「おはよう。気分はどう?」
「……おはよう」
昨日は夕飯時に起きたが、食欲がなく味噌汁だけ飲んですぐ寝てしまった。朝は6割は食べたと思う。空腹だったわけじゃなく、それぐらい詰めておかないと、後々しつこいからだ。可能な限り体力を温存しようと横になっていた俺に、母は昨日とは打って変わって笑顔を向けた。予想は的中したようで、面会時間開始、早速の話題は食事だった。
「食べてないんじゃないかもしれないって、軽めの食べ物持ってきたわよ」
「……あとでもらうよ」
「いつでも言ってね」
甲斐甲斐しい。すごく、とても……ひどく。
今日はもう退院だ。それなのにこうも気が重いのは、きっと体調のせいだけではない。未来に対する気持ちだけでもない。この地球という星に何か起きて、全員がそう思っていてほしいと願わずにはいられない。
母は俺の少ない荷物を手際よくボストンバッグに詰めていく。ようやく体を起こした俺は病院着から着替え、人前に出れるように整える。
今から帰るのかと思いきやそうではない。昨日の話の続きをするそうだ。昨日の、「転校」の話の続きを。
そう考えれば、体はさらに重くなる。俺のことを第一に考え、考え、考えすぎる母のことだ。冷静ではなかったにしろ本気だろう。もしかしたら、単身赴任している父親のもとへ行くことになるかもしれない。
……そうなったら。
「もう二度と」
――見れなくなってしまう。
余計な期待をするのは、いつからかしなくなっていた。期待して、勝手に傷ついて、周りに心配をかけ、自己嫌悪する。それが嫌だった。だからやめた。
呟いた言葉に反応せず、帰宅の準備を整えた母親が俺を見据える。
こんなにも優しく、尽くしてくれる母親は早々いないだろう。
「準備できた?」
「うん」
「じゃあ行きましょう。車椅子乗る?」
「歩けるよ」
俺は自分で歩ける。
母より先にカーテンの外に出て、しばし自室だった部屋に別れを告げた。追って出た母は荷物を持ちながら、俺の隣を歩く。俺はここから先の目的地を知らない。母に導かれるまま、長く、特徴のない綺麗すぎる廊下を歩いた。途中ですれ違う看護師や患者と逆方向に。
行先は思ったよりも遠く、エレベーターで最上階まで上がった、一番奥の会議室。母がノックして、返ってきた声の後に扉を押す。脚立に乗らないとセットできない程のカーテン。足音の立たないカーペットとロの字を描く長机。背の高い背もたれ付きの椅子。用意された20脚のうち、扉に近い一辺に青い制服、つまりは警察官が3名。手前壁側の5席の方に湯田先生、そして看護師の格好をした耳の長い女性がいる。
「LAH?」
「いいえ、こちらは職業援助型ヒューマノイド・診療タイプ、通称『OAHE』です。簡単に言えば電子カルテです」
「カルテ、なんですか」
「そう。患者とやりとりをして、会話や表情の映像、動作を自動記録。OAHEの視界に入ればバイタルも測れますし、採血や、輸血や点滴に必要なルートをもできるんですよ」
「そういうパターンもあるんですね」
OAHEは実際の看護師さんの様に、俺たちの方を見て一礼した。うかがえる表情からは、機械のような無機質さは感じない。クリーム色のショートヘア、膝丈ワンピース型の白い看護服。瞳はグレー。清潔感のある看護師像ではあるが、どことなく天使を思わせそうなのは果たしてよかったのだろうか。
「すみません、遅刻しましたかね」
「大丈夫ですよ、高橋先生」
扉で棒立ちしていると、後ろには先日ぶりの高橋先生が慌てた様子で立っていた。
途端、母は俺の手をひいて、扉から離れた窓側の椅子に座った。釣られて、というか、有無を言わさず。俺は母の隣に座る。
先生二人は苦笑いをしながら、正面の席に座る。OAHE、白衣の湯田先生、スーツの高橋先生がなぜ並ぶのか。そして上座に当たる一辺には誰もいない。それが良いのか悪いのかもわからないが。
「もう一人は遅れていますが、時間なので始めましょう」
湯田先生は正面の椅子に手をかけてそう言う。声はいつも通り。だけど、部屋の雰囲気は硬く、糸が張っている。隣に座る母の拳は足の上で強く握られていた。強張った表情をして、高橋先生を睨んでいる。そんな高橋先生は気まずそうで、母の方を見れないのか目線を落としていた。警察は、おそらくは事件になりかけたから、事態の把握のためにいるのだろう。
「まずは水樹くんの体調についてお話しします」
湯田先生だけが立っており、俺ではなく、母や警察を見ている。
「どこかに外出していた彼は学校前で倒れ、学校にいらしていたお母様と救急車にて当院へ受診されました。診断結果は過労と貧血。彼の体質を考慮し、輸血を行いました。朝には普段と変わらない程度まで回復が見られています」
三人の警察が見合って頷く。
それを見た湯田先生も頷いて、次は俺を見た。
「水樹くん」
「はい」
「君は高橋先生に「模写するため、美術室外に行く」と話した、というのは、確かですか?」
「はい……そう言いました」
「どうしてそう言ったんですか?」
優しくも強く、厳しい視線が俺を縛る。
その視線の意味をわからないわけではない。そして 、そうさせている意味も。
隣から母の視線を感じる。交わすことが出来ず、正面からの視線をまっすぐ返すしかない。強く握らないようにしていた手のひらの内側が湿っていく。
「どうしても、行きたいところがあったんです」
「それは嘘をつかなければなかったのですか?」
「……」
「水樹くん」
「言ってくれればちゃんと計画を練って――」
「それはない」
割り込んできた母の言葉を遮った。反射だった。絶対、絶対にそんなことはしてくれないだろうと確信があったから。
素早い否定に怯んだのか、母の影が動いた。
汗は変わらず溜まっている。指を伸ばして、ズボンに押し付けた。
それでもやっぱり、母の方は見れない。
「ない、わけないわよ……。あなたの安全を第一に考えて、ちゃんと、計画を練ってーー」
「ないよ。母さんはそんなことしない。そんなの「必要ない」って、「今のあなたには必要ない」、「危険を犯してまで行く所じゃない」って言うよ」
「そんなこと……」
「どれだけ否定されても、俺はそう思う。だから、言えなかった」
俺の想像だ。母さんならそうする、っていう、10年ちょっとの経験からくる予測。
実際言っていたら変わったかもしれない。試そうと思わなかった。思えなかった。そんな希望も期待も持てなかった。砕かれるのが怖かった。
……俺の我儘で、余計な手間と労力をかけさせるのが、申し訳なかった。
「俺の事を大事にしているのはわかってる。安全に育ててくれてるって、しっかり伝わってる。……けど、俺はもっと、色んな所に行きたかった」
「でも……だからって……黙って行くなんて!」
「悪かったと思ってる。けど! 言ってもダメだと思ったんだ! 今までどこにも、修学旅行も! 父さんの出張先にさえ行かせてくれない! 俺はここにいていいって、ここにさえ居ればいいって、母さんの近くにいればいいって言い続けた! 俺のためって言っても、結局は母さんの安心のために縛り付けてただけじゃないか!!」
足元、太もも、その上の拳しか視界に入らず、いつの間にか手を握っていたことに気付いた。指先がひらをエグろうとする。広い部屋で、俺の声は響いていた。自分の腹まで届いたそれは、母や、周りの人になにを与えただろうか。
浅くなっていた呼吸は体を冷たくする。口が乾くほどに息を吸って、吐いて、吸った。
視線を上げれば、俺の事を真剣に見つめる湯田先生。無感情に微笑むOAHE。困ったような、焦ったような顔をする高橋先生。警察の人達は怪訝な顔をしていた。
「……ごめん、母さん」
母さんは、ショックを受けていたようだった。
見てすぐに視線を逸らしてしまった。小さく俺の名を呼んだのが聞こえて、胸が締め付けられた。
もう何年も呼ばれなかった。呼ぶと俺を苦しめるだろうって、変な気を遣っているらしい。苦しいのは自分だろうに。俺は、そんなこと、頼んだことがないのに。
何も言うつもりはなかった。ずっと、永遠に、墓場まで持って行くつもりだった。絶対にそんなことをするはずが無いという確信が、母に嘘をつかせたくなかった。
……いや、違う。
「ごめん。俺が、『そうだ』って決めつけてたんだ。絶対無理だって。心配かけるから、俺は絶対、どこにも行けず、何も見れず、何も経験できないんだって。しょうがないんだって、思い込んでる自分を否定したくなかったんだ」
居たたまれない。この場にいたくない。逃げたい。消えたい。肩を上げて、頭を下げて、縮こまって、いなくなってしまいたかった。
誰かここから連れ出してくれないか。そんな期待と裏腹に、誰も、何も言わない。話が進まずに悩んでいる人がどれだけいるだろうか。
そこで、肩に誰かが触れた。
「あなたのためなのよ。あなたが、立派に大人になって、同時に医学も機械技術もより進歩すれば、あなたは自由なのよ。だから、もう少しだけ待ってほしかった」
「……それはいつ?」
「わからない。けれど、きっと、あなたも生きやすい世界になるわ」
「そんな曖昧な未来に何を期待するんだよ!!」
机に叩きつけた掌がヒリヒリと痛む。同時に、椅子が後ろにひっくり返った。カーペットに叩きつけられた椅子がグラグラと揺れて足に触れる。
母は驚いていた。そんな母の顔はいつぶりに見ただろうか。そんなことは、頭に血が登った俺には些細なことだ。
「俺はなんでこんなに不自由なのか! そんなの聞いたところでどうしようもないし、理由なんて俺が一番よくわかってる!! けど! だけどさぁ! 俺は行きたいんだ!! 色々な場所に! 色んなものを見て、触れて、感じたい! それが本物なんだって! 現実にあるものなんだって!! 実際にその場に行かないとわからないものを確かめに行きたいんだ!! もう幻想に逃げたくないんだよ!!!」
唾液が飛ぶのもお構いなしに叫んだ。人前なのに。そもそもこんな話をしに来たわけではないはずだ。
上がった脈拍と呼吸が止まらない。いつの間にか後ろにいた湯田先生が、俺の肩に手を当ててリズムをとってくる。釣られていく心臓。座らされると同時に、母の腕が伸びてくる。
「そんな、そんなこと言わないで……。私たちがどれだけあなたを大事にしてきたか……」
「わかってる。わかってるから苦しいんだよ」
頭を抱えた。母を見たくなかった。だから、言いたくなかった。
「俺はなんで生まれてきたの?」
呼吸とともに消えてほしかった言葉は、嫌に部屋中に響いて、耳に残った。
母の手は俺に触れることを躊躇った。湯田先生は俺の肩に手を置き続ける。温かくて、重い。
息を飲む音が聞こえた。鼻をすする音も聞こえる。音の方向からその人物と、原因を理解して、より深く、後悔する。
「ごめんなさい」
生まれてきたことに、その言葉を捧げるしかできない。
アルが、LAHが、OAHEが羨ましかった。
意味を持って生まれてきた彼女らのことが。
メンテナンスさえすれば、部品さえあれば、必要なものを作り出せば、なんでも出来るAIロボットたちが。
俺の事を守ってくれる人はいても、助けてくれる人はこの世にはいない。
肩の上の手に力が籠った。
その時だった。
「いやーすまない! 遅くなってしまった!」
勢いよく開け放たれた部屋の扉。反射的に全員がそちらを向く。俺も、母も、湯田先生も高橋先生も警察も。OAHEだけは変わらぬ表情でゆっくりと向きを変えた。
視線の先には車椅子を使用した、ボサボサの長い髪を適当に一つにまとめた若く見える男性。。一見患者が迷い込んだかと思いきや、白衣を着ていた。背もたれの高い電動車椅子でスケートの様に軽やかに入室してくる。今までの空気なんてお構いなしだ。
「アメリカから直で来ようと思ったんだが、ヘリポートは使ってはダメだというし、近くのヘリポートもないから時間がかかってしまった! けどRe:aruを連れて来れたから結果オーライだろう! 先に調査したが異常はなかったぞ!」
「アル……?」
反応すると、男は俺を見た。眼鏡越しの輝かしい丸い瞳はより大きく開かれる。
「君か!? もしや君がRe:aruの契約者なのか!?」
答えに戸惑う横で、母は不審者に出会したかのように身構える。
俺たちの心情はお構いなしに、男は扉の方に声をかける。
「Re:aruー! 早く来なさい!」
「失礼いたします」
「あ……」
一日程度しか開いていないのに、ひどく懐かしい。
無機質で、寄り添う温度のない声。黄緑色の長い髪がお辞儀とともに揺れる。長い耳が見えて、その横で水色の瞳が光った。
「アル……!」
せっかく座った椅子が再び音を立てて倒れる。テーブルに乗り出して声を出したが、アルはこちらを見ない。代わりに白衣の男が俺を見た。黒髪黒目、日本人の顔立ちをした彼は、俺を値踏みするようにじっくりと見てくる。手に持った何かを操作して、アルは彼の後ろについた。
「すまないが、今は半自動なんだ。私の持つリモコンの通りにしか動かない」
「あ……そう、なん、ですか」
だからか、と納得。同時に感じる寂しさ、悔しさ、失望。
クラスの中で一人だけと思っていた優越感は、慈悲で与えられた虚構だったのだと叩きつけられた。
力なく座っても、アルは寄ってこないし、気にもかけない。何を期待しても、これがAIでヒューマノイドなんだ。そう思い出して、座面が滑りそうになった。
「開発責任者の天野だ。さて、何の話だったのかな?」
後から来たその男がさらりと名乗り、この場を仕切り出す。近くの人たち同士で顔を見合わせ、元の進行役だった湯田先生が声を上げる。
「水樹くんの体調には問題ないと言うところまでお話ししました。そして次は、ことの経緯をお話ししたいと思います」
湯田先生は高橋先生に目配せして、静かに座る。白衣の男は唯一開いていた一辺、上座に当たる机の真ん中を陣取った。当然、アルはその後ろに位置している。
交代に立ち上がった高橋先生はいつもの気さくな様子は微塵もない。強張り、緊張しているのが手に取るようにわかる。スーツで引き締められた体と首がどうにも似合わない。
「まっ、まずは水樹くんのお母様に謝罪させてください。申し訳ございませんでした!」
勢いよく、机と水平になるまでの謝罪。それを母さんは、何のリアクションもなく見つめていた。
それについて誰が何を言うでもなく、静かな時が数秒流れた。高橋先生は息を飲んだまま状態を上げ、細く息を吐いた。
「時系列に沿って説明させていただきます。拙い部分もあるかと存じますが、ご了承ください」
胸ポケットから取り出された、いくつかに折られた紙。それを広げ、読み上げていく。
「まず、当校は『生活援助型ヒューマノイド』の研究の協力校として選出されました。その目的は、『思春期の学生たちとの交流から、より人間、および心を理解・学習するため』というものです。私は学校からその研究の窓口に選出され、同時に『LAH』の対象者を選出する役割を持っていました。そこで私が適任と考えたのが、水樹くんだったのです」
「なぜ、彼と定めたのでしょうか」
警察の一人が肩までの小さい挙手とともに質問を飛ばす。
高橋先生は驚きもせずに言葉を続ける。
「『LAH』が当校に運ばれてくる日付が、丁度、水樹くんの学年が修学旅行に行く日取りでした。水樹くんは唯一、修学旅行に不参加。人柄は真面目で誠実。けれど人に言えない悩みも抱えているのは彼を見ていればわかります。学生ならではの行事を体験できない彼に特別な体験を、という想いと、この子に寄り添ってあげられる存在が必要と考え、勝手ながら彼が『マスター』となるよう……すみません、仕組みました」
「仕組んだ、とは?」
「彼に『LAH』の運搬を手伝ってもらった際、すでに起動し、スリープ状態にしておきました。接触した最初の人間が『マスター』となるように」
じゃあ、あの時、「電源入ってたか」って言ったけど、結局は計画的だったということなのか。
先生の気遣いに胸が熱くなる。気を遣わせて申し訳ないとばかり思っていたが、それすらも先生の心配の種になっていたのだろうか。体質と家庭環境のせいで、触らぬ神となってしまった俺に、高橋先生は唯一と言っていいほど親身に、分け隔てなく接してくれていた。
『マスター』は云わばクラスの係だ。けれど研究の協力という条件があるから、もしかしたら報告の義務があったのかもしれない。高橋先生は綱渡りをしてまで、俺に与えたかったんだ。貴重な体験と、『アル』という存在を。
「水樹くんの同級生は今週ずっと修学旅行で不在です。その間、彼はずっと学校で部活動に励んでいました。ずっと部活に励むということ関しては『アル』の存在は関係なかったと思います。月曜から木曜まで、私が見ていた限りでは特別な関わりはないように思いました。金曜日に外出してしまうまでは」
そこで、高橋先生は俺を見る。その視線は、優しかった。どこか安心しているような、決して責めるものではない。巣立ちを見届ける親鳥のような、どこか哀しげにも映る、けれどこれからの幸せを願うもの。憂いから解放されたような、そんな視線。
釣られるようにして、警察の人たちも俺を見た。そして求められているのも察する。
「別に……アルとは話をしていただけです」
「どんなお話ですか? 無断で学校から出て行ってしまった理由をお聞かせください」
丁寧に、それゆえの圧と言葉で、詳細を喋らざるを得ない。
相手が相手だけに冷や汗が垂れた。
「アルから話しかけられることが多かったです。「何を描いているのか」「何を考えているのか」って。俺が描いているものについては必ず聞いてきて……あとは、毎回「行くか」って」
「どこにですか?」
「……俺が、山荷葉って花を見てみたいって話をしたことがあるんです。そしたら毎回、俺がしたくするたびに「行きますか」って」
「へぇ」
反応したのは天野さんだった。にやり、と。得物でも見つけた蛇のような目線が背筋をなぞり上げる。
「け、けど、アルに強要されることはありませんでした。俺が……俺が、行きたいと強く思ったんです」
「どうしてそう思ったのか、ご自身の考えはありますか?」
「……たぶん」
息と言葉が詰まる。
きっと、俺が行動に移したのはこれがきっかけだ。それはアルを不利にさせるものではないと信じたい。けれど、俺の考えが、他と違う可能性ある。そう思ったら、言葉は胃の方に溶けていく。
部屋が沈黙に包まれる。俺に視線が集まっている。より、重く、行動を許さない。
「Re:aru、全自動モードへ切り替え。データの引継ぎを開始」
空気を読まない声が、沈黙を乱暴に破った。
聞き慣れた了承を示す音の後、静かに、俺に真っ直ぐに投げられた声が鼓膜を揺らす。
「――マスター」
「……アル」
人工の瞳が俺にピントを合わせたのがわかった。天野さんの後ろから、静かに、一歩ずつ歩み寄ってくる。全自動だから誰にも止められない。強いて言えば俺が止められるだろうが、むしろ、俺も席を立って、アルに駆け寄った。
「やめなさい!」
そんな俺の腕をひいて止めたのは、やはり母だった。
「あなた、その『LAH』のせいで、どんな目にあったかわかっているの!?」
鬼気迫る表情をしている。と、冷静に判断できる程度には冷静だった。
そう言われることはわかっていたから。そう思わせるだろうとも思っていたから。
引き留められている俺の近くにまで寄ってきたアルは、母に構わず俺を見ている。その存在感だけで、俺の心と口は、さっきまでとは違ってひどく軽くなる。
無表情のアルを見ていると、滑らかな口が自然と音を奏で始めた。
「母さん」
「な、なに?」
「俺さ、ずっと、反抗したかった」
振り向いた母の顔は、俺ではないものを見ている様に驚いていた。
「今までずっと、心配してくれてありがとう」
「え、な、なんなの……?」
「心配かけてるのは知ってた。心配をかけさせてるのは俺のせいで、母さんは母さんとして、俺に無事に育ってほしかったってわかってる」
「……」
「けど、ね。俺はいろんなところに行きたいとずっと思ってたんだよ。生まれ育ったこの北海道も。父さんのいる東京にも。同級生が楽しんでいる沖縄にも。見たことのない世界へ、俺は行きたかったんだ」
「で、でも。もしあなたに何かあったら」
「うん。わかってる。でもそれは……その心配は、俺だけに限ったことじゃないよね」
「……え?」
「どこでなにがあるかなんて誰にもわからない。母さんだって買い物に行った先で事故にあうかもしれない。不吉な例えをしてごめん。でも、そういうものでしょう? 何かあるかもしれないって思いながら何もしないのは、もったいないじゃないか」
「……おはよう」
昨日は夕飯時に起きたが、食欲がなく味噌汁だけ飲んですぐ寝てしまった。朝は6割は食べたと思う。空腹だったわけじゃなく、それぐらい詰めておかないと、後々しつこいからだ。可能な限り体力を温存しようと横になっていた俺に、母は昨日とは打って変わって笑顔を向けた。予想は的中したようで、面会時間開始、早速の話題は食事だった。
「食べてないんじゃないかもしれないって、軽めの食べ物持ってきたわよ」
「……あとでもらうよ」
「いつでも言ってね」
甲斐甲斐しい。すごく、とても……ひどく。
今日はもう退院だ。それなのにこうも気が重いのは、きっと体調のせいだけではない。未来に対する気持ちだけでもない。この地球という星に何か起きて、全員がそう思っていてほしいと願わずにはいられない。
母は俺の少ない荷物を手際よくボストンバッグに詰めていく。ようやく体を起こした俺は病院着から着替え、人前に出れるように整える。
今から帰るのかと思いきやそうではない。昨日の話の続きをするそうだ。昨日の、「転校」の話の続きを。
そう考えれば、体はさらに重くなる。俺のことを第一に考え、考え、考えすぎる母のことだ。冷静ではなかったにしろ本気だろう。もしかしたら、単身赴任している父親のもとへ行くことになるかもしれない。
……そうなったら。
「もう二度と」
――見れなくなってしまう。
余計な期待をするのは、いつからかしなくなっていた。期待して、勝手に傷ついて、周りに心配をかけ、自己嫌悪する。それが嫌だった。だからやめた。
呟いた言葉に反応せず、帰宅の準備を整えた母親が俺を見据える。
こんなにも優しく、尽くしてくれる母親は早々いないだろう。
「準備できた?」
「うん」
「じゃあ行きましょう。車椅子乗る?」
「歩けるよ」
俺は自分で歩ける。
母より先にカーテンの外に出て、しばし自室だった部屋に別れを告げた。追って出た母は荷物を持ちながら、俺の隣を歩く。俺はここから先の目的地を知らない。母に導かれるまま、長く、特徴のない綺麗すぎる廊下を歩いた。途中ですれ違う看護師や患者と逆方向に。
行先は思ったよりも遠く、エレベーターで最上階まで上がった、一番奥の会議室。母がノックして、返ってきた声の後に扉を押す。脚立に乗らないとセットできない程のカーテン。足音の立たないカーペットとロの字を描く長机。背の高い背もたれ付きの椅子。用意された20脚のうち、扉に近い一辺に青い制服、つまりは警察官が3名。手前壁側の5席の方に湯田先生、そして看護師の格好をした耳の長い女性がいる。
「LAH?」
「いいえ、こちらは職業援助型ヒューマノイド・診療タイプ、通称『OAHE』です。簡単に言えば電子カルテです」
「カルテ、なんですか」
「そう。患者とやりとりをして、会話や表情の映像、動作を自動記録。OAHEの視界に入ればバイタルも測れますし、採血や、輸血や点滴に必要なルートをもできるんですよ」
「そういうパターンもあるんですね」
OAHEは実際の看護師さんの様に、俺たちの方を見て一礼した。うかがえる表情からは、機械のような無機質さは感じない。クリーム色のショートヘア、膝丈ワンピース型の白い看護服。瞳はグレー。清潔感のある看護師像ではあるが、どことなく天使を思わせそうなのは果たしてよかったのだろうか。
「すみません、遅刻しましたかね」
「大丈夫ですよ、高橋先生」
扉で棒立ちしていると、後ろには先日ぶりの高橋先生が慌てた様子で立っていた。
途端、母は俺の手をひいて、扉から離れた窓側の椅子に座った。釣られて、というか、有無を言わさず。俺は母の隣に座る。
先生二人は苦笑いをしながら、正面の席に座る。OAHE、白衣の湯田先生、スーツの高橋先生がなぜ並ぶのか。そして上座に当たる一辺には誰もいない。それが良いのか悪いのかもわからないが。
「もう一人は遅れていますが、時間なので始めましょう」
湯田先生は正面の椅子に手をかけてそう言う。声はいつも通り。だけど、部屋の雰囲気は硬く、糸が張っている。隣に座る母の拳は足の上で強く握られていた。強張った表情をして、高橋先生を睨んでいる。そんな高橋先生は気まずそうで、母の方を見れないのか目線を落としていた。警察は、おそらくは事件になりかけたから、事態の把握のためにいるのだろう。
「まずは水樹くんの体調についてお話しします」
湯田先生だけが立っており、俺ではなく、母や警察を見ている。
「どこかに外出していた彼は学校前で倒れ、学校にいらしていたお母様と救急車にて当院へ受診されました。診断結果は過労と貧血。彼の体質を考慮し、輸血を行いました。朝には普段と変わらない程度まで回復が見られています」
三人の警察が見合って頷く。
それを見た湯田先生も頷いて、次は俺を見た。
「水樹くん」
「はい」
「君は高橋先生に「模写するため、美術室外に行く」と話した、というのは、確かですか?」
「はい……そう言いました」
「どうしてそう言ったんですか?」
優しくも強く、厳しい視線が俺を縛る。
その視線の意味をわからないわけではない。そして 、そうさせている意味も。
隣から母の視線を感じる。交わすことが出来ず、正面からの視線をまっすぐ返すしかない。強く握らないようにしていた手のひらの内側が湿っていく。
「どうしても、行きたいところがあったんです」
「それは嘘をつかなければなかったのですか?」
「……」
「水樹くん」
「言ってくれればちゃんと計画を練って――」
「それはない」
割り込んできた母の言葉を遮った。反射だった。絶対、絶対にそんなことはしてくれないだろうと確信があったから。
素早い否定に怯んだのか、母の影が動いた。
汗は変わらず溜まっている。指を伸ばして、ズボンに押し付けた。
それでもやっぱり、母の方は見れない。
「ない、わけないわよ……。あなたの安全を第一に考えて、ちゃんと、計画を練ってーー」
「ないよ。母さんはそんなことしない。そんなの「必要ない」って、「今のあなたには必要ない」、「危険を犯してまで行く所じゃない」って言うよ」
「そんなこと……」
「どれだけ否定されても、俺はそう思う。だから、言えなかった」
俺の想像だ。母さんならそうする、っていう、10年ちょっとの経験からくる予測。
実際言っていたら変わったかもしれない。試そうと思わなかった。思えなかった。そんな希望も期待も持てなかった。砕かれるのが怖かった。
……俺の我儘で、余計な手間と労力をかけさせるのが、申し訳なかった。
「俺の事を大事にしているのはわかってる。安全に育ててくれてるって、しっかり伝わってる。……けど、俺はもっと、色んな所に行きたかった」
「でも……だからって……黙って行くなんて!」
「悪かったと思ってる。けど! 言ってもダメだと思ったんだ! 今までどこにも、修学旅行も! 父さんの出張先にさえ行かせてくれない! 俺はここにいていいって、ここにさえ居ればいいって、母さんの近くにいればいいって言い続けた! 俺のためって言っても、結局は母さんの安心のために縛り付けてただけじゃないか!!」
足元、太もも、その上の拳しか視界に入らず、いつの間にか手を握っていたことに気付いた。指先がひらをエグろうとする。広い部屋で、俺の声は響いていた。自分の腹まで届いたそれは、母や、周りの人になにを与えただろうか。
浅くなっていた呼吸は体を冷たくする。口が乾くほどに息を吸って、吐いて、吸った。
視線を上げれば、俺の事を真剣に見つめる湯田先生。無感情に微笑むOAHE。困ったような、焦ったような顔をする高橋先生。警察の人達は怪訝な顔をしていた。
「……ごめん、母さん」
母さんは、ショックを受けていたようだった。
見てすぐに視線を逸らしてしまった。小さく俺の名を呼んだのが聞こえて、胸が締め付けられた。
もう何年も呼ばれなかった。呼ぶと俺を苦しめるだろうって、変な気を遣っているらしい。苦しいのは自分だろうに。俺は、そんなこと、頼んだことがないのに。
何も言うつもりはなかった。ずっと、永遠に、墓場まで持って行くつもりだった。絶対にそんなことをするはずが無いという確信が、母に嘘をつかせたくなかった。
……いや、違う。
「ごめん。俺が、『そうだ』って決めつけてたんだ。絶対無理だって。心配かけるから、俺は絶対、どこにも行けず、何も見れず、何も経験できないんだって。しょうがないんだって、思い込んでる自分を否定したくなかったんだ」
居たたまれない。この場にいたくない。逃げたい。消えたい。肩を上げて、頭を下げて、縮こまって、いなくなってしまいたかった。
誰かここから連れ出してくれないか。そんな期待と裏腹に、誰も、何も言わない。話が進まずに悩んでいる人がどれだけいるだろうか。
そこで、肩に誰かが触れた。
「あなたのためなのよ。あなたが、立派に大人になって、同時に医学も機械技術もより進歩すれば、あなたは自由なのよ。だから、もう少しだけ待ってほしかった」
「……それはいつ?」
「わからない。けれど、きっと、あなたも生きやすい世界になるわ」
「そんな曖昧な未来に何を期待するんだよ!!」
机に叩きつけた掌がヒリヒリと痛む。同時に、椅子が後ろにひっくり返った。カーペットに叩きつけられた椅子がグラグラと揺れて足に触れる。
母は驚いていた。そんな母の顔はいつぶりに見ただろうか。そんなことは、頭に血が登った俺には些細なことだ。
「俺はなんでこんなに不自由なのか! そんなの聞いたところでどうしようもないし、理由なんて俺が一番よくわかってる!! けど! だけどさぁ! 俺は行きたいんだ!! 色々な場所に! 色んなものを見て、触れて、感じたい! それが本物なんだって! 現実にあるものなんだって!! 実際にその場に行かないとわからないものを確かめに行きたいんだ!! もう幻想に逃げたくないんだよ!!!」
唾液が飛ぶのもお構いなしに叫んだ。人前なのに。そもそもこんな話をしに来たわけではないはずだ。
上がった脈拍と呼吸が止まらない。いつの間にか後ろにいた湯田先生が、俺の肩に手を当ててリズムをとってくる。釣られていく心臓。座らされると同時に、母の腕が伸びてくる。
「そんな、そんなこと言わないで……。私たちがどれだけあなたを大事にしてきたか……」
「わかってる。わかってるから苦しいんだよ」
頭を抱えた。母を見たくなかった。だから、言いたくなかった。
「俺はなんで生まれてきたの?」
呼吸とともに消えてほしかった言葉は、嫌に部屋中に響いて、耳に残った。
母の手は俺に触れることを躊躇った。湯田先生は俺の肩に手を置き続ける。温かくて、重い。
息を飲む音が聞こえた。鼻をすする音も聞こえる。音の方向からその人物と、原因を理解して、より深く、後悔する。
「ごめんなさい」
生まれてきたことに、その言葉を捧げるしかできない。
アルが、LAHが、OAHEが羨ましかった。
意味を持って生まれてきた彼女らのことが。
メンテナンスさえすれば、部品さえあれば、必要なものを作り出せば、なんでも出来るAIロボットたちが。
俺の事を守ってくれる人はいても、助けてくれる人はこの世にはいない。
肩の上の手に力が籠った。
その時だった。
「いやーすまない! 遅くなってしまった!」
勢いよく開け放たれた部屋の扉。反射的に全員がそちらを向く。俺も、母も、湯田先生も高橋先生も警察も。OAHEだけは変わらぬ表情でゆっくりと向きを変えた。
視線の先には車椅子を使用した、ボサボサの長い髪を適当に一つにまとめた若く見える男性。。一見患者が迷い込んだかと思いきや、白衣を着ていた。背もたれの高い電動車椅子でスケートの様に軽やかに入室してくる。今までの空気なんてお構いなしだ。
「アメリカから直で来ようと思ったんだが、ヘリポートは使ってはダメだというし、近くのヘリポートもないから時間がかかってしまった! けどRe:aruを連れて来れたから結果オーライだろう! 先に調査したが異常はなかったぞ!」
「アル……?」
反応すると、男は俺を見た。眼鏡越しの輝かしい丸い瞳はより大きく開かれる。
「君か!? もしや君がRe:aruの契約者なのか!?」
答えに戸惑う横で、母は不審者に出会したかのように身構える。
俺たちの心情はお構いなしに、男は扉の方に声をかける。
「Re:aruー! 早く来なさい!」
「失礼いたします」
「あ……」
一日程度しか開いていないのに、ひどく懐かしい。
無機質で、寄り添う温度のない声。黄緑色の長い髪がお辞儀とともに揺れる。長い耳が見えて、その横で水色の瞳が光った。
「アル……!」
せっかく座った椅子が再び音を立てて倒れる。テーブルに乗り出して声を出したが、アルはこちらを見ない。代わりに白衣の男が俺を見た。黒髪黒目、日本人の顔立ちをした彼は、俺を値踏みするようにじっくりと見てくる。手に持った何かを操作して、アルは彼の後ろについた。
「すまないが、今は半自動なんだ。私の持つリモコンの通りにしか動かない」
「あ……そう、なん、ですか」
だからか、と納得。同時に感じる寂しさ、悔しさ、失望。
クラスの中で一人だけと思っていた優越感は、慈悲で与えられた虚構だったのだと叩きつけられた。
力なく座っても、アルは寄ってこないし、気にもかけない。何を期待しても、これがAIでヒューマノイドなんだ。そう思い出して、座面が滑りそうになった。
「開発責任者の天野だ。さて、何の話だったのかな?」
後から来たその男がさらりと名乗り、この場を仕切り出す。近くの人たち同士で顔を見合わせ、元の進行役だった湯田先生が声を上げる。
「水樹くんの体調には問題ないと言うところまでお話ししました。そして次は、ことの経緯をお話ししたいと思います」
湯田先生は高橋先生に目配せして、静かに座る。白衣の男は唯一開いていた一辺、上座に当たる机の真ん中を陣取った。当然、アルはその後ろに位置している。
交代に立ち上がった高橋先生はいつもの気さくな様子は微塵もない。強張り、緊張しているのが手に取るようにわかる。スーツで引き締められた体と首がどうにも似合わない。
「まっ、まずは水樹くんのお母様に謝罪させてください。申し訳ございませんでした!」
勢いよく、机と水平になるまでの謝罪。それを母さんは、何のリアクションもなく見つめていた。
それについて誰が何を言うでもなく、静かな時が数秒流れた。高橋先生は息を飲んだまま状態を上げ、細く息を吐いた。
「時系列に沿って説明させていただきます。拙い部分もあるかと存じますが、ご了承ください」
胸ポケットから取り出された、いくつかに折られた紙。それを広げ、読み上げていく。
「まず、当校は『生活援助型ヒューマノイド』の研究の協力校として選出されました。その目的は、『思春期の学生たちとの交流から、より人間、および心を理解・学習するため』というものです。私は学校からその研究の窓口に選出され、同時に『LAH』の対象者を選出する役割を持っていました。そこで私が適任と考えたのが、水樹くんだったのです」
「なぜ、彼と定めたのでしょうか」
警察の一人が肩までの小さい挙手とともに質問を飛ばす。
高橋先生は驚きもせずに言葉を続ける。
「『LAH』が当校に運ばれてくる日付が、丁度、水樹くんの学年が修学旅行に行く日取りでした。水樹くんは唯一、修学旅行に不参加。人柄は真面目で誠実。けれど人に言えない悩みも抱えているのは彼を見ていればわかります。学生ならではの行事を体験できない彼に特別な体験を、という想いと、この子に寄り添ってあげられる存在が必要と考え、勝手ながら彼が『マスター』となるよう……すみません、仕組みました」
「仕組んだ、とは?」
「彼に『LAH』の運搬を手伝ってもらった際、すでに起動し、スリープ状態にしておきました。接触した最初の人間が『マスター』となるように」
じゃあ、あの時、「電源入ってたか」って言ったけど、結局は計画的だったということなのか。
先生の気遣いに胸が熱くなる。気を遣わせて申し訳ないとばかり思っていたが、それすらも先生の心配の種になっていたのだろうか。体質と家庭環境のせいで、触らぬ神となってしまった俺に、高橋先生は唯一と言っていいほど親身に、分け隔てなく接してくれていた。
『マスター』は云わばクラスの係だ。けれど研究の協力という条件があるから、もしかしたら報告の義務があったのかもしれない。高橋先生は綱渡りをしてまで、俺に与えたかったんだ。貴重な体験と、『アル』という存在を。
「水樹くんの同級生は今週ずっと修学旅行で不在です。その間、彼はずっと学校で部活動に励んでいました。ずっと部活に励むということ関しては『アル』の存在は関係なかったと思います。月曜から木曜まで、私が見ていた限りでは特別な関わりはないように思いました。金曜日に外出してしまうまでは」
そこで、高橋先生は俺を見る。その視線は、優しかった。どこか安心しているような、決して責めるものではない。巣立ちを見届ける親鳥のような、どこか哀しげにも映る、けれどこれからの幸せを願うもの。憂いから解放されたような、そんな視線。
釣られるようにして、警察の人たちも俺を見た。そして求められているのも察する。
「別に……アルとは話をしていただけです」
「どんなお話ですか? 無断で学校から出て行ってしまった理由をお聞かせください」
丁寧に、それゆえの圧と言葉で、詳細を喋らざるを得ない。
相手が相手だけに冷や汗が垂れた。
「アルから話しかけられることが多かったです。「何を描いているのか」「何を考えているのか」って。俺が描いているものについては必ず聞いてきて……あとは、毎回「行くか」って」
「どこにですか?」
「……俺が、山荷葉って花を見てみたいって話をしたことがあるんです。そしたら毎回、俺がしたくするたびに「行きますか」って」
「へぇ」
反応したのは天野さんだった。にやり、と。得物でも見つけた蛇のような目線が背筋をなぞり上げる。
「け、けど、アルに強要されることはありませんでした。俺が……俺が、行きたいと強く思ったんです」
「どうしてそう思ったのか、ご自身の考えはありますか?」
「……たぶん」
息と言葉が詰まる。
きっと、俺が行動に移したのはこれがきっかけだ。それはアルを不利にさせるものではないと信じたい。けれど、俺の考えが、他と違う可能性ある。そう思ったら、言葉は胃の方に溶けていく。
部屋が沈黙に包まれる。俺に視線が集まっている。より、重く、行動を許さない。
「Re:aru、全自動モードへ切り替え。データの引継ぎを開始」
空気を読まない声が、沈黙を乱暴に破った。
聞き慣れた了承を示す音の後、静かに、俺に真っ直ぐに投げられた声が鼓膜を揺らす。
「――マスター」
「……アル」
人工の瞳が俺にピントを合わせたのがわかった。天野さんの後ろから、静かに、一歩ずつ歩み寄ってくる。全自動だから誰にも止められない。強いて言えば俺が止められるだろうが、むしろ、俺も席を立って、アルに駆け寄った。
「やめなさい!」
そんな俺の腕をひいて止めたのは、やはり母だった。
「あなた、その『LAH』のせいで、どんな目にあったかわかっているの!?」
鬼気迫る表情をしている。と、冷静に判断できる程度には冷静だった。
そう言われることはわかっていたから。そう思わせるだろうとも思っていたから。
引き留められている俺の近くにまで寄ってきたアルは、母に構わず俺を見ている。その存在感だけで、俺の心と口は、さっきまでとは違ってひどく軽くなる。
無表情のアルを見ていると、滑らかな口が自然と音を奏で始めた。
「母さん」
「な、なに?」
「俺さ、ずっと、反抗したかった」
振り向いた母の顔は、俺ではないものを見ている様に驚いていた。
「今までずっと、心配してくれてありがとう」
「え、な、なんなの……?」
「心配かけてるのは知ってた。心配をかけさせてるのは俺のせいで、母さんは母さんとして、俺に無事に育ってほしかったってわかってる」
「……」
「けど、ね。俺はいろんなところに行きたいとずっと思ってたんだよ。生まれ育ったこの北海道も。父さんのいる東京にも。同級生が楽しんでいる沖縄にも。見たことのない世界へ、俺は行きたかったんだ」
「で、でも。もしあなたに何かあったら」
「うん。わかってる。でもそれは……その心配は、俺だけに限ったことじゃないよね」
「……え?」
「どこでなにがあるかなんて誰にもわからない。母さんだって買い物に行った先で事故にあうかもしれない。不吉な例えをしてごめん。でも、そういうものでしょう? 何かあるかもしれないって思いながら何もしないのは、もったいないじゃないか」



