡の奥からはセピア色の瞳がこちらを覗き込んでいた。
 どことなく落ち着きのある雰囲気をまとい、見覚えのない人物であるはずなのに、不思議と嫌な感じはしない。
「レオ様、お加減はいかがですか?」
  布団からそっと顔を出しながら、その顔をじっと見つめた。
(……この男、ゲームにいたっけ?えっと、たしか名前はセイン。ミリーが先生と言っていたからおそらく医者だろう。だけど、こんなキャラクターは記憶にないんだよな)
「レオ様?」
 返事をせずに黙っていると、セインの声が再び響いた。
 慌てて何か答えようとしたその瞬間、ミリーの大きな声がそれを遮った。
「ああっ!やっぱり頭をお打ちになったからっ!セイン先生、しっかりと診てください。お願いします!」
「ミリーさん、落ち着いてください」
 ミリーの剣幕に少し怯えながらも、セインは冷静だった。
 彼の落ち着いた態度が、かえってミリーの焦燥感を際立たせているように見える。
「先生!レオ様は先ほど私を『誰?』とおっしゃったのですよ」
「それは……」
 ミリーの言葉に、セインは一瞬眉をひそめた後、再び私を見つめる。
「レオ様、私のことはわかりますか?」
「セイン、さん……」
 とっさにそう答えた瞬間、彼の表情が驚きに変わった。
「レオ様、いつもは私のことを『セイン』と呼ばれているではないですか」
 しまった――。瞬間的にそう思ったが、時すでに遅し。
 セインの目は鋭くなり、優しい声にわずかな鋭さが宿る。
「レオ様、もう一度聞きます。私のことは覚えていらっしゃいますか?」
 これ以上誤魔化せるわけがないと悟り、レオはゆっくりと首を横に振った。
 その動きに、部屋の空気がさらに重くなるのを感じる。
「レオ様、少し失礼しますね」
 セインは布団をそっとめくり、私の額にかかった髪を丁寧に掻き上げた。
 指先は冷たく、それが妙に現実感を伴わせる。
 そして額を慎重に確認し、次いで頭部全体を触診し始めた。
「やっぱり、前回診た時と同じです。額を軽く打った程度ですね」
 セインの診断に、ミリーが声を張り上げた。
「そんな、私や先生のことを忘れているのですよ!もっとしっかりと診てください!」
「確かにそうなのですが、そこまで酷いケガではないのです。あと考えられるのは木から落ちたというショックで記憶が混乱しているのかもしれません」
「ですが、何かあったらどうされるのですか!レオ様は公爵家唯一の跡取りなのですよ!」
(え?)
 彼女の言葉に思考が止まった。
 ―――公爵家唯一の跡取り。
 その単語が頭の中で木霊する。
 自分が置かれた状況がますますわからなくなる。
 レオの混乱をよそに、彼らの会話は続く。
「セイン先生!もしものことがあれば公爵家は……!」
「わかっております。ですが、何度診ても診断は変わりません。あとは暫くは様子を見るしか」
「そんなっ!」
「公爵様には私の方からも伝えておきますから」
「……わかりました。セイン先生」
 二人の会話を聞きながら、頭の中は疑問符でいっぱいになっていた。
(公爵家唯一の跡取り?それって、オレのこと?……いや、待って。レオフィアはどうした?……まだ生まれてないってことなのか??)
 冷静でいようとしても、その事実が頭をぐるぐると駆け巡る。
 こんな設定、ゲームの中ではなかったはずだ。
 ふと、問いただしたい衝動に駆られた――今ここで「レオフィア」という名前を出してしまえば、彼らの反応で状況がさらに明らかになるかもしれない。
 でも、同時にその行為が危険であることも理解していた。
(もし彼女がまだ存在しないなら、変なことを言って話の筋がズレたら……いや、それだけは絶対に避けないと)
 内心で自分にそう言い聞かせ、なんとか感情を押し込める。焦って行動するのは、悪手だ。ここは冷静にならなくては。
 ちらりと視線を向けると、セインは慎重に言葉を選びながらミリーと話を続けていた。
(このセインって人、一体どこから現れたキャラなんだ?もしかして、オレの知らない追加要素……?いや、今はそんなことを考えている場合じゃない)
 セインが一礼し、部屋を出ていくのを見送ったがミリーたちはレオを心配して出て行く気配がなかったが、なんとか「休みたい」と告げることで部屋を出てもらうことに成功した。
 一人になった瞬間、レオ――いや、元の世界では男子高校生だった自分はベッドに座り込み、大きく息を吐き出した。
「公爵家の跡取りで、レオノール・サヴィア……なんでこんなことに?」
 そもそも、悪役令嬢であるレオフィア・サヴィアの兄という設定があったのか?ゲーム内ではそんな存在、一度も触れられていなかったはずだ。
 こういうのが裏設定とかいうヤツなのだろうか。
「……考えたって仕方ないか」
 額を押さえながら、ゲームの内容を必死に思い出す。
 『シェインレーラの乙女』は、いわゆる王道の乙女ゲームだった。
  主人公は平民だったが聖女の力に目覚め、貴族の学園に編入し、複数の美男子キャラと出会い、絆を深め、最後は選んだキャラとの『愛』で完全に聖女の力に目覚め、国を守っていくというストーリーだ。
 もちろん、ヒロインには幾度も困難が訪れる。
 その大半が悪役令嬢レオフィア・サヴィアの仕業だった。
 ただ、このゲームにはレオノールというキャラはでていない。
 そう考えると、レオノールというキャラがゲームにいないのならば、ゲームのシナリオに大きな影響はないのでは――とも思える。
「いや、待てよ……。もしレオノールが跡取りってことなら、何か違う物語が動いてる可能性がある?」
 考えを巡らせるが、答えは出ない。
 現状を理解するには、まずサヴィア家と自分――いや、この世界での「自分」がどういう立場にいるのかを整理しなければならない。
 自分の置かれた立場と状況――それを確認するのが最優先事項だ。
 布団を頭からかぶり直し、じっと目を閉じた。
 転生してしまったこのゲームの世界で、自分は一体どう立ち回るべきなのか――これから先の波乱を予感しながら、静けさの中へと身を沈めた。