清々しい気分だった。いつか見た青空の様に。アルの爽やかな瞳の様に。
母は悲しそうな顔をしていた。俺の本心が届いたということだろう。嬉しい反面、悲しい。そんな顔をさせてしまうことが、どうしても。けれど、俺の口はよく滑ってしまうようだ。
「俺、ずっと考えてたことがあるんだ」
「……なに?」
これを言ったらまた傷つけてしまう。そうわかっているけれど、きっと今言わないといけない。これからの俺のために、そして、そう思わせてくれた、アルのために。
母は涙目だ。その目は俺に向かず、クリーム色のテーブルのどこかを見つめている。
「なんで、生まれてきたんだろう」
そう言って、雫が落ちた。
「俺は欠陥品だ。欠陥品な俺は、こんなにも迷惑をかけて、こんなに悩ませて、こんなに……自分も周りも不自由にして、何のためにいるんだろう」
語弊があるかもしれない。俺はそう感じているだけで、きっと本来の不自由な人はもっといるんだ。その人たちに失礼かもしれない。どこかで誰かが言っていた『不幸を比べるものではない』という言葉が、俺の背中を押す。
「欠陥品だけど、みんなと同じように生まれて、同じように生きてるんだ。同じように学んで、同じように食べてる。みんな、やりたいことを見つけたら一生懸命だよ。……俺もやりたいことのために一生懸命になりたい」
「……お母さん、確かに、あなたから何かをやりたいって、しばらく聞いてなかったわね。子どもの時はあったけど、怪我をするかもしれないと思ったらすごく怖かった。そうして取り上げていって、行き着いた先の美術で安心してたわ。でも、それはお母さんだけだったのね」
「俺を大事にしてくれてるのはわかってたよ。伝わってる。けど、俺には俺の意思があって、欲があって、夢があるんだ」
「……そう、そうよね。一人の、人間だものね」
「うん。俺は忘れかけてたよ。でも、それに気づかせてくれたのがアル……『Re:aru』なんだよ」
アルの手を握った。人間のように柔らかく、肉付きと骨を感じる。
肩を震わせて小さく見える母と同じ人間のようだ。
「アルのおかげで俺は『俺』らしく、俺のらしさを見つけたよ。それは、今まで俺を守ってくれてた母さんや湯田先生たちのおかげで、アルを連れてきてくれた高橋先生のおかげで、アルを生んでくれた天野さんのおかげだ」
警察の人三人を含めた全員を見た。多様の表情で、人の目を意識した瞬間に少しだけ恥ずかしくなった。
強くアルの手を握り直す。心なしか握り返された気も、少し。
体の中の酸素を入れ替える。まっすぐ前を向いて、叫ぶように、声に芯を入れる。
「俺は俺の意思で学校外へ行きました。嘘をついたのと連絡をしなかったのは俺が連れ戻されたくなかったからです。ご迷惑をおかけしてすみませんでした!」
被さる様に頭を下げた。
拍手なんてもちろん起こらない。けれど清々しい、晴れ晴れとした面持ちをしているだろう。
数秒の後に頭を上げても、誰も何も言わない。母の身体の震えも止まっていた。
警察の一人と目が合った。何も言わず、ただ力強く頷いただけだった。視線を逸らし、そして問いかける。
「開発者としてのご意見を頂けますか、天野さん」
視線が集まる。見定めと、訝しみと、無感情。当の本人はなにやら気持ちよさそうな表情で「さてさて」と思いにふけっている。
「諸君らは、言葉というのはどこから学びましたかな?」
出てきた言葉は、果たして自分たちは何をしていたのかと考え直すきっかけになりそうだった。
きっと、そう考えているのは俺だけでは無い。部屋のどこかで「は?」と聞こえたから。
天野さんは得意気にテーブルに両肘を着いては、組んだ指の上に顎を乗せた。
「人間は考え、行動する生き物だ。そしてそれは損得に限らず、感情が大きく左右する。それが理性と本能というものだ。今回の件。Re:aruのマスターである少年は突発ではあったにしろ│そう《・・》させる理由があったのだと私は解釈した。そして逆に、今まで│そう《・・》させない理由もあったのだと察したよ」
ちらり、と視線だけが動く。それは俺ではなく、母に向いている。母は俺からは見えないような顔の向きをしているが、天野さんを見つめているのだろう。
「少年の母よ」
「なんでしょうか」
「貴方は、言葉をどこで学んだ?」
果たして、この質問を人生でされたことがある人間はどれほど要るのだろうか。母はされたことがあるだろうか。あるにしろ、ないにしろ、難しくは無いその質問に答えるには何故か勇気が必要だ。
「……本、でしょうか」
「そう! 本だ。だがそれだけでは無い」
「交流」
「そうだとも! 貴方は人との繋がりで言葉を学んできた、そうですね?」
「ええ、そうです」
「では、彼はどうだろうか」
向けられる視線は、俺に。
天野さん、他の人達、そして母。皆が俺を、色んなものを含めながら見つめてくる。
思わず息を飲んだ。悪いことをしたけれど、今は違う。責められている訳では無いのに、心臓が悲鳴をあげている。
「彼はどれほど学んだ? 高々十数年。だが、その貴重な十数年も、聞くに、色々と制限してきたのだろう」
「この子のためでした。この子が、たった十数年で終わってしまわないように」
「それが親の心というものだ。不正解ではない。それは私が保証しよう。だが、彼がどうしたいのか、貴方は彼の言葉を聞いたことがあるか?」
息を飲んだのは、俺ではない誰かもだった。
手を握ると、握ったままだったアルの指が握り返してきた。
近くにいてくれる安心感。見ずとも感じる存在。短期間でしかない繋がりなのに、誰よりも暖かい。
「人間というものは言葉を介す。物質的に表現出来ない感情、心情もだ。だが、それを表現するには『言葉の力』というものが必要不可欠。誰の目にも見えないそれを本人が理解した上で、だ。それらがどんなものかを知るには、同様の感情に触れるしかない。それは本だったり、誰かの話だったりだ。そう言った『誰かの体験』を知ることで、自分に置き換え、理解する。そうして言葉を増やし、理解し、理解されていくのだ。……さて、少年の母よ」
「はい」
「彼に、それだけの言葉の力は、備わっているか?」
「……」
「彼に、表現の機会を、与えていたか?」
決して責めている声色ではない。だが。だけど。けれど。母の目尻には雫が浮いていた。口は一つに結ばれ、鼻と頬は赤く染まる。こんな表情の母を見るのは……いつぶりだろうか。
「……では本題に戻ろう」
返答を待たずして、天野さんは切り替える。
組んだ指は天井を向き、天野さんの背を吊り上げる。リセットするように腕を大きく広げて円を描き、再び指を組んで、顎を乗せた。
「生活援助型ヒューマノイド、通称『│LAH《ラー》』は、契約者の手助けをするロボット。契約者が「助けてくれ」と言えばそれに全力で答える。もちろん、犯罪を犯さぬよう、最新の六法全書をインストールしてある。それは自動更新であり、個体名Re:aruにも正しく行われているのを確認した。またバックアップも正常である。故に、契約者が希望しなければ、連れ出すことなど有り得ない」
力強い一言が、窓の相手いない部屋に風を起こした。走り去っていったそれは、怒りや悲しみといったものを全て連れ去ったようにも感じる。
隣に座る母は顔を伏せてはいるけれど、母以外は、みんな、晴れやかな表情をしている。
「経緯の説明は以上となりましょうか」
湯田先生が見渡しながら語り掛ける。警察グループはそれぞれで見合い、一人が「事件性はなしと判断いたします」と言った。ここで胸を撫でおろしたのは高橋先生だ。文字通り綱渡り。自分の首や、国の研究も賭けていたんだから。行動には映さずとも表情が物語っている。
警察の人たちが席を立ち、一足早く部屋を後にする。
「ところで」
天野さんは、俺を見ていた。
どことなく威圧を感じる。敵対とか悪いものではなくて、探られているかのような。チーターが獲物の行動を見定め、今か今かと探っているような。
思わず目を逸らしたくなるけれど、そうさせてくれない不思議な魔力。
泣き腫らした目をした母も、肩を強ばらせ、俺と天野さんとの間に身体をねじ込ませる。
その様子を見て、天野さんは息を吹き出した。
「取って食おうというわけではないのだがね」
電動車椅子を操作して、テーブルに囲われた中に入ってくる。俺の前で止まり、真正面から見ている。手が伸びてきた。身体が身構えたが、お構い無しに俺の左胸に添えられた。心拍が伝わっていく。そして、頷いた。
「私の考えを聞いてくれるかい?」
「……どうぞ」
息を吸った。天野さんは口角を上げて、片手で頬杖を着いた。
「君の母は君のことを案じていたね。何処がそんなに心配なのかと気になっていたんだ。君の体の外見上の特変というのは無さそうだ。四肢欠損ではない。それは動きを見ればわかる。では内臓か? 外出を制限するほどのそれはなんだ? 脳腫瘍? いや、それならば治療で痩せているはずだ。副作用の様子もない。つまり違う。腎不全で透析が必要? 腕を見ればカテーテルは入っていないのは明白だ。これも違う。呼吸器もなく、黄疸もなく、ペースメーカーもない。そもそも、学校や数時間の公共交通機関を使って移動できるだけの体力があるのに深刻な内臓の疾患は考えにくい。『安全』を第一に考えるにしたって、母は随分過保護じゃないか。多少の擦り傷ぐらいでは内臓への影響は凡そ考えられない。それこそ、それだけ免疫力が下がっているとするならば、体型もそうだが学校なんてそうそうに行けないだろう。まあ、だからこそ通信制を望んだのかもしれないが、それを選ばなかったから今があるわけだ。そもそもだ。数年に渡って何か治療が必要であったり、何かを患っているのだとしたら、こんなに肉はつかないだろう。では、君の『特殊性』は何か」
ごくり、と。俺は強く息を飲む。
「血液、何かあるのかな?」
母が勢いよく立ち上がる。俺を抱き抱え、天野さんから距離を取った。
されるがまま。呆気にとられた。
「なんで……っ」
「なんで? 少年の母よ。今説明したではないか」
「っ、この子に近づかないで! 誰にも、この子の血液は渡さない!」
「ふむ、誰かの手に渡ることを拒否する。ということは、誰の手に渡っても意味があるものということ。血液も臓器移植と同様の価値があるものだ。それはともかく、RH-や抗体欠損と多少珍しい血液でも、世界に少ないとはいえいない訳では無い。むしろ血液バンクに登録して、いざと言う時に備えるのが通常で正常だ。だが、つまり、少年……」
―― 黄金の血液の持ち主かな?
「……はい」
「な、なんで……!」
「母さん、もう取り乱しても取り乱さなくても、この人にはわかっちゃうんだと思うよ」
何をしても無駄だ。そう考えた。俺は正直に打ち明ける選択肢をとる。否定しても正解までこじつけてきそうだし。
緩んだ母の腕を解いた。天野さんはスッキリした表情で、笑顔を向けている。
「けど、誰にでも輸血できる『全抗体欠損』と揶揄されるものとは少し違います」
「ほう? 一部欠損か? -D-かな?」
「いえ、確かに俺の血液には抗体は何もありません。ただ……」
血液を流してしまえばいちばんわかりやすいのだけど、そうすると母が発狂してしまうだろう。もうこれ以上、母の感情を振り回さないようにしたい。
深呼吸して、犬のように待つ天野さんを見る。
「俺の血の色が、金色なんです」
目を見開いた。口角がより吊り上がり、獲物を見つけた猛獣の雰囲気を漂わせる。
一瞬、身じろいだ。本能が『離れろ』と告げてくる。血の気が引いて頭蓋内がひんやりする傍ら、ガンガンと警笛を鳴らしている。全身の毛穴が開いて水分が吹き出した。けれどそれで済んだのは、湯田先生が天野さんの両肩を抑えていたからだ。
俺の肩に何かが乗った。振り向けば、アルがいた。机を挟んで、目の前の天野さんと湯田先生のようなのだろう。
「天野博士。程々にしてください」
「あぁ、あぁ、すまない。いや本当に」
顔面を自分の手で抑えて声を震わせる人は総じて危険だと思われる。心做しか、アルが込める力は強い。
「よし!」
無理やり落ち着かせたのだろう、天野さんは両頬を叩いた。危険性を取り払った、幾度か見た表情で、天野さんは俺を向かって身を乗り出してくる。湯田先生が肩を抑えたままだけど。
「少年、少年の母よ提案がある」
「提案?」
「研究に協力してくれないか」
それは、また突拍子もない提案。言葉に詰まるのも無理はないだろう。天野さんは「説明しよう」と、先程のように肘を着いては指を組み、顎を乗せた。
「とてもとても内密な話だ」
その言葉を皮切りに、天野さんの背後で高橋先生が動いた。何かを察したのだろう。物音を立てず、静かに部屋を出た。天野さんの後ろには湯田先生と、OAHEが静かに座っている。
枕詞から、数秒開けて。
天野さんは俺の背後を見やる。
「Re:aruには、とある人間の血液を循環させている」
衝撃は、首の動きとなって現れた。
振り向いた先のアルの顔は、もちろんだが真顔以外の何物でもない。ただ、動いた俺を見つめ返すだけ。肯定も否定もないことが、むしろ肯定である。
「私のもう一つの研究テーマがあってね。それはとある病の治療法についてなんだ」
「……薬を作っている、ということですか?」
「それも込みの話だ。対処療法すらも確立されていない。何をどうすれば有用性が出るのか、の段階なんだ」
まあつまりは初期も初期、と軽く言ってのけた。
軽く笑い飛ばす表情は一変し、鋭く、猛禽のような目付きになる。
「とある患者が、記憶を無くすという希少な病に罹っている。それは症例自体が少なく、研究も進んでいない。今までは打つ手もなかった。その病自体は血液型や抗体の有無に関わらず発症することはわかった。患者は希少な血液型だった。少年と同じように輸血が難しいとなると、治療は一般の血液型の持ち主よりも困難な可能性がある。けれど、だからこそ、一つの行動を取ることになった」
「行動……」
「コールドスリープだ。今は見つからなくとも、未来に確立出来れば良いのだと。自分の体をどれだけ使ってもいい。だから、後世に伝えられるよう、調べ尽くしてくれと頼まれた」
「自分を……差し出して……」
「『生贄』ととる人間もいるだろう。そして悪魔と罵る奴もいた。凍りつく前の患者の身体から、血液と造血細胞をできる限り採取した。私はやる。その為に私は、今、ここに居る」
力強い瞳が俺を撃ち抜いた。
銃のように鋭く、無重力のようにゆっくりと。
吹き抜けた胸を風が通り抜けた。その先で草木が揺れる。山の、大地の息吹が鳴き声を上げた。
「それは、この子に何をさせるのですか」
母さんが、小さく声を上げた。
震えなくなったにしろ、声色は天野さんを拒否しているように感じる。当人に気にする様子は無いけれど。
「患者の疾患は血液によるもの。しかし造血細胞には異常は見られなかった。現代の技術では見つけられなかった、と言った方が正しいかもしれないが、それを知る技量も今の我々には無い。だから、別の方向で考えた」
天野さんは、片方の指を、俺の背後に向けた。
「Re:aruに循環機能を導入した。血液を入れ記憶が再生されるのかどうかを調べるためだ。再生されるのならば、一度は外部に排出した血液を輸血することで、記憶を保存し、その疾患の対処療法が出来るからだ。外付けハードディスクと同じ要領さ」
「記憶を、再生?」
「『転移』という言葉を知っているかな?」
「ファンタジーの意味なら。人や物を別の場所にっていう」
「それではないな。医学用語の『転移』とは、物質を介して、元の持ち主の何かを移動させるという意味だ」
「……つまり、どういう」
「心理学で言えば、自身の経験によって形成された感情を特定の相手にぶつけてしまうこと。病理学で言えば、がん細胞が循環した先で別の臓器に根を生やしてしまうこと。そしてもう一つ。臓器移植に関するものでは、移植する前の記憶や趣味、思考が、移植先に移るというものだ。時に水樹少年」
「はい」
「記憶を司るのは脳の海馬だ。それは有名な話で一般論。だが、『転移』という現象がある。なぜ脳ではない臓器に記憶が宿るのか。共通点はなんだろうか」
「共通点……」
専門知識を持たない俺にもわかる問題なのか。
それを前提に考えれば……点と点は繋がる。
俺の中の記憶が、「行こう」という彼女を映し出した。AIなのに。俺が言った訳では無いのに。なぜか、提案してきた。
「私のもう一つの実験。それは、『素体の血液を循環させたAIは、【輸血】によって人格を形成するのか』だ」
アルは誰かの人格を宿して、きっと本人も知らずに、まるで人間のように、接してくれていた。
嬉しいのか悲しいのか、言い表せない複雑な感情。けれど、アルは、確実に。『俺のためを思う人間』として、言葉をかけ続けてくれていたのだろう。そうであると信じたい。
アルを見上げても、相も変わらずだけど、アルであることも、変わらない。
「少年の話を聞くに、私のこの実験の結論は出た。AIとして最善ばかりを選び、推奨するのでは無い。AIから逸脱した言動をしている。それは元の血液の持ち主の人格であるに他ならない。人格は記憶から形成される。その者がどんな環境で、何を感じ、どう判断し、どのように行動したか。血液にはそれらを『記憶』として保存、そしてさらに、『人格』『心』として再生する機能がある。――そこでだ」
自信に満ち溢れた顔つきの天野さんは俺と、母さんと、そしてRe:aruを順に見た。
「水樹少年の血液、そして造血細胞を提供してほしい。血液型関わらず誰にでも輸血できる血液型であり、『黄金』という特殊性は、今まで例にない研究結果を導き出すかもしれない」
何度息と唾液を飲んだだろう。もう乾いてしまって、何を飲んでいるのかわからない。
天野さんは試すように、けれど確固たる意志と自信をもって、俺に、俺たちに提案してきている。
母が俺を大事にしてきたのは今更だ。
常に自分の手の届く範囲にいてほしかった気持ちは理解する。そして、母の手の届く範囲というのは、俺の血液のストックがある場所ということだ。俺は週に一回、この病院で採血している。それは、俺にもしものことがあった時のため。自分の血液を、自分に輸血するためだ。この場にしかない俺に輸血できるそれは、それこそ修学旅行になんて行って何かあったら……間に合うかわからない。俺がこの土地に縛られる最大の理由だ。
「それは、この子に実験台になれ、ということですか?」
母から発せられる剣呑な雰囲気が、室内をピリつかせた。
けれど、意にも介していない様子の天野さんは、小首を傾げた。
「言いようによってはそうだ。けれどもちろん、ただでとは言わない。それは少年の母の不安も払拭させることができると約束しよう」
「……説明を」
指を解いた天野さんは、腕を膝へ下ろした。背もたれに寄りかかり、よりリラックスして話し出す。
「先ほども言った通り、Re:aruには循環機能を搭載している。それは半永続的に観察できるよう、透析機能も兼ねている。そして私は言ったね? 『外部に排出した血液を輸血する』と」
言葉を反芻して、意味を紐解く。理解できるまで、数秒。理解した瞬間、俺は、母を見た。母も俺を見ていて、眼を大きく見開いて俺を捕らえていた。
「水樹少年の血液を、Re:aruに半永久的に保存する。Re:aruが水樹少年の傍にいる限り、水樹少年はどこへだって行けるよ」
身体が浮いた感覚だった。目に見えず、どうすることもできない足枷が、腐敗して崩れ落ちたようだった。
思わず泣いていた。溢れてしまってしょうがなくて、涙どころか声も抑えられない。今まで「しょうがない」と諦めていた。俺はもう、この土地から離れられない。それはいいにしても、やりたいことも、皆が普通にやっていることも、なにもできないただのお荷物なんだと思っていた。
――けど、そうじゃなくなるんだ。
「本当に?」
「私はできることしか言わない。できないことはできるまでやる。そういう人間だ」
母を見た。涙を流し、頷いた。
そして、アルを見た。
「アル」
「なんでしょう、マスター」
「また、一緒に、山荷葉を見に行ってくれる?」
「行きましょう。また、一緒に」
天野さんに向いて、大きく頭を下げた。差し伸べられた手が視界に映って、強く、強く握った。隣で母も頭を下げた。
俺の血液は希少で、誰にでも輸血することができた。過去に輸血をしたことで、自分を危険に晒した。輸血をしなければまだよかっただろう。
母はこの時に思ったそうだ。「この子の血液はこの子のために。この子を守れるのはこの子と私たち両親だけ。この子の血液のことはどこにも、血液バンクにも知らせない」と。
俺の自由を制限してでも俺を助けたかった。そんな母も、強く、縛られていたのだろう。ようやく解放してあげることができた。
「水樹少年」
伏せた頭の上から声がかかる。
頭を上げれば、やはり自身に満ち溢れた天野さんの顔がある。
「君はさっき、「なんで生まれたんだろう」と言ったな」
「はい」
「はっきり言おう。そんなものは誰も知らん!」
衝撃的な効果音を脳内に流す。
いや、まあ、そうなんだろうけど……。
「生まれた理由なんぞあってもなくてもいいんだ」
トーンを下げ、優しく語り掛けてくる。
「私は結果的に誰かの力になりやすい立場と役職を手に入れた。それは今まで選びながら生きてきたからこそ手に入れたものだ」
「選びながら……?」
「そうだ。あの時どうすれば、この時はこうしたらと。後悔もあったが、その時それを選んだからこそ得られるものがある。それはそれが正解と思って生きていくほかないのだ。だから、今回君が、Re:aruと無断で外出した。それは世間的には良くないことだったろうが、君自身としては進展になったのではないか?」
「はい。それは、確実に」
「手段をよく考えろ。そして、予測も立て、対策まで練るんだ。行き当たりばったりは自身の力がついてからだ。そうして身に着けた結果、君にしかできないことがあるだろう」
「俺にしか、ですか。どうでしょうね。俺にできることは誰にでも……」
頭に鋭い何かが落ちてきた。
チョップだった。
「いったぁ!」
「君の『特殊性』の話をしたばかりだろう」
「いや……それは俺が手に入れたものじゃないって言うか」
「だとしても君に備わったものだ。ひけらかすのはお勧めしないが、それを卑下するのは失礼に値する」
見ずとも誰についての言葉かはわかった。
同時に申し訳なく感じる。あとで謝ろう。
「生きて、生きて、生きて。生きた先に『自分とは何か』がわかる何かがあるんだ。すべて同じ選択肢をする人間はいない。それが個性で、人格というものだ。君には君にしかできないことがある。誰かのためという意味ではないよ。君にしかない感性で感じ取り、成せることがある。それだけだ。それを見つけるのが、人生というものだ」
乗っかったままのチョップが縦から横へなって、水平に頭を撫でた。
人生の先輩の、有難いお言葉だ。
「水樹少年は自由な足を手に入れた。色々なものを見ろ。多様に感じ、そして吐き出すんだ。それが君を構成する『全て』になるから」
「全て……?」
「そうだ。君自身だ。水樹少年。君は君のために生きろ。誰かのためなんて考えなくていい。そんなものはついででいい。水樹少年、君は水樹少年のまま生きるんだ。それが、君が生まれた理由になる」
「俺が、生まれた理由」
「そうだ。世間から見れば、『Re:aruを作ったこと』が私の生まれた理由の一つになるだろう。だが、それは私が私の選びたい道と選択肢を取ったことで得られた云わば副産物。私がAIを作ったことで、AIは人間を助け、人間はAIから知恵を学び、私はAIからさらのる知識を得てより進歩することが出来る。すべて結果論だ。君も、とりあえず色んなことをやってみるといい。行動は変化だ。行動すれば、今とは違う何かが起こり、わかることがあるはずだ。──その時、君の青春が始まるのだ」
停滞していた自覚はある。
俺はもう、この場から動けないのだと、家と学校と病院だけの小さな世界でしか生きて、息をしていなかった。
アルと出会って、違うことをした。トライアングルから抜け出して、新しいことを知った。新しい感覚を知った。新しい自分を知った。
それが、天野さんの言う『変化』なのだろう。
気持ちは晴れやかだ。『経験』が『濾過器』となって、濁っていた気持ちが透き通っていった。
なにかに気付いた天野さんが、満足気に大きく頷く。
「うむうむ。……それで、聞きたいのだがね」
「はい?」
「これから研究のパートナーとなる水樹少年の名前は何だい?」
母は悲しそうな顔をしていた。俺の本心が届いたということだろう。嬉しい反面、悲しい。そんな顔をさせてしまうことが、どうしても。けれど、俺の口はよく滑ってしまうようだ。
「俺、ずっと考えてたことがあるんだ」
「……なに?」
これを言ったらまた傷つけてしまう。そうわかっているけれど、きっと今言わないといけない。これからの俺のために、そして、そう思わせてくれた、アルのために。
母は涙目だ。その目は俺に向かず、クリーム色のテーブルのどこかを見つめている。
「なんで、生まれてきたんだろう」
そう言って、雫が落ちた。
「俺は欠陥品だ。欠陥品な俺は、こんなにも迷惑をかけて、こんなに悩ませて、こんなに……自分も周りも不自由にして、何のためにいるんだろう」
語弊があるかもしれない。俺はそう感じているだけで、きっと本来の不自由な人はもっといるんだ。その人たちに失礼かもしれない。どこかで誰かが言っていた『不幸を比べるものではない』という言葉が、俺の背中を押す。
「欠陥品だけど、みんなと同じように生まれて、同じように生きてるんだ。同じように学んで、同じように食べてる。みんな、やりたいことを見つけたら一生懸命だよ。……俺もやりたいことのために一生懸命になりたい」
「……お母さん、確かに、あなたから何かをやりたいって、しばらく聞いてなかったわね。子どもの時はあったけど、怪我をするかもしれないと思ったらすごく怖かった。そうして取り上げていって、行き着いた先の美術で安心してたわ。でも、それはお母さんだけだったのね」
「俺を大事にしてくれてるのはわかってたよ。伝わってる。けど、俺には俺の意思があって、欲があって、夢があるんだ」
「……そう、そうよね。一人の、人間だものね」
「うん。俺は忘れかけてたよ。でも、それに気づかせてくれたのがアル……『Re:aru』なんだよ」
アルの手を握った。人間のように柔らかく、肉付きと骨を感じる。
肩を震わせて小さく見える母と同じ人間のようだ。
「アルのおかげで俺は『俺』らしく、俺のらしさを見つけたよ。それは、今まで俺を守ってくれてた母さんや湯田先生たちのおかげで、アルを連れてきてくれた高橋先生のおかげで、アルを生んでくれた天野さんのおかげだ」
警察の人三人を含めた全員を見た。多様の表情で、人の目を意識した瞬間に少しだけ恥ずかしくなった。
強くアルの手を握り直す。心なしか握り返された気も、少し。
体の中の酸素を入れ替える。まっすぐ前を向いて、叫ぶように、声に芯を入れる。
「俺は俺の意思で学校外へ行きました。嘘をついたのと連絡をしなかったのは俺が連れ戻されたくなかったからです。ご迷惑をおかけしてすみませんでした!」
被さる様に頭を下げた。
拍手なんてもちろん起こらない。けれど清々しい、晴れ晴れとした面持ちをしているだろう。
数秒の後に頭を上げても、誰も何も言わない。母の身体の震えも止まっていた。
警察の一人と目が合った。何も言わず、ただ力強く頷いただけだった。視線を逸らし、そして問いかける。
「開発者としてのご意見を頂けますか、天野さん」
視線が集まる。見定めと、訝しみと、無感情。当の本人はなにやら気持ちよさそうな表情で「さてさて」と思いにふけっている。
「諸君らは、言葉というのはどこから学びましたかな?」
出てきた言葉は、果たして自分たちは何をしていたのかと考え直すきっかけになりそうだった。
きっと、そう考えているのは俺だけでは無い。部屋のどこかで「は?」と聞こえたから。
天野さんは得意気にテーブルに両肘を着いては、組んだ指の上に顎を乗せた。
「人間は考え、行動する生き物だ。そしてそれは損得に限らず、感情が大きく左右する。それが理性と本能というものだ。今回の件。Re:aruのマスターである少年は突発ではあったにしろ│そう《・・》させる理由があったのだと私は解釈した。そして逆に、今まで│そう《・・》させない理由もあったのだと察したよ」
ちらり、と視線だけが動く。それは俺ではなく、母に向いている。母は俺からは見えないような顔の向きをしているが、天野さんを見つめているのだろう。
「少年の母よ」
「なんでしょうか」
「貴方は、言葉をどこで学んだ?」
果たして、この質問を人生でされたことがある人間はどれほど要るのだろうか。母はされたことがあるだろうか。あるにしろ、ないにしろ、難しくは無いその質問に答えるには何故か勇気が必要だ。
「……本、でしょうか」
「そう! 本だ。だがそれだけでは無い」
「交流」
「そうだとも! 貴方は人との繋がりで言葉を学んできた、そうですね?」
「ええ、そうです」
「では、彼はどうだろうか」
向けられる視線は、俺に。
天野さん、他の人達、そして母。皆が俺を、色んなものを含めながら見つめてくる。
思わず息を飲んだ。悪いことをしたけれど、今は違う。責められている訳では無いのに、心臓が悲鳴をあげている。
「彼はどれほど学んだ? 高々十数年。だが、その貴重な十数年も、聞くに、色々と制限してきたのだろう」
「この子のためでした。この子が、たった十数年で終わってしまわないように」
「それが親の心というものだ。不正解ではない。それは私が保証しよう。だが、彼がどうしたいのか、貴方は彼の言葉を聞いたことがあるか?」
息を飲んだのは、俺ではない誰かもだった。
手を握ると、握ったままだったアルの指が握り返してきた。
近くにいてくれる安心感。見ずとも感じる存在。短期間でしかない繋がりなのに、誰よりも暖かい。
「人間というものは言葉を介す。物質的に表現出来ない感情、心情もだ。だが、それを表現するには『言葉の力』というものが必要不可欠。誰の目にも見えないそれを本人が理解した上で、だ。それらがどんなものかを知るには、同様の感情に触れるしかない。それは本だったり、誰かの話だったりだ。そう言った『誰かの体験』を知ることで、自分に置き換え、理解する。そうして言葉を増やし、理解し、理解されていくのだ。……さて、少年の母よ」
「はい」
「彼に、それだけの言葉の力は、備わっているか?」
「……」
「彼に、表現の機会を、与えていたか?」
決して責めている声色ではない。だが。だけど。けれど。母の目尻には雫が浮いていた。口は一つに結ばれ、鼻と頬は赤く染まる。こんな表情の母を見るのは……いつぶりだろうか。
「……では本題に戻ろう」
返答を待たずして、天野さんは切り替える。
組んだ指は天井を向き、天野さんの背を吊り上げる。リセットするように腕を大きく広げて円を描き、再び指を組んで、顎を乗せた。
「生活援助型ヒューマノイド、通称『│LAH《ラー》』は、契約者の手助けをするロボット。契約者が「助けてくれ」と言えばそれに全力で答える。もちろん、犯罪を犯さぬよう、最新の六法全書をインストールしてある。それは自動更新であり、個体名Re:aruにも正しく行われているのを確認した。またバックアップも正常である。故に、契約者が希望しなければ、連れ出すことなど有り得ない」
力強い一言が、窓の相手いない部屋に風を起こした。走り去っていったそれは、怒りや悲しみといったものを全て連れ去ったようにも感じる。
隣に座る母は顔を伏せてはいるけれど、母以外は、みんな、晴れやかな表情をしている。
「経緯の説明は以上となりましょうか」
湯田先生が見渡しながら語り掛ける。警察グループはそれぞれで見合い、一人が「事件性はなしと判断いたします」と言った。ここで胸を撫でおろしたのは高橋先生だ。文字通り綱渡り。自分の首や、国の研究も賭けていたんだから。行動には映さずとも表情が物語っている。
警察の人たちが席を立ち、一足早く部屋を後にする。
「ところで」
天野さんは、俺を見ていた。
どことなく威圧を感じる。敵対とか悪いものではなくて、探られているかのような。チーターが獲物の行動を見定め、今か今かと探っているような。
思わず目を逸らしたくなるけれど、そうさせてくれない不思議な魔力。
泣き腫らした目をした母も、肩を強ばらせ、俺と天野さんとの間に身体をねじ込ませる。
その様子を見て、天野さんは息を吹き出した。
「取って食おうというわけではないのだがね」
電動車椅子を操作して、テーブルに囲われた中に入ってくる。俺の前で止まり、真正面から見ている。手が伸びてきた。身体が身構えたが、お構い無しに俺の左胸に添えられた。心拍が伝わっていく。そして、頷いた。
「私の考えを聞いてくれるかい?」
「……どうぞ」
息を吸った。天野さんは口角を上げて、片手で頬杖を着いた。
「君の母は君のことを案じていたね。何処がそんなに心配なのかと気になっていたんだ。君の体の外見上の特変というのは無さそうだ。四肢欠損ではない。それは動きを見ればわかる。では内臓か? 外出を制限するほどのそれはなんだ? 脳腫瘍? いや、それならば治療で痩せているはずだ。副作用の様子もない。つまり違う。腎不全で透析が必要? 腕を見ればカテーテルは入っていないのは明白だ。これも違う。呼吸器もなく、黄疸もなく、ペースメーカーもない。そもそも、学校や数時間の公共交通機関を使って移動できるだけの体力があるのに深刻な内臓の疾患は考えにくい。『安全』を第一に考えるにしたって、母は随分過保護じゃないか。多少の擦り傷ぐらいでは内臓への影響は凡そ考えられない。それこそ、それだけ免疫力が下がっているとするならば、体型もそうだが学校なんてそうそうに行けないだろう。まあ、だからこそ通信制を望んだのかもしれないが、それを選ばなかったから今があるわけだ。そもそもだ。数年に渡って何か治療が必要であったり、何かを患っているのだとしたら、こんなに肉はつかないだろう。では、君の『特殊性』は何か」
ごくり、と。俺は強く息を飲む。
「血液、何かあるのかな?」
母が勢いよく立ち上がる。俺を抱き抱え、天野さんから距離を取った。
されるがまま。呆気にとられた。
「なんで……っ」
「なんで? 少年の母よ。今説明したではないか」
「っ、この子に近づかないで! 誰にも、この子の血液は渡さない!」
「ふむ、誰かの手に渡ることを拒否する。ということは、誰の手に渡っても意味があるものということ。血液も臓器移植と同様の価値があるものだ。それはともかく、RH-や抗体欠損と多少珍しい血液でも、世界に少ないとはいえいない訳では無い。むしろ血液バンクに登録して、いざと言う時に備えるのが通常で正常だ。だが、つまり、少年……」
―― 黄金の血液の持ち主かな?
「……はい」
「な、なんで……!」
「母さん、もう取り乱しても取り乱さなくても、この人にはわかっちゃうんだと思うよ」
何をしても無駄だ。そう考えた。俺は正直に打ち明ける選択肢をとる。否定しても正解までこじつけてきそうだし。
緩んだ母の腕を解いた。天野さんはスッキリした表情で、笑顔を向けている。
「けど、誰にでも輸血できる『全抗体欠損』と揶揄されるものとは少し違います」
「ほう? 一部欠損か? -D-かな?」
「いえ、確かに俺の血液には抗体は何もありません。ただ……」
血液を流してしまえばいちばんわかりやすいのだけど、そうすると母が発狂してしまうだろう。もうこれ以上、母の感情を振り回さないようにしたい。
深呼吸して、犬のように待つ天野さんを見る。
「俺の血の色が、金色なんです」
目を見開いた。口角がより吊り上がり、獲物を見つけた猛獣の雰囲気を漂わせる。
一瞬、身じろいだ。本能が『離れろ』と告げてくる。血の気が引いて頭蓋内がひんやりする傍ら、ガンガンと警笛を鳴らしている。全身の毛穴が開いて水分が吹き出した。けれどそれで済んだのは、湯田先生が天野さんの両肩を抑えていたからだ。
俺の肩に何かが乗った。振り向けば、アルがいた。机を挟んで、目の前の天野さんと湯田先生のようなのだろう。
「天野博士。程々にしてください」
「あぁ、あぁ、すまない。いや本当に」
顔面を自分の手で抑えて声を震わせる人は総じて危険だと思われる。心做しか、アルが込める力は強い。
「よし!」
無理やり落ち着かせたのだろう、天野さんは両頬を叩いた。危険性を取り払った、幾度か見た表情で、天野さんは俺を向かって身を乗り出してくる。湯田先生が肩を抑えたままだけど。
「少年、少年の母よ提案がある」
「提案?」
「研究に協力してくれないか」
それは、また突拍子もない提案。言葉に詰まるのも無理はないだろう。天野さんは「説明しよう」と、先程のように肘を着いては指を組み、顎を乗せた。
「とてもとても内密な話だ」
その言葉を皮切りに、天野さんの背後で高橋先生が動いた。何かを察したのだろう。物音を立てず、静かに部屋を出た。天野さんの後ろには湯田先生と、OAHEが静かに座っている。
枕詞から、数秒開けて。
天野さんは俺の背後を見やる。
「Re:aruには、とある人間の血液を循環させている」
衝撃は、首の動きとなって現れた。
振り向いた先のアルの顔は、もちろんだが真顔以外の何物でもない。ただ、動いた俺を見つめ返すだけ。肯定も否定もないことが、むしろ肯定である。
「私のもう一つの研究テーマがあってね。それはとある病の治療法についてなんだ」
「……薬を作っている、ということですか?」
「それも込みの話だ。対処療法すらも確立されていない。何をどうすれば有用性が出るのか、の段階なんだ」
まあつまりは初期も初期、と軽く言ってのけた。
軽く笑い飛ばす表情は一変し、鋭く、猛禽のような目付きになる。
「とある患者が、記憶を無くすという希少な病に罹っている。それは症例自体が少なく、研究も進んでいない。今までは打つ手もなかった。その病自体は血液型や抗体の有無に関わらず発症することはわかった。患者は希少な血液型だった。少年と同じように輸血が難しいとなると、治療は一般の血液型の持ち主よりも困難な可能性がある。けれど、だからこそ、一つの行動を取ることになった」
「行動……」
「コールドスリープだ。今は見つからなくとも、未来に確立出来れば良いのだと。自分の体をどれだけ使ってもいい。だから、後世に伝えられるよう、調べ尽くしてくれと頼まれた」
「自分を……差し出して……」
「『生贄』ととる人間もいるだろう。そして悪魔と罵る奴もいた。凍りつく前の患者の身体から、血液と造血細胞をできる限り採取した。私はやる。その為に私は、今、ここに居る」
力強い瞳が俺を撃ち抜いた。
銃のように鋭く、無重力のようにゆっくりと。
吹き抜けた胸を風が通り抜けた。その先で草木が揺れる。山の、大地の息吹が鳴き声を上げた。
「それは、この子に何をさせるのですか」
母さんが、小さく声を上げた。
震えなくなったにしろ、声色は天野さんを拒否しているように感じる。当人に気にする様子は無いけれど。
「患者の疾患は血液によるもの。しかし造血細胞には異常は見られなかった。現代の技術では見つけられなかった、と言った方が正しいかもしれないが、それを知る技量も今の我々には無い。だから、別の方向で考えた」
天野さんは、片方の指を、俺の背後に向けた。
「Re:aruに循環機能を導入した。血液を入れ記憶が再生されるのかどうかを調べるためだ。再生されるのならば、一度は外部に排出した血液を輸血することで、記憶を保存し、その疾患の対処療法が出来るからだ。外付けハードディスクと同じ要領さ」
「記憶を、再生?」
「『転移』という言葉を知っているかな?」
「ファンタジーの意味なら。人や物を別の場所にっていう」
「それではないな。医学用語の『転移』とは、物質を介して、元の持ち主の何かを移動させるという意味だ」
「……つまり、どういう」
「心理学で言えば、自身の経験によって形成された感情を特定の相手にぶつけてしまうこと。病理学で言えば、がん細胞が循環した先で別の臓器に根を生やしてしまうこと。そしてもう一つ。臓器移植に関するものでは、移植する前の記憶や趣味、思考が、移植先に移るというものだ。時に水樹少年」
「はい」
「記憶を司るのは脳の海馬だ。それは有名な話で一般論。だが、『転移』という現象がある。なぜ脳ではない臓器に記憶が宿るのか。共通点はなんだろうか」
「共通点……」
専門知識を持たない俺にもわかる問題なのか。
それを前提に考えれば……点と点は繋がる。
俺の中の記憶が、「行こう」という彼女を映し出した。AIなのに。俺が言った訳では無いのに。なぜか、提案してきた。
「私のもう一つの実験。それは、『素体の血液を循環させたAIは、【輸血】によって人格を形成するのか』だ」
アルは誰かの人格を宿して、きっと本人も知らずに、まるで人間のように、接してくれていた。
嬉しいのか悲しいのか、言い表せない複雑な感情。けれど、アルは、確実に。『俺のためを思う人間』として、言葉をかけ続けてくれていたのだろう。そうであると信じたい。
アルを見上げても、相も変わらずだけど、アルであることも、変わらない。
「少年の話を聞くに、私のこの実験の結論は出た。AIとして最善ばかりを選び、推奨するのでは無い。AIから逸脱した言動をしている。それは元の血液の持ち主の人格であるに他ならない。人格は記憶から形成される。その者がどんな環境で、何を感じ、どう判断し、どのように行動したか。血液にはそれらを『記憶』として保存、そしてさらに、『人格』『心』として再生する機能がある。――そこでだ」
自信に満ち溢れた顔つきの天野さんは俺と、母さんと、そしてRe:aruを順に見た。
「水樹少年の血液、そして造血細胞を提供してほしい。血液型関わらず誰にでも輸血できる血液型であり、『黄金』という特殊性は、今まで例にない研究結果を導き出すかもしれない」
何度息と唾液を飲んだだろう。もう乾いてしまって、何を飲んでいるのかわからない。
天野さんは試すように、けれど確固たる意志と自信をもって、俺に、俺たちに提案してきている。
母が俺を大事にしてきたのは今更だ。
常に自分の手の届く範囲にいてほしかった気持ちは理解する。そして、母の手の届く範囲というのは、俺の血液のストックがある場所ということだ。俺は週に一回、この病院で採血している。それは、俺にもしものことがあった時のため。自分の血液を、自分に輸血するためだ。この場にしかない俺に輸血できるそれは、それこそ修学旅行になんて行って何かあったら……間に合うかわからない。俺がこの土地に縛られる最大の理由だ。
「それは、この子に実験台になれ、ということですか?」
母から発せられる剣呑な雰囲気が、室内をピリつかせた。
けれど、意にも介していない様子の天野さんは、小首を傾げた。
「言いようによってはそうだ。けれどもちろん、ただでとは言わない。それは少年の母の不安も払拭させることができると約束しよう」
「……説明を」
指を解いた天野さんは、腕を膝へ下ろした。背もたれに寄りかかり、よりリラックスして話し出す。
「先ほども言った通り、Re:aruには循環機能を搭載している。それは半永続的に観察できるよう、透析機能も兼ねている。そして私は言ったね? 『外部に排出した血液を輸血する』と」
言葉を反芻して、意味を紐解く。理解できるまで、数秒。理解した瞬間、俺は、母を見た。母も俺を見ていて、眼を大きく見開いて俺を捕らえていた。
「水樹少年の血液を、Re:aruに半永久的に保存する。Re:aruが水樹少年の傍にいる限り、水樹少年はどこへだって行けるよ」
身体が浮いた感覚だった。目に見えず、どうすることもできない足枷が、腐敗して崩れ落ちたようだった。
思わず泣いていた。溢れてしまってしょうがなくて、涙どころか声も抑えられない。今まで「しょうがない」と諦めていた。俺はもう、この土地から離れられない。それはいいにしても、やりたいことも、皆が普通にやっていることも、なにもできないただのお荷物なんだと思っていた。
――けど、そうじゃなくなるんだ。
「本当に?」
「私はできることしか言わない。できないことはできるまでやる。そういう人間だ」
母を見た。涙を流し、頷いた。
そして、アルを見た。
「アル」
「なんでしょう、マスター」
「また、一緒に、山荷葉を見に行ってくれる?」
「行きましょう。また、一緒に」
天野さんに向いて、大きく頭を下げた。差し伸べられた手が視界に映って、強く、強く握った。隣で母も頭を下げた。
俺の血液は希少で、誰にでも輸血することができた。過去に輸血をしたことで、自分を危険に晒した。輸血をしなければまだよかっただろう。
母はこの時に思ったそうだ。「この子の血液はこの子のために。この子を守れるのはこの子と私たち両親だけ。この子の血液のことはどこにも、血液バンクにも知らせない」と。
俺の自由を制限してでも俺を助けたかった。そんな母も、強く、縛られていたのだろう。ようやく解放してあげることができた。
「水樹少年」
伏せた頭の上から声がかかる。
頭を上げれば、やはり自身に満ち溢れた天野さんの顔がある。
「君はさっき、「なんで生まれたんだろう」と言ったな」
「はい」
「はっきり言おう。そんなものは誰も知らん!」
衝撃的な効果音を脳内に流す。
いや、まあ、そうなんだろうけど……。
「生まれた理由なんぞあってもなくてもいいんだ」
トーンを下げ、優しく語り掛けてくる。
「私は結果的に誰かの力になりやすい立場と役職を手に入れた。それは今まで選びながら生きてきたからこそ手に入れたものだ」
「選びながら……?」
「そうだ。あの時どうすれば、この時はこうしたらと。後悔もあったが、その時それを選んだからこそ得られるものがある。それはそれが正解と思って生きていくほかないのだ。だから、今回君が、Re:aruと無断で外出した。それは世間的には良くないことだったろうが、君自身としては進展になったのではないか?」
「はい。それは、確実に」
「手段をよく考えろ。そして、予測も立て、対策まで練るんだ。行き当たりばったりは自身の力がついてからだ。そうして身に着けた結果、君にしかできないことがあるだろう」
「俺にしか、ですか。どうでしょうね。俺にできることは誰にでも……」
頭に鋭い何かが落ちてきた。
チョップだった。
「いったぁ!」
「君の『特殊性』の話をしたばかりだろう」
「いや……それは俺が手に入れたものじゃないって言うか」
「だとしても君に備わったものだ。ひけらかすのはお勧めしないが、それを卑下するのは失礼に値する」
見ずとも誰についての言葉かはわかった。
同時に申し訳なく感じる。あとで謝ろう。
「生きて、生きて、生きて。生きた先に『自分とは何か』がわかる何かがあるんだ。すべて同じ選択肢をする人間はいない。それが個性で、人格というものだ。君には君にしかできないことがある。誰かのためという意味ではないよ。君にしかない感性で感じ取り、成せることがある。それだけだ。それを見つけるのが、人生というものだ」
乗っかったままのチョップが縦から横へなって、水平に頭を撫でた。
人生の先輩の、有難いお言葉だ。
「水樹少年は自由な足を手に入れた。色々なものを見ろ。多様に感じ、そして吐き出すんだ。それが君を構成する『全て』になるから」
「全て……?」
「そうだ。君自身だ。水樹少年。君は君のために生きろ。誰かのためなんて考えなくていい。そんなものはついででいい。水樹少年、君は水樹少年のまま生きるんだ。それが、君が生まれた理由になる」
「俺が、生まれた理由」
「そうだ。世間から見れば、『Re:aruを作ったこと』が私の生まれた理由の一つになるだろう。だが、それは私が私の選びたい道と選択肢を取ったことで得られた云わば副産物。私がAIを作ったことで、AIは人間を助け、人間はAIから知恵を学び、私はAIからさらのる知識を得てより進歩することが出来る。すべて結果論だ。君も、とりあえず色んなことをやってみるといい。行動は変化だ。行動すれば、今とは違う何かが起こり、わかることがあるはずだ。──その時、君の青春が始まるのだ」
停滞していた自覚はある。
俺はもう、この場から動けないのだと、家と学校と病院だけの小さな世界でしか生きて、息をしていなかった。
アルと出会って、違うことをした。トライアングルから抜け出して、新しいことを知った。新しい感覚を知った。新しい自分を知った。
それが、天野さんの言う『変化』なのだろう。
気持ちは晴れやかだ。『経験』が『濾過器』となって、濁っていた気持ちが透き通っていった。
なにかに気付いた天野さんが、満足気に大きく頷く。
「うむうむ。……それで、聞きたいのだがね」
「はい?」
「これから研究のパートナーとなる水樹少年の名前は何だい?」



