観覧車の乗り場は、ネオンの青が床ににじむほど明るかった。ゴンドラの扉が一定の間隔で開閉し、そのたびに係員の「どうぞ」の笑顔が型にはまったように繰り返される。改めて見上げると、支柱の根元に小さな掲示が貼ってある。
赤い文字でTrust the view tonight.――《夜の空を信じれば、道が見える》――英語の頭の T だけ、ほかより濃い。
真白は装飾だろう、と自分に言い聞かせるのに、目がそこに戻ってしまう。
「先に座って」
蓮がドアを押さえ、真白を乗り込ませる。窓の向こうで青い輪がゆっくり動き、床の微かな振動が体の芯まで伝わる。
「さっきは……ありがと。庇ってくれて」
「当たり前だろ。か、彼女なんだから」
蓮は胸を軽く叩いて見せ、それからわずかに視線を逸らした。
「……意外と頼もしいんだね」
「意外は余計だろ」
笑い合う。けれど笑いの後に残る空白が、とてもやわらかかった。
ゴンドラが上がっていく。屋台の光、人の行列、ステージの幕。すべてがミニチュアみたいに縮んで、整然と並び替えられていく。
「すご……」
真白は窓に額が触れないぎりぎりまで近づいて、下をのぞいた。通路の白が一直線に見える。まるで上からルールを引かれているみたいに、きれいに、迷いなく。
「道、ほんとに見えるな」
蓮は無邪気な声で言い、スマホを持ち上げる。
「ほら、二人の写真。さっきのも送るから」
「うん」
シャッター音が小さく重なる。青の反射が二人の頬に揺れ、ゴンドラのガラスに薄く重なった。
「卒業したら、どうする?」
真白が切り出すと、蓮はスマホを下ろしてこちらを見た。
「真白は?」
「編集の仕事、受かるといいな。物語に触れ続けていたいの」
「似合う」
即答されて、真白の心臓が一拍だけ強く打つ。
「……蓮は?」
「まだ決めてない。でも、決めてることはある」
「なに?」
「真白と、いっしょに住みたい」
景色が広がっていくのに、視界が急に狭くなったみたいだった。
「いっしょに、って」
「ちゃんと考える。仕事も。……でも、最初に決めたいのはそこ」
言い終えてから、蓮は耳まで赤くして視線を泳がせた。
「今のなし。いや、なしじゃないけど、えっと、その」
「なしにしないで」
真白は小さく笑って、膝の上で指を絡めた。
「……うれしいよ」
風が少しだけ強くなって、ゴンドラがほんのわずか揺れた。上も下もなくなるような、短い浮遊の気配。
「真白」
蓮に名前を呼ばれて、真白は顔を向ける。
蓮「さっきの俺、強がってた。普通に怖かった」
真白「知ってる」
蓮「でも、手、離さなかっただろ?」
真白「それで充分だよ」
「真白」
「蓮くん……」
言葉の次の瞬間、二人は同じタイミングで身体を寄せていた。
触れた唇は思ったよりあたたかくて、思ったより短くて、でも、思ったよりも長く余韻が残った。
「……キス、しちゃったね……」
真白が呟くと、蓮は「しちゃったな」とおうむ返しに言って、青の光が反射する窓に額を押しつけた。
「顔、赤い」
「そっちこそ」
「もう一度しておく? 忘れたくないから」
「忘れたくないのは、私も同じ」
真白はそう言いながら、視線を逸らした。窓の外には青い光輪を描く観覧車のリズム。夜の街が宝石のように散らばっていて、その中で二人だけが切り離された世界にいるみたいだった。
蓮が伸ばした指先が、そっと真白の髪を耳にかける。仕草はぎこちないのに、触れられた部分が熱くなる。
胸が跳ねた。鼓動の速さが伝わりそうで怖いのに、離れたくなかった。真白は小さく頷き、そっと目を閉じた。
二度目の口づけは、最初よりもゆっくりで、長くて、呼吸が重なり合う。ガラスに映る二人の影はひとつに溶け、外の夜景と混ざり合っていた。
「……これで、もう強がれないね」
真白が囁くと、蓮は困ったように笑って、彼女の肩に額を落とす。
「強がらなくていいだろ。俺だって、真白がいれば平気だから」
耳元で低く響いた声に、真白は思わず目を閉じて寄り添った。
頂点を過ぎると、街の光が視界に入り、遠くの道路が動く蛇みたいに滑っていく。園の通路は、やはり一本の白い線のまま。あまりにも整って見える景色に、真白は目を凝らし、かすかに唇を動かした。
「……どうして、こんなに“予定通り”みたいに見えるんだろ」
その独り言は、夜景に溶けるように小さく零れ、蓮の耳には届かなかった。
ふと、一隅の掲示が視界にひっかかった。
《夜の空を信じれば、道が見える》/Trust the view tonight.
青いネオンのかげで、T だけ濃い。偶然だと受け流すには、何度も目に入りすぎる。「真白?」
「ううん、なんでもない。きれいだね」
「写真、もう一枚」
シャッターが落ちる。今度はさっきより近い距離で。
◆
やがてゴンドラが停止位置に近づき、係員が定型句を投げる。
「足元にお気をつけください」。
降り口には、ルミナくんが映像パネルの上でくるりと回っていた。あの軽い声がスピーカーから飛ぶ。
「暗いところから出ておいで♪」
お化け屋敷に向かう呼び込みなのか、ただの冗談なのか。どう聞いても意味は分かるのに、“ここで言う”ことだけが妙だった。
「暗いところ……いま、出てきたばかりだよね」
「販促だろ」
蓮は軽く笑って流したが、真白の鼓膜には、その一文だけが少し長く居座った。
「お腹すいた」
蓮が指で屋台通りを指す。甘い匂いと油の音が、観覧車の足元まで届いている。
「たこ焼き食べたい」
「いいね。ソースと塩、どっち派?」
「塩。蓮は?」
「ソース。二舟行くか」
二人で手を洗い、同時に串を刺すみたいにして口へ運ぶ。表面の熱で舌が驚き、内側の柔らかさが甘くて、ほっと息が漏れた。
「あと、りんご飴」
「写真映えするやつ」
「映えはどうでもいい。食べたい」
「じゃ、半分こな」
赤い飴の表面に観覧車の青が映り、薄い膜を作る。噛むたびに薄皮が割れて、果汁がこぼれそうになるのを二人で笑ってふせいだ。
通りすがりに、射的台で盛り上がる駿と亮の声が聞こえる。小野寺一家は、葵がキャラメルポップコーンを抱えていた。遠目に、凛音がベンチで何かをノートに走らせている。ペンの運びが、まるで心拍の記録みたいに均一だった。
音楽が、ほんの一瞬、切り替わる。気づかない人のほうが多い程度のわずかな継ぎ目。すぐにマーチの続きを装って戻るが、真白の耳には“同じ曲の同じ部分”が二回重なったように聞こえた。
「……この園って、どこまで“予定通り”を練習してるんだろ」
小声で呟いた自分の声に、少し鳥肌が立つ。考えかけて、真白は蓮の横顔に視線を落とした。頬についた飴の破片を見つけ、思わず笑ってしまう。
「ついてる」
「どこ」
「ここ」
指先で触れようとしたら、蓮は逆に真白の頬を軽くつついた。
「そっちも」
「え、うそ」
「うそじゃない」
子どもみたいなやり取りが楽しくて、真白は肩の力を抜いた。笑うたび、さっきのキスが胸の奥でもう一度だけ熱を持った。
「このあと、どうする?」
「……あれ、行ってみない?」
通りの先、古い洋館みたいなファサードが見える。二階の窓から柔らかい灯りがこぼれ、入口の上に小さな看板が揺れていた。
《オルゴール館》――装飾的な文字で、金属の縁取り。
掲示の下に、やっぱり二重表記が並ぶ。
黄色い文字でSing of what you’ve lost.――《失われた旋律が戻ることはない》
英語の頭の S が、わずかに太い。
「歌、って書いてある?」
「“失ったものを歌え”……か。詩的だな」
「怖いの、薄まったし。音楽なら、たぶん平気」
「俺はさっきのコウモリよりは平気」
言葉とは裏腹に、蓮はそっと真白の手を探す。つかまれた指が、また自然に絡まる。
そのとき、背後で観覧車のゴンドラが青い線を描いていく。空に沿って、ゆっくりと、正確に。通路の白い一本線は、相変わらず迷子にならないまま敷かれていた。
「行こうか」
「うん」
二人は屋台の光から一歩ずつ離れ、薄い影のほうへ足を向ける。甘い匂いは背中に残り、オルゴール館の前にだけ、別の温度の空気が溜まっていた。
扉に手をかける直前、真白はふと振り返る。観覧車の下で、ルミナくんが他の客に手を振っている。声は届かない。ただ、あの定型の笑顔だけが、どこから見ても同じ角度で輝いていた。
赤い文字でTrust the view tonight.――《夜の空を信じれば、道が見える》――英語の頭の T だけ、ほかより濃い。
真白は装飾だろう、と自分に言い聞かせるのに、目がそこに戻ってしまう。
「先に座って」
蓮がドアを押さえ、真白を乗り込ませる。窓の向こうで青い輪がゆっくり動き、床の微かな振動が体の芯まで伝わる。
「さっきは……ありがと。庇ってくれて」
「当たり前だろ。か、彼女なんだから」
蓮は胸を軽く叩いて見せ、それからわずかに視線を逸らした。
「……意外と頼もしいんだね」
「意外は余計だろ」
笑い合う。けれど笑いの後に残る空白が、とてもやわらかかった。
ゴンドラが上がっていく。屋台の光、人の行列、ステージの幕。すべてがミニチュアみたいに縮んで、整然と並び替えられていく。
「すご……」
真白は窓に額が触れないぎりぎりまで近づいて、下をのぞいた。通路の白が一直線に見える。まるで上からルールを引かれているみたいに、きれいに、迷いなく。
「道、ほんとに見えるな」
蓮は無邪気な声で言い、スマホを持ち上げる。
「ほら、二人の写真。さっきのも送るから」
「うん」
シャッター音が小さく重なる。青の反射が二人の頬に揺れ、ゴンドラのガラスに薄く重なった。
「卒業したら、どうする?」
真白が切り出すと、蓮はスマホを下ろしてこちらを見た。
「真白は?」
「編集の仕事、受かるといいな。物語に触れ続けていたいの」
「似合う」
即答されて、真白の心臓が一拍だけ強く打つ。
「……蓮は?」
「まだ決めてない。でも、決めてることはある」
「なに?」
「真白と、いっしょに住みたい」
景色が広がっていくのに、視界が急に狭くなったみたいだった。
「いっしょに、って」
「ちゃんと考える。仕事も。……でも、最初に決めたいのはそこ」
言い終えてから、蓮は耳まで赤くして視線を泳がせた。
「今のなし。いや、なしじゃないけど、えっと、その」
「なしにしないで」
真白は小さく笑って、膝の上で指を絡めた。
「……うれしいよ」
風が少しだけ強くなって、ゴンドラがほんのわずか揺れた。上も下もなくなるような、短い浮遊の気配。
「真白」
蓮に名前を呼ばれて、真白は顔を向ける。
蓮「さっきの俺、強がってた。普通に怖かった」
真白「知ってる」
蓮「でも、手、離さなかっただろ?」
真白「それで充分だよ」
「真白」
「蓮くん……」
言葉の次の瞬間、二人は同じタイミングで身体を寄せていた。
触れた唇は思ったよりあたたかくて、思ったより短くて、でも、思ったよりも長く余韻が残った。
「……キス、しちゃったね……」
真白が呟くと、蓮は「しちゃったな」とおうむ返しに言って、青の光が反射する窓に額を押しつけた。
「顔、赤い」
「そっちこそ」
「もう一度しておく? 忘れたくないから」
「忘れたくないのは、私も同じ」
真白はそう言いながら、視線を逸らした。窓の外には青い光輪を描く観覧車のリズム。夜の街が宝石のように散らばっていて、その中で二人だけが切り離された世界にいるみたいだった。
蓮が伸ばした指先が、そっと真白の髪を耳にかける。仕草はぎこちないのに、触れられた部分が熱くなる。
胸が跳ねた。鼓動の速さが伝わりそうで怖いのに、離れたくなかった。真白は小さく頷き、そっと目を閉じた。
二度目の口づけは、最初よりもゆっくりで、長くて、呼吸が重なり合う。ガラスに映る二人の影はひとつに溶け、外の夜景と混ざり合っていた。
「……これで、もう強がれないね」
真白が囁くと、蓮は困ったように笑って、彼女の肩に額を落とす。
「強がらなくていいだろ。俺だって、真白がいれば平気だから」
耳元で低く響いた声に、真白は思わず目を閉じて寄り添った。
頂点を過ぎると、街の光が視界に入り、遠くの道路が動く蛇みたいに滑っていく。園の通路は、やはり一本の白い線のまま。あまりにも整って見える景色に、真白は目を凝らし、かすかに唇を動かした。
「……どうして、こんなに“予定通り”みたいに見えるんだろ」
その独り言は、夜景に溶けるように小さく零れ、蓮の耳には届かなかった。
ふと、一隅の掲示が視界にひっかかった。
《夜の空を信じれば、道が見える》/Trust the view tonight.
青いネオンのかげで、T だけ濃い。偶然だと受け流すには、何度も目に入りすぎる。「真白?」
「ううん、なんでもない。きれいだね」
「写真、もう一枚」
シャッターが落ちる。今度はさっきより近い距離で。
◆
やがてゴンドラが停止位置に近づき、係員が定型句を投げる。
「足元にお気をつけください」。
降り口には、ルミナくんが映像パネルの上でくるりと回っていた。あの軽い声がスピーカーから飛ぶ。
「暗いところから出ておいで♪」
お化け屋敷に向かう呼び込みなのか、ただの冗談なのか。どう聞いても意味は分かるのに、“ここで言う”ことだけが妙だった。
「暗いところ……いま、出てきたばかりだよね」
「販促だろ」
蓮は軽く笑って流したが、真白の鼓膜には、その一文だけが少し長く居座った。
「お腹すいた」
蓮が指で屋台通りを指す。甘い匂いと油の音が、観覧車の足元まで届いている。
「たこ焼き食べたい」
「いいね。ソースと塩、どっち派?」
「塩。蓮は?」
「ソース。二舟行くか」
二人で手を洗い、同時に串を刺すみたいにして口へ運ぶ。表面の熱で舌が驚き、内側の柔らかさが甘くて、ほっと息が漏れた。
「あと、りんご飴」
「写真映えするやつ」
「映えはどうでもいい。食べたい」
「じゃ、半分こな」
赤い飴の表面に観覧車の青が映り、薄い膜を作る。噛むたびに薄皮が割れて、果汁がこぼれそうになるのを二人で笑ってふせいだ。
通りすがりに、射的台で盛り上がる駿と亮の声が聞こえる。小野寺一家は、葵がキャラメルポップコーンを抱えていた。遠目に、凛音がベンチで何かをノートに走らせている。ペンの運びが、まるで心拍の記録みたいに均一だった。
音楽が、ほんの一瞬、切り替わる。気づかない人のほうが多い程度のわずかな継ぎ目。すぐにマーチの続きを装って戻るが、真白の耳には“同じ曲の同じ部分”が二回重なったように聞こえた。
「……この園って、どこまで“予定通り”を練習してるんだろ」
小声で呟いた自分の声に、少し鳥肌が立つ。考えかけて、真白は蓮の横顔に視線を落とした。頬についた飴の破片を見つけ、思わず笑ってしまう。
「ついてる」
「どこ」
「ここ」
指先で触れようとしたら、蓮は逆に真白の頬を軽くつついた。
「そっちも」
「え、うそ」
「うそじゃない」
子どもみたいなやり取りが楽しくて、真白は肩の力を抜いた。笑うたび、さっきのキスが胸の奥でもう一度だけ熱を持った。
「このあと、どうする?」
「……あれ、行ってみない?」
通りの先、古い洋館みたいなファサードが見える。二階の窓から柔らかい灯りがこぼれ、入口の上に小さな看板が揺れていた。
《オルゴール館》――装飾的な文字で、金属の縁取り。
掲示の下に、やっぱり二重表記が並ぶ。
黄色い文字でSing of what you’ve lost.――《失われた旋律が戻ることはない》
英語の頭の S が、わずかに太い。
「歌、って書いてある?」
「“失ったものを歌え”……か。詩的だな」
「怖いの、薄まったし。音楽なら、たぶん平気」
「俺はさっきのコウモリよりは平気」
言葉とは裏腹に、蓮はそっと真白の手を探す。つかまれた指が、また自然に絡まる。
そのとき、背後で観覧車のゴンドラが青い線を描いていく。空に沿って、ゆっくりと、正確に。通路の白い一本線は、相変わらず迷子にならないまま敷かれていた。
「行こうか」
「うん」
二人は屋台の光から一歩ずつ離れ、薄い影のほうへ足を向ける。甘い匂いは背中に残り、オルゴール館の前にだけ、別の温度の空気が溜まっていた。
扉に手をかける直前、真白はふと振り返る。観覧車の下で、ルミナくんが他の客に手を振っている。声は届かない。ただ、あの定型の笑顔だけが、どこから見ても同じ角度で輝いていた。



