君の背中に恋をした

【5話】

『こんな何もないところで待っていても、若者は暇で仕方がないだろ。どこかで時間を潰してきなさい』

 おじいさんに言われて、僕と奏介は店を出ると顔を見合わせた。

「時間を潰せって言われてもなー……」

「どうしたものか……。喫茶店でも行くか?」

「うーん。俺、ああいう静かなところ苦手なんだよな……。碧斗は行ってみたいとこないのか?」

「行って、みたいところ……」

 奏介に聞かれ、僕は一か所だけパッと頭に浮かんだ。

「どこでもいいのか?」

「ああ。碧斗が行きたいなら、どこへでも連れてってやるよ」

 任せろというように胸を張って叩く奏介が、僕にはとても逞しく見えた。

「それじゃあ……」
 
 
 
「すごい。本当に海だ……」

「なんだよ、その感想ー。海見るのが初めてみたいに聞こえるぞー」

「初めてではないんだが……子どものとき以来だから新鮮で」

 奏介の後ろに乗せてもらいながら、左手に見えた海を僕はじっと見つめた。

 微かに感じる潮の香りと、絶え間なく聞こえる波音。

 それは正しく、テレビでよく見る風景そのものだった。

「そういやー碧斗のクラスは学園祭でなにやるんだー?」

「え? なに?」

「学園祭! クラス何やるんだー?」

「ああ! うちは縁日だ。奏介のクラスはお化け屋敷だろ?」

「そうそう。でも、本当は遊園地作りたかったんだよなー」

「遊園地?」

 学園祭の出し物で遊園地というのは聞いたことがなく、僕は首を傾げてしまう。

「ジェットコースターを自分たちで作れるらしくてさー。あれ、乗ってみたかったんだよなー」

「えー嘘だー。そんなの無理だろ」

「ほんとだってー。おっと、あそこに停めるぞー」

 浜辺の近くにあったバイク専用の駐車場に到着して、僕はバイクから降りてヘルメットを外すと、大きく息を吸い込んだ。

「へぇー。潮の香って、本当にするんだな!」

「碧斗。興奮して、声デカくなってるぞ」

「えっ! う、嘘ッ」

 僕は慌てて口元を隠すように手で押さえて、辺りを見渡した。

 駐車場には奏介のバイク以外にも何台か停めてあったが、近くに誰もいなかったため、僕は安堵の溜め息を漏らした。

「そんなに興奮するほど喜んでるなら、連れてきた甲斐があるな」

 フルフェイスのヘルメットを脱いだ奏介は、僕と同じように息を大きく吸い込んだ。

「んー、懐かしい。っと言っても先月ぶりだけどなー」

「先月……夏休み中にここへ来たのか?」

「ん? ああ。やっぱ、夏休みっていったら海が定番だろ。俺なんて泳ぎにも来たし、海の家で単発のバイトもしたぞ」

「へー。僕は今年も塾の夏期講習ばかりだったからなー……」

 考えてみれば海はもちろん、花火などの夏らしいことからも疎遠だった。

「なんだよ、青春してないのかー。それなら来年……」

 奏介は突然言いかけたため、僕は首を傾げる。

「来年……? ああ、大学に入ったら遊べるようになるかもしれないな。そしたら、またここに連れてきてくれるか?」

「あ、当たり前だろ!」

(あっ……)

 僕は考えなく口にしたが、来年は同じ高校でないのだから、奏介と接点がなくなってしまうことに気が付いた。

(奏介はきっと、そのことに気付いたから言いかけたのか。けど、僕は……)

 波の音が聞こえる海を、僕はそっと見つめた。

(来年も奏介と一緒に来たいな……)

 昨日初めて言葉を交わしたばかりなのに、僕の中で奏介の存在が、とてつもなく大きくなっていることに気付かされる。

(僕は……)

「せっかくだから、もう少し波の近くまで行ってみようぜ。ほら、メット寄越せ。邪魔になるだろ」

「あ、ああ……」

 借りていたヘルメットを奏介に渡すと、僕はもう一度、少し離れた場所に見える海を見つめた。

(来年もまた、ここに来られる……? 奏介と……)
 
 
 
「砂浜に下りるなら、靴も靴下も脱いで裸足になっておいたほうがいいぞ。めっちゃくちゃ砂が入るから」

「ああ。それもそうか」

 奏介に言われた通り、ローファーと靴下を脱いで手に持つと、僕と奏介は砂浜に裸足で下りたった。

「うわぁ……なんともいえない感触……」

(足の裏に砂を感じるなんて、それこそ海へ最後に来た、子どもの時以来な気がする)

「なんか、悪いことしている気分にならないか?」

「ああ、たしかに。罪悪感に近いような……」

「嫌か?」

 奏介の質問に、僕は大きく首を横に振った。

「楽しい。奏介、連れてきてくれてありがとうな」

 僕は満面の笑みを向けると、奏介は照れたように僕から顔を逸らした。

「べ、別に……またいつだって連れてきてやるよ」

「本当か?」

「ああ」

「約束だぞ!」

「子どもかよっ! ほら、せっかくなら海にも足だけ入ってこうぜ」

 奏介が波打ち際を指差したため、僕は大きく頷いた。

 僕と奏介は制服のズボンの裾を何度も折り曲げてスネの辺りまで持ち上げると、砂浜に靴を置き、押しては引いていく波に近づいていった。

「いくぞ!」

「せーの!」

 奏介と僕は互いに合図して、波に向かって一歩踏み出した。

「冷たっ」

「うわっ! 思ってた以上に冷たいな」

 足首まで浸かってみたが、水温は思っていた以上に冷たく、僕と奏介はすぐに砂浜に引き返した。

 気付けば日は傾いて、空がオレンジ色に染まってきていたが、こんなにも海が冷たいと僕は思わなかった。

「ここで奏介は泳いだのか?」

「ああ。でも、あんときは死ぬほど暑かったけどなー。海も温水プールみたいだったぞ」

「へぇー。だ……」

(僕は一体何を言おうとして……)

 思わず誰と来たのかと聞きそうになり、僕は口を瞑んで口元を手で覆い隠した。

(奏介はカッコいいし、イイやつだ。きっと友だちも多いし、もしかしたら他校に彼女も……。いや、それならどうして僕にキスなんて……。それともキスなんて奏介にとって、挨拶なのか?)

 僕は急に、胸に穴がぽっかりと空いたような気持ちになった。

(ああ……)

 ふと、自分だけが特別なんだと思い上がっていたと、僕は現実を突きつけられたような気がした。

「ん? どうしたんだ碧斗?」

「いや、なんでもない! なんでもないんだ!」

 首を横へ何度も必死に振ってから、僕は少し冷静になりたくなり、もう一度海に入ろうと大きく一歩踏み出した。

「あっ! バカ! 近づきすぎだ!」

「えっ……?」

 奏介の制止する声に驚いて、僕は振り向く。

 だがそのとき、ちょうど大きめの波が後ろから来て、せっかくスネの辺りまでたくし上げていたズボンが、少し濡れてしまった。

「あーあ……」

 呆れたような奏介の声に、僕は急に自分が情けない存在に思えてしまう。

「……ッ」

 なぜか胸が潰されそうなほど痛い。

(こんなの初めてだ)

 どうしていいかわからず、僕は俯いてその場に立ち尽くしてしまった。

「えっ……! ちょ、ちょっとたんま!」

 奏介は慌てて僕に駆け寄って海に入ると、僕の背中に腕を回した。

「と、とりあえず上がろう。な?」

(ああ、奏介まで濡れて……)

 僕のせいで奏介まで濡れてしまったことに気付いた僕は、心配して顔を覗き込んでくる奏介の顔を見ることができず、首を横に振ることしかできなかった。

「ほら! 大丈夫だから」

 奏介は僕の手を取ると、引っ張るようにして波から離れさせた。

「どうしたんだ? 制服濡らしたのを怒られるのが怖いのか? だったらうちで乾かしてから……」

 俯く僕の顔を、また心配そうに覗き込んでくる奏介。

 僕は奏介の顔を見られないまま、また胸が痛いほど締め付けられた。

(僕は何を期待して、勘違いしていたんだ。奏介の特別になんてなれるはずもないのに……)

「ちがう……。なんでもないんだ……」

「なんでもないはずないだろ。ちゃんと顔を……」

 奏介が僕の頬に触れようと手を伸ばしてきたため、僕は咄嗟に奏介の手を叩いてしまう。

 叩いた手は思っていた以上に力が入ってしまい、勢い余って近くにあった奏介の顔に当たってしまった。

「いって……」

「あ、ごめっ……」

 僕は慌てて謝ろうとすると、奏介は乱暴に僕の腕を掴んで自分へと引き寄せた。

「やだ! 離してくれ……!」

 奏介の胸に抱き留められると、そのまま逃がさないと言われているかのように、強く抱き締められてしまう。

「落ち着けって……な?」

「やだ、離してくれ!」

「……! 離すわけないだろ! 離さないからな絶対に!」

 奏介は僕を抱き締める腕に、もっと力を込めた。

「離せってこれ以上言うなら、俺は今から海にダイブしてくるぞ」

「……!」

 奏介なら本当にやりかねないと、僕は抱き締められながら必死に奏介の制服の背中を掴んで止めた。

「言わない! わかった、言わないからやめてくれ!」

「ついでに、なんで泣きそうなのかも言わないとダイブしてくるぞ」

「そ、そんなのずるいじゃないか! これは脅迫だ!」

 僕は抱き締められながら顔を上げると、至近距離で奏介と目が合った。

 奏介は眉間に皺を寄せて、明らかに怒った顔をしていた。

「奏介……」

「脅迫? なんとでも言え! 俺はお前のこと心配してんだ! わかってんのか?」

「心配……?」

(僕のことを……?)

 こんなときに不謹慎だと思いながら、僕は胸が高鳴ったのを感じた。

「だー! もう、わけわかんねー!」

 奏介は叫び、僕の髪を両手で掻き乱すと、僕の頬を両手で包み込むようにして挟みこんだ。

「なに、惚けて嬉しそうな顔してんだよ! 意味分かんねーよ!」

「し、してない! そんな顔、断じてしてないぞ」

 僕は恥ずかしくて必死に首を横に振ろうとするが、顔を押さえられているため、無理矢理奏介を見つめ続けることになってしまう。

「ほら、言え! 何でさっき、泣きそうになったんだ?」

「……」

 言いたくないと、無言で首を横に振ろうとするが、それさえもできないため、僕はついに観念した。

「誰と……来たんだろうって思ったんだ……」

「どこにだよ?」

「ここにだよ! 夏に来たって言ってただろ!」

「誰って……甥っ子だよ」

「えっ……」

「俺、姉ちゃんが二人いるんだ。一番上はちょっと年離れてて、その子供。夏休みにこっち遊びに来たから、連れてきてやったんだ」

「お、甥っ子……」

 僕は足の力が抜けて、その場で膝をついてしまった。

「あっ! おいっ!」

 心配そうな顔で僕と同じように膝をつく奏介に、僕は思わず安堵の笑みを零した。

「よかった。彼女じゃなかったんだな」

「……!」

 奏介は驚いた顔をした途端に、真剣な表情になった。

「俺が彼女と来てたらヤダって思ったのか……?」

「あ、ああ……」

「俺に……彼女はいないって言ったら、安心するか?」

「あ、ああ……ん?」

 まるで誘導尋問のような質問をされて、僕は戸惑いながらも答えてしまう。

「俺に……キスされたら、嬉しいか?」

「……!」

(そんなの……)

 質問には答えなかったものの、僕の頭の中で答えは瞬時に浮かんでいた。

(嬉しい……)

 答えは簡単だったが、僕は答えられなかった。

 もし素直に答えてしまったら、僕の世界が全て変わってしまうような気がしたから。

「ああ、クソ……」

 奏介はなにか苛立ったように僕の肩を掴むと、勢いよく唇を重ねてきた。

 いつの間にか日が落ちて、辺りは暗い中、僕たちは何度も唇を重ねた。