「味玉ラーメン一つ、あっさりめでよろしいですか?」
「チャーシュー増しは+200円ですね。麺のかたさはどうなさいますか?」
 煙が立ち込めている店内。テーブルまで小走りで向かった俺は、その場で軽く腰を折ってメモ帳にペンを走らせる。
 ラーメン屋のバイトは、十七時から二十時まで。最初は色々と慣れなかったけど、今ではすっかりペースをつかんだ。
「すみません、替え玉ひとつお願いします」
「はーい!」
「店員さん、こっちも注文いいですか?」
「今行きまーす!」
 店はいつも以上に混んでいるけど、今日はめろ先輩との約束があるおかげで、いつも以上にやる気がみなぎっていた。
「ごちそうさま。また来るよ」
「ありがとうございました!」
 食べ終わったお客さんを送り出して、また次の人をテーブルまで案内する。ようやく混雑が落ち着いて一息ついていると、店の女将さんに声をかけられた。
「片岡くん、今日八時までだよね?」
「はい、そうです!」
「悪いんだけど、閉店までやってもらえない?」
「えっ」
「片岡くんの次に入ってくれる仲村(なかむら)くんがインフルにかかっちゃったらしくて……」
「マジですか……」
 閉店時間は十時で、その後には締めの作業もある。なにも用事がなければ全然閉店までやっていくけど、今日は……。
「片岡くんしか頼める人がいないのよ」
「……う、わ、わかりました」
 それから、約五時間後――。締めの作業まで終わらせて店を出ると、時間はすでに十時半を過ぎていた。

【すみません、今終わりました】
 夜道を歩きながら、俺は素早くめろ先輩にメッセージを送った。バイトが長引く連絡はしてあるけど、もう寝ていてもおかしくない時間だ。
 せっかくめろ先輩と約束したのに破ってしまった……。カレーはどうなっただろう。ああ、先輩のカレー食べたかったな。ぐううう……。大きなお腹の音が鳴ったところで、前から誰かが歩いてきた。
「疲れてると思ってたけど、腹は元気みたいだな」
「め、めろ先輩、なんで……」
「夜のさんぽがてら迎えにきた。バイトお疲れさん」
 先輩はそう言って、俺の隣に並んだ。迎えにきてくれたとか、優しすぎて涙出そう……。
「カレー、本当にすみませんでした」
「別にお前が謝ることじゃないだろ。さっきの腹の音、この時間までバイトなのに賄いは食ってないのか?」
「食べてもいいよって言ってもらえたんですが、断りました。口があまりにめろ先輩のカレーすぎて……」
「じゃあ、よかった。俺もまだ食ってないから」
「も、もしかして俺のことを待っててくれたんですか?」
「俺に待てをしたのは、お前だろ?」
「え、わー確かに言いました! ごめんなさい、そんなつもりじゃ……うっ」
 するとめろ先輩は、また片手で俺の顎をむにゅっと掴んだ。
「もう謝るな」
「す、すみま……あっ」
 めろ先輩の顔が近い。てか、俺、汗くさくないかな。くさかったらどうしよう!
「カレー、食うの、食わないの?」
「た、たべまふっ!」
「だから、しっぽ振るなっての」
 言い終わると同時にめろ先輩は、そっと俺の手を引いてくれた。
 手を繋いでる? 俺とめろ先輩が? え、夢?
「さんぽ中だって言っただろ?」
「ああ! って、俺がさんぽされてるんですか?」
 めろ先輩はそうだって言ってるみたいに、くすりと笑った。先輩にさんぽしてもらえるなら、俺は本気で犬になってもいい。

「わあ、すごい……」
 そのまま先輩の家にお邪魔すると、すぐにカレーの用意をしてくれた。市販のルーではなくスパイスから調合するそうで、本格的なカレーには大きめの肉や野菜がゴロゴロ入っている。
「この星形の人参もめろ先輩が切ったんですか?」
「そうだよ」
「料理のプロですか?」
「こんなの大したことじゃねーよ。ほら、腹ペコだから食うぞ」
 めろ先輩が腰を下ろした横で、俺もちょこんと正座をした。「いただきます」と手を合わせて、カレーを一口食べると……。
「美味しい!」
 丁度いい辛さが口の中いっぱいに広がって、スプーンを運ぶ手が止まらない。ぱくぱくと食べている俺を見て、めろ先輩は嬉しそうに目を細めた。
「おかわりもあるからな」
「はい、ありがとうございます!」
「ふっ、米ついてる」
「え?」
「ここ」
 先輩の人差し指が、俺の口元に触れた。お米を取ってくれためろ先輩は、なんとそのままぺろりと食べてしまった。
 俺の反応を楽しんでいるみたいに、先輩がくすりと笑う。ほんの数秒の出来事だけど、めろ先輩の指が俺の唇の近くを通っただけで、背中がぞくぞくした。これは、心臓に悪い……。
「め、めろ先輩の口ピって素敵ですけど、ご飯食べづらそうですよね!」
 なに言ってんの、俺。なにつまらないこと聞いちゃってんの、俺……!
「開けたばっかりの時は食べにくかったけど、今は安定してるから普通に食えるよ」
「でも引っ掛かったりしたら痛そう……」
「口に引っ掛かるもんって、逆になに?」
「引っ掛かるというか、接触というか」
「あーキスとか?」
 めろ先輩の言葉にドキッとした。俺は歯ブラシとかそういうものを想像してたのにキスなんて……。
「引っ掛かるかどうか、試してみる?」
 え? と聞き返す暇もなく、めろ先輩の顔がゆっくり近寄ってきた。思わず、きゅっと目を瞑ると、指で軽くおでこを小突かれた。
「そんなに怖がんなくても冗談だから大丈夫だよ」
 怯えているように見えてしまったのか、先輩は少しだけ距離を取ってカレーの続きを食べ始めた。
 怖かったんじゃなくて、期待した。本当はキスしてほしかった、なんて、欲張りな自分に驚く。
「めろ先輩は、俺とひとつしか変わらないのに、なんでそんなに大人なんですか……」
 あたふたしてる自分とは違って、先輩にはいつも余裕がある。
「べつに大人なんかじゃねーよ」
「でも、大家さんもやってるし、俺から見ればすごく大人です」
「大家は親に任されてるだけだよ。まあ、社会勉強って感じで」
「先輩のお父さんが不動産業をしてるって友達のなぎぴょんから聞きました。いずれ跡を継ぐんですか?」
「さあ、それはまだわかんない。父親はそういうつもりで大家を任せたんだろうけど、俺は早く家を出たかっただけだし、最初は一人暮らしができる口実になるくらいにしか思ってなかったんだ」
「なんでそんなに早く家を……?」
「色々と息苦しかったんだよ。だから、最初は大家も適当にやってればいいと思ってた。でも、お前がうちに内見に来てくれて、その考えがガラリと変わった」
「え、内見って……」
「覚えてない?」
 もちろん内見のことは覚えている。借りる部屋を母さんと一緒に何件か回って、最後に見せてもらった家がここだった。あの時、部屋を案内してくれたのは、マスクをした男の人だったけど……。
「えっ、ひょっとして、めろ先輩だったんですか?」
「うん。最初に大家ですって名乗ったけど」
「すみません、あんまりよく聞いてなかったみたいで」
「まあ、そこはべつにいいけど、部屋を内見した時、自分がなんて言ったか覚えてる?」
「えっと、なんでしたっけ……?」
「ここに住みたい。ここじゃなきゃ嫌だって、お前はでっかい声で言ってくれた」
 そうだ、思い出した。それまで何件か見た部屋も悪くなかったけど、いまいちピンとこなかった。だけどここの部屋に入った瞬間、胸の奥でビビッときた。迷うことなく直感でこの部屋がいいと思ったんだ。
「このアパートはかなり築年数がいってるし、オートロックもないから、内見の時に色々と言われたりするんだ。でも、お前がキラキラした目でここに住みたいって言ってくれて、初めて大家として嬉しいと思った」
 何気なく言ったことで、めろ先輩が喜んでくれたなら俺も嬉しい。
「お前のこと最初から知ってたのに、呼び出された時になにも言わなくてごめんな」
「いえ、俺のほうこそ気づかなくてすみません。でも、考えてみればすごいですよね。俺たち前から会ってたのに、たまたま入学式の時に花飾りを付けてくれたのもめろ先輩だったなんて」
「たまたまじゃねーよ」
「え?」
「あえて列を代わってもらったんだよ。他の人に付けさせたくなかったから」
 ドキッと、心臓が大きく跳ねた。胸に花を付けてもらった時と同じように、息が止まりそうだ。
「め、めろ先輩はなんで俺のことをそんなに気にかけてくれるんですか?」
 自惚れてはいけない。だけど、もしも先輩も俺と同じ気持ちでいてくれていたら……。
「それは……」
 めろ先輩が言いかけた時、インターホンが鳴った。モニターに映っていたのは、二階に住んでいる杉田(すぎた)さんという女性だった。
「杉田さん、どうされました?」
「夜分遅くにごめんなさい。ゴミ出しのことでちょっと相談があってね……」
 対応するために、先輩がドアを開けた。旦那さんとふたりで住んでいる杉田さんは一番住居歴が長くて、俺にも明るく声をかけてくれる人だ。
「明日から長期で家を空ける予定なんだけど、資源ゴミは出しておいても平気かしら? ほら、回収は来週の水曜日でしょう?」
「それだったらゴミを預かりますよ。俺が代わりに出しておくんで心配しないでください」
「本当に? 助かるわ」
 話し込んでいる様子をちらりと覗くと、杉田さんと目が合った。軽く会釈をしたら杉田さんは俺と先輩の顔を交互に見て、「あらあら、まあまあ!」と意味ありげな反応をした。
「ごめんなさい、お邪魔だったかしら?」
 これは……なにか勘違いされてる?
「あ、違うんです! 俺もその、相談があって! もう大丈夫なので、俺はこれで失礼します! あ、カレーご馳走さまでした……!」
 めろ先輩の威厳を保つために、俺は素早く自分の家に戻った。しばらくして、先輩からメッセージが届いた。
【なんで慌てて帰った?】
【杉田さんが勘違いしてそうな雰囲気だったので……】
【べつに気にしなくていいだろ】
 先輩は気にしないかもしれないけど、こっちはそういうわけにもいかない。だって、俺は下心ありありでめろ先輩の部屋に上がった。気の迷いでもなんでもいいから、先輩となにか起きないかなって思ってた。
「……めろ先輩」
 俺はベッドに横たわって、サイドテーブルに手を伸ばした。
「……ずっと大切に持ってるって知ったら、どんな顔をしますか?」
 薄い壁の向こうにいる、好きな人。
 俺は、めろ先輩に付けてもらった花飾りをぎゅっとした。