愁がコンビニに行って三十分は経過していた。
 リビングにある椅子に腰掛けて、夕食後に食べるゼリーを作っている美咲を見つめている最中だ。毎回急な事なのに、美咲はとても楽しそうなので、自分としても嬉しくなってくる。

 ——それにしても愁遅いな。何かあったのかな? やっぱりさっきので引かれちゃった?

 スマホを取り出して連絡しようと思った時にインターフォンが鳴り響いた。
 急いでモニターをみると愁の姿が写っていて、ロックを外して扉を開ける。少し気まずそうにしているのが分かりジッと見つめた。

「結構時間かかったね。何かあったの?」

 苦笑混じりに俯くと、頭にポンッと手を乗せられる。

「ごめん。知り合いと電話してただけだよ。これ、美咲さんと滋さんに。光流も飲むでしょ?」

 コンビニに行った時に買ったのだろう。中にコーヒーや紅茶、その他の飲み物が入ったビニール袋を手渡された。

 ——何だ……でも良かった。

 不安や心配が杞憂に終わりホッと安堵の吐息をつく。

「ああ、うん。ありがとう。美咲さーん、愁が手土産買って来てくれたみたい」

 リビングに向けて声をかけると美咲が姿を見せる。

「ふふ、子どもは気を遣わなくていいのよ。愁くんありがとうね。ほら上がって上がって」
「お邪魔します」

 走ったのかじゃっかん息を乱しながら額に汗をかいている愁が可愛く見えて、昂る気持ちを落ち着かせる為に目頭を抑えた。安心した途端にこれだ。

 ——いつ見ても推しは尊い!

「光流? どうかしたの?」

 愁に顔を覗き込まれる。

「何もない。愁てどんな状態でもカッコいいんだなって思ったら思わず叫びそうになっただけ」
「何それ。ウケる」

 そんな事言って笑ってはいるのに、愁の耳は赤いので多分照れている。

 ——そのギャップも堪らない!

「愁くん、今日もこのまま夕ご飯食べて泊まっていかない?」
「良いんですか?」
「もちろんよ。光流くんも喜ぶわ」
「じゃあお言葉に甘えさせていただきます」

 ——やった。明日は学校も一緒に行ける!

 今日も泊まる事になったので、夕食後に自分のベッドの横に布団を用意した。
 このまま愁専用になってしまえばいいのにと思ってしまった考えを消すように勢いよく頭を振る。

「何してんの、光流」
「う……っ、ううん何でもない」

 ヘラリと笑ってみせた。

 ——なんか今日は緊張して寝れないや。

 上半身を起こして愁の方を向くと愁がこっちに視線を向ける。

「あのさ、さっきから視線がうるさいんだけど……見過ぎだよ」
「起きてたんだ。寝込み襲って寝顔とかの写真撮ったら怒る?」
「…………それはマジでやめて」
 愁の声のトーンが落ちた。本気で嫌がってそうなので辞めておく。

「分かったやめとく。じゃあ代わりに、せっかくのお泊まりだし一緒に寝ない?」
「……」

 沈黙で返された。

「愁ってば」
「一人で寝て。それにマジいい加減にしないと、オレに襲……ても知ら……いよ」

 夏用なので薄い掛け布団だけど潜って囁かれたので、最後らへんの言葉はくぐもって聞き取れなかった。そのまま背中を向けられる。
 もう眠いのかもしれない。仕方がないので同じように眠りにつく為に目を閉じた。




 愁が泊まったのもあって寝坊すると思われたのか、朝いつも起きる時間に起きると既に二人分の弁当が用意されていた。申し訳ない気持ちになって慌てて美咲の顔を伺い見る。

「あのっ、美咲さん、作らせちゃってごめんなさい」
「あら、謝る必要ないのよ。ちょっと私が早く起きすぎちゃっただけだから。逆に光流くんのお仕事取っちゃったから愁くんがガッカリしちゃうかも」

 意味深に笑んだ美咲に準備と朝食を促される。その後、愁と二人で学校へ行った。
 二年生が使用している階に行くともう修学旅行の話に花が咲き始めていて、早いところではグループが決まったとはしゃいでいる生徒たちがいた。
 あと数ヶ月もしない内に、二年生にしかない最大イベントである修学旅行が来る。

「そうか。修学旅行だね。愁は中学の時どこに行ったの?」
「海外。オレは行ってないけどね」
「行かなかったの? 何で……って、ああ、そうか。変装してたから?」
「そ。面倒くさそうだったし、団体行動も苦手」
「今年は?」
「光流が行くなら行く」

 何だか気恥ずかしくなってしまい、へらりと笑ってしまった。

 ——何だろう? 昨日の事があったからかな?

 愁がやたら自分を持ち上げてきている気がして一言一言が心臓に悪い。
 その後は会話は他愛ないものに変わっていき、授業が始まっていく。


 二限目が終わったところで、美咲からメッセージが入っているのに気がつき、話しかける為に愁に向けて口を開く。

「愁、今週の金曜日また泊まりにくる? 美咲さんが、愁の好きなしょうが焼きと食後の生クリームたっぷりのロールケーキ焼いて待ってるって言ってるけど」
「絶対行く。美咲さんのしょうが焼きもケーキも好き」
 教室の机の上に突っ伏していた愁が勢いよく顔をあげた。
「言うと思った」

 愁は弁当のみならず、美咲の手作りお菓子にも目がない。クスクス笑っていると、一人の女子生徒に声をかけられた。

「村上くんと海堂くんてホント仲良いよね。お泊まり良いな~楽しそう」
「うん、楽しいよ。仲良く見えるかな? それなら嬉しいな」

 目線を合わせるように立ち上がると、近くを通りかかった男子生徒に肩を組まれてしまった反動でよろけてしまい、思わず「わわっ」と声を上げる。

「見える見える。ていうかそれ以上? なあ、それって推しってだけ? あわよくばって欲求も入ってたりする?」

 ——欲求?

 イタズラっぽく問いかけられ、返事に困った。

「オレはそっちでもいいよ。両方いけるから……だから取らないでね?」
「え、何の話してるの?」

 何て事ないように淡々とした口調で愁は答えていたけれど、表情はウィッグとマスクで隠れていて見えない。少し苛立ってるように感じたのは気のせいだろうか。

「あー、そか。なるほどね。ごめんな、変な事聞いて」

 両手を上げて即撤退していったクラスメイトを視線で追う。

 ——本当に何の話してたの?

 置いてけぼり感が半端ない。どうしてそんな話題を振られて、どうやって解決に至ったのか考えてるとまたグシャグシャに丸められたルーズリーフが手元に飛んできた。

『あわよくば恋人になりたいの? って意味で聞かれたんだよ』
「こ、こここーっ⁉︎」
「鶏かよ」

 愁が笑いを吹き出し、肩を大きく揺らしている。

 ——その笑い方、腹筋痛くならない? ああ、割れてたっけ。笑い過ぎて割れたのかな。

 随分と器用な笑い方をする推しを見つめた。

「海堂が爆笑するなんて珍しいな」
「だよね? どこにそんな笑い所があったのか分からないけれど。でも爆笑する推しとか最高に良い!」
「ははっ、村上の海堂好きはブレないよな」
「そりゃもう。それに初めて出来た友達だからね」
「「「「初めて⁉︎」」」」

 ——え、みんな聞き耳立ててたの?

 四方八方から声が飛んだのにビックリした。
 今じゃもう二人セットで扱われるのが当然になっているのもあって、二人っきりでいてももう揶揄われたりしない。放置されているものとばかり思っていただけに意外だった。

「初めて出来た友達なら仕方ないな……」
「そうだね。距離感もおかしくなるよね……友達いなかったんだもんね」
「そうだよね……そうだよね」
「???」

 ——今日は何故か物凄く同情を含んだ眼差しで見られるのは何で……?

「クク、ふは……ッ、ちな、オレも初めてだよ?」
「え、そうなの?」
「海堂くんも?」
「じゃあ、彼女は?」

 ——え、なんかさっきとみんなの反応違くない?

 これはちょっとだけ納得できない。サラッと別の質問も飛び出し、全て否定するように愁が笑いながら手を振った。

「いないよ。オレは色恋沙汰にも友達にも昔から興味なかったからね。ここには突然変異種がいたけど……」

 愁がまた笑っている。それは己の事かなと考えていると視線が絡み。口パクで「ご名答」と紡がれた気がした。

「村上とは友達になれてるじゃないか?」
「光流は急にオレの世界に飛び込んできただけ。オレも驚いたよ。今はもう慣れた。でもオレら基本的にボッチ同士だからどっちも取らないでね?」

 ——もしかして始めの頃って実は嫌がられてた?

 自分で思っている以上に顔に出るのか「光流は嫌じゃないよ」と、伸ばされた手で髪の毛をかき混ぜられる。

「心置きなく推し活出来るな、村上」
「う、うん。それは嬉しい」

 心置きなく推し活出来るのはいいものだ。

 ——けど愁の言葉がやはり一つ一つ際どい気がして心臓に悪いんだけど気のせい? 昨日の今日だけに、僕って何か試されてる……?

「おい、チャイムなってるだろ席つけ席!」
「はーい」

 それぞれ自席へと戻っていき、授業が始まった。
 教室にある自席で、よく分からなくて首を傾げているとクシャクシャに丸められたルーズリーフの紙がまた飛んできて手元に転がる。中を開くと文字が書かれていた。

『今日スケボーするけど見に来る?』

 内容を確認するなり愁を見ると、前髪の隙間から覗いた瞳と視線が絡む。妙に艶っぽく見えてしまい心音が踊った。

「いいの?」
「光流なら良いって言ったばかりでしょ」
 囁くような小声で話す。
 愁からのお誘いが嬉しくてまた頬の筋肉を緩める。愁に向けて大きく頷いて見せた。



 ***



 バイト終わりの公園で愁が綺麗な曲線を描いてジャンプするのを眺める。自分自身の肉体の一部かのように操るボード捌きは毎度ながら感嘆の吐息しか溢れない。

 再度ジャッと地面を滑った音の後で、ボードごと三百六十度回転して地面に着地するというバックサイドビッグスピンが展開された。

 愁の場合高身長なのもあってジャンプすると高さがプラスされる筈なのに、そんなもの気にしてもいない様子でどんどん技が切り替わっていく。

 さっきよりは難易度は下がるものの、ボードに乗りながら自分の腹がある前部分に回転するというフロントサイドフェイキービッグスピンへと移る。背後に回るタイプもあって、それをバックサイドフェイキービッグスピンという。その二つを連続でこなしていた。

 ——ヤバい、今日もカッコいい! 背中に目がついているみたいだ。

 一度足を止めてボードを手にしても、まるで無邪気に戯れているようで、それだけでも尊くて悶える。
 今日はショービットタイプと呼ばれているものを中心に、ボードを横に回転させる技を色々と見せて貰えた。

 そこで初めて気がつく。バックサイドの技は、体育のバスケで佐藤からの嫌がらせを跳躍して交わした動きに似ていたからだ。

 ——そか、愁にとってバスケもスケボーをしているのと同じ感覚だったんだ。

 肌に馴染んだ動きがとっさの判断で出ていたのだろう。それを活かせる実力も技術も長けているのだから、佐藤の動きは止まって見えたのかもしれない。勝手に感動しては顔がニヤけた。

「光流、顔緩みすぎだから」

 フッと笑いを吹き出される。

「愁がカッコ良すぎるのが悪いよ。スケボー出来るって凄いしスポーツ万能すぎ! 僕の推しが今日も最高に良かった」
「光流って本当一人で楽しそうだよね。見てて飽きない。あ、ちょっと流し過ぎたね。時間が」
「ギリギリまで一緒にいちゃダメ……かな?」

 まだ一緒にいたかった。
 ベンチの上に置いた手に、同じように隣に腰掛けた愁の手が微かに触れる。

 ——あ、手……。

 今日はやはりどこか愁との距離が近すぎる気がしたけど、否定されるのが怖くて聞けなかった。
 触れ合っている小指も熱い気がして、頭の中まで茹だる。

 ——本当に何なんだろね、このドキドキは。
 顔が熱い。心音がおかしい。気まずさと恥ずかしさで愁の顔が見れない。ここのところ、愁との距離感が掴めなくて困っている。またこういった気持ちの対処方法さえもどうしたらいいのか分からなくて微動だにせずに固まってしまった。

「光流? 眠い?」
「へ、あ……ごめん。違うよ。考え事しちゃってボーッとしてただけだから」
「そう?」
「うん。だからもう少しだけ一緒にいたい」
「ん、わかった」

 言ってしまえばまた「恋愛感情も含まれる?」と問われるかなと思っていたけれど、そうでもなかった。もし愁に距離を置かれてしまったら耐え慣れそうにない。

「光流は休日はずっとバイトなの? 空いてる日はある?」
「うちは二週間ごとにシフト出してるんだけど、ちょうど今週末に出す予定だよ。何かあるならそのタイミングで休み取れるよ」
「ショッピング付き合ってくれない? 最近服のサイズと靴のサイズが合わないんだよね」

 まだ育つの? 凄い。自分なんてとっくに止まったままだ。悪あがきはしているけど。一緒に行くとなれば、サイズとか好みとか、推しのデータ取りまくりじゃん。

「いいよ。いついく?」

 スケジュール帳アプリを開くと、愁が覗き込んできた。

 ——どうしよう……推しが近すぎて目眩がするんですけど?

 学校で距離感がおかしいと言われたのを思い出す。友達の距離感ってどんなんだろう? こんな吐息がかかりそうなくらいに近い距離は友達の範囲内? 貧相な経験値では答えが出せないのがもどかしい。

「ここは?」
「大丈夫だと思う。申請出しておくね!」

 ショッピングという名のデートの約束を取り付ける。嬉しくて小躍りしてしまいそうだ。
 元々一時間もないくらいの長さしかなかったので、楽しい時間なんてあっという間に過ぎていく。
 残りの時間はベンチに座って愁と他愛ない会話のやり取りを楽しんだ。



 ***



 愁と一緒に買い物に行くことになって、ウキウキで予定を組んだのは良い。問題が発生している事に気がついたのは次の日だった。自室のベッドの上で頭を抱える。

 ——僕のバカ、どうしてすぐに気が付かなかったの⁉︎ どうしよう。着ていく服がない。

 浮かれすぎていて、これまでに誰かとどこかへ出かけた試しがないという事をド忘れしていた。

 ——ええ……っ、どうしよう。

 出かけるのは来週だしその前に買いに行こうか悩む。
 バイトに行く時も制服か部屋着に近いラフなものしか着て行っていないのだ。美咲や滋と出かける時もラフな格好のままだった。
 何度か買ってくれようとした事はあったが、その度にサイズアウトするまではこのままでいいと自分から断っていた。

 ——やっぱり買いに行く?

 その前に明日は金曜日だ。バイト帰りに公園で愁と待ち合わせる手筈になっている。

 ——それとも、正直に服がないからって言ってラフな感じで行く?

「ムリ」

 あの全身の偏差値が高過ぎる推しの横に立てる気がしない。顔を何とかするのはさすがに無理があるけれど、せめて服装くらいはちゃんとしたい。
 悩んでいるうちに夜中になっているのが分かって、急いで電気を消すなりベッドの上に転がって布団をかぶった。




 次の日学校へ行くと愁は先に来ていて、いつものように席の上に突っ伏していた。

「おはよー……」
「おはよ。て、どうかしたの? 寝不足?」
「出かける日に着ていく服の事考えてたら夜中になってて……」

 そこまで言って、しまったと思い口を噤む。

「ふーん。ねえ、光流。デート楽しみだね」
「デー……っ⁉︎」

 ——何でこんな時だけ髪かきあげてまで視線合わせるかな……。

 十点と書かれた手旗を上げたい。
 この顔にも、仕草にも、笑い方一つ一つ全てに参っている。それと、やはり気のせいではないのかもしれない。言葉でも自分を萌え殺そうとしてるのがハッキリと分かった。

 ——これ以上僕をハマらせてどうしたいんだろう……。

 愁の意図は読めないが、このままだと永遠に手離せなくなってしまう。もう既に愁のいない昔みたいな生活には戻れない気がした。想像すら出来ないからだ。

「愁さ、この間から……凄いセリフばっか言ってくるけど、態とだよね? 僕をどうしたいの?」

 何だか胃がキリキリと痛みを発してきて、思わず聞いてしまった。

「このまま光流がオレから離れられなくなればいいとは思ってる」
「へ……」

 ——はい。無事、昇天出来ました。

 もう手遅れだ。
 それにこんな求め方はズルい。顔にどんどん熱が籠ってきて熱いし、心臓が暴れている。不整脈もヤバい。語彙力なくなりそう……。
 慌ててバッグを漁りはじめた愁が大きめのフェイスタオルを出したかと思いきや頭から被せられた。

 もしかして自分はいま人に見せられないくらいに酷い表情でもしているんだろうか。それはそれでショックだ。

「光流はしばらくの間そのままね。そんな顔、オレ以外に見せないで。とりあえず落ち着いて」

 ——いや、逆に落ち着かないよ。

 タオルから愁と同じ匂いがしていて、推しと同じ匂いにつつまれてて落ち着けという方が到底ムリな話である。再度昇天しそうだ。

「村上くん体調悪いのかな?」
「いや、これは供給過多からの尊死コースじゃないの?」
「あり得る」

 教室内ではさっきから女子たちの会話が聞こえていて、コチラの会話にも聞き耳を立てているのが手に取るように分かる。悪意ではない。興味津々という類いの視線なのでそのまま放置していた。

 自分は心ゆくまでタオルの中に埋もれて堪能していると、中にグシャグシャに丸められたルーズリーフの紙を押し込められた。

『デートしたら、そのままオレの部屋に泊まりに来る?』

 と書かれていたので目を瞠った。

 ——お願い、トドメ刺さないで……っ!

「いいの? その前に愁……僕で遊び過ぎだよ」

「光流なら家来ても構わないよ。それに光流の百面相って見てて楽しいんだよね」
「推しに遊ばれている! う…………、好き」

 愁が笑いを吹き出す。

「オレは推しが出来た事ないから分かんない。でも光流なら推してもいいかも」
「え、嫌だ」

 即答した。

「勝手に人を推しといて自分は拒否るって何? 我儘かよっ」

 再度思いっきり笑われてしまったが、嫌なものは嫌である。その前に自分には愁みたいに推せる箇所は皆無だ。

 性格は多分変よりの普通、顔も普通、スタイルは一般的な男子校生の並以下、頭脳も並以下、運動神経は中の中くらい。足が少し早いだけだけど、愁の足元にも及ばない。それの一体何を推すというのだろう。

「愁と僕じゃ住んでる世界が違うよ。天性的なカリスマ要素っていうかさ」
「世界で分けるとかそんなん息詰まるからマジでやめて。オレは光流と一緒でいい」

 ただでさえも緩く結んでいるネクタイを緩めて、愁がボタンをもう一つ開ける。
 息がしやすいようにしたんだろうけど、男の色気がダダ漏れで目のやり場に困る。視線を逸らした。

 ——待って……何で逸らす必要があったの?

 推しのそういう写真を撮る根性くらいはあってもいいと思う。愁のせいで思考回路がぐちゃぐちゃだった。




 いったん学校で別れた愁と公園で待ち合わせてスケボーを堪能した後で二人で家に帰った。

 夜食に近い夕食を終わらせて部屋へ向かったのはいいけれど、いつもと違ってこの部屋の中に二人っきりでいるのが何処となく気まずい。しかもベッドの上で横並びに座られるともっと気まずい……。

「あのさ、愁……」
「どうかした?」

 聞き返されて、思わず愁の顔を見上げた。

 ——この角度の推しも尊いっ。

 さっきまで考えていた事が全て吹っ飛んだ。両手で顔を覆う。

「愁の顔が良過ぎて全部飛んだ!」
「あはは、ありがと。光流に言われるのは嬉しい」
「何で? 初めはあんなに照れっ照れな感じだったのに、何で最近急に路線変更してきたの?」

 うーん、と目を閉じて愁が唸る。それさえも尊くて視線を逸らさずに見つめた。

「少し前に光流に恋愛感情含む? て聞いてからかな。その後知り合いと電話してて、オレがそうなりたいからでしょって言われて、ああそうかもって納得したらなんか色々吹っ切れたというか……。オレ、学校で言った通り元々バイだし。でも光流がそういうんじゃなかったって言うなら、無理強いはしないから安心して? その代わりオレは光流にそう見て貰えるように本気でいくけどね。んじゃ、おやすみ」

 髪の毛をグシャリとかき混ぜるように頭を撫でられて、愁が自分の布団の中に戻っていく。しばらくの間、放心状態になる。

 ——え?

 なんか色々言われた気がするけど、頭の中をどう整理して良いのか分からなくて、考えが上手く纏まらない。

 反対側を向いている愁の耳は相変わらず赤くて、あんなに凄いセリフを言ってきたくせに照れてるのだとすぐに分かった。
 逆にさっきの言葉が全て本心なのだと伝わってきたのもあって余計に恥ずかしくなってくる。

 ——さっきのって遠回しな告白……でいいのかな?

 いや、違うでしょ。とすかさず自分自身に突っ込む。誰よりもカッコよくて一目惚れした推しから好かれているかもなんてきっと夢に違いない。どう考えても推しが自分を好きになる要素を見つけられなくて、心が無になった。

 ——推しが好きすぎてとうとうヤバい次元に来ちゃった?

 その日は全然寝付けなくて、気を失うように意識がなくなった後、気がつけば昼過ぎになっていた。
 隣に布団一式が畳まれて置かれている。もう愁の姿はなくて、慌てて一階に降りた。

「こんな時間まで寝ちゃっててすみません!」
「ふふ、昨日はゲームして寝てなかったって? 友達と遊ぶ時くらいはこれくらい羽目を外していいと思うの」

 昼食を食卓に並べながら美咲が笑んだ。そこにはもう滋も座っていて、隣の椅子を引かれる。

「ここに腰掛けるといい」
「ありがとうございます。あの……愁は」
「知り合いと会う用事があるからって朝早くに帰ったわよ」
「そうなんだ」

 少し安心したような寂しいような何とも言えない気持ちになった。三人で昼食を終え、バイトへ行く支度を始めた。



 ***



 休みが明けて学校へ行くと、毎度の事ながら愁は机の上に突っ伏して寝ていた。
 ここまで来るのが早いと何時に起床して何時に登校しているのかとても気になる。

 ——ちゃんと夜寝ているんかな?

 歩いていって席に腰掛けると、愁が顔を上げた。

「おはよ」
「愁、おはよ。て、何時から来ているの? いつも早すぎじゃない? ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ。三時間くらい」

 全然寝てなかった。三時間しか寝てないのによくそこまで大きく育ったなと感心すらしてしまうくらいだ。

「いや、もっとちゃんと寝て⁉︎ いつも何してんの?」
「ベッドの上でゴロゴロ? 光流がいると寝れるかも。ショッピングより先にうちにくる? 添い寝して」

 ——添い寝⁉︎ 僕の心臓が確実に止まる自信しかないんだけど?

 心臓の前に意識が飛びかけた。
 それを見ていた愁がケラケラと腹を抱えて笑っていて、揶揄われたのだと分かっていてもその顔があまりにも尊すぎて、写真を撮ってスマホに収めた。五年は寿命が伸びた気がする。愁に向けて合掌すると「ねえ、拝まないでくれない?」と、さすがに引かれた。

「もうすぐ修学旅行だね。班とかどうする?」
 誰かの声が聞こえてきて、そちらに視線を向ける。

 ——班か。修学旅行、愁と一緒の班で一緒の部屋がいいな。

 修学旅行へ行くにあたって一つ不安要素がある。小学生で行った研修や修学旅行で夜間に発作が出た事があるからだ。

 中学生の時は出なかった気がしたので大丈夫だとは思うけど、あまり安心はできない。
 一人思案していると、一人の男子生徒が足早に近づいてくるのを察して目を合わせる。井口という名前の生徒だった。

「なあなあ、村上と海堂さ、修学旅行の時俺らの班にならない? ちょうど二人居ないんだけど俺らの班ってさ、あの……一緒にいるの嫌がられるんだよね。お前らも二人一緒がいいだろ? な?」

 困ったように微笑まれる。
 どういう意味なんだろうと待機している三人をみると、言いたい事が何となく理解出来た気がして「あー」と小さく声を出す。
 彼らはそれぞれがクラス内でも有名なカップルだ。きっとカップル二組の間に居づらいのだろうと推測できた。

「愁、どうする?」
「光流に任せる」
 それなら良いだろう。自分としても他のメンバーがカップル同士で動いてくれたら気兼ねなく愁と一緒に行動出来るのもあって嬉しい。
「じゃあ、一緒になってもいいかな? 僕は部屋も愁と一緒がいい」
「おう! 任せろ! 寧ろ有難いし嬉しい!」
 まだホームルームで話題に上がっていないのに、早々と班が出来てしまった。



 ***



 ——やってまいりました。お泊まりデートの日です。

 しかもその後愁の部屋に初お泊まりだ。この部屋には何度も泊まっているが、人の部屋で見せる顔と自分の部屋で見せる顔というのは違うものだろう。

 どんな部屋でどんな顔を見せてくれるのか想像するだけで頭が爆発してしまいそうで、ベッドのスプリングに何度も額をぶつけて弾ませる。

「違う。単なるお泊まりだからっ! いかがわしくないからっ! それは妄想!」

 自室の中で一人でノリツッコミしてみる。

「妙な妄想ばっかしてるし僕行かない方が良いんじゃないかな?」

 推しを汚している気がして妙に後ろめたい。
「でも、ちょっと周りには見せられないような推しの表情とか……? 撮る一択‼︎」
 だからダメだってば。そんな写真撮ってどうするの? 自問自答で葛藤してばかりで最後に賢者タイムに入った。
「やっぱりお泊まりは断ろう……」
「何してんの、光流。ドタキャンは許さないから」

 背後から愁の笑いを含んだ声がして思いっきり身をすくませた。
 とうとう幻聴が聞こえるようになったのかと思ったけれど、違ったらしい。そこには愁が立っていた。

「なに光流、オレのエッチぃー顔が見たいの?」
「エッチ……っ⁉︎ 違っ、さっきのはそういう意味じゃなくて……その……っ」

 しどろもどろで答えると愁が意地悪に笑んで見せた。

「なんだ、違うんだ。オレはそっちの意味でも良かったのに」
「ちょっ、愁‼︎ あまり揶揄わないで!」

 今日は一段と輝いて見えるのはちゃんとした私服姿だからだろうか。髪の毛もちゃんとセットされていて、耳にピアスが開いている。

「あ……耳、開けてたんだ?」
「うん、中学生の時から開いてる。こういうの嫌?」
「ううん、死ぬほど似合ってるしカッコいい。なんか大荷物だね」

 愁が大きめの紙袋を手をしているのを見て、声をかけた。

「家にあった服色々持ってきたから光流にあげる」
「え、本当に⁉︎ 嬉しい。でも僕には大きいんじゃないかな?」
「大丈夫だと思うから試しに着てみて」

 だから先に家に寄ってくれたんだと思うと嬉しかった。
 床の上に座り込んで中身を取り出していく。中にはドライヤーみたいなものとスタイリング剤がいくつか入っていた。

「これは?」
「コテとワックス。あとは部分的に色をつけるやつ。洗うと落ちるから大丈夫だよ。オレが全部やってあげる」

 服は着回しききそうな物ばかりで、一週間分はあった。指定された服に着替えると、愁が髪の毛にスタイリング剤を持ち込んだ後で、コテと呼んだ物に手を伸ばした。全体的に少しだけ髪の毛を巻かれていく。

「愁、何してるの?」
「光流の髪の毛にカールつけてる。人って髪型一つで結構変わるもんだよ?」

 まあ、それは愁を見ていれば分かる。素の愁とウィッグ頭の愁は全然違って見えて初めて知った時は驚いたからだ。
 ただ瞳の奥の熱というか、意志の強そうな眼差しは変わらなかった。だからこそ気がつけたんだけど。

 髪を巻いた後で無造作にかき混ぜられる。今度は毛先だけ強調するように別のワックスをつけられ、最後に青色をした太いペンみたいなのを部分的に入れられた。

「あ、ヤバ……気合い入れすぎたかも」
「え、もしかして似合わない?」

 愁が口元を押さえたまま横に首を振る。

「そうじゃなくて……逆というか……」
「どういう意味?」
「光流、オレ以外と出かける時があっても出かけないでね」
「支離滅裂なんだけど?」

 どこか挙動不審になっているのが面白くて愁を見上げて視線を絡ませた。すると見る間に愁の顔が赤くなっていったので、そのご尊顔をまたスマホに収める。

「照れてる愁の顔って可愛いよね」

 大きな手の平が視界を覆った瞬間、頬に温かいものを押し当てられた。

「何?」
「何でもない。ほら、準備終わったから行くよ」

 腕を引かれて立ち上がらせられる。スマホと財布だけをバッグに入れたとこで腕を引かれて一緒に一階へと降りた。