一方、その頃。
「奴らはまだこの辺りにいるはずだ」
 カッシュ・グラードは焦燥の色を隠しながら、警備隊と共に街の捜索を続けていた。
「貴族の子息令嬢を狙った誘拐事件が連続して起こっている。次のターゲットが出る前に」
 そう考えていた矢先、偶然にもレオフィアと遭遇したのだった。
(まさか、こんな時に彼女と出くわすとは……)
 しかし、レオフィアとはそこで別れた。今ごろはラフィーナを送った後、自宅に戻っているはずだ。
(……まあ、彼女のことだ。何かまた余計なことに首を突っ込んでなければいいが……)
 そんなことを考えながら通りを進んでいると、目の前を小さな影が駆け抜けた。
 小柄な少年。
 ボロボロの服を着た彼は、焦った様子で足早にどこかへ向かっている。
(……あの子、どこかで……)
 見覚えがあった。さっき、路地で見かけた少年だ。
 その時、少年がバランスを崩し、何かを地面に落とした。
 カラン……。
 金属が硬い石畳に当たる澄んだ音。
(……金貨?)
 カッシュは即座にそれを目に捉えた。
 少年は慌てて金貨を拾おうとする。しかし、その手よりも早く、カッシュが金貨を踏みとどめた。
「待て」
 少年の顔が青ざめる。
「……なんで、こんなものを持っている?」
「っ……」
 少年は答えず、顔を背ける。
 カッシュは金貨を拾い上げ、それをじっくりと見た。
(……この刻印、王都の商人ギルドのものか)
 この金貨がここまでボロボロの子供に渡るはずがない。
 しかも、少年の怯えた態度……何かがおかしい。
「すまないが、この金貨をどこで手に入れた?」
「……わかんない……」
 少年は小さな声で答えるが、その態度は明らかに不自然だった。
「どこで手に入れた?」
 カッシュは低い声で言った。
「君が持っているのは金貨だ。おいそれと落ちているものじゃない。誰かから渡されたんだろう?」
「……っ!」
 少年は肩を震わせ、唇を噛み締める。
「私は王都の警備隊だ。君を傷つけるつもりもない」
「……」
「だけど、君が何かを隠しているなら、それは別だ」
 カッシュの鋭い視線が少年を貫く。
「教えてくれ。何があった?」
「……っ……」
 少年は震えながら、ぎゅっと拳を握りしめる。
 そして次の瞬間、堰を切ったように泣き出しだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」
 ぽろぽろと涙をこぼしながら、しゃくりあげるように謝り始めた。
「脅されて……断れなくて……っ、こわくて……」
 小さな肩を震わせながら、少年は何度も「ごめんなさい」と繰り返す。
「……僕のせいで……お姉ちゃんたちが……!」
 その言葉に、カッシュの目が険しく細められる。
(……誰か、また連れ去られたのか……?)
「おい、どういうことだ?」
 少年はぐしゃぐしゃの顔で首を横に振る。
「……あの路地の奥……倉庫の中に……」
 カッシュの表情が一瞬で変わる。
「よし、行くぞ!」
 すぐさま警備隊に指示を出し、指定された場所へと駆け出した。
(……頼む、間に合え!)

◆      ◆      ◆

 倉庫の中は薄暗く、埃っぽい空気が漂っていた。
「おい、大人しくしてりゃ、痛い目見ねぇですむんだぜ?」
 男たちはレオノールたちを古びた椅子に座らせ、さらにロープをきつく縛る。
「痛っ……」
 ロープが食い込み、ラフィーナが小さく声を漏らした。
 怯えた表情を隠せず、レオノールをちらりと見つめる。
 その顔を見て、レオノールは静かに息を吐いた。
「大丈夫?」
 優しく声をかけると、ラフィーナは不安そうに小さく頷く。
 レオノールはできるだけ穏やかな笑みを浮かべ、そっと囁いた。
「何があっても、貴方だけは逃がすから」
 ラフィーナの手がぎゅっと握られるのがわかった。
(カッシュのヤツ、こいつらのこと調べてたんじゃないか? だったら一言、教えておいてくれればよかったのに……!)
 レオノールは内心で毒づきながら、ふと冷静になる。
(……まあ、きっとアイツなら、ここを突き止めてくれるはず)
 そう考えると、不思議と少しだけ心が落ち着いた。
「お静かにしてもらおうかねえ、お嬢様方。もうすぐ取引相手が来るんでな」
(取引相手……?)
 レオノールはその言葉に僅かに眉をひそめた。
「おい、そろそろ時間だぞ……」
「チッ、取引相手が来るまでに余計な手間は増やしたくねぇんだがな」
「下手なことして機嫌損ねたら、こっちがどうなるかわかんねぇんだぞ」
「……ったく、こんなガキどもを渡すだけで、俺たちが危ねぇ目に合うのは割に合わねえ」
(……こいつら、ただの金目当てじゃない。『取引相手』が誰か分からないけど、あまり関わりたくない連中みたいね)
 レオノールは男たちの会話を聞きながら、冷静に観察する。
 誘拐目的なら身代金か。それとも―――。
「……さて、どうしたものかしら」
 レオノールは冷静に思考を巡らせながら、密かに指を動かし、ロープの結び目を探る。
 今はまだ抵抗するべき時ではない。
 しかし、何かが起こる前に、準備はしておかなくてはならない。
(少しでも時間を稼がないと……)
 そう考えていた矢先、大きな音が外から聞こえた。
「おい、なんだ!? 何の騒ぎだ!」
 さらに外が慌ただしくなる。
 荒々しい声に怒号、何かが壊れる音、激しくてぶつかり合う金属音が聞こえてきた。
「……来たわね」
 レオノールは小さく笑みを浮かべた。
 次の瞬間、倉庫の扉が勢いよく開かれた。
 そこに立っていたのは、剣を構えたカッシュ・グラードと警備隊の姿だった。
「……はぁ、まったく……やはりこうなったか」
 カッシュはレオノールとラフィーナの姿を一瞥し、男たちへ鋭い視線を向ける。
「貴族誘拐なんて、随分と大胆な真似をしてくれるじゃないか」
「チッ……! くそ、もう見つかったか!」
「抵抗すれば、容赦はしない!」
 カッシュが冷たく言い放つと、男たちは一斉に武器を抜いた。
 だが、警備隊の数を見た途端、男たちの表情がみるみる青ざめていく。
「……冗談じゃねえ! 撤退だ、逃げろ!」
 誘拐犯たちは混乱しながら出口へと駆け出す。
「逃がすな!」
 カッシュの号令が響き、警備隊が一斉に動き出した。
 倉庫の中は一瞬にして戦場と化した。
 カッシュの号令とともに、警備隊は誘拐犯たちを取り囲み、次々に制圧していく。
「チッ……! こんなはずじゃ……!」
 リーダー格の男が舌打ちしながら、倉庫の奥へと逃げようとする。
「おっと、逃がさないわよ」
 レオノールは素早く足を踏み出し、椅子ごと後ろへ倒れ込んだ。
 ゴトンッと大きな音を立てながら、床に転がる。
「お、おい、何やってんだ!」
 見張りの男が慌てて近寄ろうとした。
「はぁっ!!」
 レオノールは脚を振り上げ、そのまま男の膝裏に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「ぐあっ!?」
 バランスを崩して倒れ込む男。
「よしっ……!」
 レオノールは背後に隠し持っていた髪飾りの装飾部分を指に絡め、ロープの結び目を切り裂く。
 そして起き上がると、ラフィーナに駆け寄った。
「ラフィーナ、大丈夫?」
 ラフィーナを縛っていたロープを髪飾りで切る。
「……え、ええ!」
 ラフィーナは驚いた表情を浮かべながらも、頷いた。
「立てる? 急いで」
「は、はい!」
 二人は身をかがめながら、倉庫の出口へと向かった。
「待てっ!逃がすかっ!」
 男が短剣を抜き、飛びかかる。
 咄嗟にレオノールはラフィーナの前に出て庇った。
 その瞬間、閃光のように剣が振り抜かれた。
 男の動きがピタッと止まる。
 カッシュの剣が男の首元へと突きつけられていた。
「動くな」
 その冷え冷えとした声に、男は凍りついた。
「カッシュ!」
「……無事か?」
 カッシュは剣を構えたまま、レオノールを鋭い目で見やる。
「当然よ。この程度でやられる私じゃないわ」
 レオノールは軽く肩をすくめてみせた。
「強がるのは後にしろ。ラフィーナを連れて、早く出ろ」
「……分かったわ」
 レオノールはラフィーナの手を引き、出口へと向かう。
 しかし、リーダー格の男がそれを見逃すはずがなかった。
「クソッ、こうなったら……!」
 男は短剣を構えるとレオノールに向かって切りかかった。
「危ない!」
 カッシュが咄嗟に動いた。
 カッシュの剣が稲妻のように閃く。鋭い刃が男の短剣の側面を叩き、金属音を響かせながら弾き飛ばした。
「ぐっ……!」
 男がバランスを崩す。
「……ナイス、カッシュ!」
 レオノールは素早く男の足を払う。
「がはっ……!」
 床に叩きつけられる男を見下ろし、レオノールは微笑んだ。
「ごめんあそばせ」
 男の腹を思いっきり踏み込んだ。
「ぐおっ!!」
 男は呻き声を上げると動きを止めた。
「……思ったより、やるじゃないか」
 カッシュが少し驚いたように言う。
「決まってるでしょ、これが淑女の嗜みってやつよ」
 レオノールは自慢げに笑う。
「淑女、ね」
 カッシュも釣られて笑った。
「さて……」
 カッシュは倒れた誘拐犯を見下ろしながら、ふと呟く。
「……妙だな」
「貴族の子供を狙うにしては、動きが雑すぎる。それに、取引相手ってやつ……普通の犯罪組織のやり口じゃない」
 レオノールがカッシュの方を見た。
「つまり?」
「……まだ全容は分からないが、こいつらは単なる実行犯に過ぎない。裏にいる奴らが、もっと面倒な連中だとしたら……」
 カッシュはそう言うと、すぐに警備隊に指示を出した。
「捕らえた奴らをしっかり尋問しろ。『取引相手』が誰なのか、吐かせるんだ」
 カッシュの周りが慌ただしくなる。
「行くわよ、ラフィーナ。お仕事の邪魔をしちゃいけないわ」
「は、はい!」
 二人は倉庫の外へと歩き出した。

◆      ◆      ◆

 警備隊が誘拐犯をすべて制圧し、倉庫の騒動は終息を迎えた。
 レオノールとラフィーナは無事に保護され、カッシュが彼女たちを見送る。
「まったく……どこへ行っても厄介事に巻き込まれるな」
「そんなつもりはないわ」
 レオノールは肩をすくめる。
「とにかく、二人とも無事でよかった」
 カッシュは大きく息を吐き、剣を収める。
 ラフィーナはほっとしたように微笑んだ。
「カッシュ様……本当に、ありがとうございました」
「礼を言うのは私じゃなく、レオフィアだ」
 カッシュはレオノールの方を見る。
「まあ、確かに。私が頑張ったものね」
 レオノールは誇らしげに微笑む。
「お前な……」
 カッシュは呆れながらも、どこか安心したように表情を緩めた。
「カッシュ、これ以上ここいても邪魔になるから行くわね」
「ああ、次はもう少し大人しくしてくれ、頼むから」
 そう言うカッシュの声には、ほんの少しだけ優しさが滲んでいた。
 レオノールはその言葉に小さく笑う。
「じゃあ、私はこれで。ラフィーナ、気をつけて帰りなさいよ」
「はい、レオフィア様も!」
 ラフィーナは深く頭を下げる。
 そして、レオノールが背を向けて歩き出した瞬間、ラフィーナはふと、その背中をじっと見つめた。
(……すごく、かっこよかった)
 冷静で、強くて、でも優しくて。
 レオフィア様と一緒にいると、不思議と安心できる。
 それに――。
「……レオフィア様」
 小さく呟いたその声は、誰の耳にも届かなかった。
 けれど、ラフィーナの胸の奥には、確かに何かが芽生え始めていた。