午後三時を過ぎ、陽が西に傾きはじめた頃、私と山岸は二人がいないかと、ダム周辺の集落に足を踏み入れた。
国道から分岐する道はひび割れ、雑草がアスファルトを押しのけるように伸びている。家々の多くは空き家で、窓にはベニヤ板が打ち付けられ、雨戸は錆びつき、色の剥げた表札だけが、かろうじて人の暮らしの痕跡を示していた。

「……ここも、ほとんど人いないっすね。泊まれるところもなさそうだし」
山岸が低い声でつぶやく。
私は相槌を打ちながら、周囲を見回した。廃墟のような静けさの中で、鳥の声と風に揺れる竹のざわめきだけが響いている。
集会所の前を通りかかったとき、畑の隅に腰を下ろしている老人を見つけた。小柄で背は丸く、麦わら帽子の影に刻まれた皺が深い。手には土で黒ずんだ杖を握っていた。

「……見らん顔やな?」

私たちに気づいた老人が、訝しげに目を細める。
山岸が名刺を差し出し、丁寧に説明する。老人はしばらく沈黙し、名刺を指で押さえながら口を開いた。

「……あんたら、これからあのダムに行くんか」

声は掠れていたが、語尾には諦めにも似た重さが滲んでいた。

「ええ、実際に場所を見て……記録に残したいと思ってまして」
山岸が答えると、老人は長い溜息をつく。

「若い衆は、行かんほうがええ」

老人はそう言って、土の匂いを含んだ風に帽子を押さえた。

私は小さく喉を鳴らし、問いを投げた。
「……沈んだ集落の噂を、聞いたのですが」

老人は目を閉じ、しばらく黙っていた。やがて、絞り出すように言った。

「待って、録音してもいいですか?」

私は許可をとり、スマホに録音を始めた。

「家の明かりは、とっくに消えたはずやった。けんどな、夜になると湖の真ん中に小さな光が揺れるとよ。見間違いや言うやつもおったけんが……わしは見た。光と一緒に、湖の底から、とん、とん……音がするとよ。戸を叩くみたいに、規則正しくな」

私は思わず息を呑む。
老人の手は杖を強く握りしめ、節くれだった指が震えていた。

「それは……誰かが?」

「呼びよるんやろな。出てこれん者が、まだ」

声は淡々としていたが、背筋が粟立つほどの確かさがあった。山岸が恐る恐る切り込む。

「……白い車の祟りっていうのも、ここからですか?」

老人の目がぎろりと光った。

「ああ。あれは祟りやない。元は役人の車や」

私も山岸も言葉を失った。老人はさらに続けた。

「ダムを造る言うて、東京から会社の人間がようけ来た。みんな白い車やった。クラウンにカローラ、ナンバーは見覚えん。村のもんは、あの色が見えるたびに震え上がった。土地を測られ、家を追い出され、親の墓まで移された。白い車が来る日は、誰かの暮らしが消える日やった」

沈黙が落ちた。遠くでカラスがカァカァと鳴く。

「それで終わりゃよかったが……」

老人の声はさらに低くなる。

「建設が始まると造る側の人間も、次々に死んだ。落石に巻かれたのもおる。谷に車ごと落ちたのもおる。新聞には、事故やなんやと書かれとったが、地元じゃ違うとわかっとった。……呼ばれたんや。恨んじょったちゃろうに」

「呼ばれた……? 誰に……?」

「それは村の決まりで言わん約束じゃ。白い車は、不幸の印じゃ。あれは集落を沈めた者の色や。今もあの道を通る白い車は、昔と同じ目に遭う。だから近寄らんごつ」

山岸が喉を鳴らし、笑おうとしたが声が震えていた。

「……ただの偶然じゃないんですか?」

老人は笑わなかった。ただゆっくり首を振った。

「偶然なら、何度も続かんじゃろ」

私は背筋に冷たい汗を感じた。

沈黙を破るように、老人は杖の先で地面を突きながら続けた。

「橋のことは、聞いとらんか」

「……廃橋のことですか」

「あそこは絶対に行くな。鉄骨しか残っとらん。昔、子供らが遊びに行ってな、ひとり帰ってこんかった。ダムにも落ちとらん、足跡も途切れた。いくら探しても探しても見つからん。……橋が呑んだと、みんなそう言うた」

言葉が重くのしかかる。
老人の顔は陰に沈み、目の奥だけがわずかに光って見えた。

「夜になると、鉄骨が鳴るんや。風やなかぞ。誰かが渡っとる音や。そして濡れた足跡が浮かぶごつ残る」

私は返す言葉を失い、山岸と顔を見合わせた。
老人はしばらく私たちを見据え、やがて視線を逸らした。

「若いもんは、行かんでくれ。この場所をそっとしてやってくれ。あの道はもう、消えとる。こっちには戻れんのや」

それだけ言うと、老人は立ち上がり、背を向けて畑の奥に消えていった。

私が録音を止めると、山岸は小声で「……やばいな」とつぶやいた。私も頷くしかなかった。


♢


再生ボタンを押す指先が、異様に重かった。
モニターに映るのはただの映像だ。ブレたカメラ、風のノイズ、錆びた鉄骨。いつものように不要な部分を切り落とせばいい。
それなのに、私は息を止めて見入っていた。

停止と巻き戻しを繰り返すたび、映像の中身が変わっていく気がした。同じフレームを見ているはずなのに、さっきはなかった影が、今は画面の隅に立っている。気のせいだと分かっている。けれど、気のせいだと認めた瞬間、すべてが崩れてしまう気がして、目を逸らすことができなかった。

耳もおかしくなっていた。波形には雑音しか映っていないのに、ノイズを軽く下げただけで“笑い声”のようなものが立ち上がる。深夜に一人で編集作業をしていると、それがモニターの中からではなく、背後から聞こえてくる気がして、振り返らずにはいられなかった。

彼らの声と一緒に、自分の呼吸まで記録されているように思えた。
境界を越える瞬間に、自分も画面の中に吸い込まれてしまったんじゃないか。

私は動画編集者だ。映像を整えるのが仕事だ。
だが、この素材を整えれば整えるほど、彼らが残した“最後の夜”がくっきりと浮かび上がってしまう。
それは救済ではなく、死の確定だ。

削除する勇気もなかった。削除した瞬間、彼らがこの世に存在しなかったことになる。
公開する勇気もなかった。公開した瞬間、私は彼らを二度殺すことになる。

それでも私は、再生ボタンを押してしまった。