【3話】

「おーい、碧斗」

「う、うわ!」

 授業が終わり、移動教室の準備をしようと机の中から教科書やノートを出そうとしていたところで急に背中を叩かれ、僕は大きな声を出して驚いてしまう。

 そのせいで、クラス中の視線を集めてしまった。

「なんだよ。そんなに驚くことか? 俺、来るって言っておいたよな?」

「い、言ってたが、もう少し静かに近づいてきてくれ!」

「えー、いいじゃん。会いたかったんだし」

(あ、会いたかった……って、えっ?)

 丹野の言葉に僕は動揺して、思わず顔を俯かせる。

 すると、近くの席のクラスメイトが丹野の肩に腕を回した。

「おいおい、奏介! あんまりうちの真面目クンを苛めんなよ」

「苛めてねーよ! だいたい俺は、大事な任務があってきたんだよ。邪魔すんな」

 肩に回された腕を外させると、丹野はクラスメイトにあっちへいけと手で合図した。

「へいへい。じゃあなー物部、先行ってるぞー」

(えっ、僕の名前知ってるのか)

 ほとんど話したことのないクラスメイトが、僕の名前を知っていることに、思わず驚いてしまう。

(彼はたしか、林くんだったような……あとで座席表を見て確認しよう)

 僕の名前を覚えてくれているのに、彼の名前を把握していないのは悪いと思い、あとできちんと把握しようと思った。

「碧斗ー。そろそろ急がないと、まずいんじゃないのかー」

「ハッ! そうだった! って、本当に急がないと予鈴がなってしまう!」

 僕がぼーっとしているうちに、教室には誰も残っていない状態だった。

「本鈴なるまでセーフだろ」

「いや、事前に準備を済ませるための予鈴だろ。本鈴は授業を始める合図なのだから」

「頭固いなー。教師だって、本鈴と同時になんて授業始めないだろ?」

「そうかもしれないが……って、こうしてはいられない」

 丹野に構っていると本当に授業に遅れてしまうと、僕は慌てて教科書とノート、そしてペンケースを手に持って立ち上がった。

 だが、ペンケースのチャックがしまっていなかったことに気付かず、中に入っていたシャープペンシルが数本床に転がってしまう。

「ああっ!」

「ったく。何してんだよ。急いでるんじゃなかったのか?」

 肩を竦めた丹野がしゃがみ、僕のシャープペンシルに手を伸ばす。

 だが、僕も同時にしゃがんで手を伸ばしていたため、丹野と顔が途端に近くなってしまう。

 ふと、朝にキスをされたことを思い出し、僕は思わず身体を引いてしまった。

「えー……ちょっと傷つくんだけどなー……」

 丹野は眉を下げて、悲しそうな顔をしながら、拾ってくれたシャープペンシルを僕に差し出してきた。

「す、すまない! 今のは……ちょ、ちょっと驚いただけで……」

 なぜか声が震えてしまいながら、僕は差し出されたシャープペンシルを受け取って、ペンケースに戻した。

「なんだ。碧斗はビビりなんだな」

「び、ビビリではない!」

「ふーん。ほら、急ぐぞ」

 丹野は僕の腕を掴むと、先行して誘導するように引っ張った。

「だ! 大丈夫だ! 僕は一人で歩ける!」

 まるで小さい子を連れて歩くときのようで、僕は恥ずかしくて腕を離してもらおうと必死に左右に振るが、丹野は離してくれなかった。

「丹野!」

「ほらほら。足元危ねーから、気を付けてついてこいよ」

「うう……」

 僕は諦めて、丹野に腕を引かれながら移動教室先の化学実験室に向かった。

「林と仲良いのか?」

「えっ……? 林? あ、ああ。やっぱり彼は林くんという名前だったか」

「えっ! なに? クラスメイトの名前も覚えてないのか?」

「うっ……」

 痛いところを突かれ、僕は足を止めて丹野から顔を思わず逸らしてしまう。

「使うことがあまりなくてだな……」

「名前を使うことないってお前なー。まあ、碧斗らしいっちゃ、碧斗らしいか。じゃあ、俺の名前は?」

「えっ……」

 丹野は僕に振り返ると、目を輝かせていた。

「丹野」

「違う。下の名前」

「……奏介」

「正解!」

 僕が名前を呼ぶと、奏介は満面の笑みを浮かべた。

 すると、僕の胸の奥で何か熱いものが湧き上がるような感覚を覚えた。

(奏介……)

「よし。走るぞ!」

「えっ! わっ! ええ!」

 丹野、いや奏介は、僕の腕をまた引っ張って走り始めた。

 掴まれた腕は教室を出た時よりも、強くしっかりと掴まれていた気がした。

「なあ。もう一回、俺の名前呼んで!」

「えっ! どうして?」

「いいから! ほら!」

 僕は仕方なく名前を呼んだ。

「奏介!」
 
 
 
 
「碧斗ー。一緒にメシ食おうぜー」

「……」

 午前の授業が終わった、昼休み。

 僕はいつもの通り一人でお昼を食べようと、スクールバッグからお弁当を取り出したとき、奏介が僕の席までやってきた。

「そ、奏介」

 誰かのファーストネームを呼ぶことなんてなかった僕は、奏介の名前を呼ぶだけで恥かしさを感じてしまう。

「あ、あのさ……。僕、裸眼が全く見えないってわけじゃないから、そこまで心配しなくても大丈夫なんだが……」

「なんだよ。そんな淋しーこと言うなよ。まあ、俺が一緒に食いたいだけだから気にするなって」

(気にするって!)

 奏介は僕の気持ちなんてお構いなしに、ラップに包まれた拳サイズよりも一回り大きいおむすびを二つ手に持ったまま、朝のように空いていた僕の前の席に座った。

「誰かと食う約束してんの?」

「別に、そんなことはないが……」

「だったらいいじゃん」

 強引に押し切られた気がしたが、抵抗してもしょうがないと僕は心の中で溜め息をついて、弁当箱の蓋を開けた。

「しかし……でかいな、そのおむすび。そして実にシンプルだ」

 ふりかけで混ぜご飯になっているわけでも、のりで巻いてもいない、本当にシンプルな白飯のおむすびだった。

「だろ? 俺が幾多の試練を乗り越えて辿り着いた、究極の節約飯だ。こんぐらいねーと、夜まで持たねーしさ。あー腹減った。いただきまーす」

 奏介は大きな口を開けて、おむすびを食べ始めた。

「幾多の試練ってなんだよ」

 僕は少しだけ笑いながら、箸入れから箸を取り出して手を合わせた。

「いただきます」

 食べ始めると、奏介が僕の顔をじっと見つめていることに気が付いた。

「なんだよ」

「いや、笑うとまた綺麗だなーって」

「ば、バーカ。一体どこを見てるんだ。ほら、唐揚げやるからこっちを見るな」

「マジ! ラッキー! あーん……」

 奏介は僕に向かって口を開けてきたが、僕は箸で掴んでいた唐揚げを、奏介の大きなおむすびの上へ器用に置いた。

「ざんねーん。でも、いただきまーす」

 肩を竦めた奏介は、僕がおむすびの上に置いた唐揚げを一口で口の中に頬張った。

「そういえば、さっき節約って言ってたか?」

「ああ。俺、金貯めてんの。昔から、どうしても欲しいバイクあっからさー」

「へぇー。あのバイクだって、かっこいいのに。ん?」

 僕はふと思い出した記憶を確かめるため、胸ポケットにしまってある生徒手帳を取り出した。

「すげぇ……生徒手帳なんて持ち歩いてるヤツ初めて見た……」

「いや、普通……って、やっぱりうちの学校って免許……」

 生徒手帳の中に書かれている校則を捲って探すと、やはり、免許取得は禁止としっかり書かれていた。

「あー、固いこと言うなって」

 奏介はバツが悪そうに、僕から生徒手帳を奪い取った。

「お金を貯めていると言っていたが、まさかアルバイトも……」

「うーん。まあ、単発をちょいちょいなー。バレない程度に。すげー、これって意外と色々書いてあるんだな。カレンダーまであるのかー」

 まるで内容を初めて見るかのように、奏介は興味津々で生徒手帳を捲っていった。

「奏介はすごいな……」

「えっ……? あ、おととっ」

 僕は素直な気持ちを吐露すると、奏介は驚いたのか、手から生徒手帳を落としそうになる。

「あ、アブねー。一体、どうしたんだよ?」

「いや。奏介は自分でお昼を作って、バイトして、免許もとって……。僕には到底なしえないことを、やってのけているんだなって尊敬したんだ」

 僕は奏介を尊敬の眼差しで見つめると、奏介は顔を赤らめて頭を掻いた。

「尊敬って、まさかそんな風に言われると思ってなかったから照れるな。てっきり碧斗に怒られると思ったけど」

「僕が怒る必要性はないだろ。だが、くれぐれも見つからないようにな。書いてある通り、どちらも停学処分ものだ。まあ、無論。僕は口外するつもりはないが」

「ッツ……! アハハッ! ほんと、碧斗っておもしれーヤツ」

 奏介が笑い出したため、僕はなぜ奏介が笑っているのかわからず、首を傾げてしまう。

「おもしろい……? 変じゃなくてか?」

「変? 変っていうなら、俺のほうが勝ってるだろ?」

 悪戯した子どものように笑う奏介に、僕は心を弾ませていることに気が付いた。

「はじめてそんなこと言われた……」

「そうなのか? みんな見る目ねーな」

「……!」

 嬉しくて、でも恥ずかしくて、僕は慌てて弁当のおかずをいくつも口の中に頬張った。

「そういや、授業はどうしてたんだ? ここの席でホワイトボード見えるのか?」

 奏介は僕の席と教室の前に設置されているホワイトボードを見比べた。

「いや、さすがに見えなかった。だから事情を話して、放課後に各教科の先生に今日の分のノートを写させてもらうつもりだ」

「あちゃー……。俺がさっさと気付けば良かったなー。失敗した。ごめんな気付かなくて」

「奏介は悪くない。元々は僕が眼鏡を壊したのがいけないんだ」

「いや、眼鏡は俺の責任だろ。うーん、放課後は眼鏡屋に連れてきたいんだけどなー……そうだ! んー……あ、林ー」

 奏介は思いついたように手を叩くと、近くで何人かとお昼を食べていた林くんに向かって手を振った。

「んー、なんだー?」

 奏介に呼ばれた林くんは、食べかけの弁当を持ったまま、僕たちのところにやってきた。

「悪いんだけどさー。今日の分のノート、放課後コイツに貸してやってくんね?」

「えっ!」

 奏介が急に言い出したことに僕は焦ってしまう。

「そ、そんな悪いって」

(急にそんなこと頼んだら、ずうずうしいって)

「別にいいけど」

(えっ!)

 僕の心配を他所に、林くんは迷うことなく頷いてくれた。

「サンキュー。俺がコイツの眼鏡壊しちまったからさー。放課後、眼鏡屋連れてかなきゃなんねーの」

「なにやってんだよ、奏介。ああ、それで眼鏡してなかったのか。物部も可哀そうになー」

「えっ、あっ……僕は別に……」

 こんなに長くクラスメイトと話したことがなかった僕は、思わず顔を俯かせてしまう。

「おいおい、林。碧斗を苛めんなよ」

「苛めてねーよ。じゃあ、放課後に今日の分全部貸してやるよ。どうせ、物部なら家帰ったら勉強するんだろ? 俺は使わないから明日返してくれよ」

「あっ、ありがとう……」

「んー。じゃあなー」

 林くんは嫌な顔一つせず、そのまま席に戻っていった。

「これで放課後は空いたな」

 奏介は食べ終わったおにぎりのラップを手で丸めると、僕に満面の笑みを浮かべた。

 僕の胸はまだドキドキしたままだった。