球技大会から一週間後。すっかり体調も戻って、普段どおりの生活に戻ったのに、めろ先輩の過保護……いや、保護欲がすごいことになっていた。
「せ、先輩、俺、自分で食べられますから~っ!」
 俺はオムライスが乗ったスプーンを丁寧に押し返した。
「遠慮すんなって」
「本当に大丈夫です。ほら、見てのとおり元気でしょ?」
「また倒れられたら困るから食え」
「うぐっ」
 抗えず口に押し込まれたオムライスはバターたっぷりで、ふわっと口の中でほどけた。先輩の料理はやっぱりなんでも美味しい。
 ――球技大会で倒れたあの日、めろ先輩は家の中まで介抱してくれた。そしてバレてしまった。部屋中がまだダンボールだらけで、引っ越した時のまま片付いてないことに。
『え、お前どうやって生活してたの?』
『学校とバイトを行き来するだけですし、ほとんど寝るだけなのでベッドさえあれば』
『冷蔵庫の電源はなんで切ってるわけ?』
『冷蔵庫の配線が上のほうにあって届かないので、そのまま使ってません。料理もしないですし』
『は? 今までなに食って生きてた?』
『一日二食で、昼は購買部のパン。あとはバイトのまかないとかコンビニ弁当です』
『……はあ、栄養足りなすぎ。だから、倒れるんだよ』
『あははは……』
『わかった。俺が徹底的に面倒みる』
『そ、そんな、そんなっ』
『とりあえず冷蔵庫の電源付けて、後でスーパー行くぞ』
 ……というやり取りがあり、めろ先輩は俺にご飯を食べさせてくれるようになったというわけだ。
「俺、こんなにお世話されたことないです。家族の中では長男で、わりとしっかり者なので」
「しっかり者? 最初から抜けてるだろ。家の鍵も早々に失くしてたしな」
「た、たしかにそうでした」
 俺はあの時から先輩に助けられてばかりだ。
 なぎぴょんから聞いた話によると、体育館で倒れた時も俺のことを保健室まで運んでくれたのはめろ先輩だったらしい。
 試合中にもかかわらずコートを抜け出して、俺のことをなんの躊躇いもなく抱き上げてくれたそうだ。さすがのなぎぴょんも胸きゅんしてしまったみたいで、女子の間では密かに王子様と呼ばれているらしい。
 お願いだから、これ以上モテないでほしい。それに俺だって、めろ先輩に運ばれる自分をこの目で見たかった……!
「あ、そうだ。ちょっと時間かかったけど、明日やっと業者が来て鍵穴を交換するから」
「へ? 鍵穴って誰の家のですか?」
「お前以外誰がいるんだよ。落とした鍵はまだ見つかってないし、念のため」
「えっ、鍵穴なんてわざわざ交換しなくても!」
「世の中には色んなやつがいるし、普通に危ないだろ。鍵を拾った人間が夜な夜な家に上がり込んできたら、どうにかできるわけ?」
「お、俺だってやる時にはやりますよ!」
 ファイティングポーズをとってみせたら、なぜかめろ先輩は「ふーん」と楽しげな顔をした。
「じゃあ、やり返してみろよ」
「え、わっ……!」
 先輩に押された俺は、そのまま床に倒れた。ひんやりした床の感触とは真逆に、俺のことを見下ろしているめろ先輩と目が合うだけで体が熱くなる。
「ほら、俺のことなんて簡単に押し返せるんだろ?」
 耳元で囁かれたひと言に、全身がぞわりと震えた。押し返すもなにも、俺の両手はしっかりと先輩にホールドされていて、反撃する隙なんてどこにもない。
「ふ、不意打ちなんてズルいです……」
「予告して襲うやつなんていないだろ」
「先輩も、ですか?」
「俺はちゃんと優しくするよ」
 や、優しく襲うとは、どんな感じなんだろう。想像しただけで、頭がクラクラした。
「どうした? やり返さなくていいの?」
「~~っ。マルチーズではシベリアンハスキーに勝てません!」
「シベリアンハスキー? 俺のこと?」
 俺は両手で顔を覆いながら、こくりこくりと頷いた。限界を感じ取ってくれたのか、めろ先輩はそっと腕を引っ張って、体を元の位置に戻してくれた。
「とりあえず鍵穴に合わせて鍵も新しくなるから、工事が終わったら渡す」
「…………」
「どうした? なにか心配事がある?」
「……先輩は、その、カレーを一緒に食べた日に俺が言った質問を覚えてますか?」
「うん」
「あの時、なんて答えようとしてたのか教えてください」
 ――『め、めろ先輩はなんで俺のことをそんなに気にかけてくれるんですか?』
 親切にしてくれるのは、優しくしてくれるのは、俺と同じで下心があってほしい。
「……お前のことを気にかけるのは、大家だからだよ。だって俺はお前んちの親から任されてるようなもんだしな」
 告白をしたわけじゃないのに、気持ちを伝えたわけでもないのに、フラれたみたいに胸が痛くなった。
 めろ先輩とこんなふうに仲良くなれただけで十分なのに、勝手に傷ついてる。
 俺はいつから、こんなに欲張りになってたんだろう。
 ただ憧れるんじゃなくて、好きな人の好きな人になりたい。
 でも、俺とめろ先輩の気持ちは重ならない。
 こんなに近くにいるのに、先輩はこんなにも遠い。
 
 
 *

「んで、なにをそんなに落ち込んでるわけ?」
 翌日の昼休み。購買部で買ったパンを片手に、俺は昨日の出来事をなぎぴょんに話した。
「なにをって、めろ先輩が俺の大家さんで、大家さんでしかなかったって話だよ」
「ちょっとなに言ってるかわかんないけど、まとめるとましろっちが先輩から全然意識されてなかったってことでオッケー?」
「合ってるけど、全然オッケーではない……」
 せっかく購買部で幻のふわふわメロンパンが買えたのに、今は一口も食べられない。
「最初から叶わない恋だってわかってた。わかってたけど、ツラすぎてなにもできない……」
「叶わない恋、ね。俺から見れば、めろ先輩はましろっちのことを大事にしてそうだったけどな」
「それは先輩が俺の大家さんだからだよ」
「たしかに貸主と借主の契約関係であるんだろうけど、大家だからって親身になって介抱したり、飯を食わせてくれたりもしないだろ」
「だからそれも、めろ先輩が優しい人だから……」
「本当に優しさだけなら、ちょっと思わせぶりすぎん? 俺からガツンとましろっちのことをどう思ってるんですかって聞いてあげようか?」
「ありがとうだけど、それはやめて。多分、傷口が開くだけだと思う」
「そんなんで、これから生活していけんの? お隣さんなら尚更毎日顔を合わせるだろうし、けっこうメンタルきつくね?」
「…………」
「いっそのこと一人暮らしをやめて実家に戻るとか?」
「いやいや、それは無理」
「なんで? ましろっち家族と仲いーじゃん」
 家族仲はむしろ良すぎるくらいで、弟や妹たちからは『早く帰ってきて』って言われているし、母さんからも毎日のように心配の連絡が来るくらいだ。
「俺は家を出た時から、なにがなんでも頑張るって決めたんだよ」
「頑張るのはいいことだけどさ。アパートって契約期間とかあるんだっけ?」
「大体二年契約が多いらしいけど、うちのアパートは特にないみたい」
「契約期間の縛りがないなら、うちに来る?」
「え、なぎぴょんの家?」
「去年から兄貴が社会人になって部屋がひとつ空いてるんだよ」
「いやいやいや」
「父ちゃんは放任主義でなんにも言わないし、母ちゃんは誰でもウェルカムって感じだから、ましろっちのこども歓迎すると思うよ」
「で、でも、住むとなると話は別だし……」
「じゃあ、実際に見て決めればいーじゃん。今日の放課後うちに来いよ。バイトは?」
「バイトは珍しく入ってないけど……」
「じゃあ、決まりな」
 なぜが急転直下で、なぎぴょんの家に行くことが決定してしまった。
 そして迎えた放課後。職員室に用事があったため、廊下を歩いていると、めろ先輩に声をかけられた。
「なあ、今日一緒に帰れる?」
「え?」
「業者から連絡があって鍵穴の修理が終わったらしい。一応、俺が先に確認して新しい鍵を受け取る予定だから、お前も一緒にいたほうがいいと思って」
「あ、今日はその……」
「もしかしてバイト?」
「は、はい」
 なぎぴょんの家に遊びに行くと言えばいいのに、とっさに嘘をついてしまった。
「じゃあ、何時に終わる? それに合わせて迎えにいく」
「時間は、まだちょっとわからなくて」
「わからないって、なんで?」
「と、とにかく急いでいるので失礼します……!」
「は、おいっ」
 俺は先輩の制止を振りきった。
 めろ先輩は俺の面倒をみるって言ってくれたけど、もう先輩に甘えられない。一緒にいる時間が増えれば増えるけど、めろ先輩のことが好きになる。気持ちが抑えきれなくなって、先輩を困らせることだけはしたくない。

 なぎぴょんの家は住宅街の一角にあった。まだ誰もいないようで、一階のリビングに向かうと、ケージの中で飛び跳ねている白いもふもふがいた。
「わんわん……!!」
「おーちくわ。今出してやるからな」
 なぎぴょんがケージを開けると、白いもふもふは嬉しそうに尻尾を振りながら俺の足元に近づいてきた。
「もしかして、マルチーズ?」
「そう、可愛いだろ。名前はマルチーズだからちくわにしたんだ」
 マルチーズの〝ち〟しか合ってない発想が、めろ先輩と同じで笑う。女の子だというちくわは、頭部の長い毛をピンク色のリボンで可愛く束ねていた。
「めろ先輩も実家でマルチーズ飼ってるらしい」
「へえ! そういや、ましろっちってマルチーズに似てない?」
「それ、先輩にも言われた」
「え、俺ひょっとして、めろ先輩と気が合うんじゃね?」
「はは、そうかも」
 リビングでちくわと遊んでいると、なぎぴょんのお母さんがパートから帰ってきた。
「あ、お邪魔してます! 柳楽くんと同じクラスの片岡まし――」
「ましろっち君! 話は聞いてるわよ。住むところに困ってるんでしょう? 大変ね、うちで良かったら自由に使って構わないから」
「いえいえ、そんな!」
「もう遠慮しなくていいのよ。お兄ちゃんが自立しちゃって寂しく思ってたところだったの。あ、今日夕飯食べて行くわよね? なにがいい? すき焼きはどうかしら?」
「えっと……」
 なぎぴょんのお母さんは聞いていたとおり、誰でもウェルカムという雰囲気で、すごく明るい人だった。
 それから夕飯をご馳走になり、仕事から帰ってきたなぎぴょんのお父さんに将棋を指し方を教わった。そして話の流れで急遽泊まることになって、一番風呂まで譲ってもらった。
「俺、本当に泊まっていいの……?」
 そんなつもりで来たわけじゃないのに、なぎぴょんのお母さんは新品のパジャマまで用意してくれた。
「いいの、いいの。むしろ今帰ったら母ちゃんが泣くよ。父ちゃんもましろっちのこと、すげえ気に入ったみたいだし」
 なぎぴょんのお母さんとお父さんは本当にいい人で、『このままうちにいてもいいよ』と何度も言ってくれた。すごくあったかくて優しくて、自然と家族のことを思い出した。
「俺のいびきがうるさかったら、壁叩いていーから」
「はは、わかった」
 なぎぴょんは自分の部屋で眠り、俺は空き部屋になっているお兄ちゃんのベッドを借りることになった。
 ブーブーブー。その時、スマホの画面が光った。確認すると、めろ先輩からの着信だった。
『もしもし、今どこ?』
「えっと、なぎぴょんの家です」
『バイトは?』
「実は、その、今日は休みで……」
『休み? なんで嘘ついたの?』
「す、すみません……」
『もう十時過ぎてるけど、帰ってくんの?』
「今日はこのまま泊まらせてもらいます」
 電話がかかってくる前に、先輩に一言伝えるべきだっただろうか。いや、でも、めろ先輩は俺の保護者じゃないし……。
『俺、お前になんかした?』
「え?」
『いや、ちょっとよそよそしい気がして。もしなにかあるなら言ってほしい』
 本当の気持ちを言っていいなら、大家さんとしてじゃなくて、俺の一番近くにいてほしい。だけど、そんなことを伝えたところで、めろ先輩を困らせるだけだってわかってる。
「べつに大したことじゃないんです。ただこのままなぎぴょんの家に住むのもアリかなっと思いまして!」
 俺は、精いっぱい明るい声を出した。
『住む? なんで?』
「やっぱり一人暮らしって心細いし、色々大変じゃないですか。ほら、家賃の支払いが遅れちゃったこともあるし、これからも迷惑かけそうだなって」
『俺が迷惑なんていつ言った?』
「言われないですけど、このままだと甘えすぎちゃうと思うんです。めろ先輩の負担になりたくないですし、なぎぴょんの家族ってうちの家族みたいで落ち着くんですよねー!」
『じゃあ、そうすれば?』
「え?」
『お前が落ち着くほうがいいだろうし、友達の家に住みたいならそうしろよ』
 めろ先輩の声が、少しだけ冷たかった。
 先輩は、俺を引き止めない。引き止めては、くれない。自分で言ったことなのに、その現実を突き付けられた気がして泣きそうになった。