第9話「同期」プロット
巻いた瞬間、世界は静電気の膜に包まれた。指の腹に細かい針が一斉に触れてくるみたいな、無数の微粒子の擦れ。音の輪郭が硬くなり、廊下の遠くで誰かが走らせた消しゴムの摩擦音でさえ、エッジが立って刺さる。視界は砂目にぶれて、光の粒がいったん増え、それから均一な密度に落ち着く。俺は、薄い傾斜を滑るように層の継ぎ目を越え、久遠の層へと入り込んだ。彼女の視界の端に、俺は長方形の影みたいに現れる。気づいた彼女の瞳孔が、わずかに絞られる。驚かない代わりに、数える目。十の前に、数字の輪郭を先に撫でる目だ。
準備室の手前、小田と財前が向かい合っていた。視線はぶつからない。互いの肩の上、時計の無い壁の一点を過ぎて、その少し先を見ている。二人とも、ドアノブへ手を伸ばす角度がほとんど同じで、違うのは爪の長さと、手の甲の血管の浮き方だけだ。耳の奥で“チクタク”が鳴る。十分快の山がこちらへ押し寄せてくる前の、空気の張り。危険の閾値が、光の縁で一度だけ点滅して、また闇に溶ける。ここで二人を止めるのに、肩を掴む力は、遅れる。手を払う力は、違う齟齬を生む。——言葉だ。言葉の方が距離に早いし、温度にやさしい。
「あなたたち、どっちも正しい。だから——同時は危ない」
短いフレーズは、薄いガラスを滑る水滴みたいに二人の前で止まり、重力に従ってそれぞれの胸の中心へ落ちていく。正しさを否定しない。否定しないで、タイミングだけをずらす。正しさは容易に怒りに変わるが、時間に置き換えられれば、怒りの温度は一度下がる。火が消える温度ではないが、紙に燃え移らない温度にはできる。
久遠が、俺の言葉の着地を確認してから、二回目を使った。彼女はポケットから白いチョークを取り出し、床のタイルの目地を跨ぐように、さっと線を引く。チョーク粉の匂いが、オゾン臭に薄く混ざる。線は、ほんの少し曲がっている。まっすぐではないことが、大事だと思う。まっすぐな線は、誰かの直線を壊すから。
「この線より先に、今は入らない約束」
契約だ、と彼女は続けない。言葉に名称を与えないのも、契約の形式のひとつだ。線の手前に立った小田が、眉間に細い皺を寄せる。財前は、口角をわずかに引き下げ、苛立ちの位置を探す。苛立ちは、しばしば自分の中に居場所がない。だから外へ出ようとする。俺はその出口の枠をいったん塞ぎ、別の扉を近くに置く。
「あと五分」
具体の時間橋。九ではなく、五。十ではなく、五。十は俺たちの単位で、五は交渉の単位だ。小田は線を見たまま、細く息を吐き、小さく頷いた。財前は空気を探すように視線を泳がせてから、肩で笑った。「五分で終わんなかったら、俺、損だからな」と、誰に向けてでもなく言う。損得で考えられる人は、まだ遠い人ではない。近い。近い人間には、五は届く。
耳の奥で鳴っていた“チクタク”が、一瞬だけ遠くへ行き、次の山へ逃げる。危険の光は散り、代わりに蛍光灯の光のちらつきが、ふつうの劣化の周期に戻る。ファラデーケージの金網は黙り、研究時計の針の震えは人目をはばかるほどに微細になる。層の縫い目が、いったん滑らかに寄り、布地がひと織りぶんだけ厚みを増す。
問題は、二層の再統合だった。同期を取らないと、別の場所でズレが発生する。どちらかの層にだけ、階段の段が半歩ずれる。誰かが足首をひねる。そういう形で、世界は反動を取りに来る。霧島のメモが、頭の内側で開く。「無音の三十秒で主観時間の同期を回復」。チョークの粉がまだ空気に残っているうちに、俺は久遠の目を見る。合図。彼女は短く頷き、耳を塞ぐ。俺も耳を塞ぐ。目を閉じる。三十秒だけ、何もしない。
何もしない、ということは、案外むずかしい。息を整えようとするだけで、呼吸は意識のものになり、意識は嫌がって乱れる。乱れを見ないようにしても、乱れは乱れとしてそこにある。あるものを消すことはできないから、ただ、置く。三十秒の空き地の真ん中に、呼吸と心拍を置く。最初は、俺の脈と彼女の脈のずれが、鼓膜のすぐ裏でずっとくぐもっていた。それが、十数えて、十九で近づき、二十四で重なり、二十七で少しだけズレ、三十でまた合う。世界の粒子が同じ速度で流れ始め、膜の厚さが薄れていく。指の腹の針が、砂に変わる。砂は熱を持たず、ただそこにある。
二層が重なった。音の輪郭は柔らかさを取り戻し、視界の粒子は人間の目がもともと持っている粗さに戻った。戻った瞬間、巻き戻し疲労が遅れてやってくる。膝が笑い、胃がひっくり返るようにねじれ、額に冷たい汗がふっと浮く。世界が正常化するほど、内側の無理が顔を出すのは、ずるい仕組みだと思う。ずるいけれど、これが世界のやり方だ。
「成功」
久遠は平気な顔で言った。声は薄いが、薄さは彼女の標準だ。手を伸ばし、俺の腕を掴んで廊下のベンチに座らせる。掌は冷たい。冷たいが、震えてはいない。耐性は本物だ。——耐性があるからといって、負担がないわけではない。見えない残渣が、彼女の奥に沈殿していくイメージが、俺の脳裏から離れない。重金属の粉みたいに、粘性のある暗い粒が、ゆっくり沈んでいく。水を濁らせはしないが、確かに底に降り積もる。
廊下の角から霧島が顔を出した。層が重なり切ったのを確認してから、彼は近寄ってきて、俺の額に指の甲をかざしただけで触れず、「熱、ある?」と訊く。「ない」と答えると、彼は白衣の代わりに羽織っていたジャージの裾を軽く引っ張って、「記録」とだけ言った。短い言葉。黒板の前では長く喋るのに、現場の霧島は短い。短く言えるのは、状況が把握できている証拠だ。
小田は、チョーク線を跨がずに踵を返した。財前は、チョークの粉をつま先で軽く蹴り、残した白い粉の筋を見て、鼻だけで笑った。「五分、貸しだぞ」。彼の言い方には棘がない。棘はすでに鈍り、言葉は柔らかい刃になっている。柔らかい刃は、人を傷つけにくい代わりに、よく切れる。切られた側が気づかないうちに、切れている。気をつけるべき刃は、むしろそういう刃だ。
「今夜はここまで」
霧島が宣言し、俺たちは一度解散した。
*
夜。外階段での恋のミーティング。風は昨日より風向きを変え、図書室の窓の灯りが階段の縁を薄橙色に塗っている。亜子はフードの付いたパーカーのポケットに両手を突っ込み、足元でスニーカーのつま先を軽く合わせた。顔色は良い。目の下に浅い影があるが、それは練習でできる種類の影だ。彼女にとって影は、必ずしも悪い兆候ではない。使った場所に影ができる。影は、使った証拠だ。
「今日は?」
「短く。——“同時は危ない”を伝えただけ」
かいつまんで言う。俺の言葉は短い。短くしても、エピソードの芯だけは残るように、心の中で削った痕をそのまま渡す。
亜子は笑って、肩越しに夜の空気を一口だけ吸ってから言う。「短いけど効く言葉って、いつも湊が先に見つけるね」
「見つける、っていうより、拾うだけ。——久遠が契約にした。線を引いて、時間橋を置いた」
そこまで言うと、彼女は少しだけ黙った。沈黙の種類は、考えるときのそれで、怒るときのそれではない。怒る沈黙は体温が上がる。考える沈黙は体温が均一になる。彼女の沈黙は均一で、やがて薄い呼吸のあとで言葉になった。
「……私も、線を引いていい?」
「どこに?」
「試合前の二日、巻かない。その二日は、恋の話もしない。代わりに、そのあと、三十分だけ“無音の窓”で座る」
無音の窓。つまり、さっき久遠とやった同期の三十秒を、恋の側にも持ってくるという提案だ。三十分は長い。三十秒の六十倍。でも「窓」は、長くても窓だ。窓は、開閉するためにある。俺はうなずくと同時に少し笑ってしまった。「窓が長いと、風が入る量が増えるな」
「増えた風で、疲れを飛ばす」
「いい」
「ノートに貼る?」
「貼る」
ノートを開く。生成りの紙の左上に、新しい見出しを足す。〈試合前二日:巻かない/恋の話しない/翌日“無音の窓”三十分〉。三十分を三十秒と同じ手つきで書くのは躊躇われたが、あえて同じ数字の形で書く。数字は、形が同じであることで意味も近づく。近づけたい意味が、今日はある。
彼女はペンを受け取り、下に小さく付記した。〈“無音の窓”は、手をつながない〉。俺はその一文を指でなぞり、笑う。「遠い。——でもいい」
「近くても遠いってこと、あるから」
「ある」
階段の金属は冷たく、冷たさは集中の助けになる。言葉は温度で滑る。滑らせるときは温かく、止めるときは冷たく。俺は、今日の三十秒の冷たさを思い返す。冷たいから、呼吸が揃った。熱いと揃わない。熱は、同期を邪魔する。熱は恋の側の燃料だけど、事故の側では酸素になる。混ぜると燃える。混ぜないためのルールが、たぶん今の俺たちには必要だ。
ノートを閉じ、彼女と目を合わせ、笑う。笑いにはいくつかの角度があって、今日のは「同意」の角度だった。承認、と言い換えると堅い。よし、と言い換えると、どこかに可笑しみが混ざる。よし、でいい。——よし。
*
夜更け。部屋で一息ついたころ、スマホが短く震えた。霧島から。『研究用時計、停止の実験を行う。明日』。テキストは乾いて、短い。反動のことは書いていない。反動のことを書かないことで、彼は反動を過剰に実体化しないようにしている。名前をつけた瞬間に、恐怖は言葉の形で部屋に居座る。その入室を、彼は防いでいる。けれど、俺の胸の中では、恐怖はもうソファに座って足を組んでいる。どいてくれとは言えない客だ。言えない代わりに、俺は窓を開ける。息を調える。ノートの余白に小さく書く。〈——明日は、巻く。でも、二人で同期してから〉。
明日は核に触れる。核は、今まで見てきたどんな装置より静かに、淡々と動いてきた。それを止める。止めることは、殺すことではない。眠らせること。眠らせるための歌は、無音の三十秒だ。歌のようで歌ではない。言葉のようで言葉ではない。明日は、あれを先にやる。やってから、巻く。順番を間違えない。順番を間違えると、人は誰でも、賢さの一部を落とす。
*
翌朝の空は、昨日よりも透明度が高く、遠くのビルの輪郭が紙に描いた線みたいに見えた。朝練のグラウンドには、薄い霜が残っていて、走者の踏み跡が浅い白い線を引いていた。亜子はいつものように手短なストレッチをして、俺のところへ歩いてくると、三分、とだけ言った。三分の間、俺は一度だけ言葉を置いた。「三歩目、落とさない」。それだけ。彼女は目だけで笑い、土を蹴った。彼女の三歩目は、昨日よりもほんのわずか、重心の前にいられた。小さな修正は、小さな勝ちだ。小さな勝ちを積む人は、負け方が急に派手にならない。
部室に寄って、白いチップの棚を見た。俺の昨日の一枚は表向きで、久遠の二枚は裏返されている。霧島はホワイトボードの前に立ち、袖口のほどけかけた糸を指でちぎり、丸めてゴミ箱に入れた。それだけで、彼の顔色が昨夜より少し良く見えた。
「——止めに行く」
彼は乾いた声で言った。乾いた声は、濡れた現場に合う。濡れた声は、濡れた現場を、もっと滑らせる。俺たちは三人でうなずき、予定の時間までそれぞれ散った。
*
理科準備室。今日は、空気が最初から少し軽かった。絶縁の効果が、前夜から残っているのだと思う。ファラデーケージの網目は、いつもより均一に見え、チョークの粉は落ちていない。ケージの中の手巻き時計は、やはり微細に震えている。外して置くべき電極は昨夜のうちに整理され、薬品は距離を保たれている。小田はドアの外にいて、今日は線のこちら側に自分の立ち位置を確認している。財前は生徒会の鍵を顎で持ち上げ、「今日の俺、関係なしね」と軽く言って、廊下の端で待機した。彼らの「離れて支える」は、昨日よりも自然だ。
「——同期、先に」
霧島が言い、俺と久遠は耳を塞いで、目を閉じた。無音の三十秒。前より早く、呼吸が合う。訓練の成果。同期が先に手順になれば、恐怖は手順に押し出される。恐怖に手順を越えさせない。手順は堤防だ。堤防を越えられる恐怖もあるけれど、越えられない恐怖だってある。
三十秒の終わりを、久遠が小さく告げる。俺たちは手を下ろし、霧島がケージの側面に手を置く。絶縁手袋越しに、金属の乾いた冷たさが肩まで上がる。彼は竜頭を覗き、癖の角度を目で測り、それから工具箱から小さな止め具を取り出した。止め具は、時計に対してあまりにも原始的に見えた。突き刺すのでも、切断するのでもない。挟む。挟んで、回路の一部を“眠らせる”。
「一回目——湊、準備」
俺は白いチップに指をあてがい、呼吸を十まで上げてから、戻す。十の前後の階段の高さを、足裏で覚える。蓋に指をかける。押さない。押す手前で、止める。止めた指に、熱が集まる。熱は、指先の中でうろうろし、やがて鎖骨の下に降りていく。胸骨の少し上で、熱が球になる。球が小さくなれば、押せる。
「今」
霧島の声と、久遠の「今」が重なった。俺は蓋を押した。世界が、静電気の膜で一度だけ覆われ、音の輪郭が硬くなる。視界の粒が細かくなり、呼吸が短くなる。戻る分だけの逆再生。戻った層で、霧島は止め具を挿し込む。挿し込む角度は慎重で、しかしためらいはない。ケージの中の秒針は、震えをやめない。やめないが、その震えは、ほんのほんのわずか、浅くなる。浅くなったことを、耳ではなく、目でもなく、皮膚で知る。皮膚は時々、目より賢い。
「二回目」
久遠が、目に見えない位置に目印を置くみたいに言った。俺は頷く。頷きの中で、十の数が途中から音に変わる。音は海の底の波みたいに低く、太い。押す。世界はまた薄く滑る。滑った分だけ、時間の布が鳴る。鳴りは短く、すぐに止む。次の層で、霧島は止め具をもうひとつ、別の回路に挟む。挟んだ瞬間、ケージの金網が、まるで目蓋を閉じるみたいに見えた。錯覚だ。けれど、錯覚には、時々、事実が混ざっている。
「——三回目、どうする」
俺が問うと、霧島は一瞬だけ迷い、首を横に振った。「使わない。ここで止めない。止めたつもりになって、別のところが崩れるのが、いちばん怖い」
その判断に、俺は安堵した。安堵の中に、少し苛立ちもあった。止めたい。止めて、終わらせたい。終わらせることで、亜子の三十分の窓がただの窓になる未来を手早く引き寄せたい。短気な自分が、静かな自分を押しのけようとする。押しのけられないのは、同期をしたからだ。三十秒の無音は、短気を短くし、静けさの居場所を守る。
小田が、線の手前で小さく手を上げた。「終わったら、呼んでくれ」。声の抑揚は一定で、そこにだけ疲労の影が浮いていた。財前は「終わってなくても、終わりでいいよ」とふざけて、すぐに「嘘」と付け足した。軽さは、ときに礼儀だ。重い場所で軽いことを言える人は、ただの無神経とは違う。
片付けをして、工具箱の蓋を閉め、ケージの前で三人で短く礼をした。礼は、誰に向けてでもない。装置に、場所に、時間に。礼をすると、体の重心が一瞬だけ低くなり、戻るときに軽くなる。軽くなることで、油断が減る。
*
その日の夕方、部室で短い共有。ホワイトボードの「恋/安全/説得」の三角形に、小さな円がいくつか足されていた。円は、同期の記号だ。霧島が黒で描き、久遠が青でなぞり、俺が鉛筆で薄く影を付ける。色を重ねるほど、円は目立たなくなる。目立たなくなることが、時々、必要だ。
「明日以降も、停止の効果を観測する。急がない。——“同時”はゼロにならない。けど、散らせる」
霧島が言う。散らせる、という言葉が、今日の俺にはいちばん効いた。ゼロにしないで散らす。ゼロでは現実が安心しすぎる。散らすことで、現実は用心深くなる。用心深く生きることと、臆病に生きることは違う。言葉で敷居を作る。敷居は、またぐためにある。
窓の外で、夕方の風が校庭の砂を薄く巻き上げる。砂はすぐに落ちる。落ちるスピードは遅く、見える。見える速度のものは、怖くない。見えない速度のものが、怖い。だから、見える速度に変える。俺たちの仕事は、それだ。十分快という単位で、見えない速度を見える速度に変える。変えるたび、疲れる。疲れるたび、三十秒の窓を開ける。窓は、閉じるためにある。閉じられる窓だけが、開く意味を持つ。
*
夜、ベッドの上でノートを開いた。今日のページの最後に、二行だけ足す。〈“同時は危ない”は、恋にも効く〉。〈“無音の窓”は、恋にも効く〉。効く、という言葉は乱暴だが、今日は乱暴な言葉で自分を勇気づける。きれいな言葉は、時々、遅い。遅い言葉は長持ちするが、今日は間に合わない。間に合わせたい夜がある。
スマホに亜子からのスタンプがひとつ届いた。内容は、何の変哲もない丸い顔が目を閉じて“おやすみ”と書かれたもの。句読点はない。絵文字の紫のハートもない。紫が無い夜もある。紫が無いから、白が見える。白は、次に何色でも塗れる余白だ。俺は「明日の朝、三分。——よし」で返す。よし、の一語の右に、ほんの少し空白を残す。空白は、約束の椅子。椅子は、座れるときにだけ座ればいい。
灯りを落とし、目を閉じる直前、胸の中で“チクタク”が小さく鳴った。恐怖のソファは、まだ居間にある。どいてはくれない。けれど、今日の無音の三十秒で、ソファの位置は部屋の隅に移った。中心にない。中心にない恐怖は、家具だ。家具は、共存できる。家具の角に小さなカバーを付けるみたいに、俺たちは明日も、言葉で角を丸めていく。角を丸めた数だけ、ぶつかっても血が出ない。血が出なくても、痛みはある。痛みがあるなら、覚えていられる。覚えていられるなら、次は少しだけ、うまくやれる。そう信じるだけの同期が、今日は取れた。取れたから、眠る。眠りは、次の十の前の、最長の“無音”だ。いい無音でありますように、と心のどこかで祈りながら、俺は深く落ちた。
*
翌朝、三分の前に、俺たちはまた同期を取った。耳を塞ぎ、目を閉じ、無音の三十秒。隣のレーンでアップする他学年の足音が、遠ざかるでも近づくでもなく、一定に保たれる。保たれている時間の中で、俺の脈は彼女の脈に寄り、彼女の脈は俺の脈に寄る。寄りすぎない場所で合う。寄りすぎると、ひとつになってしまう。ひとつになることは、時々、事故の前触れだ。二つで合う。それが、今の俺たちのやり方だ。
「よし」
開けた目の中で、彼女が笑う。よしの角度。俺は同じ角度で返す。層は重なり、十は今日も、前からやってくる。やってくるたび、俺たちは合わせる。合わせるたび、少しずつ疲れ、少しずつうまくなる。うまくなってしまうことの怖さを、霧島はきっと知っている。だから今日、彼は言葉を短くした。短くした言葉は、後悔の角を、未来形で削る。削られた角は床に落ち、目に見えない粉になる。粉は、呼吸と一緒に体に入り、血の中で静かに沈む。沈んだ粉と、今日の無音と、白いチップの軽さのすべてを抱えて、俺たちは今日に入る。入った先でまた、誰かの「正しい」と誰かの「早い」がぶつかる。そのぶつかり方に、俺たちは線を引く。曲がった線。約束の線。五分の橋。三十秒の窓。——その全部をノートの紙の上に、今はまだ小さな字で並べておく。小さい字のほうが、長く読める。長く読むものだけが、未来の地図になる。今はまだ、ざらざらしている地図だ。ざらつきは、手触りの保証。手触りのある未来は、怖くない。怖くないと言えるほど、怖い。だから、今日も同期する。同期してから、巻く。巻く前に、耳を塞ぐ。耳を塞いで、聞こえる音を選ぶ。選んだ音だけで、十分だ。十分は、俺たちの単位だ。単位は、今日もまだ、壊れていない。壊さないまま、次の山に入る。入る前に、息を合わせる。合わせた息の中に、彼女の笑いが薄く混じる。それでいい。それで、いい。
第10話「秘密」
研究用時計停止の当日、校門の鉄柵は夜の冷たさを少しだけ残していて、掌を添えると皮膚の奥まで金属の記憶が沁みてくる。空気はよく磨かれたガラスみたいに薄く、息を吸うたび、咽喉のどこかに微かな鈴が触れて鳴る。理科棟へ向かう渡り廊下の角では、古い蛍光灯がまだ点灯の準備を終えていないのか、光の縁がいちどだけ弱く揺れた。今日は、止める。心臓じゃなくて、心臓のふりをしていた装置を。十の山に呼吸を合わせてきた日々の、その鼓動源を。
部室の扉を開けると、霧島はホワイトボードに今日の段取りを三段で書き分けていた。①電極絶縁の徹底。②竜頭の固定による周期停止。③ケージごと別室へ移動。黒いチョーク(白板ペンが切れたのだと言う)が線を引くたび、小さな粉が空気に舞い、朝の斜光で粒が見える。「十分快×三回の配分は、湊と久遠の同期巻きを前提に。無音の三十秒で主観の位相を合わせてから、同時に竜頭へ触れる。——巻くのは『検証のための上澄み』だけ。止める手は、巻いた回数分だけ慎重に。」
ジャージの袖口から覗く手首の骨が、彼の夜更かしを語っている。黒板の横には、いつもの透明ケース。白いチップが各自三枚ずつ、きちんと重なって互いの縁で影を作っている。それを見ただけで、背中の筋肉が小さく引き締まる。三は短い。短いからこそ、順番は言葉にしてから手に渡すべきだ。
「①は俺が切る。②は湊と久遠、同期してから同時。③は全員で。小田さんにも立ち会ってもらう。財前くんは廊下で待機、通路の確保と声がけ。蜂谷先輩は教員への説明」
役割が配られるたび、久遠は「うん」とだけ答えた。声は薄いけれど、薄いなりの重さがある。薄い鉄板は厚い鉄板と別の音で鳴る。違う音のほうが、遠くまで届くことがある。俺は内ポケットのノートを確かめ、表紙の生成りのざらつきで今日の指の力を測った。「無音の窓 三十秒」。昨日、亜子と貼った紙片の小さな角が、ページの間から控えめに覗いている。
*
理科準備室は、いつもより片づいて見えた。棚の薬品は危険度順に距離を置かれ、ファラデーケージの足元には新しいゴムのマットが敷かれている。壁の札——「取扱注意:高電圧実験歴有」は、紙の縁がやはり丸く、誰かに何度か撫でられたあとみたいに柔らかい光を吸っていた。ケージの中の手巻き時計は、相変わらず音を立てない。ただ、目を凝らすと、秒針が表面張力の水面を押し分けるように微細に震えているのがわかる。
「いくよ」
霧島が絶縁手袋をはめ、ケージの側面に配された端子をひとつずつ外していく。古い布テープの代わりに新しい絶縁材を巻き直し、接地を別経路に逃がす。細いリード線が空気の中で金属の匂いを薄く流し、その匂いがオゾンの残り香と混ざる。彼の手つきは瑞々しくない。乾いた、正確な動物の仕草に近い。必要な角度で必要なだけ動き、無駄に空気を撫でない。
一回目——絶縁は成功。霧島は親指と人差し指で小さな○をつくって見せ、俺たちは無言で頷いた。頷きのテンポを合わせることが、二回目の成否を半分決める。俺は久遠と目を合わせ、両耳を塞いだ。三十。数え始める。十の前にある数字が、今日はやけにたくさんいる気がした。三、五、八。数字の輪郭が厚い。二十四。肺の皺が一回分増えたみたいに息が深くなる。二十七、二十八、二十九、三十——目を開ける。呼吸が揃った。世界の粒子が同じ速度で流れはじめる。同期は、音楽の冒頭のカウントみたいに、安定のための見えない隙間だ。
「二段目——竜頭」
霧島がケージの蓋をそっと上げる。蝶番が、小さくひと鳴きする。俺と久遠は対面に立ち、同じ角度で腕を差し入れた。竜頭の金属は、夏の鉄みたいに熱いわけでも、冬の鍵みたいに冷たいわけでもない。触れた瞬間、むしろ乾いた温度の層が指の腹を撫でた。俺は合図を待ち、久遠の瞼の端がほんのわずかに動くのを見て、同時に押し回す。固い——けれど、回る。回る角度が途中で抵抗を変え、装置の奥のどこかで骨のない小さな生き物が姿勢を直すような手応えがあった。
その瞬間、世界が逆流した。耳の奥で“チクタク”が突然、早回しになる。秒針が時間に追い立てられて走り出し、準備室の蛍光灯がストロボのように点滅した。白い光の間に黒が挟まれ、黒の間に白が挟まれる。光は剝がれ、音は硬く、空気は紙のように薄くなる。戻るな。——装置がそう言っている気さえした。戻るというのは、ほんとうは嫌われる行為なのかもしれない。見たことのある景色をもう一度見るために、世界のほうをねじ曲げるから。
「——無音」
久遠の声が、膜の向こうで合図を打つ。俺はその声に従って、彼女の手首を掴んだ。彼女も俺の手首を掴む。互いの脈の高さを相手の皮膚から借りる。耳を塞ぎ、目を閉じる。二十七、二十八、二十九、三十。数の最後の角で、不意に光が柔らかくなる。蛍光灯のチカチカが止まり、秒針の暴走が静かに息切れして、床の静電が指先から降りた。波は越えた——久遠が目だけでそう言った。握っていた手首を離すと、皮膚に指の淡い跡が残っていて、そこにだけ時間の名残が居座っている。
霧島が、固い息をひとつ吐く。「あと一段。——移動」
俺たちはケージの下に台車を差し込み、四隅をベルトで固定した。金属の足がゴムの上で短く鳴り、車輪のグリースは新しい匂いで廊下の空気に薄い光沢をかぶせた。小田が通路の扉を開け、財前は前を走って人の流れを端に寄せる。十分快の山がさっきから中腹のまま停滞しているような手応え。未決の重心。こういうとき、言葉は乱暴になる。乱暴にしないために、俺は口の中で「よし」をひとつ作って噛んだ。
廊下の角を曲がったところで、彼女に出会った。沙織さん。髪をひとつにまとめ、薄いグレーのコートの裾を指で押さえたまま、俺たちの台車を驚いた目で見た。亜子の母——交通量の多い現実の中で、彼女は常に子どもの側で風除けになってきた人だと思っていた。その人の視線が、ケージに釘づけになる。「それ、まだ動いてる装置?」
「動いてました。——これから、別室へ」
俺が答える前に、霧島が丁寧に頷いた。沙織さんは、台車に近づきすぎない距離で足を止め、指先だけで空気を触るみたいにしてから、言った。「昔、この学校で似た装置を扱っていたの。卒業生だった頃。理科主任の研究班にいて、主観時間がどうのって、たいそうな言葉だけ並べて。——あの頃は、怖さを知らなかった」
秘密が一枚、剥がれる音がした。カレンダーのページを一枚めくるときの、あの耳鳴りにも似た音。俺は、沙織さんがこの学校の卒業生だということを知らなかった。いや、聞けばどこかで一度見た気もする。紫のハートのスタンプは、軽さのための習慣で、過去の重さのカバーでもあったのだ。彼女の瞳の奥に、ブラウンの薄い層が隠れているのが見える。学生時代のラボの光がまだそこに残っている。
「倒れた人がいた。研究で、じゃない。研究の先にある、日常で。——時間をいじると、日常が歪むの。歪みに気づくのは、いつも遅い」
霧島が一瞬だけ目を伏せた。日高の名を口に出さなかった。言葉には重さがある。重さを出すと、その場所に沈む。沈むと、運べなくなる。今は運ぶときだ。俺は台車のハンドルを握り直し、沙織さんに「通ります」と短く告げた。彼女は身を引き、しかし去らずに廊下の端で見守った。見守る、という動詞は、距離の中に体温を残せるのだと、はじめて知る。
「あなた、湊くんね」
呼び止められた。立ち止まった右足の小指が、靴の中で少しだけ当たった。「はい」と答えると、彼女は迷いなく言った。
「うちの子、勝ちたいって言うでしょ。あれは、私の未完が刺さってるの。取り除けなかった棘みたいに。——でも、今日あなたがこれを運ぶのを見て、少しだけ刺さりが浅くなった気がする」
そんなふうに言ってもらえる資格が、俺にあるだろうか。わからない。けれど、言葉は受け取った重さの分だけ、誰かの肩から落ちる。落ちた分、俺が持つ。持った重さは、十の単位に換算できるはずだ。十の山ひとつぶん。運べる。
別室への移動は静かに終わった。ケージは古い実験倉庫の半地下に置かれ、竜頭の固定は二重の留め具で封じられた。電極は盲端化され、台帳には「停止」「暫定」「観測中」の三つの朱が、きれいに並んで押された。久遠が簡易センサーを最後に一度だけかざす。針は震えない。十分快の山は、遠い地平に薄く見えるだけ。近くには来ない。停止実験は成功——霧島がその語を口にした瞬間、胸の奥の筋肉がほぐれた。それと同時に、空虚が少しだけ入ってきた。核が鳴り止んだことの静けさに、耳が慣れるまでの間の、寂しい隙間。緊張が音楽だったなら、その音が突然止まったステージの上で、観客に背を向けたまま立ち尽くす演奏者みたいな、どうしようもない間の悪さ。
「静かな時間にこそ、人間の矛盾が出る」
霧島はいつもの調子に戻って言った。装置が止まっても、人が走れば熱は出る。熱には酸素が要る。酸素はルールから漏れる。ルールは更新する。——頭の中のホワイトボードで、彼の言葉はいつも少しだけ先に斜体になる。焦りではなく、前傾の意志。
*
夕方。外階段の踊り場で、亜子と向かい合う。禁止日の前夜。彼女は体育館の裏側からの風を背中で受け止め、そこからこぼれたやわらかい風だけを俺に分けるみたいに立っていた。ノートを差し出すと、彼女は二枚目の付箋の角をつまんで、目で読んだ。「明日から二日、巻かないし、恋の話はしない。——その前に、言っておきたい秘密がある」
秘密。音の立たない文字。彼女の声はいつもより少し低い場所から出て、途中であがって、また下りてきた。
「お母さん、卒業生。理科主任の研究班にいた。——なんとなく、わたし、知ってた。紫のハートが、昔の彼女の色だから。今日、準備室の前で、湊の後ろにいるの見て、ああ、やっぱりって思った」
彼女は語った。途切れ途切れに。昔、装置のそばで倒れた人がいたこと。そのことで母が罪悪感を抱えたこと。自分が勝つことで、その罪悪感の影が薄くなるのではないかと、どこかで信じてしまっていたこと。勝てば救える、という単純な算術に、何度も引き戻されそうになったこと。勝てない日に、自分の価値が軽くなるような錯覚が、喉の奥のほうで毎回、砂になって残ったこと。——その砂は、練習の汗では流れない。
俺は巻かないで聞いた。「慰め」は、今日のルールにない。「正解」も、いらない。約束だけを置く。
「勝っても、負けても、あなたの居場所はここ」
言葉は短く、椅子のかたちで。彼女は、そこに座るかどうかを決める自由を、自分の手に残す。「ここ」に含まれる空間は狭くて広い。部室の机の端。外階段の金属の冷たさ。無音の窓。俺の胸の中の椅子の背。彼女は座らない。座らないけれど、「あるね」と言って、椅子の背に指を触れた。その触れ方は、帰り道に自販機の縁をそっと撫でるみたいに、日常の癖に馴染んでいた。
ミーティングが終わる直前、階段のずっと向こうで遠雷が鳴った。春の前の電気の擦れ。核は止まったはずなのに、胸騒ぎが薄い紙切れみたいに腹の中で裏返る。スマホが短く震えた。霧島から。「装置は止まった。だが——」そこで文が途切れた。『だが』のあとに、どんな名詞がくるのか。『装置は止まった。だが、人は止まらない』。『だが、誰かは動く』。考えられる語がいくつも頭の中で列を作って、どれも前に出られずにいる。
「何?」と返す前に、既読がつかない。理科棟の方向、準備室の窓が、一度だけ内側から光った。蛍光灯の自然のチカチカではない。人為の直線。夜を割る刃物の光。核が止まれば、次は人が動く。事件は、装置の心臓にだけ住んでいたわけじゃない。俺たちの歩き方にも、呼吸のリズムにも、紐の結び目にも、事件の種は潜っている。
「帰るね。——二日、巻かない。恋の話もしない。『無音の窓』で会えるように、練習の中に余白つくる」
亜子はそれだけ言って、スニーカーの踵で階段の縁を軽く鳴らし、降りていった。背中はまっすぐ。まっすぐな背中は、ときどき怖い。でも、今日は怖くなかった。まっすぐの線の先に、曲がった線の約束がもう引いてあるから。曲がっているのに、先に延びていく。そういう線を、俺たちは選び続ける。
*
ベッドの上にノートを開き、禁止日の約束を見つめる。『試合前二日:巻かない/恋の話しない/翌日“無音の窓”三十分』。ペン先を噛む。どこまで噛んだら壊れるのかを知っている。壊れる手前でやめる。やめる、この小さな自制が、明日の大きな自制の予告になる。巻けない二日。けれど、その二日は、恋を守るための時間。守る、という動詞は攻めと違って数えにくい。数えにくいから、忘れられやすい。忘れられやすいから、書く。
『——明後日、“無音の窓”で会おう』
祈る。祈りは科学ではない。ルールにも入っていない。けれど、同期を助ける。心拍と心拍の間に薄い橋をかけるとき、人はたいてい科学ではないものを呼ぶ。呼んだものは、たいした役には立たない。立たないけれど、いないと困る。そういう存在のために、ノートには余白がある。
灯りを落とす。天井は低くも高くも見える。耳の奥で、時計のない“チクタク”が続く。装置の針ではなく、体のどこかにある見えない針が、薄い影を秒ごとに床に落としていく。二十七、二十八、二十九、三十——眠りの手前で、階下の排水管が水を流す音が遅れて届く。遅れて届く音は、今起きていることの中に、前の時間が混ざっている証拠だ。混ざりものは、怖い。でも、まったく混ざらないもののほうが、もっと怖い。
*
禁止日の一日目、朝練の空は灰色で、雲が低い。亜子は「三分」とだけ言い、スタート練習の前に目を閉じた。互いに耳を塞ぎ、無音の三十秒。彼女の脈は昨日より少し速い。速いけれど、乱れていない。乱れない速さは、強さ。走り出す背中に、言葉はひとつも投げない。彼女は自分で拾える。拾えない日は、拾えないと言うはずだ。言える相手がいるということが、彼女の走りの一部になっている。俺の仕事は、その「言える」を薄く磨くこと。磨きすぎないように気をつけながら。
午前、霧島からの連絡はない。午後、部室のホワイトボードの文字は昨夜と変わらず、黒の上に青の丸がいくつか重ねて描かれている。久遠は窓際で風の向きを観察し、紙センサーのログをノートに写す。「——放電、ゼロ」。数字は静かだ。静かだと、逆に不安が増す。人間は変化で安心し、静止で不安になる生き物だ。動いたほうが死に近いのに、奇妙だ。
夕方、理科準備室の前を通る。窓は暗い。内部のケージは別室に去り、棚に残った空隙だけが器官を失った体の空洞みたいに見える。扉の隙間から、紙の匂いがした。化学薬品の匂いじゃない。台帳とダンボールの匂い。紙の匂いは、安心だ。火の変換の匂いでもあるけれど。
夜。霧島からやっと短文が来る。「装置は止まった。だが、誰かが『止まった空白』を欲しがる」。続けざまに、「今夜、準備室近辺は鍵強化。ただし鍵は“ぜんぶの人”を止めない」。彼は鍵という言葉を軽く嫌っている。鍵は安全の仮面を被る。仮面は便利だが、長く被ると顔の筋肉が死ぬ。鍵を増やす代わりに、俺たちは無音を増やす。無音は顔を殺さない。
*
禁止日の二日目、亜子はいつもより早くグラウンドに来て、サークルの中で足首を回していた。俺は手を振るだけで近づかない。距離の正確さは、恋の側でも安全の側でも等しく効く。彼女はうなずき、視線をレーンの先に戻した。俺は脇のベンチに座り、ノートを開いて、余白に小さく「——見守る」と書いた。見張ると見守るの違いは距離ではなく、視線の温度だと知って以来、この二語は俺の中でよく入れ替わる。
放課後、準備室の近くの廊下に新しい掲示が出ていた。「装置移送に伴う立入制限」。文言は固い。固い言葉は、存在の輪郭を曖昧にすることがある。曖昧になると、隙間が増える。——隙間は必要だ。必要だけれど、そこに入ってしまう人がいる。入ってしまう人の速度は、鍵より速い。
夜、スマホが震えた。霧島から。「明日、ケージ周辺の最終封印。三十分だけ全員集合。無音で始めて、無音で終わる」。通知の白が、部屋の暗さの中で四角く浮かぶ。『無音で終わる』という文の形が、思ったよりきれいだ。きれいだから、怖い。終わりはいつも、きれいな顔をして現れる。終わらないもののほうが、不格好だ。でも、不格好のほうが生き延びる。
枕元に時計のない“チクタク”が続く。祈りみたいな、あるいは祈りよりずっと正確な、体の奥の織り機の音。明後日、“無音の窓”で会えるように。彼女が二日を守れるように。俺が二日を守れるように。守ることが攻めの練習になるように。——祈る。祈りは、科学じゃない。科学じゃないけれど、同期を助ける。助けられた同期は、明日の十分快の山を低くする。低くなった山は、足で越えられる。越えられる山は、もう山じゃない。そう考えられる程度には、俺は今、自分の速度を信じている。信じられる速度のまま、目を閉じた。
*
封印当日。再び理科準備室の前。廊下の空気は昨日より軽い。鍵の金具は新しい傷を作らず、扉の縁のゴムが柔らかな密着音を立てる。久遠は耳を塞ぎ、俺も塞いだ。無音の三十秒。三十の手前で、一秒だけ、誰かの気配が廊下の向こうで止まった。止まる気配は、音よりも重い。重いけれど、時間の階段は登ってくる。三十。手を下ろす。
封印は滞りなく終わった。ケージの蓋は二重の鍵で閉ざされ、竜頭は固定具で覆われ、台車の車輪は外された。記録用紙には「封」「了」の朱。朱肉の匂いが、朝の金属の匂いと混ざる。小田は最後に、捺印された朱をじっと見て、「責任が、別の形になる」と言った。財前は「合法最短路」の紙を折り畳み、胸ポケットに差し込んだ。折り目のついた紙は、使われる。
解散のあと、廊下の角で、沙織さんとまたすれ違った。「封印、お疲れさま」と言われ、心臓の裏側で何かが少しだけ温かくなった。「勝ちたい」は、誰かの「あのとき止めたかった」の裏返しでもある。裏返しの糸を千切るには、時間が要る。時間の脇にある空白——無音の窓——に座ることでしか、千切れない糸もある。「明日、会えますか」と俺が無意識に尋ねそうになって、やめた。聞くのは俺じゃない。明日、会うのは、俺と亜子だ。
*
夜。外階段の手すりは、昨日より冷たい。禁止日の二日が終わった。メッセージが一つ届く。「明日、三十分の窓で座る」。句読点はいらなかった。俺は「よし」と返し、それから、手帳の端に小さく書く。〈装置は止まった。だが——〉。その『だが』のあとに、今日なら書ける言葉がいくつかある。『だが、人は走る』『だが、誰かは開ける』『だが、秘密は残る』。秘密は、悪ではない。未完の形。未完は、未来形に近い。未来形に直せる秘密だけを、俺たちは持つ。直せない秘密は、祈りの側に置く。祈りは、科学じゃない。だけど、誰かの十と俺の十を、また一本にしてくれる。今夜も、胸の奥で、時計のない“チクタク”が続く。数字は出ない。出ないのに、確かに、そこにある。無音の三十秒の中で、明日に向けて、わずかに早まる。俺は目を閉じ、音のない音で数えながら、眠りへ滑り込んだ。明日、窓を開けるために。窓の先で、同じ速さの影を見るために。よし。——よし。
第11話「犯人の動機は“守りたい”」
研究用時計は止まった。封印の朱が乾いた翌日の朝、校庭の砂は夜露を少し吸って重く、踏めばぺたぺたと低く鳴いた。金属の匂いは薄れたはずなのに、理科棟へ向かう渡り廊下の手すりに手をかけると、指先にだけ冷たい金が残っている気がした。昨夜、窓の内側で光が跳ねた——蛍光灯の寿命が出す鈍い点滅じゃない、人の手が入った直線の光。あれはいったい、何を意味していたのか。装置が眠りについたのなら、次に動くのは人だ。誰かが、時間の寝床の端っこを指で摘んで、こっそり布団をめくったに違いない。
部室の扉を開けると、霧島は窓際に腰をかけ、スマホを両手で挟んで静かに息を吐いたところだった。届かない既読のアイコンが戻っていて、彼は短く打った文字を、さらに細かい粒に解すように目で撫でる。
「昨夜、準備室に“合鍵”で入った痕跡。監視カメラは死角が多い。——鍵の履歴は、理科主任の黒瀬、助手の小田、生徒会設備係の財前、そして“もう一人”。卒業生用の臨時カード」
「卒業生……?」
思わず声の高さが半音上がる。文化祭や体育祭の時期なら、OBが出入りすることはある。けれど、今は該当期間ではない。廊下の掲示板に貼られた年間予定表を頭の中でめくる。該当なし。なら、それは「行事」ではない私的な出入りだ。
「カード自体は“保全”名目で発行できる。作業請負の外部、卒業生の非常勤。——細い合法の道。細いから、見落とされる」
霧島の声は乾いていた。乾きは怒りの前触れにも、諦めの後にもよく似ている。けれど今の乾きは、どちらでもなかった。把握の乾き——情報が水気を失って形になり、ひとつずつ棚に立つときの静けさ。
「まず配分会議だ。十分快×三回。目的はふたつ。①犯人確定のための“層跨ぎ観察”。②恋の禁止日を守るための“巻かない”設計。——湊は今日から二日、巻かない。亜子さんとの約束を守る。事件は久遠と俺で行く」
「行くって言っても、久遠の残渣が溜まってる」
「わかってる。だから、二人で一回ずつ。最後の一回は“何もしない”に使う」
「何もしない十分快……?」
「無音の三十秒の拡張版だ。あらかじめ“何も起こさない十分快”を確保して、反動を吸収する。層の揺れを意図的に平板化する。——筋の悪い介入を減らせる」
ホワイトボードに、彼は三本の棒を描いた。一本目の上に「観察」、二本目の上に「追跡」、三本目の上に「空白」と書いて、小さな円を重ねる。円は同期の記号。黒の上に青でなぞり、さらに鉛筆で薄い影を付けると、円は目立たなくなっていく。目立たなくなることで、存在は内部に沈む。沈んだものは、急に揺さぶってもこぼれない。
「湊、財前くんへの“巻かない説得”は継続。『早く終わらせたい』の動機を責めない。最短路を合法に作り直す。——小田さんには、安全投資の議事メモ。決裁の見込みを示して、待たせない時間を渡す。俺たちが疑っていた二人に、犯意はない。確信に変えたい」
俺は頷き、ノートの端に〈早いを合法で短く〉と書いた。文字を自分に向けて置く。置かれた言葉は、行動の指の癖になる。その癖は、緊張の場で勝手に動く。
*
午前のうちに財前を捕まえる。体育館裏、配線図のコピーを広げ、二人で腰を折って覗き込む。紙の上で矢印は簡単に曲がるが、現場のケーブルは曲がらない。だから図の精度は紙より床に合わせて上げる必要がある。
「見て。こっちのルート、許可さえ取れば、総延長が二割減る」
「許可がめんどいんだよ」
「だから、その手間の“並列化”。連絡の順番をひとつ入れ替える。ここ、今まで“後”に回してた申請、先に電話一本。そしたら実作業の待ちが消える。——禁止テープを剥がして貼り直すより、トータルで速い」
「……速い、か?」
財前は疑う。疑いは、彼の正直さだ。短縮のためにルールをまたぐ癖は、たいてい正直さの欠落から始まる。でも彼の疑いは速度の純度に向いていて、規則の嫌味に向いていない。その視線の方向なら、まだ話せる。
「速い。言い切るために数字にしてきた」
プリントを差し出す。表は三行だけ。手続/所要/並列可否。余白が多い表は、相手の思考に場所をあける。財前は目線を紙と床の間で二往復させ、やがて渋面のまま小声で言った。
「……すまん」
礼だ。彼は謝るとき、“すまん”を先に置く。謝罪と礼の混合。俺は肩をすくめ、紙を折り畳む。「こっちも助かる。安全側の速度、実績を作るのはこっちの仕事だ」
彼は頷き、束ねたケーブルの端を足で持ち上げてから、ふと表情を緩めた。「この表、もらっていい?」。紙の折り目は、今日中に増えるだろう。
小田には昼休み、理科準備室の前で会う。安全投資の議事メモ、決裁見込みの線を引いたコピー、寄贈候補一覧。彼は受け取って、朱のハンコ列の上に置いた。手の甲の血管の浮きは昨日より少ない。
「湊くん」
「はい」
「君たちの“巻かない説得”は、助かる。助かるけど、君たちの“巻かない”がいつも続くわけじゃないことも、ちょっとだけわかる。——だから、こっちも急ぐ」
彼の「急ぐ」は、誰かを置いていくための速度ではなく、誰かに追いつくための速度だ。速度の向きが同じであるうちは、事故は起こりにくい。向きが違う瞬間に、角が火を生む。火を生ませないための紙を渡す。それだけだ。
*
放課後、部室で最終の配分確認をしてから、俺は帰宅のルートに乗る。禁止日の一日目。亜子との「恋の話は禁止」。校門の影に彼女が立っていて、俺を見るなり目尻を少しだけ上げた。言葉のない挨拶。言葉を増やさないことが、約束の形。
「無音、いく?」
「うん」
耳を塞ぎ、目を閉じる。三十秒。彼女の脈は、昨日よりももっと均一だ。試合前の二日、彼女は“巻かない”を選んだ。選んだことが心拍の配列を整える。無音の窓を開け終えると、彼女は短く息を吐いて笑った。
「静かって、怖いけど、心が均されるね」
「うん」
うなずく。うなずくだけで、約束が更新される。短い会話は、長い沈黙を支える脚。脚が折れないように、節のところに布を巻いておく。今日は布の巻き方だけ覚える。
*
夜。時刻は二十時台。久遠と霧島から、グループに小さな「いく」の文字。白いチップの写真は送られない。数えるのは部室の棚の上で。文字だけが、層をまたいでも色を変えない。
——一回目。
図書室の端末。古いブラウザの履歴ページに残っていた数列から、卒業生用臨時カードのログイン痕が呼び出される。古い名義。日高。霧島が以前、喉の奥で苦い音を出した名前。倒れた助手。卒業扱いのまま、非常勤契約で出入りできる資格が残っていた。そのカードで、一週間前から二度、夜の準備室にアクセスした履歴。日時。十の山の近傍。
「——日高」
久遠の短いメッセージが、画面に現れる。点と線が繋がる音はしない。音がしないのは、彼女がいつも先に耳鳴りの数を整えるからだ。整ってから、文字は置かれる。
——二回目。
準備室周辺を張る。廊下の曲がり角の空気の流れが変わったのは二十時五分。現れたのは、日高ではなかった。沙織さんだった。彼女は事務室で何かの書類を受け取り、準備室近くで足を止めた。扉に触れない。窓の向こうを見つめ、息を細く吐いてから、踵を返した。髪の束が首筋で揺れ、光を一度だけ吸ってから離す。昨夜の光に似ていた——けれど、それは人為の直線ではない。迷いの曲線。火種にはならない。火を思い出す動きだ。
——三回目は、使わない。二人は部室で黙って座り、“何もしない十分快”を丸ごと飲み込む。呼吸が落ち着くのを待つ。十分快は長い。長くて、何も起きない時間を身体に入れておくと、その重さで急な坂の滑りを止められる。
戻ってきたメッセージは、ひと言だけ。「——日高」。推理の骨格は、霧島が組み上げた。
「研究用時計が止まって“安全”が戻ることは、日高さんの英雄性を無効化する。彼は救ってしまった過去に囚われ、今も“自分がいなければ危険が起こる”ことを証明したい。悪意じゃない。善意の過剰。——自分を、守りたい」
善意の過剰、という言い方をしたとき、霧島はかつての自分の横顔を、鏡で斜めから見ているような視線になる。止められなかった過去。止めるために重ねた今。人は、誰かを守りたいと願うとき、自分の輪郭を濃くしてしまう。濃くなった輪郭は、他者の薄い輪郭を押し出す。押し出された輪郭の上に、事件は起きる。
*
翌日。禁止日の二日目。俺は亜子と恋の話をしない。校門で無音の三十秒を吸い、彼女の目の奥の静けさを確認し、頷いてそれだけで別れた。朝練のトラックで彼女が走る姿は、いつものように一本の線に近づいていく。一本の線は、折れにくい。折れにくいけれど、無理に曲げると折れる。だから、曲がる前に曲げない。今日は、それだけ覚えて帰る。
授業の合間、部室に戻ると、久遠が窓際で紙センサーのログを整理していた。夜の間、放電記録はゼロ。数字は静か。静けさは緊張の形を変える。張り詰めていた糸から、柔らかい布に。布は火を遅らせるけれど、完全に消すわけではない。
「——今夜、どうする」
「霧島は“巻かない対話”を提案してる。日高さんに」
「うん」
久遠は頷いた。頷きの角度は浅く、どこか遠くを見るような目の焦点。酔わない彼女にも、連続巻きの残渣は薄く沈殿しているはずだ。触れない沈殿。触れないから、こちらが勝手に心配するしかない種類のもの。
「俺、行くよ」
言ってから、自分の声が思ったより滑らかに空気に乗ったことに驚いた。禁止日の二日目。恋の側の約束は守る。そのうえで、事件の側で“巻かない対話”を選ぶ。矛盾ではない。むしろ、同じ筋に沿っている。巻かないで抱える痛みの重さを、俺はようやく運べるようになってきた。運べるときに、運ぶ。
「霧島の後悔を、俺たちの言葉で終わらせる」
久遠は、少しだけ目を細めて笑った。「終わらせる、は怖い語。でも、今日は、湊が使っていい」
*
放課後。理科準備室の別室——半地下の実験倉庫の手前で、俺と霧島、久遠、小田の四人は立っていた。廊下の照明は等間隔に白い円を床に落とし、その円の上を歩けば、影は途切れ途切れになる。日高が現れるなら、ここだ。ここで現れ、ここで言う。「安全は、退屈だ」。あるいは、「俺たちは、役目を終えた」。どの言葉にも、正しさの薄い膜が張ってある。薄い膜は破りたくなる。破る快感に、事件はよく紛れる。
と、足音。規則的で、少しだけ重い。階段を降りる足音は、若者の弾みではなく、中年の膝の軋みを含んでいる。日高が角を曲がる。俺は彼の顔を写真でしか知らなかった。写真よりも頬が落ち、目の周りの皮膚が乾き、その乾きが優しさに似て見える。その錯覚が、危険だ。
「こんばんは」
日高は先に挨拶した。声は澄んでいた。澄んでいるから、遠くの音を拾いそうで、じつは近くの音しか拾わない種類の声。
「こんばんは」
霧島が返す。間合いは取らない。取らないほうが、平らに話せる相手がいる。日高は、その相手だ。間合いを作れば、彼はそこに劇的な言葉を置いてしまうだろうから。
「封印を見に来た。——止まった?」
「止まった。あなたが来なくても」
言葉の刃は見せない。刃はあるが、鞘に入れたまま渡す。日高はケージの方向を見、首を傾げ、笑った。その笑いは、自分に向けたものだ。自分の滑稽さに気づいたとき、人は笑う。笑える人は、まだ戻れる。
「君たち、偉いね」
「偉くはない」
霧島は乾いた声で否定し、「日高さん」と呼んだ。「昨夜、光りました。準備室の窓。装置は止まっていた。だからあれは、人の光です」
日高は否定しなかった。否定しないことは、肯定ではない。肯定しないで立ち尽くすことが、人間にはある。立ち尽くす間に、言葉は熟し、腐り、形を変える。どの変化を選ぶかで、今日の行き先が決まる。
「……誰も、火をつけたいわけじゃない」
「わかってます」
「だけど、止まった空白が——」
「欲しくなる」
俺が続けると、日高は初めてこちらをまっすぐ見た。目は暗くない。暗いのは瞳孔ではなく、言葉の底にある粘性だ。
「君は、誰?」
「湊です。時間研究対策部の」
「対策部、ね」
彼は薄く笑い、ポケットに手を入れ、何も取り出さないで抜いた。指先にささくれが一本、立っている。細かい血の匂いが、空気の端で一瞬だけ濃くなる。
「私は、守りたかった。装置を、ではない。ここで時間に触ろうとする人たちの、最後の張りつめを」
「張りつめは、あなたが張った?」
「張りつめは、勝手に張るんだよ。私が張ったのは、見えない幕。幕の手前で、みんなが慎重になるように。——安全になる。安全になれば、役目を終える人が出てくる。終えた人が、次の場所に行かないと、場所は腐る。腐る匂いが出はじめると、人は二種類に分かれる。離れる人と、香料を撒く人」
「あなたは、香料を撒いた」
日高は肩をすくめた。「つもりはなかった。——でも、光は撒いた。見える香りは、すぐに見えなくなるから。見えない香りだけ残る。——香りは、善意だと思っていた」
善意の過剰。霧島が推理に置いた言葉が、現物の口から出てくるのを聞くのは、胸の奥の冷たい場所に砂をひとつ落とすみたいな音がした。俺は深呼吸をし、無音の窓を思い出す。三十秒。そう長くは取れない。十秒。十でいい。十の前後で、言葉の角を少し落とす。
「日高さん。“守りたい”は、間違ってない。——でも、“あなただけが守れる”は間違いだ」
「誰でも守れる、って?」
「“誰でも”じゃない。“誰か”だ。交代可能な“誰か”が、日ごとに位置を変える。位置は、誰のものでもない。——あなたは、位置に名前を彫ろうとした」
日高の眼差しの中で、何かが少しだけ傾いた。傾きは危険だ。でも、危険の反対側に、降りられる段差があるかもしれない。
「……ここは、危ない場所だ」
「だから、フェンスを作ってる。フェンスは、門がある。門に鍵もある。でも鍵は“ぜんぶの人”を止めない。——だから、言葉が要る」
「言葉」
「“十秒待って”とか、“今は入らない”とか、“五分で戻る”とか。——あなたが昨日、撒いた光は、言葉の前に出てきた。言葉の前に出てくる光は、怖い」
日高は視線を床に落とし、靴の先で白い線を踏んだ。チョークの線——久遠が引いた“境界”。彼は線を跨がなかった。跨がないで、線の向こうを見た。
「君は、何も巻かないでそれを言うのか」
「言う」
巻かないで言う、と宣言することが、今日の俺には必要だった。巻けば、簡単になる。巻けば、安心する。でも、その安心は、誰かの位置を固定してしまう。固定は、腐敗のはじまりでもある。
「私は、日高さんのように“倒れなかった」。——霧島」
日高の言葉が、霧島に向いた。霧島は頷いた。頷いて、言う。
「倒れたのは、あなたのせいじゃない。あなたの“やり方”のせいだ。やり方は、変えられる。——変えるのは、私たちの役目だ」
「役目……。役目に、二度と戻れない人間もいる」
「戻らなくていい。戻らないで、別の場所へ行けばいい。——あなたの“守りたい”は、ここではなく、あなた自身の“英雄だった頃の自分”かもしれない」
日高は目を閉じた。閉じた目の端で、薄い皺が一本増えた。
「英雄に戻りたいわけじゃない。英雄がいなくても事足りる場所が、私には、怖いだけだ」
「怖いときこそ、無音の三十秒だ」
俺は耳を指で挟む仕草をしてみせた。日高は笑い、両手を上げて見せ、何も塞がなかった。塞がない。塞がないで、彼は息を吸い、吐いた。
「君たちに任せる。任せるのは、負けじゃない。任せるのは、移譲だ」
「移譲は、責任が別の形になること。小田さんがそう言っていた」
日高は小さくうなずき、ケージの方向をもう一度見た。目に映ったのは、眠った金属の箱と、封印の朱と、薄い埃。彼は踵を返した。返して、またこちらを見た。
「——沙織さんには、私からも謝る。昔の光を思い出させた」
「お願いします」
霧島が一歩、前に出て頭を下げた。彼の背中は、昨日よりまっすぐだった。後悔の角が、ほんの少しだけ削れている。削れた粉は、誰かの呼吸に入っていくかもしれない。入ってしまった粉は、静かに沈むだろう。沈むことを怖がりすぎると、歩けなくなる。怖がりすぎない場所で、怖がる。
*
日高が去ったあと、部室に戻って、俺たちは十分快の“何もしない”をやった。無音の三十秒より長い空白は、最初の五分がいちばん重い。次の三分で、重さは馴染む。最後の二分で、重さが軽くなったことに気づく。気づきは冷たい水みたいに体に入る。入れば、次をやれる。
「犯人の動機は“守りたい”」
霧島が言った。言葉はまとめでも、判決でもない。記録のための見出し。ノートに同じ文言を写す。文字が紙に沈む音はしないのに、沈んだ深さは、指先が知っている。
「“守りたい”は犯罪を正当化しない。けれど、“守りたい”を切り捨てると、次の犯罪が生まれる」
「だから、言い換える。“守りたい”を、“任せたい”に」
久遠が、窓の外の風を見ながら言った。彼女の「言い換える」は、いつも断定を避ける。避けることで、言葉が呼吸する。呼吸する言葉は、長持ちする。
メッセージの音。画面には亜子の名。「禁止日、完了。明日、“無音の窓”で座る」。句点のない短文。短文は、今日の体温に合う。
*
夜、ベッドの上。ノートの余白に、今日を何行かで閉じる。〈研究用時計:停止。卒業生用カード:日高。動機:“守りたい”。——守りたいは善意の形で、過剰は事故。〉。次に、〈“何もしない十分快”=反動吸収。無音三十秒の拡張〉。最後に、〈霧島の後悔:過去形に近づく〉。
ペンの先を噛み、目を閉じる。禁止日の二日目が終わり、明日は窓を開ける。外階段の手すりは、きっと昨日より冷たく、座る段差はきっと同じ高さ。俺は目を閉じたまま、耳の奥で十を数える。十の前にある数字が、今日はやけに優しい。三、五、八。優しい数字は、焦らない。焦らない数字の上に、眠りを置く。眠りは科学じゃない。科学じゃないけれど、同期を助ける。助けられた同期は、明日の言葉を少しだけ長持ちさせてくれる。
*
朝。校門の影はまだ短く、グラウンドは薄い霜を踏まれて白い線を細く増やしていた。亜子はすでにレーンに立ち、腕を一度だけ振って肩を緩める。俺は手を上げるだけで近づかない。彼女はうなずき、スタートの姿勢に入る。三分。無音。耳を塞ぎ、目を閉じる。呼吸が合う。合うことが、すべてではない。合ったあとに、ずれることを怖がらないことのほうが、たぶん大事だ。
「よし」
目を開けると、彼女は笑っていた。よしの角度。俺も同じ角度で返す。部室に戻ると、窓際の棚の上の白いチップは、昨日と同じ数だけ沈黙していた。使わないで済む夜が増えることは、誇りになる。誇りは小さいほうがいい。小さい誇りは、明日の動きを邪魔しない。
「今日、放課後。日高さんと黒瀬先生、小田さんとで“話す”。巻かないで」
霧島が言った。言葉は短い。短い言葉は、長い準備の上に立つ。長い準備の上に立った言葉は、風が吹いても倒れない。俺はうなずき、ノートに新しい見出しを書き足した。〈対話/移譲〉。その下の余白は、まだたくさんある。余白があるのは、未来があるからだ。未来があると知ることと、未来を信じることの間には、小さな隙間がある。その隙間には、祈りが入る。祈りは、科学じゃない。けれど、俺たちは祈りのぶんだけ、十をゆっくり数えられる。
「犯人の動機は“守りたい”。——なら、俺たちの動機は、“任されたい”。任されるだけの言葉を、今日も選ぶ」
自分に言ってみる。言って、少しだけ恥ずかしくなり、笑う。笑いの恥ずかしさは、たいてい正しい方向のしるしだ。しるしがあると、道が道らしく見える。道らしく見える道は、もう半分は歩けたも同然だ。残りの半分は、呼吸で行く。呼吸は、十で整う。十の山は、今日も前からやってくる。やってくる山に、俺たちは耳を寄せ、無音と空白をポケットに入れて、待つ。待つことは、動くことの一部だ。——それを、やっと信じられるようになった。今朝の空は、少しだけ広い。広く見えるのは、たぶん、心が均されたからだ。均された心の上で、事件と恋は、今日も同じ速度で並んで歩く。歩きながら、互いの影を見失わないように。影は、いつでも先に伸びるのではなく、時に後ろへ、時に横へ。伸び方の違いを、笑って言い合えるうちは、大丈夫だ。そういう確信だけを胸に、俺は教室へ向かった。白いチップは、まだ、胸ポケットの内側で軽かった。軽いまま、その日を始めた。
第12話「巻かないで救う」
昼の鐘が、普段よりも一拍遅れて胸に落ちた気がした。午前の授業のどれにも身が入らなかったのは、黒板の文字が粒になって漂い、いつもの速度で意味の床に落ちてくれなかったからだ。理科棟のガラスは、昨夜の冷えをまだうっすらと抱え込んでいて、太陽が当たっているのに指先で触れると、硬い布のように冷たい。研究用時計は止まった。封印の朱は乾き、台帳の列はきれいに揃っている。——それでも、準備室の窓は内側から光った。装置の心臓が眠ったあとの光は、人の心臓から出た光だ。誰かが、良かれと思って、あるいは良かれと思い込んで、時間に触れようとした。
昼休み、校内の喫茶コーナーは珍しく空いていた。午前の三年生が自習に散ったのか、テーブルの間の通路に影は薄い。コーヒーマシンの前に短い列ができて、紙コップの積み重なりが少しずつ低くなる。窓際の席に、彼が現れた。やつれた頬、目の下の薄い影、けれど眼差しは鋭いまま、乾いた光を宿している。日高。写真で見たときよりも細く、写真よりも「いま」の温度でそこにいた。
「——日高さん」
呼びかける声は、思ったより平らに出た。揺らす必要のない声だった。日高は振り向き、俺たちを順番に見た。霧島、久遠、俺。彼の目は、誰の肩にどれだけの荷物が乗っているかを測る癖を、身体のどこかに染み込ませてしまっていた。測られるほうは、測られるだけで少し疲れる。
「こっち、空いてます」
巻かないで、時間をかけて席へ誘う。これを急ぐと、話の最初の言葉が嘘になる。俺たちはテーブルの端にメニューを寄せ、紙ナプキンの箱を中央に置き直した。日高は座り、前のめりにならない姿勢を選んだ。背もたれと肩甲骨の間に、薄い空気の層を残している。
霧島が口を開く。
「——研究用時計は止めました。封印は二重。竜頭の固定も、電極も。あなたがやってくれてきた“未然防止”は、これからは制度で引き継ぐつもりです。人ひとりの肩に乗せない」
その文は、昨夜から何度も磨かれてきた文だ。角が立たないように、けれど安易に丸め込まないように、言葉の重心を微妙に調整してきた。日高の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「君たちが時間を弄ってること、知ってるよ」
「弄ってる」という動詞は、わずかに軽蔑の匂いを持つ。日高はそれをわかっていて、あえて使った。霧島は微動だにしない。日高は続ける。
「あの装置は、偶然を集める。集めた偶然を、誰かの意思のほうへ傾ける。危ないのは——お前らだ」
その一言で、テーブルの上の空気が、冬のガラスみたいにひやっとした。言葉は正しい面を持つ。危ないのは、確かに俺たちだ。危ないものを危ないと呼ぶことは、正しさの一部だ。正しさだけが並ぶと、会話は平行線に入る。
「——助かった側として言います」
久遠が、短く挟んだ。彼女の文は、いつも息継ぎの位置がうつくしい。言葉が行き過ぎない距離で止まる。
「助ける人が倒れたら、助けは続かない」
日高の視線が、久遠に刺さる。刺さる視線は、相手の皮膚を破るためではなく、自分の皮膚を確かめるためのときがある。彼は苦笑した。
「俺は倒れたろ、もう」
苦笑の角には、悔しさと、諦めと、薄い誇りの粉が混ざっていた。粉は声にならない。声にならない粉を、言葉の中に均等に混ぜるのが、彼という人の癖なのかもしれない。
ドアのベルが鳴って、冷たい外気が細く流れ込んだ。沙織さん——亜子の母が入ってきた。コートの裾を指で押さえ、視線が喫茶の奥へ伸びる。日高の顔を見た瞬間、彼女は立ち尽くした。時間が一手だけ遅れて彼女に追いつき、その背中に重さを載せる。過去の研究班の仲間。逃げるでもなく、駆け寄るでもなく、真っ直ぐここに歩いてきて、彼女は席についた。
「——あの頃、私たちは巻き過ぎたの」
一杯目の湯気が落ち着く前に、彼女は言った。声の芯は、昔の実験棟で何度も聞いたであろう説明の声だ。だが、その周りに今の暮らしの温度が柔らかく巻き付いている。
「誰かを守るたび、別の層で誰かを犠牲にしている気がして、罪悪感に耐えられなくなった。あなたが倒れた日、私は逃げた。——だから今も負い目がある」
日高は目を伏せたまま、何も言わない。沈黙は、言い訳よりも重い。重い沈黙の上に、沙織さんはもう一枚、薄い布を置くように言葉を重ねた。
「けれど、逃げない方法が、ようやくわかった。分担と見える化。あなたにしかできない救いを、制度に落とし直そう」
「制度」
日高が、その二文字を口の中で噛んだ。砂糖のないラムネを噛むときの、あのわずかな違和感に似た音が、俺の耳の奥で小さく弾けた。
「——見せます」
俺はノートを開き、“準備室安全プロトコル”の案を三枚、テーブルの上に並べた。紙は昨日の晩から何度も折りたたまれて、角が少し柔らかくなっている。
「十分快のチェックではなく、誰でも回せる手順へ変えます。①薬品の配置をラベルと色で統一。危険度Aは赤、Bは橙、Cは黄。棚番号とラベルの色を一致させ、写真付きで掲示。②電源ラインは許可証とQRログで自動記録。延長ケーブルの接続はスキャンしないと通電しない。ログは管理端末と生徒会に同報。③夜間の入室は二人以上+“無音の三十秒”の同期義務。入室ログに『同期済み』スタンプ欄を追加。——最後に、“何もしない十分快”を勤務計画に含める。個人の英雄性ではなく仕組みで安全を作る」
紙に描いた図の矢印が、日高の視線の上で一度だけ逆流し、それから矢印の向きのままに流れ直したのがわかった。彼はしばらく黙って紙を見つめ、やがて低く言った。
「——遅いよ」
遅い。そうだ。遅い。間に合わなかった夜は、もういくつも過ぎた。遅さは罪に似て、罪ほど簡単には贖えない。俺は頷いた。頷いた上で、日高の目を見た。彼は、しかし紙を折ってポケットに入れた。
「遅いけど、やってくれ。俺はもう、巻かない」
「巻かない」
霧島が、繰り返した。確認ではなく、受領の発音。日高は立ち上がり、出口で一度だけ振り返って霧島を見た。喫茶コーナーのガラスに、彼の横顔が薄く映る。頬の線は鋭いのに、映り込んだほうは柔らかい。
「助けてくれて、ありがとう」
霧島は小さく頭を下げた。その角度は、彼の後悔に言葉で終止符を打つのにちょうどいい角度だった。誰かが謝るときの深すぎる角度でも、誰かを赦すときの高すぎる角度でもない。終わったことを終わったこととして受け止める、真ん中の角度。
日高が去ったあと、沙織さんは紙コップを両手で包み、湯気の輪郭を見るともなく見ていた。
「——湊くん」
「はい」
「ありがとう。私、あの頃の“守りたい”を、守るための言葉を知らなかった。守るって叫ぶしかなかった。叫ぶ人は、いつか喉を壊す。——今日、やっと喉に水をもらった気がする」
「水は、ここに置いていきます。紙と手順の形で」
「うん」
彼女は頷き、立ち上がった。「仕事、戻るね。——亜子に、今日は空を見て帰るように言っておいて」
*
午後の授業は、午前よりも静かに過ぎた。プロトコル案の細部を詰めるため、空き時間に生徒会の情報端末の仕様を確かめ、設備係の財前にQRログのでっぱりとへこみを見せ、許可証の発行フローの並列化を黒瀬先生と短く確認した。黒瀬先生は意外なほど「無音の三十秒」に乗り気で、「研究倫理の講義に入れてもいい」と呟いた。倫理という言葉が、初めて現場の匂いを持った瞬間を、俺は見た。
放課後、走り終えた亜子は汗で額の髪を少しだけ張り付かせ、呼吸は浅く整っていた。禁止日の二日目。恋の話はしない。外階段の踊り場に並んで座ると、彼女は空を見上げた。空は薄い灰色で、星はまだ出ていない。風の匂いが澄んでいて、どこにも火の匂いが混じっていない。
「明日、“無音の窓”を三十分ね」
「うん」
彼女は手の甲で合図を描いた。親指の付け根の骨が、皮膚の下で小さく動く。あの合図を最初に作った日、俺は、その骨の動きの美しさを知らなかった。知ってしまうと、言葉は少しだけ遅くなる。遅くなった言葉は、長く効く。今日はそれでいい。
俺は頷き、巻かないという決断が恋を深くした手応えを、胸の奥の空隙にそっとしまった。恋は決断の数で濃くなる。決断の数は、多ければいいわけじゃない。正しいところで、正しい厚さで、正しい向きに置かれたときだけ、濃くなる。
*
その裏で、久遠が一回だけ巻いた。俺はその瞬間を見ていない。彼女が戻ってきて、「もう大丈夫」とだけ言ったから、たぶんそれで全部だ。
——古い棚。足元のアジャスターが一本、ねじ山を痛め、微妙に斜めになっていた。薬品の瓶は半分以上移されているのに、重心は未だ危うい。夜の廊下のわずかな振動で、何かが落ちた拍子に棚が倒れる——そういう層があったのだろう。久遠は軍手をはめ、棚の下に薄い板を噛ませ、重心の位置を数ミリずらし、アジャスターの根本にスペーサーを差し込んだ。彼女は自分の姿を見せない。見せないのが、彼女のやり方だ。棚は倒れない。倒れないことが記録に残らないのは、不公平だ。けれど、救われた側が救う側になった重さは、彼女の肩の内側にだけ確かに増えていく。見えない残渣がまた少し増えた気がして、俺は胸のどこかが痛んだ。
「もう大丈夫」
それだけ言って、彼女はチップの棚の前で一瞬だけ立ち止まり、指先で白い円の縁を撫でた。撫でる、という行為は、使わないに等しい。けれど、それが彼女の休息だと、俺は知っている。
——だから、最後の一度は俺が引き受ける。彼女の見えない残渣がこれ以上濃くならないように。霧島の後悔が過去形を失って現在形に戻らないように。日高の善意が腐らないように。亜子の三十分が、純粋に三十分のままでいられるように。俺は決めた。巻かないで救う。けれど、どうしても必要なら、最後の一度だけは、俺が巻く。
*
夜。部室のホワイトボードに、沙織さんの言葉を短い項目に直す作業をした。〈分担〉〈見える化〉〈英雄性の制度化〉。プロトコルの案の右上に小さく〈“何もしない十分快”=勤務〉と書き足す。勤務という言葉は堅いが、堅さが要る場所にだけ差し込むと効く。小田が覗いて、じっと見てから「——貼ろう」と言った。彼の「貼ろう」は、始めよう、の意味だ。掲示板に刷り直した紙を貼ると、紙の端が空気を少し持ち上げた。
霧島は机の端にもたれ、深く息を吐いた。「日高さん、あのまま遠くへ行くと思う?」
「わからない。でも、『任せる』って言った」
「言ったね」
「“任せる”は、負けじゃないって」
「負けじゃない。移譲だ」
その会話の短さが、今日の収穫だった。言葉が短くなるのは、たいてい準備が長かった証拠だ。準備の長さは、明日の耐久を少しだけ延ばす。
メッセージが一つ届く。『明日、三十分の窓で座る』亜子。句読点はない。俺は『よし』とだけ返し、スマホを胸ポケットに戻した。そのとき、白いチップの軽さが指に触れる。軽いのに、役割は重い。重さを感じるために、軽さがあるのだと思う。
*
布団に潜り、目を閉じる。耳の奥で、時計のない“チクタク”が続く。装置は止まった。けれど、俺たちの体内の織り機は、明日へ糸を送る準備をやめない。十の前に置く小さな祈りは、科学じゃない。科学じゃないが、同期を助ける。——明日、彼女と三十分。無音の窓。座る。座って、何もしない。何もしないを、する。
*
翌朝、空は薄く晴れて、校門の影が舗道に細い角を落としていた。朝練のグラウンドの砂は硬く締まり、足音が軽い。亜子はレーンの端に立ち、靴紐を結び直す。俺は近づかずに手を上げ、彼女はうなずく。禁止日の名残が、互いの間の空気を薄く冷やしている。それは悪い冷たさではない。身をしゃんとさせる冷たさだ。三分の無音。耳を塞ぎ、目を閉じる。二十七、二十八、二十九、三十。開けると、彼女は笑っていた。よし、の角度で。
教室に向かう廊下の途中で、沙織さんに会った。彼女は昨日よりも少し顔色が良い。肩の力が、見えないところで抜けている。
「封印の掲示、見たよ」
「はい」
「“無音の三十秒”、笑われるかもね」
「たぶん、少しだけ。でも、笑ってから伝わることもあります」
「うん。伝わるといい」
彼女は笑い、仕事へ急いだ。笑いの余韻の中で、俺の背筋は自然と伸びた。伸びる背筋は、次の山の高さを測るためにも必要だ。
*
放課後。喫茶コーナーと同じ窓の席で、俺たちは黒瀬先生、小田、財前を交え、「巻かないで救う」ための手順を最終確認した。言葉はすでに短く、誰も急がない。急がないで進むのは、熟練の証だ。
「夜間入室、二人以上。QRログの常時記録。——“同期済み”スタンプの導入、了解」
黒瀬先生が頷く。
「電源の合法最短路、図の通りで確定。申請の並列化は生徒会側で対応。——“何もしない十分快”、設備係の交代制に組み込む」
財前が紙を折りながら言う。小田は台帳の上に新しい欄を作り、薄い鉛筆の線で「無音」と書いてから、赤で「○」だけを重ねた。赤の丸は小さい。——小さい丸は、よく効く。
会議が終わる直前、霧島のスマホが震えた。日高からだった。『議事メモ、受け取った。——俺は、いないほうが、いい』。次のメッセージが続く。『でも、君たちが困ったら、呼んでくれ。呼ばれたら、行く。巻かないで、行く』。
霧島は小さく息を吐き、「ありがとう」とだけ返した。ありがとう、の一語に「過去形になった後悔」と「現在形で続く敬意」の両方が入っていた。入れたのは、多分、彼自身だ。
*
夕暮れ、外階段の踊り場。金属の手すりは冷たく、風は少しだけ湿っている。亜子と並んで座り、俺たちは空を見上げる。禁止日が終わり、恋の話をしない規則から解かれた夜。だからといって、すぐに恋の話に戻るのではなく、まず、「何もしない」をする。三十分。無音の窓。
耳を塞ぎ、目を閉じる。今日の三十は、いつもよりゆっくり近づいてきた。階段の下を誰かが通り過ぎる足音、体育館から漏れるバスケットボールの跳ねる音、遠くの道路の低い唸り。——それらがみんな、厚みをなくして、音の輪郭だけ残る。輪郭はやがて、呼吸の輪郭と重なり、心拍の輪郭と重なり、世界の輪郭と重なる。時間は、誰かのものじゃない形に戻る。
「終わった?」
目を開けた亜子が、笑った。笑いにはいくつかの角度があって、今日のは「確認」の角度だった。俺はうなずき、言葉に戻る。
「日高さん、任せるって」
「任せる、って大人の言葉だね」
「うん。——任されるのも、大人の役目なんだと思う」
「任される湊、ちゃんと“巻かない”で救える?」
「……救うよ。巻かないで。どうしても必要なら、最後の一度だけ使う」
「最後の一度」
彼女はその語を、舌の上で転がした。重さを確かめるみたいに。俺は笑って見せる。笑いの裏側で、胸のどこかが薄く痛む。薄い痛みは、予感の形をしている。予感は、たいてい当たらないほうがいい。
「ねえ」
「うん」
「明日、走ったあと、もう一回“無音”しよう」
「いいね」
夕焼けは早々に褪せ、校庭の砂に、夜の最初の青が降り始める。青は冷たく、冷たさは約束を長持ちさせる。長持ちする約束は、危機の夜を越えやすい。——越える夜の向こうに何があるのか、俺はまだ知らない。知らないまま、ノートにひとつ書き足す。〈巻かないで救う〉。その下に、丸を小さく二つ。ひとつは、彼女と俺。もうひとつは、久遠。丸の中身は空白だ。空白は、埋められるためにあるんじゃない。空白のままで、守られるときがある。
風が少し強くなり、階段の手すりが冷えた。俺たちは立ち上がり、軽く伸びをした。伸びる背骨の音は聞こえない。聞こえない代わりに、心の中で細い鐘が鳴った。十の前に置いた祈りの鐘。鐘は科学じゃない。けれど、鐘が鳴る夜は、息が揃う。息が揃えば、言葉は短くなる。短い言葉で救えるものだけを、明日に運ぶ。運べないものは、無音に預ける。預けることは、任せることだ。——任せることを、今日覚えた。覚えたてのやり方で、俺は彼女と並んで歩き出す。準備室の窓は暗い。暗い窓は、今夜はただの窓だ。ただの窓であることが、どれほど尊いかを、俺たちはやっと理解しはじめたところだ。
*
夜更け。ベッドに横たわり、天井の模様を目でなぞる。模様のどの線も、どこかで途切れて、どこかで再開している。線は、続けるために、いちど止まる。止まるために、無音が要る。無音の窓のあとの静けさが、胸の奥にまだ残っている。そこに、そっとひとつだけ言葉を置く。——よし。明日は、よしの角度で始める。始めた先で、巻かないで救う。救えないときは、謝る。謝る言葉の練習も、もう何度もした。練習は、本番だ。俺たちは、練習の持続で世界の輪郭を少しずつ丸くしていく。丸くなった輪郭の上で、眠りに落ちた。眠りは科学じゃない。けれど、同期を助ける。助けられた同期が、明日の十の山を、またひとつ低くする。低くなった山は、足で越えられる。越えられたあとにだけ見える景色を、俺はまだ知らない。知らないまま、目を閉じる。白いチップは、胸ポケットの中で軽かった。軽いまま、夢のほうへ滑っていった。
第13話「先輩の終わりと始まり」
事件がほどけていくときの空気は、手のひらの上で氷が薄く溶ける感じに似ている。湿り気が残り、冷たさの輪郭だけがまだ皮膚にある。三日前の校庭での騒ぎも、匿名書き込みの波も、学内の緊急会議も、いまでは「そういえば」という速度で廊下を流れていく。誰もが少しずつ息を整え、何かを言いかけて飲み込む。季節は、朝の光の色を薄く変えていた。
卒業研究発表会が近づくにつれて、理科棟は段ボールとケーブルで歩きにくくなった。僕らは実験装置の最終チェックをしながら、霧島先輩のスライドに目を通す。白地に黒。余白を大切にした、拍子抜けするほど静かな見た目。でも、そこに置かれているのは、これまでとは別種の挑戦だった。
巻かない設計図。
技術面の要点——ログの匿名化、短期保持。制度面の提案——申告制、監査人の公開抽選。文化面の合言葉——無音の三十秒、何もしない十分。それらは派手さのかわりに、生活の形を少しずつ変える力を持っていた。
「最後のスライドは、これでいく」
理科準備室で、霧島先輩はそう言った。古い白衣の袖口は、何度も洗われて少し薄い。机上には、僕らのデバイス——“チップ”の可視化ユニットが置かれ、心拍センサーの青いランプが、静かに呼吸のように明滅している。
「英雄から運用者へ。派手なヒーローショーはもう終わり。これからは、毎日の掃除当番みたいな運用を回していく」
先輩は笑わないで言った。それが、いちばん格好よかった。
久遠がノートの端に、細い文字で確認事項を書き出す。手首のあたりで、小さく震えが出たり消えたりするのを、僕は見逃さない。彼女は「耐性」を言い訳に仕事を抱え込み続けてきた人だ。負荷の閾値に近いときほど、彼女は静かに完璧だった。だからこそ、僕は、彼女に“巻かない日”を渡したかった。
発表会当日。体育館は、冷たいワックスの匂いと、集まった靴のゴムが擦れる音で満ちていた。特設スクリーンの前に椅子が整然と並び、教職員の列、保護者の列、地域の科学クラブの大人たちの列ができる。見知った顔も、知らない顔も、みんな同じ前向きの視線を持っていた。後列の端に、日高の姿があった。首元まで黒のコートを閉じ、視線は少し低い。拍手の合間に目が合うと、彼は軽く顎を引いた。それだけで、なぜか心拍が上がる。
僕の前に二つの発表があり、時間は予定より十二分押していた。霧島先輩は、順番を気にするそぶりも見せずに、スライドのリモコンを親指で撫でる。壇上にあがると、照明が白衣の胸元を薄く透かした。
「三年の霧島です。まず、謝ります」
初手から、体育館の空気が少しだけざわめく。
「僕は失敗しました。タイムループの“可能性”に酔って、“許される限界”を何度も測りにいった。過去に触れられる技術は、扱うほどに、人を大きく錯覚させます。自分の責任範囲が無限に広がる錯覚。取り返せるという麻酔。——それを、今日、片づけに来ました」
スクリーンに映る“巻かない設計図”のページが進む。技術。制度。文化。
「ログは匿名化、保持は短期。申告制にして、監査人は公開抽選。無音の三十秒。何もしない十分。これらは、失敗を回避するためだけの仕組みじゃない。日常の体温を守るための、地味な設計です。僕は英雄の役から降ります。運用者として、掃除当番を回す側に戻ります」
拍手が、どこからともなく、でも確かに起きた。誰かが大きく、誰かが小さく、手のひらを打ち合わせる。僕らの部のブースに貼る予定のタイトル——『やり直しの設計学』が、遠目にも、静かに意味を持ちはじめる。
質疑応答の時間、保護者の一人が質問した。「それで、本当に守れるんですか?」
霧島先輩は一拍置いて、うなずいた。
「守れることもあるし、守れないこともある。だからこそ、“守れなかったときに、どう倒れるか”を決めておきたい。倒れ方まで、設計に入れます」
同じ列の、別の誰かが笑った。「掃除当番の表に、倒れ方を書いとくのね」
「はい。冷蔵庫にも貼ります」
笑いが起き、空気は軽くなった。それでも、僕は舞台袖で、久遠の手の震え方に意識を割いていた。先輩の話す“倒れ方”の設計図に、救う側の休み方が、十分に書き込まれているか。久遠が抱えてきた“その日の全体重”が、どこに置かれるのか。
発表会が終わると、風が少しだけ強くなっていた。僕らは理科棟の屋上へ出た。鉄の扉がきしみ、足下のコンクリートは薄く温かい。山の稜線は薄青く、街の向こうに春の気配が指先だけ覗く。霧島先輩は、空を見ないで白衣の胸ポケットを探り、折り畳まれた紙袋を取り出した。
「——湊。部長、やれ」
思ったより軽い声。それでも、膝の裏に重みが落ちてくる。紙袋の中には、白衣。新品ではない。肩の縫い目に、何度かの修繕の痕跡がある。
「引き継ぎ条件は三つ」
先輩は指を一本ずつ立てた。
「チップの可視化を続けること。禁止日を部内で尊重すること。“巻いた回数”ではなく“巻かなかった選択”のログも残すこと」
文字にしたら短い。けれど、世界の厚みが変わる三つだ。
「やれるか?」
逃げ道を探す時間は、きっと三秒もなかった。僕は首だけで、でもはっきりとうなずいた。
「やります」
久遠が、その場で小さく笑った。笑った、と言っても口角がわずかに動いたくらい。それでも、彼女の体温が一度上がり、手の震えが薄くなるのが、わかった。
「よろしく、部長」
霧島先輩が白衣を僕の肩に軽く乗せる。布の匂いは洗剤ではなく、長いあいだ部屋に置かれていた本の匂いがした。自分の肩幅が、少し足りない気がする。でも、足りないからこそ、そのまま着たいと思った。
屋上の風が、言葉の残りを連れ去った。僕らはしばらく無言で街を見た。信号の赤が点いて、すぐに青へ移る。電車が一本、遠くを横切る。世界がいつも通りに進む音だけが下から届く。
その晩、校庭の隅。砂の上に置いたベンチに、僕と亜子は並んで座った。グラウンドの照明は消され、体育館の裏から漏れる白い光が、地面に長い影を作っている。息を吸う音が、冷たい空気に触れて、輪郭を持った。
「——三十秒」
僕が言うと、亜子は小さくうなずいた。僕らは、互いのスマホのタイマーを見ないまま、内部時計だけで数える。無音の三十秒。間に何も入れない。言葉を削り、視線も動かさない。ただ、隣の気配だけを測る。
四回目の三十秒が終わるころ、遠くで犬が吠えた。五回目、六回目。十回目を過ぎたあたりで、亜子が笑いを堪えきれずに唇を噛んだ。二十回目、風が少し強くなって、亜子の髪が頬に触れた。三十回目——もはや、時間の単位が意味を失い始める。三十一回、三十二回。つないだ三十秒の列は、いつの間にか三十分になっている。
「……ループしないのに、時間が伸びたみたい」
亜子が、息の出口で笑う。言葉が白くなって、すぐに消えた。
「たぶん、伸びた」
僕はそう答える。伸びたのは密度。話さないことで埋まる領域が、世界のどこかに存在している。不思議だけど、確信に近かった。
「ねえ、湊」
亜子が僕の名前を呼ぶとき、彼女は必ず、一拍だけ息をためる。その癖が好きだ。
「卒業式、どうするの?」
問いの形をしていたけれど、僕にとっては確認事項だった。
「——巻かない。禁止日、にする」
「ふふ。じゃあ、私も」
亜子はベンチの背もたれに肩を預け、空を見た。星は見えない。体育館の四角い光が、雲の底を白くする。その下で、僕たちは、会話の端を結んでいった。「巻かない告白」という奇妙な言葉が、二人の間でやわらかく転がる。やり直せないからこそ、体重を置く。片足ずつ、踏みしめる。
翌日、部室で。新しいルールを全文書き出した紙を、机の中央に置いた。サイン用のペンが三本。部員は全員で六人。霧島先輩は今日も白衣の襟を整え、久遠は袖を折り、矢代はいつも通り窓際で腕を組んだ。堀内はペンの重さを確かめ、小松は日付を書き込む場所を聞いた。
「反動の記録を、私ではなく湊がつけて」
久遠が言った。整った声だった。彼女は“反動”という言葉を、まるで包丁みたいに扱う。鋭いが、使いどころを誤らない。
「うん、受ける」
「救う側の健康を守る運用に、切り替える。——約束」
僕は、彼女の目を見る。薄い茶色の中に、疲れがまだ残っている。けれど、その疲れに名前が付いたぶん、軽くなっているのがわかる。
「十分快×三回は、自由に増やせる命じゃない」
霧島先輩が、紙の端を押さえながら言う。
「使い切らない勇気。足りないところで止める勇気。これを、ルールの最初に書こう」
僕はペンを取り、条文の一行目に“使い切らない”を書いた。字は思ったより太く、ペン先が紙に引っかかる。堀内が笑う。「部長の字って、意外と丸いのな」
「見栄えは、あとで修正する」
「でも、最初の字は残せ」
霧島先輩が、穏やかに口を挟む。
「最初の不器用さを、ログに刻め。——“巻かなかった選択”のログも、記録としては下手でも、価値が高い」
順番にサインが入っていく。矢代は名字だけ。堀内はフルネームに小さな笑顔のマーク。小松は西暦を間違えて、上から二重線。久遠は、ゆっくりと、丁寧に。最後に僕が、日付の横に“禁止日カレンダー”の初期値を書き込んだ。“卒業式当日”。線で囲み、赤で薄く印をつける。
「もう一つ」
霧島先輩が、最後のページをめくるみたいに、言葉を出した。
「秘密、というほどじゃないかもしれないけど、共有しておきたいことがある」
誰もが少しだけ姿勢を正した。窓の外で、風が校庭の砂を薄く巻き上げる音がした。
「あの日、久遠を救ったのは、俺じゃない」
久遠の目が、まばたきの途中で止まる。
「他県で“たまたま巻いた層”の現場にいて、タイミングを合わせた誰かがいた。——たぶん、日高だ」
部屋の空気が、ほんの少しだけ、音を立てずに移動した。誰かが呼吸を小さく飲み込む。誰かが椅子の脚を引いた。僕は、後ろの棚の上に積まれた古い記録用紙の束を見た。そこに、「日高」という名前は一度も出てこない。だけど、目に見えない場所に、確かにその痕跡が走っている気配がある。
久遠は、遠くを見る目をした。窓の外ではなく、もう少し遠いところ。彼女はゆっくり首を縦に動かした。
「……救われた側として、巻かない恩返しをする」
その言葉は、机の上に置かれた紙よりも強く、部屋に残った。矢代が小さく「いいじゃん」と言い、堀内が「合言葉にしようぜ」と続けた。僕はペンをもう一度持ち、紙の端に書いた。“巻かない恩返し”。丸で囲んで、矢印で“文化”とつなぐ。
日高は、その日の夕方、理科棟の外の自転車置き場にいた。黒いコートの襟を立てたまま、空を見上げている。僕が近づくと、彼は気づいたようで気づかないふりをした。僕は、それを許すことにした。
「ありがとうございました」
言葉の向きを、はっきりと彼に向ける。日高は一秒だけ目を閉じ、それから、ほんの少し口角を上げた。
「掃除当番、表に名前を書いとけよ」
「はい」
それで会話は終わった。けれど、十分だった。僕らは同じ紙を見ている。名前の有無に関係なく、同じ列に、自分の朝を置いていく人たちがいる。
発表会の熱は、夜のうちにうすれて、翌朝には“明日から”のかたちに変わっていた。廊下の掲示板に、卒業式の日程が新しい画鋲で留められる。その下に、文化部連絡のプリント。「タイムループ部、発表ブース」。僕は教室に向かう途中、ペンケースからマジックを取り出し、ブースのタイトル欄に手書きで書いた。
——『やり直しの設計学』。
太い線。ところどころインクの滲み。字の癖は、もう気にならなかった。そこに書かれている意味のほうが大きい。
昼休み、体育館のステージ裏で、展示用のパネルを組み立てる。小松が水平器を読み、堀内がネジを回し、矢代が配線を束ねる。久遠は“何もしない十分”の説明パネルの文章を最後まで読み、目を閉じてからうなずいた。
「湊」
名前を呼ばれて振り向くと、亜子が体育館の入口に立っていた。陸上部のジャージの上、髪は後ろで一本に結ばれている。汗の匂いと、体育館の木の匂いが重なって、懐かしい放課後の香りになっていた。
「見に来た」
「ありがとう」
亜子はパネルの前に立ち、文字を追った。無音の三十秒。何もしない十分。禁止日カレンダー。彼女は読み終えると、僕のほうを見た。
「これ、好き」
「どれ?」
「“巻かなかった選択”のログ」
彼女は指でその文を示した。指先のさき、薄い紙の上。透明な何かが、そこに定着し始めるのが見えた気がした。
「記録って、勝ちの集合だけになると、細くなるでしょ。負けや保留ややめた、が入ると、面の感じがする」
「面?」
「うん。触れる」
彼女の言葉は、いつも射程が生活に近い。僕は、彼女のそういうところが好きだ。
放課後、顧問が部室に来て、お菓子の箱を机に置いた。個包装のビスケット。誰にでも同じ数が行き渡るように、最初からきっちり計算されたやつ。
「いい発表だった。……霧島、今日、保護者会で褒められていたぞ。『偉そうじゃないところが良い』って」
「褒め言葉として受け取ります」
霧島先輩は、いつもの薄い笑い方をした。顧問は頷き、白いチョークを一本、僕に渡した。
「部長。黒板に“禁止日”の枠を毎週書いておけ」
「はい」
「書くこと自体が、儀式になる。儀式は、生活のガードだ」
顧問は言って、帰っていった。残されたチョークの粉が、僕の指の腹に小さく残る。黒板に近づく。四角い枠をひとつ、ふたつ。右上に“卒業式当日”と書き、廊下で見たポスターの日付を添える。書きながら、胸の奥にある何かが、ようやく重力を持ち始めた。
夜。家でノートを開く。最後のページに、ゆっくりと大きく書いた。
——ループ禁止日:卒業式当日。
書き終えると、部屋がすうっと静かになった。外の車の音も、階下のテレビの音も、いったん背景に遠ざかる。言葉は、線ではなく、面だ。面は、息を受け止める。僕は、その面の上に額を落としたい衝動に駆られて、やめた。使い切らない勇気。十分の途中でやめる勇気。ノートを閉じる音を、僕は初めて好きになれた。
翌朝、いつもより早く家を出た。駅までの道、カフェの前の椅子に薄い布がかけられている。商店街のシャッターの隙間から、パンの匂いが漏れてくる。空気は冷たいが、肌の表面で小さく跳ね返る温度があった。
校門のところで、日高が立っていた。黒いコートの襟は下りていて、代わりに手に紙袋を持っている。僕を見ると、彼は袋を軽く持ち上げた。
「古い納品書だ。ブースの下に敷け」
「はい」
受け取ると、袋の底から紙の乾いた匂いがした。その匂いは、どこかで嗅いだことがある。理科準備室の棚。白衣に残る本の匂い。掃除当番の表。匂いは、記憶を運ぶ。僕は紙袋を抱えたまま、頭を下げた。
「……あの、やっぱり、ありがとうございました」
日高は首を横に振った。
「礼は、禁止日の遵守で足りる」
「はい」
「それと、——失敗の“倒れ方”、人に見せる練習をしろ」
「見せる?」
「うん。ひとりで静かに倒れると、誰も支えられない」
言って、彼は歩き出した。黒い靴底が、校庭の砂をほとんど鳴らさない。僕は背中に向かって深く会釈し、理科棟へ向かった。
卒業式の準備と、発表ブースの準備は同時進行だ。時間はいつもより早く、でも、心は少し遅く流れた。教室には寄せ書きが積まれ、体育館には椅子が一列ずつ増えていく。黒板の“禁止日”欄には、誰かが小さなシールを貼った。星の形。堀内の仕業だろう。矢代が何も言わずに、それを一つ右にずらした。「目立ちすぎると、やりたくなるから」。彼の理屈は、いつも実用的だ。
放課後の廊下で、亜子に会う。人の流れが彼女の周りだけ少し滑らかになる。僕は歩幅を合わせ、ほんの少しだけ肘を寄せた。
「ねえ」
「ん?」
「卒業式のあと、三十分、時間ある?」
亜子は笑う。
「無音?」
「ううん。——音、あり」
「じゃあ、なおさら。ある」
簡単な約束が、日付の上に柔らかく乗った。僕らはそれ以上具体的なことを決めなかった。決めないまま、紙の端を折るみたいに、話題を変えた。
最後のホームルーム。先生が「名残惜しいね」と言い、クラスの誰かが「まだ終わんないっしょ」と返す。笑いが起こり、空気は軽く、でもどこかで湿っている。僕は教室の後ろの掲示板に貼られた「卒業式の日程」をもう一度見た。太い文字。印刷のインクのにおい。紙の端は、すでに少し丸くなっている。
夜、家に帰ると、机の上に母の手紙が置いてあった。便箋に、短い文。『発表、見に行けなくてごめん。掃除当番、ちゃんと書いてる?』。最後の一文で、僕は吹き出した。僕の世界の言葉は、いつの間にか家族の言葉にも混ざっている。僕はペンを取り、『書いてる。倒れ方も、練習中』と書き足した。
眠る前に、もう一度ノートを開いた。最後のページの、赤い“卒業式当日”の印。その下に、小さな文字で書き足す。
——告白:巻かない。
書いた瞬間、胸の奥で何かが、静かに位置を変えた。怖さと、清々しさが、同じ重さで隣り合う。僕は深呼吸をし、部屋の明かりを消した。暗闇の密度は、無音の三十秒と同じだ。音のない時間の中で、僕は目を閉じ、十まで数えてやめた。使い切らない勇気。明日のための残し方。
明け方、夢の底で、僕は屋上に立っていた。白衣の肩が、風に少しだけ煽られる。霧島先輩はどこかにいて、久遠は階段の陰で、日高は街路樹の影にいる。誰も僕を見ず、誰も背を向けない。僕は空に向かって、小さく手を上げる。その手は、掃除当番の表に名前を書く動きと同じだった。
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。窓の外、薄い青。鳥が鳴き、遠くでトラックの音がした。今日も、世界は動く。僕は、動く世界の中で、一つだけ止める。卒業式当日、ループを止める。やり直しのない告白を、やり直しのない一日に置く。それは、怖い。けれど、僕は、怖いのかどうかを、確かめたかった。怖さの形を、ちゃんと見て、そこに立つ方法を、設計したかった。
ノートを閉じ、白衣を肩にかける。鏡の前で、襟を整える。似合わない。——でも、似合うときはきっと来る。似合う日のために、今日の似合わなさを、記録に残す。ログの一行目に、こう書いた。
“巻かない設計図——運用開始。倒れ方:見せる。残す:十分。”
ペン先が紙を押す音が、朝の静けさに小さく落ちた。僕は鞄を持ち、玄関で靴を履く。紐を結ぶ指が、ほんの少しだけ震えている。それを隠さない。隠さないまま、扉を開ける。冷たい空気が、すぐに顔に触れる。
階段を下りながら思う。英雄から運用者へ。運用者は、毎日を洗い、乾かし、たたむ。たたむ動作の丁寧さが、生活の強度になる。僕は、今日をたたむ準備ができているか。答えは“たぶん”だ。たぶん、でいい。たぶん、を積み上げる。無音の三十秒をつなぐみたいに。三十秒×何回分もの“たぶん”で、三十分ぶんの勇気を作る。
校門をくぐると、掲示板の紙が朝日で少し透けていた。『卒業式のご案内』。その下に、『文化部連絡——タイムループ部、発表ブース』。僕は一度だけ足を止め、手書きの『やり直しの設計学』の文字を見た。滲み。線の太さ。昨日の自分の手の癖。その不器用さは、今日の僕を支えるだろう。
歩き出す。廊下の先、体育館へ。ブースへ。掃除当番の表へ。禁止日カレンダーへ。亜子へ。卒業式へ。僕は、自分の終わりと始まりを、同じ一日に置く。終わりは、やり直さない。始まりは、やり直さない。その代わりに、記録する。息を合わせる。十でやめる。残す。伸びる。——そういうふうに、生きていく。
扉の前で、僕は一度だけ目を閉じた。手のひらに、白衣の袖の布が触れている。布の感触は、昨日と違う。昨日より少し、体の一部に近い。僕はその違いを、今日の一行として記録するつもりで、扉を押した。体育館の光が、足下に広がる。音が戻る。呼ばれる名前。返す返事。丁寧に整えられた、日常の音だ。
その日常の真ん中で、僕は少しだけ深呼吸をし、歩き出した。終わりへ、始まりへ。どちらへも、同じ速度で。
第14話「10分×3回の最終運用」
卒業式の前日は、いつもよりも廊下の埃が軽かった。踏むたびに、粒子がふわりと舞い上がって、光の柱の中で不規則な踊りをする。確率が荒れる、という言い方は、数学をきちんと学んだ人間から見れば乱暴だろう。でも、この学校に一年いるとわかる——別れと悪ふざけと告白ラッシュが混じる日、空気はたしかに、うねりを持つ。誰かがいつもより大声を出し、誰かがいつもより笑い、誰かがいつもより泣く。そのうねりの中では、同じ廊下を歩いていても、足下の舗道が微妙に違う素材に変わっていくようで、気を抜くと躓く。
部室では、長机の上に白いチップが三つ、並んでいた。十分×三回。今日はそれを、①式典安全 ②部のブース運営 ③予備、と配分する。恋に使うつもりはゼロ——これは、昨夜ノートの最後に書きつけた文言だ。卒業式当日を「ループ禁止日」に指定したなら、その前日で無駄打ちする理由はない。僕は、白衣の胸ポケットに小さく畳んだスケジュール表を差し込んで、皆の顔を見渡した。
「最終ブリーフィング、いきます」
黒板には霧島先輩の手で、シンプルな三本線が引かれている。一本目の横に「式典安全」、二本目に「ブース運営」、三本目に「予備」とチョークで書いてある。矢代が腕を組み、堀内はマーカーのキャップを回し、久遠はペットボトルの水を一口。「大仰じゃないけど、儀式」と顧問が言っていたのを思い出す。儀式は、生活のガードだ。
「午前の式典リハ、吊り物は要注意。風の通りがいつもと違う気がする」
「体育館、今朝から外気を取り入れっぱなしだしな」と矢代。
「大道具の倉科に、念のためライン送っておくね」
久遠が親指でスマホを撫でる。その指先が、かつてのように微細に震えることは、もうほとんどない。震えは、消えたのではなく、別の場所に移動したのだと思う。彼女の中の警戒網が、必要なときだけ光るようになった。
「午後は送別ムービーのチェック。例年、やらかすやつがいる」
堀内が鼻で笑う。「今年もおもしろ半分でやるだろうな。教室対抗の仕込み合戦、負けず嫌い多いし」
「だから、やる前にやる。『巻かないで通す』が今日の主題です」
僕が言うと、霧島先輩が小さくうなずいた。「恋は?」
「巻かない。——告白は、明日」
言い切ると、部屋の空気が、一瞬だけ澄んだ。久遠が「よし」と小さく言い、堀内が「泣きそう」とふざけ、矢代が「泣くのは明日だ」と真顔で返す。笑いがきれいに乗る。僕の胸の奥で、針のない時計が、静かに時を刻みはじめた。
*
午前、式典リハーサル。体育館のバスケットゴールは畳まれ、舞台幕が試しに一度だけ降ろされる。ワイヤの通る滑車から、わずかに嫌な音がした。僕は目線を上げ、担当教師の動線を追う。誰も気づかないほどの、たるみ。教科書で見た「曲げ応力」という単語が、場違いに脳裏を過ぎる。
「湊」
背後から小声で呼ばれ、振り向くと倉科がいた。身長は僕と同じくらい、目の奥にいつも工具箱を隠しているみたいなやつだ。
「ワイヤ、緩んでない?」
「見えた?」
「耳で聴こえた」
僕らは舞台袖へ回り、非常階段から上へ。上部梁に体を預け、点検表を手に取る。そのまま教師のところへまっすぐ行き、倉科が段取り通りに説明する。
「点検表、今日版が出てます。滑車の周り、埃が溜まってます。清掃→グリス→テンションの再調整、お願いします」
教師は一瞬だけ面倒そうな顔をしたが、「やろう」と言って、黒いトランシーバーに指をかけた。講堂にいた警備員が二人動き、脚立と工具箱が出てくる。僕は、白いチップを指で撫でたまま、切らない。ここで“巻く”のは簡単だ。でも、簡単は癖になる。癖は、やがて判断を侵食する。
「巻かずに通す」——予定どおり、一本目を温存したまま、午前は終わる。倉科が汗を拭き、「昼、売店でなんかおごる」と言った。
「缶コーヒーで」
「ブラック?」
「無音の三十秒に合うやつ」
倉科は眉をひそめた。「味、するのかそれ」
笑いあって、足下の床が少し固くなった気がした。
*
午後。送別ムービーのチェックは、毎年の鬼門だ。編集室の小さなモニタに、笑顔の写真、ふざけた変顔、サークルの集合写真、体育祭のスローモーションが流れる。その合間に、「絶対に」何かが仕込まれている——それが、この学校の伝統のようになっていた。
「三年B組の最後、なにか、画素のちらつき」
久遠が、座ったまま身を乗り出した。画面に顔を近づけるわけでもなく、身体の中の測定器をスッと伸ばすみたいに、彼女は目を細めた。
「ただの圧縮ノイズじゃない?」
堀内が言い、矢代が首を傾げる。「チャプターの切り替えで、変なフレームをかませてる」
編集ソフトのタイムラインを開くと、フェードの谷間に薄い一枚が挟まっていた。肉眼でよく見えないほどの短さ。でも、停止して帧ごとに進めると、そこに「誰かの身体の一部だけ」を切り取った写真が、悪意をあおる角度で置かれていた。悪ふざけで済ませる類ではない。
「巻く?」
視線が集まる。久遠はため息も吐かず、「使う価値、ある」と短く言った。白いチップに触れ、その指を一瞬だけ止める——切り替えの合図。僕の耳には何も鳴らないけれど、彼女の内部で、スイッチが押される音がした気がした。
十分。久遠は編集室の椅子に座り直し、操作に入った。ショートカットの音が軽い。彼女の手は落ち着いている。時間を巻き取るのではなく、誤差を修正するだけの最小介入。問題のフレームを、前のチャプターの余白から自然な粒子に置き換え、トランジションの幅を一コマ広げ、音の位相を一ミリだけずらす。最後に、書き出しの設定を見直し、チェックリストに合格印を押す。
「終わり」
久遠は椅子を回し、ほとんど汗をかいていなかった。僕は胸の内で、一本目の介入を彼女に託してよかったと思う。巻く価値のある介入——それは、未来に残る傷をひとつ減らすことだった。
「ありがとう」
編集室の扉のところで、日高が言った。いつ来たのか、黒いコートのまま、壁にもたれている。彼は久遠の手元を見ず、画面の暗転を見るだけだった。
「ありがとうは、禁止日の遵守で足ります」と僕が返すと、日高は目だけで笑った。
「倒れ方、覚えたか?」
「練習中です」
「ならいい」
それだけ言って、彼は去った。背中の速度はいつも一定で、風に煽られない。そういう歩き方を、僕は覚えたい。
*
部のブースは、放課後に向けて、目立ちすぎず、でも見逃されない位置に設営された。〈やり直しの設計学〉——手書きのタイトルの下、テーブルには二つのコーナー。ひとつは「三回制限」を体験するミニゲーム。手のひらサイズのスイッチと、遅延のあるディスプレイ。操作の結果がほんの少し遅れて返ってくる感覚を味わいながら、三回だけリトライできる。もうひとつは「無音の三十秒」のベンチ。説明書は短く、座面は固め、周囲に音が入らないようにパーティションで囲った。
「やり直しは魔法だけど、運用しないとただの逃げになる」
僕は、中学生らしき来場者にそう説明する。彼は真面目にうなずいた。前髪が少し長く、目が下を向きがち。でも、言葉が届いたとき、瞳孔が微かに開くのが見えた。
「逃げるのって、だめ?」
「逃げること自体は、必要なときが多い。逃げ方が、乱暴だと、未来の自分が割を食う」
「未来の自分?」
「明日の自分に、今の借金を押しつけないために、“運用”をやる。——ルールが守ってくれることもある」
「ルール?」
「明日、禁止日を設けるんだ。うちの部の“ループ禁止日”。卒業式当日。巻かないって決める日」
中学生はゆっくりうなずき、ベンチに座って目を閉じた。タイマーはない。内部時計で測る三十秒。誰かがベンチの外で笑う声がした。体育館の床の鳴る音、バスケットボールが遠くで跳ねる音、マイクのテスト。「あー、あー」。それらが遠景になっていく中で、彼の肩の力が一段落ちた。三十秒が、彼の中で三十五秒に伸びたかもしれない。けれど、誰も修正しない。それでいい。
「次の方どうぞー」
呼び込む声と、ポスターの端を押さえる手の甲に、静かな熱が流れ続ける。堀内はミニゲームコーナーで子どもにアドバイスを送り、矢代は行列の整理に回り、久遠は説明パネルの角を揃えている。霧島先輩は、少し離れたところで全体を俯瞰し、危険の芽がないか視線で撫でている。掃除当番の丁寧さが、世界の強度になる、という顧問の言葉を反芻する。
日が傾き、体育館の高窓から斜めに光が差しはじめたころ、風が急に強くなった。扉の隙間から入り込んだ風が通り道を見つけ、体育館の上の空気が、帯になって走る。僕らのブースのパーティションがわずかに揺れた。係の生徒がガムテープを持って走ってくる。そのとき、矢代のスマホが震えた。
「——屋上で告白するって。装置持ち込んで、でかい横断幕も用意してるらしい。ライブ配信する気だ」
「風、強い」
久遠の声が、いつもより低かった。落下物、観客の移動、屋上の柵。赤旗が、頭の中に立つ。僕は、ポケットの中の白いチップに指先を触れた。二本目を切るか。ここで切れば、最短で事態に介入できる。転落事故の兆候を観測して、事前にそれを潰す。できる。——でも。
「切らない」
自分でも驚くほど、声はすぐに出た。僕はパーティションを矢代に任せ、体育館から駆け出す。階段で二段飛ばしをしない。転ぶから。息を整え、踊り場で必ず一回だけ深呼吸する。屋上への扉は重たく、錆びた蝶番が、小さく悲鳴を上げた。
屋上に出ると、風が顔を叩いた。校庭の砂が霞のように舞い、遠くの住宅の屋根の銀色が、不規則に点滅していた。屋上の中央に、横断幕を広げようとしている三人組がいて、その前に、主催らしい女子が立っている。髪を高く結び、目は強く、口元は固い。周囲には、スマホを掲げた同級生たち。数十の画面が、同時に光っている。
「やめよう」
僕は、声を張った。風に持っていかれないよう、胸を板のように固める。
「——成功の形は、音量じゃない」
女子が振り返る。目は、僕をすぐには認識しない。場の熱が、彼女の周りに渦を作っていて、外側の声が届きにくい。
「無音で言っても、伝わる。いや、むしろ——」
僕は手を開いて、風の向きを確かめる。髪が前に舞い、口の中が乾く。
「ここで大きな音を立てて成功しても、明日以降の自分に貸しを作るだけだ。貸しは、意外と利子が重い。——下で、言おう」
「下?」
「階段の一番下の踊り場。誰もいない。風もない。音が、届く」
彼女の表情が、一瞬だけ揺れる。取り巻きの中から、反発の言葉が出かかるのが見える。そこで、屋上の扉が再び開いた。亜子が、風に髪を揺らしながら立っていた。
「下で待ってる。走って」
笑った。亜子は、場の熱の向きを変える言葉を知っている。彼女の笑いは、いつだって、実用的だ。女子の目の焦点が、ふっと切り替わる。横断幕を持っていた男子が、困ったように旗布をたたみ、もう一人が「じゃ、下で」と呟く。わずかに遅れて、取り巻きの人々が動き出す。階段へ、下へ。風の強い場所から、音の届く場所へ。屋上の赤旗は、風の中でほどけるように消えた。
「ありがとう」
僕が亜子に言うと、彼女は「ありがとうは明日まとめて」と返した。目の端に、照れでも得意でもない、今日の空だけが映っていた。僕の胸の中心で、小さく震える。巻かないで折ったフラグの余韻。二本目はまだ切っていない。指先のチップは、軽く、でも重かった。
*
夕方、部室に戻る。窓の外は茜色で、運動場の白線が桃色に溶けている。机の上の白いチップが、薄い光を宿して見えた。僕は椅子に座り、ログを開く。今日の介入と非介入の記録。“巻かなかった選択”の欄に、三つの行を書く。
・午前:吊り幕の緩みに関して、倉科とともに申告→対応。非介入(巻かず)。
・午後:送別ムービーに不適切フレーム→久遠1回使用。最小介入。
・夕方:屋上告白フラグ→非介入(言語介入)。事故回避。
「私は、ゼロ回」
久遠が、紙コップの麦茶を持って笑った。笑う、といっても口角が数ミリ上がるだけ。けれど、その数ミリは、僕の今日のすべてを肯定する角度だった。
「それが一番、かっこいい」
霧島先輩が、棚に手をかける。「運用者は、“やらない”で済ませるのが仕事だ。やったほうが記事になるけど、やらないで済んだほうが、生活は静かになる」
堀内が「あー、名言」と言い、矢代が「黒板に書いとけ」と真顔で言う。僕は白衣の襟を指で整え、机の上のチップに視線を落とす。使わなかった回数が、選んだ言葉の数になって積み上がっていく——そんな気がした。言葉は面だ。面は、息を受け止める。
「帰る前に、明日の段取りをもう一度」
ブースの開場時刻。説明係の配置。無音のベンチのクッションの位置。タイムテーブルに印を付ける。禁止日カレンダーに赤の丸を重ねる。「卒業式当日」。それを書きながら、自分の呼吸が浅くなるのを感じる。浅いまま整える。十でやめる。十分を使い切らない勇気。
帰り支度を終えて、部室の扉の前で、亜子が待っていた。陸上のジャージの上にコート。ポケットに手を入れ、頬が少し赤い。
「——明日は巻かない」
彼女は片手を出した。僕も片手を出し、握手をする。手のひらの温度が、二人の間の「無音の三十秒」と同じ密度で重なる。握手は、合図であり、更新でもある。
「ルールの更新」
亜子は手を離さないまま言った。
「明日は、“無音の窓”のあとに、話す」
「了解」
「話す、って、言葉のことね」
「うん」
「逃げない?」
「逃げない」
亜子は、手を離した。離れたところに、余白が生まれる。余白は、安堵と緊張の両方を入れる器だ。僕はその器を胸の真ん中に据えた。針のない時計が、その器の外側で、確かな時を刻む。
*
帰り道、商店街のシャッターは半分降りかけで、パン屋の前に明日の予約札が並んでいた。僕は、自動販売機で水を買い、一本余分に買って、マンションの郵便受けの上に置いた。「ご自由にどうぞ」の手書きメモ。誰かの喉が、明日の前に少し潤うといい。
家に帰り、ノートを開く。今日のログとは別に、明日のための欄を作る。ページの上に、ゆっくり書く。
——ループ禁止日:卒業式当日。
——無音の三十秒×四回ののち、言葉。
——倒れ方:人に見せる。
書いている途中で、ペン先が一瞬だけひっかかる。紙の繊維に、僕の迷いが引っかかったみたいで、可笑しくなる。迷いの跡が、明日の自分のガイドになる——そう信じられるくらいには、僕らは運用者になっていた。
風呂場で湯気に包まれながら、目を閉じる。屋上の風の感触、横断幕の布の音、亜子の笑い、倉科の工具箱の匂い、日高の黒いコートの線、久遠のショートカットキーの音、霧島先輩の「やらないで済ませるが仕事だ」という声。ひとつひとつが、今日の十分快よりも短い、でも十分に長い記憶のかけらになって、皮膚に貼りついてくる。僕は、そのいくつかを、あえて剥がさないでおく。剥がさないまま眠ると、朝、少しだけ重さが残る。その重さは、明日への実感になる。
布団に入る前、スマホのタイマーを「三十秒」にセットして、ベッドサイドに置いた。音が鳴らないように、バイブレーションも切る。画面の光が消え、部屋が暗くなる。僕は天井の薄い凹凸を、想像の指でなぞる。三十秒を数え——やめる。三十秒を、二十七でやめる。使い切らない勇気の練習。何度か繰り返し、眠気の中で、回数を数えることをやめる。やめたところから、眠りが本格的に来る。
*
夢の中で、僕は体育館にいる。ブースの前に、誰もいない。無音のベンチがひとつ置かれ、ベンチの上に白いチップが三つ。僕は、チップに触れない。代わりに、ベンチに座って目を閉じる。無音の三十秒。夢の中でも、三十秒は三十秒で、夢の中の三十秒は、現実よりも少し長い。目を開けると、誰かが立っている。亜子だ。彼女は、僕の隣に座り、同じ方向を見る。二人で、体育館の巨大な空に、見えない文字を書く。小さな、黒い、読める文字。読めるけれど、声に出さない。声に出さないことで、文字は厚みを持ち、空に貼りつく。
目が覚めると、薄い朝だった。鳥の声、遠くの車の音、蛇口から水の落ちる音。僕は、白衣の襟を整え、鏡の前に立つ。似合わない。——けれど、昨日よりは似合う。似合わなさの度合いが一ミリ小さくなる。その一ミリを、僕は今日のログに書き足すつもりで玄関の扉を開けた。
冷たい空気が顔を撫でる。階段を下り、道に出る。空は澄んでいて、でも、端のほうにだけ雲の薄い線が流れている。僕は、その雲の動きに合わせて歩幅を決めた。歩くこと自体が、運用だと感じる。歩くと、未来が近づく。近づく未来に、今日の自分を渡す。その渡し方を、僕はやっと、設計しはじめた。
ポケットの中、白いチップが二つ、静かに触れ合う。明日、一本も切らない。その決意に、使わない安心と、使わない緊張が同じ重さで乗っている。針のない時計は、今日も確かに時を刻む。音はしない。けれど、聞こえている。無音の中で、僕は小さく息を吸い、吐いた。明日は、巻かない。だから今日、僕は運用する。十分×三回の最終運用。一本は価値のある介入に、一本は言葉に、一本は——明日に残した。
朝の光の中、校門が近づく。掲示板の『卒業式のご案内』が、紙の表面だけ光っていた。僕は手を挙げることはしない。代わりに、手を下ろしたまま、歩みを整えた。終わりと始まりの前日。やり直さない明日のために、今日、僕は、やり直さずにやり切る。そういうふうに、生きていく。
第15話「ループなし告白」
卒業式の朝は、思っていたよりも静かだった。空は澄み、風は冷たい。その冷たさは、痛みではなく輪郭だった。世界の端がくっきりと立ち上がり、手を伸ばせば触れてしまいそうな距離に迫る。駅から学校へ向かう坂道の上、街路樹の影がまだ細く、鳥の声が隙間を渡っていく。僕は歩きながら、胸ポケットの軽さを何度も確かめた。白いチップ三枚は、机の引き出しの一番上に置いてきた。今日は使わない——それが、今日の覚悟だ。
校門のところで、一瞬だけ足を止める。掲示板には新しい画鋲で留められた「卒業式のご案内」。その下に、文化部連絡のプリント。〈放課後タイムループ部——やり直しの設計学〉。黒いマジックで書いた手書きの字は、昨日のままの滲みを残している。僕は手を上げない。代わりに、手を下ろしたまま呼吸を整えた。無音の三十秒。吸って、止めて、吐く。心拍は、少しずつ、式典用の速度に落ち着いていく。
体育館に入ると、ワックスの匂いが、思い出の背表紙をいっせいに開いた。入退場の練習で磨かれた床は、光を長方形の束にして跳ね返す。椅子の列が波のように並び、ステージ脇には在校生代表の原稿、来賓席の小さな名札。僕は指定の位置に座り、前に並ぶ背中の高さを見渡した。みんな、いつもより少しだけ背筋が伸びている。伸びきらない分は、きっと胸の中の秘密が支えている。
「おはよ」
隣の席から小さな声がして、振り向くと久遠がいた。髪を低い位置でまとめ、袴ではなく控えめなワンピース。彼女は視線だけで問う。「チップは?」
「置いてきた」
「正解」
それきり、彼女は前を向いた。彼女の横顔は薄く光を受け、まばたきの間隔が一定だった。緊張に手を取られたときの久遠は、まばたきが早くなる——それが今はない。彼女の緊張は、別のかたちに移動している。倒れ方を知っている人の緊張。どれだけ重くても、静かに置ける人の緊張。
入場の音楽が鳴り、校旗がゆっくり進む。開式の言葉。国歌斉唱の途中で、隣の列の誰かが涙をこぼした。涙は咳払いの音で隠され、咳払いは拍手の波で隠された。来賓の挨拶は、ところどころで笑いを取り、ところどころで真面目になり、全体として「これまでありがとう」と「これからがんばれ」を丁寧に編んだ。答辞の声は思ったより低く、噛まずに最後の言葉までいった。拍手が波となって広がるとき、僕は胸の内で、もう一度無音の三十秒を置いた。針のない時計が、確かに時を刻む。耳の奥ではなく、肋骨の内側で。
式は滞りなく進み、滞りなく終わった。「滞りなく」という言葉は、ときどき褒め言葉として使われるべきだと思う。派手さのない成功。掃除当番の表が予定どおりに回った朝。誰も転ばず、誰の声も潰れず、笑いが場を汚さなかった昼。僕は、そういう成功の中にいた。
体育館から出ると、光が強くなっていた。校庭の砂は乾いて、靴の裏で静かに鳴く。人の輪は不規則に重なり、別れの抱擁の影が地面に落ちる。花束の匂い。写真の声。呼び止める手。僕は、その輪の影を縫って歩いた。合図は不要だった。視線が交わっただけで、方向が決まる。
亜子と目が合った。彼女は笑わない。走らない。頷かない。まぶたの裏でだけ、走っていた。僕らは一言もなく、校舎裏へ向かった。桜の根元。まだ満開には遠い、けれど蕾の数は春の密度を予告している。風の音が枝の間を渡り、遠くの笑い声が薄まって届く。
「——」
僕は右手首の内側に意識を置く。無音の窓。三十秒だけ。目を閉じないで、言葉を置かないで、二人分の呼吸だけを積む。世界は、少しだけ伸びる。伸びた分の余白に、言葉が傷つかない形で置けるように。
「亜子」
僕は言った。自分の声の高さを、昨日の夜に決めておいた高さに合わせる。
「やり直しをたくさんして、わかったことがある。成功は今日じゃ決まらない。明日も続けられる形じゃないと、反動が来る。だから、今の僕の言い方は、こうなる。——『恋人になってください。ただし、走るあなたの時間を最優先にして、一緒にルールを更新し続けたい』」
言葉は、条件に聞こえるかもしれない。けれど、僕たちにとっては祈りだ。守りたいものを先に言葉にして、巻かないで歩くための手すり。僕は、手すりを取り付ける仕事を、やっと覚え始めたばかりの人だ。
亜子はほんの一拍だけ目を伏せ、顔を上げた。瞳孔が、春の光を受けて絞り、また少し開く。
「——うん。Bを、更新で」
どこかで聞いた言い回し。僕らの“プロトコル”の略号。Aが“勢い”で、Bが“運用”。彼女は続ける。
「二人の“禁止日”も、“無音”も、“何もしない10分”も、全部、一緒に持つ」
胸の内側で、ひとつ音が鳴った。鳴ったのに、音じゃない感じがした。弦が張り替えられ、指で軽く弾かれたみたいな。足元の影が重なる。風が一度だけ強く吹き、桜の枝の蕾が、未だ開く前の形で鳴った。ループはない。一回性は怖い。でも、怖さと一緒に密度が立ち上がる。僕はその密度の上に立つ。立てる。
「ありがとう」
僕は言った。彼女は首を横に振った。
「ありがとうは、明日の“無音”のあとに」
「うん」
「それと、——明日の“何もしない10分”、私が贈る番」
「了解」
僕らは桜の根元から離れ、校庭へ戻った。世界はさっきより明るく、そしてさっきより音が柔らかかった。写真のシャッター音が泡みたいに弾け、呼び止める声が伸び切る前に収まる。僕らは人波の中を小さく抜け、体育館の脇を通って、部のブースへ向かった。
〈やり直しの設計学〉のパネルの前に、昨日も見た顔があった。中学生。前髪が少し長く、目が下を向きがち。でも今日は、首の角度がわずかに違う。彼はブースの端で立ち止まり、説明文を指で追っていた。
「来てくれたんだ」
僕が声をかけると、彼は小さく頷く。
「昨日、三十秒、やってみた」
「どうだった?」
「三十秒を、二十七秒でやめた」
「偉い」
彼は照れたように笑い、ポケットから真っ白なチップを一枚取り出して、僕に差し出した。
「いらなかった」
僕は受け取り、パネルの前に置いた。白い面に体育館の高窓の光が当たり、薄いハレーションが生まれる。使わなかった回数が、選んだ言葉の数になって積み上がっていく——昨日感じた通りの感触が、目の前で形になる。
「三回は、増やすためじゃない」
僕は彼に言った。昨日の自分の声をなぞるのではなく、今日の自分として。
「使わない選択を覚えるためにある。——ありがとう」
彼は「また来る」と言って、走り去った。走り方はきれいではないが、足の裏が強かった。強い足は、未来に負けない。僕はチップに視線を落とし、ふと、机の引き出しの中に置いてきた三枚を思い出した。あの三枚は今日、ひとつも減らない。減らないことが、今日の勝ちだ。
昼を過ぎると、ブースは自然と人が減り始め、やがて片づけの時間になった。矢代がパーティションの角をまとめ、堀内が電源タップを回収し、久遠がパネルのビスを一本ずつ外していく。霧島先輩は少し離れたところで全体を見渡し、危険がないかだけを確かめている。動きは遅くも速くもない。点検表に従う速度。僕は机の下から段ボールを引き出し、白衣をたたむ場所を空けた。
「おつかれ」
背後から声がして振り向くと、霧島先輩が白衣を畳んでいた。僕が受け取ろうと手を伸ばすと、先輩は一度だけ布の端を撫で、それから僕の手に重さを渡した。
「お前らの“やり直し”は、もう運用になってる」
「……はい」
「運用になったやつは、目立たない。だから、たまに自分で拍手しろ」
「自分で?」
「誰もしてくれないときは、特に」
先輩は笑わないで言った。笑わないのに、言葉のあとが温かいのは、彼の声に湿度があるからだ。彼は肩を軽くすくめ、ポケットから小さなキーホルダーを出した。金属の楕円。そこに、刻印の細い線で“UNWIND/10MIN”とある。
「記念品。無理に付けなくていい。音が鳴るのが嫌なら、引き出しに入れとけ」
「ありがとうございます」
白衣のポケットに入れると、布の中で小さな音がした。音は一度だけ鳴り、すぐに布の匂いに吸われる。僕はその吸われ方が好きだと思った。
「湊」
久遠が手を振り、いつもより少し長く笑う。笑いの角度で、彼女がどれくらい体力を残しているのか、いくらか想像できるようになってしまった自分がおかしい。
「巻かないで、幸せになって」
「努力します」
「努力しないで、運用して」
「了解」
彼女の言う「努力しない」は、サボることではない。努力の見せ方を、筋肉の内側に移すことだ。僕は頷き、段ボールの蓋を閉めた。
夕方。校門で人の波が細くなったころ、日高が遠くで小さく会釈した。黒いコートの襟は下りていて、代わりにマフラーが緩い。彼は口を開かない。僕も開かない。代わりに、顎を一センチだけ引いた。彼はそれに一センチだけ頷いた。それで、十分だった。救われた側と救う側が、同じ地面に立っている。地面は固く、均されている。僕らはそこに、名前を置かないで済ませた。
校門の近くでは、沙織さんが娘の肩を抱いていた。娘はこの春に入学する。制服の襟はまだ大きく、袖は少し長い。沙織さんは僕らに気づき、会釈し、目で言う。「ありがとう」。僕と亜子も目で返す。「また」。言葉の密度が、通り過ぎる風に溶けて、残り香だけがしばらく漂った。
陽が傾き、影が長くなった。校舎の影と、僕らの影。二つの線は並び、ところどころで重なり、別々の方向へ伸びる。伸びて、細くなり、それでも地面から離れない。僕は、白衣を畳み直し、ポケットのキーホルダーの位置を確かめた。
「帰ろ」
亜子が言った。僕は頷く。
「途中で、三十秒」
「三十秒」
門を出て、いつもの角で、僕らは並んで立ち止まった。無音の三十秒。道を渡る車の音が遠くに去り、犬の足音が近づき、また遠ざかる。呼吸を合わせ、合わせ切らないところでやめる。二十七秒で、やめる。使い切らない勇気。残し方の練習は、日常の真ん中でこそ効く。
家に帰る前に、僕は最後のページを開いた。“恋のルールノート”。角は少し丸くなり、表紙の紙の端が柔らかい。書く前に、一度だけ、ベランダの夜風を吸う。匂いは冷たく、空は浅い。ペン先を落とす。
1)巻かないで話す。
2)巻いたら謝る。
3)“無音の窓”を毎週。
4)“何もしない10分”を贈り合う。
5)成功の定義は、二人の明日。
書けた。書けた行は、明日の僕にとっての手すりになる。手すりは、壁ではない。握ったときに、力が抜ける種類の物体だ。僕はノートを閉じ、その音を耳に入れた。ページの間の空気が少しだけ動く。針のない時計は、相変わらず黙って時を刻んでいる。
スマホのカレンダーを開き、次の週の「禁止日」を二人分の予定に入れる。亜子の練習日、試合日、遠征日。僕の試験、部の当番、家の用事。空白に「無音」の印。詰めないで、残す。残した余白に、生活が定着する。
メッセージが一通届く。送信者は亜子。写真は送られてこない。文字だけ。
『明日の“何もしない10分”、公園。ベンチ、右側、空けておいて』
『了解』
送信すると、数秒後にスタンプが返ってくる。手のひらのマーク。僕はスマホを伏せ、机に置き、電気を消した。暗闇の密度は、無音の三十秒と同じ。目を閉じ、数えて、やめる。眠りは、余白で呼吸をする。
翌朝——いや、翌朝の手前の夢の中で、僕は部室の扉の前に立っていた。扉の上には新しいプレート。〈放課後タイムループ部——やり直しの設計学〉。ノックの音がする。ひとり分の音ではなく、いつかの自分の音と、いつかの誰かの音が重なった音。扉を開けると、机の上にチップが三枚。それらは、光を返すだけで、音は出さない。僕はチップに触れない。代わりに、黒板にチョークで書く。今日のミーティングの見出し。
——巻かないで良かったこと。
目が覚めたとき、窓の外は薄い灰色で、鳥の声が一本線になって通り過ぎた。僕は白衣の襟を整え、キーホルダーが服の内側で当たらないよう位置を調整し、鏡の前に立った。似合わない。けれど、昨日よりは似合う。似合わなさの度合いが、一ミリ薄い。僕はその一ミリを、今日のログに書き足すだろう。
玄関を出る。風は冷たい。冷たいけれど、昨日よりは柔らかい。階段の踊り場で一度だけ深呼吸し、下まで降り、いつもの角を曲がる。公園のベンチは空いていて、右側は誰かのために空いている。僕は左側に座り、無音の三十秒を置く。背もたれの板に手を添え、木の節の感触を確かめる。節は、年輪の失敗ではない。年輪の休憩だ。
やがて右側が温かくなり、視界の端に髪が揺れる。亜子は座り、何も言わず、何も渡さないまま、時間を贈る。十の分単位の塊。僕らはその塊を、やり直さないで受け取り、やり直さないで使い切らない。残す。残すことで、生活の強度は上がる。掃除当番の表は、今日も回る。
午後、部室の扉には、昨日と同じプレート。けれど、扉の内側の空気は、昨日と違う。ノックの音がするたびに、誰かの三枚のチップと、言葉の密度が、また世界を少しだけ良くするだろう。僕は、そう信じる。信じること自体が、運用だ。運用は、目立たない。だから、ときどき、自分で拍手をする。
この本編の幕は、ここでひとまず降りる。けれど、“設計する恋”と“巻かない安全”の実験は終わらない。終わらないことが、僕らにとっての成功だ。成功の定義は、二人の明日。明日が更新されるかぎり、設計図は古くならない。古くならない図面は、生活の抽斗に入れて、必要なときにだけ取り出す。無音の三十秒。何もしない十分。禁止日。倒れ方。掃除当番。そういう小さな言葉たちが、やがて僕らの家族語になる。ならなくてもいい。なるなら、ゆっくり。
夕陽が長い影を並べる。時計の針はもういらない。針のない時計は、僕らの肋骨の内側で音を立てず、しかし確実に動く。僕たちは、更新で進む。やり直しは魔法だったけれど、続けるのは生活だ。次のミーティングの見出しも、決めてある。
——巻かないで良かったこと。
ページの上のその文字は、今日より明日のほうが、きっと読みやすい。そういうふうに、暮らしていく。了。
巻いた瞬間、世界は静電気の膜に包まれた。指の腹に細かい針が一斉に触れてくるみたいな、無数の微粒子の擦れ。音の輪郭が硬くなり、廊下の遠くで誰かが走らせた消しゴムの摩擦音でさえ、エッジが立って刺さる。視界は砂目にぶれて、光の粒がいったん増え、それから均一な密度に落ち着く。俺は、薄い傾斜を滑るように層の継ぎ目を越え、久遠の層へと入り込んだ。彼女の視界の端に、俺は長方形の影みたいに現れる。気づいた彼女の瞳孔が、わずかに絞られる。驚かない代わりに、数える目。十の前に、数字の輪郭を先に撫でる目だ。
準備室の手前、小田と財前が向かい合っていた。視線はぶつからない。互いの肩の上、時計の無い壁の一点を過ぎて、その少し先を見ている。二人とも、ドアノブへ手を伸ばす角度がほとんど同じで、違うのは爪の長さと、手の甲の血管の浮き方だけだ。耳の奥で“チクタク”が鳴る。十分快の山がこちらへ押し寄せてくる前の、空気の張り。危険の閾値が、光の縁で一度だけ点滅して、また闇に溶ける。ここで二人を止めるのに、肩を掴む力は、遅れる。手を払う力は、違う齟齬を生む。——言葉だ。言葉の方が距離に早いし、温度にやさしい。
「あなたたち、どっちも正しい。だから——同時は危ない」
短いフレーズは、薄いガラスを滑る水滴みたいに二人の前で止まり、重力に従ってそれぞれの胸の中心へ落ちていく。正しさを否定しない。否定しないで、タイミングだけをずらす。正しさは容易に怒りに変わるが、時間に置き換えられれば、怒りの温度は一度下がる。火が消える温度ではないが、紙に燃え移らない温度にはできる。
久遠が、俺の言葉の着地を確認してから、二回目を使った。彼女はポケットから白いチョークを取り出し、床のタイルの目地を跨ぐように、さっと線を引く。チョーク粉の匂いが、オゾン臭に薄く混ざる。線は、ほんの少し曲がっている。まっすぐではないことが、大事だと思う。まっすぐな線は、誰かの直線を壊すから。
「この線より先に、今は入らない約束」
契約だ、と彼女は続けない。言葉に名称を与えないのも、契約の形式のひとつだ。線の手前に立った小田が、眉間に細い皺を寄せる。財前は、口角をわずかに引き下げ、苛立ちの位置を探す。苛立ちは、しばしば自分の中に居場所がない。だから外へ出ようとする。俺はその出口の枠をいったん塞ぎ、別の扉を近くに置く。
「あと五分」
具体の時間橋。九ではなく、五。十ではなく、五。十は俺たちの単位で、五は交渉の単位だ。小田は線を見たまま、細く息を吐き、小さく頷いた。財前は空気を探すように視線を泳がせてから、肩で笑った。「五分で終わんなかったら、俺、損だからな」と、誰に向けてでもなく言う。損得で考えられる人は、まだ遠い人ではない。近い。近い人間には、五は届く。
耳の奥で鳴っていた“チクタク”が、一瞬だけ遠くへ行き、次の山へ逃げる。危険の光は散り、代わりに蛍光灯の光のちらつきが、ふつうの劣化の周期に戻る。ファラデーケージの金網は黙り、研究時計の針の震えは人目をはばかるほどに微細になる。層の縫い目が、いったん滑らかに寄り、布地がひと織りぶんだけ厚みを増す。
問題は、二層の再統合だった。同期を取らないと、別の場所でズレが発生する。どちらかの層にだけ、階段の段が半歩ずれる。誰かが足首をひねる。そういう形で、世界は反動を取りに来る。霧島のメモが、頭の内側で開く。「無音の三十秒で主観時間の同期を回復」。チョークの粉がまだ空気に残っているうちに、俺は久遠の目を見る。合図。彼女は短く頷き、耳を塞ぐ。俺も耳を塞ぐ。目を閉じる。三十秒だけ、何もしない。
何もしない、ということは、案外むずかしい。息を整えようとするだけで、呼吸は意識のものになり、意識は嫌がって乱れる。乱れを見ないようにしても、乱れは乱れとしてそこにある。あるものを消すことはできないから、ただ、置く。三十秒の空き地の真ん中に、呼吸と心拍を置く。最初は、俺の脈と彼女の脈のずれが、鼓膜のすぐ裏でずっとくぐもっていた。それが、十数えて、十九で近づき、二十四で重なり、二十七で少しだけズレ、三十でまた合う。世界の粒子が同じ速度で流れ始め、膜の厚さが薄れていく。指の腹の針が、砂に変わる。砂は熱を持たず、ただそこにある。
二層が重なった。音の輪郭は柔らかさを取り戻し、視界の粒子は人間の目がもともと持っている粗さに戻った。戻った瞬間、巻き戻し疲労が遅れてやってくる。膝が笑い、胃がひっくり返るようにねじれ、額に冷たい汗がふっと浮く。世界が正常化するほど、内側の無理が顔を出すのは、ずるい仕組みだと思う。ずるいけれど、これが世界のやり方だ。
「成功」
久遠は平気な顔で言った。声は薄いが、薄さは彼女の標準だ。手を伸ばし、俺の腕を掴んで廊下のベンチに座らせる。掌は冷たい。冷たいが、震えてはいない。耐性は本物だ。——耐性があるからといって、負担がないわけではない。見えない残渣が、彼女の奥に沈殿していくイメージが、俺の脳裏から離れない。重金属の粉みたいに、粘性のある暗い粒が、ゆっくり沈んでいく。水を濁らせはしないが、確かに底に降り積もる。
廊下の角から霧島が顔を出した。層が重なり切ったのを確認してから、彼は近寄ってきて、俺の額に指の甲をかざしただけで触れず、「熱、ある?」と訊く。「ない」と答えると、彼は白衣の代わりに羽織っていたジャージの裾を軽く引っ張って、「記録」とだけ言った。短い言葉。黒板の前では長く喋るのに、現場の霧島は短い。短く言えるのは、状況が把握できている証拠だ。
小田は、チョーク線を跨がずに踵を返した。財前は、チョークの粉をつま先で軽く蹴り、残した白い粉の筋を見て、鼻だけで笑った。「五分、貸しだぞ」。彼の言い方には棘がない。棘はすでに鈍り、言葉は柔らかい刃になっている。柔らかい刃は、人を傷つけにくい代わりに、よく切れる。切られた側が気づかないうちに、切れている。気をつけるべき刃は、むしろそういう刃だ。
「今夜はここまで」
霧島が宣言し、俺たちは一度解散した。
*
夜。外階段での恋のミーティング。風は昨日より風向きを変え、図書室の窓の灯りが階段の縁を薄橙色に塗っている。亜子はフードの付いたパーカーのポケットに両手を突っ込み、足元でスニーカーのつま先を軽く合わせた。顔色は良い。目の下に浅い影があるが、それは練習でできる種類の影だ。彼女にとって影は、必ずしも悪い兆候ではない。使った場所に影ができる。影は、使った証拠だ。
「今日は?」
「短く。——“同時は危ない”を伝えただけ」
かいつまんで言う。俺の言葉は短い。短くしても、エピソードの芯だけは残るように、心の中で削った痕をそのまま渡す。
亜子は笑って、肩越しに夜の空気を一口だけ吸ってから言う。「短いけど効く言葉って、いつも湊が先に見つけるね」
「見つける、っていうより、拾うだけ。——久遠が契約にした。線を引いて、時間橋を置いた」
そこまで言うと、彼女は少しだけ黙った。沈黙の種類は、考えるときのそれで、怒るときのそれではない。怒る沈黙は体温が上がる。考える沈黙は体温が均一になる。彼女の沈黙は均一で、やがて薄い呼吸のあとで言葉になった。
「……私も、線を引いていい?」
「どこに?」
「試合前の二日、巻かない。その二日は、恋の話もしない。代わりに、そのあと、三十分だけ“無音の窓”で座る」
無音の窓。つまり、さっき久遠とやった同期の三十秒を、恋の側にも持ってくるという提案だ。三十分は長い。三十秒の六十倍。でも「窓」は、長くても窓だ。窓は、開閉するためにある。俺はうなずくと同時に少し笑ってしまった。「窓が長いと、風が入る量が増えるな」
「増えた風で、疲れを飛ばす」
「いい」
「ノートに貼る?」
「貼る」
ノートを開く。生成りの紙の左上に、新しい見出しを足す。〈試合前二日:巻かない/恋の話しない/翌日“無音の窓”三十分〉。三十分を三十秒と同じ手つきで書くのは躊躇われたが、あえて同じ数字の形で書く。数字は、形が同じであることで意味も近づく。近づけたい意味が、今日はある。
彼女はペンを受け取り、下に小さく付記した。〈“無音の窓”は、手をつながない〉。俺はその一文を指でなぞり、笑う。「遠い。——でもいい」
「近くても遠いってこと、あるから」
「ある」
階段の金属は冷たく、冷たさは集中の助けになる。言葉は温度で滑る。滑らせるときは温かく、止めるときは冷たく。俺は、今日の三十秒の冷たさを思い返す。冷たいから、呼吸が揃った。熱いと揃わない。熱は、同期を邪魔する。熱は恋の側の燃料だけど、事故の側では酸素になる。混ぜると燃える。混ぜないためのルールが、たぶん今の俺たちには必要だ。
ノートを閉じ、彼女と目を合わせ、笑う。笑いにはいくつかの角度があって、今日のは「同意」の角度だった。承認、と言い換えると堅い。よし、と言い換えると、どこかに可笑しみが混ざる。よし、でいい。——よし。
*
夜更け。部屋で一息ついたころ、スマホが短く震えた。霧島から。『研究用時計、停止の実験を行う。明日』。テキストは乾いて、短い。反動のことは書いていない。反動のことを書かないことで、彼は反動を過剰に実体化しないようにしている。名前をつけた瞬間に、恐怖は言葉の形で部屋に居座る。その入室を、彼は防いでいる。けれど、俺の胸の中では、恐怖はもうソファに座って足を組んでいる。どいてくれとは言えない客だ。言えない代わりに、俺は窓を開ける。息を調える。ノートの余白に小さく書く。〈——明日は、巻く。でも、二人で同期してから〉。
明日は核に触れる。核は、今まで見てきたどんな装置より静かに、淡々と動いてきた。それを止める。止めることは、殺すことではない。眠らせること。眠らせるための歌は、無音の三十秒だ。歌のようで歌ではない。言葉のようで言葉ではない。明日は、あれを先にやる。やってから、巻く。順番を間違えない。順番を間違えると、人は誰でも、賢さの一部を落とす。
*
翌朝の空は、昨日よりも透明度が高く、遠くのビルの輪郭が紙に描いた線みたいに見えた。朝練のグラウンドには、薄い霜が残っていて、走者の踏み跡が浅い白い線を引いていた。亜子はいつものように手短なストレッチをして、俺のところへ歩いてくると、三分、とだけ言った。三分の間、俺は一度だけ言葉を置いた。「三歩目、落とさない」。それだけ。彼女は目だけで笑い、土を蹴った。彼女の三歩目は、昨日よりもほんのわずか、重心の前にいられた。小さな修正は、小さな勝ちだ。小さな勝ちを積む人は、負け方が急に派手にならない。
部室に寄って、白いチップの棚を見た。俺の昨日の一枚は表向きで、久遠の二枚は裏返されている。霧島はホワイトボードの前に立ち、袖口のほどけかけた糸を指でちぎり、丸めてゴミ箱に入れた。それだけで、彼の顔色が昨夜より少し良く見えた。
「——止めに行く」
彼は乾いた声で言った。乾いた声は、濡れた現場に合う。濡れた声は、濡れた現場を、もっと滑らせる。俺たちは三人でうなずき、予定の時間までそれぞれ散った。
*
理科準備室。今日は、空気が最初から少し軽かった。絶縁の効果が、前夜から残っているのだと思う。ファラデーケージの網目は、いつもより均一に見え、チョークの粉は落ちていない。ケージの中の手巻き時計は、やはり微細に震えている。外して置くべき電極は昨夜のうちに整理され、薬品は距離を保たれている。小田はドアの外にいて、今日は線のこちら側に自分の立ち位置を確認している。財前は生徒会の鍵を顎で持ち上げ、「今日の俺、関係なしね」と軽く言って、廊下の端で待機した。彼らの「離れて支える」は、昨日よりも自然だ。
「——同期、先に」
霧島が言い、俺と久遠は耳を塞いで、目を閉じた。無音の三十秒。前より早く、呼吸が合う。訓練の成果。同期が先に手順になれば、恐怖は手順に押し出される。恐怖に手順を越えさせない。手順は堤防だ。堤防を越えられる恐怖もあるけれど、越えられない恐怖だってある。
三十秒の終わりを、久遠が小さく告げる。俺たちは手を下ろし、霧島がケージの側面に手を置く。絶縁手袋越しに、金属の乾いた冷たさが肩まで上がる。彼は竜頭を覗き、癖の角度を目で測り、それから工具箱から小さな止め具を取り出した。止め具は、時計に対してあまりにも原始的に見えた。突き刺すのでも、切断するのでもない。挟む。挟んで、回路の一部を“眠らせる”。
「一回目——湊、準備」
俺は白いチップに指をあてがい、呼吸を十まで上げてから、戻す。十の前後の階段の高さを、足裏で覚える。蓋に指をかける。押さない。押す手前で、止める。止めた指に、熱が集まる。熱は、指先の中でうろうろし、やがて鎖骨の下に降りていく。胸骨の少し上で、熱が球になる。球が小さくなれば、押せる。
「今」
霧島の声と、久遠の「今」が重なった。俺は蓋を押した。世界が、静電気の膜で一度だけ覆われ、音の輪郭が硬くなる。視界の粒が細かくなり、呼吸が短くなる。戻る分だけの逆再生。戻った層で、霧島は止め具を挿し込む。挿し込む角度は慎重で、しかしためらいはない。ケージの中の秒針は、震えをやめない。やめないが、その震えは、ほんのほんのわずか、浅くなる。浅くなったことを、耳ではなく、目でもなく、皮膚で知る。皮膚は時々、目より賢い。
「二回目」
久遠が、目に見えない位置に目印を置くみたいに言った。俺は頷く。頷きの中で、十の数が途中から音に変わる。音は海の底の波みたいに低く、太い。押す。世界はまた薄く滑る。滑った分だけ、時間の布が鳴る。鳴りは短く、すぐに止む。次の層で、霧島は止め具をもうひとつ、別の回路に挟む。挟んだ瞬間、ケージの金網が、まるで目蓋を閉じるみたいに見えた。錯覚だ。けれど、錯覚には、時々、事実が混ざっている。
「——三回目、どうする」
俺が問うと、霧島は一瞬だけ迷い、首を横に振った。「使わない。ここで止めない。止めたつもりになって、別のところが崩れるのが、いちばん怖い」
その判断に、俺は安堵した。安堵の中に、少し苛立ちもあった。止めたい。止めて、終わらせたい。終わらせることで、亜子の三十分の窓がただの窓になる未来を手早く引き寄せたい。短気な自分が、静かな自分を押しのけようとする。押しのけられないのは、同期をしたからだ。三十秒の無音は、短気を短くし、静けさの居場所を守る。
小田が、線の手前で小さく手を上げた。「終わったら、呼んでくれ」。声の抑揚は一定で、そこにだけ疲労の影が浮いていた。財前は「終わってなくても、終わりでいいよ」とふざけて、すぐに「嘘」と付け足した。軽さは、ときに礼儀だ。重い場所で軽いことを言える人は、ただの無神経とは違う。
片付けをして、工具箱の蓋を閉め、ケージの前で三人で短く礼をした。礼は、誰に向けてでもない。装置に、場所に、時間に。礼をすると、体の重心が一瞬だけ低くなり、戻るときに軽くなる。軽くなることで、油断が減る。
*
その日の夕方、部室で短い共有。ホワイトボードの「恋/安全/説得」の三角形に、小さな円がいくつか足されていた。円は、同期の記号だ。霧島が黒で描き、久遠が青でなぞり、俺が鉛筆で薄く影を付ける。色を重ねるほど、円は目立たなくなる。目立たなくなることが、時々、必要だ。
「明日以降も、停止の効果を観測する。急がない。——“同時”はゼロにならない。けど、散らせる」
霧島が言う。散らせる、という言葉が、今日の俺にはいちばん効いた。ゼロにしないで散らす。ゼロでは現実が安心しすぎる。散らすことで、現実は用心深くなる。用心深く生きることと、臆病に生きることは違う。言葉で敷居を作る。敷居は、またぐためにある。
窓の外で、夕方の風が校庭の砂を薄く巻き上げる。砂はすぐに落ちる。落ちるスピードは遅く、見える。見える速度のものは、怖くない。見えない速度のものが、怖い。だから、見える速度に変える。俺たちの仕事は、それだ。十分快という単位で、見えない速度を見える速度に変える。変えるたび、疲れる。疲れるたび、三十秒の窓を開ける。窓は、閉じるためにある。閉じられる窓だけが、開く意味を持つ。
*
夜、ベッドの上でノートを開いた。今日のページの最後に、二行だけ足す。〈“同時は危ない”は、恋にも効く〉。〈“無音の窓”は、恋にも効く〉。効く、という言葉は乱暴だが、今日は乱暴な言葉で自分を勇気づける。きれいな言葉は、時々、遅い。遅い言葉は長持ちするが、今日は間に合わない。間に合わせたい夜がある。
スマホに亜子からのスタンプがひとつ届いた。内容は、何の変哲もない丸い顔が目を閉じて“おやすみ”と書かれたもの。句読点はない。絵文字の紫のハートもない。紫が無い夜もある。紫が無いから、白が見える。白は、次に何色でも塗れる余白だ。俺は「明日の朝、三分。——よし」で返す。よし、の一語の右に、ほんの少し空白を残す。空白は、約束の椅子。椅子は、座れるときにだけ座ればいい。
灯りを落とし、目を閉じる直前、胸の中で“チクタク”が小さく鳴った。恐怖のソファは、まだ居間にある。どいてはくれない。けれど、今日の無音の三十秒で、ソファの位置は部屋の隅に移った。中心にない。中心にない恐怖は、家具だ。家具は、共存できる。家具の角に小さなカバーを付けるみたいに、俺たちは明日も、言葉で角を丸めていく。角を丸めた数だけ、ぶつかっても血が出ない。血が出なくても、痛みはある。痛みがあるなら、覚えていられる。覚えていられるなら、次は少しだけ、うまくやれる。そう信じるだけの同期が、今日は取れた。取れたから、眠る。眠りは、次の十の前の、最長の“無音”だ。いい無音でありますように、と心のどこかで祈りながら、俺は深く落ちた。
*
翌朝、三分の前に、俺たちはまた同期を取った。耳を塞ぎ、目を閉じ、無音の三十秒。隣のレーンでアップする他学年の足音が、遠ざかるでも近づくでもなく、一定に保たれる。保たれている時間の中で、俺の脈は彼女の脈に寄り、彼女の脈は俺の脈に寄る。寄りすぎない場所で合う。寄りすぎると、ひとつになってしまう。ひとつになることは、時々、事故の前触れだ。二つで合う。それが、今の俺たちのやり方だ。
「よし」
開けた目の中で、彼女が笑う。よしの角度。俺は同じ角度で返す。層は重なり、十は今日も、前からやってくる。やってくるたび、俺たちは合わせる。合わせるたび、少しずつ疲れ、少しずつうまくなる。うまくなってしまうことの怖さを、霧島はきっと知っている。だから今日、彼は言葉を短くした。短くした言葉は、後悔の角を、未来形で削る。削られた角は床に落ち、目に見えない粉になる。粉は、呼吸と一緒に体に入り、血の中で静かに沈む。沈んだ粉と、今日の無音と、白いチップの軽さのすべてを抱えて、俺たちは今日に入る。入った先でまた、誰かの「正しい」と誰かの「早い」がぶつかる。そのぶつかり方に、俺たちは線を引く。曲がった線。約束の線。五分の橋。三十秒の窓。——その全部をノートの紙の上に、今はまだ小さな字で並べておく。小さい字のほうが、長く読める。長く読むものだけが、未来の地図になる。今はまだ、ざらざらしている地図だ。ざらつきは、手触りの保証。手触りのある未来は、怖くない。怖くないと言えるほど、怖い。だから、今日も同期する。同期してから、巻く。巻く前に、耳を塞ぐ。耳を塞いで、聞こえる音を選ぶ。選んだ音だけで、十分だ。十分は、俺たちの単位だ。単位は、今日もまだ、壊れていない。壊さないまま、次の山に入る。入る前に、息を合わせる。合わせた息の中に、彼女の笑いが薄く混じる。それでいい。それで、いい。
第10話「秘密」
研究用時計停止の当日、校門の鉄柵は夜の冷たさを少しだけ残していて、掌を添えると皮膚の奥まで金属の記憶が沁みてくる。空気はよく磨かれたガラスみたいに薄く、息を吸うたび、咽喉のどこかに微かな鈴が触れて鳴る。理科棟へ向かう渡り廊下の角では、古い蛍光灯がまだ点灯の準備を終えていないのか、光の縁がいちどだけ弱く揺れた。今日は、止める。心臓じゃなくて、心臓のふりをしていた装置を。十の山に呼吸を合わせてきた日々の、その鼓動源を。
部室の扉を開けると、霧島はホワイトボードに今日の段取りを三段で書き分けていた。①電極絶縁の徹底。②竜頭の固定による周期停止。③ケージごと別室へ移動。黒いチョーク(白板ペンが切れたのだと言う)が線を引くたび、小さな粉が空気に舞い、朝の斜光で粒が見える。「十分快×三回の配分は、湊と久遠の同期巻きを前提に。無音の三十秒で主観の位相を合わせてから、同時に竜頭へ触れる。——巻くのは『検証のための上澄み』だけ。止める手は、巻いた回数分だけ慎重に。」
ジャージの袖口から覗く手首の骨が、彼の夜更かしを語っている。黒板の横には、いつもの透明ケース。白いチップが各自三枚ずつ、きちんと重なって互いの縁で影を作っている。それを見ただけで、背中の筋肉が小さく引き締まる。三は短い。短いからこそ、順番は言葉にしてから手に渡すべきだ。
「①は俺が切る。②は湊と久遠、同期してから同時。③は全員で。小田さんにも立ち会ってもらう。財前くんは廊下で待機、通路の確保と声がけ。蜂谷先輩は教員への説明」
役割が配られるたび、久遠は「うん」とだけ答えた。声は薄いけれど、薄いなりの重さがある。薄い鉄板は厚い鉄板と別の音で鳴る。違う音のほうが、遠くまで届くことがある。俺は内ポケットのノートを確かめ、表紙の生成りのざらつきで今日の指の力を測った。「無音の窓 三十秒」。昨日、亜子と貼った紙片の小さな角が、ページの間から控えめに覗いている。
*
理科準備室は、いつもより片づいて見えた。棚の薬品は危険度順に距離を置かれ、ファラデーケージの足元には新しいゴムのマットが敷かれている。壁の札——「取扱注意:高電圧実験歴有」は、紙の縁がやはり丸く、誰かに何度か撫でられたあとみたいに柔らかい光を吸っていた。ケージの中の手巻き時計は、相変わらず音を立てない。ただ、目を凝らすと、秒針が表面張力の水面を押し分けるように微細に震えているのがわかる。
「いくよ」
霧島が絶縁手袋をはめ、ケージの側面に配された端子をひとつずつ外していく。古い布テープの代わりに新しい絶縁材を巻き直し、接地を別経路に逃がす。細いリード線が空気の中で金属の匂いを薄く流し、その匂いがオゾンの残り香と混ざる。彼の手つきは瑞々しくない。乾いた、正確な動物の仕草に近い。必要な角度で必要なだけ動き、無駄に空気を撫でない。
一回目——絶縁は成功。霧島は親指と人差し指で小さな○をつくって見せ、俺たちは無言で頷いた。頷きのテンポを合わせることが、二回目の成否を半分決める。俺は久遠と目を合わせ、両耳を塞いだ。三十。数え始める。十の前にある数字が、今日はやけにたくさんいる気がした。三、五、八。数字の輪郭が厚い。二十四。肺の皺が一回分増えたみたいに息が深くなる。二十七、二十八、二十九、三十——目を開ける。呼吸が揃った。世界の粒子が同じ速度で流れはじめる。同期は、音楽の冒頭のカウントみたいに、安定のための見えない隙間だ。
「二段目——竜頭」
霧島がケージの蓋をそっと上げる。蝶番が、小さくひと鳴きする。俺と久遠は対面に立ち、同じ角度で腕を差し入れた。竜頭の金属は、夏の鉄みたいに熱いわけでも、冬の鍵みたいに冷たいわけでもない。触れた瞬間、むしろ乾いた温度の層が指の腹を撫でた。俺は合図を待ち、久遠の瞼の端がほんのわずかに動くのを見て、同時に押し回す。固い——けれど、回る。回る角度が途中で抵抗を変え、装置の奥のどこかで骨のない小さな生き物が姿勢を直すような手応えがあった。
その瞬間、世界が逆流した。耳の奥で“チクタク”が突然、早回しになる。秒針が時間に追い立てられて走り出し、準備室の蛍光灯がストロボのように点滅した。白い光の間に黒が挟まれ、黒の間に白が挟まれる。光は剝がれ、音は硬く、空気は紙のように薄くなる。戻るな。——装置がそう言っている気さえした。戻るというのは、ほんとうは嫌われる行為なのかもしれない。見たことのある景色をもう一度見るために、世界のほうをねじ曲げるから。
「——無音」
久遠の声が、膜の向こうで合図を打つ。俺はその声に従って、彼女の手首を掴んだ。彼女も俺の手首を掴む。互いの脈の高さを相手の皮膚から借りる。耳を塞ぎ、目を閉じる。二十七、二十八、二十九、三十。数の最後の角で、不意に光が柔らかくなる。蛍光灯のチカチカが止まり、秒針の暴走が静かに息切れして、床の静電が指先から降りた。波は越えた——久遠が目だけでそう言った。握っていた手首を離すと、皮膚に指の淡い跡が残っていて、そこにだけ時間の名残が居座っている。
霧島が、固い息をひとつ吐く。「あと一段。——移動」
俺たちはケージの下に台車を差し込み、四隅をベルトで固定した。金属の足がゴムの上で短く鳴り、車輪のグリースは新しい匂いで廊下の空気に薄い光沢をかぶせた。小田が通路の扉を開け、財前は前を走って人の流れを端に寄せる。十分快の山がさっきから中腹のまま停滞しているような手応え。未決の重心。こういうとき、言葉は乱暴になる。乱暴にしないために、俺は口の中で「よし」をひとつ作って噛んだ。
廊下の角を曲がったところで、彼女に出会った。沙織さん。髪をひとつにまとめ、薄いグレーのコートの裾を指で押さえたまま、俺たちの台車を驚いた目で見た。亜子の母——交通量の多い現実の中で、彼女は常に子どもの側で風除けになってきた人だと思っていた。その人の視線が、ケージに釘づけになる。「それ、まだ動いてる装置?」
「動いてました。——これから、別室へ」
俺が答える前に、霧島が丁寧に頷いた。沙織さんは、台車に近づきすぎない距離で足を止め、指先だけで空気を触るみたいにしてから、言った。「昔、この学校で似た装置を扱っていたの。卒業生だった頃。理科主任の研究班にいて、主観時間がどうのって、たいそうな言葉だけ並べて。——あの頃は、怖さを知らなかった」
秘密が一枚、剥がれる音がした。カレンダーのページを一枚めくるときの、あの耳鳴りにも似た音。俺は、沙織さんがこの学校の卒業生だということを知らなかった。いや、聞けばどこかで一度見た気もする。紫のハートのスタンプは、軽さのための習慣で、過去の重さのカバーでもあったのだ。彼女の瞳の奥に、ブラウンの薄い層が隠れているのが見える。学生時代のラボの光がまだそこに残っている。
「倒れた人がいた。研究で、じゃない。研究の先にある、日常で。——時間をいじると、日常が歪むの。歪みに気づくのは、いつも遅い」
霧島が一瞬だけ目を伏せた。日高の名を口に出さなかった。言葉には重さがある。重さを出すと、その場所に沈む。沈むと、運べなくなる。今は運ぶときだ。俺は台車のハンドルを握り直し、沙織さんに「通ります」と短く告げた。彼女は身を引き、しかし去らずに廊下の端で見守った。見守る、という動詞は、距離の中に体温を残せるのだと、はじめて知る。
「あなた、湊くんね」
呼び止められた。立ち止まった右足の小指が、靴の中で少しだけ当たった。「はい」と答えると、彼女は迷いなく言った。
「うちの子、勝ちたいって言うでしょ。あれは、私の未完が刺さってるの。取り除けなかった棘みたいに。——でも、今日あなたがこれを運ぶのを見て、少しだけ刺さりが浅くなった気がする」
そんなふうに言ってもらえる資格が、俺にあるだろうか。わからない。けれど、言葉は受け取った重さの分だけ、誰かの肩から落ちる。落ちた分、俺が持つ。持った重さは、十の単位に換算できるはずだ。十の山ひとつぶん。運べる。
別室への移動は静かに終わった。ケージは古い実験倉庫の半地下に置かれ、竜頭の固定は二重の留め具で封じられた。電極は盲端化され、台帳には「停止」「暫定」「観測中」の三つの朱が、きれいに並んで押された。久遠が簡易センサーを最後に一度だけかざす。針は震えない。十分快の山は、遠い地平に薄く見えるだけ。近くには来ない。停止実験は成功——霧島がその語を口にした瞬間、胸の奥の筋肉がほぐれた。それと同時に、空虚が少しだけ入ってきた。核が鳴り止んだことの静けさに、耳が慣れるまでの間の、寂しい隙間。緊張が音楽だったなら、その音が突然止まったステージの上で、観客に背を向けたまま立ち尽くす演奏者みたいな、どうしようもない間の悪さ。
「静かな時間にこそ、人間の矛盾が出る」
霧島はいつもの調子に戻って言った。装置が止まっても、人が走れば熱は出る。熱には酸素が要る。酸素はルールから漏れる。ルールは更新する。——頭の中のホワイトボードで、彼の言葉はいつも少しだけ先に斜体になる。焦りではなく、前傾の意志。
*
夕方。外階段の踊り場で、亜子と向かい合う。禁止日の前夜。彼女は体育館の裏側からの風を背中で受け止め、そこからこぼれたやわらかい風だけを俺に分けるみたいに立っていた。ノートを差し出すと、彼女は二枚目の付箋の角をつまんで、目で読んだ。「明日から二日、巻かないし、恋の話はしない。——その前に、言っておきたい秘密がある」
秘密。音の立たない文字。彼女の声はいつもより少し低い場所から出て、途中であがって、また下りてきた。
「お母さん、卒業生。理科主任の研究班にいた。——なんとなく、わたし、知ってた。紫のハートが、昔の彼女の色だから。今日、準備室の前で、湊の後ろにいるの見て、ああ、やっぱりって思った」
彼女は語った。途切れ途切れに。昔、装置のそばで倒れた人がいたこと。そのことで母が罪悪感を抱えたこと。自分が勝つことで、その罪悪感の影が薄くなるのではないかと、どこかで信じてしまっていたこと。勝てば救える、という単純な算術に、何度も引き戻されそうになったこと。勝てない日に、自分の価値が軽くなるような錯覚が、喉の奥のほうで毎回、砂になって残ったこと。——その砂は、練習の汗では流れない。
俺は巻かないで聞いた。「慰め」は、今日のルールにない。「正解」も、いらない。約束だけを置く。
「勝っても、負けても、あなたの居場所はここ」
言葉は短く、椅子のかたちで。彼女は、そこに座るかどうかを決める自由を、自分の手に残す。「ここ」に含まれる空間は狭くて広い。部室の机の端。外階段の金属の冷たさ。無音の窓。俺の胸の中の椅子の背。彼女は座らない。座らないけれど、「あるね」と言って、椅子の背に指を触れた。その触れ方は、帰り道に自販機の縁をそっと撫でるみたいに、日常の癖に馴染んでいた。
ミーティングが終わる直前、階段のずっと向こうで遠雷が鳴った。春の前の電気の擦れ。核は止まったはずなのに、胸騒ぎが薄い紙切れみたいに腹の中で裏返る。スマホが短く震えた。霧島から。「装置は止まった。だが——」そこで文が途切れた。『だが』のあとに、どんな名詞がくるのか。『装置は止まった。だが、人は止まらない』。『だが、誰かは動く』。考えられる語がいくつも頭の中で列を作って、どれも前に出られずにいる。
「何?」と返す前に、既読がつかない。理科棟の方向、準備室の窓が、一度だけ内側から光った。蛍光灯の自然のチカチカではない。人為の直線。夜を割る刃物の光。核が止まれば、次は人が動く。事件は、装置の心臓にだけ住んでいたわけじゃない。俺たちの歩き方にも、呼吸のリズムにも、紐の結び目にも、事件の種は潜っている。
「帰るね。——二日、巻かない。恋の話もしない。『無音の窓』で会えるように、練習の中に余白つくる」
亜子はそれだけ言って、スニーカーの踵で階段の縁を軽く鳴らし、降りていった。背中はまっすぐ。まっすぐな背中は、ときどき怖い。でも、今日は怖くなかった。まっすぐの線の先に、曲がった線の約束がもう引いてあるから。曲がっているのに、先に延びていく。そういう線を、俺たちは選び続ける。
*
ベッドの上にノートを開き、禁止日の約束を見つめる。『試合前二日:巻かない/恋の話しない/翌日“無音の窓”三十分』。ペン先を噛む。どこまで噛んだら壊れるのかを知っている。壊れる手前でやめる。やめる、この小さな自制が、明日の大きな自制の予告になる。巻けない二日。けれど、その二日は、恋を守るための時間。守る、という動詞は攻めと違って数えにくい。数えにくいから、忘れられやすい。忘れられやすいから、書く。
『——明後日、“無音の窓”で会おう』
祈る。祈りは科学ではない。ルールにも入っていない。けれど、同期を助ける。心拍と心拍の間に薄い橋をかけるとき、人はたいてい科学ではないものを呼ぶ。呼んだものは、たいした役には立たない。立たないけれど、いないと困る。そういう存在のために、ノートには余白がある。
灯りを落とす。天井は低くも高くも見える。耳の奥で、時計のない“チクタク”が続く。装置の針ではなく、体のどこかにある見えない針が、薄い影を秒ごとに床に落としていく。二十七、二十八、二十九、三十——眠りの手前で、階下の排水管が水を流す音が遅れて届く。遅れて届く音は、今起きていることの中に、前の時間が混ざっている証拠だ。混ざりものは、怖い。でも、まったく混ざらないもののほうが、もっと怖い。
*
禁止日の一日目、朝練の空は灰色で、雲が低い。亜子は「三分」とだけ言い、スタート練習の前に目を閉じた。互いに耳を塞ぎ、無音の三十秒。彼女の脈は昨日より少し速い。速いけれど、乱れていない。乱れない速さは、強さ。走り出す背中に、言葉はひとつも投げない。彼女は自分で拾える。拾えない日は、拾えないと言うはずだ。言える相手がいるということが、彼女の走りの一部になっている。俺の仕事は、その「言える」を薄く磨くこと。磨きすぎないように気をつけながら。
午前、霧島からの連絡はない。午後、部室のホワイトボードの文字は昨夜と変わらず、黒の上に青の丸がいくつか重ねて描かれている。久遠は窓際で風の向きを観察し、紙センサーのログをノートに写す。「——放電、ゼロ」。数字は静かだ。静かだと、逆に不安が増す。人間は変化で安心し、静止で不安になる生き物だ。動いたほうが死に近いのに、奇妙だ。
夕方、理科準備室の前を通る。窓は暗い。内部のケージは別室に去り、棚に残った空隙だけが器官を失った体の空洞みたいに見える。扉の隙間から、紙の匂いがした。化学薬品の匂いじゃない。台帳とダンボールの匂い。紙の匂いは、安心だ。火の変換の匂いでもあるけれど。
夜。霧島からやっと短文が来る。「装置は止まった。だが、誰かが『止まった空白』を欲しがる」。続けざまに、「今夜、準備室近辺は鍵強化。ただし鍵は“ぜんぶの人”を止めない」。彼は鍵という言葉を軽く嫌っている。鍵は安全の仮面を被る。仮面は便利だが、長く被ると顔の筋肉が死ぬ。鍵を増やす代わりに、俺たちは無音を増やす。無音は顔を殺さない。
*
禁止日の二日目、亜子はいつもより早くグラウンドに来て、サークルの中で足首を回していた。俺は手を振るだけで近づかない。距離の正確さは、恋の側でも安全の側でも等しく効く。彼女はうなずき、視線をレーンの先に戻した。俺は脇のベンチに座り、ノートを開いて、余白に小さく「——見守る」と書いた。見張ると見守るの違いは距離ではなく、視線の温度だと知って以来、この二語は俺の中でよく入れ替わる。
放課後、準備室の近くの廊下に新しい掲示が出ていた。「装置移送に伴う立入制限」。文言は固い。固い言葉は、存在の輪郭を曖昧にすることがある。曖昧になると、隙間が増える。——隙間は必要だ。必要だけれど、そこに入ってしまう人がいる。入ってしまう人の速度は、鍵より速い。
夜、スマホが震えた。霧島から。「明日、ケージ周辺の最終封印。三十分だけ全員集合。無音で始めて、無音で終わる」。通知の白が、部屋の暗さの中で四角く浮かぶ。『無音で終わる』という文の形が、思ったよりきれいだ。きれいだから、怖い。終わりはいつも、きれいな顔をして現れる。終わらないもののほうが、不格好だ。でも、不格好のほうが生き延びる。
枕元に時計のない“チクタク”が続く。祈りみたいな、あるいは祈りよりずっと正確な、体の奥の織り機の音。明後日、“無音の窓”で会えるように。彼女が二日を守れるように。俺が二日を守れるように。守ることが攻めの練習になるように。——祈る。祈りは、科学じゃない。科学じゃないけれど、同期を助ける。助けられた同期は、明日の十分快の山を低くする。低くなった山は、足で越えられる。越えられる山は、もう山じゃない。そう考えられる程度には、俺は今、自分の速度を信じている。信じられる速度のまま、目を閉じた。
*
封印当日。再び理科準備室の前。廊下の空気は昨日より軽い。鍵の金具は新しい傷を作らず、扉の縁のゴムが柔らかな密着音を立てる。久遠は耳を塞ぎ、俺も塞いだ。無音の三十秒。三十の手前で、一秒だけ、誰かの気配が廊下の向こうで止まった。止まる気配は、音よりも重い。重いけれど、時間の階段は登ってくる。三十。手を下ろす。
封印は滞りなく終わった。ケージの蓋は二重の鍵で閉ざされ、竜頭は固定具で覆われ、台車の車輪は外された。記録用紙には「封」「了」の朱。朱肉の匂いが、朝の金属の匂いと混ざる。小田は最後に、捺印された朱をじっと見て、「責任が、別の形になる」と言った。財前は「合法最短路」の紙を折り畳み、胸ポケットに差し込んだ。折り目のついた紙は、使われる。
解散のあと、廊下の角で、沙織さんとまたすれ違った。「封印、お疲れさま」と言われ、心臓の裏側で何かが少しだけ温かくなった。「勝ちたい」は、誰かの「あのとき止めたかった」の裏返しでもある。裏返しの糸を千切るには、時間が要る。時間の脇にある空白——無音の窓——に座ることでしか、千切れない糸もある。「明日、会えますか」と俺が無意識に尋ねそうになって、やめた。聞くのは俺じゃない。明日、会うのは、俺と亜子だ。
*
夜。外階段の手すりは、昨日より冷たい。禁止日の二日が終わった。メッセージが一つ届く。「明日、三十分の窓で座る」。句読点はいらなかった。俺は「よし」と返し、それから、手帳の端に小さく書く。〈装置は止まった。だが——〉。その『だが』のあとに、今日なら書ける言葉がいくつかある。『だが、人は走る』『だが、誰かは開ける』『だが、秘密は残る』。秘密は、悪ではない。未完の形。未完は、未来形に近い。未来形に直せる秘密だけを、俺たちは持つ。直せない秘密は、祈りの側に置く。祈りは、科学じゃない。だけど、誰かの十と俺の十を、また一本にしてくれる。今夜も、胸の奥で、時計のない“チクタク”が続く。数字は出ない。出ないのに、確かに、そこにある。無音の三十秒の中で、明日に向けて、わずかに早まる。俺は目を閉じ、音のない音で数えながら、眠りへ滑り込んだ。明日、窓を開けるために。窓の先で、同じ速さの影を見るために。よし。——よし。
第11話「犯人の動機は“守りたい”」
研究用時計は止まった。封印の朱が乾いた翌日の朝、校庭の砂は夜露を少し吸って重く、踏めばぺたぺたと低く鳴いた。金属の匂いは薄れたはずなのに、理科棟へ向かう渡り廊下の手すりに手をかけると、指先にだけ冷たい金が残っている気がした。昨夜、窓の内側で光が跳ねた——蛍光灯の寿命が出す鈍い点滅じゃない、人の手が入った直線の光。あれはいったい、何を意味していたのか。装置が眠りについたのなら、次に動くのは人だ。誰かが、時間の寝床の端っこを指で摘んで、こっそり布団をめくったに違いない。
部室の扉を開けると、霧島は窓際に腰をかけ、スマホを両手で挟んで静かに息を吐いたところだった。届かない既読のアイコンが戻っていて、彼は短く打った文字を、さらに細かい粒に解すように目で撫でる。
「昨夜、準備室に“合鍵”で入った痕跡。監視カメラは死角が多い。——鍵の履歴は、理科主任の黒瀬、助手の小田、生徒会設備係の財前、そして“もう一人”。卒業生用の臨時カード」
「卒業生……?」
思わず声の高さが半音上がる。文化祭や体育祭の時期なら、OBが出入りすることはある。けれど、今は該当期間ではない。廊下の掲示板に貼られた年間予定表を頭の中でめくる。該当なし。なら、それは「行事」ではない私的な出入りだ。
「カード自体は“保全”名目で発行できる。作業請負の外部、卒業生の非常勤。——細い合法の道。細いから、見落とされる」
霧島の声は乾いていた。乾きは怒りの前触れにも、諦めの後にもよく似ている。けれど今の乾きは、どちらでもなかった。把握の乾き——情報が水気を失って形になり、ひとつずつ棚に立つときの静けさ。
「まず配分会議だ。十分快×三回。目的はふたつ。①犯人確定のための“層跨ぎ観察”。②恋の禁止日を守るための“巻かない”設計。——湊は今日から二日、巻かない。亜子さんとの約束を守る。事件は久遠と俺で行く」
「行くって言っても、久遠の残渣が溜まってる」
「わかってる。だから、二人で一回ずつ。最後の一回は“何もしない”に使う」
「何もしない十分快……?」
「無音の三十秒の拡張版だ。あらかじめ“何も起こさない十分快”を確保して、反動を吸収する。層の揺れを意図的に平板化する。——筋の悪い介入を減らせる」
ホワイトボードに、彼は三本の棒を描いた。一本目の上に「観察」、二本目の上に「追跡」、三本目の上に「空白」と書いて、小さな円を重ねる。円は同期の記号。黒の上に青でなぞり、さらに鉛筆で薄い影を付けると、円は目立たなくなっていく。目立たなくなることで、存在は内部に沈む。沈んだものは、急に揺さぶってもこぼれない。
「湊、財前くんへの“巻かない説得”は継続。『早く終わらせたい』の動機を責めない。最短路を合法に作り直す。——小田さんには、安全投資の議事メモ。決裁の見込みを示して、待たせない時間を渡す。俺たちが疑っていた二人に、犯意はない。確信に変えたい」
俺は頷き、ノートの端に〈早いを合法で短く〉と書いた。文字を自分に向けて置く。置かれた言葉は、行動の指の癖になる。その癖は、緊張の場で勝手に動く。
*
午前のうちに財前を捕まえる。体育館裏、配線図のコピーを広げ、二人で腰を折って覗き込む。紙の上で矢印は簡単に曲がるが、現場のケーブルは曲がらない。だから図の精度は紙より床に合わせて上げる必要がある。
「見て。こっちのルート、許可さえ取れば、総延長が二割減る」
「許可がめんどいんだよ」
「だから、その手間の“並列化”。連絡の順番をひとつ入れ替える。ここ、今まで“後”に回してた申請、先に電話一本。そしたら実作業の待ちが消える。——禁止テープを剥がして貼り直すより、トータルで速い」
「……速い、か?」
財前は疑う。疑いは、彼の正直さだ。短縮のためにルールをまたぐ癖は、たいてい正直さの欠落から始まる。でも彼の疑いは速度の純度に向いていて、規則の嫌味に向いていない。その視線の方向なら、まだ話せる。
「速い。言い切るために数字にしてきた」
プリントを差し出す。表は三行だけ。手続/所要/並列可否。余白が多い表は、相手の思考に場所をあける。財前は目線を紙と床の間で二往復させ、やがて渋面のまま小声で言った。
「……すまん」
礼だ。彼は謝るとき、“すまん”を先に置く。謝罪と礼の混合。俺は肩をすくめ、紙を折り畳む。「こっちも助かる。安全側の速度、実績を作るのはこっちの仕事だ」
彼は頷き、束ねたケーブルの端を足で持ち上げてから、ふと表情を緩めた。「この表、もらっていい?」。紙の折り目は、今日中に増えるだろう。
小田には昼休み、理科準備室の前で会う。安全投資の議事メモ、決裁見込みの線を引いたコピー、寄贈候補一覧。彼は受け取って、朱のハンコ列の上に置いた。手の甲の血管の浮きは昨日より少ない。
「湊くん」
「はい」
「君たちの“巻かない説得”は、助かる。助かるけど、君たちの“巻かない”がいつも続くわけじゃないことも、ちょっとだけわかる。——だから、こっちも急ぐ」
彼の「急ぐ」は、誰かを置いていくための速度ではなく、誰かに追いつくための速度だ。速度の向きが同じであるうちは、事故は起こりにくい。向きが違う瞬間に、角が火を生む。火を生ませないための紙を渡す。それだけだ。
*
放課後、部室で最終の配分確認をしてから、俺は帰宅のルートに乗る。禁止日の一日目。亜子との「恋の話は禁止」。校門の影に彼女が立っていて、俺を見るなり目尻を少しだけ上げた。言葉のない挨拶。言葉を増やさないことが、約束の形。
「無音、いく?」
「うん」
耳を塞ぎ、目を閉じる。三十秒。彼女の脈は、昨日よりももっと均一だ。試合前の二日、彼女は“巻かない”を選んだ。選んだことが心拍の配列を整える。無音の窓を開け終えると、彼女は短く息を吐いて笑った。
「静かって、怖いけど、心が均されるね」
「うん」
うなずく。うなずくだけで、約束が更新される。短い会話は、長い沈黙を支える脚。脚が折れないように、節のところに布を巻いておく。今日は布の巻き方だけ覚える。
*
夜。時刻は二十時台。久遠と霧島から、グループに小さな「いく」の文字。白いチップの写真は送られない。数えるのは部室の棚の上で。文字だけが、層をまたいでも色を変えない。
——一回目。
図書室の端末。古いブラウザの履歴ページに残っていた数列から、卒業生用臨時カードのログイン痕が呼び出される。古い名義。日高。霧島が以前、喉の奥で苦い音を出した名前。倒れた助手。卒業扱いのまま、非常勤契約で出入りできる資格が残っていた。そのカードで、一週間前から二度、夜の準備室にアクセスした履歴。日時。十の山の近傍。
「——日高」
久遠の短いメッセージが、画面に現れる。点と線が繋がる音はしない。音がしないのは、彼女がいつも先に耳鳴りの数を整えるからだ。整ってから、文字は置かれる。
——二回目。
準備室周辺を張る。廊下の曲がり角の空気の流れが変わったのは二十時五分。現れたのは、日高ではなかった。沙織さんだった。彼女は事務室で何かの書類を受け取り、準備室近くで足を止めた。扉に触れない。窓の向こうを見つめ、息を細く吐いてから、踵を返した。髪の束が首筋で揺れ、光を一度だけ吸ってから離す。昨夜の光に似ていた——けれど、それは人為の直線ではない。迷いの曲線。火種にはならない。火を思い出す動きだ。
——三回目は、使わない。二人は部室で黙って座り、“何もしない十分快”を丸ごと飲み込む。呼吸が落ち着くのを待つ。十分快は長い。長くて、何も起きない時間を身体に入れておくと、その重さで急な坂の滑りを止められる。
戻ってきたメッセージは、ひと言だけ。「——日高」。推理の骨格は、霧島が組み上げた。
「研究用時計が止まって“安全”が戻ることは、日高さんの英雄性を無効化する。彼は救ってしまった過去に囚われ、今も“自分がいなければ危険が起こる”ことを証明したい。悪意じゃない。善意の過剰。——自分を、守りたい」
善意の過剰、という言い方をしたとき、霧島はかつての自分の横顔を、鏡で斜めから見ているような視線になる。止められなかった過去。止めるために重ねた今。人は、誰かを守りたいと願うとき、自分の輪郭を濃くしてしまう。濃くなった輪郭は、他者の薄い輪郭を押し出す。押し出された輪郭の上に、事件は起きる。
*
翌日。禁止日の二日目。俺は亜子と恋の話をしない。校門で無音の三十秒を吸い、彼女の目の奥の静けさを確認し、頷いてそれだけで別れた。朝練のトラックで彼女が走る姿は、いつものように一本の線に近づいていく。一本の線は、折れにくい。折れにくいけれど、無理に曲げると折れる。だから、曲がる前に曲げない。今日は、それだけ覚えて帰る。
授業の合間、部室に戻ると、久遠が窓際で紙センサーのログを整理していた。夜の間、放電記録はゼロ。数字は静か。静けさは緊張の形を変える。張り詰めていた糸から、柔らかい布に。布は火を遅らせるけれど、完全に消すわけではない。
「——今夜、どうする」
「霧島は“巻かない対話”を提案してる。日高さんに」
「うん」
久遠は頷いた。頷きの角度は浅く、どこか遠くを見るような目の焦点。酔わない彼女にも、連続巻きの残渣は薄く沈殿しているはずだ。触れない沈殿。触れないから、こちらが勝手に心配するしかない種類のもの。
「俺、行くよ」
言ってから、自分の声が思ったより滑らかに空気に乗ったことに驚いた。禁止日の二日目。恋の側の約束は守る。そのうえで、事件の側で“巻かない対話”を選ぶ。矛盾ではない。むしろ、同じ筋に沿っている。巻かないで抱える痛みの重さを、俺はようやく運べるようになってきた。運べるときに、運ぶ。
「霧島の後悔を、俺たちの言葉で終わらせる」
久遠は、少しだけ目を細めて笑った。「終わらせる、は怖い語。でも、今日は、湊が使っていい」
*
放課後。理科準備室の別室——半地下の実験倉庫の手前で、俺と霧島、久遠、小田の四人は立っていた。廊下の照明は等間隔に白い円を床に落とし、その円の上を歩けば、影は途切れ途切れになる。日高が現れるなら、ここだ。ここで現れ、ここで言う。「安全は、退屈だ」。あるいは、「俺たちは、役目を終えた」。どの言葉にも、正しさの薄い膜が張ってある。薄い膜は破りたくなる。破る快感に、事件はよく紛れる。
と、足音。規則的で、少しだけ重い。階段を降りる足音は、若者の弾みではなく、中年の膝の軋みを含んでいる。日高が角を曲がる。俺は彼の顔を写真でしか知らなかった。写真よりも頬が落ち、目の周りの皮膚が乾き、その乾きが優しさに似て見える。その錯覚が、危険だ。
「こんばんは」
日高は先に挨拶した。声は澄んでいた。澄んでいるから、遠くの音を拾いそうで、じつは近くの音しか拾わない種類の声。
「こんばんは」
霧島が返す。間合いは取らない。取らないほうが、平らに話せる相手がいる。日高は、その相手だ。間合いを作れば、彼はそこに劇的な言葉を置いてしまうだろうから。
「封印を見に来た。——止まった?」
「止まった。あなたが来なくても」
言葉の刃は見せない。刃はあるが、鞘に入れたまま渡す。日高はケージの方向を見、首を傾げ、笑った。その笑いは、自分に向けたものだ。自分の滑稽さに気づいたとき、人は笑う。笑える人は、まだ戻れる。
「君たち、偉いね」
「偉くはない」
霧島は乾いた声で否定し、「日高さん」と呼んだ。「昨夜、光りました。準備室の窓。装置は止まっていた。だからあれは、人の光です」
日高は否定しなかった。否定しないことは、肯定ではない。肯定しないで立ち尽くすことが、人間にはある。立ち尽くす間に、言葉は熟し、腐り、形を変える。どの変化を選ぶかで、今日の行き先が決まる。
「……誰も、火をつけたいわけじゃない」
「わかってます」
「だけど、止まった空白が——」
「欲しくなる」
俺が続けると、日高は初めてこちらをまっすぐ見た。目は暗くない。暗いのは瞳孔ではなく、言葉の底にある粘性だ。
「君は、誰?」
「湊です。時間研究対策部の」
「対策部、ね」
彼は薄く笑い、ポケットに手を入れ、何も取り出さないで抜いた。指先にささくれが一本、立っている。細かい血の匂いが、空気の端で一瞬だけ濃くなる。
「私は、守りたかった。装置を、ではない。ここで時間に触ろうとする人たちの、最後の張りつめを」
「張りつめは、あなたが張った?」
「張りつめは、勝手に張るんだよ。私が張ったのは、見えない幕。幕の手前で、みんなが慎重になるように。——安全になる。安全になれば、役目を終える人が出てくる。終えた人が、次の場所に行かないと、場所は腐る。腐る匂いが出はじめると、人は二種類に分かれる。離れる人と、香料を撒く人」
「あなたは、香料を撒いた」
日高は肩をすくめた。「つもりはなかった。——でも、光は撒いた。見える香りは、すぐに見えなくなるから。見えない香りだけ残る。——香りは、善意だと思っていた」
善意の過剰。霧島が推理に置いた言葉が、現物の口から出てくるのを聞くのは、胸の奥の冷たい場所に砂をひとつ落とすみたいな音がした。俺は深呼吸をし、無音の窓を思い出す。三十秒。そう長くは取れない。十秒。十でいい。十の前後で、言葉の角を少し落とす。
「日高さん。“守りたい”は、間違ってない。——でも、“あなただけが守れる”は間違いだ」
「誰でも守れる、って?」
「“誰でも”じゃない。“誰か”だ。交代可能な“誰か”が、日ごとに位置を変える。位置は、誰のものでもない。——あなたは、位置に名前を彫ろうとした」
日高の眼差しの中で、何かが少しだけ傾いた。傾きは危険だ。でも、危険の反対側に、降りられる段差があるかもしれない。
「……ここは、危ない場所だ」
「だから、フェンスを作ってる。フェンスは、門がある。門に鍵もある。でも鍵は“ぜんぶの人”を止めない。——だから、言葉が要る」
「言葉」
「“十秒待って”とか、“今は入らない”とか、“五分で戻る”とか。——あなたが昨日、撒いた光は、言葉の前に出てきた。言葉の前に出てくる光は、怖い」
日高は視線を床に落とし、靴の先で白い線を踏んだ。チョークの線——久遠が引いた“境界”。彼は線を跨がなかった。跨がないで、線の向こうを見た。
「君は、何も巻かないでそれを言うのか」
「言う」
巻かないで言う、と宣言することが、今日の俺には必要だった。巻けば、簡単になる。巻けば、安心する。でも、その安心は、誰かの位置を固定してしまう。固定は、腐敗のはじまりでもある。
「私は、日高さんのように“倒れなかった」。——霧島」
日高の言葉が、霧島に向いた。霧島は頷いた。頷いて、言う。
「倒れたのは、あなたのせいじゃない。あなたの“やり方”のせいだ。やり方は、変えられる。——変えるのは、私たちの役目だ」
「役目……。役目に、二度と戻れない人間もいる」
「戻らなくていい。戻らないで、別の場所へ行けばいい。——あなたの“守りたい”は、ここではなく、あなた自身の“英雄だった頃の自分”かもしれない」
日高は目を閉じた。閉じた目の端で、薄い皺が一本増えた。
「英雄に戻りたいわけじゃない。英雄がいなくても事足りる場所が、私には、怖いだけだ」
「怖いときこそ、無音の三十秒だ」
俺は耳を指で挟む仕草をしてみせた。日高は笑い、両手を上げて見せ、何も塞がなかった。塞がない。塞がないで、彼は息を吸い、吐いた。
「君たちに任せる。任せるのは、負けじゃない。任せるのは、移譲だ」
「移譲は、責任が別の形になること。小田さんがそう言っていた」
日高は小さくうなずき、ケージの方向をもう一度見た。目に映ったのは、眠った金属の箱と、封印の朱と、薄い埃。彼は踵を返した。返して、またこちらを見た。
「——沙織さんには、私からも謝る。昔の光を思い出させた」
「お願いします」
霧島が一歩、前に出て頭を下げた。彼の背中は、昨日よりまっすぐだった。後悔の角が、ほんの少しだけ削れている。削れた粉は、誰かの呼吸に入っていくかもしれない。入ってしまった粉は、静かに沈むだろう。沈むことを怖がりすぎると、歩けなくなる。怖がりすぎない場所で、怖がる。
*
日高が去ったあと、部室に戻って、俺たちは十分快の“何もしない”をやった。無音の三十秒より長い空白は、最初の五分がいちばん重い。次の三分で、重さは馴染む。最後の二分で、重さが軽くなったことに気づく。気づきは冷たい水みたいに体に入る。入れば、次をやれる。
「犯人の動機は“守りたい”」
霧島が言った。言葉はまとめでも、判決でもない。記録のための見出し。ノートに同じ文言を写す。文字が紙に沈む音はしないのに、沈んだ深さは、指先が知っている。
「“守りたい”は犯罪を正当化しない。けれど、“守りたい”を切り捨てると、次の犯罪が生まれる」
「だから、言い換える。“守りたい”を、“任せたい”に」
久遠が、窓の外の風を見ながら言った。彼女の「言い換える」は、いつも断定を避ける。避けることで、言葉が呼吸する。呼吸する言葉は、長持ちする。
メッセージの音。画面には亜子の名。「禁止日、完了。明日、“無音の窓”で座る」。句点のない短文。短文は、今日の体温に合う。
*
夜、ベッドの上。ノートの余白に、今日を何行かで閉じる。〈研究用時計:停止。卒業生用カード:日高。動機:“守りたい”。——守りたいは善意の形で、過剰は事故。〉。次に、〈“何もしない十分快”=反動吸収。無音三十秒の拡張〉。最後に、〈霧島の後悔:過去形に近づく〉。
ペンの先を噛み、目を閉じる。禁止日の二日目が終わり、明日は窓を開ける。外階段の手すりは、きっと昨日より冷たく、座る段差はきっと同じ高さ。俺は目を閉じたまま、耳の奥で十を数える。十の前にある数字が、今日はやけに優しい。三、五、八。優しい数字は、焦らない。焦らない数字の上に、眠りを置く。眠りは科学じゃない。科学じゃないけれど、同期を助ける。助けられた同期は、明日の言葉を少しだけ長持ちさせてくれる。
*
朝。校門の影はまだ短く、グラウンドは薄い霜を踏まれて白い線を細く増やしていた。亜子はすでにレーンに立ち、腕を一度だけ振って肩を緩める。俺は手を上げるだけで近づかない。彼女はうなずき、スタートの姿勢に入る。三分。無音。耳を塞ぎ、目を閉じる。呼吸が合う。合うことが、すべてではない。合ったあとに、ずれることを怖がらないことのほうが、たぶん大事だ。
「よし」
目を開けると、彼女は笑っていた。よしの角度。俺も同じ角度で返す。部室に戻ると、窓際の棚の上の白いチップは、昨日と同じ数だけ沈黙していた。使わないで済む夜が増えることは、誇りになる。誇りは小さいほうがいい。小さい誇りは、明日の動きを邪魔しない。
「今日、放課後。日高さんと黒瀬先生、小田さんとで“話す”。巻かないで」
霧島が言った。言葉は短い。短い言葉は、長い準備の上に立つ。長い準備の上に立った言葉は、風が吹いても倒れない。俺はうなずき、ノートに新しい見出しを書き足した。〈対話/移譲〉。その下の余白は、まだたくさんある。余白があるのは、未来があるからだ。未来があると知ることと、未来を信じることの間には、小さな隙間がある。その隙間には、祈りが入る。祈りは、科学じゃない。けれど、俺たちは祈りのぶんだけ、十をゆっくり数えられる。
「犯人の動機は“守りたい”。——なら、俺たちの動機は、“任されたい”。任されるだけの言葉を、今日も選ぶ」
自分に言ってみる。言って、少しだけ恥ずかしくなり、笑う。笑いの恥ずかしさは、たいてい正しい方向のしるしだ。しるしがあると、道が道らしく見える。道らしく見える道は、もう半分は歩けたも同然だ。残りの半分は、呼吸で行く。呼吸は、十で整う。十の山は、今日も前からやってくる。やってくる山に、俺たちは耳を寄せ、無音と空白をポケットに入れて、待つ。待つことは、動くことの一部だ。——それを、やっと信じられるようになった。今朝の空は、少しだけ広い。広く見えるのは、たぶん、心が均されたからだ。均された心の上で、事件と恋は、今日も同じ速度で並んで歩く。歩きながら、互いの影を見失わないように。影は、いつでも先に伸びるのではなく、時に後ろへ、時に横へ。伸び方の違いを、笑って言い合えるうちは、大丈夫だ。そういう確信だけを胸に、俺は教室へ向かった。白いチップは、まだ、胸ポケットの内側で軽かった。軽いまま、その日を始めた。
第12話「巻かないで救う」
昼の鐘が、普段よりも一拍遅れて胸に落ちた気がした。午前の授業のどれにも身が入らなかったのは、黒板の文字が粒になって漂い、いつもの速度で意味の床に落ちてくれなかったからだ。理科棟のガラスは、昨夜の冷えをまだうっすらと抱え込んでいて、太陽が当たっているのに指先で触れると、硬い布のように冷たい。研究用時計は止まった。封印の朱は乾き、台帳の列はきれいに揃っている。——それでも、準備室の窓は内側から光った。装置の心臓が眠ったあとの光は、人の心臓から出た光だ。誰かが、良かれと思って、あるいは良かれと思い込んで、時間に触れようとした。
昼休み、校内の喫茶コーナーは珍しく空いていた。午前の三年生が自習に散ったのか、テーブルの間の通路に影は薄い。コーヒーマシンの前に短い列ができて、紙コップの積み重なりが少しずつ低くなる。窓際の席に、彼が現れた。やつれた頬、目の下の薄い影、けれど眼差しは鋭いまま、乾いた光を宿している。日高。写真で見たときよりも細く、写真よりも「いま」の温度でそこにいた。
「——日高さん」
呼びかける声は、思ったより平らに出た。揺らす必要のない声だった。日高は振り向き、俺たちを順番に見た。霧島、久遠、俺。彼の目は、誰の肩にどれだけの荷物が乗っているかを測る癖を、身体のどこかに染み込ませてしまっていた。測られるほうは、測られるだけで少し疲れる。
「こっち、空いてます」
巻かないで、時間をかけて席へ誘う。これを急ぐと、話の最初の言葉が嘘になる。俺たちはテーブルの端にメニューを寄せ、紙ナプキンの箱を中央に置き直した。日高は座り、前のめりにならない姿勢を選んだ。背もたれと肩甲骨の間に、薄い空気の層を残している。
霧島が口を開く。
「——研究用時計は止めました。封印は二重。竜頭の固定も、電極も。あなたがやってくれてきた“未然防止”は、これからは制度で引き継ぐつもりです。人ひとりの肩に乗せない」
その文は、昨夜から何度も磨かれてきた文だ。角が立たないように、けれど安易に丸め込まないように、言葉の重心を微妙に調整してきた。日高の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「君たちが時間を弄ってること、知ってるよ」
「弄ってる」という動詞は、わずかに軽蔑の匂いを持つ。日高はそれをわかっていて、あえて使った。霧島は微動だにしない。日高は続ける。
「あの装置は、偶然を集める。集めた偶然を、誰かの意思のほうへ傾ける。危ないのは——お前らだ」
その一言で、テーブルの上の空気が、冬のガラスみたいにひやっとした。言葉は正しい面を持つ。危ないのは、確かに俺たちだ。危ないものを危ないと呼ぶことは、正しさの一部だ。正しさだけが並ぶと、会話は平行線に入る。
「——助かった側として言います」
久遠が、短く挟んだ。彼女の文は、いつも息継ぎの位置がうつくしい。言葉が行き過ぎない距離で止まる。
「助ける人が倒れたら、助けは続かない」
日高の視線が、久遠に刺さる。刺さる視線は、相手の皮膚を破るためではなく、自分の皮膚を確かめるためのときがある。彼は苦笑した。
「俺は倒れたろ、もう」
苦笑の角には、悔しさと、諦めと、薄い誇りの粉が混ざっていた。粉は声にならない。声にならない粉を、言葉の中に均等に混ぜるのが、彼という人の癖なのかもしれない。
ドアのベルが鳴って、冷たい外気が細く流れ込んだ。沙織さん——亜子の母が入ってきた。コートの裾を指で押さえ、視線が喫茶の奥へ伸びる。日高の顔を見た瞬間、彼女は立ち尽くした。時間が一手だけ遅れて彼女に追いつき、その背中に重さを載せる。過去の研究班の仲間。逃げるでもなく、駆け寄るでもなく、真っ直ぐここに歩いてきて、彼女は席についた。
「——あの頃、私たちは巻き過ぎたの」
一杯目の湯気が落ち着く前に、彼女は言った。声の芯は、昔の実験棟で何度も聞いたであろう説明の声だ。だが、その周りに今の暮らしの温度が柔らかく巻き付いている。
「誰かを守るたび、別の層で誰かを犠牲にしている気がして、罪悪感に耐えられなくなった。あなたが倒れた日、私は逃げた。——だから今も負い目がある」
日高は目を伏せたまま、何も言わない。沈黙は、言い訳よりも重い。重い沈黙の上に、沙織さんはもう一枚、薄い布を置くように言葉を重ねた。
「けれど、逃げない方法が、ようやくわかった。分担と見える化。あなたにしかできない救いを、制度に落とし直そう」
「制度」
日高が、その二文字を口の中で噛んだ。砂糖のないラムネを噛むときの、あのわずかな違和感に似た音が、俺の耳の奥で小さく弾けた。
「——見せます」
俺はノートを開き、“準備室安全プロトコル”の案を三枚、テーブルの上に並べた。紙は昨日の晩から何度も折りたたまれて、角が少し柔らかくなっている。
「十分快のチェックではなく、誰でも回せる手順へ変えます。①薬品の配置をラベルと色で統一。危険度Aは赤、Bは橙、Cは黄。棚番号とラベルの色を一致させ、写真付きで掲示。②電源ラインは許可証とQRログで自動記録。延長ケーブルの接続はスキャンしないと通電しない。ログは管理端末と生徒会に同報。③夜間の入室は二人以上+“無音の三十秒”の同期義務。入室ログに『同期済み』スタンプ欄を追加。——最後に、“何もしない十分快”を勤務計画に含める。個人の英雄性ではなく仕組みで安全を作る」
紙に描いた図の矢印が、日高の視線の上で一度だけ逆流し、それから矢印の向きのままに流れ直したのがわかった。彼はしばらく黙って紙を見つめ、やがて低く言った。
「——遅いよ」
遅い。そうだ。遅い。間に合わなかった夜は、もういくつも過ぎた。遅さは罪に似て、罪ほど簡単には贖えない。俺は頷いた。頷いた上で、日高の目を見た。彼は、しかし紙を折ってポケットに入れた。
「遅いけど、やってくれ。俺はもう、巻かない」
「巻かない」
霧島が、繰り返した。確認ではなく、受領の発音。日高は立ち上がり、出口で一度だけ振り返って霧島を見た。喫茶コーナーのガラスに、彼の横顔が薄く映る。頬の線は鋭いのに、映り込んだほうは柔らかい。
「助けてくれて、ありがとう」
霧島は小さく頭を下げた。その角度は、彼の後悔に言葉で終止符を打つのにちょうどいい角度だった。誰かが謝るときの深すぎる角度でも、誰かを赦すときの高すぎる角度でもない。終わったことを終わったこととして受け止める、真ん中の角度。
日高が去ったあと、沙織さんは紙コップを両手で包み、湯気の輪郭を見るともなく見ていた。
「——湊くん」
「はい」
「ありがとう。私、あの頃の“守りたい”を、守るための言葉を知らなかった。守るって叫ぶしかなかった。叫ぶ人は、いつか喉を壊す。——今日、やっと喉に水をもらった気がする」
「水は、ここに置いていきます。紙と手順の形で」
「うん」
彼女は頷き、立ち上がった。「仕事、戻るね。——亜子に、今日は空を見て帰るように言っておいて」
*
午後の授業は、午前よりも静かに過ぎた。プロトコル案の細部を詰めるため、空き時間に生徒会の情報端末の仕様を確かめ、設備係の財前にQRログのでっぱりとへこみを見せ、許可証の発行フローの並列化を黒瀬先生と短く確認した。黒瀬先生は意外なほど「無音の三十秒」に乗り気で、「研究倫理の講義に入れてもいい」と呟いた。倫理という言葉が、初めて現場の匂いを持った瞬間を、俺は見た。
放課後、走り終えた亜子は汗で額の髪を少しだけ張り付かせ、呼吸は浅く整っていた。禁止日の二日目。恋の話はしない。外階段の踊り場に並んで座ると、彼女は空を見上げた。空は薄い灰色で、星はまだ出ていない。風の匂いが澄んでいて、どこにも火の匂いが混じっていない。
「明日、“無音の窓”を三十分ね」
「うん」
彼女は手の甲で合図を描いた。親指の付け根の骨が、皮膚の下で小さく動く。あの合図を最初に作った日、俺は、その骨の動きの美しさを知らなかった。知ってしまうと、言葉は少しだけ遅くなる。遅くなった言葉は、長く効く。今日はそれでいい。
俺は頷き、巻かないという決断が恋を深くした手応えを、胸の奥の空隙にそっとしまった。恋は決断の数で濃くなる。決断の数は、多ければいいわけじゃない。正しいところで、正しい厚さで、正しい向きに置かれたときだけ、濃くなる。
*
その裏で、久遠が一回だけ巻いた。俺はその瞬間を見ていない。彼女が戻ってきて、「もう大丈夫」とだけ言ったから、たぶんそれで全部だ。
——古い棚。足元のアジャスターが一本、ねじ山を痛め、微妙に斜めになっていた。薬品の瓶は半分以上移されているのに、重心は未だ危うい。夜の廊下のわずかな振動で、何かが落ちた拍子に棚が倒れる——そういう層があったのだろう。久遠は軍手をはめ、棚の下に薄い板を噛ませ、重心の位置を数ミリずらし、アジャスターの根本にスペーサーを差し込んだ。彼女は自分の姿を見せない。見せないのが、彼女のやり方だ。棚は倒れない。倒れないことが記録に残らないのは、不公平だ。けれど、救われた側が救う側になった重さは、彼女の肩の内側にだけ確かに増えていく。見えない残渣がまた少し増えた気がして、俺は胸のどこかが痛んだ。
「もう大丈夫」
それだけ言って、彼女はチップの棚の前で一瞬だけ立ち止まり、指先で白い円の縁を撫でた。撫でる、という行為は、使わないに等しい。けれど、それが彼女の休息だと、俺は知っている。
——だから、最後の一度は俺が引き受ける。彼女の見えない残渣がこれ以上濃くならないように。霧島の後悔が過去形を失って現在形に戻らないように。日高の善意が腐らないように。亜子の三十分が、純粋に三十分のままでいられるように。俺は決めた。巻かないで救う。けれど、どうしても必要なら、最後の一度だけは、俺が巻く。
*
夜。部室のホワイトボードに、沙織さんの言葉を短い項目に直す作業をした。〈分担〉〈見える化〉〈英雄性の制度化〉。プロトコルの案の右上に小さく〈“何もしない十分快”=勤務〉と書き足す。勤務という言葉は堅いが、堅さが要る場所にだけ差し込むと効く。小田が覗いて、じっと見てから「——貼ろう」と言った。彼の「貼ろう」は、始めよう、の意味だ。掲示板に刷り直した紙を貼ると、紙の端が空気を少し持ち上げた。
霧島は机の端にもたれ、深く息を吐いた。「日高さん、あのまま遠くへ行くと思う?」
「わからない。でも、『任せる』って言った」
「言ったね」
「“任せる”は、負けじゃないって」
「負けじゃない。移譲だ」
その会話の短さが、今日の収穫だった。言葉が短くなるのは、たいてい準備が長かった証拠だ。準備の長さは、明日の耐久を少しだけ延ばす。
メッセージが一つ届く。『明日、三十分の窓で座る』亜子。句読点はない。俺は『よし』とだけ返し、スマホを胸ポケットに戻した。そのとき、白いチップの軽さが指に触れる。軽いのに、役割は重い。重さを感じるために、軽さがあるのだと思う。
*
布団に潜り、目を閉じる。耳の奥で、時計のない“チクタク”が続く。装置は止まった。けれど、俺たちの体内の織り機は、明日へ糸を送る準備をやめない。十の前に置く小さな祈りは、科学じゃない。科学じゃないが、同期を助ける。——明日、彼女と三十分。無音の窓。座る。座って、何もしない。何もしないを、する。
*
翌朝、空は薄く晴れて、校門の影が舗道に細い角を落としていた。朝練のグラウンドの砂は硬く締まり、足音が軽い。亜子はレーンの端に立ち、靴紐を結び直す。俺は近づかずに手を上げ、彼女はうなずく。禁止日の名残が、互いの間の空気を薄く冷やしている。それは悪い冷たさではない。身をしゃんとさせる冷たさだ。三分の無音。耳を塞ぎ、目を閉じる。二十七、二十八、二十九、三十。開けると、彼女は笑っていた。よし、の角度で。
教室に向かう廊下の途中で、沙織さんに会った。彼女は昨日よりも少し顔色が良い。肩の力が、見えないところで抜けている。
「封印の掲示、見たよ」
「はい」
「“無音の三十秒”、笑われるかもね」
「たぶん、少しだけ。でも、笑ってから伝わることもあります」
「うん。伝わるといい」
彼女は笑い、仕事へ急いだ。笑いの余韻の中で、俺の背筋は自然と伸びた。伸びる背筋は、次の山の高さを測るためにも必要だ。
*
放課後。喫茶コーナーと同じ窓の席で、俺たちは黒瀬先生、小田、財前を交え、「巻かないで救う」ための手順を最終確認した。言葉はすでに短く、誰も急がない。急がないで進むのは、熟練の証だ。
「夜間入室、二人以上。QRログの常時記録。——“同期済み”スタンプの導入、了解」
黒瀬先生が頷く。
「電源の合法最短路、図の通りで確定。申請の並列化は生徒会側で対応。——“何もしない十分快”、設備係の交代制に組み込む」
財前が紙を折りながら言う。小田は台帳の上に新しい欄を作り、薄い鉛筆の線で「無音」と書いてから、赤で「○」だけを重ねた。赤の丸は小さい。——小さい丸は、よく効く。
会議が終わる直前、霧島のスマホが震えた。日高からだった。『議事メモ、受け取った。——俺は、いないほうが、いい』。次のメッセージが続く。『でも、君たちが困ったら、呼んでくれ。呼ばれたら、行く。巻かないで、行く』。
霧島は小さく息を吐き、「ありがとう」とだけ返した。ありがとう、の一語に「過去形になった後悔」と「現在形で続く敬意」の両方が入っていた。入れたのは、多分、彼自身だ。
*
夕暮れ、外階段の踊り場。金属の手すりは冷たく、風は少しだけ湿っている。亜子と並んで座り、俺たちは空を見上げる。禁止日が終わり、恋の話をしない規則から解かれた夜。だからといって、すぐに恋の話に戻るのではなく、まず、「何もしない」をする。三十分。無音の窓。
耳を塞ぎ、目を閉じる。今日の三十は、いつもよりゆっくり近づいてきた。階段の下を誰かが通り過ぎる足音、体育館から漏れるバスケットボールの跳ねる音、遠くの道路の低い唸り。——それらがみんな、厚みをなくして、音の輪郭だけ残る。輪郭はやがて、呼吸の輪郭と重なり、心拍の輪郭と重なり、世界の輪郭と重なる。時間は、誰かのものじゃない形に戻る。
「終わった?」
目を開けた亜子が、笑った。笑いにはいくつかの角度があって、今日のは「確認」の角度だった。俺はうなずき、言葉に戻る。
「日高さん、任せるって」
「任せる、って大人の言葉だね」
「うん。——任されるのも、大人の役目なんだと思う」
「任される湊、ちゃんと“巻かない”で救える?」
「……救うよ。巻かないで。どうしても必要なら、最後の一度だけ使う」
「最後の一度」
彼女はその語を、舌の上で転がした。重さを確かめるみたいに。俺は笑って見せる。笑いの裏側で、胸のどこかが薄く痛む。薄い痛みは、予感の形をしている。予感は、たいてい当たらないほうがいい。
「ねえ」
「うん」
「明日、走ったあと、もう一回“無音”しよう」
「いいね」
夕焼けは早々に褪せ、校庭の砂に、夜の最初の青が降り始める。青は冷たく、冷たさは約束を長持ちさせる。長持ちする約束は、危機の夜を越えやすい。——越える夜の向こうに何があるのか、俺はまだ知らない。知らないまま、ノートにひとつ書き足す。〈巻かないで救う〉。その下に、丸を小さく二つ。ひとつは、彼女と俺。もうひとつは、久遠。丸の中身は空白だ。空白は、埋められるためにあるんじゃない。空白のままで、守られるときがある。
風が少し強くなり、階段の手すりが冷えた。俺たちは立ち上がり、軽く伸びをした。伸びる背骨の音は聞こえない。聞こえない代わりに、心の中で細い鐘が鳴った。十の前に置いた祈りの鐘。鐘は科学じゃない。けれど、鐘が鳴る夜は、息が揃う。息が揃えば、言葉は短くなる。短い言葉で救えるものだけを、明日に運ぶ。運べないものは、無音に預ける。預けることは、任せることだ。——任せることを、今日覚えた。覚えたてのやり方で、俺は彼女と並んで歩き出す。準備室の窓は暗い。暗い窓は、今夜はただの窓だ。ただの窓であることが、どれほど尊いかを、俺たちはやっと理解しはじめたところだ。
*
夜更け。ベッドに横たわり、天井の模様を目でなぞる。模様のどの線も、どこかで途切れて、どこかで再開している。線は、続けるために、いちど止まる。止まるために、無音が要る。無音の窓のあとの静けさが、胸の奥にまだ残っている。そこに、そっとひとつだけ言葉を置く。——よし。明日は、よしの角度で始める。始めた先で、巻かないで救う。救えないときは、謝る。謝る言葉の練習も、もう何度もした。練習は、本番だ。俺たちは、練習の持続で世界の輪郭を少しずつ丸くしていく。丸くなった輪郭の上で、眠りに落ちた。眠りは科学じゃない。けれど、同期を助ける。助けられた同期が、明日の十の山を、またひとつ低くする。低くなった山は、足で越えられる。越えられたあとにだけ見える景色を、俺はまだ知らない。知らないまま、目を閉じる。白いチップは、胸ポケットの中で軽かった。軽いまま、夢のほうへ滑っていった。
第13話「先輩の終わりと始まり」
事件がほどけていくときの空気は、手のひらの上で氷が薄く溶ける感じに似ている。湿り気が残り、冷たさの輪郭だけがまだ皮膚にある。三日前の校庭での騒ぎも、匿名書き込みの波も、学内の緊急会議も、いまでは「そういえば」という速度で廊下を流れていく。誰もが少しずつ息を整え、何かを言いかけて飲み込む。季節は、朝の光の色を薄く変えていた。
卒業研究発表会が近づくにつれて、理科棟は段ボールとケーブルで歩きにくくなった。僕らは実験装置の最終チェックをしながら、霧島先輩のスライドに目を通す。白地に黒。余白を大切にした、拍子抜けするほど静かな見た目。でも、そこに置かれているのは、これまでとは別種の挑戦だった。
巻かない設計図。
技術面の要点——ログの匿名化、短期保持。制度面の提案——申告制、監査人の公開抽選。文化面の合言葉——無音の三十秒、何もしない十分。それらは派手さのかわりに、生活の形を少しずつ変える力を持っていた。
「最後のスライドは、これでいく」
理科準備室で、霧島先輩はそう言った。古い白衣の袖口は、何度も洗われて少し薄い。机上には、僕らのデバイス——“チップ”の可視化ユニットが置かれ、心拍センサーの青いランプが、静かに呼吸のように明滅している。
「英雄から運用者へ。派手なヒーローショーはもう終わり。これからは、毎日の掃除当番みたいな運用を回していく」
先輩は笑わないで言った。それが、いちばん格好よかった。
久遠がノートの端に、細い文字で確認事項を書き出す。手首のあたりで、小さく震えが出たり消えたりするのを、僕は見逃さない。彼女は「耐性」を言い訳に仕事を抱え込み続けてきた人だ。負荷の閾値に近いときほど、彼女は静かに完璧だった。だからこそ、僕は、彼女に“巻かない日”を渡したかった。
発表会当日。体育館は、冷たいワックスの匂いと、集まった靴のゴムが擦れる音で満ちていた。特設スクリーンの前に椅子が整然と並び、教職員の列、保護者の列、地域の科学クラブの大人たちの列ができる。見知った顔も、知らない顔も、みんな同じ前向きの視線を持っていた。後列の端に、日高の姿があった。首元まで黒のコートを閉じ、視線は少し低い。拍手の合間に目が合うと、彼は軽く顎を引いた。それだけで、なぜか心拍が上がる。
僕の前に二つの発表があり、時間は予定より十二分押していた。霧島先輩は、順番を気にするそぶりも見せずに、スライドのリモコンを親指で撫でる。壇上にあがると、照明が白衣の胸元を薄く透かした。
「三年の霧島です。まず、謝ります」
初手から、体育館の空気が少しだけざわめく。
「僕は失敗しました。タイムループの“可能性”に酔って、“許される限界”を何度も測りにいった。過去に触れられる技術は、扱うほどに、人を大きく錯覚させます。自分の責任範囲が無限に広がる錯覚。取り返せるという麻酔。——それを、今日、片づけに来ました」
スクリーンに映る“巻かない設計図”のページが進む。技術。制度。文化。
「ログは匿名化、保持は短期。申告制にして、監査人は公開抽選。無音の三十秒。何もしない十分。これらは、失敗を回避するためだけの仕組みじゃない。日常の体温を守るための、地味な設計です。僕は英雄の役から降ります。運用者として、掃除当番を回す側に戻ります」
拍手が、どこからともなく、でも確かに起きた。誰かが大きく、誰かが小さく、手のひらを打ち合わせる。僕らの部のブースに貼る予定のタイトル——『やり直しの設計学』が、遠目にも、静かに意味を持ちはじめる。
質疑応答の時間、保護者の一人が質問した。「それで、本当に守れるんですか?」
霧島先輩は一拍置いて、うなずいた。
「守れることもあるし、守れないこともある。だからこそ、“守れなかったときに、どう倒れるか”を決めておきたい。倒れ方まで、設計に入れます」
同じ列の、別の誰かが笑った。「掃除当番の表に、倒れ方を書いとくのね」
「はい。冷蔵庫にも貼ります」
笑いが起き、空気は軽くなった。それでも、僕は舞台袖で、久遠の手の震え方に意識を割いていた。先輩の話す“倒れ方”の設計図に、救う側の休み方が、十分に書き込まれているか。久遠が抱えてきた“その日の全体重”が、どこに置かれるのか。
発表会が終わると、風が少しだけ強くなっていた。僕らは理科棟の屋上へ出た。鉄の扉がきしみ、足下のコンクリートは薄く温かい。山の稜線は薄青く、街の向こうに春の気配が指先だけ覗く。霧島先輩は、空を見ないで白衣の胸ポケットを探り、折り畳まれた紙袋を取り出した。
「——湊。部長、やれ」
思ったより軽い声。それでも、膝の裏に重みが落ちてくる。紙袋の中には、白衣。新品ではない。肩の縫い目に、何度かの修繕の痕跡がある。
「引き継ぎ条件は三つ」
先輩は指を一本ずつ立てた。
「チップの可視化を続けること。禁止日を部内で尊重すること。“巻いた回数”ではなく“巻かなかった選択”のログも残すこと」
文字にしたら短い。けれど、世界の厚みが変わる三つだ。
「やれるか?」
逃げ道を探す時間は、きっと三秒もなかった。僕は首だけで、でもはっきりとうなずいた。
「やります」
久遠が、その場で小さく笑った。笑った、と言っても口角がわずかに動いたくらい。それでも、彼女の体温が一度上がり、手の震えが薄くなるのが、わかった。
「よろしく、部長」
霧島先輩が白衣を僕の肩に軽く乗せる。布の匂いは洗剤ではなく、長いあいだ部屋に置かれていた本の匂いがした。自分の肩幅が、少し足りない気がする。でも、足りないからこそ、そのまま着たいと思った。
屋上の風が、言葉の残りを連れ去った。僕らはしばらく無言で街を見た。信号の赤が点いて、すぐに青へ移る。電車が一本、遠くを横切る。世界がいつも通りに進む音だけが下から届く。
その晩、校庭の隅。砂の上に置いたベンチに、僕と亜子は並んで座った。グラウンドの照明は消され、体育館の裏から漏れる白い光が、地面に長い影を作っている。息を吸う音が、冷たい空気に触れて、輪郭を持った。
「——三十秒」
僕が言うと、亜子は小さくうなずいた。僕らは、互いのスマホのタイマーを見ないまま、内部時計だけで数える。無音の三十秒。間に何も入れない。言葉を削り、視線も動かさない。ただ、隣の気配だけを測る。
四回目の三十秒が終わるころ、遠くで犬が吠えた。五回目、六回目。十回目を過ぎたあたりで、亜子が笑いを堪えきれずに唇を噛んだ。二十回目、風が少し強くなって、亜子の髪が頬に触れた。三十回目——もはや、時間の単位が意味を失い始める。三十一回、三十二回。つないだ三十秒の列は、いつの間にか三十分になっている。
「……ループしないのに、時間が伸びたみたい」
亜子が、息の出口で笑う。言葉が白くなって、すぐに消えた。
「たぶん、伸びた」
僕はそう答える。伸びたのは密度。話さないことで埋まる領域が、世界のどこかに存在している。不思議だけど、確信に近かった。
「ねえ、湊」
亜子が僕の名前を呼ぶとき、彼女は必ず、一拍だけ息をためる。その癖が好きだ。
「卒業式、どうするの?」
問いの形をしていたけれど、僕にとっては確認事項だった。
「——巻かない。禁止日、にする」
「ふふ。じゃあ、私も」
亜子はベンチの背もたれに肩を預け、空を見た。星は見えない。体育館の四角い光が、雲の底を白くする。その下で、僕たちは、会話の端を結んでいった。「巻かない告白」という奇妙な言葉が、二人の間でやわらかく転がる。やり直せないからこそ、体重を置く。片足ずつ、踏みしめる。
翌日、部室で。新しいルールを全文書き出した紙を、机の中央に置いた。サイン用のペンが三本。部員は全員で六人。霧島先輩は今日も白衣の襟を整え、久遠は袖を折り、矢代はいつも通り窓際で腕を組んだ。堀内はペンの重さを確かめ、小松は日付を書き込む場所を聞いた。
「反動の記録を、私ではなく湊がつけて」
久遠が言った。整った声だった。彼女は“反動”という言葉を、まるで包丁みたいに扱う。鋭いが、使いどころを誤らない。
「うん、受ける」
「救う側の健康を守る運用に、切り替える。——約束」
僕は、彼女の目を見る。薄い茶色の中に、疲れがまだ残っている。けれど、その疲れに名前が付いたぶん、軽くなっているのがわかる。
「十分快×三回は、自由に増やせる命じゃない」
霧島先輩が、紙の端を押さえながら言う。
「使い切らない勇気。足りないところで止める勇気。これを、ルールの最初に書こう」
僕はペンを取り、条文の一行目に“使い切らない”を書いた。字は思ったより太く、ペン先が紙に引っかかる。堀内が笑う。「部長の字って、意外と丸いのな」
「見栄えは、あとで修正する」
「でも、最初の字は残せ」
霧島先輩が、穏やかに口を挟む。
「最初の不器用さを、ログに刻め。——“巻かなかった選択”のログも、記録としては下手でも、価値が高い」
順番にサインが入っていく。矢代は名字だけ。堀内はフルネームに小さな笑顔のマーク。小松は西暦を間違えて、上から二重線。久遠は、ゆっくりと、丁寧に。最後に僕が、日付の横に“禁止日カレンダー”の初期値を書き込んだ。“卒業式当日”。線で囲み、赤で薄く印をつける。
「もう一つ」
霧島先輩が、最後のページをめくるみたいに、言葉を出した。
「秘密、というほどじゃないかもしれないけど、共有しておきたいことがある」
誰もが少しだけ姿勢を正した。窓の外で、風が校庭の砂を薄く巻き上げる音がした。
「あの日、久遠を救ったのは、俺じゃない」
久遠の目が、まばたきの途中で止まる。
「他県で“たまたま巻いた層”の現場にいて、タイミングを合わせた誰かがいた。——たぶん、日高だ」
部屋の空気が、ほんの少しだけ、音を立てずに移動した。誰かが呼吸を小さく飲み込む。誰かが椅子の脚を引いた。僕は、後ろの棚の上に積まれた古い記録用紙の束を見た。そこに、「日高」という名前は一度も出てこない。だけど、目に見えない場所に、確かにその痕跡が走っている気配がある。
久遠は、遠くを見る目をした。窓の外ではなく、もう少し遠いところ。彼女はゆっくり首を縦に動かした。
「……救われた側として、巻かない恩返しをする」
その言葉は、机の上に置かれた紙よりも強く、部屋に残った。矢代が小さく「いいじゃん」と言い、堀内が「合言葉にしようぜ」と続けた。僕はペンをもう一度持ち、紙の端に書いた。“巻かない恩返し”。丸で囲んで、矢印で“文化”とつなぐ。
日高は、その日の夕方、理科棟の外の自転車置き場にいた。黒いコートの襟を立てたまま、空を見上げている。僕が近づくと、彼は気づいたようで気づかないふりをした。僕は、それを許すことにした。
「ありがとうございました」
言葉の向きを、はっきりと彼に向ける。日高は一秒だけ目を閉じ、それから、ほんの少し口角を上げた。
「掃除当番、表に名前を書いとけよ」
「はい」
それで会話は終わった。けれど、十分だった。僕らは同じ紙を見ている。名前の有無に関係なく、同じ列に、自分の朝を置いていく人たちがいる。
発表会の熱は、夜のうちにうすれて、翌朝には“明日から”のかたちに変わっていた。廊下の掲示板に、卒業式の日程が新しい画鋲で留められる。その下に、文化部連絡のプリント。「タイムループ部、発表ブース」。僕は教室に向かう途中、ペンケースからマジックを取り出し、ブースのタイトル欄に手書きで書いた。
——『やり直しの設計学』。
太い線。ところどころインクの滲み。字の癖は、もう気にならなかった。そこに書かれている意味のほうが大きい。
昼休み、体育館のステージ裏で、展示用のパネルを組み立てる。小松が水平器を読み、堀内がネジを回し、矢代が配線を束ねる。久遠は“何もしない十分”の説明パネルの文章を最後まで読み、目を閉じてからうなずいた。
「湊」
名前を呼ばれて振り向くと、亜子が体育館の入口に立っていた。陸上部のジャージの上、髪は後ろで一本に結ばれている。汗の匂いと、体育館の木の匂いが重なって、懐かしい放課後の香りになっていた。
「見に来た」
「ありがとう」
亜子はパネルの前に立ち、文字を追った。無音の三十秒。何もしない十分。禁止日カレンダー。彼女は読み終えると、僕のほうを見た。
「これ、好き」
「どれ?」
「“巻かなかった選択”のログ」
彼女は指でその文を示した。指先のさき、薄い紙の上。透明な何かが、そこに定着し始めるのが見えた気がした。
「記録って、勝ちの集合だけになると、細くなるでしょ。負けや保留ややめた、が入ると、面の感じがする」
「面?」
「うん。触れる」
彼女の言葉は、いつも射程が生活に近い。僕は、彼女のそういうところが好きだ。
放課後、顧問が部室に来て、お菓子の箱を机に置いた。個包装のビスケット。誰にでも同じ数が行き渡るように、最初からきっちり計算されたやつ。
「いい発表だった。……霧島、今日、保護者会で褒められていたぞ。『偉そうじゃないところが良い』って」
「褒め言葉として受け取ります」
霧島先輩は、いつもの薄い笑い方をした。顧問は頷き、白いチョークを一本、僕に渡した。
「部長。黒板に“禁止日”の枠を毎週書いておけ」
「はい」
「書くこと自体が、儀式になる。儀式は、生活のガードだ」
顧問は言って、帰っていった。残されたチョークの粉が、僕の指の腹に小さく残る。黒板に近づく。四角い枠をひとつ、ふたつ。右上に“卒業式当日”と書き、廊下で見たポスターの日付を添える。書きながら、胸の奥にある何かが、ようやく重力を持ち始めた。
夜。家でノートを開く。最後のページに、ゆっくりと大きく書いた。
——ループ禁止日:卒業式当日。
書き終えると、部屋がすうっと静かになった。外の車の音も、階下のテレビの音も、いったん背景に遠ざかる。言葉は、線ではなく、面だ。面は、息を受け止める。僕は、その面の上に額を落としたい衝動に駆られて、やめた。使い切らない勇気。十分の途中でやめる勇気。ノートを閉じる音を、僕は初めて好きになれた。
翌朝、いつもより早く家を出た。駅までの道、カフェの前の椅子に薄い布がかけられている。商店街のシャッターの隙間から、パンの匂いが漏れてくる。空気は冷たいが、肌の表面で小さく跳ね返る温度があった。
校門のところで、日高が立っていた。黒いコートの襟は下りていて、代わりに手に紙袋を持っている。僕を見ると、彼は袋を軽く持ち上げた。
「古い納品書だ。ブースの下に敷け」
「はい」
受け取ると、袋の底から紙の乾いた匂いがした。その匂いは、どこかで嗅いだことがある。理科準備室の棚。白衣に残る本の匂い。掃除当番の表。匂いは、記憶を運ぶ。僕は紙袋を抱えたまま、頭を下げた。
「……あの、やっぱり、ありがとうございました」
日高は首を横に振った。
「礼は、禁止日の遵守で足りる」
「はい」
「それと、——失敗の“倒れ方”、人に見せる練習をしろ」
「見せる?」
「うん。ひとりで静かに倒れると、誰も支えられない」
言って、彼は歩き出した。黒い靴底が、校庭の砂をほとんど鳴らさない。僕は背中に向かって深く会釈し、理科棟へ向かった。
卒業式の準備と、発表ブースの準備は同時進行だ。時間はいつもより早く、でも、心は少し遅く流れた。教室には寄せ書きが積まれ、体育館には椅子が一列ずつ増えていく。黒板の“禁止日”欄には、誰かが小さなシールを貼った。星の形。堀内の仕業だろう。矢代が何も言わずに、それを一つ右にずらした。「目立ちすぎると、やりたくなるから」。彼の理屈は、いつも実用的だ。
放課後の廊下で、亜子に会う。人の流れが彼女の周りだけ少し滑らかになる。僕は歩幅を合わせ、ほんの少しだけ肘を寄せた。
「ねえ」
「ん?」
「卒業式のあと、三十分、時間ある?」
亜子は笑う。
「無音?」
「ううん。——音、あり」
「じゃあ、なおさら。ある」
簡単な約束が、日付の上に柔らかく乗った。僕らはそれ以上具体的なことを決めなかった。決めないまま、紙の端を折るみたいに、話題を変えた。
最後のホームルーム。先生が「名残惜しいね」と言い、クラスの誰かが「まだ終わんないっしょ」と返す。笑いが起こり、空気は軽く、でもどこかで湿っている。僕は教室の後ろの掲示板に貼られた「卒業式の日程」をもう一度見た。太い文字。印刷のインクのにおい。紙の端は、すでに少し丸くなっている。
夜、家に帰ると、机の上に母の手紙が置いてあった。便箋に、短い文。『発表、見に行けなくてごめん。掃除当番、ちゃんと書いてる?』。最後の一文で、僕は吹き出した。僕の世界の言葉は、いつの間にか家族の言葉にも混ざっている。僕はペンを取り、『書いてる。倒れ方も、練習中』と書き足した。
眠る前に、もう一度ノートを開いた。最後のページの、赤い“卒業式当日”の印。その下に、小さな文字で書き足す。
——告白:巻かない。
書いた瞬間、胸の奥で何かが、静かに位置を変えた。怖さと、清々しさが、同じ重さで隣り合う。僕は深呼吸をし、部屋の明かりを消した。暗闇の密度は、無音の三十秒と同じだ。音のない時間の中で、僕は目を閉じ、十まで数えてやめた。使い切らない勇気。明日のための残し方。
明け方、夢の底で、僕は屋上に立っていた。白衣の肩が、風に少しだけ煽られる。霧島先輩はどこかにいて、久遠は階段の陰で、日高は街路樹の影にいる。誰も僕を見ず、誰も背を向けない。僕は空に向かって、小さく手を上げる。その手は、掃除当番の表に名前を書く動きと同じだった。
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。窓の外、薄い青。鳥が鳴き、遠くでトラックの音がした。今日も、世界は動く。僕は、動く世界の中で、一つだけ止める。卒業式当日、ループを止める。やり直しのない告白を、やり直しのない一日に置く。それは、怖い。けれど、僕は、怖いのかどうかを、確かめたかった。怖さの形を、ちゃんと見て、そこに立つ方法を、設計したかった。
ノートを閉じ、白衣を肩にかける。鏡の前で、襟を整える。似合わない。——でも、似合うときはきっと来る。似合う日のために、今日の似合わなさを、記録に残す。ログの一行目に、こう書いた。
“巻かない設計図——運用開始。倒れ方:見せる。残す:十分。”
ペン先が紙を押す音が、朝の静けさに小さく落ちた。僕は鞄を持ち、玄関で靴を履く。紐を結ぶ指が、ほんの少しだけ震えている。それを隠さない。隠さないまま、扉を開ける。冷たい空気が、すぐに顔に触れる。
階段を下りながら思う。英雄から運用者へ。運用者は、毎日を洗い、乾かし、たたむ。たたむ動作の丁寧さが、生活の強度になる。僕は、今日をたたむ準備ができているか。答えは“たぶん”だ。たぶん、でいい。たぶん、を積み上げる。無音の三十秒をつなぐみたいに。三十秒×何回分もの“たぶん”で、三十分ぶんの勇気を作る。
校門をくぐると、掲示板の紙が朝日で少し透けていた。『卒業式のご案内』。その下に、『文化部連絡——タイムループ部、発表ブース』。僕は一度だけ足を止め、手書きの『やり直しの設計学』の文字を見た。滲み。線の太さ。昨日の自分の手の癖。その不器用さは、今日の僕を支えるだろう。
歩き出す。廊下の先、体育館へ。ブースへ。掃除当番の表へ。禁止日カレンダーへ。亜子へ。卒業式へ。僕は、自分の終わりと始まりを、同じ一日に置く。終わりは、やり直さない。始まりは、やり直さない。その代わりに、記録する。息を合わせる。十でやめる。残す。伸びる。——そういうふうに、生きていく。
扉の前で、僕は一度だけ目を閉じた。手のひらに、白衣の袖の布が触れている。布の感触は、昨日と違う。昨日より少し、体の一部に近い。僕はその違いを、今日の一行として記録するつもりで、扉を押した。体育館の光が、足下に広がる。音が戻る。呼ばれる名前。返す返事。丁寧に整えられた、日常の音だ。
その日常の真ん中で、僕は少しだけ深呼吸をし、歩き出した。終わりへ、始まりへ。どちらへも、同じ速度で。
第14話「10分×3回の最終運用」
卒業式の前日は、いつもよりも廊下の埃が軽かった。踏むたびに、粒子がふわりと舞い上がって、光の柱の中で不規則な踊りをする。確率が荒れる、という言い方は、数学をきちんと学んだ人間から見れば乱暴だろう。でも、この学校に一年いるとわかる——別れと悪ふざけと告白ラッシュが混じる日、空気はたしかに、うねりを持つ。誰かがいつもより大声を出し、誰かがいつもより笑い、誰かがいつもより泣く。そのうねりの中では、同じ廊下を歩いていても、足下の舗道が微妙に違う素材に変わっていくようで、気を抜くと躓く。
部室では、長机の上に白いチップが三つ、並んでいた。十分×三回。今日はそれを、①式典安全 ②部のブース運営 ③予備、と配分する。恋に使うつもりはゼロ——これは、昨夜ノートの最後に書きつけた文言だ。卒業式当日を「ループ禁止日」に指定したなら、その前日で無駄打ちする理由はない。僕は、白衣の胸ポケットに小さく畳んだスケジュール表を差し込んで、皆の顔を見渡した。
「最終ブリーフィング、いきます」
黒板には霧島先輩の手で、シンプルな三本線が引かれている。一本目の横に「式典安全」、二本目に「ブース運営」、三本目に「予備」とチョークで書いてある。矢代が腕を組み、堀内はマーカーのキャップを回し、久遠はペットボトルの水を一口。「大仰じゃないけど、儀式」と顧問が言っていたのを思い出す。儀式は、生活のガードだ。
「午前の式典リハ、吊り物は要注意。風の通りがいつもと違う気がする」
「体育館、今朝から外気を取り入れっぱなしだしな」と矢代。
「大道具の倉科に、念のためライン送っておくね」
久遠が親指でスマホを撫でる。その指先が、かつてのように微細に震えることは、もうほとんどない。震えは、消えたのではなく、別の場所に移動したのだと思う。彼女の中の警戒網が、必要なときだけ光るようになった。
「午後は送別ムービーのチェック。例年、やらかすやつがいる」
堀内が鼻で笑う。「今年もおもしろ半分でやるだろうな。教室対抗の仕込み合戦、負けず嫌い多いし」
「だから、やる前にやる。『巻かないで通す』が今日の主題です」
僕が言うと、霧島先輩が小さくうなずいた。「恋は?」
「巻かない。——告白は、明日」
言い切ると、部屋の空気が、一瞬だけ澄んだ。久遠が「よし」と小さく言い、堀内が「泣きそう」とふざけ、矢代が「泣くのは明日だ」と真顔で返す。笑いがきれいに乗る。僕の胸の奥で、針のない時計が、静かに時を刻みはじめた。
*
午前、式典リハーサル。体育館のバスケットゴールは畳まれ、舞台幕が試しに一度だけ降ろされる。ワイヤの通る滑車から、わずかに嫌な音がした。僕は目線を上げ、担当教師の動線を追う。誰も気づかないほどの、たるみ。教科書で見た「曲げ応力」という単語が、場違いに脳裏を過ぎる。
「湊」
背後から小声で呼ばれ、振り向くと倉科がいた。身長は僕と同じくらい、目の奥にいつも工具箱を隠しているみたいなやつだ。
「ワイヤ、緩んでない?」
「見えた?」
「耳で聴こえた」
僕らは舞台袖へ回り、非常階段から上へ。上部梁に体を預け、点検表を手に取る。そのまま教師のところへまっすぐ行き、倉科が段取り通りに説明する。
「点検表、今日版が出てます。滑車の周り、埃が溜まってます。清掃→グリス→テンションの再調整、お願いします」
教師は一瞬だけ面倒そうな顔をしたが、「やろう」と言って、黒いトランシーバーに指をかけた。講堂にいた警備員が二人動き、脚立と工具箱が出てくる。僕は、白いチップを指で撫でたまま、切らない。ここで“巻く”のは簡単だ。でも、簡単は癖になる。癖は、やがて判断を侵食する。
「巻かずに通す」——予定どおり、一本目を温存したまま、午前は終わる。倉科が汗を拭き、「昼、売店でなんかおごる」と言った。
「缶コーヒーで」
「ブラック?」
「無音の三十秒に合うやつ」
倉科は眉をひそめた。「味、するのかそれ」
笑いあって、足下の床が少し固くなった気がした。
*
午後。送別ムービーのチェックは、毎年の鬼門だ。編集室の小さなモニタに、笑顔の写真、ふざけた変顔、サークルの集合写真、体育祭のスローモーションが流れる。その合間に、「絶対に」何かが仕込まれている——それが、この学校の伝統のようになっていた。
「三年B組の最後、なにか、画素のちらつき」
久遠が、座ったまま身を乗り出した。画面に顔を近づけるわけでもなく、身体の中の測定器をスッと伸ばすみたいに、彼女は目を細めた。
「ただの圧縮ノイズじゃない?」
堀内が言い、矢代が首を傾げる。「チャプターの切り替えで、変なフレームをかませてる」
編集ソフトのタイムラインを開くと、フェードの谷間に薄い一枚が挟まっていた。肉眼でよく見えないほどの短さ。でも、停止して帧ごとに進めると、そこに「誰かの身体の一部だけ」を切り取った写真が、悪意をあおる角度で置かれていた。悪ふざけで済ませる類ではない。
「巻く?」
視線が集まる。久遠はため息も吐かず、「使う価値、ある」と短く言った。白いチップに触れ、その指を一瞬だけ止める——切り替えの合図。僕の耳には何も鳴らないけれど、彼女の内部で、スイッチが押される音がした気がした。
十分。久遠は編集室の椅子に座り直し、操作に入った。ショートカットの音が軽い。彼女の手は落ち着いている。時間を巻き取るのではなく、誤差を修正するだけの最小介入。問題のフレームを、前のチャプターの余白から自然な粒子に置き換え、トランジションの幅を一コマ広げ、音の位相を一ミリだけずらす。最後に、書き出しの設定を見直し、チェックリストに合格印を押す。
「終わり」
久遠は椅子を回し、ほとんど汗をかいていなかった。僕は胸の内で、一本目の介入を彼女に託してよかったと思う。巻く価値のある介入——それは、未来に残る傷をひとつ減らすことだった。
「ありがとう」
編集室の扉のところで、日高が言った。いつ来たのか、黒いコートのまま、壁にもたれている。彼は久遠の手元を見ず、画面の暗転を見るだけだった。
「ありがとうは、禁止日の遵守で足ります」と僕が返すと、日高は目だけで笑った。
「倒れ方、覚えたか?」
「練習中です」
「ならいい」
それだけ言って、彼は去った。背中の速度はいつも一定で、風に煽られない。そういう歩き方を、僕は覚えたい。
*
部のブースは、放課後に向けて、目立ちすぎず、でも見逃されない位置に設営された。〈やり直しの設計学〉——手書きのタイトルの下、テーブルには二つのコーナー。ひとつは「三回制限」を体験するミニゲーム。手のひらサイズのスイッチと、遅延のあるディスプレイ。操作の結果がほんの少し遅れて返ってくる感覚を味わいながら、三回だけリトライできる。もうひとつは「無音の三十秒」のベンチ。説明書は短く、座面は固め、周囲に音が入らないようにパーティションで囲った。
「やり直しは魔法だけど、運用しないとただの逃げになる」
僕は、中学生らしき来場者にそう説明する。彼は真面目にうなずいた。前髪が少し長く、目が下を向きがち。でも、言葉が届いたとき、瞳孔が微かに開くのが見えた。
「逃げるのって、だめ?」
「逃げること自体は、必要なときが多い。逃げ方が、乱暴だと、未来の自分が割を食う」
「未来の自分?」
「明日の自分に、今の借金を押しつけないために、“運用”をやる。——ルールが守ってくれることもある」
「ルール?」
「明日、禁止日を設けるんだ。うちの部の“ループ禁止日”。卒業式当日。巻かないって決める日」
中学生はゆっくりうなずき、ベンチに座って目を閉じた。タイマーはない。内部時計で測る三十秒。誰かがベンチの外で笑う声がした。体育館の床の鳴る音、バスケットボールが遠くで跳ねる音、マイクのテスト。「あー、あー」。それらが遠景になっていく中で、彼の肩の力が一段落ちた。三十秒が、彼の中で三十五秒に伸びたかもしれない。けれど、誰も修正しない。それでいい。
「次の方どうぞー」
呼び込む声と、ポスターの端を押さえる手の甲に、静かな熱が流れ続ける。堀内はミニゲームコーナーで子どもにアドバイスを送り、矢代は行列の整理に回り、久遠は説明パネルの角を揃えている。霧島先輩は、少し離れたところで全体を俯瞰し、危険の芽がないか視線で撫でている。掃除当番の丁寧さが、世界の強度になる、という顧問の言葉を反芻する。
日が傾き、体育館の高窓から斜めに光が差しはじめたころ、風が急に強くなった。扉の隙間から入り込んだ風が通り道を見つけ、体育館の上の空気が、帯になって走る。僕らのブースのパーティションがわずかに揺れた。係の生徒がガムテープを持って走ってくる。そのとき、矢代のスマホが震えた。
「——屋上で告白するって。装置持ち込んで、でかい横断幕も用意してるらしい。ライブ配信する気だ」
「風、強い」
久遠の声が、いつもより低かった。落下物、観客の移動、屋上の柵。赤旗が、頭の中に立つ。僕は、ポケットの中の白いチップに指先を触れた。二本目を切るか。ここで切れば、最短で事態に介入できる。転落事故の兆候を観測して、事前にそれを潰す。できる。——でも。
「切らない」
自分でも驚くほど、声はすぐに出た。僕はパーティションを矢代に任せ、体育館から駆け出す。階段で二段飛ばしをしない。転ぶから。息を整え、踊り場で必ず一回だけ深呼吸する。屋上への扉は重たく、錆びた蝶番が、小さく悲鳴を上げた。
屋上に出ると、風が顔を叩いた。校庭の砂が霞のように舞い、遠くの住宅の屋根の銀色が、不規則に点滅していた。屋上の中央に、横断幕を広げようとしている三人組がいて、その前に、主催らしい女子が立っている。髪を高く結び、目は強く、口元は固い。周囲には、スマホを掲げた同級生たち。数十の画面が、同時に光っている。
「やめよう」
僕は、声を張った。風に持っていかれないよう、胸を板のように固める。
「——成功の形は、音量じゃない」
女子が振り返る。目は、僕をすぐには認識しない。場の熱が、彼女の周りに渦を作っていて、外側の声が届きにくい。
「無音で言っても、伝わる。いや、むしろ——」
僕は手を開いて、風の向きを確かめる。髪が前に舞い、口の中が乾く。
「ここで大きな音を立てて成功しても、明日以降の自分に貸しを作るだけだ。貸しは、意外と利子が重い。——下で、言おう」
「下?」
「階段の一番下の踊り場。誰もいない。風もない。音が、届く」
彼女の表情が、一瞬だけ揺れる。取り巻きの中から、反発の言葉が出かかるのが見える。そこで、屋上の扉が再び開いた。亜子が、風に髪を揺らしながら立っていた。
「下で待ってる。走って」
笑った。亜子は、場の熱の向きを変える言葉を知っている。彼女の笑いは、いつだって、実用的だ。女子の目の焦点が、ふっと切り替わる。横断幕を持っていた男子が、困ったように旗布をたたみ、もう一人が「じゃ、下で」と呟く。わずかに遅れて、取り巻きの人々が動き出す。階段へ、下へ。風の強い場所から、音の届く場所へ。屋上の赤旗は、風の中でほどけるように消えた。
「ありがとう」
僕が亜子に言うと、彼女は「ありがとうは明日まとめて」と返した。目の端に、照れでも得意でもない、今日の空だけが映っていた。僕の胸の中心で、小さく震える。巻かないで折ったフラグの余韻。二本目はまだ切っていない。指先のチップは、軽く、でも重かった。
*
夕方、部室に戻る。窓の外は茜色で、運動場の白線が桃色に溶けている。机の上の白いチップが、薄い光を宿して見えた。僕は椅子に座り、ログを開く。今日の介入と非介入の記録。“巻かなかった選択”の欄に、三つの行を書く。
・午前:吊り幕の緩みに関して、倉科とともに申告→対応。非介入(巻かず)。
・午後:送別ムービーに不適切フレーム→久遠1回使用。最小介入。
・夕方:屋上告白フラグ→非介入(言語介入)。事故回避。
「私は、ゼロ回」
久遠が、紙コップの麦茶を持って笑った。笑う、といっても口角が数ミリ上がるだけ。けれど、その数ミリは、僕の今日のすべてを肯定する角度だった。
「それが一番、かっこいい」
霧島先輩が、棚に手をかける。「運用者は、“やらない”で済ませるのが仕事だ。やったほうが記事になるけど、やらないで済んだほうが、生活は静かになる」
堀内が「あー、名言」と言い、矢代が「黒板に書いとけ」と真顔で言う。僕は白衣の襟を指で整え、机の上のチップに視線を落とす。使わなかった回数が、選んだ言葉の数になって積み上がっていく——そんな気がした。言葉は面だ。面は、息を受け止める。
「帰る前に、明日の段取りをもう一度」
ブースの開場時刻。説明係の配置。無音のベンチのクッションの位置。タイムテーブルに印を付ける。禁止日カレンダーに赤の丸を重ねる。「卒業式当日」。それを書きながら、自分の呼吸が浅くなるのを感じる。浅いまま整える。十でやめる。十分を使い切らない勇気。
帰り支度を終えて、部室の扉の前で、亜子が待っていた。陸上のジャージの上にコート。ポケットに手を入れ、頬が少し赤い。
「——明日は巻かない」
彼女は片手を出した。僕も片手を出し、握手をする。手のひらの温度が、二人の間の「無音の三十秒」と同じ密度で重なる。握手は、合図であり、更新でもある。
「ルールの更新」
亜子は手を離さないまま言った。
「明日は、“無音の窓”のあとに、話す」
「了解」
「話す、って、言葉のことね」
「うん」
「逃げない?」
「逃げない」
亜子は、手を離した。離れたところに、余白が生まれる。余白は、安堵と緊張の両方を入れる器だ。僕はその器を胸の真ん中に据えた。針のない時計が、その器の外側で、確かな時を刻む。
*
帰り道、商店街のシャッターは半分降りかけで、パン屋の前に明日の予約札が並んでいた。僕は、自動販売機で水を買い、一本余分に買って、マンションの郵便受けの上に置いた。「ご自由にどうぞ」の手書きメモ。誰かの喉が、明日の前に少し潤うといい。
家に帰り、ノートを開く。今日のログとは別に、明日のための欄を作る。ページの上に、ゆっくり書く。
——ループ禁止日:卒業式当日。
——無音の三十秒×四回ののち、言葉。
——倒れ方:人に見せる。
書いている途中で、ペン先が一瞬だけひっかかる。紙の繊維に、僕の迷いが引っかかったみたいで、可笑しくなる。迷いの跡が、明日の自分のガイドになる——そう信じられるくらいには、僕らは運用者になっていた。
風呂場で湯気に包まれながら、目を閉じる。屋上の風の感触、横断幕の布の音、亜子の笑い、倉科の工具箱の匂い、日高の黒いコートの線、久遠のショートカットキーの音、霧島先輩の「やらないで済ませるが仕事だ」という声。ひとつひとつが、今日の十分快よりも短い、でも十分に長い記憶のかけらになって、皮膚に貼りついてくる。僕は、そのいくつかを、あえて剥がさないでおく。剥がさないまま眠ると、朝、少しだけ重さが残る。その重さは、明日への実感になる。
布団に入る前、スマホのタイマーを「三十秒」にセットして、ベッドサイドに置いた。音が鳴らないように、バイブレーションも切る。画面の光が消え、部屋が暗くなる。僕は天井の薄い凹凸を、想像の指でなぞる。三十秒を数え——やめる。三十秒を、二十七でやめる。使い切らない勇気の練習。何度か繰り返し、眠気の中で、回数を数えることをやめる。やめたところから、眠りが本格的に来る。
*
夢の中で、僕は体育館にいる。ブースの前に、誰もいない。無音のベンチがひとつ置かれ、ベンチの上に白いチップが三つ。僕は、チップに触れない。代わりに、ベンチに座って目を閉じる。無音の三十秒。夢の中でも、三十秒は三十秒で、夢の中の三十秒は、現実よりも少し長い。目を開けると、誰かが立っている。亜子だ。彼女は、僕の隣に座り、同じ方向を見る。二人で、体育館の巨大な空に、見えない文字を書く。小さな、黒い、読める文字。読めるけれど、声に出さない。声に出さないことで、文字は厚みを持ち、空に貼りつく。
目が覚めると、薄い朝だった。鳥の声、遠くの車の音、蛇口から水の落ちる音。僕は、白衣の襟を整え、鏡の前に立つ。似合わない。——けれど、昨日よりは似合う。似合わなさの度合いが一ミリ小さくなる。その一ミリを、僕は今日のログに書き足すつもりで玄関の扉を開けた。
冷たい空気が顔を撫でる。階段を下り、道に出る。空は澄んでいて、でも、端のほうにだけ雲の薄い線が流れている。僕は、その雲の動きに合わせて歩幅を決めた。歩くこと自体が、運用だと感じる。歩くと、未来が近づく。近づく未来に、今日の自分を渡す。その渡し方を、僕はやっと、設計しはじめた。
ポケットの中、白いチップが二つ、静かに触れ合う。明日、一本も切らない。その決意に、使わない安心と、使わない緊張が同じ重さで乗っている。針のない時計は、今日も確かに時を刻む。音はしない。けれど、聞こえている。無音の中で、僕は小さく息を吸い、吐いた。明日は、巻かない。だから今日、僕は運用する。十分×三回の最終運用。一本は価値のある介入に、一本は言葉に、一本は——明日に残した。
朝の光の中、校門が近づく。掲示板の『卒業式のご案内』が、紙の表面だけ光っていた。僕は手を挙げることはしない。代わりに、手を下ろしたまま、歩みを整えた。終わりと始まりの前日。やり直さない明日のために、今日、僕は、やり直さずにやり切る。そういうふうに、生きていく。
第15話「ループなし告白」
卒業式の朝は、思っていたよりも静かだった。空は澄み、風は冷たい。その冷たさは、痛みではなく輪郭だった。世界の端がくっきりと立ち上がり、手を伸ばせば触れてしまいそうな距離に迫る。駅から学校へ向かう坂道の上、街路樹の影がまだ細く、鳥の声が隙間を渡っていく。僕は歩きながら、胸ポケットの軽さを何度も確かめた。白いチップ三枚は、机の引き出しの一番上に置いてきた。今日は使わない——それが、今日の覚悟だ。
校門のところで、一瞬だけ足を止める。掲示板には新しい画鋲で留められた「卒業式のご案内」。その下に、文化部連絡のプリント。〈放課後タイムループ部——やり直しの設計学〉。黒いマジックで書いた手書きの字は、昨日のままの滲みを残している。僕は手を上げない。代わりに、手を下ろしたまま呼吸を整えた。無音の三十秒。吸って、止めて、吐く。心拍は、少しずつ、式典用の速度に落ち着いていく。
体育館に入ると、ワックスの匂いが、思い出の背表紙をいっせいに開いた。入退場の練習で磨かれた床は、光を長方形の束にして跳ね返す。椅子の列が波のように並び、ステージ脇には在校生代表の原稿、来賓席の小さな名札。僕は指定の位置に座り、前に並ぶ背中の高さを見渡した。みんな、いつもより少しだけ背筋が伸びている。伸びきらない分は、きっと胸の中の秘密が支えている。
「おはよ」
隣の席から小さな声がして、振り向くと久遠がいた。髪を低い位置でまとめ、袴ではなく控えめなワンピース。彼女は視線だけで問う。「チップは?」
「置いてきた」
「正解」
それきり、彼女は前を向いた。彼女の横顔は薄く光を受け、まばたきの間隔が一定だった。緊張に手を取られたときの久遠は、まばたきが早くなる——それが今はない。彼女の緊張は、別のかたちに移動している。倒れ方を知っている人の緊張。どれだけ重くても、静かに置ける人の緊張。
入場の音楽が鳴り、校旗がゆっくり進む。開式の言葉。国歌斉唱の途中で、隣の列の誰かが涙をこぼした。涙は咳払いの音で隠され、咳払いは拍手の波で隠された。来賓の挨拶は、ところどころで笑いを取り、ところどころで真面目になり、全体として「これまでありがとう」と「これからがんばれ」を丁寧に編んだ。答辞の声は思ったより低く、噛まずに最後の言葉までいった。拍手が波となって広がるとき、僕は胸の内で、もう一度無音の三十秒を置いた。針のない時計が、確かに時を刻む。耳の奥ではなく、肋骨の内側で。
式は滞りなく進み、滞りなく終わった。「滞りなく」という言葉は、ときどき褒め言葉として使われるべきだと思う。派手さのない成功。掃除当番の表が予定どおりに回った朝。誰も転ばず、誰の声も潰れず、笑いが場を汚さなかった昼。僕は、そういう成功の中にいた。
体育館から出ると、光が強くなっていた。校庭の砂は乾いて、靴の裏で静かに鳴く。人の輪は不規則に重なり、別れの抱擁の影が地面に落ちる。花束の匂い。写真の声。呼び止める手。僕は、その輪の影を縫って歩いた。合図は不要だった。視線が交わっただけで、方向が決まる。
亜子と目が合った。彼女は笑わない。走らない。頷かない。まぶたの裏でだけ、走っていた。僕らは一言もなく、校舎裏へ向かった。桜の根元。まだ満開には遠い、けれど蕾の数は春の密度を予告している。風の音が枝の間を渡り、遠くの笑い声が薄まって届く。
「——」
僕は右手首の内側に意識を置く。無音の窓。三十秒だけ。目を閉じないで、言葉を置かないで、二人分の呼吸だけを積む。世界は、少しだけ伸びる。伸びた分の余白に、言葉が傷つかない形で置けるように。
「亜子」
僕は言った。自分の声の高さを、昨日の夜に決めておいた高さに合わせる。
「やり直しをたくさんして、わかったことがある。成功は今日じゃ決まらない。明日も続けられる形じゃないと、反動が来る。だから、今の僕の言い方は、こうなる。——『恋人になってください。ただし、走るあなたの時間を最優先にして、一緒にルールを更新し続けたい』」
言葉は、条件に聞こえるかもしれない。けれど、僕たちにとっては祈りだ。守りたいものを先に言葉にして、巻かないで歩くための手すり。僕は、手すりを取り付ける仕事を、やっと覚え始めたばかりの人だ。
亜子はほんの一拍だけ目を伏せ、顔を上げた。瞳孔が、春の光を受けて絞り、また少し開く。
「——うん。Bを、更新で」
どこかで聞いた言い回し。僕らの“プロトコル”の略号。Aが“勢い”で、Bが“運用”。彼女は続ける。
「二人の“禁止日”も、“無音”も、“何もしない10分”も、全部、一緒に持つ」
胸の内側で、ひとつ音が鳴った。鳴ったのに、音じゃない感じがした。弦が張り替えられ、指で軽く弾かれたみたいな。足元の影が重なる。風が一度だけ強く吹き、桜の枝の蕾が、未だ開く前の形で鳴った。ループはない。一回性は怖い。でも、怖さと一緒に密度が立ち上がる。僕はその密度の上に立つ。立てる。
「ありがとう」
僕は言った。彼女は首を横に振った。
「ありがとうは、明日の“無音”のあとに」
「うん」
「それと、——明日の“何もしない10分”、私が贈る番」
「了解」
僕らは桜の根元から離れ、校庭へ戻った。世界はさっきより明るく、そしてさっきより音が柔らかかった。写真のシャッター音が泡みたいに弾け、呼び止める声が伸び切る前に収まる。僕らは人波の中を小さく抜け、体育館の脇を通って、部のブースへ向かった。
〈やり直しの設計学〉のパネルの前に、昨日も見た顔があった。中学生。前髪が少し長く、目が下を向きがち。でも今日は、首の角度がわずかに違う。彼はブースの端で立ち止まり、説明文を指で追っていた。
「来てくれたんだ」
僕が声をかけると、彼は小さく頷く。
「昨日、三十秒、やってみた」
「どうだった?」
「三十秒を、二十七秒でやめた」
「偉い」
彼は照れたように笑い、ポケットから真っ白なチップを一枚取り出して、僕に差し出した。
「いらなかった」
僕は受け取り、パネルの前に置いた。白い面に体育館の高窓の光が当たり、薄いハレーションが生まれる。使わなかった回数が、選んだ言葉の数になって積み上がっていく——昨日感じた通りの感触が、目の前で形になる。
「三回は、増やすためじゃない」
僕は彼に言った。昨日の自分の声をなぞるのではなく、今日の自分として。
「使わない選択を覚えるためにある。——ありがとう」
彼は「また来る」と言って、走り去った。走り方はきれいではないが、足の裏が強かった。強い足は、未来に負けない。僕はチップに視線を落とし、ふと、机の引き出しの中に置いてきた三枚を思い出した。あの三枚は今日、ひとつも減らない。減らないことが、今日の勝ちだ。
昼を過ぎると、ブースは自然と人が減り始め、やがて片づけの時間になった。矢代がパーティションの角をまとめ、堀内が電源タップを回収し、久遠がパネルのビスを一本ずつ外していく。霧島先輩は少し離れたところで全体を見渡し、危険がないかだけを確かめている。動きは遅くも速くもない。点検表に従う速度。僕は机の下から段ボールを引き出し、白衣をたたむ場所を空けた。
「おつかれ」
背後から声がして振り向くと、霧島先輩が白衣を畳んでいた。僕が受け取ろうと手を伸ばすと、先輩は一度だけ布の端を撫で、それから僕の手に重さを渡した。
「お前らの“やり直し”は、もう運用になってる」
「……はい」
「運用になったやつは、目立たない。だから、たまに自分で拍手しろ」
「自分で?」
「誰もしてくれないときは、特に」
先輩は笑わないで言った。笑わないのに、言葉のあとが温かいのは、彼の声に湿度があるからだ。彼は肩を軽くすくめ、ポケットから小さなキーホルダーを出した。金属の楕円。そこに、刻印の細い線で“UNWIND/10MIN”とある。
「記念品。無理に付けなくていい。音が鳴るのが嫌なら、引き出しに入れとけ」
「ありがとうございます」
白衣のポケットに入れると、布の中で小さな音がした。音は一度だけ鳴り、すぐに布の匂いに吸われる。僕はその吸われ方が好きだと思った。
「湊」
久遠が手を振り、いつもより少し長く笑う。笑いの角度で、彼女がどれくらい体力を残しているのか、いくらか想像できるようになってしまった自分がおかしい。
「巻かないで、幸せになって」
「努力します」
「努力しないで、運用して」
「了解」
彼女の言う「努力しない」は、サボることではない。努力の見せ方を、筋肉の内側に移すことだ。僕は頷き、段ボールの蓋を閉めた。
夕方。校門で人の波が細くなったころ、日高が遠くで小さく会釈した。黒いコートの襟は下りていて、代わりにマフラーが緩い。彼は口を開かない。僕も開かない。代わりに、顎を一センチだけ引いた。彼はそれに一センチだけ頷いた。それで、十分だった。救われた側と救う側が、同じ地面に立っている。地面は固く、均されている。僕らはそこに、名前を置かないで済ませた。
校門の近くでは、沙織さんが娘の肩を抱いていた。娘はこの春に入学する。制服の襟はまだ大きく、袖は少し長い。沙織さんは僕らに気づき、会釈し、目で言う。「ありがとう」。僕と亜子も目で返す。「また」。言葉の密度が、通り過ぎる風に溶けて、残り香だけがしばらく漂った。
陽が傾き、影が長くなった。校舎の影と、僕らの影。二つの線は並び、ところどころで重なり、別々の方向へ伸びる。伸びて、細くなり、それでも地面から離れない。僕は、白衣を畳み直し、ポケットのキーホルダーの位置を確かめた。
「帰ろ」
亜子が言った。僕は頷く。
「途中で、三十秒」
「三十秒」
門を出て、いつもの角で、僕らは並んで立ち止まった。無音の三十秒。道を渡る車の音が遠くに去り、犬の足音が近づき、また遠ざかる。呼吸を合わせ、合わせ切らないところでやめる。二十七秒で、やめる。使い切らない勇気。残し方の練習は、日常の真ん中でこそ効く。
家に帰る前に、僕は最後のページを開いた。“恋のルールノート”。角は少し丸くなり、表紙の紙の端が柔らかい。書く前に、一度だけ、ベランダの夜風を吸う。匂いは冷たく、空は浅い。ペン先を落とす。
1)巻かないで話す。
2)巻いたら謝る。
3)“無音の窓”を毎週。
4)“何もしない10分”を贈り合う。
5)成功の定義は、二人の明日。
書けた。書けた行は、明日の僕にとっての手すりになる。手すりは、壁ではない。握ったときに、力が抜ける種類の物体だ。僕はノートを閉じ、その音を耳に入れた。ページの間の空気が少しだけ動く。針のない時計は、相変わらず黙って時を刻んでいる。
スマホのカレンダーを開き、次の週の「禁止日」を二人分の予定に入れる。亜子の練習日、試合日、遠征日。僕の試験、部の当番、家の用事。空白に「無音」の印。詰めないで、残す。残した余白に、生活が定着する。
メッセージが一通届く。送信者は亜子。写真は送られてこない。文字だけ。
『明日の“何もしない10分”、公園。ベンチ、右側、空けておいて』
『了解』
送信すると、数秒後にスタンプが返ってくる。手のひらのマーク。僕はスマホを伏せ、机に置き、電気を消した。暗闇の密度は、無音の三十秒と同じ。目を閉じ、数えて、やめる。眠りは、余白で呼吸をする。
翌朝——いや、翌朝の手前の夢の中で、僕は部室の扉の前に立っていた。扉の上には新しいプレート。〈放課後タイムループ部——やり直しの設計学〉。ノックの音がする。ひとり分の音ではなく、いつかの自分の音と、いつかの誰かの音が重なった音。扉を開けると、机の上にチップが三枚。それらは、光を返すだけで、音は出さない。僕はチップに触れない。代わりに、黒板にチョークで書く。今日のミーティングの見出し。
——巻かないで良かったこと。
目が覚めたとき、窓の外は薄い灰色で、鳥の声が一本線になって通り過ぎた。僕は白衣の襟を整え、キーホルダーが服の内側で当たらないよう位置を調整し、鏡の前に立った。似合わない。けれど、昨日よりは似合う。似合わなさの度合いが、一ミリ薄い。僕はその一ミリを、今日のログに書き足すだろう。
玄関を出る。風は冷たい。冷たいけれど、昨日よりは柔らかい。階段の踊り場で一度だけ深呼吸し、下まで降り、いつもの角を曲がる。公園のベンチは空いていて、右側は誰かのために空いている。僕は左側に座り、無音の三十秒を置く。背もたれの板に手を添え、木の節の感触を確かめる。節は、年輪の失敗ではない。年輪の休憩だ。
やがて右側が温かくなり、視界の端に髪が揺れる。亜子は座り、何も言わず、何も渡さないまま、時間を贈る。十の分単位の塊。僕らはその塊を、やり直さないで受け取り、やり直さないで使い切らない。残す。残すことで、生活の強度は上がる。掃除当番の表は、今日も回る。
午後、部室の扉には、昨日と同じプレート。けれど、扉の内側の空気は、昨日と違う。ノックの音がするたびに、誰かの三枚のチップと、言葉の密度が、また世界を少しだけ良くするだろう。僕は、そう信じる。信じること自体が、運用だ。運用は、目立たない。だから、ときどき、自分で拍手をする。
この本編の幕は、ここでひとまず降りる。けれど、“設計する恋”と“巻かない安全”の実験は終わらない。終わらないことが、僕らにとっての成功だ。成功の定義は、二人の明日。明日が更新されるかぎり、設計図は古くならない。古くならない図面は、生活の抽斗に入れて、必要なときにだけ取り出す。無音の三十秒。何もしない十分。禁止日。倒れ方。掃除当番。そういう小さな言葉たちが、やがて僕らの家族語になる。ならなくてもいい。なるなら、ゆっくり。
夕陽が長い影を並べる。時計の針はもういらない。針のない時計は、僕らの肋骨の内側で音を立てず、しかし確実に動く。僕たちは、更新で進む。やり直しは魔法だったけれど、続けるのは生活だ。次のミーティングの見出しも、決めてある。
——巻かないで良かったこと。
ページの上のその文字は、今日より明日のほうが、きっと読みやすい。そういうふうに、暮らしていく。了。



