【1話】

 今思えば、あれは運命の出会いだったのかもしれない。

 そんなことを伝えたら、どんな顔をするだろう。

 恥ずかしそうに頬を染めるか。

『バーカ』と言って、笑いながら僕の髪を搔き乱すか。

 どちらであっても変わらないことがある。

 僕が幸せだということだ。
 
 
 
(な、なんでこんな大事な日に! こんなことが!)

 僕、物部碧斗(もののべ あおと)にとって、今日は大事な模試の日だった。

 高校三年の夏休みが明けて、すぐに行われる全国統一模試。

 今回の模試では夏期講習の成果を発揮して、合格圏内判定をもらわなければ、ランクを下げるしかなくなる。

 なので僕は、この模試でなんとしてでも結果を残さなければならなかったのだ。

(それなのに!)

 僕は人生最大のピンチに襲われていた。

(ああっ! 来ない! なんでバスが来ないんだ! しかもこんな日に!)

 目覚ましをかけたはずのスマホは、電源プラグがうまく刺さっていなかった結果、充電されずに電池切れ。

 ふと、目を覚ました時には、すでに出発予定時刻。

 慌てて制服に着替え、腕時計をつけて最寄りのバス停留所になんとか到着するも、予定のバスには間に合わず。

(た、たしか次のバスに乗っても、ギリギリ間に合う計算だったはず。大丈夫、大丈夫だ)

 自分を落ち着かせるように言い聞かせて、バス停に置かれたベンチで、参考書を開きながら座って待つ。

 だが、二十分に一本のペースでくるはずの駅に向かうバスが、到着予定時刻を過ぎても来なかった。

「な、なんでだ!」

 状況を確認しようと調べようにも、スマホの電源が切れてしまっているので、確認できるのは腕時計の現在時刻のみ。

 他に待っている人もおらず、聞くこともできない。

(どうしよう、どうしよう……)

 僕がソワソワしながら時計と睨めっこをしていると、後ろを通り過ぎるカップルの会話が聞こえてきた。

「すぐ近くで交通事故だってさ」

「だから交通止めになってたのね。こわーい」

(う、嘘だろ……)

 僕は膝から力が抜けそうになり、すぐ近くにあった、時刻表が貼り付けてあるポールを掴んだ。

(お、終わった……。いや、諦めるわけには……走って駅まで行けば……)

 駅までは、ここから走って二十分。

 そこからうまく乗り継いで電車に乗り、会場まで走っても総合で五十分はかかる。

 腕時計を見つめて到着時刻を逆算するが、どう頑張っても試験開始時刻には間に合わない。

(直線距離なら、それほど時間のかからない場所なのに……そうだ! なら、タクシーは?)

 僕は慌てて辺りを見渡す。

(って、こんな駅から離れた郊外の住宅街にタクシーが通りかかることもないし、考えてみたら持ち合わせの余裕もない!)

「あーもうっ! どうしたら!」

 頭がパニックで、僕は思わず声に出してしまう。

(うう……)

 声に出したら感情が溢れて、なんだか惨めな気持ちになり、涙で視界がぼやけた。

(泣いたことなんて幼稚園以来一度もないのに……でもどうしたら……)

 そのとき、一台の大型バイクが、僕の前を大きなエンジン音をさせながら通り過ぎていった。

(バイク……。そうだ!)

 引っ込み思案ないつもの僕だったら思いつかないことが頭に浮かび、僕は慌てて走り出した。

「待って! 助けてください!」

 どんどん遠ざかっていくバイクを、僕は必死に大きく手を振って追いかけた。

「待って! お願いします! 僕を……!」

(お願いだ! 気づいてくれ!)

 エンジン音で掻き消され、僕の声なんて相手に届くはずもなかった。

 だか、それでも僕は気づいて欲しいと、必死に叫んで追いかけ続けた。

「う、嘘……」

 僕の存在に気づいたのか、バイクは突然歩道側に寄って止まった。

(や、やった!)

 止まってくれたことに安堵し、僕は足を止めて膝に手をつくと、肩で息をした。

「はぁ……はぁ……」

 おそらく、こんなに必死で走ったことは人生で一度もない。

「……くっ」

 息が乱れたままで足が震えているが、僕は奥歯を噛み締めて力を振り絞り、急いでバイクへと走り寄った。

「はぁ……はぁ……す、すみません! あ、あの……! バイクに乗せてくれませんか?」

 フルフェイスのヘルメットにライダスーツを着ていて、性別、年齢ともに不明。

 しかも初対面の人に、僕は突然何をお願いしているんだろうと思いながらも、なりふり構っている場合じゃなかった。

「お前……」

「えっ……?」

(あれ? 結構若い……?)

 昨今、若者のバイク離れが深刻なんてニュースを見たような気もするが、ヘルメット越しの声は若い男性だった。

 だが、フルフェイスのヘルメットは反射して僕の顔を写すだけで、相手の顔まではよく見えなかった。

 彼はバイクのエンジンを切ると、バイクから降りた。

 そして、僕の前に立った彼は、百七五センチある僕よりも少しばかり背が高かった。

「バイク、乗りたいのか?」

「は、はい! 実は、どうしても遅れるわけにはいかない模試があるんですけど、バスが来なくて……」

「それは、俺に送ってっけってことか?」

「うっ……」

(言われてみれば、すごいことを頼んでいるよな……)

 聞き返されて、どれだけ無茶で自分勝手なお願いをしているのか痛感する。

(でも、背に腹は変えられない!)

 僕は慌てて、深々と頭を下げた。

「お願いです! どうか、どうか……僕を助けてください!」

 目を瞑って頭を下げたまま彼の反応を待っていると、ガサゴソと何かを漁る音がしてきた。

(ああ、ダメか……)

 立ち去る準備を始めたのだと僕は判断して、肩を落としながら顔を上げる。

「ほらよっ」

「えっ……」

 彼は僕に、頭だけを隠す小さなヘルメットを差し出してくれていた。

「眼鏡は落としたら危ねーから、外してカバンに突っ込んどけよ」

「えっ? えっ? メガネ?」

 状況が理解できず、僕は手渡されたヘルメットと彼を交互に見比べてまう。

「どうすんだ? 乗るのか? 乗らないのか?」

「の、乗ります! あ、ありがとうございます!」

(助かった!)

 あまりに嬉しくて、僕は思いっきり顔を緩めて安堵の笑みを溢してしまう。

「……! ほ、ほら。乗るならさっさと準備しろよ。置いてくぞ」

「は、はい!」

 ヘルメットを僕は慌てて頭に乗せて、顎の下でベルトを止めた。

 そして、言われた通りにメガネを外すと、カバンからメガネケースを取り出してしまい、カバンの奥にしまった。

「バイク乗るの、初めてか?」

「は、はい!」

「それじゃあ、そこに足かけて跨ったら俺に掴まれ。すぐ出発するぞ」

「はい!」

 彼に言われた場所へ、ぼやける視界で足をかけると、僕はバイクの後ろに跨った。

(うわー、結構高いんだ)

 思っていたよりも座る位置が高く、なんだかドキドキしてしまう。

 それに、見慣れた近所の景色が、ぼやける視界でさらに少し違う世界に思えた。

 そんなことを考えていると、彼もバイクに跨り、ハンドルを握った。

「乗ったんだったら、さっさと俺に掴まれ。振り落とされるぞ」

「は、はい!」

(掴まるってどこを? いや、なにかで見たことあるような……。たしか、自転車の後ろに乗るときは、こんな感じだったような……)

 僕は迷った結果、遠慮がちに彼のライダースの両脇腹辺りを指先で摘むように握った。

「ばーか! そんなんじゃ落ちるぞ。しっかり俺に掴まれ」

「えっ、ええっ!」

 急に腕を掴まれて引っ張られると、僕は彼を後ろから抱き締めるような形にさせられた。

 抱きついたことなんて子どものとき以来の僕は、途端に心臓の鼓動が跳ね上がってしまう。

(う、うわ! ど、ど、ど、どうしたら!)

「あ、あの……!」

「どこにいけばいいんだ?」

「えっ……?」

「会場はどこなんだ?」

「え、えっと……栄登大学で!」

「よし。飛ばせば三十分ってとこだな。落ちるのだけは勘弁しろよ」

 彼は鍵を捻ってエンジンをかけると、エンジンの低い音が耳と体に響く。

(う、うわぁ)

 慣れない感覚から不安に襲われ、僕は彼を後ろから抱きしめる腕に力を無意識に込めてしまう。

「行くぞ」

 彼がハンドルを握って捻ると、バイクは一段と大きな音を出して、そのまま勢いよく走り出した。

(こ、怖い……)

 バイクに乗るのは初めてで、風を切る感覚と、全身で感じるスピードに僕は身震いしてしまう。

 感覚としては、子どものときに連れて行ってもらった、遊園地の子ども用ジェットコースターに近かった。

(考えてみたら、僕ってあれ以来、絶叫系とか乗ってない。あ、あれ? 実はこういう乗り物向いてないんじゃ……)

「うう……」

 恐怖からか、貫通するように感じる風のせいなのか、僕は腕に鳥肌が立つのを感じた。

 そのとき、信号待ちでバイクにブレーキがかかったため、僕は彼の背中に顔をぶつけてしまう。

(あっ……)

 すると、彼の背中から微かに心音を感じた。

 バイクのエンジン音が一番大きく聞こえるはずなのに、彼の心音は服越しでもはっきりと聞こえた。

(僕と同じだ……)

 少しだけ速い心臓の音。

(落ち着く……)

 僕は彼の背中に耳を押し付けるようにして、彼の心音に耳を傾けた。

 その心音に耳を傾けるうちに、僕の恐怖心は自然と和らいでいった。
 
 
 
「着いたぞ」

「えっ……?」

 彼に声をかけられて、僕はやっと模試会場である大学の入口へ到着したことに気が付いた。

 道路脇にバイクを停めてくれたため、僕はバイクから降りると、慌ててヘルメットを外して彼に返した。

「あ、ありがとうございます! この御恩は……!」

『模試受験者は速やかに会場入りしてくださーい。まもなく受付終了時刻でーす』

 大学の門前に立っていた係員の人が、拡声器を使って呼びかけると、会場に向かっていた人たちが一斉に駆け足となった。

「あっ……」

(僕も行かないと……けど……)

 受付の時刻が迫っていることはわかっていたが、ここまでしてもらって何もお礼ができないのも申し訳なかった。

(な、なにかお礼できるもの……。そうだ、たしかポケットに……あ、あった!)

 僕は制服のポケットを漁ると、未開封の眠気覚まし用タブレットを取り出して彼に差し出した。

(いや、こんなもの貰っても困るだけだろ!)

 まだ気が動転していて冷静な判断が出来ていないことに気付いた僕は、差し出した手を慌てて引っ込めようとする。

「す、すみません。こんなもの、もらっても困るだけ……」

(えっ……)

 だが、引っ込めようとした手は彼に掴まれてしまった。

「くれよ。そーれ」

「えっ? あ、はい……」

 彼は僕を掴んでいた手を離すと、僕に手のひらを広げてみせた。

「ほんとにごめんなさい。いつか必ず……」

 広げられた手のひらに、僕は眠気覚まし用タブレットを置いた。

 すると、彼はタブレットをライダースーツのポケットに仕舞うと、フルフェイスのヘルメットのシールドを開けた。

(あっ……)

 初めて目と目が合った。

 目元と鼻の一部しか見えなかったが、それだけでも顔が整っているのがよくわかった。

(なんて……)

 僕は彼から目が離せなくなった。

 彼の目は僕には眩しいほど輝いて見えた。

 そして、引き込まれそうなほど優しく笑っていた。

「明日、会いに行くから」

「えっ……」

 いつのまにか肩を掴まれながら顔を近づけらると、耳元でそっと囁かれた。

(明日……? それって……)

『そこのキミ! 受付時間終了しちゃうよ! 早く中に入りなさい』

 係りの人が親切に呼びかけてくれて、僕はハッとした。

「じゃあな」

 すると、彼はヘルメットのシールドを閉じるとエンジンをかけて、あっという間に走り去ってしまった。

「一体……。って、ぼーっとしてる場合じゃない!」

 慌てて僕は大学の模試会場に向かった。