(なんて、いい人だったんだろう)
僕はいつも通りバスを使って駅に向かい、そこから電車に乗って学校に到着した。
誰もいない教室に一番乗りするのが昔から日課の僕は、窓際の自分の席に座って、校庭を見つめながら昨日のことを考えた。
『明日会いに行くから』
彼に耳元で囁かれた言葉が、昨日から何度頭の中で繰り返されただろうか。
模試の最中は必死に集中することで忘れることができたが、終わってからは彼のことで頭がいっぱいだった。
(いつ、どこで会いに来てくれるのだろう)
僕は朝、家を出てから、ずっと周りをキョロキョロ見渡してしまっている。
必需品の参考書も手に持ってはいるが、開くことさえないほどに。
(はぁー……。おかげで僕は、周りから不審者に見られたような気がするよ)
だが、そんなことはどうでもいいと思うほど、僕は胸を高鳴らせながら、いつ声をかけられるのだろうと心待ちにしていた。
しかし、僕が学校に到着するまでの間、彼が現れることは残念ながらなかった。
「あーあ……もう一度会いたかったな……」
僕は誰もいない教室で独り言を呟くと、机に腕を伸ばして突っ伏し、顔を埋めた。
(社交辞令……いや、いくら社交辞令っといっても、会いに行くとは言わないだろ……)
ピンチを救ってくれたヒーローに、もう一度会いたい。
こんなふうに胸がソワソワするのは、まるで映画のヒロインになったような気分だった。
(あーあ。やっぱり、もう会えないのか……。いや、朝とは言われてないんだし、もしかしたら帰りに! でも……)
僕は深い溜め息をつくと、教室のドアを勢いよく開ける音がした。
「おっと……」
誰かが登校してきたと、僕は突っ伏していた身体を慌てて起き上がらせると、いつものように机の中から参考書を取り出した。
そして、机の上に広げて俯き気味に見つめた。
これがいつもの僕のスタイルだ。
話しかけるなオーラを全開にして、挨拶なんてさせない。
(そう。されないじゃなくて、させないんだ)
誰に言い訳するわけでもないのに、ずっとこんなことを僕は続けている。
(自分で言っていて情けないと思うが、仕方ない。これこそが、自分が傷つかないための処世術だ)
高校三年の秋にも関わらず、僕には友だちと言える存在は一人もいない。
だって、作る必要性を感じなかったから。
この県内屈指の進学校に入学したのは、良い大学に行くためだ。
勉強以外、何も必要ない。
そうやって僕は今まで過ごしてきた。
(両親は好きなところにいけば良いと言ってくれるが、選択肢は多いに越したことはない。僕みたいに、夢も決まっていない人間は特に)
「……あっ!」
(えっ……!)
何かを見つけたような声が聞こえ、僕は思わず参考書から顔を上げて、声のした方に顔を向けてしまう。
すると、入口に立っていた人物とバッチリ目が合ってしまった。
入口の扉を開けて立っていた声の主は、クラスメイトではなく隣のクラスの有名人だった。
(あれは……たしか丹野だったか? 一体うちのクラスに何の用事だ? しかも、こんな朝早く……。ヤンキーは遅刻ギリギリがお決まりじゃないのか?)
見た目で勝手なイメージを作り、先入観を持つのはよくないと分かっている。
だが、隣のクラスの丹野は、僕とは真逆の世界を生きるヤツだ。
校則を無視した金髪にピアス。
ネクタイはせずにワイシャツのボタンは全開で、いつも派手なTシャツを中に着ている。
一匹狼のような風貌だが、慕う友人が多いようで、いつも誰かが一緒にいる。
苦手意識を持っているだけなので申し訳ないのだが、関わりたくない人物であるのは変わりなかった。
(誰か探しに来たのか? 生憎こんな早くに登校しているのなんて僕くらいだぞ)
僕には関係ないと呆れるように肩を竦めて、視線を参考書に戻した。
「おい……」
「えっ……!」
(ぼ、僕?)
慌ててもう一度顔を上げると、丹野はいつのまにか僕の横に立っていた。
(えっ、えっ、僕に用? 一体何かしたか? まさか学校でカツアゲ?)
間近で見る丹野は長身でガタイも良く、どう頑張っても僕は戦って勝てそうになかった。
だが、僕も負けてはいられないと、丹野を見上げるように睨みつけた。
「お、お金ならないぞ! 校則に金銭の持参は最低限と書かれているだろ?」
「は? 何言ってんだよ。変なヤツだなー」
丹野は笑いながら僕の前の席に、後ろ向きで跨って座った。
(ん……? なんだかこの声、聞き覚えがあるような……)
すると、丹野はワイシャツの胸ポケットから何かを取り出した。
咄嗟に僕はタバコかと思ったが、取り出したのは眠気覚まし用のダブレットだった。
「これのおかげでここまで来れたわー。マジ助かった」
そう言って、丹野はタブレットケースから粒を二つほど取り出すと口に放り込んだ。
「ん……?」
僕は丹野が手にしているタブレットに見覚えがあり、ある可能性に気が付いた。
「も、もしかして……」
「会いに行くって、言っただろ?」
楽しそうに、でも優しく笑うその目元は、まさに昨日見た彼と同一人物だった。
「模試の結果はどうだったんだ?」
「模試って……えっ! えっ? う、嘘だろ! 昨日助けてくれたのは、丹野だったのか?」
僕は驚きのあまり、座っていた椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「なんだ、俺の名前知ってたのか」
すると、丹野は嬉しそうに顔全体で満面の笑みを浮かべた。
「……!」
その笑顔があまりに嬉しそうで、僕の胸は高鳴ってしまう。
だが、昨日僕を助けてくれたヒーローが、まさか丹野だったという事実に僕は驚きを隠せなかった。
驚きというよりも、ショックのほうが大きかった気もするが、僕は力が抜けたようにストンと椅子へ座り直した。
「前にオール明けで朝一学校来たとき、どっかでお前のこと見たような気がしたんだよなー。まさか隣のクラスだったなんて、手間が早々に省けてよかったわ」
僕の机に頬杖をついて、丹野は僕の顔をじっと見つめてきた。
「寝たらぜってー間に合わねーと思って、徹夜したんだぜ。おかげで、コレがあって助かったわ」
丹野は手に持っていたタブレットケースを振って、僕に見せつけるように音を立てると、またワイシャツの胸ポケットにしまった。
「へ、へぇー……」
(本当に昨日助けてくれたのは丹野だったんだ……そっか……)
あんなに会いたかったはずなのに、彼が丹野だったという事実は、やっぱり僕をなんともいえない気持ちにさせた。
(ん……?)
ふと、丹野が今話していたことが気になった。
「徹夜って……僕に会うため……その、探すために寝てないのか?」
「そうだ」
「それで、僕を探すために校内を回ろうとしてたのか? 全クラスをか?」
「ああ。でも考えてみたら、模試なんて三年しか受けないんだから、三年だけ見ればよかったんだなー。あっぶねー、危うく一年から探すとこだったわ」
(僕を探すために、わざわざ寝てなくて……しかもこの広い校内を探そうとしてたのか?)
うちの学校は今どき珍しい男子校で、それも人気の理由なのか、一学年六クラスまである。
それを全学年の全クラスを見て回って、僕を探そうとしていたなんて驚きだった。
(そこまでして僕のことを……)
僕の存在を探そうとしてくれていたことに嬉しくなり、僕は心臓の鼓動が速まって頬が熱くなるのを感じた。
「い、いや。模試は一年も二年も受ける奴は受けるぞ」
平常心を装うとするが、思わず声が上擦ってしまう。
「ふーん。そういうもんか。俺には無縁だからなー。それで、名前はなんて言うんだ?」
「えっ……?」
「名前だよ名前」
「あ、ああ……」
そういえばお互い名前も名乗っていなかったことに、丹野から言われてやっと気が付いた。
「僕は物部碧斗だ。物置の物に部屋の部、紺碧の碧に北斗七星の斗だ」
「碧斗かー。綺麗な名前だな」
「えっ……あ、ありがとう……」
丹野は純粋に褒めてくれたため、僕は思わず照れ臭くなってしまう。
「俺は丹野奏介。えーっと……丹波の丹に、野原の野。演奏の奏に、介は……紹介の介な」
「演奏の奏に、紹介の……ああ、なるほど」
僕は頭の中で奏介という漢字を思い浮かべた。
「なあ? 碧斗は俺のこと怖い?」
「えっ……?」
「いや、緊張しているみたいだからさ。やっぱ、この見た目だと怖いか?」
俺に手を伸ばし、目に少しだけかかる僕の前髪を、丹野は指先に絡めてそっとどかした。
「べ、別に……。キミのことは怖くはないが……」
あまり関わったことがない、というより、友だちがいない僕には、どう接したらいいのかわからないというのが本音だった。
だが、そんなことを正直に言うわけにはいかず、僕は口を閉ざしてしまう。
「なあなあ、その武士みたいな喋り方が標準なのか? 俺、キミとか人生で初めて言われたわ」
「えっ……変か?」
「変と言うより……カッコいい? 俺は好きだぞ」
(好き……好き? えっ……!)
僕は慌てて身体を後ろに逸らして、丹野から距離を取ってしまう。
「なんだよ。その反応……」
「えっ! いや、だって……」
「昨日は碧斗の焦って必死な顔しか見てなかったけど、こうやって見ると、お前って随分整った顔してんだな」
丹野は僕に手を伸ばしてきて、僕の眼鏡をそっと奪った。
「お、おい。それがないとなにも……」
(えっ……)
言いかけて止めたのは、丹野の顔が近づいてきたからだった。
目の前に丹野の顔があると認識したときには、唇が重ねられていた。
(う、嘘だ……これって……)
キスをされていると気付いたときには、もう丹野の唇は離れていた。
「目、閉じないのか?」
僕の目を覗き込むように見つめてくる丹野が、昨日、フルフェイスのヘルメットから微かに見えた目と同じだと気付き、僕は目が離せなくなった。
「閉じるものなのか……?」
世間一般の普通が分からなかったため、僕は真面目に質問をすると、丹野はフッと息を吐き出すように笑った。
「確かめてみたら? なんか違うかもしんないぞ」
そう言って、丹野は嬉しそうに顔をまた近づけてきた。
だが、僕は慌てて丹野の口に手を当てて押し返した。
「なんで僕にキスなんてするんだ?」
「ん? したかったから」
答えになっているような、なっていないような返事で、僕は呆れるように深い溜め息をついた。
「僕を揶揄って楽しいか? それともこれは嫌がらせか?」
「違う。好きだからだ」
「はっ……?」
「一目惚れなんだ。だから……」
「ふ、ふざけるのも……!」
僕は揶揄われてると思い、両手で机を拳で叩いた。
「ん……?」
だが、片方の手に当たった感覚は机ではなかったことに気付き、僕は恐る恐る手元を確認した。
「う、嘘だろ……」
いつのまにか丹野によって外されていた僕の眼鏡が机に置かれていて、僕は気付かずに眼鏡のツルの部分を折ってしまった。
「あらら……」
「ど、どうしてくれるんだ……これじゃあ……」
「安心しろって。俺が責任持ってやるからさ」
丹野は嬉しそうに笑みを浮かべていた。
僕はいつも通りバスを使って駅に向かい、そこから電車に乗って学校に到着した。
誰もいない教室に一番乗りするのが昔から日課の僕は、窓際の自分の席に座って、校庭を見つめながら昨日のことを考えた。
『明日会いに行くから』
彼に耳元で囁かれた言葉が、昨日から何度頭の中で繰り返されただろうか。
模試の最中は必死に集中することで忘れることができたが、終わってからは彼のことで頭がいっぱいだった。
(いつ、どこで会いに来てくれるのだろう)
僕は朝、家を出てから、ずっと周りをキョロキョロ見渡してしまっている。
必需品の参考書も手に持ってはいるが、開くことさえないほどに。
(はぁー……。おかげで僕は、周りから不審者に見られたような気がするよ)
だが、そんなことはどうでもいいと思うほど、僕は胸を高鳴らせながら、いつ声をかけられるのだろうと心待ちにしていた。
しかし、僕が学校に到着するまでの間、彼が現れることは残念ながらなかった。
「あーあ……もう一度会いたかったな……」
僕は誰もいない教室で独り言を呟くと、机に腕を伸ばして突っ伏し、顔を埋めた。
(社交辞令……いや、いくら社交辞令っといっても、会いに行くとは言わないだろ……)
ピンチを救ってくれたヒーローに、もう一度会いたい。
こんなふうに胸がソワソワするのは、まるで映画のヒロインになったような気分だった。
(あーあ。やっぱり、もう会えないのか……。いや、朝とは言われてないんだし、もしかしたら帰りに! でも……)
僕は深い溜め息をつくと、教室のドアを勢いよく開ける音がした。
「おっと……」
誰かが登校してきたと、僕は突っ伏していた身体を慌てて起き上がらせると、いつものように机の中から参考書を取り出した。
そして、机の上に広げて俯き気味に見つめた。
これがいつもの僕のスタイルだ。
話しかけるなオーラを全開にして、挨拶なんてさせない。
(そう。されないじゃなくて、させないんだ)
誰に言い訳するわけでもないのに、ずっとこんなことを僕は続けている。
(自分で言っていて情けないと思うが、仕方ない。これこそが、自分が傷つかないための処世術だ)
高校三年の秋にも関わらず、僕には友だちと言える存在は一人もいない。
だって、作る必要性を感じなかったから。
この県内屈指の進学校に入学したのは、良い大学に行くためだ。
勉強以外、何も必要ない。
そうやって僕は今まで過ごしてきた。
(両親は好きなところにいけば良いと言ってくれるが、選択肢は多いに越したことはない。僕みたいに、夢も決まっていない人間は特に)
「……あっ!」
(えっ……!)
何かを見つけたような声が聞こえ、僕は思わず参考書から顔を上げて、声のした方に顔を向けてしまう。
すると、入口に立っていた人物とバッチリ目が合ってしまった。
入口の扉を開けて立っていた声の主は、クラスメイトではなく隣のクラスの有名人だった。
(あれは……たしか丹野だったか? 一体うちのクラスに何の用事だ? しかも、こんな朝早く……。ヤンキーは遅刻ギリギリがお決まりじゃないのか?)
見た目で勝手なイメージを作り、先入観を持つのはよくないと分かっている。
だが、隣のクラスの丹野は、僕とは真逆の世界を生きるヤツだ。
校則を無視した金髪にピアス。
ネクタイはせずにワイシャツのボタンは全開で、いつも派手なTシャツを中に着ている。
一匹狼のような風貌だが、慕う友人が多いようで、いつも誰かが一緒にいる。
苦手意識を持っているだけなので申し訳ないのだが、関わりたくない人物であるのは変わりなかった。
(誰か探しに来たのか? 生憎こんな早くに登校しているのなんて僕くらいだぞ)
僕には関係ないと呆れるように肩を竦めて、視線を参考書に戻した。
「おい……」
「えっ……!」
(ぼ、僕?)
慌ててもう一度顔を上げると、丹野はいつのまにか僕の横に立っていた。
(えっ、えっ、僕に用? 一体何かしたか? まさか学校でカツアゲ?)
間近で見る丹野は長身でガタイも良く、どう頑張っても僕は戦って勝てそうになかった。
だが、僕も負けてはいられないと、丹野を見上げるように睨みつけた。
「お、お金ならないぞ! 校則に金銭の持参は最低限と書かれているだろ?」
「は? 何言ってんだよ。変なヤツだなー」
丹野は笑いながら僕の前の席に、後ろ向きで跨って座った。
(ん……? なんだかこの声、聞き覚えがあるような……)
すると、丹野はワイシャツの胸ポケットから何かを取り出した。
咄嗟に僕はタバコかと思ったが、取り出したのは眠気覚まし用のダブレットだった。
「これのおかげでここまで来れたわー。マジ助かった」
そう言って、丹野はタブレットケースから粒を二つほど取り出すと口に放り込んだ。
「ん……?」
僕は丹野が手にしているタブレットに見覚えがあり、ある可能性に気が付いた。
「も、もしかして……」
「会いに行くって、言っただろ?」
楽しそうに、でも優しく笑うその目元は、まさに昨日見た彼と同一人物だった。
「模試の結果はどうだったんだ?」
「模試って……えっ! えっ? う、嘘だろ! 昨日助けてくれたのは、丹野だったのか?」
僕は驚きのあまり、座っていた椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「なんだ、俺の名前知ってたのか」
すると、丹野は嬉しそうに顔全体で満面の笑みを浮かべた。
「……!」
その笑顔があまりに嬉しそうで、僕の胸は高鳴ってしまう。
だが、昨日僕を助けてくれたヒーローが、まさか丹野だったという事実に僕は驚きを隠せなかった。
驚きというよりも、ショックのほうが大きかった気もするが、僕は力が抜けたようにストンと椅子へ座り直した。
「前にオール明けで朝一学校来たとき、どっかでお前のこと見たような気がしたんだよなー。まさか隣のクラスだったなんて、手間が早々に省けてよかったわ」
僕の机に頬杖をついて、丹野は僕の顔をじっと見つめてきた。
「寝たらぜってー間に合わねーと思って、徹夜したんだぜ。おかげで、コレがあって助かったわ」
丹野は手に持っていたタブレットケースを振って、僕に見せつけるように音を立てると、またワイシャツの胸ポケットにしまった。
「へ、へぇー……」
(本当に昨日助けてくれたのは丹野だったんだ……そっか……)
あんなに会いたかったはずなのに、彼が丹野だったという事実は、やっぱり僕をなんともいえない気持ちにさせた。
(ん……?)
ふと、丹野が今話していたことが気になった。
「徹夜って……僕に会うため……その、探すために寝てないのか?」
「そうだ」
「それで、僕を探すために校内を回ろうとしてたのか? 全クラスをか?」
「ああ。でも考えてみたら、模試なんて三年しか受けないんだから、三年だけ見ればよかったんだなー。あっぶねー、危うく一年から探すとこだったわ」
(僕を探すために、わざわざ寝てなくて……しかもこの広い校内を探そうとしてたのか?)
うちの学校は今どき珍しい男子校で、それも人気の理由なのか、一学年六クラスまである。
それを全学年の全クラスを見て回って、僕を探そうとしていたなんて驚きだった。
(そこまでして僕のことを……)
僕の存在を探そうとしてくれていたことに嬉しくなり、僕は心臓の鼓動が速まって頬が熱くなるのを感じた。
「い、いや。模試は一年も二年も受ける奴は受けるぞ」
平常心を装うとするが、思わず声が上擦ってしまう。
「ふーん。そういうもんか。俺には無縁だからなー。それで、名前はなんて言うんだ?」
「えっ……?」
「名前だよ名前」
「あ、ああ……」
そういえばお互い名前も名乗っていなかったことに、丹野から言われてやっと気が付いた。
「僕は物部碧斗だ。物置の物に部屋の部、紺碧の碧に北斗七星の斗だ」
「碧斗かー。綺麗な名前だな」
「えっ……あ、ありがとう……」
丹野は純粋に褒めてくれたため、僕は思わず照れ臭くなってしまう。
「俺は丹野奏介。えーっと……丹波の丹に、野原の野。演奏の奏に、介は……紹介の介な」
「演奏の奏に、紹介の……ああ、なるほど」
僕は頭の中で奏介という漢字を思い浮かべた。
「なあ? 碧斗は俺のこと怖い?」
「えっ……?」
「いや、緊張しているみたいだからさ。やっぱ、この見た目だと怖いか?」
俺に手を伸ばし、目に少しだけかかる僕の前髪を、丹野は指先に絡めてそっとどかした。
「べ、別に……。キミのことは怖くはないが……」
あまり関わったことがない、というより、友だちがいない僕には、どう接したらいいのかわからないというのが本音だった。
だが、そんなことを正直に言うわけにはいかず、僕は口を閉ざしてしまう。
「なあなあ、その武士みたいな喋り方が標準なのか? 俺、キミとか人生で初めて言われたわ」
「えっ……変か?」
「変と言うより……カッコいい? 俺は好きだぞ」
(好き……好き? えっ……!)
僕は慌てて身体を後ろに逸らして、丹野から距離を取ってしまう。
「なんだよ。その反応……」
「えっ! いや、だって……」
「昨日は碧斗の焦って必死な顔しか見てなかったけど、こうやって見ると、お前って随分整った顔してんだな」
丹野は僕に手を伸ばしてきて、僕の眼鏡をそっと奪った。
「お、おい。それがないとなにも……」
(えっ……)
言いかけて止めたのは、丹野の顔が近づいてきたからだった。
目の前に丹野の顔があると認識したときには、唇が重ねられていた。
(う、嘘だ……これって……)
キスをされていると気付いたときには、もう丹野の唇は離れていた。
「目、閉じないのか?」
僕の目を覗き込むように見つめてくる丹野が、昨日、フルフェイスのヘルメットから微かに見えた目と同じだと気付き、僕は目が離せなくなった。
「閉じるものなのか……?」
世間一般の普通が分からなかったため、僕は真面目に質問をすると、丹野はフッと息を吐き出すように笑った。
「確かめてみたら? なんか違うかもしんないぞ」
そう言って、丹野は嬉しそうに顔をまた近づけてきた。
だが、僕は慌てて丹野の口に手を当てて押し返した。
「なんで僕にキスなんてするんだ?」
「ん? したかったから」
答えになっているような、なっていないような返事で、僕は呆れるように深い溜め息をついた。
「僕を揶揄って楽しいか? それともこれは嫌がらせか?」
「違う。好きだからだ」
「はっ……?」
「一目惚れなんだ。だから……」
「ふ、ふざけるのも……!」
僕は揶揄われてると思い、両手で机を拳で叩いた。
「ん……?」
だが、片方の手に当たった感覚は机ではなかったことに気付き、僕は恐る恐る手元を確認した。
「う、嘘だろ……」
いつのまにか丹野によって外されていた僕の眼鏡が机に置かれていて、僕は気付かずに眼鏡のツルの部分を折ってしまった。
「あらら……」
「ど、どうしてくれるんだ……これじゃあ……」
「安心しろって。俺が責任持ってやるからさ」
丹野は嬉しそうに笑みを浮かべていた。


