次の日。なぎぴょんの家から学校に向かうと、シューズロッカーに鍵が入っていた。メモ書きは見当たらなかったけど、きっとめろ先輩が入れてくれた新しい家の鍵だ。
 ……先輩、もう学校に来てるんだ。会ってお礼が言いたいけど、どんな顔をして会えばいいかわからない。
 そして悶々としたまま一日が終わって、いつものようにバイトが終わる頃には十時を過ぎていた。
「……はあ、疲れた」
 シャワーで濡れた髪を乾かす気力もなく、ベッドに倒れ込む。めろ先輩は、もう寝ただろうか。今日は一回も会ってないや。
 先輩のことを遠ざければ、少しは冷静になれると思ってた。でも、昨日も今日も、きっと明日も、俺の頭の中はめろ先輩でいっぱいだ。
「先輩、めろ先輩……」
 恋しくて何度も名前を呼ぶと、耳の近くでなにかが動いた。カサカサカサカサ。それは、世界で一番嫌いなあいつだった。
「うわあああっ……!!」
 ベッドから飛び起きた俺は、そのまま部屋の隅に逃げた。なにもできずに怯えていると……。ドンドンドンッ。誰かが家のドアを叩いた。
「おい、なんかすごい声がしたけど大丈夫かっ!?」
 その声を聞いた俺は、すぐさま外に飛び出した。
「うう、めろ先輩~っ」
 甘えちゃいけないってわかってるのに、先輩の顔を見たら自然と抱きついている自分がいた。
「なにがあった?」
「ゴキ……が出ました」
「え?」
「だからGが出たんです……」
 名前を言うのも恐ろしい。俺にとっては大事件なのに、先輩は安心したように胸を撫で下ろしていた。
「なんだよ、ただの虫か」
「ただのじゃないです。もう家の中に入れません……」
「どこ?」
「多分、ベッドの近くの壁にいます」
「ちょっと待ってろ」
 めろ先輩は俺と入れ替わるようにして、うちの中に入った。先輩は虫が平気なのか、立ち向かっていく後ろ姿に迷いはない。え、頼もしすぎない? 勇者なの?
 しばらくすると、めろ先輩が俺のところに戻ってきた。
「ど、どうでした?」
「いなかった」
「ええっ」
「多分、どっかに隠れてる」
「そ、そんな、困ります……」
「とりあえず火災報知器外してきたから、殺虫剤焚くぞ」
「じゃあ、俺は……」
「ひとまず、うちに避難」
 めろ先輩に手を引かれるまま、隣の部屋に入った。一緒にカレーを食べた時と同じ場所に腰を下ろしたけど、あの日と違って今日は少しだけ気まずい空気が流れている。
「なんか飲む?」
「や、お構い無く!」
「じゃあ、話そう」
 そう言って、めろ先輩は俺の隣に座った。オフモードだった先輩が慣れたように髪の毛を結びはじめると、ふわりとシャンプーのいい匂いがした。
「友達の家に住むって話、どうなったの?」
「まだ具体的なことはなにも……」
「まあ、ゴキが出るほどここは古い家だからな。いいタイミングかもしれないし、引っ越すなら――」
「違うんです……!」
 俺は、めろ先輩の声を遮った。膝の上にある手に力を込めながら「本当は違うんです」と、言葉を繰り返した。
「なぎぴょんの家に住むって言ったのは……めろ先輩の気を引きたかったからです」
 本当は、ここを出ていくつもりなんてない。先輩と同じ気持ちになれなくても、離れたくないって本当はそう思ってた。
「どうやったら先輩が俺のことを見てくれるのか、ズルいですけど、そんなことばっかり考えてます」
 最初に呼び出した時もそう。洋服じゃなくて、本当はめろ先輩と話したかっただけなのに、俺は本音を隠して気を引いた。先輩が魅力的すぎるから、そういう方法でしか近づけなかったんだ。
「俺、めろ先輩のことが好きなんです。こんなこと言えば困らせるだけだってわかってるのに、先輩を諦めることもできませんっ。俺は、ずっとずっとここにいたいです。迷惑かもしれないですけど、これからもめろ先輩の隣に――」
 ……ちゅっ。その時、めろ先輩の唇がそっと触れた。なにが起きたのかわからなくて目を丸くしていると、今度は先輩のおでこと、俺のおでこが優しく重なった。
「……はあ。なんで諦める必要があるんだよ。やっと両思いだってわかったのに」
「え、い、い、いま、キスっ」
「うん、した」
「したって……あ、あれ、両思いって誰と誰が?」
「俺と茉白」
「な、なまえ!」
「べつに初めてじゃねーよ。あとキスも」
「え、い、いつですか?」
「球技大会の時。保健室でお前を寝かせたあとにした。我慢できなくて」
 あの時、すごく幸せな夢を見たような気がしていたけど、まさか現実だったなんて……。
 めろ先輩がキスをしてくれて、大好きな先輩と両思いだなんて、色々とキャパオーバーすぎる。
「で、でも、先輩、俺のことを気にかけるのは大家だからだって……」
「そう言わないと、もっと手を出しそうで怖かったんだよ。お前いつも可愛いし、自分の中でしっかり線を引かないと、色々と止められなくなりそうだったから」
「そ、そんな、めろ先輩が俺のことを……本当に、信じられないです」
 嬉しくて、夢みたいで、自然と涙があふれてくる。めろ先輩は「泣くなよ」と言いながら、俺の涙を優しく指で拭ってくれた。
「俺、本当に先輩のことが大好きなんです。多分、めろ先輩が思っている以上に」
「言っとくけど、俺のほうが先にお前のことを好きになったんだからな」
「え?」
「だって、内見に来た時から気になってたから」
 希望と不安を抱えて始まった新生活。直感でここに住みたいと思った時から、俺とめろ先輩は運命の糸で繋がっていたのかもしれない。
 そして気づけば、夜も深い時間になっていて、俺たちは寝ることになったんだけど……。
「め、めろ先輩、これはっ」
 なんと俺は先輩の家にお泊まりをするだけじゃなく、同じベッドの中に入っていた。
「このベッド、セミダブルだから大丈夫だよ」
「いや、そういう問題ではなく!」
「焚いた殺虫剤はもう終わってる頃だろうけど、夜も遅いし、あんまりドタバタできないだろ。俺がちゃんと家に戻れるようにしてやるから、今日は安心してここで寝ろ」
 めろ先輩は、俺の頭をぽんぽんしてくれた。安心、して眠れるだろうか。先輩がいつも寝てるベッドで、先輩の匂いに包まれながら、先輩の隣で寝る? む、無理だ。全然眠くないし、眠れる気がしない。
「め、めろ先輩は、色々と慣れてるんですね」
「なにが?」
「俺、誰かと同じ布団に入るのも初めてで……」
「あのな」
 先輩は仰向けになっていた体勢を変えて、俺のほうを向いた。部屋の電気は消えているけど、暗い中でもめろ先輩の綺麗な顔がわかる。
「俺のこと経験豊富だって思ってるかもしれないけど、家の中に上がらせるのも、一緒に寝るのもお前が初めてだから」
「そ、そうなんですか?」
「うん。本当は俺も余裕なんてねーよ。さっきお前は気を引きたくてわざと嘘をついたって言ったけど、俺もそう。お前の気を引きたかったから、昨日はわざと突き放した。まあ、半分は嫉妬だけどな」
「嫉妬?」
「友達の家で一晩過ごすって聞いただけで嫉妬してるなんて、どうかしてるだろ」
 めろ先輩が嫉妬? いつもクールで大人な先輩が?
「うぐっ」
「え、どうした?」
「先輩がメロすぎて具合悪くなってきました……」
「は? メロってなに?」
「理性を失うほどメロメロになるという意味です」
 きっとこれからはさらに先輩のことが好きになる。だからこそ、確認したいことがひとつだけあった。
「俺はこれからも、めろ先輩の隣にいていいですか?」
 すると、先輩は俺の目をじっと見つめながら、そっと頬に手を添えてくれた。
「茉白、俺たち付き合おう。ちゃんと大事にするから」
 めろ先輩の真剣な気持ちが伝わってきて、またじわりじわりと視界が滲んでくる。
「はい、はいっ、こちらこそお願いします!」
 そう返事をすると、めろ先輩は俺の体を引き寄せて三回目のキスをしてくれた。
「俺、幸せすぎて、どうにかなりそうです」
「うん、俺も」
「心臓の音もずっとすごくて……」
「それも同じだよ、ほら」
 先輩に誘導されながら、胸に手を当てた。たしかにめろ先輩の心臓の音が、ドクドクと手のひらを通して伝わってくる。
「誰といてもこんなふうになったことなんてなかった。俺の心臓をこんなに速くできんのは、茉白だけだよ」
「俺もめろ先輩といると、いつも心臓が壊れそうなくらいドキドキします」
「これくらいで壊れられたら逆に困るんだけど?」
「え?」
「これからは先輩と後輩じゃないし、大家と住人でもない。恋人になったんだからキスだけで終わると思うなよ」
「キスの先、ですか?」
「やだ?」
「嫌なわけないです。心臓鍛えておきます!」
「はは、よろしく」
 片岡茉白、十六歳。
 世界で一番カッコいいめろ先輩は、今日から俺の彼氏です!