行列の先に、青い文字で大きな看板が立っていた。
《お化け屋敷 ―― Haunted Hallway》。その下に小さく、《影は真実を隠さない》――Run if you can. 。英語の“R”だけ、気のせいか僅かに太く見える。
入口手前には「スタンバイ二十分」のボード。黒い制服のキャストが笑顔で、よくある前口上を滑らかに繰り返した。ストロボがどうとか、急な大きな音、走らないこと、前の人との距離。壁には小さなカメラのアイコン――《監視中》。
「大丈夫、俺が前歩く。怖かったら、ここ掴むルールな」
蓮が自分の袖口を差し出す。
「ルール?」
「ぎゅ一回が“平気”。ぎゅぎゅが“ムリ”。合図、忘れんなよ」
頼もしげに言いながら、声がほんの少し上ずっている。自分だって怖いくせに――と思うと、真白の口元に笑いが浮かんだ。
黒いカーテンをふた重にくぐる。湿った冷気とスモークが頬にまとわりつき、床がわずかに傾いているせいで、足元の重心がすっと奪われた。最初のコーナーを曲がった瞬間、頭上からガタンと古いチェーンの音――落下式の人形が視界に食い込む。
反射的に身をすくめた真白の頭を、蓮の腕が包み込んだ。背中に彼の体温。
「平気平気。……あ、いや、ちょっとはビビったけど」
「知ってる」
袖をつまんでぎゅと一回。蓮が小さくうなずく。
狭い階段を地下へ降りる。空気は古い紙の匂いを帯び、壁に並ぶ肖像画の目が歩くたびにこちらを追う。足音は半拍ずれて戻り、背骨に冷たい音の粒が落ちていく。
「俺の靴音……だよな?」
「さぁ」
「……違ったら結構怖いんだけど」
頼もしさとヘタレさのちょうど中間。真白はくすりと笑って、彼の背中と自分の肩が触れる距離に寄った。
和室コーナー。半開きの障子の向こうを、影がすっと横切る。天井から数珠のような飾りが下がっていて、触れると金属が鳴る。左右の通路から同時に足音が近づき、目の前で止む。
「分身の術……?」
「やってみて」
「無理。二人に増えたら、二人とも怖がる」
「その時は、両手で守る」
おどけながらも、蓮の掌がそっと真白の指を包む。指先から体の中心にかけて、じわりと温度が広がった。
和室を抜けた廊下に出た瞬間、頭上で機械の羽音――バサバサッ。吊りワイヤーの黒い影が一斉にほどけ、複数のコウモリ模型が髪すれすれにかすめて飛ぶ。
「きゃ──っ!」
「だ、大丈夫。俺がいる。ぎゅぎゅでもいいぞ」
言いながら本人の肩がびくっと震えて、真白は思わず笑ってしまう。笑いながら、彼の袖をぎゅぎゅと強めに握った。
ふと見ると、床に白い粉の足跡が続いている。二人分だけのはずが、いつの間にか一列増えて、三人目がぴたりと追走している形になっていた。
「ねぇ、増えてる」
蓮は一瞬だけ黙り、強がって言う。
「来たいなら来い。……いや、やっぱ来るな」
コースは人形部屋へ。円座になった旧い洋装の子ども人形たちの中央に、小さなオルゴール。蓋がゆっくり開き、童歌が鳴る。歯車が三拍ごとに息をつくように、旋律がささくれ、子どもの笑いと低いうめきが幾層にも重なって、どこがいちばん近い音なのか分からなくなる。
一体の人形がギギッと首を回し、ガラス玉の目がぴたりと真白に焦点を合わせた。やや遅れて、別の人形が前へ倒れ、膝をかすめ――
「っ、危な」
蓮が足先を差し入れて受け止める。軽くつま先を打って顔をしかめながら、「ナイスキャッチ」と自分で自分を褒める。
「痛い?」
「ちょっと。……でも、俺かっこよかっただろ」
からかうと、彼は照れ隠しに咳払いをした。
通路の突き当たりにはフォトスポット。古い洋館の玄関を模した背景、脇には「びっくりショット」の自販機。二人で並ぶと、レンズの外側で何かがふっと動き、シャッターの瞬間に背後の扉がバンと開く仕掛けだ。
「記念に一枚」
「ここで?」
「怖いの、一緒に写しとけば薄まる理論」
カウントダウンが始まり、三、二、一――バン。
「うわっ!」と同時に、蓮が反射的に真白の肩に顎を載せる形になって、写真は二人の顔が近すぎるほど近い。モニタに映った自分たちの距離に、真白はつい笑ってしまった。
「これ、……あとで送って」
「永久保存だね」
小休止スペース。低い灯りにベンチが二つ。壁の額縁から投影された家族写真の影がゆらゆらと揺れ、ある瞬間だけ一人分足りない時間を作る。
「外出たら、観覧車行こうぜ。……上からなら、怖いの全部、豆粒に見えるだろう」
「上でも怖いのは怖い」
「そのときは、俺がもっと近くにいる」
さらっと言って、蓮は自分のパーカーを脱ぎ、真白の肩にかけた。「寒いだろ」。近い。心臓が、ちょっと騒がしくなる。
最後の区画は、連続の小驚かし。額縁の目が動き、床の下からエアバースト、天井の蜘蛛モビールが急降下、すりガラス越しの影は一瞬だけ三人になる。角の先で白いヴェールがふわりと舞い、実はただの布だと分かって二人で同時に息を吐いた。
「今の、見た?」
「見てない。……見なくていい」
「じゃあ、見ない。代わりに、手はぜったい離さないで」
「離さないよ」
言葉に合わせて、指と指が深く絡む。
自動ドアが開いた。パレードのブラスが戻り、夜風が頬を撫でる。
「結構怖かった……」
「そうか、俺はまぁまぁだと思ったけど」
「強がっちゃって、本当は怖かったくせに」
出口を抜けた後も、鼓膜の奥にはまだ童歌の旋律が残っていた。笑い混じりのやり取りで空気を軽くしようとしても、背中には薄い寒気が張りついている。夜の遊園地は、外の通りより光が多いのに、どこか影ばかりが濃く見えた。観覧車の青い輪が遠くで回り続け、二人を見下ろしているようだった。
ふいに、真白は思い出した。
「……財布、車に置いてきた」
「じゃ、いったん出よう。再入場できるはず」
◆
二人は出口ゲートへ向かう。白く光るアーチの下で、スタッフが二人、笑顔を貼りつけたまま立っていた。マニュアルのページから切り取ったような角度で。「すみません、車に忘れ物を。すぐ戻ってまた入るので」
スタッフの口角が上がる。
「後ほど精算できます。出口から出ることはできません」
平板な抑揚。録音のように耳に貼り付いた。
「でも、ほんの数分だけ──」
「後ほど精算できます。出口から出ることはできません」
間も音程も、一言一句まで完全に一致していた。
真白は言葉を失い、蓮の袖を探す。彼の方からそっと手を重ねてくる。
「大丈夫。今日は俺が出す。……ほら、観覧車、行こうぜ」
「……うん」
青い輪が、通りの向こうでゆっくり回っている。二人はそちらへ歩き出す。背後で自動ドアがスッと閉まり、その時だった。
どこからともなく、明るいマスコットの声色で、しかし一度だけ、ひどく近くで囁くのが聞こえた。
「――古い声を数えてごらんね♪」
振り向いても、ルミナくんの姿はない。風の中に、さっきの童歌の三拍だけが、かすかに混じっていた。
《お化け屋敷 ―― Haunted Hallway》。その下に小さく、《影は真実を隠さない》――Run if you can. 。英語の“R”だけ、気のせいか僅かに太く見える。
入口手前には「スタンバイ二十分」のボード。黒い制服のキャストが笑顔で、よくある前口上を滑らかに繰り返した。ストロボがどうとか、急な大きな音、走らないこと、前の人との距離。壁には小さなカメラのアイコン――《監視中》。
「大丈夫、俺が前歩く。怖かったら、ここ掴むルールな」
蓮が自分の袖口を差し出す。
「ルール?」
「ぎゅ一回が“平気”。ぎゅぎゅが“ムリ”。合図、忘れんなよ」
頼もしげに言いながら、声がほんの少し上ずっている。自分だって怖いくせに――と思うと、真白の口元に笑いが浮かんだ。
黒いカーテンをふた重にくぐる。湿った冷気とスモークが頬にまとわりつき、床がわずかに傾いているせいで、足元の重心がすっと奪われた。最初のコーナーを曲がった瞬間、頭上からガタンと古いチェーンの音――落下式の人形が視界に食い込む。
反射的に身をすくめた真白の頭を、蓮の腕が包み込んだ。背中に彼の体温。
「平気平気。……あ、いや、ちょっとはビビったけど」
「知ってる」
袖をつまんでぎゅと一回。蓮が小さくうなずく。
狭い階段を地下へ降りる。空気は古い紙の匂いを帯び、壁に並ぶ肖像画の目が歩くたびにこちらを追う。足音は半拍ずれて戻り、背骨に冷たい音の粒が落ちていく。
「俺の靴音……だよな?」
「さぁ」
「……違ったら結構怖いんだけど」
頼もしさとヘタレさのちょうど中間。真白はくすりと笑って、彼の背中と自分の肩が触れる距離に寄った。
和室コーナー。半開きの障子の向こうを、影がすっと横切る。天井から数珠のような飾りが下がっていて、触れると金属が鳴る。左右の通路から同時に足音が近づき、目の前で止む。
「分身の術……?」
「やってみて」
「無理。二人に増えたら、二人とも怖がる」
「その時は、両手で守る」
おどけながらも、蓮の掌がそっと真白の指を包む。指先から体の中心にかけて、じわりと温度が広がった。
和室を抜けた廊下に出た瞬間、頭上で機械の羽音――バサバサッ。吊りワイヤーの黒い影が一斉にほどけ、複数のコウモリ模型が髪すれすれにかすめて飛ぶ。
「きゃ──っ!」
「だ、大丈夫。俺がいる。ぎゅぎゅでもいいぞ」
言いながら本人の肩がびくっと震えて、真白は思わず笑ってしまう。笑いながら、彼の袖をぎゅぎゅと強めに握った。
ふと見ると、床に白い粉の足跡が続いている。二人分だけのはずが、いつの間にか一列増えて、三人目がぴたりと追走している形になっていた。
「ねぇ、増えてる」
蓮は一瞬だけ黙り、強がって言う。
「来たいなら来い。……いや、やっぱ来るな」
コースは人形部屋へ。円座になった旧い洋装の子ども人形たちの中央に、小さなオルゴール。蓋がゆっくり開き、童歌が鳴る。歯車が三拍ごとに息をつくように、旋律がささくれ、子どもの笑いと低いうめきが幾層にも重なって、どこがいちばん近い音なのか分からなくなる。
一体の人形がギギッと首を回し、ガラス玉の目がぴたりと真白に焦点を合わせた。やや遅れて、別の人形が前へ倒れ、膝をかすめ――
「っ、危な」
蓮が足先を差し入れて受け止める。軽くつま先を打って顔をしかめながら、「ナイスキャッチ」と自分で自分を褒める。
「痛い?」
「ちょっと。……でも、俺かっこよかっただろ」
からかうと、彼は照れ隠しに咳払いをした。
通路の突き当たりにはフォトスポット。古い洋館の玄関を模した背景、脇には「びっくりショット」の自販機。二人で並ぶと、レンズの外側で何かがふっと動き、シャッターの瞬間に背後の扉がバンと開く仕掛けだ。
「記念に一枚」
「ここで?」
「怖いの、一緒に写しとけば薄まる理論」
カウントダウンが始まり、三、二、一――バン。
「うわっ!」と同時に、蓮が反射的に真白の肩に顎を載せる形になって、写真は二人の顔が近すぎるほど近い。モニタに映った自分たちの距離に、真白はつい笑ってしまった。
「これ、……あとで送って」
「永久保存だね」
小休止スペース。低い灯りにベンチが二つ。壁の額縁から投影された家族写真の影がゆらゆらと揺れ、ある瞬間だけ一人分足りない時間を作る。
「外出たら、観覧車行こうぜ。……上からなら、怖いの全部、豆粒に見えるだろう」
「上でも怖いのは怖い」
「そのときは、俺がもっと近くにいる」
さらっと言って、蓮は自分のパーカーを脱ぎ、真白の肩にかけた。「寒いだろ」。近い。心臓が、ちょっと騒がしくなる。
最後の区画は、連続の小驚かし。額縁の目が動き、床の下からエアバースト、天井の蜘蛛モビールが急降下、すりガラス越しの影は一瞬だけ三人になる。角の先で白いヴェールがふわりと舞い、実はただの布だと分かって二人で同時に息を吐いた。
「今の、見た?」
「見てない。……見なくていい」
「じゃあ、見ない。代わりに、手はぜったい離さないで」
「離さないよ」
言葉に合わせて、指と指が深く絡む。
自動ドアが開いた。パレードのブラスが戻り、夜風が頬を撫でる。
「結構怖かった……」
「そうか、俺はまぁまぁだと思ったけど」
「強がっちゃって、本当は怖かったくせに」
出口を抜けた後も、鼓膜の奥にはまだ童歌の旋律が残っていた。笑い混じりのやり取りで空気を軽くしようとしても、背中には薄い寒気が張りついている。夜の遊園地は、外の通りより光が多いのに、どこか影ばかりが濃く見えた。観覧車の青い輪が遠くで回り続け、二人を見下ろしているようだった。
ふいに、真白は思い出した。
「……財布、車に置いてきた」
「じゃ、いったん出よう。再入場できるはず」
◆
二人は出口ゲートへ向かう。白く光るアーチの下で、スタッフが二人、笑顔を貼りつけたまま立っていた。マニュアルのページから切り取ったような角度で。「すみません、車に忘れ物を。すぐ戻ってまた入るので」
スタッフの口角が上がる。
「後ほど精算できます。出口から出ることはできません」
平板な抑揚。録音のように耳に貼り付いた。
「でも、ほんの数分だけ──」
「後ほど精算できます。出口から出ることはできません」
間も音程も、一言一句まで完全に一致していた。
真白は言葉を失い、蓮の袖を探す。彼の方からそっと手を重ねてくる。
「大丈夫。今日は俺が出す。……ほら、観覧車、行こうぜ」
「……うん」
青い輪が、通りの向こうでゆっくり回っている。二人はそちらへ歩き出す。背後で自動ドアがスッと閉まり、その時だった。
どこからともなく、明るいマスコットの声色で、しかし一度だけ、ひどく近くで囁くのが聞こえた。
「――古い声を数えてごらんね♪」
振り向いても、ルミナくんの姿はない。風の中に、さっきの童歌の三拍だけが、かすかに混じっていた。



