サービス通路の奥、白く脈打つ枠の横で、端末が冷たい光を放っていた。液晶には〈PASSWORD〉。
 真白と蓮は肩を寄せ、思いつく限りを流し込む。英語、数字、記号、逆順、置換、色の頭文字……。

 〈ERROR〉
 〈INVALID〉
 〈TRY AGAIN〉

 乾いたブザーだけが、心拍に重なった。

「お知らせです。閉館まで残り一時間となりました」

 スピーカーの声が通路の金属を震わせる。蓮は端末から手を離し、真白の指を包んだ。「戻ろう」

 二人は白い枠のほうへ歩いた。出口ゲートは静かに呼吸するみたいに明滅し、頭上の表示は同じ文言を繰り返す。

「出口通路の同時通過はできません。お一人ずつお進みください」

 喉が焼けて、言葉になるまで少し時間がかかった。真白は顔を上げる。

「……決めた。二人で、ここにいよう。もう出られなくても、二人なら、怖くない」

 蓮は短くうなずき、真白を抱き寄せた。体温が戻る。彼は照れたように息を笑いに変えて、そして小さく囁く。
「最後に、かっこつけてもいい?」
「え?」
 

唇が触れた。短いのに、熱い。離れる瞬間、舌が糸を引くように寂しげで、音もなく切れる余韻が残った。

「――ごめん」

 次の瞬間、世界が傾いた。蓮の腕が真白の腰をとらえ、白い枠へ一気に押しやる。
 掴み返した指先は、突然立ち上がった透明の壁に弾かれた。

「や……やだ……! やだよ、なんで! なんでなの!」

 真白は壁を両手で叩く。どん、どん、どん。骨へ響く硬さが腕の奥を痺れさせる。
 向こう側でも蓮の拳が同じ場所を叩き、微かな震えが掌に戻ってきた。

「真白!」

 壁越しに、蓮の声が割れた。

「俺は――見える。ここにいる……大好きだ。だから生きてくれ!」

「嫌だ! 嫌だよ! 一緒にいるって、さっき——どうして!」

 言葉が途切れ、喉が擦り切れる。涙で視界がガラスみたいに歪む。

「なんで……一緒にいたかったのに……!」
「俺も一緒にいたい。けど——最後くらい、かっこいいところ見せたい。バカみたいだけど、俺はそうしたい」
「バカ……! バカだよ、蓮くんは!」

 拳で壁を叩く。痛みが走って、掌が熱くなる。

 蓮の声が少しだけ落ち着いて、しかし震えは消えない。

「……真白。呼吸して。俺の声、聞こえる?」

 真白は壁に額をつけ、乱れた息の中でうなずいた。

「……聞こえる」
「じゃあ、閉館まで話そう。最後の一秒まで」
「……やだ。話すことなんて――!」
「なんでもいい。言葉にならなくてもいい。俺は聞いてる」

 しばらく、二人とも泣き声しか出せなかった。
 やがて真白はしゃくりあげながら、ちぎれた語を並べる。

「りんご飴……半分こ、って……言ったのに……」
「うん。ごめん俺のほうが多く食べたな」
「観覧車、……写真……取ればよかったな」
「覚えてる。むしろ、忘れられない」
「卒業したら……編集の仕事、したいって……」
「似合う。絶対に、叶えろ。……同棲も、したかったな」
「したかった……!」

 壁越しに掌を重ねる。板を挟んだ熱が、じわりと滲む。
 息が少しだけ整う。泣き笑いの声で、途切れ途切れの思い出を積む。
 屋台のソースの匂い。お化け屋敷のコウモリ。童歌の三拍子。バンパーカーの鈍い衝撃。
 ひとつ言うたび、胸のどこかに結び目が増えていく。ほどけないように、固結びで。

 機械のチャイムが、静かに鳴った。

「閉館まで、残り十秒です」

 呼吸が跳ねる。壁の内側と外側で、二人の声が重なった。


「蓮くん——」
「真白、聞こえる。ここにいる」


「怖い……ひとりは、怖いよ……」
「怖くていい。泣いてていい。――生きろ」


「すき。すき。すき……」
「俺も。大好きだ」


「俺のこと忘れるなよ……」
「忘れない。約束したじゃん! 蓮くんは最高の彼氏だよ!」


「もうちょっとだけ、手——」
 二人は壁に掌を押しつけ、同じ高さに指を広げる。


「ごめん。……押し出して、ごめん」
「いい……いいよ。蓮くんが、そう言うなら——わかったよ」


「真白」
「なに」


「笑ってろ。俺の代わりに、長く」


「……できるだけ、頑張る」


「――大好きだ」
「私も大好き――蓮くん? 蓮くん?」

 音が、途切れた。

「――閉館です」

 機械の声だけが残り、白光がふっと強くなった。真白の身体は後ろから押されたみたいに枠を抜け、足元の感触がアスファルトに変わる。冷たい夜気。遠くの街の音。
 振り向いても、そこには何もない。枠も、通路も、声も、もうない。

「やだ……返して……返してよ!」

 真白は空を掴むみたいに虚空を叩く。乾いた音は掌の中でしか鳴らず、世界は動かない。膝が落ち、喉の奥から名前が零れ続けた。

「……蓮くん……蓮くん……!」

 ポケットが硬くあたる。取り出すと、琥珀色の飴玉が掌に転がった。
 もう片方の手には、スリープから勝手に目を覚ましたスマホ。画面には、あの観覧車のゴンドラで頬を寄せ合う二人が映っている。青い反射、照れた笑い、すぐそこにあった未来。

 涙で画面が滲む。真白は飴玉とスマホを胸に抱き、長く息を吐いた。
 耳の奥で、遠い残響がかすかに揺れる。

「ようこそ、遊びの国。誰かが嘘をついてるよー。だーれだ?」

 答えは、ここにはない。
 けれど、胸の中の結び目は、確かに、そこにある。

「……忘れない」

 真白は震える膝で立ち上がった。飴玉の微かな温度を握りしめ、夜の地面へ、ひとつずつ、足を置いた。