誰も空を見上げなかった。見上げれば、また順番を引かされる気がしたからだ。
 オルゴール館とバンパーカーの残響がまだ耳に刺さる広場で、真白は一度、息を整えた。

「……いま、ここにいる人で、もう自己紹介しません?」
 
自分でも場違いだと思う。それでも言葉は出た。名前を口にすれば、崩れかけの足場に一本だけ杭を打てる気がしたのだ。

「水瀬真白。大学生。生きてる」
「成瀬蓮。真白の……恋人。生きてる」
「八乙女凛音。フリーライター。生きてる」
「小野寺裕一。葵の父親だ。そうだ葵はどこに、葵」
「小野寺沙織。小野寺の妻です。生きてます……」
「福田亮。とび職。生きてる」
「黒川慎司。高校生……生きてる」

 名乗るたび、寒さが少しだけ形を持った。だが静けさは続かない。広場の端で古いゲームコーナーの建物がふっと点灯し、床の縁を冷たい緑が走った。入口の看板には、やはり二重表記。

紫の文字で Turn to see yourself.――《映らないものが真実を語る》

 スクリーンのルミナくんが跳ねて、明るく囁く。

「反対から見れば見えるよ〜♪」



 また逃げ場の口が開いた。誰からともなく吸い寄せられて、自動ドアが静かに割れる。中は近未来ふうのアーケードだ。薄い霧と光の格子、二人掛けの黒いシートが規則正しく並び、黒スーツのキャストが同じ角度でお辞儀をしてゴーグルと銃型デバイスを手渡した。

「ゴーグルは最後まで外さないでください。途中で外すとゲームが終了します」
「HPシステムがございます。ゾンビに触れられると減点、ゼロで退場です。誤射にもご注意ください」

 カタログ文句みたいな説明のあと、七人は散って座った。真白は蓮と並び、凛音、亮、慎司、小野寺夫妻がそれぞれの席へ。ゴーグルを装着した瞬間、世界が暗転し、緑の都市が立ち上がる。割れた舗道、うねるクラック、遠くの信号が壊れたテンポで瞬く。視界右上に小さく——HP 100/100。

 第一波は、ただのゲームに見えた。こちらへよろめく影に照準が吸い付き、ヒット音が軽く鳴る。黒い霧が弾け、肩を掠めるたび、体に冷風の振動。HP 95。
「離れるなよ」蓮の声は強がりに近い。真白はうなずき、銃口を低く構えた。

 第二波。数が増える。足が速い。凛音は必要最小限しか撃たず、亮は逆にテンションが上がって乱射した。
 そのときだ。真白の視界の端を、白いワンピースが横切った。背中に鳥肌が立つ。
「今の……」

 別ラインの奥で、小さな背丈が振り向く。片方だけほどけたリボン。こちらを——見たように見える。

「葵?」沙織の声が割れ、裕一が叫ぶ。「見るな、撃て!」

 だが夫婦の指は引き金から離れてしまっていた。群れが一気に押し寄せ、二人のHPが100→73→41と削られていく。

「ふざけんな! そんなのありかよ!」亮が吠え、左右になぎ払う。
 真白のHUD(ヘッドアップディスプレイ)に赤くFRIENDLY FIRE!が点滅。遅れて慎司の悲鳴。「いてっ、誰だよ!」HP 100→36。
「落ち着け、亮! 味方に当たってる!」蓮が怒鳴る。
「味方? どれが味方だよ!」亮の声は焦点が合わない。「ゾンビだらけで見えるか!」

 真白は喉の乾きを飲み込み、表示端の英語に目を留めた。
Turn to see yourself.
 反対から見る――自分を、見る?

「……外したら、わかる?」思わず洩れた声に、蓮が振り返る。「は? 危ないだろ!」
 凛音は短く頷いた。
「水瀬の直感、乗る。ゴーグルは現実を上書きしてる。外せば現実が戻る。人は人、ゾンビは黒いノイズとして見える」
「でも撃たれたら——」
「外した人は見えた位置を声でコール。付けたままの人は撃たないで下がる」

 真白は決めるように息を吐き、バンドに指をかけた。「外すよ」
 ——その前に、慎司が限界に達した。
「ムリだ、こんなのゲームじゃない!」

彼は乱暴にゴーグルを跳ね上げる。現実の空気が頬に戻り、瞬きした慎司は凍りついた。
 そこにいたのはゾンビではない。汗に濡れた亮の顔、蒼白な小野寺夫妻、強張った真白と蓮の輪郭。

「見える……人だ、みんな人間だ! 右二、人! 後退!」

 だがゴーグルを外さない亮の視界では、慎司は黒い歪みの“ゾンビ”にしか見えない。

「来るな!」亮の誤射。FRIENDLY FIRE! 冷風の衝撃が慎司の胸を打つ。HP 36→8。
「違う、俺だ、慎司だって!」差し出した手は、ゴーグル越しには「襲いかかる腕」に見えた。
 別角度からゾンビの群れが肩へ触れ、8→0。慎司が抜け殻になり音もなくドアが開き。白い手袋で二つ、三つ。ルミナくんが予定された手順で慎司を持ち上げる。

「お客様は白線の内側へお下がりくださーい」

 録音どおりの抑揚。真白の喉の奥が焼けた。
 真白は自分のゴーグルを外した。現実の冷気が皮膚に刺さる。視界は鮮明で、床にこぼれた銃、埃の筋、人間の肌色と、遠巻きに揺れる黒いノイズがくっきり分かれた。
「蓮、お願い、外して」
 
蓮も外す。凛音はすでに裸眼だ。三人には、撃ち疲れた青年がただ震えているだけに見えた。

「福田さん、やめて。ここにいるの、私たち人だよ!」
「黙れ! お前らのほうがゾンビだ!」

亮は最後まで外さない。HUDに囚われ、三人の輪郭が「敵」の赤で縁取られているのだ。

 その間にも、夫婦のHPはじわじわ削れていた。外さない視界の中で、ゾンビの群れは“葵”に重なって見える。

「葵……寒くない?」沙織は銃を落とし、両腕をひろげる。
「こっちへ来い。父ちゃんがいる」裕一も一歩踏み出した。

 抱きしめた腕の中で、現実の黒いノイズが骨の軋む音を立て、冷たい触手のような指が首筋に絡む。HP 41→14→0。

「やめろ!」蓮が駆けたが、白い手袋の列のほうが早かった。二人は家具のように等間隔で持ち上げられ、裏口の影へ消えていく。沙織の指先が宙をつかみ、小さな手の感触を探すみたいに止まったが、そこには何もなかった。

「クソッ、クソが!」亮は銃を握り直し、撃ち続ける。
「外したら殺されるんだろ! 俺は外さねえ!」
 真白は一歩だけ近づき、真正面から声を投げた。
「福田さん。見て。私の目、見える? 私、真白だよ」
「来るな!」
 照準の赤が真白の胸に浮かび、蓮が反射で彼女を抱き寄せる。

「俺が前に出る。真白は後ろへ」

凛音が低く言った。
「下がれ。彼は“上書きされた世界”に閉じ込められてる。近づくほど『敵』に見える」

 亮は引き金を乱暴に引いた。
 ――弾丸はゾンビではなく、手前の壁に弾かれた。破片が目をかすめ、悲鳴をあげて膝をつく。HUDには味方への誤射が跳ね返り、自分のHPが赤く削れて表示された。100→22。

「嘘だ、俺は間違ってない! 俺は正しいんだ!」

 足がもつれ、照準は大きくぶれ、もはや狙いを定められない。
 その隙を突くように、ゾンビの群れが一斉に殺到した。緑のノイズが波となって彼の全身に覆いかぶさり、腕を、喉を、脚を掴む。銃は床を滑り、呻き声はノイズの中に呑み込まれていった。

「やめろ、来るな……来るなぁっ!」

 HUDが赤く点滅する。22→8→0。亮は抜け殻になり、画面が暗転すると同時に、ドアが開きルミナくんたちが現れ、
亮の体は持っていかれるのであった。

 真白は唇を震わせ、声にならない息を吐く。蓮がその肩を支え、凛音はただ目を伏せていた。助けようがなかった。近づけば、彼らまで「敵」と認識されていたのだから。

 静寂の中で銃だけが床に転がり、現実の空気を切った。HUDは彼の内部でだけ赤く点滅を続け、ルミナくんの笑顔はどの角度から見ても同じ深さで揺れていた。

 音が止む。緑の都市はふっと消え、スクリーンは真っ黒になる。
 天井のスピーカーが軽い効果音を鳴らした。

「SURVIVOR:3」

 それだけ。
 真白はアーチの掲示を見上げる。Turn to see yourself.

「反対から見れば、見える……」彼女が呟くと、凛音がかすかに頷いた。
「ゴーグルは嘘。裸眼が現実。それでも——外さない者がいる限り、理不尽は止まらない」

 自動ドアが開き、現実の夜が戻る。広場の空気は薄く、光は多いのに、影だけが濃い。三人の足音が、必要以上に大きく響いた。

「真白」
「いるよ」

 指と指が、確かめるみたいに絡む。体温が、余計に熱い。ここにもう三人しかいないという事実が、皮膚の内側で鼓動を速めた。

 屋根の上でルミナくんが手を振る。

「反対から見れば見えるよ〜♪」

 同じ台詞。今度は、別の意味で突き刺さる。

 観覧車の青い輪はまだ回っていた。整いすぎた通路の白は、やはり一本線のまま。美しい配置が、ただ冷たい。
 凛音が小さく息を吐く。「……行こう」
 蓮が頷き、真白は握った手を強くした。

 緑の視界は閉じた。夜だけがある。
 三つの影だけが、次の扉へ向かって伸びていった。