セカイ ノ ケッカン

 ―― 20××年。5月。北海道。


「すまんなぁ、手が空いている奴がいなくて」
「いえ、どうせ暇ですから」


 謙遜して言ったが、男二人でやっとの、自分の背丈ほどある段ボールを校舎の四階まで上げるのはなかなか骨が折れた。
 開け放たれた美術室にようやく辿り着き、一番近いテーブルの上に横倒しで置いた。
 ドス、と鈍い音が終わると、俺と先生は大きく息を吐き出した。


「いやー重かった。茶でも飲もう。お礼だ」
「ありがとうございます」


 登った階段を恨めしい気持ちと共に降りる。
 一階の校舎から渡り廊下を過ぎて、シャッターで閉じられた食堂前の自販機で立ち止まる。
 やや湿気。
 ゴールデンウィーク明けの、梅雨前の時期。
 中学二年生は修学旅行で不在。
 一年生と三年生と高校生は授業中だ。


「何がいい?」
「水で」
「味気ないなぁ」
「意識高いんで」
「何言ってんだ」


 先生が教員カードを自販機に掲げると、ピピッと音を立てた。
 水滴のついたそれを拾い上げ、手渡された。
 謝辞とともに受け取ると、今度は自分の分の缶コーヒーを買った。


「今頃みんな到着したかね」
「10時半……そうですね。もう飛行機には乗ってるんじゃないですか?」
「だなぁ」


 同級生は今頃空の旅。
 一人地上に足をつけている俺は、あるはずもない授業を受けに来たわけではなく、ましてや雑用を手伝いに来たわけでもない。
 ただ家にいても窮屈なので、わざわざ制服に着替えて、公共交通機関を使って部活動に勤しみに来たのだ。


「何描いてるんだ?」
「今は……これといって。ただ思いついたものを適当に」
「ほう。あれは、模写とかしないのか?」
「そこにあるのに描いてもなぁって。そこまで本気でやってるわけでもないですし」


 基本は大事だってわかってる。
 けれど、応用に行きたい訳でもないし、将来的に続けたい訳でもない。
 ただ部活動で、趣味の一環。
 家から出れて、学校に留まれて、費用は少なくて、危険がないからやっている。
 ただ写し描くのはつまらないから、なんとなく想像のものを描きだしている。
 意外と難しいと気付いたのは早かった。
 何せ、想像するための情報が、自分には備わっていなさすぎるから。

 少しばかり飲んだ水を手に、コーヒーを飲み終えた先生と美術室へ戻る。
 段ボールを解放するんだとか。


「先生やるから、水樹(みずき)は部活に勤しんでくれ」
「はーい」


 キャンバスと、手に馴染む濃淡様々な鉛筆。
 扉より窓際に寄って。正面よりやや後方に位置をとる。
 入口すぐのテーブルに置かれた段ボールが観音開きとなって、先生は中のものを抱き起こした。


「それ、もしかして『ラー』ですか?」


生活援助型ヒューマノイド(Living Assistance Humanoid)』は、ここ数十年で急速に発展した人工知能によって確立された、人間の生活支援を目的として作られたAIロボットだ。
 人の世になじむように見た目はまるで人間。胴体は機械らしさを残しているそうだが、今の俺には確認しようがない。
 会社では秘書。家では家政婦。そして今、政策によって学校に派遣され、思春期である学生に寄り添い、人間の『心』を学習することが期待されている。
 ニュースでは協力してくれる学校を募集し終え、抽選を行ったと聞いた。


「そうだ。水樹のクラスに在籍することになるぞ」
「生徒ですか?」
「いや、先生の補助としてだ」


 まあ、そうか。
 LAH(ラー)はそもそも義務教育なんて序の口で、大学の研究者と意見交換ができるほどの知識を持っている。
『歩く論文』もしくは『動くwikipedia』といえるだろう。というのも、LAH(ラー)はインターネット回線と常時接続されているので、一番近いのは『勝手についてくるPC』みたいなものかもしれない。

 段ボールの中から上半身だけ起こした状態のそれは、光に溶けてしまいそうな黄緑色の髪を垂らしている。
 席から立ち上がって、LAH(ラー)の正面に回る。
 人間のようでそうではない整った顔立ちは、逆光のせいで影が射している。
 瞳は開かれていない。口も閉じている。粘膜の色をした唇は、生きていると嘘をついている様。脱力したままのLAH(ラー)は、どこか妖精やエルフを思わせる程に神秘的な雰囲気を醸し出していて、でもやはり人間ではない横長の耳だった。メイド服を着ているのは開発者の趣味だろうか。


「なんでLAH(ラー)って耳長いんですか?」
「見た目でわかる、人間との区別だそうだ。あとは手入れやメンテナンスをしっかりやれば、人間より長命だろうということらしい」
「じゃあエルフがモチーフなんですね」
「そうなるな」


 小説や、空想。
 そんなところで出てくるエルフを、人工的なものとはいえ目の当たりにしている矛盾。
 その事実は心に来るものがあって、腕が締め付けられるような感覚で腕を伸ばしていた。


「起動しました」


 空色の瞳が見えた。
 触れた手は瞬間的に離れた。
 パステルカラーの色素を持ったLAH(ラー)は、耳になじむ声を発する。
 柔らかい色の目が俺を捕らえて離さない。


「あちゃー、電源入ってたか」
「先生、どういうこと?」


 怪我をしたわけではないが、一瞬振れた手を握る。
 温もりはなかった。
 むしろひんやりしていた。
 けれど弾力もあって、少し沈んだ感触だった。
 不安そうにしているであろう俺の顔を、ただただじっと見つめてくる。
 視線が強く刺さる。
 射抜かれる。
 ヒューマノイドとはいえ、突然、無断で触るのはご法度だっただろうか。


「ごめ――」
「個体名、Re:aru(リアル)です。アルとお呼びください。マスター」
「り、りある? ますたー?」


 呆気に取られている横で、先生は呑気に「まあいいか」と言った。
 背中に変な汗を感じながら、先生に説明を求む視線を投げる。


「顔認証で、水樹が契約者になったな」
「契約者ってなんですか」
「スマホの所持者とか、家の名義人とかと一緒だ。このLAH(ラー)はお前を支えることになったな」
「え、ど、どうしたらいいんですか!」
「どうもしないぞ? 生徒の中から決めようと思ってたし。三年生は受験、一年生はそもそも周りと仲良くしてほしい。高校生よりも中学生が(むこう)の希望。だから二年生で一人だけ修学旅行に行っていない奴の特権と思ってくれよ」
「特権って……」


 こんな行き当たりばったりで、よくわからないLAH(ラー)をどう「得」と思えというのか。
 恨めしい気持ちの反面、不用意に触れてしまった自分のせいでもある。
 文句を言うのは筋違いだろうか、罪悪感が隠しきれない。
 にやにやしている先生を名残惜しく睨みながら、純粋に裏のなさそうな目をしたLAH(ラー)、通称アルと視線を交わす。
 こちらからは何も察することはできないのに全てを見透かされるような気持ちの悪い錯覚に、全身の血液が不気味に波を打った。



 ・♢・



「何を描かれているんですか?」


 アルが俺の背後から尋ねてくる。
 視線だけをただ浴びているよりはまだマシなので、仕方なく説明する。


「なんて言えばいいか……。テーマは『庇護』」
「『庇護』?」
「そう」


 キャンバスにまだ下書きの、女性と花。
 鉛筆でうっすらと浮き上がる程度のそれは、地面に生えている花を女性が膝をついた状態で両手で守る様にしているもの。


「なぜこれを描こうと?」


 想像の創造。
 どこでもありそうで、なさそうな情景。
 思いついただけだから、これ自体に意味はない。
 そう言えば、アルは反応に困ったのか、何も言わなくなった。
 その代わりなのか、スラリと滑らかに袖に隠れた腕が俺の肩から伸びて、キャンバスを指さす。


「この花はどんな風にされるのですか?」
「あー……どうしようかな」


 深掘りされるとは思っていなかった。
 呆気にとられかけ、言葉を理解した途端に思った花の特徴が口走った。


「透明になった……山荷葉(さんかよう)かな」
山荷葉(さんかよう)。――高地で見られる多年草ですね」
「そう。実際に見たことはないけどね」
「なぜそれを?」
「いや……なんとなく」


 煮え切らない素っ気ない態度を隠すように、色鉛筆を走らせる。
 AI学習なのか、俺に尋ねる声は減り、ただただ視線が突き刺さる。
 最初は黙って見られるよりも、と思ったが、やってみたら、ただ見られるだけの方がマシだった。
 何故俺がこんなことに、と、恨みの対象は早々に職員室へ戻ったことを思い出す。
 そろそろ戻ってくるはずだったが、扉の外は静かなままだ。
 ちらりと壁の上の方にかかった時計を見ると、頂点で針が重なる寸前だ。
 色鉛筆を置いて、立ち上がる。
 アルは別位置に座った俺に目線を投げかける。


「お昼ご飯を食べるよ」


 キャンバスから離れたテーブルで、持ってきた荷物からお弁当を出す。
 両手を合わせて、いただきます。
 見られながらの食事はまた気まずい。
 けれど、それはすぐに解消された。
 今度は俺がアルを見る。
 まだ描きかけの絵を、熱心に見ている。


「……っ」


 開けられた窓から風が吹いて、黄緑色の髪が毛先にかけて白く透ける。
 エルフとも妖精とも思わせる耳が、より神秘さを増幅させている。
 真剣な目には光は入っていないけれど、真っ直ぐな眼差しは生命力を宿しているようにも見える。
 その状況が、俺の描いている絵よりも絵になっていて、口に入れようと思ったブロッコリーが床に落ちた。
 拾おうと手を伸ばし、頭を下げた。


「水樹ー」
「はいってぇ!!」
「おぉう、どうした、大丈夫か?」


 ノックもなしに戻ってきた先生に驚いて、テーブルに頭を強打した。
 今の俺は間違いなく涙目だ。
 痛む箇所を押さえ耐えながら、そして掴んだブロッコリーを握り潰さないように気をつけながら、姿勢を戻す。
 滲む視界に映るのは、扉側にいる原因ながらも少し引き攣った表情の先生と、反対の窓際にいる無表情のアル。
 そして、途端に血の気が引く、先生。


「あっ、お前、頭大丈夫か? 血、出てないか?」


 今日一の焦りを見せ、駆け寄ってくる。
 頭にある俺の手に液体の感覚はないから大丈夫だと思う。
 そう伝えても、先生はその目で確認しようと俺の髪を掻きわける。


「……うん、よし、大丈夫だ。よかった」
「まあ、もし血が出ててもこれぐらいなら大丈夫だと思いますよ。絆創膏も貼れないし、気付かれませんよ」
「とは言ってもなぁ」
「あー、まあ、そうっすよね。すみません」
「いやいや、水樹が謝ることじゃないさ。悪かったな」


 両手を振って、気まずそうな雰囲気を払い飛ばそうとする。
 ちょっと頭ぶつけたぐらいならまだしも、出血していたら確かに先生は俺の親に連絡しなければならない。
 それがたとえ、かすり傷でも。


「診ましょうか?」


 第三者の声が聞こえる。
 いつの間にか俺の背後に移動していたアルが、俺を見下しながら問いかけてきた。
 見上げても綺麗な顔立ちに息を飲んだ。


「……診れるの?」
「応急処置の方法は内蔵メモリーに保存されています」
「……じゃあ、一応」


 目線を下げ、頭を差し出す。
 アルのひんやりした指が、俺の髪を優しくかき分ける。
 頭皮に触れ、「一部熱感あり、腫脹なし、変色なし」と呟く。


「内出血は今後出るかもしれませんが、外傷は確認できませんでした。おそらく、出血はしないものと思われます」
「ああ、よかった」


 俺よりも安心している様子の先生は、手を当てた胸を撫でおろした。
 それを見て、罪悪感。


「うちの親がすみません」
「いやいや、大事なお子さんを気にかけるのは普通のことだから」
「理解はしてるんですけどね。ところで先生、何か用だったんですか?」
「ん、ああそうだ」


 先生は脇に抱えていたタブレットを起動させる。
 テキパキと操作して、こちらに画面を向けた。
 写っているのは、いくつかの見知った顔と真っ青な海、白い雲と真っ赤な花。


「無事沖縄に着いたそうだ。引率先生伝いで水樹にって」
「おおー。いいですね。綺麗に晴れてるみたいだし、楽しそう」
「『土産期待しとけ!』とのことだそうだ」
「キャリーケース用意しとく、って返信してください」
「わかった」


 それだけの用だったようで、先生は部屋を出た。
 そして改めて、俺は弁当を食べる。
 傷を診てくれたアルは……またしてもキャンバスを見つめていた。
 まだ朧げにしか描いていないそれをなぜそこまで熱心に見るのか。
 その疑問は、春巻きとともに喉奥へ流れていった。

 食休を挟んで、またキャンバスに向き直る。
 背後にアルを添えて。
 見られながら描くのは子どもの時ぶりだなと考えつつ、握った鉛筆を小刻みに動かす。
 あるはずもないであろう景色に立体感と現実味を出したい。
 そんな思いを馳せながら、明らかに「ありえなさそう」なそれ。
 現実的な話、そもそもの画力が理想に追いついていない。
 自覚しつつも、精進する気はない。
 俺にはこれしかないのだし、同時に、これにしかないことへの反発だ。


「なぜ絵を描こうと?」


 唐突な質問にも驚かなくなってきた。
 だから後ろを向くこともない。
 少しだけ立ち止まった鉛筆を再度走らせる。


「別に、何となく。何かやりたくて、でもこれと言ってやりたいことがなくて……絵なら、紙とペンがあればできるから」
「いつ頃からですか?」
「本当に小さい時。たぶん、物心つくときには描いてたと思う」
「離れることはなかった?」
「……そうだね。というより、離れられなかった」
「なぜ?」
「他にできることがなかったから」


 そう、俺は何もできなかった。
 文章を書いたり、絵を描いたり、楽器を吹いたり弾いたりすることはできたけれど、全部が全部、室内で、安全に怪我をする可能性が低いことだけに絞られる。
 そうじゃないと許されなかった。
 許された中で、一番関心があったのが絵だ。
 といっても、どんぐりの背比べだけど。


「何がやりたかったんですか?」


 やたらと聞いてくるな。
 そういうものなのか?


「何だろうね。子どもらしく生物図鑑が好きだったのは覚えてる。植物でも、虫でも、動物でも。だからよく動物園とかに連れてってってねだってたかな」


 懐かしい子どもの頃。
 一人っ子で、父は忙しくしていたが、母はずっと身近にいた。
 できる限りの要望を叶えてくれた。
 欲しい本は買ってくれた。
 興味深そうに読んでいる俺の隣で頭を撫でてくれた記憶がある。


「まあ、今はもう、ないけれど」


 曖昧なことを言った自覚はある。
 返事か、自答か。
 多分どちらもだけど、アルの質問が止まったことに安堵している自分がいた。

 それからは大した反応も質問もなく、ただ風を感じながら鉛筆の音が流れるだけだった。
 午後四時。
 片付けがすんで、帰ろうとしたとき。


「行きますか?」
「はい?」


 声に驚いて振り向くと、座っていた椅子から立ち上がっているアルがいた。
 閉められた窓から風はない。その代わりに夕日の強い光が射しこんでいる。逆光で眩しい。オレンジ色の背景に、光で透ける、昼間とは印象の違う長い髪。浮き出た彼女の表情は……表情は読めない。
 ロボットゆえの無表情。『冷たい』以外の言葉が見つからない。『人の心に寄り添えるように』というというのは本気かと問いたくなる。

 ただ立ち尽くし、こちらの動きを待っている。
 見惚れていた……という言い訳は胸にしまった。


「い、行くって、どこに?」
「山荷葉」


 一も二もなく言われた単語で、合点がいった。
 荷物を肩に乗せ直し、扉に向き直して手をかけた。


「行かないよ」
「なぜ?」
「……行けないから」


 言葉と被せて扉を開けた。
 紛らわせても、アルには聞こえただろうか。けれど有無を言わせずに部屋を出て、扉と鍵を閉めた。

 行けない、というのは間違いじゃない。時間的にも、距離的にも、今から行っても難しい。行きはよいよい帰りは恐い、みたいなもん。北海道の距離感を舐めてはいけない。

 美術室の鍵を握りしめ、職員室へ立ち寄る。


「しつれいしまーす」
「お、水樹おつかれー」
「先生、アル置いてきちゃいましたけど」
「あぁ、いい、いい。鍵だけもらえるか」
「はーい」


 そうして学校の用は終わり、下駄箱から正門へ帰路につく。まだ運動部も吹奏楽部もやっている声を聞きながら、夕日とは逆方向へとぼとぼ歩く。
 ふと、学校を見上げてみた。三階に位置する美術室のほうを見たが、角度的に中の様子はわからなかった。

 正面を向いて、気持ちばかり足の進みを早くする。家までは電車と徒歩で15分程。母に連絡を入れてあるので、寄り道せず帰らなければならない。

 一般学生の様にイヤホンやヘッドフォンをすることもなく、スマホを見ることもなく、ただただ歩く。普段と変わりのない景色だから、もちろん飽きている。それならば当然、物思いに耽ってしまっても致し方ないだろう。

 ……アルはどうして、「行きますか」と言ったのだろうか。
 ただ絵の題材にしていて、それがたまたま住んでいる地域周辺に咲いていて、ちょうど今が時期で、聞かれたから答えただけだったのに。
 AIロボットにも『気まぐれ』というものはあるのか。そうでなければ……あれが、寄り添った結果、だということになるのか。だとすれば……AI(アル)は、俺が「山荷葉を見に行きたいだろう」と判断したのか……?

 頭を振る。こんなものは雑念だ。俺が出かけたいと思うはずがない(・・・・・・・・・・・・・・・)。まだ会って数時間だ。アルも、俺のことをよく知らないから精度が低かったんだろう。

 スマホが振動する。立ち止まって見れば母から、迎えに行こうか、というメッセージ。過保護なそれに断りの連絡を入れ、再度進む。
 物思いに耽る理由は、あっという間に着いてしまうから、というのもある。


「ただいま」
「おかえり」


 玄関前に経つ母。いつも通り、貼り付けたような笑み。毎日、10数年間見てきた俺や父にしかわからないであろう不気味さ。近所で良い人と評判の母は、俺から荷物を奪った。


「お風呂湧いてるわよ」
「うん」


 いつも通り、帰宅したら直ぐに風呂。外の雑菌を払い落とし、健康を保つため。
 シャワーを浴びて、身体を洗って、湯に浸かる。
 家の中は息苦しい。それは俺のためにああなった母がいるからに他ならない。感謝と、罪悪感と、気持ち悪さ。
 何もしてないといえば何もしてないけれど、母からしたら、何もしてない俺でいてほしいんだろうな。
 低酸素状態が長いと、慣れてしまって息苦しさを感じにくいらしいが、まさにそれ。もっと言えば肩凝りみたいなもん。

 脱衣所に置かれた部屋着を着て、耳にかかる髪を乾かして、リビングで水を飲む。一日1リットルが目標。

 夕飯はもう用意されていて、いつもの流れで食卓に座る。ご飯と、味噌汁と、薬膳料理みたいな健康志向の塊。


「いただきます」


 母との会話は無い。昔は話していたけれど、子どもの頃に不注意で舌を噛んでしまったときから『食事中の会話は禁止』になった。


 母は俺の安全を何よりも求めている。


 だから、学校でも部活でも習い事でも遊びでも運動は禁止だし、母の手の届きにくい遠征や旅行も禁止。
 やりたいと嘆いたこともあったけど、俺以上に嘆く母を宥めるためには「やらない」という選択肢をとるしかなかった。


「ご馳走様でした」


 最後の一口を飲み込めば、ようやく俺は息ができる。食後は勉強の時間。だから、自分の部屋に閉じこもることができる。

 部屋で、扉を閉めて、静かにベッドに飛び込んだ。勢いをつければ母が駆け寄ってくる。だから、そっと膝を乗せて、ゆっくりと。うつ伏せで、顔だけ横に向けて、息を吸って吐く。
 ベッドに押し付けられている耳から拍動が聞こえる。一定のリズムを聞いていると眠くなる。俺の学年は修学旅行中だから、宿題はない。予習、復習ぐらいか。


「……やる気出ないな」


 考えてしまうのはアルのこと。というよりも、アルから提案された内容。
 明日も学校に行くとして、同じような提案をされるだろうか。されたら……どうしよう。


「……いや、悩むなよ」


 顔を伏せれば、息苦しい。