笑わない遊園地

扉を押すと、温度がわずかに変わった。屋台の甘い匂いが背中で切れて、代わりに金属の粉と古い木箱の匂いが鼻先をくすぐる。
小さなホールの正面に掲示がある。黄色い文字でSing of what you’ve lost.――《失われた旋律が戻ることはない》。
英語の頭の S が、他より濃く見えたが、真白は目だけで追い越した。

 展示室は薄暗い。ガラスケースがいくつも並び、そのひとつひとつに年代の違うオルゴールが眠っている。渦巻き状のディスク、円筒、細い櫛歯。誰かが合図を出したのでもないのに、あちこちでぜんまいの音が起き、金属の爪が弦をはじく。音はやわらかく、少し頼りない。童歌のような旋律が三拍ごとに「息」をつくように揺れ、その隙間に、遠い笑い声や、泣き声のようなものが混ざった。どれが機械で、どれが人の気配なのか、境目が曖昧だ。

「きれい……」

 真白の声も、ここでは音楽に抱かれて吸い込まれていく。

「な。怖いっていうより、なんか、沁みるな」

 蓮も同じ音量で応じ、そっと真白の手を握った。二人とも口数が少なくなる。たしかに怖くはない。ただ、胸の奥に古い埃がふわりと舞い上がる、そんな感じがする。いつか誰かが置いていった時間の粒が、この部屋ではまだ生きているのだ、とでも言うように。

 脇で、福田亮が小さく口笛を鳴らした。

「本物のアンティークだって。すげえ」

 その隣で、大河内駿は肩をすくめる。

「……おもしろくねぇ。なんだよオルゴール館って。もっとマシなのないのかよ。びっくりもねぇし」

 その言葉が空気に触れた瞬間、近くのオルゴールの針が、かす、と鳴って、旋律が一拍息を詰めた。駿が「あ?」と顎を上げかける。次の拍で、音が一斉に戻る――はずだった。戻ったのは音ではなく、静けさのほうだった。駿の笑い声が途中で切れ、目の焦点がふっとほどける。頬の血色がすっと退き、背中から力が抜けた。

「駿?」

 亮が腕をつかむ。駿は答えない。体は温かいはずなのに、そこに「駿」がいない。笑顔の形だけ残して、抜け殻みたいに傾ぐ。

「おい、駿ってば、なあ」

 亮の声が高くなる。真白も一歩踏み出しそうになって、蓮に肩を押さえられた。

 通路の奥から、足音がそろって近づいてくる。どたどたではない。ふわふわと、クッションの上を滑るような、軽い足音。角を曲がって現れたのは、色違いのマスコットが四体だった。どの顔も同じ笑み、同じ手の振り。床の標示に合わせてぴたりと整列すると、無言のまま駿の両脇と足元に取りつき、手際よく持ち上げた。

「やめろ、何してんだよ! 離せ!」

 亮が叫んで腕を伸ばす。だが、マスコットは誰にも目を向けない。視線というものを持っていないかのように、決められた角度だけで笑顔を向け、静かに運び出す。キャストは通路の反対側で、形のいい微笑を崩さない。

 オルゴールの一群が、また三拍で息をついた。音色の隙間に、はっきりと誰かのすすり泣きが混ざる。真白は蓮の掌を強く握り、爪が少し食い込んだ。

「帰りたい」

 小さな声が、真白の左から聞こえた。小野寺葵が、ポップコーンのカップを抱えたまま、母の袖を握っている。「帰りたい、帰りたい……おうち、帰りたいの」

「大丈夫、すぐ出ようね」

 母がそう言い、頭を撫でる。葵は鼻をすすって、もう一度「帰りたい」と言った。その二音目の「あ」のあたりで、音楽がふっと途切れる。葵の目が大きく開き、口が半端に開いたまま、身体から力が抜けた。

「葵?」

 母の呼びかけは空を掴む。さきほどと同じ足音が、また奥から近づいてきた。別のマスコットが三体、今度は小さめの台車を押して現れる。誰も指示を出していないのに、しかも急ぎでもないのに、段取りだけは完璧だ。

「やめて! 娘に触らないで!」

 母が抱え直そうとすると、白い手袋がその腕をやさしく――あくまでやさしく――ほどき、葵の体を持ち上げる。父は声を出せない。うまく息ができず、口だけが開いて閉じられない。母の喉から出た叫びが、金属の櫛歯に絡まって歪む。

 真白は耐えきれず、顔を逸らして蓮の胸元に額を当てた。蓮の心臓が速い。自分と同じ速さで、乱れている。

 音楽が、唐突に整う。ひとつ、ふたつ、みっつ――と三拍、間を開けてから、館内スピーカーが空気を裂いた。軽い、聞き覚えのある明るい声が、ここでは別の意味を持つ。

「ようこそ、遊びの国。この夜に笑えない人は、すぐに消えちゃうかもね〜?」

 最初の母音に、数人が顔を上げる。最後の「ね〜?」の伸びで、誰も笑わなかった。

 マスコットたちは、流れるような足並みでホールから消える。残されたのは、きつく握りしめられたポップコーンのカップと、床に散ったわずかな塩の粒。母のすすり泣きと、父の固い呼吸。亮は出口の方へ二歩、三歩と追いかけて、足を止める。彼の肩が、こまかく震え続けた。

「真白、見ないでいい」

 蓮が耳元で言い、肩から腕を回す。指先が冷たい。真白が頷いた、そのときだ。脇のベンチに腰かけていた八乙女凛音が、膝の上の手帳に何かを書きつけ、低く呟いた。

「……始まった」

 真白は顔を上げる。

「え?」

 凛音は目線を上げず、ペン先だけを動かした。

「音の切れ目で、抜かれる。笑い、退屈、帰りたい――どれも、感情の強度。ここは、それを食べる」

 言葉の調子は淡々としていた。慰めるでもないし、怯えるでもない。まるで、ずっと前からこの瞬間を想定していた人の声だった。

 館内の照明がわずかに落ち、壁の投影でルミナくんが跳ねた。手を振る角度、笑顔の角度、どれも同じ。

「高いところから見ると道が見えるよ〜♪」

 場にそぐわない軽さ。だが、誰もその意味を拾わない。拾える頭が、もう動いていない。

 スタッフが列を整えるように手を広げ、「出口はこちらです」と言う。通路の先にうっすらと外光が見える。
真白は蓮と視線を合わせ、頷いた。ふたりで歩き出す。後ろから、小野寺夫妻の声が追いかけてくる。
母の嗚咽は空気の表面を破り、父の「ちょっと、待ってください、うちの子を」という声は、布の向こうに押しやられた。

 扉を抜けると、夜風が頬に当たった。屋台の音楽が――ほんの少しだけテンポを上げて――戻ってくる。さっきまで見慣れていた光の粒が、今は奥行きを失って、立て看板の絵みたいに平たく見えた。

「……蓮」
「いる。ここにいる」

 そう言って、彼が手の甲を上から包む。爪の跡が白く残ってい
る。真白は息を吸い、吐いた。胸の真ん中に、小さな穴のような冷えが残っている。その穴は、音楽の三拍ごとに、きゅう、と縮む。

 後ろで、もう一度だけルミナくんの声が跳ねた。今度は別の方向から聞こえる。観覧車の脚のあたり、ゲームコーナーの屋根の
上、そして、たぶん耳の奥。

「笑って、ね。ね?」

 誰かが無理に笑ってみせる。その笑顔の端が、すぐにほどける。真白は蓮の袖を引いた。

「ここ、出よう。……少しでも」
「うん」

 足が自然と観覧車の方向へ向かう。高いところから見れば、道が見える――さっきのヒントが、一度だけ頭をかすめる。だが、視界の端で、さっき運び去られたふたつの背中がちらつき、思考はそこで止まった。

 観覧車の青い輪が、規則正しく夜空に線を刻んでいる。通路の白は、やはり一本のままだった。整いすぎた園の景色の中で、オルゴール館の扉だけが、ほんのわずかに暗く見えた。そこから漏れる旋律は、三拍で息をつきながら、何かを呼び、何かを送り出している。真白の耳には、その呼吸だけがはっきりと残った。