翌朝、レオノールは自室の大きなベッドの上でぐったりと伸びていた。
(はぁ……疲れた……)
 昨日の顔合わせと庭園での会話は、精神的にかなりの負担だった。
 ヴァンツァーの視線は鋭いし、妙に話しかけてくるし、ボロを出さないようにするだけで精一杯だった。
 正直、これが今後も続くと思うと気が重い。
(もう少し適当に流せる相手だったらよかったのに……)
 そんなことを考えながら、もう少しベッドの上でぐだぐだしていたかったのだが、コンコンと音が響いた。
「レオノール様、お目覚めでしょうか?」
 控えめにノックされた扉の向こうから、侍女の声が聞こえた。
 レオノールは渋々起き上がり、乱れた髪を整えながら返事をする。
「今起きたよ」
「旦那様が応接室でお待ちです」
 その言葉に、レオノールは思わず眉をひそめた。
(なんでわざわざ朝一で呼び出されるんだ?)
 何か嫌な予感がしながらも、レオノールは支度を整え、応接室へと向かった。
 応接室に入ると、すでにリオンが椅子に座って待っていた。
 いつもの落ち着いた態度で、紅茶を一口飲んでいる。
 レオノールが入ると、彼はゆっくりとカップを置き、静かに口を開いた。
「昨日は、大変だったな……レオノール」
「……はい。正直、疲れました」
 椅子に座りながら適当に流すが、リオンの顔はどこか険しい。
 それが、これから話される内容の嫌な予感を倍増させる。
「本題に入ろう。お前には、来週から妃教育が正式に始まる」
「……は?」
 レオノールは思わず耳を疑った。
「いや、待って。昨日の顔合わせが終わったばかりなのに、もう?」
「当然だろう。第一王子の婚約者なのだから、王族に相応しい教育を受けるのは避けられない」
 リオンの口調は淡々としているが、レオノールにとってはまるで死刑宣告のようだった。
「……いや、でももう基礎は習ってるし、改めてやる必要ないのでは?」
「確かに、お前はすでに貴族教育を受けている。しかし、妃教育は別だ」
「……」
「礼儀作法、宮廷での立ち振る舞い、舞踏会でのエチケット、王妃としての気品……これらを徹底的に叩き込まれることになる」
 妃教育―――つまり、王族としての完璧な振る舞いを身につけるための教育。
 第一王子の妃となるのなら受けなければならない。
(いや、第一王子の婚約者なんだから、受けなければならないのは分かる……でも、だけどさぁ)
「あの、お父様……オレ、男ですよ」
「……分かっている」
 リオンの表情が僅かに曇った。
「分かっているが……婚約者となってしまったからには、逃げられんのだ」
 深くため息をつき、苦々しい表情を浮かべる。
「……お前には、本当に申し訳ないと思っている」
 レオノールは思わず沈黙した。
 リオンはこの状況を強要している立場なのに、ただの公爵としての判断ではなく、一人の父親として申し訳なさを感じているのが伝わる。
 だが、それでどうにかなる話ではない。
「仕方ないとはいえ、無茶ぶりもいいとこですよ……」
 小さく呟くと、リオンはさらに重い表情になった。
 しかし、それだけでは終わらなかった。
「……それと、もう一つ」
 レオノールは嫌な予感がして、じりじりと椅子の背もたれに寄りかかった。
「お前には、公爵家の嫡男としての教育も、本格的に開始する」
「……は?」
 先ほどよりもさらに驚き、レオノールは目を瞬かせた。
 妃教育だけでも嫌なのに、さらに公爵家の嫡男としての教育!?
「ちょっと待って、なんで嫡男の教育まで?」
「お前はサヴィア公爵家の次期当主だからな。当然のことだろう」
 リオンは淡々と説明を続ける。
「むしろ少し遅いくらいなのだ。グラード伯爵家のカッシュは、半年以上前から当主教育を始めている」
 その名前を聞いて、レオノールは思わず顔をしかめた。
 カッシュ・グラード――グラード伯爵家の嫡男で、サヴィア公爵家とも縁のある家の後継ぎだ。
 当主教育の一環として、父親であるグラード伯爵と共に公爵家へと出入りしていた。
(えっ、じゃあ……あいつ、オレより半年も先に始めてるってこと!?)
 レオノールは頭を抱えたくなった。
 妃教育も嫌だが、当主教育も十分に厳しい。
 特に剣術と魔法の訓練は、公爵家の者として当然のように求められるものだ。
 そして、貴族の中でもサヴィア公爵家の戦闘技術は優れていることで有名。
 必然的に、レオノールにもかなりのレベルが求められることになる。
(妃教育がなければ、まだ当主教育の方がマシなんだけどな……!)
「歴史や他国の文化などの教養は、妃教育と重なる部分が多いから、そこは省略してもいい」
「それだけじゃ負担が減るとは言えないんだけど……」
 レオノールは不満げに呟くが、リオンは苦笑しながら肩をすくめた。
「すまない、レオノール……。できることなら、こんなことはさせたくなかった」
 そう言いながらも、リオンは目を伏せることはなかった。
 公爵として、父親として、どちらの立場でも、これは避けられない現実なのだと、彼自身も理解しているから。
 本当に申し訳なさそうな父の姿に、レオノールは再び沈黙する。
(逃げられない……!)
 今後、レオフィアとして淑女の振る舞いを学びながら、公爵家の嫡男として剣と魔法を極める――そんな無茶な生活が待ち受けている。
「……分かったよ」
 レオノールは、もはや覚悟を決めるしかなかった。
 一人二役。
 逃げたくても逃げられないのなら、少しでも負担を減らせるように立ち回るしかない。
(昼は王宮で淑やかにお茶の淹れ方を習い、夜は剣を振るって戦闘訓練……こんなにハードモードだなんて聞いてないんだけど!?)