オルゴール館の扉が閉じた瞬間、広場の上を軽いノイズが滑り、スピーカーの声色が切り替わった。
「ようこそ、遊びの国。誰かが嘘をついてるよー。だーれだ? 一人だけ出られる人は決まってるよ。その人を見つけた人は出られるよ。だれーだ?」
明るさと残酷さが同居する一文に、場の空気がぴんと張りつめる。視線が互いを探し、疑いが火花みたいに飛び交った。
「絶対にそんなの嘘だ!」小野寺の父が叫ぶ。母は腕を震わせ「葵
を返して」と繰り返す。
「嘘だって? じゃあ誰が出るんだよ。誰が“当たり”なんだ?」亮が火に油を注ぐ。
慎司は眼鏡の奥で目を細め、「……最初から冷静すぎるのはおかしい」と低く言って、凛音を睨んだ。
沙耶香が唇を噛み、震える指で凛音を指す。「……あんたじゃないの? ずっと落ち着いてて、他人事みたいな顔して」
凛音は肩をすくめるだけだ。「さぁ、どうだろうね」
「止めようよ!」真白は声を張った。
「こんなときに、みんなでいがみ合うのは絶対違う。だって“出られる人が一人だけ”なんて、園の嘘かもしれないんだから!」
一瞬、沈黙が落ちる。けれど、不安は収まらない。
「嘘って言い切れる根拠は?」沙耶香が逆上する。「むしろ一番怪しいのは、あんたじゃないの!」
「やめろ」蓮が真白の前に出て、短く言う。
「立ち止まっても、園の思惑通りだよ。……真白は俺が守る」
そのとき、広場の端で赤いネオンが一斉に点き、低い機械音が腹を震わせた。バンパーカーの建物が光に縁取られ、ゲートが開く。入口の上では掲示が脈打つように点滅する。
緑の文字でUnder no rules.――〈衝突の先に出口はある〉
スクリーンのルミナくんが跳ねて手を振る。
「夜空が順番を教えてくれるよ〜♪」
凛音が視線を細めて言った。
「……次は、あのアトラクションらしいね」
◆
逃げ場が口を開いたみたいだった。誰からともなくゲートへ吸い寄せられ、「二人一組でお乗りくださ〜い!」の明るい声に抗えず、ペアが決まっていく。真白と蓮、小野寺夫妻、亮と慎司、そして——凛音と沙耶香。
車体は二人乗り。黒いシートが無機質に冷たく、シートベルトが自動で腰に絡みつく。ステアリングの中央には小さな赤いランプ。足元のペダルは軽いのに、踏み込みの感触だけ重い。
「降りたい……降りたいよ」沙耶香はベルトを引っ張る。「外れない、どうして」
「ゲームが終わるまでは解除されない仕様だ」凛音は計器を見たまま言う。
「仕様って何よ!」
「怒りは——」
「うるさい!」その一喝に呼応するみたいに、彼女の車の赤ランプが強く点滅した。
軽快なジングルが流れ、天井のライトが回り始める。
「それでは――スタート!」
最初の衝突は軽かった。ゴムの弾みだけが肩に跳ね返り、条件反射の笑いが何人かの喉から零れる。二度、三度と当たるうち、音の質が変わる。金属音が耳の奥に残り、胸郭へ鈍い波紋が広がっていく。怒鳴り声と罵声が増えるたび、床の光は赤みを帯びた。
「どけ!」亮が笑いながらアクセルを踏む。笑顔の端に歪み、目だけが真っ直ぐ。
「ぶつけないで……!」小野寺の母はハンドルを握り潰しそうな指で耐え、父は「葵」とだけ呟く。
「つかまって」蓮は片手でハンドル、片手で真白の手を握る。横腹に衝撃。肋の内側に拳を押し込まれたような鈍痛が残る。
「やだ……降りたい、降りたいの!」沙耶香の声に、ルームランプが更に赤く跳ね、彼女の車だけが不自然に加速した。ペダルの踏み込みに関係なく、勝手に前へ滑る。
「ハンドルを離して」凛音の声は低い。「怒っているほど、車が“喜ぶ”。速度が上がる」
「ふざけないで!」沙耶香はハンドルを強く切る。別の車に横から当たり、スピーカーが衝突音を誇張する。「止めて、止めてってば!」
場内の照明が一段落ち、赤いランプだけが尾を引く。スピーカーが低く囁く。
Under no rules.――〈衝突の先に出口はある〉
「ルールがないなら、止められないってことか」凛音の呟きが咳に紛れた。
次の瞬間だった。沙耶香の車が甲高い駆動音を上げ、壁に向かって一直線に加速する。
「やめ——」その叫びの「め」の手前で、金具の外れる乾いた音がして、彼女の腰のベルトがガチャンと外れた。
車体が急制動。慣性が身体を投げ、彼女はフロントから弾かれて空を切り、白い壁へ叩きつけられた。短い音。
「沙耶香!」慎司の叫びが裏返る。
同じ瞬間、隣の凛音のベルトは裏返ったように締まり込み、彼女の身体を座面に押しつける。首元を絞られる痛みに顔を歪め、肩を強く打って、浅い呼吸を繰り返す。ベルトは外れない。外させない。
照明が戻り、煙の薄膜が引いていく。車のドアが内側からスッと開き、白い手袋が二つ、三つ。ルミナくんが複数体、何事もなかった顔で現れて、壁際の沙耶香の体を、決められた手順で持ち上げる。首が揺れないように、脚が引きずられないように。無言のまま、裏口へ消そうとする。
「触るな、やめろ!」慎司が車から飛び出そうとして、足をもつれさせて転ぶ。膝を打っても、叫びは止まらない。
「やめろよ、連れていくな!」
返事はない。回収の列は崩れない。ルミナくんの頬の笑いじわが、光に濡れて深く見えた。慎司は立ち上がると、先頭の一体に掴みかかる。分厚い布地の胸が意外なほど固く、拳に鈍い痛みが跳ね返るだけだ。
「返せって言ってるだろ!」
別の一体が、発泡スチロールみたいに軽い手のひらを彼の胸に当てる。押し返す力は静かで、しかし抗えない。白線の内側まで、機械の台車みたいに着実に押し戻される。
「お客様は白線の内側へお下がりくださーい」
どこからともなくスタッフの声。抑揚が一切変わらない。慎司の膝から血が滲み、拳の皮が裂けても、列は乱れない。彼は息を荒げ、声が掠れた。
「お願いだから……お願いだから……」
マスコットたちは、ぴたりと同じ歩幅で裏口の影へ消えていく。残るのは床に落ちたスニーカー片方と、赤いランプの残像だけだった。
非常ベルは鳴らない。代わりに、天井のスピーカーが明るい調子で言う。
「お楽しみいただけましたか? 本日のライドはここまで〜」
凛音は肩で息をしながら、ベルトの痕が残る首筋を押さえた。血が一点、シャツに滲む。真白は震える指で蓮の手を確かめ、慎司の背を見た。丸まった肩が、まだ小刻みに上下している。亮は歯を食いしばって笑い損ねた笑いを床に落とし、小野寺夫妻は互いの手を握り、名前を失った空白に耐えていた。車のドアが内側からスッと開く。
「……なんで、凛音さんは」真白の声が震える。
蓮が低く答える。「園が“選ばなかった”。ベルトを外すかどうかまで、あいつらに握られてる」
凛音は何も言わない。けれど、その横顔は初めから知っていた者の影を帯びていた。
ゲートが開き、外の空気が流れ込む。掲示板が再び光り、英語の文字が足元に反射する。Under no rules.
屋根の上でルミナくんが跳ねる。
「夜空が順番を教えてくれるよ〜♪」
誰も空を見上げない。見上げれば、次の順番を引かされる気がした。
「真白」
「いる」
互いの指が、確かめるみたいに絡む。汗ばむ掌。脈拍の速さ。
亮は歯を噛み、笑い損ねた笑いを床に落とした。小野寺夫妻は肩を寄せ合い、名前を失った空白に耐える。慎司は拳を握りしめ、視線をどこにも置けずにいる。
凛音はゆっくりと顔を上げた。
「――怒りは燃料。ここは、それで走ってる」声は掠れているのに、温度がない。
観覧車の青い輪が遠くで回っていた。整いすぎた通路の白は、相変わらず一本のまま。美しい配置が、ただ冷たい。彼らは光の脇を、手を離さないまま歩き出した。次のアトラクションへ向かうように、誰かに決められた足取りで。
「ようこそ、遊びの国。誰かが嘘をついてるよー。だーれだ? 一人だけ出られる人は決まってるよ。その人を見つけた人は出られるよ。だれーだ?」
明るさと残酷さが同居する一文に、場の空気がぴんと張りつめる。視線が互いを探し、疑いが火花みたいに飛び交った。
「絶対にそんなの嘘だ!」小野寺の父が叫ぶ。母は腕を震わせ「葵
を返して」と繰り返す。
「嘘だって? じゃあ誰が出るんだよ。誰が“当たり”なんだ?」亮が火に油を注ぐ。
慎司は眼鏡の奥で目を細め、「……最初から冷静すぎるのはおかしい」と低く言って、凛音を睨んだ。
沙耶香が唇を噛み、震える指で凛音を指す。「……あんたじゃないの? ずっと落ち着いてて、他人事みたいな顔して」
凛音は肩をすくめるだけだ。「さぁ、どうだろうね」
「止めようよ!」真白は声を張った。
「こんなときに、みんなでいがみ合うのは絶対違う。だって“出られる人が一人だけ”なんて、園の嘘かもしれないんだから!」
一瞬、沈黙が落ちる。けれど、不安は収まらない。
「嘘って言い切れる根拠は?」沙耶香が逆上する。「むしろ一番怪しいのは、あんたじゃないの!」
「やめろ」蓮が真白の前に出て、短く言う。
「立ち止まっても、園の思惑通りだよ。……真白は俺が守る」
そのとき、広場の端で赤いネオンが一斉に点き、低い機械音が腹を震わせた。バンパーカーの建物が光に縁取られ、ゲートが開く。入口の上では掲示が脈打つように点滅する。
緑の文字でUnder no rules.――〈衝突の先に出口はある〉
スクリーンのルミナくんが跳ねて手を振る。
「夜空が順番を教えてくれるよ〜♪」
凛音が視線を細めて言った。
「……次は、あのアトラクションらしいね」
◆
逃げ場が口を開いたみたいだった。誰からともなくゲートへ吸い寄せられ、「二人一組でお乗りくださ〜い!」の明るい声に抗えず、ペアが決まっていく。真白と蓮、小野寺夫妻、亮と慎司、そして——凛音と沙耶香。
車体は二人乗り。黒いシートが無機質に冷たく、シートベルトが自動で腰に絡みつく。ステアリングの中央には小さな赤いランプ。足元のペダルは軽いのに、踏み込みの感触だけ重い。
「降りたい……降りたいよ」沙耶香はベルトを引っ張る。「外れない、どうして」
「ゲームが終わるまでは解除されない仕様だ」凛音は計器を見たまま言う。
「仕様って何よ!」
「怒りは——」
「うるさい!」その一喝に呼応するみたいに、彼女の車の赤ランプが強く点滅した。
軽快なジングルが流れ、天井のライトが回り始める。
「それでは――スタート!」
最初の衝突は軽かった。ゴムの弾みだけが肩に跳ね返り、条件反射の笑いが何人かの喉から零れる。二度、三度と当たるうち、音の質が変わる。金属音が耳の奥に残り、胸郭へ鈍い波紋が広がっていく。怒鳴り声と罵声が増えるたび、床の光は赤みを帯びた。
「どけ!」亮が笑いながらアクセルを踏む。笑顔の端に歪み、目だけが真っ直ぐ。
「ぶつけないで……!」小野寺の母はハンドルを握り潰しそうな指で耐え、父は「葵」とだけ呟く。
「つかまって」蓮は片手でハンドル、片手で真白の手を握る。横腹に衝撃。肋の内側に拳を押し込まれたような鈍痛が残る。
「やだ……降りたい、降りたいの!」沙耶香の声に、ルームランプが更に赤く跳ね、彼女の車だけが不自然に加速した。ペダルの踏み込みに関係なく、勝手に前へ滑る。
「ハンドルを離して」凛音の声は低い。「怒っているほど、車が“喜ぶ”。速度が上がる」
「ふざけないで!」沙耶香はハンドルを強く切る。別の車に横から当たり、スピーカーが衝突音を誇張する。「止めて、止めてってば!」
場内の照明が一段落ち、赤いランプだけが尾を引く。スピーカーが低く囁く。
Under no rules.――〈衝突の先に出口はある〉
「ルールがないなら、止められないってことか」凛音の呟きが咳に紛れた。
次の瞬間だった。沙耶香の車が甲高い駆動音を上げ、壁に向かって一直線に加速する。
「やめ——」その叫びの「め」の手前で、金具の外れる乾いた音がして、彼女の腰のベルトがガチャンと外れた。
車体が急制動。慣性が身体を投げ、彼女はフロントから弾かれて空を切り、白い壁へ叩きつけられた。短い音。
「沙耶香!」慎司の叫びが裏返る。
同じ瞬間、隣の凛音のベルトは裏返ったように締まり込み、彼女の身体を座面に押しつける。首元を絞られる痛みに顔を歪め、肩を強く打って、浅い呼吸を繰り返す。ベルトは外れない。外させない。
照明が戻り、煙の薄膜が引いていく。車のドアが内側からスッと開き、白い手袋が二つ、三つ。ルミナくんが複数体、何事もなかった顔で現れて、壁際の沙耶香の体を、決められた手順で持ち上げる。首が揺れないように、脚が引きずられないように。無言のまま、裏口へ消そうとする。
「触るな、やめろ!」慎司が車から飛び出そうとして、足をもつれさせて転ぶ。膝を打っても、叫びは止まらない。
「やめろよ、連れていくな!」
返事はない。回収の列は崩れない。ルミナくんの頬の笑いじわが、光に濡れて深く見えた。慎司は立ち上がると、先頭の一体に掴みかかる。分厚い布地の胸が意外なほど固く、拳に鈍い痛みが跳ね返るだけだ。
「返せって言ってるだろ!」
別の一体が、発泡スチロールみたいに軽い手のひらを彼の胸に当てる。押し返す力は静かで、しかし抗えない。白線の内側まで、機械の台車みたいに着実に押し戻される。
「お客様は白線の内側へお下がりくださーい」
どこからともなくスタッフの声。抑揚が一切変わらない。慎司の膝から血が滲み、拳の皮が裂けても、列は乱れない。彼は息を荒げ、声が掠れた。
「お願いだから……お願いだから……」
マスコットたちは、ぴたりと同じ歩幅で裏口の影へ消えていく。残るのは床に落ちたスニーカー片方と、赤いランプの残像だけだった。
非常ベルは鳴らない。代わりに、天井のスピーカーが明るい調子で言う。
「お楽しみいただけましたか? 本日のライドはここまで〜」
凛音は肩で息をしながら、ベルトの痕が残る首筋を押さえた。血が一点、シャツに滲む。真白は震える指で蓮の手を確かめ、慎司の背を見た。丸まった肩が、まだ小刻みに上下している。亮は歯を食いしばって笑い損ねた笑いを床に落とし、小野寺夫妻は互いの手を握り、名前を失った空白に耐えていた。車のドアが内側からスッと開く。
「……なんで、凛音さんは」真白の声が震える。
蓮が低く答える。「園が“選ばなかった”。ベルトを外すかどうかまで、あいつらに握られてる」
凛音は何も言わない。けれど、その横顔は初めから知っていた者の影を帯びていた。
ゲートが開き、外の空気が流れ込む。掲示板が再び光り、英語の文字が足元に反射する。Under no rules.
屋根の上でルミナくんが跳ねる。
「夜空が順番を教えてくれるよ〜♪」
誰も空を見上げない。見上げれば、次の順番を引かされる気がした。
「真白」
「いる」
互いの指が、確かめるみたいに絡む。汗ばむ掌。脈拍の速さ。
亮は歯を噛み、笑い損ねた笑いを床に落とした。小野寺夫妻は肩を寄せ合い、名前を失った空白に耐える。慎司は拳を握りしめ、視線をどこにも置けずにいる。
凛音はゆっくりと顔を上げた。
「――怒りは燃料。ここは、それで走ってる」声は掠れているのに、温度がない。
観覧車の青い輪が遠くで回っていた。整いすぎた通路の白は、相変わらず一本のまま。美しい配置が、ただ冷たい。彼らは光の脇を、手を離さないまま歩き出した。次のアトラクションへ向かうように、誰かに決められた足取りで。



