庭園の小道を歩きながら、ヴァンツァーはちらりとレオノールの横顔を盗み見た。
 彼女は優雅な足取りで歩きながらも、どこか淡々としていて、必要以上に会話をしようとはしない。
(なんだこいつ……婚約者なら、もうちょっと愛想よくするものじゃないのか?)
 妙に落ち着いた態度が気に入らなくて、ヴァンツァーは少し考えた後、口を開いた。
「お前、好きなものはなんだ?」
 ヴァンツァーは何気なく問いかける。
 婚約者なのだから、それくらいは知っておいてもいいだろう。
 しかし、レオノールは少し考える素振りを見せた後、淡々とした声で答えた。
「これといって特にはありませんわ」
「……は?」
 ヴァンツァーは思わず眉をひそめた。
「いや、何かあるだろ? 食べ物とか、遊びとか……そういうの」
「特別に好きなものは思いつきませんわ」
 レオノールはそう言いながら、ふわりと微笑む。
 だが、その笑顔はどこか他人行儀で、親しみのないものだった。
(なんだこいつ……まるで壁と話してるみたいじゃないか)
 ヴァンツァーは、内心で軽く苛立った。
 せっかく話しかけたのに、まるで会話を続ける気がないような態度が気に入らない。
 それなら、と話題を変えてみることにした。
「じゃあ、嫌いなものは?」
「強いて言うなら……無礼な人は苦手ですわ」
 さらりと言われ、ヴァンツァーはむっとする。
「……それは、誰でもそうだろ」
「まあ、そうですわね」
 レオノールは微笑むが、それ以上話を膨らませようとはしない。
(くそ……なんなんだよ、こいつ)
 普通、こういう場では、もっと親しみを込めて話すものじゃないのか?
 婚約者同士なんだから、少しは互いを知ろうとするものじゃないのか?
「……君は、俺のこと、どう思ってるんだ?」
 ぽつりと呟いたヴァンツァーに、レオノールはくすりと微笑んだ。
「そうですわね、私の婚約者ですわ」
「いや、そうじゃなくて!」
 ヴァンツァーは思わず語気を強める。
「婚約者だからってだけじゃなくて、俺のことをどう思ってるかって聞いてるんだ」
 レオノールは、不思議そうに小首を傾げた。
「婚約者以外に何か特別な意味がございますの?」
「……!」
 ヴァンツァーは口を開きかけたが、すぐに言葉を失った。
 なんだ、この妙に大人びた態度は。
 まだ八歳だというのに、まるで何もかも分かっているような顔をしている。
 まるで、大人にからかわれているみたいじゃないか――。
(くそっ……なんでこう、話が弾まないんだ……)
 沈黙が流れる。
 ヴァンツァーは何か言おうとしたが、言葉が出てこない。
 そんな彼の様子など気にした素振りもなく、レオノールは優雅に一礼した。
「殿下、私はそろそろ失礼いたしますわ」
 そう言って踵を返す。
 ヴァンツァーは、彼女の後ろ姿をじっと睨んだ。
 背筋を伸ばし、ゆったりと歩くその姿は、まるで自分よりも年上の貴族のようだった。
「……生意気だ」
 思わず、小さく呟く。
 彼女は振り向かない。
 それがまた、ヴァンツァーの苛立ちを募らせるのだった。



◆      ◆      ◆


 レオノールは優雅に一礼し、くるりと踵を返した。
 そのまま庭園の小道を歩き出し、ヴァンツァーの視線を背中に感じながらも、一度も振り返らない。
 歩調は変えず、あくまで自然に。だが、その手は無意識にぎゅっと握りしめられていた。
(……くそ、やばい……!)
 心の中で焦りの声が響く。
 表向きは余裕のある態度を貫いたが、実際は必死だった。
 ヴァンツァーとの会話は、想像していたよりもはるかに緊張感があり、思った以上に神経をすり減らすものだった。
(あいつ、まだ八歳のくせに、目が鋭すぎる……!)
 王族だからなのか、ヴァンツァーの視線は鋭くて、まるで心の奥まで見透かされるようだった。
 今はなんとかやり過ごしたものの、これがずっと続くとなると、正直きつい。
(なんであんなに質問してくるんだよ!)
 好きなものは? 嫌いなものは?
 そんなの、婚約者同士なら普通の会話なのかもしれないが、レオノールにとっては地雷原も同然だった。
 下手に答えれば、「趣味が合うかもしれない」と勘違いされるかもしれないし、適当に誤魔化せば「もっと知りたい」と思われるかもしれない。
 どちらに転んでも、婚約破棄という目的から遠ざかるだけだ。
(あの場を切り抜けられたのはよかったけど……)
 冷静を装いながらも、レオノールの心臓は速く脈を打っていた。
 歩く足が、つい速くなりそうになるのを抑える。
 急いでいると気づかれれば、ヴァンツァーに「逃げた」と悟られるかもしれない。
 だが―――。
(正直、逃げたい……!!)
 あのまま会話が続いていたら、どこかでボロを出していたかもしれない。
 レオノールは、内心でほっと息をついた。
 このまま早く宮殿の中に戻って、安全圏に逃げ込まなければ。
 その時、背後からふっと声が聞こえた。
「……生意気だ」
 その言葉に、レオノールは思わず背筋を伸ばした。
 まるで静かな風が頬を撫でるような、小さな呟き。
 けれど、その言葉に込められた感情は、明らかに「不快感」だった。
(あー、やっぱりイライラしてる……)
 ある意味では作戦成功ともいえるが、妙な寒気が背中を走る。
 ヴァンツァーは、あの余裕たっぷりの態度からして、そう簡単にカッとなるようなタイプではない。
 なのに、今の呟きは……。
(ちょっと刺激しすぎたか?)
 レオノールは、できるだけ自然に歩調を乱さぬように意識しながら、その場を後にした。
 彼が今後どう出るかは分からないが、一つだけ確実なのは――
(……このままでは、絶対に終わらないな)
 それだけは、背後に残る視線から痛いほどに感じ取れてしまった。