【第2話 僕の彼氏には、本命の女がいるらしい】
僕は運が悪い。
運が悪いから……いつもの電車に乗れず、混雑した車内で朝から痴漢に遭っている。
痴漢に遭ったのは今までの人生で今回が初めてだ。
男の僕の硬い尻なんて触っても、楽しくなんてないだろうに……。
早く降りたいけれど、各駅停車じゃないから次の駅までまだ時間がある。
嫌で嫌で「やめてください」って大声で言いたいのに怖くて声が出ない。
お尻を触る手がモゾモゾ動くたびに泣きたくなってくる。
痴漢に遭った女の子は、こんな思いをしてるんだ……。
僕は痴漢なんて絶対にしません!
今までも、これからもずっと。
神様に誓うから……どうか助けてほしい。
(ん……?)
ふと気づくと、先ほどまで尻を撫でていた手が僕の股間の前側を触っていた。
しかも制服のズボンのファスナーがおろされていく。
顔から血の気が引いていくのが自分でも分かった。
これは……ヤバい。
怖いやら恥ずかしいやらで心の中はぐちゃぐちゃだ。
涙が出そうになっているのか自分でも分からないけれど視界が滲む。
気持ち悪いし、吐きそう。
「悪い、通して」
これは空耳だろうか。
離れた場所から、心地よく感じる低い声が聞こえてきた。
昨日、蛇居と轟から僕を助けてくれた時に聞いた声だ。
思わず救いを求めるように、声がした方へ顔を向けるとこちらへ来る涼風先輩の姿が見えた。
満員電車にもかかわらず、先輩が進もうとする方向にいる人が自然とよけて空間ができている。
最上級のイケメンには人を動かす力でもあるのだろうか。
すんなりと僕の目の前に立った涼風先輩は、電車のドアに壁ドン状態で僕の身体を先輩の腕の間に閉じ込めた。
先輩がつけているのか香水のようないい香りが分かるくらい距離が近くて緊張する。だけど不思議と、安心する気持ちもあった。
「はよ」
「おはよ、ござます」
「ござます、って」
フッ、と先輩が小さく笑う。
ああそうだ、この笑顔と声だ。
昨日もそうだったけど、涼風先輩の笑顔と声は僕の心臓をキュンキュンさせる。
男の僕が男の先輩にときめくなんて、おかしいのに。
「体調が悪いのかと思ったから来たけど、その様子だと大丈夫そうだな」
「あ……」
そういえば、先ほどまで酷かった吐き気がなくなっている。
先輩が盾になってくれているから、僕の周囲に空間ができていてだいぶ楽だ。
だけど僕は忘れていた、痴漢に制服のズボンのファスナーをおろされていた事を。
「開いてるぞ」
「あ、うわ」
電車のドアに壁ドンされて向かい合う感じで立っていたので、僕と先輩の間には空間ができている。
だから先輩が少し視線を下げた時に、僕のファスナーが全開になっていることに気づいたようだ。
慌ててファスナーを上げようとしたけれど、片方の手に藻蕗くんから借りた漫画が入った紙袋を持っているせいかうまくできない。
「じっとしてろ」
「ひぇ……?」
壁ドンしたまま僕の視線の先で、片手だけで器用に涼風先輩が僕の制服のズボンのファスナーを上げていく。
正しい状態にしてもらっているのに、どうしてこんなに胸がドキドキするんだろう。
もし涼風先輩の手が上にではなく、脱がす感じで逆の方向へ動いたりしたら……
僕の心臓は爆発してしまうかもしれない。
茹でダコの気分が分かりそうなくらい顔が熱い。
ようやく高校の最寄り駅に着いた時には、僕は精神的に消耗していた。
「すいません、僕、少しベンチで休んでから行きますね」
「わかった」
ベンチに腰をおろし、ふー、と大きなため息を吐く。
朝から痴漢には遭うし、先輩にはドキドキしすぎるし、なんだか疲れた。
「ん」
「え?」
てっきり先に学校へ向かったと思っていた。
それなのに、心なしか心配そうにしている表情の涼風先輩が、僕の目の前に立っている。
「水の方がよかったか?」
両手にペットボトルを持った先輩が、黄色いパッケージの方を僕に差し出していた。
(あ、これ……僕が好きなやつ)
先輩が渡してくれたのは、偶然にも僕がよく買うレモンティーだった。
もう一方の手には、ミネラルウォーターのペットボトルを持っている。
「いえ……レモンティーがいいです」
僕は先輩からレモンティーのペットボトルを受け取って、気づく。
「あ、お金……」
「いいって、そんなん」
「いえ、そういうわけには」
僕がそう言うと、涼風先輩はポンと僕の頭に手を置いた。
「そんじゃ次は佳南がおごってくれよ」
「分かりました」
同じ『おごる』にしても、蛇居と轟に無理やりおごらされるのと違うから即答してしまう。
涼風先輩は怖いという噂だったけれど、実際に接してみて今のところ怖いと感じたことはない。
むしろ、優しいのではないだろうか。
レモンティーのペットボトルを開けてひとくち飲んだらだいぶ気分が落ち着いてきた。
「涼風先輩はいつもこの時間の電車に乗っているんですか」
「ああ」
「僕、明日もこの時間の電車に乗ってもいいですか」
比較的空いているからいつも早めの時間の各駅停車に乗っていたのに、どうしてこんな事を聞いたのか自分でも分からなかった。
「いいに決まってんだろ。付き合ってんだから」
涼風先輩がフッと笑う。
告白する前は先輩の事を噂でしか知らなかったし笑った顔なんて見たことがなかったけれど、涼風先輩ってけっこうよく笑うんだな。
電車でも、僕が挨拶を噛んだのを見て笑っていた。
そして先輩の笑顔は、なぜか僕の胸を高鳴らせるんだ。
そうか、僕は……、混んでいる電車に乗ってでも、この笑顔を見たいと思ってしまったのか。
昼休みになり、僕はいつものように教室の廊下側の机の所で、藻蕗くんと一緒にお昼を食べている。
僕はおにぎりを食べながら、どうしたらまた涼風先輩の笑顔を見られるだろうかと考えていた。
先輩の気まぐれだろうけれど今僕と先輩は恋人なわけだから、その状況を利用しない手はないだろう。
でも恋人ってなにをすればいいんだ……、と悩んでしまい藻蕗くんに聞いてみることにした。
藻蕗くんはよくその手の漫画を読んでいるし、シミュレーションゲームでの恋愛経験も多そうだからきっと相談にのってくれるはずだ。
「藻蕗くん、高校生の恋人同士って、まず最初に何をするのかな」
「まじめくんからそんな話題が出るとは……。そうだな……まずは一緒に帰って放課後デート、とか?」
「放課後デートか……」
昼ご飯を食べ終えた僕は、トイレに行くと藻蕗くんに告げて教室を出た。
そしてトイレには行かず、そのまま階段をのぼってふたつ上の階へ行く。
着いた先は、三年生の教室があるフロアだ。
もし涼風先輩に会えたら、今日一緒に帰りませんかって誘ってみよう。
三年生の教室がある廊下を歩くなんて、それだけでドキドキした。
たしか涼風先輩はA組だったはずで、僕はF組の方から歩いてきたからまだ距離がある。
A組まで離れているにもかかわらず僕にしては運の良い事に、遠くに涼風先輩の姿を見つけることができた。
「す……」
涼風先輩、と話しかけようとしてすぐに声を呑み込む。
先輩の隣にスタイルの良い女の先輩がいて、入り込めない雰囲気だったから。
ふたりは僕がいる方とは反対の方向へ進み、階段をのぼっていった。
あの階段の先は僕が先輩に告白した場所で、その奥にある扉は屋上につながっているが、普段は閉まっているから行き止まりのはずだ。
そんな場所に、男女ふたりで行って、する事って何……?
つい気になってこっそりと後をつけてしまった。
ふたりの姿は見えないけれど声が聞こえるあたりで立ち止まり、息を潜める。
「ね、翡翠。私の気持ち分かってんでしょ?」
翡翠って……涼風先輩の名前だ。
名前で呼ぶくらい親しい関係なんだ……。
そう考えた途端、なぜか胸が、ズキンと痛む。
「私、翡翠の彼女になりたいの」
「無理。俺、付き合ってる奴いるから」
(付き合ってるって……僕の事?)
さっきまで痛かった胸が、今度はムズムズした。
でも嫌な感じのムズムズじゃない。くすぐったいのに心地いい。
自然と口元が緩んでしまうのはどうしてだろう。
すると突然学校のチャイムが鳴ったので、驚いて肩をビクッと震わせてしまった。
昼休み終了五分前を知らせるチャイムだ。
授業に遅れるわけにはいかない。
僕は先輩に声をかけるのは諦めて、自分の教室へ向かう。
そして放課後、今日はこのまま帰ろうかな……と思っていたらスマホが震えた。
一瞬、涼風先輩からのメッセージが届いたのかと思った。
今朝も『おはよ』の挨拶のやりとりがあったから。
でも届いたメッセージが兄からのものだと分かり、期待に膨らんだ気分が急速にしぼんでいく。
(あれ、今……なんで涼風先輩からのメッセージじゃなくてがっかりしたんだ……?)
自分のことなのによく分からなくて、首を傾げながらメッセージを読みすすめる。
兄からのメッセージは、今日彼女とご飯を食べてから帰る、というものだった。
それを見て思い出す。母は料理教室の友人と食事会で父は仕事の帰りが遅いから、今日は兄とふたりで夕飯を食べるように言われていた事を。
(よし、今度こそ一緒に帰りましょうって先輩を誘ってみよう。もし先輩の都合が大丈夫そうなら、夕飯一緒に食べませんかって聞いてみてもいいかも)
そう決意した僕は、再び三年生の教室があるフロアへ向かい。涼風先輩の教室近くの廊下で待つことにした。
すると教室の中から涼風先輩の名前を呼ぶ声が聞こえたので、思わず全神経をそちらへ集中させてしまう。
「翡翠、今日カラオケ行かねー?」
「あー、今日は無理」
(今日は用事があるのかな……)
誘っても断られてしまうのか……と僕ががっかりしている間も、教室の中での会話は続いている。
「えー、なんでだよー」
「姫と約束があんだよ」
涼風先輩の声が聞こえた瞬間、ギュッと心臓を掴まれたかのような痛みを感じた。
(は、なんだよ姫って)
「俺より姫をとるのかよー、浮気者ー」
「浮気って。俺には本命しかいねーわ」
(涼風先輩が姫って呼ぶような……本命の女がいるのか……)
鼻の奥がツンと痛くなった。
これ以上ここにいたら、涙がこぼれそうな予感がした。
(……くそッ)
僕は心の中で悪態をつきながら、階段を駆け下りていく。
結局僕はひとりで学校をあとにした。
今日の用事は夕飯を買って家に帰るだけだったけど、なんとなくまっすぐ帰るのが嫌で、本屋へ寄ってみる。
だけどどの本を見ても読みたいと思えず、少し時間を潰しただけで駅にあるスーパーへ向かった。
「佳南?」
「え、涼風先輩?」
お弁当をカゴに入れたあと、スーパーのお菓子売り場をぶらぶらしていたら声をかけられて驚いた。
涼風先輩が、スーパーのカゴも持って立っている。
「佳南の家、この辺り?」
「いえ、最寄り駅はここですけど、こっからバスに乗るんでけっこう遠いです」
「うちはこの近くなんだよ」
「そうなんですか」
(姫と約束があるって言ってたけど……、これから本命の女の人と会うのかな。スーパーで食材を買ってから会うような仲なのか)
なんでだろう、胸のあたりがムカムカする。
先輩に本命がいようが僕には関係ないのに、なんでこんな気分になるんだろう。
自分の疑問に答えが出せない僕の方へ、ランドセルを背負った女の子がひとり近づいてきた。
小学校低学年くらいのその女の子は涼風先輩のすぐ隣に立ち、誰?、というような視線を僕へ向けながら先輩のシャツをチョンと掴んでいる。
「あ、こいつ妹の姫。姫、挨拶して」
涼風先輩に言われて、姫と呼ばれた女の子がペコリと頭を下げる。
「涼風姫奈(ひめな)です。こんにちは」
「あ、こんにちは。馬路締佳南です」
「まじじめ……」
呟きながら涼風姫奈ちゃんはジッと僕の方を見つめている。
なんか、見覚えがあるような気がするんだけど……
髪の色は違うけど涼風先輩に顔が似てるから、脳が勘違いして会ったことがあるような気がするだけかな。
そんな事を考えていた僕に、心なしか申し訳なさそうな表情をした先輩が話しかけてきた。
「悪いな、送ってやりたいけど、今日は姫と帰らないとだから」
「いやいや、送るなんてそんなのいいですよ」
スーパーを出て、バイバーイ、と無邪気に手を振る姫ちゃんに向かって僕は手を振り返す。
(姫って……妹の話だったんだ。よかった……)
ホッと安堵の息を吐く。
そしてすぐに我に返った。
(なんで僕、よかったなんて思ったんだ……?)
片手で胸の辺りのシャツをギュッと掴む。首を傾げながら考えたけれど答えは出てこない。
